はてなキーワード: 音色とは
ヴァイオリンの弦の話。
前提として、弦を変えたくらいで演奏の質が向上するほど、ヴァイオリンは簡単な楽器ではない。
結果、プロアマ問わずほぼ数種類の定番製品に偏って選ばれてきた歴史がある。
それが今世紀になって勢力図が書き換わってきたというか、ある老舗が出した新製品が大人気になっている状況。
これがどうにも理解できないという話を書いてみる。
最初に、ヴァイオリンの弦の最高級品として長らく、そして今なお君臨するオリーブという弦を紹介する。
こちらの試奏の通り、まるでオペラ歌手のような「美しい」以外に形容のしようがない、艶やかに朗々と鳴る、素晴らしい音だ。
次に紹介するのが、弦の定番としてプロアマ問わず最も広く普及しているドミナントという弦。
今風に言うなら上述のオリーブの、ジェネリック的な立ち位置を目指して元々は開発されたそうで、コスパの良さとプレーンな音色で大成功。
とりあえずこれさえ張っておけば、あとはなんの心配も要らないと断言できるくらい、デファクトスタンダードな弦だったり。
通常は4本ある弦のうち最高音だけゴールドブラカットの0.26mmという弦にした組み合わせで使うのが定番。
というか、楽器屋の展示品に張ってある弦は高確率でこの組み合わせ。
というわけで、少なくとも20世紀が終わるまでヴァイオリンの弦はドミナント一強で金持ちはオリーブ、こだわりが強いごく一部がその他諸々…というチョイスだった。
それが今世紀に入り、エヴァ・ピラッツィという弦が登場して変わり始めた。
今ではこの弦、プロでも愛用者が大勢いるだけでなく、音大生やアマチュアにも大人気の弦になっているという有様。
この試奏を聴いて読者諸兄はどう思うだろう?
確かに分かりやすく華やかでインパクトある音だが、それ以上に品がない。
華やか≒音の通りがよく刺激的である反面、ヴァイオリンの持ち味である音の上質さが消えてしまい、嫌らしすぎるサウンドに感じてしまう。
例えるならオリーブやドミナントが全年齢向けイラストなのに対し、エヴァはR18っぽさが半端ないのだ。
あるいは濃い味で一口目から胃袋を掴みに来るB級グルメとか、生地よりもクリームやフルーツばっかりが主張するケーキみたいな。
そりゃ手軽に派手な音を量産できるだろうけど、ヴァイオリンをそんな安っぽいツールにしないでくれよ…という感じ。
で、これはおまけなのだが、自分みたいな人間向けのつもりなのか
「そんなあなたのために、あのエヴァの上位互換製品があるんですよ!」
と言わんばかりの、エヴァ・ピラッツィゴールドという弦があったり。
「ピーポーピーポー」っていう音だけど、こっちに近づいてくるたびに音が高くなるのがすごい。音が高くなると緊迫感も高くなるから、車両や歩行者などの道路通行者に道を譲らせる効果があるのだろう。
逆に救急車が通り過ぎると、一転して音が低くなるのもまたすごい。高まった緊迫感が一気にやわらぐけれども、サイレンの音が消えるわけではないので救急車が緊急走行を続けていることがわかる。
一体どのようにして、サイレンの音を変化させているのだろうか? あくまでも予想だが、AI技術を用いて車両や歩行者を画像認識して、通り過ぎる車両や歩行者ごとに指向性スピーカーでサイレンの音を発しているのだろう。それも、サイレンの音色を連続的に変化させながらだ。
フルートの絵って大体おかしいのでちょっとおかしい程度なら全然良いと思います!!!
とあるフィギュアで、フルートの構えが間違っていると話題になっているらしい。
具体的なのは他のメディアに任せるとして、たしかにそれらしい構えにはなっているものの微妙にズレていて惜しい感じだった。
ただ、フルートってシンプルで恰好がつきやすそうに見えて、実はキーが多かったり楽器のランクで変わったりでややこしかったり(より繊細な演奏をするために素材や形状が変わったりトリルキーとかが増えたりする)、楽器経験がないとどうやって音を鳴らしてるのかイメージ湧きにくかったり(瓶の口にフーってやるあれやで)、絵にしようとすると思ったより腕の角度が描きにくい感じで案外バランス取りにくかったり、と音色の割に余所者に優しさがない楽器でもある。
ので、よく間違ってるかデフォルメされている印象。
天下のディズニー・アニメーションでも左右の構えが違っているレベルの間違いを見かけたことがある。
そういうのに比べて、件のフィギュアはフルート自体はちゃんと作り込んであって、構えの雰囲気も概ねあっていて、ちょっとおかしいだけで上手と思った。かわいいし。原作しらんけど。
逆にフルートをきちんと描いてきちんと構えられている絵があれば「わーい!絵が上手だ!!!!」って(私が)思うので、安直に(私に)褒められたい創作者各位におかれましては是非チャレンジしてみて欲しい。
フルート構えてる姿って格好いいしね!
時代の流れに合わせて生まれ変わる言葉の一つ、「ダイバーシティ」。それは一体何を指しているのだろう。今回はその「ダイバーシティ」の意味について深堀りする。
初めに、その音色に耳を傾けてみよう。「ダイバーシティ」。独特の響きがあり、切れ目のない流れるような音列が特徴的だ。この言葉は、まるで自然の流れ、風の音、流水の音を思わせる。
次に、その言葉の形状に目を向けてみよう。「ダイバーシティ」。一つの言葉だが、「ダイバー」と「シティ」という二つの要素に分割することもできる。それぞれどのような意味を持つのだろうか。
「ダイバー」は、深く潜る者を示す。見知らぬ世界を探索し、自身を未知の領域に投じる。これは探求心や冒険心、未知への挑戦を表現していると考えられる。
一方、「シティ」は都市を思い起こさせる。人々が集い、さまざまな文化や考えが混ざり合う場所。それは人々の集まりであり、一つの場所に多くの要素が混在する状態を示す。
それぞれを見てみると、「ダイバーシティ」は「未知への挑戦」と「多くの要素が混在する状態」の二つの要素を持つと解釈できる。未見の世界への探求と、そこに存在するさまざまな要素が混在する状態、それが一つの全体を形成するという考え方を含んでいる。
しかしながら、「ダイバーシティ」が本当に指すものは、単純な二つの要素の組み合わせ以上のものかもしれない。それぞれの要素が交錯し、融合することで新たな意義を生む。未知の世界に対する挑戦と、そこに存在する多くの要素を受け入れること。「ダイバーシティ」は、この二つの概念を統合した挑戦的な思考や行動を表現しているともいえる。
このような視点から「ダイバーシティ」を捉えることで、その深い意味が見えてくる。それは私たちが遭遇するさまざまな事象に対する新たな視点を提供し、私たちの生活に新たな色彩をもたらす。そしてこの言葉を理解し、行動に反映することで、私たちはより豊かな人生を歩むことができるだろう。
言葉は、その形成と進化を通じて、私たちの意識に強力な影響を及ぼす。そして、「ダイバーシティ」はその良い例である。
考察を深めることで、この言葉が内包する本質は、「未知への挑戦」そして「多くの要素が混在する状態」であることが明らかになった。しかし、それだけではなく、これら二つの要素が相互に作用し合うことで生まれる新たな価値もまた、「ダイバーシティ」の一部と考えられる。未知への挑戦が多くの要素の混在を可能にし、その混在が新たな挑戦を生む、この循環こそが「ダイバーシティ」の真髄である。
これは、何か新しいものを追求し、その過程でさまざまな要素が交錯する経験を重ねることの重要性を私たちに教えてくれる。また、新たな挑戦が更なる混在を生み出し、その結果として生まれる新しい価値が、次の挑戦への道筋を示す。この循環的なプロセスは、私たちが日々の生活の中で経験し、学び、成長するための鍵となる。
私たちが「ダイバーシティ」を理解し、その思考を行動に反映することで、私たちは自身の視野を広げ、新たな価値を見つけ出すことができる。また、それは他者との関わりの中で生まれる新たな絆や共感を可能にし、共存共栄の社会の実現へとつながる。つまり、「ダイバーシティ」は新たな挑戦と多様な要素の混在を通じて、私たち個々の成長だけでなく、社会全体の発展をも促進すると言えるだろう。
私たちは日々進化し続けるこの世界で生きていく中で、新たな言葉に出会い、その意味を理解することで自己成長を遂げる。そして、「ダイバーシティ」は、その一つの言葉として私たちの生活に深い影響を与え、私たちの思考や行動に対する新たな視点を提供してくれるのだ。
つい最近TwitterでボカロP的な人が「曲を聴いてもらいたいだけなのにイラストやら動画やらでお金がかかって大変だよ😭」というようなツイートをしていた.
それを見て次の2つのことを思った
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画にお金をかけなくても(ある程度は)聴いてもらえるのでは?
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは?
そして最後に『3. MVと音楽は別物の創作物である』という個人的な主張について書く.
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画に金をかけなくても(ある程度)聴いてもらえるのでは? について
まず前提として,各種の動画投稿サイト上で"曲自体に魅力はないがMVが良いから高い評価を得ている音楽"ってあるだろうか?
全く存在しないことはないだろうが,少なくとも私は知らない.
一方で,"MV自体が高い評価を得ていなくても曲は高い評価を得ている音楽"なら比較的たくさんあると思う.
なんならMVと言いながらもイラストや画像を載せているだけだったり,曲に合わせて音の波形のようなものがうねうね動くだけの動画でも良い曲というのはごまんとある.
こういった事情を考慮すると,自分が作った曲をたくさんの人に聴いてもらおうと思った時にMVが優れている必要はなく,ただ良い曲を作ることだけに注力した方がよくない?と言いたくなる.
もちろん,優れた曲を作った上で優れたMVが用意できれば,話題性が出てより多くの人に聴いてもらえるといったことはあるだろうが,それはMVが特段優れたものではなくても(もしくは,そもそもMVなんかなくても),ある程度の人に聴いてもらえるようなクオリティの曲を作れるようになってからでも遅くはないように思う.
むしろ,明らかに素人感丸出しの曲なのに,お金の力を借りてMVだけクオリティの高いものを用意しても,動画の視聴者はなんか違うな...となってしまうだけではないだろうか.
MVが曲の評価を高めるという側面はあれど,それはあくまでも曲そのものが魅力的である場合に限られると思う.
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは? について
最近のボカロ音楽は,音楽と動画のセットで話題になるという傾向が顕著である,というよりむしろMVがないけど話題になるような曲の方が少数派なのではないだろうか.
それゆえ,特に最近のボカロリスナーであればあるほど曲にはMVが付随しているのが当たり前であるという認識が一般的になっているように思われる.
そしてそれに伴って,ボカロ曲の作り手たるボカロPの創作欲求の源泉として,"作った曲を聴いてもらいたい"よりも"作った曲のMVを観てほしい"というものの占める割合が増えてきているのではないだろうか.
もちろん,純粋にボカロで曲を作ってそれを聴いてもらえることが第一であり,別にMVなんか必要ないという作り手も大勢いるだろうことは承知している.
しかし,仮にツイ主がそういった考えであれば,そもそもお金を払ってまでMV制作を依頼することにそこまで固執することはなかったのではないだろうか?
まず,前提として私は音楽をよく聴くが,MVを観ることはあまりない.
その理由を端的に言うと,私は音楽を聴きたいのであり,動画を観たいわけではないからというのに尽きる.
個人的な話だが,つい先日私の好きなバンドが数年ぶりのアルバムを発売するにあたり,YouTubeでそのアルバム内の1曲についてMVを公開した.
公開時にはアルバムはまだ発売されておらず,私は早くその曲を聴いてみたかったのでMVの動画を再生した.だが,あくまでMVを観てはいない.
その時はPCのブラウザでYouTubeを開いていたのだが,動画の再生ボタンを押した瞬間にブラウザから別のウィンドウに切り替えることで,あくまでMVは観ずに音楽を聴いただけであった.
こんなことをしていると,なぜそこまでしてMVを毛嫌いしているのかと言われそうだが,私はMVが嫌いなわけではない.
優れたMVを観て良いなぁと思うことも感動することもある.ただ,それは純粋に音楽を聴いて良いなぁと思ったり感動したりするのとは,情動の発生要因に違いがある.
具体的に言うと,MVを観ながら聴いた音楽には,その音楽についての印象に視覚情報が関わってくる.一方で,MVがなければ,音楽を聴いた時に及ぼすのは純粋にその音楽を聴くことで得られる聴覚情報のみである.(厳密に言えば音楽を聴いている時に目を開けていれば視覚情報はシャットアウトできないがそれは無視する)
それゆえ,私はMVを観ることによって,音楽を聴いたときのイメージに視覚情報が含まれてしまうことが嫌でMVを観なかったのだ.一般的に人間にとって視覚情報は聴覚情報よりも強い影響を及ぼすため,MVを観ながら音楽を聴けば,次に同じ音楽を聴いたとき,その音楽のイメージには少なからずMVの視覚情報から得られた印象が含まれているはずだ.私にとってはこれが好ましくないのだ.
音楽を聴いた時に音楽の全体的な印象として,または特定の音色に関してそこに色彩感覚を知覚する"共感覚"というものがあるらしい.例えば「この音は薄い紫色」だとか「この音楽は白っぽい感じがする」だとか.
私はこの共感覚を持っているとは言えないが,でも曲の中にはなんとなく,本当になんとなくだが色彩感覚であったり,風景(薄い緑色の草原の中を風が吹き抜けている様子だったり,石畳の歩道や教会のある中世の街並みをセピア色のフィルターを通して見た景色だったり)を連想したりするものがある.
これは本当にボンヤリとしたものであって真に共感覚を持っている人の感じ方とは全く異なるものだと考えている.しかし,ボンヤリとした形であれ,音楽という聴覚情報から視覚情報が想起されるという人は自分以外にも少なからず存在するものだと思っている.(具体的な根拠はないですが...)
このような,音楽を聴いた時に何らかの視覚情報が想起されるというのが私が音楽を聴くことが好きな要因の一つであり,また私の好きな音楽というのは,聴いた時に頭の中にイメージや風景が浮かぶものが多い.こういった感性を持っている人がいたら多分共感してもらえると思うが,MVを観て音楽を聴いてしまえば,その音楽の色やイメージのようなものは間違いなくMVで使われていた色やイメージにひきづられてしまう.
つまり,MVを観ることによって,MVを観ることによって得られる視覚情報からの楽しさが得られる代わりと言っては何だが,今後そのMVの曲を聴いたときのイメージが視覚情報から得られたイメージに大きく影響を受けるという代償を負っているとも言える.少し大袈裟な言い方な気もするが,事実である.
よって,私にとってMVというのは視覚と聴覚の両方を同時に刺激する存在であり,音楽というよりはアニメや映画といったものに近い創作物であるという印象がある.
例えば,映画と音楽という創作物について考えてみると,音楽は映画を構成する一部分ではあるが,これら2つの創作物を同じ土俵で評価・議論したりするのは違和感があるだろう.
それと同様に,MVと音楽という創作物もそもそも別種のものと捉え,区別するのがより自然な見方ではないかと考える.
にも関わらず,現状では多くの人がMVと音楽というものをあまり区別することなく,「音楽の良し悪しや評価 = そのMVの良し悪しや評価」と考える人が多いように思えて違和感を感じている.
ぼっち・ざ・ろっくのボトルネック奏法やるシーンって、なんか解決した感出てたけど不思議に思ってる。
ギターよく知らんけど、弦は直ってないから別に音域が増える訳ではないんだし。
他の弦で庇うのに都合が良いって事なんだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=AkFqg5wAuFk
何故わからない?
お前のしつこさに苛ついているのが
殴りそうになるのをずっと堪えてる
お前みたいなやつが大勢いる どうしたらいい?
常識すら持ってないのか?
なんの得がある 俺が誰で どんな世界にいて
どこに属してるかわかってるのか?
お前は お前以外のものにはなれない
自分だけで何かしてみせろ
人生の教訓だ
俺に敬意を払うなら
失せろ
いま 何て言った?
敬意を払って
消えろ
俺に言ってるのか?
俺に向かって言ってるのか?
しゃべるんなら俺がいない時にしろ
簡単なことだろ
弱いやつに同情して泣き声をあげて
そういう奴は全員が お前と同じことを言う
常識すら持ってないのか?
なんの得がある 俺が誰で どんな世界にいて
どこに属してるかわかってるのか?
お前は お前以外のものにはなれない
自分だけで何かしてみせろ
人生の教訓だ
俺に敬意を払うなら
失せろ
いま 何て言った?
敬意を払って
消えろ
俺に言ってるのか?
俺に向かって言ってるのか?
正気かお前
俺に敬意を払うなら
失せろ
いま 何て言った?
敬意を払って
消えろ
俺に言ってるのか?
俺に向かって言ってるのか?
家に帰れ
クソが
***
スローなテンポで鬱々としていて以前はあまり興味がなかった曲だが、
リ!スペクト!ウォーク!
その名に恥じない本当に美しい楽器だと、いち愛好家として思う。
しかしながら当然この楽器にもアンチはいて、嫌う理由は様々だが、特に見過ごせないのは
「なんだかお高く止まっている」
だろう。
少なくともヴァイオリンという楽器は、奏者のエネルギーを直接ぶつけるが如く弾くようにはできていない。
もう少し正確に言うなら、クラシックのヴァイオリンの奏法が、そういう弾き方を端から否定しているということになる。
具体的には、基本の基本として学ぶ「デターシェ」という奏法が、ヴァイオリンという楽器の性質を完全に固定してしまっているというか。
そしてこれこそが、実は奏者の性格をも良からぬ方向に変えてしまっているのでは…という話をしたいと思う。
デターシェ/デタシェはフランス語の"detache"のことで、英語でこの言葉に当たるものは"de-touch"らしい。
この言葉が示す通り、ヴァイオリンの基本の弾き方においては、ハッキリと「弓で弦をこすっている」感覚はほぼ皆無である。
(かといって浮遊感があるわけでもない)
なぜなら、ヴァイオリンは弓の木の重さだけで弦をこする楽器だからである。
言い換えるなら、多くの人がヴァイオリンは手や腕の筋力で、弓を弦に「押し付けて」こすると誤解しているわけだ。
だから未経験者はもちろん、未熟な人が弾くヴァイオリンは「しずかちゃん」と揶揄される、ギーギーガリガリしたノイズまみれになってしまうのだ。
ではどうしてこのような弾き方がヴァイオリンの基本になったかと言えば、そもそもヴァイオリンは当時の楽器では特大レベルで大きな音がする楽器であり、音量よりも音質が問題になったからと推測される。
音が大きいということは美音も雑音も大きな音で再生されやすいということであり、そこで奏者の体に極力負担が少なく、かつ美音だけを選択的に出す方法を極めた結果、行き着いたのがデターシェと。
ちなみにこのデターシェがきちんと出来ているかは、ある程度以上の腕前を持つヴァイオリン奏者だったら、プロアマ問わず聴いただけで判断できる。
すなわち「芯があって抜けのある音」という、非常に特徴的な、上質としか言いようのない音がするのだ。
例えるならアコースティックのギターやハープが「ポーン」と弦を弾いた音のような、アタックがあって、そこから非常に緩やかに減衰していく、不自然さを感じさせない音。
これがヴァイオリンが誕生した当時のヨーロッパにおいて、美音とされたサウンドとも言える。
そしてこの奏法を完璧に習得した(つまり呼吸をするかのようにデターシェで弾けるようになった)奏者は、それ以降どう頑張っても汚い音では弾けなくなる。
それこそどんなに激しい曲でもノイズを一切発生させることなく弾けるようになるし、だからこそ基礎の基礎と言える奏法なのだ。
(もしデターシェを習得しない状態で激しい曲を弾いたら、音が荒っぽくなって大惨事だろう)
では、そういう「ちゃんとした」弾き方ができるようになった奏者がどうなるかというと…耳もまた変化するのである。
つまり耳が「クラシックなヴァイオリンの上質な音」に最適化されるため、それを否定するかのような音に強い違和感を覚えるようになる。
そんな耳の変化は、最終的に奏者の感性をも大きく変えることになる。
具体的には、まずデターシェで弾けていない人を「かわいそうな人」あるいは雑魚扱いするようになる。
更にデターシェで弾けていても、デターシェを根幹とする「クラシカルに美しい音」の価値観に重きを置かないような、抜けのない濃すぎる音や、
あるいはインパクト重視だったり勢い任せの弾き方を多用するヴァイオリン奏者を嘲笑し、軽蔑するようになるのである。
どんなに上手い人であっても高確率で「残念な人」「分かっていない人」とみなされ、なんなら「何も知らない素人を騙すしか能がない」とさえ言われる。
しかし…これを差別主義と言わずしてなんと言うのだろう?エリート主義?
音楽は本来自由なものであって、「~しなさい」も「~するな」も、可能な限り不要ではないだろうか。
自分を含むヴァイオリン弾きは「美」を追求していたはずなのに、そこからかけ離れた、なんだか醜悪な感性が身に付いてはいないだろうか。
そうは言っても、もはや自分の耳は、粗野だったりわざとらしいヴァイオリンの音色を受け付けなくなってしまった。
とんでもなく耳にキツく響く上に、そんなものを何時間も聞かされた日には胸が苦しくなる。
自分が追求していることと違いすぎる音を、同じヴァイオリン弾きという「近すぎる」人種が平然と奏でる様子が、しんどくてたまらない。
これがエレキギターとかの他の楽器だったらどんなに良かっただろう。
まさか上手くなることでこんな悩みが生まれ、そして軽蔑される側だったはずがいつの間にか軽蔑する側に回ってしまうとは…暗澹たる思いである。
どっちかわかんないけど教室に置いてあって、
それはボタンを押すといろんな楽器の音色を選択できるハイカラ機能が付いてたんだけど
中休み(あー懐かしいね、確か2時間目のあとのやつね)になったらピアノ弾ける子がそれを弾いて、
そこにいたずらっ子が音色選択ボタンをランダムに押しまくって邪魔するってのが定番行事だった。
んで、そんなある日の中休みに突然それは起きた。
それまで小学生の拙い演奏をランダムな音色で奏でていた電子ピアノがいきなり自分から曲を演奏し始めたのよ。
いやーたまげたね。
小学生なりの人間味溢れる演奏は中断され、機械による寸分違わぬ圧倒的な演奏会が始まった。
それは聴いたこと無かったけど和音が弾むようなリズムが心地良い、それでいて途中からふいに物悲しくドラマチックな曲調に転じる、かと思えば最初のフレーズに戻ってきた時の強烈な安心感。
そんなとき物知り君が言ったのよ。
「アマリリスじゃん!」
それがあの曲との出会いだったね。
その電子ピアノ?は業者の点検用なのか店頭ディスプレイ用なのかわかんないけど
特定のボタンを組み合わせて押すと「アマリリス」が自動演奏される仕掛けになってたんだろうね。
誰もそんな情報は持ってなかったけど。
なにより偶然の出会いが刺激的だったね。
いまの子だったらAIが反乱を起こしたと勘違いするかもしれないね。
それからしばらくはアマリリス出現コマンドの解析に中休みも昼休みも放課後も費やされた。
先生も巻き込んだりして。
その後どうなったんだっけ?
あんま覚えてないけど。
なによりもあの曲との出会いのほうが印象深いものだったからね。
(追記)
検索したらヤマハのSE-2000らしい。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1461053194 https://twitter.com/unya2002/status/1499958278985756674
そうそうこれやこれこれ!!
みんなもぜひ聴いてほしい。中盤のちょい重めになるとことかいいよな。
あのパートは電子オルガンの音の重厚感をアピールするにもよさそう。
フランスの原曲のアマリリスはアマリリスという名前の女性のことを歌った歌らしい。
んで日本語の歌詞はよく見るとオルゴールの曲のことを歌ってる。
https://www.youtube.com/watch?v=NlwIDxCjL-8
誰も気付かない
彼の興味が賞金や 名声にないことには
答えを見つけ出す
そのためだけにカードを手にする
ハートが示しているのは この心とはちがう奇妙な形
キングを手の内に隠しているのかもしれない
心を隠し 男は答えを探し続ける
もしも好きだったと伝えたら 何かの間違いだと彼女は思うだろう
平気で嘘をつける人間ではないのに
語りたがる者ほど何も知らず やがてはその代償に気づく
どこにでも溢れている 不運を呪う者のように
恐れから生じた迷いに囚われる者のように
ハートが示しているのは この心とはちがう奇妙な形
***
最初に歌詞を見たときに「ハートのエースが出てこない」みたいで、なんだかなあと思った記憶があったのだが、訳すと結局はそんな感じになってしまう困った歌詞。
スティング本人によると「ラブソングではなく」孤高のギャンブラーを描きたかった、とはっきり言っているので、これ以上膨らませるのも難しい。
しかし、サビの部分や「彼女に愛していると伝えたら~」のくだりで、急に三人称から一人称に変わって主人公視点になるのと、美しいギターの音色とで、普通はラブソングにしたくなるよなー。
実際その方がおさまりもよさそう。
個人的には、「神聖な幾何学」「可能性に隠された法則」とかむずかしげなことを言いながら、トランプの絵柄の話ばかりしてる主人公はいったい何なんだという気持ちになった。
麻雀でいえば、「索子は竹、筒子はお金、でもこの風牌は俺の風じゃない…」とずっとブツブツ言ってるみたいな。
なんだそいつ。
スペード、クラブ、ダイヤ、Jack、Queen、Kingは歌詞に出てくるのに「ハート the hearts」と「ace」は直接出てこないので、
やっぱり、ハートのエースが出てこないんだろうな
知人にすっごくいい漫画だから!と薦められて読んだのだが、アマチュア弦楽器奏者としてつっこみどころが多すぎて困惑している。
まず、コンクールでトップとるような子は普通の高校の部活オケには入らない。
音高にいくか、普通の高校に進学したなら放課後は個人のレッスンに明け暮れる。
……まぁでも漫画だからね。なんらかの事情で「コンクールでトップとるような子が、普通の高校の部活オケに入った」とする。
すると、そこで彼/彼女が感じることは……自分の音がどうこう……より、正直まず「周りの初心者との圧倒的なレベル差」をどう受け止めるか?ということだと思う。
はっきりいってコンクールでトップとるレベルの子と、高校から初心者ではじめる子のレベル差は歴然……というかもう雲泥の差で、
彼/彼女はその「素人」に囲まれての全員の演奏で「どう高みを目指したらいいのか?」ということに少なからず頭を悩ませるはずだ。
悩ませない、一切気にならないならサイコパスすぎ、他人に興味なさすぎ、というかもはや音楽にも興味なさすぎなのでは???と言わざるを得ないが、本作の主人公は一切気にしていないようだ。
というかライバルポジの天才バイオリニスト少年もその点を一切気にしてなさそうで、「サイコパスが2人」みたいな状態にしか見えない。
個人的にはもっとファースト(バイオリン)の他のメンバーの面倒みるなりなんなりしてあげたほうがいいのでは……?と思うが、彼らは自分(とせいぜいヒロイン達)にしか興味がなさそうである。
しかもそのオケで「まわりの楽器の音を聞く」とか当然も当然のことをやって「なるほど…!」みたくなっているが、
初心者はともかくこのレベルの子が「しらなかった…!」みたいになるのはあまりにも今更感がすぎる。今まで何やってたの????
さらにオケでは個人個人がそれぞれの表現ばっかやっているようにみえる(優雅に…とは…妖しさ…とは…怒りを…とは…みたいなことの追究)が、そんな音色の抽象的な議論には普通時間かけない。
そこには指揮者の思想が色濃く反映されるはずだし、しいていえばコンマス、パートリーダーがガッと決めて、音量から弓の位置から弾き方から、もっと具体的に指示を出すところである。
あと席順でそんなに一喜一憂しないよ……一番うしろに実力者を置くことも全然あるし、いろんなバランスで決まっていくから、前がいい!表がいい!てそんなに気にしない。
ある晴れた日、突然の悲報が世界に駆け巡りました。著名な音楽家、坂本龍一さんが亡くなってしまったのです。彼の音楽に愛された人々は涙を流し、悲しみに暮れる日々が続きました。しかし、その悲しみも束の間。翌日、驚くべきニュースが伝わってきました。坂本龍一さんが、生き返ったのです。
事件はこうして始まりました。坂本さんが亡くなった夜、彼の自宅に一通の謎の手紙が届けられました。それは、遠い昔に失われたとされる伝説の楽器「神秘のハープ」にまつわる手紙でした。手紙には、「神秘のハープを弾く者は、死者を蘇らせる力を持つ」と書かれていました。この手紙は、坂本さんの親友であり、ピアニストの上原ひろみさんの手に渡りました。
上原さんは、友人である坂本さんを救うため、伝説の楽器を求めて世界中を旅することを決意しました。彼女はアフリカの奥地やアジアの山岳地帯、南極の氷河など、数々の困難な場所を訪れました。そして、ついに、手紙に記されていた場所で神秘のハープを見つけ出すことに成功しました。
ハープを手にした上原さんは、坂本さんの遺体が安置されている場所に戻り、神秘のハープを弾き始めました。彼女が弾く音色は、まるで天使の歌声のようで、聞く者の心を癒す力がありました。そして、その音が坂本さんの耳に届いた瞬間、奇跡が起こりました。彼の遺体が動き始め、息を吹き返し、生き返ったのです。
世界中が驚く中、生き返った坂本龍一さんは、上原ひろみさんと共に感謝の意を込めてコンサートを開催することを発表しました。この奇跡のコンサートは、多くの人々に希望と感動を与え、二人の友情と音楽の力が世界中に伝わりました。
こうして、坂本龍一さんと上原ひろみさんの奇跡のコンサートは、世界中から注目を集め、チケットは瞬く間に完売しました。コンサート当日、舞台に立つ二人の姿は、まるで生きる伝説のようでした。彼らが奏でる音楽は、感動と希望に満ち、人々の心を揺さぶりました。
コンサート会場には、世界各地から駆け付けたファンや、音楽業界の大物たちも足を運んでいました。そして、コンサートの終盤、坂本さんはステージで感謝の言葉を述べました。「友人であり、素晴らしい音楽家である上原ひろみさんのおかげで、私はもう一度生きる喜びを味わうことができました。彼女の信念と勇気に感謝し、これからも音楽を通じて人々に希望を届けたいと思います」と語り、会場には感動の渦が巻き起こりました。
コンサートの後、二人は世界各地で慈善活動にも力を注ぎ始めました。彼らは、神秘のハープの力で人々の心を癒すことができることを発見し、その力を利用して病気や災害に苦しむ人々を助けるために活動しました。
坂本龍一さんと上原ひろみさんの奇跡の物語は、世界中の人々に勇気と希望を与え、音楽の力が人々を救うことができることを証明しました。そして、彼らは今も、美しい音楽を通じて、人々の心を繋ぎ、世界を癒すために尽力し続けています。この物語は、二人の友情と音楽の力が奇跡を生んだ、感動のドラマとして語り継がれることでしょう。
昼飯どき、ほかのとこが並んでたから仕方なく、最近できた東北の某事故原発県のラーメンのチェーン店に入ったけど、アレはないなぁとおもった。
狭いのは元の物件がそうだからしょうがない部分があるが、出てくるのが遅い!「おすすめメニュー」て供給側が客の回転をコントロールするために設定してる(とマンガ『お腹はすいた?』で習った)のに、なんで10分以上も待たせるねん。店員が少ないわけではなく、むしろ床面積からしたら多いほど居る。それぞれはシステマティックに決められた作業のみこなしている配置になっているのに。BGMも酷い。三流の安いチェーンのスーパーで流している安いキーボードの音色でアレンジしたインストという例のヤツ(苦笑)さむい真冬に氷入り麦茶を最初に配るのはまぁ好みの問題やからええけど。でも、席に着いた客から注文番号を受け取ってその麦茶を置いたときに「ごゆっくりどうぞ~♪」は「?」だった、喰いモンまだ来てへんけど?それフツー来てから沿えるセリフやんな?まぁええけど。で、来たおすすめセットだが、…家で作って喰える袋ラーメンによくある味だった(苦笑)そりゃ袋ラーメンよりは太いよ同じ縮れ麺でもな?しかし、やたらスープの量が多いのな、やさしい味なのでよけい飽きてきてしまう、フードコートのラーメンのかんじやんなこれ。先に喰い終わって帰った両隣の客も残ったスープに箸つっこんでるのが見えるが、意地になってガボガボと飲み干したわ。
私は、リアルでは憚られる不謹慎ネタをつい考えるのが癖となっており、そのたびに興奮して考えが止まらなくなる。
また、大きな事件が起きると、もっとひどくなれ、もっと起きろ、と思ってしまう。
本来こういった不謹慎ネタや事件には眉をひそめるべきであり、決して面白いと思ってはいけないものだ。
その気持ちがあり、外に出すにしても、なんJとかニュー速みたいなところで出すべきであってリアルで出してはいけないものだ。
が、私はそれを抑えられず同世代や近しい関係の人にはドン引きされ、目上の人から大目玉を食らったことが何度もある。
その詳細を書いていくが、どうしたらやめられるのだろうか。長文申し訳ないが、アドバイス求む。
もちろんそれらが行っていることは社会的に許されざることなのだが、だいたい彼らは面白いことをするから困る。
空中浮揚なんかできるわけないのにあぐらをかいてジャンプする。
特徴的なイントネーションのニュースキャスター(何言ってるかはわからないけど)。
やたらとハイテンションな歌の数々(コンギョ、金正日将軍の歌、金正日豚汁など)。
毎日のように効かなければ気が済まなくなり、スマホに入れて移動中ずっと聞いていた。
大学4年生のとき、助教がこういうのが大好きで、毎日やってもおとがめを受けるどころかそれで盛り上がれるほどだった。
(教授も笑って見逃してくれた)
しかし、大学院(他大学)で所属した研究室ではこういうのは許さない雰囲気のところだった。
少しでもこれらのネタを出すと後で呼び出されてお叱りを受けた。
実家でこれらのネタを出そうにも、母親はこういうのが嫌いでどうしようもなかった。
一応言っておくが、私はオウムや北朝鮮とは無関係であるし、そこに入りたくもないし生まれ変わっても絶対にそこで暮らしたくもない。
だってそんなところに入ったら肉体的にも精神的にも(言葉では形容できないほど)辛いからだ。
リアルの人やマスメディアはおろか、アングラ色の強いサイトですらほとんどなされない。
それどころか、そういった言説がなされると愛国心しか取り柄のない暇人日本人が押し寄せ潰されるのが常だ。
菊タブーという現実があるからこそ、皇室をおちょくりたくなる。
「ブルーギル天皇」「コピペ・裏口入学の悠仁」「あ、徳仁」「2分前に死んだ昭和天皇」「パコ様」「天皇認知症でぼけてんのう」などと。
さすがにこればかりはブラックユーモアに寛容な父親も怒らせてしまったが。
・♪うえをむ~いて あ~るこお~よ… あ、山にぶつかった
...etc
最近ニュースで報道される事件群。その中には面白いものがある。
こういう「面白い事件」が起きると、もっとエスカレートしろだとかもっと起これと思ってしまう。
私は小心者で犯罪には手を出せないが、だからこそ勇気ある方々には頑張ってもっとやってほしいと思う。
そう思った事件を列挙していく。
バイトテロをはじめとして、様々な施設に迷惑をかける様子が話題になっている。
Z世代がそれらに手を染める様子がよく見られることから、彼らは「Z戦士」と呼ばれている。
(年代ごとの正確な件数やSNSの影響についてはここでは論じない)
最近だと、金髪少年によるくら寿司醤油ペロペロ事件がとくに有名だろうか。
彼らがそういった行為に手を染めている様子を見ると、誰かにバレないかという感情が読み取れ、その緊張がたまらない。
そして行為に成功した時の笑顔を見ると、こちらもうれしくなる。
まず、「恒心教」とは、悪質な書き込みのせいで特定された少年及び彼が依頼した弁護士をおちょくる人々を指したネットミームである。
彼らは様々な行動をしており、その一部は犯罪行為を含む過激な行動に出る。
しかし、グーグルマップに実在しない施設を追加している様子には笑いをこらえられなかった。
「恒心教警視庁サティアン」「オウム真理教皇居支部道場」「オードリー春日トゥース」などを見ると誰もが吹き出すだろう。
おまけにある参議院議員がこのことを法務委員会でぶち上げた割には各省庁の担当者にはぐらかされる様子もまた見ものだ。
(おしいのは具体例の挙げ方だ。当時はるかに被害が集中していた松戸市の一軒家に言及すればより効果ある問題提起ができたはず)
警察もメンツをつぶされてご立腹だがやる気がないのか、軽犯罪で書類送検にしたらしいが。
まずおふざけと明らかにわかる予告文。
「~しますを」「~ナリ」「3時34分」「それはできるよね」「当職は弁護士だ」…などと。
また、明らかに嘘と分かる、というかそんなにあったらすぐに見つかるし搬入されるほど警備が手薄なのかといえるような爆弾の数。
そしてバカバカしいと感じながらも宝探しをする人たち。なぜか警察の爆弾処理班は呼ばれない。
インターネットユーザーもネタを理解しているのか、大喜利大会になっているのもまた一興。
(一部マジになって陰謀論を垂れ流す人もいないわけではないが)
一方で首相官邸にやられて警察が動いたり、西九州新幹線にやられて運休したりと一定の成果があるのも面白い。
(爆破時間だけが重要なのに、どうでもいい日付を関連付けて語呂合わせをしたアメリカ名門大卒のコメンテーターもいたっけ)
皇居は今までほとんどやられたことがないからね(見つかる限りでは2008年に1回のみ)。
こんなくだらないことに莫大な税金を使って会議や捜査するくらいならもっと国民の生活を支援しろよと言いたいが。
とはいえ、警察がブチギレて捜査一課を担当とし全面戦争に突入したのが非常に面白い。
上司のパワハラに耐えかねた派遣社員が勤務先に放火し数十億の被害や物流への影響(そこにある医薬品への被害など)が出た。
京王線内で放火して車内が大騒ぎに(小田急線はダサすぎる。京アニは計画側も致命傷を負ったのが問題)。
宗教の被害を受けていた勇者が、広告塔だった元総理大臣を自作の散弾銃(銘銃・安倍崩)で仇討ちを果たす。
どれも記憶に新しい。
こうなるまで苦しむ人を無視し続けた社会や為政者などの責任を鑑みると、そらそうよ、と思ってしまう。
わずかな犠牲はあれど、それで社会が大きく騒ぎ、よい方向へ変わるきっかけになっているのが面白く非常にうれしく感じる。
日本は諸外国と比べ感染者数を抑え込んでいますよ的なイメージがあったが、それが崩れていくのが趣がある。
(実際は保健所が検査数を抑えていたり、日本人お得意の同調圧力でどうにかしていたそうだが)
2021年の東京パンデミックオリンピックでも、メダル数だけでなく感染者数も新記録を更新したのもすばらしい。
ちなみに私は、電車内などでノーマスクを貫いているがこの3年間全く発症しておらず、PCR検査をしてもずっと陰性だった。
東京(願わくば東京駅・新宿駅とか山手線の内側)着弾したら大騒ぎになって面白いと思ってしまう。
ちなみに、大学4年生のときの助教は「大学の建物にミサイルが刺さっていたら面白い」と語っていた。
よくわからないのでWikipediaを見るしかないが、その様子が非常に勇敢だった。
警備が厳重な成田空港に武装して突入し、警察に健闘しながら機器類を破壊したのはお見事といってよいだろう。
・家のテレビリモコンが壊れた
・つながるかどうかテストしてみた
など、不要不急の110番通報が数多くあり、警察の業務が妨害されているのが面白い。
(3番目だと、岩倉市に似たような例があった。1,072回やったらしい)
普段から無能な警察なんだから(はるかぜちゃんを恫喝した神奈川県警とか)、遊んでもらった方が気晴らしにもなっていいだろう。
ここまで書くと、私も何かしてみたくなる。
犯罪行為はできないが、国や社会をおちょくれることをしてみたい。
そこで思いついたのは、天皇が死んだ日にカラオケをすることだ。
昭和天皇が死んだとき、国からの要請よりも国民が進んで自粛したそうだ。
平成天皇はそれを懸念して生前退位としたようだが、それでも自粛と自粛警察の出現は少なからずや起こるだろう。
何らかの事情で令和天皇が死んだらもっとすごいことになるだろう。
「なんてことだ、もう助からないゾ♡」
と答え、死んだら、
「生前退位したにしても、昭和天皇の時みたいに自粛でデレマス・シャニマスのライブが中止になりそうで嫌ですね」
と答えたい。
すでにセトリの一部も決めてある。
・なんどでも笑おう
・S(mil)ing!
・恋が咲く季節
・ステップ!
・ミツボシ☆☆★
・Happy Funny Lucky
・ありったけの輝きで
・ハナマルバッジ
・FELICE
(余談だが、作曲者が逮捕された件、悪いのは本人であり曲ではない。だからライブ演奏やストリーミングまで自粛しなくてもいいのに…)
・Let's get a chance
・ダブル・イフェクト
・HAPPY PARTY TRAIN
あとは、地下鉄サリン事件の日、黙祷中に霞ヶ関駅のホームで尊師マーチを歌って踊りたい。
たくさんの応援をいただきありがとうございます。返信は以下にまとめておきます。
アイドルマスターSideMは救済、よく聞く言葉だ。
実際私もFRAMEの楽曲に人生を救われたクチなのでとても分かる。
しかし、自らが想像もしていなかった曲に救われた、いや、もっとささやかな気づきだが、そんな出来事があったのでここに記そうと思う。
なお、読む方へ。私はこのような文章を書くのに慣れていないので、至らない、誤解を生じる表現があるかもしれない。衝動で書いている自分語りだ。はてな匿名ダイアリーを使うのも初めてだ、改行が分からない。後でヘルプを見て編集しよう。
よくある『SideM救済曲リスト』で見たことのない曲なのだ。びっくりだよ。
都築さんのストーリー、そして声優さんの歌の技量も相まってこう……とても美しくてエモーショナルな曲だと思う。大好きな曲だ(二回目)
でも救済曲か? 少なくとも私にはその印象はなかった。今朝までは。
音楽が人を救うのは、その内容が、聴く人間の状況によると思う。寄り添う、背中を押す、隣を歩く。音楽は様々な形で、人々のそばにいてくれる。
この曲に救われた経緯を説明するには、「救われた」私の状況も説明しなければならない。簡単にいこう。
大好きな友人と喧嘩をした。喧嘩と言えるかはわからないが、たぶんそうだろう。
詳細は省くが、私の軽率で感情的な発言が原因だろうと思っている。
心はふさぎ込んだ。食欲もなくなる、なにをするにも億劫になる。ただ仕事から帰ってすぐ眠りについた。
頭の中にめぐる色々な種類ものを言語化することはできなかった。後悔、怒り、悲しみ、そんな単語だけで表現するにはあまりにも複雑だと、私は思った。
朝が来る。のろのろと支度をして通勤電車に乗る。
車窓越しに差す朝日を薄眼で眺めながら、惰性でランダムで流す数百曲のプレイリストの中から『Sanctuary World』が再生される。
そのメロディを聴きながらふと思ったのだ。
私の心は音楽のようだ、と。
自らが聴こえる楽曲を、聴いていない相手に口頭で描写できるだろうか。私はできない。
(曲のジャンルにもよるが)複数の楽器が各々音色と音階を、リズムを伴って、重なっている。
心も同じなのではないだろうか。思考と感情は様々な様相で同時並行で走り、そして形作られたものが私なのだ、そう思った。
この感覚を、読んでいるあなたに十全に伝えることができないのがもどかしい。
注釈として、私は若干の共感覚を持っているのだろうか、音楽にはほんのり色と形が見える人間だ。
また、私は音楽に対する感受性が強い。普通にコンサートで号泣するタイプだ。
何にせよ、私が『Sanctuary World』を通して救われた、というか、少し心が軽くなった、そんな話だ。
もしかしたら他の曲を聴いているときに、このことを思ったのかもしれない。
しかし、『Sanctuary World』の歌詞はこんな言葉で締めくくられているのだ。