はてなキーワード: 運動家とは
石川優実さんのKuToo運動は、提唱されてからそれなりに時間が経っているのに今でも連日ネットを賑わしています。
これは、良くも悪くもこれまでの社会運動とは違った「火を消さない構造」が含まれている点に特徴があります。簡単に言うと、炎上マーケティングの手法をまとった新たな社会運動のスタイルであり、グレタさんやなでしこ寿司なども多かれ少なかれ同じような構造を持っているように思います。
女性や子供など、「かわいそうランキング」上位に位置する弱者がシンボルであることが重要です。理論派の運動家やキモくて金のないおっさんなどが主張しても同情されません。
②誰が見ても正しいメインの主張
好きな靴を履きたい等の主張は、誰が見ても正しく、実施にデメリットもほとんどありません。他にも女性差別廃止や温暖化対策が必要といった総論に関して反対する人は誰もいないのです。
③穴だらけの付随的な主張
https://twitter.com/KuToo92/status/1139137539845967878
要約すると、パンプスやハイヒールの強制は、性差別・ジェンダーハラスメント/セクハラ/パワハラ/安全配慮義務違反のいずれかに該当するよう法規定を作ってほしい、という内容です。違反した事業主は差別、ハラスメントに該当してしまう、かなり強いニュアンスです。着用時間の上限を設けたり、足の健康状態が悪い場合は着用強制をしてはいけない、といった柔軟性のある内容ではありません。
対象となる職種の定義もないため、オフィスワークや接客業のみならずイベントコンパニオンやラウンドガール、ショービジネス一般、バニーガールからSM嬢まで対象になってしまいます(上記要望書の対象であるパワハラ指針案では正規社員だけでなく非正規社員や派遣労働者も対象に含まれる)。もともとの問題意識は、冠婚葬祭などの会場スタッフだったはずで、たしかにフォーマルやセミフォーマルのお客さんに長時間接するスタッフの服装規定は一考の余地があります。そのあたりにポイントを絞るべきではないでしょうか。一般の会社員で賛同している方も多いようですが、いまどきのオフィスでは、客先と対面しない場合は楽な靴が履けるところが多いのではないでしょうか。
つまりKuTooは「私たちは好きな靴を履きたい」という、しなやかな呼びかけではないのです。そしてまた、グラビアや芸能業界を間近で見てきた人ならではの、見られる職業との両立を考慮した提案でもないのです。
そのあたりも含めて、整合性、一貫性のない主張を石川さんはツイッター上で今も続けています。
当初賛同していた人たちも、途中でこういった穴に気づいて指摘や質問をおこなうようになります。すると、構図としては①弱者の②正当な主張に対して、既得権益者がヒステリックなクソリプをしているように見えてしまいます。実際は②総論賛成③各論反対なのにも関わらず、①弱者をいじめるミソジニストのように見えるのです。そうではないと指摘者が詳しく説明すればするほど、提唱者は孤高のジャンヌ・ダルクを演出することができます。
そして提唱者が③への指摘を認めないスタンスを取り続ける限り、炎上の火はおさまらず、社会運動として認知が広がっていきます。その中で、多忙で深い議論の内容まで理解する暇がない著名人や、深い議論のニュアンスが伝わらない海外メディアにも運動は支持されていきます。
これを言い出したのは、要するにしばき隊とかそのあたりの左翼が「日本人に対するヘイトを在日がやってたのを擁護する必要性に駆られて」なんだよね。
日本人を取り囲んでリンチとか、そういう朝鮮学校のヤンキーみたいな事象をヘイトだと認めると何かと都合が悪かったんだよね。
だから「多数から少数がヘイトで、少数から多数へはヘイトではない」という独自ルールを作っちゃった。
でも、世界のスタンダードから見ると、「むしろヘイトスピーチやヘイトクライムは少数から多数への過激攻撃においてよく見られる」ので、混乱が生じてる。
過去の虐殺なんかも、少数派が人種的優位性を主張して、多数派の女性への婦女暴行やレイプなんかを扇動しやらかした例はごろごろある。
なんでこんなことになったかというと、彼ら社会運動家と、その思想を保証する社会学者系のインテリは、とりあえず理論をでっちあげて検証をしないことにあるんだよね。
明らかな間違いを犯した理論も、すべてアカデミズムの肩書で保証してしまう。
このあたりに社会学とか文系学問出身運動家の腐敗があるわけなんだけれども。
川崎のヘイトスピーチの話も「外国出身者以外にもヘイトスピーチはあるかないか」というばかばかしい理由でもめた。あるに決まってるのに、左派系が必死に抵抗した。
アレは、「ヘイトスピーチはあらゆる属性が対象になる」なんて基本を、「他の属性差別はフリーにしておきたい」という意図でかなりもめた。
とりあえずまずフェミニズムが学問としての名称として適切ではない。
例えば上野千鶴子は家族社会学、ジェンダー論、女性学を専攻とする社会学者、フェミニストであって。社会学者までは学問、フェミニストは運動ないしイデオロギーである。
古い例えになるかも知れないがミクロ経済学を専攻とする経済学者、リバタリアンという人や、宇宙物理学を専攻とする物理学者、ビッグバン論者、あるいは地球環境シミュレーションを専攻とする計算科学者、環境保護主義者というのを思い浮かべればいいと思う。
で、前者について議論するのが学会であり、科学である。そしてその知見を元に後者について語るのは本人の自由であるが、特段科学的であるわけではない。あとこれが誤解を生みやすい所であるが専攻以外の分野について雑談をするのも個人の自由であるが、特段最新の科学の知見に基づいているわけではない。
そして科学というのは一般論について語ったり、何かおかしなオカルトを否定するのは大変便利なのであるが、具体的な身近な問題にはろくに答えを出せない場合がほとんどなのだ。
例えば、今日では「地球が人間の出す二酸化炭素によって地球が温暖化している」というのはほとんど科学的結論といってよいが、その具体的な被害はそこまで明らかではなく、ましてや世界各国が何よりもまず優先して地球温暖化対策に取り組むべきなどというのは自明でもなんでもない。グレタ・トゥーンベリ氏の主張は前半は科学であるが、後半は科学ではないことを支持者も批判者もよく理解してほしい。
話を元に戻せば、「女性に特定の服装を明示的あるいは社会的規範として強制することは、女性に対する抑圧的構造たりうる」「女性の性的な特徴を過度に強調したポスターが町に溢れることは女性の尊厳を傷つけうる」というのは科学的結論としてあり得る話ではあるが、「ハイヒールを問題とすることが女性の解放につながる」「宇崎ちゃんのポスターを赤十字が掲示するのは問題だ」は学問を学んだ人が思いついた個人の自由な意見であってそれ自体は科学ではない。
だから今回話題に登っている討論会などというものは学問の場でもなんでもなく、ただただ立場の違う個人と個人が意見をぶつけ合う場に過ぎない。
そして学問としての女性学は今後100年たっても「漫画の女性描写規制は正しい」などという極端な結論を導き出すことはできないから安心してほしい。経済学者が「好景気を維持する方法」を開発できないのと同じである。
なお「ハイヒールを常用することで足の健康を損ないうる」というのは医学の領域であり、社会学の話とはまた別の話である。
それから専門外ということで言えば宇崎ちゃんポスターに噛み付いていたフェミニストの中に「漫画」の専門家がいるのかはよくわからないし、実際(女性学の対象であろう少女漫画についてすらも)漫画に対して無知な人が目立ったと思う。であるとすれば在野の「漫画」専門家が彼らと同レベルの知識人として堂々と漫画表現について議論するのはあるべきことだし、大学の教員たちも肩書に驕って漫画を軽蔑するなどという態度は(彼らの専門外なので学問者としてはどうでもいいが運動家個人の資質や印象の問題として)やめるべきである。
http://www.ishikawayumi.jp/entry/2019/11/18/133232
青識亜論はひどい。
信じられない。
イメージ悪すぎだろ。
そう感じた。
https://twitter.com/dokuninjin_blue/status/1196307821668622336
で、このツィートが流れてきた。
すごい困った気分。
えっと、どういうこと?
と思って調べてみた。
どうやら、討論したいと言い出したのは石川さんらしい。
司会者も、討論形式も、石川さんの意向に沿って決められたみたい。
すごい困った。なんかもう、それで討論に参加して、敗北感を味わうんだったら仕方ないんじゃないの、と思う。
将棋に例えると、飛車角落ち、どころか、8枚落ちで勝負して、それで負けたんだったら仕方ないんじゃないの?
もっと、準備できなかった?
うーん。こうなると、「実はなあなあのプロレスで、相手は何を話すかわかってました。だから傷ついてません。私は大丈夫です」と言ってくれたほうがまだ救いはあった。
さすがに「青識さんはしっかりと私をモノ扱いしてくれた。」とか、甘えすぎですよ。これは本当にひどい。
こうなってくると青識のほうがかわいそうに見えてくるから不思議だ。
流石に、本人が今頃になって青識さんの承認欲求の道具にされたんだとか言い出すの、
プロレス試合で「傷害事件として起訴してください」というぐらいにめちゃくちゃだ。
どうなんだそれ?
「私を青識さんの承認欲求を満たすための道具として使うのならば、予め私に許可と同意をとる必要があったはずです。」
いや、十分丁寧に接してるのでは?
討論会で相手の要求を全て飲んで、質問内容を教えてるのなんて、基本あり得ません。
これはもう、討論以前の問題ですよね。
これを見て、かわいそう、とか思ってた自分が恥ずかしい。
「司会者も相手が決め、後攻を相手に譲り、最後に相手にすべての質問を教えたとしても加害者として糾弾される覚悟が必要」
になりました。
実は傷ついたのは演技で、次も開催するぞというプロレスであってほしい。
こんなのフェミニズムじゃないよ。
自分だけじゃない。
でも鳴かず飛ばず。ちょっとネットでファンはつくけれどデビューはしてない。
そんな自分だが、ネットで政治的なツィートをすると異常に伸びる。
釣りをするつもりもないツィートが異常に伸びる。
そのことに気づいた。
小説の宣伝をしても誰も読みに来ない。なろうのランキングは恥ずかしくて書けないレベル。
でも政治のツィートは数万のびる。
学者としては論文もろくに書けないが、偉そうに教養人ぶって、オタクをdisって人気を得るブロガー。
横柄な態度で口喧嘩をしつつ政治にコミットして運動家になったネットカリスマ。
ミュージシャンとしては三流だが、煽動屋としては名前が知られてる元ミュージシャン。
その中で政治は最悪だ。
自分もそのクチだった。
当たり障りのないところでいえば、ワールドカップが嫌いで大迫半端ないとかいうのを書いたら以上に伸びた。アレ書いたの自分。
気持ち悪かった。
アカウントごと消した。
他にも、いろいろある。数百ブクマを超える記事なら、狙えば、おそらく打率5割で書く自信がある。
言えないけれど、いろいろ書いた記事ある。
あ、アレ書いたのお前かよ、と言われると思う。
でもこの才能ってなんか意味あんの? いや、意味はある。扇動屋としてなら、そこそこ役に立つ。
しかし、自分が他人を政治の兵隊として動かす気がないのならこの手のセンスはいらない。
社会学部に入って社会学者として、適当なエッセイを書くのならばそこそこ使えるかもしれない。でもなりたいのは小説家だった。
いまの会社で、「twitterでバズって宣伝しよう」という企画を営業が建てた。
でも、「私がやるとバズりますし、味方も増えますが、同時に敵がくっそ増えますよ?」と内心で思ってた。
SNSでの基本構造は(極意に近いことを書こうと思ったが、本当に単純なことなので書いて消した)だ。それさえやれば、簡単にバズるし、扇動できる。
唯一役立つのは、「あ、こいつはわかってやってる扇動屋だな」と見抜くことぐらい。
案外多いよ。職業扇動屋。それで飯が食える時代なのかは知らない。食えたとしても食いたくないが。
追記 書いたはいいが気持ち悪くなって消した記事は結構ある。あの記事とか、あの記事とか、気持ち悪くなって消した。はてなに消されたわけじゃない。自分で勝手に気持ちわるい、と思って消したが正解。
お気持ち表現規制派を殴るついでに社会構築主義殴られても困るんだよねぇ,正直.
私は人文系で別にジェンダーの問題には関心ないけど,構築主義的な考え方は別にフェミニズムに限られた概念でもないし,社会学だけじゃなく人類学や歴史学でも受け入れられてる.
「民族」が構築されたもので云々みたいな話はさんざんされてきていているわけで.きちんと実証的にやろうとすればするほど構築主義の考え方を取らねばならない局面って多いんだよね.
社会構築主義への批判もあるにはあるけど部分的修正を促すものだし(たとえば「老人」というカテゴリの特殊性から社会構築主義の大前提を疑った論文もあり,これはかなり面白い),本質主義に戻れるかといえば戻れないので,まあ構築主義を受け入れた上でどうやって実証に活かすかという話になるわけだけど,そもそも社会構築主義はおかしいって言われると「ええ……」ってなるよな.
社会構築主義批判が悪いわけではなく,きちんとした論を立てて批判してくれるなら全然大歓迎なわけだけど,一部のアンチフェミな方々の議論は耳を傾けるべき水準に達していないので.
正直もう本当にうんざりなんだけど,お気持ちフェミニストを殴りたかったらお気持ちフェミニストをピンポイントで殴ってほしい.社会学批判とか始めるならネット上の断片的な社会学についての解説だけじゃなくてちゃんと社会学の本やら論文やらをちゃんと読み込んでほしい.当たり前のこと言ってるはずなんだけどなぜか通じない.いやキズナアイを叩くなら彼女の配信をちゃんと見ろとか宇崎ちゃんポスター批判するなら漫画を読めよとかと同じことを言っているはずなんだが? という.
表現規制を求めるお気持ちフェミニスト批判ならオタクとして賛成するけど,雑きわまりない構築主義批判を始めるならそれは文系の学問に喧嘩を売っているに等しいわけで,こちらも文系アカデミシャンとして「は? お前何言ってんの?」というモードに入らざるを得なくなるんだよな.
だからまあ私の感想は,去年キズナアイが叩かれてたときに書いたの(anond:20181011062902)と同じになるわけだけれど.
とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.
仕事仲間から趣味を貶められ趣味仲間から仕事を侮蔑されるのそろそろ勘弁してほしいわけですが,まあこの流れは収まらないんですかねと諦めモード.どっちの陣営にも話通じない人がいて辟易.
まあせめて自分が誰に喧嘩を売っているのかはちゃんと把握してくださいね.表現規制派を批判するためにフェミニスト全体を殴ると性の解放を唱えるフェミニストに流れ弾が当たるし,社会構築主義にまで戦線を広げるならフェミニズムや社会学だけじゃなく人類学とか歴史学にまで喧嘩を売っていることになるわけだけどそこはちゃんと自覚してます? 自覚がないなら攻撃対象はもうちょっと限定しようね.もしそれらの分野に喧嘩を売るなら各分野の基本書はちゃんと読んで勉強してねという話になるけど,その覚悟はありますか?
(もちろんこれは男性向けジャンルの潮流とか文化とかについて碌に知らずお気持ちで批判してくる一部のフェミニストや社会学者にも当てはまることだけどね.よりにもよってそのジャンルでデータベース消費論に基づいた雑分析をやりますか? ほんと勘弁してくれ.男性向けだからどうせ女体目当てのポルノだろうみたいなその偏見をどうにかしろ.オタク,というよりも男のセクシュアリティを単純化するな.参与観察なり文献調査なり統計なりの実証手法を使いこなせ.表象分析やるならちゃんと作品に向き合え)
ところで献血行って冴えカノのクリアファイルもらってきたんだけど,今期アニメで白衣着て献血のポスターに採用されてほしいキャラって誰? 僕は,クリーブランドちゃん! アズレン未プレイなんだけどアニメは見てます.出来いいよね.さすが艦これより先にアニメ化されるだけはある.ユニオンとロイヤルと鉄血と重桜でそれぞれ1種類ずつナース服のクリアファイルとか作って献血ルームで配布してほしい.あ,『放課後さいころ倶楽部』も捨てがたい.翠ちゃんいいよね……仮にコラボやるならやっぱり京都府内限定とかになるのかな……(やると決まったわけじゃないだろ起きろ)(もう一回『ヤマノススメ』とコラボしてほしいよぉ……)(いま気づいたんだけどアズレンの鉄血って「血」って字が入ってるから献血にちょうどいいんじゃないか? プリンツ・オイゲンが上から目線で献血を要求してくるポスターとか,どうすか)
似たような話題を似たような面子で似たようなコメントで殴り合うの見てるのは正直言って苦行なので、色々な所に飛び火するのは割とありがたい
勘弁してください.俺は楽しくオタ活や研究して気分よく献血したいだけなんです.献血ポスターを燃やされ趣味を踏み躙られた挙げ句に仕事にケチつけられるとかただただ迷惑でしかないんです……一部のフェミが放火してまわって一部のオタクが焦土作戦しかけてきてるのは巻き込まれた村人Aとしては消耗するだけなんだ……
これはっきり言っておくけど,去年のキズナアイバッシングに付随しての文系バッシングのときにも,私が書いた増田を読んで「こういうのが読めたのはよかった」と言ってる人大勢いたけど,私まだ根に持ってるからね.なんもよくねーよ.水が言葉を記憶しないことについてやたら解説が充実していたり数多の歴史的事件のなかで南京大虐殺にだけやたら詳細なFAQがあったりするのはちっとも良いことじゃねーよ.文系バッシングはこれっぽっちもありがたくないです.一部のフェミに好きな作品を燃やされてもちっとも嬉しくないのと一緒.宇崎ちゃんの売上は上がったらしいけどそれを素直に喜べるかといったら喜べないでしょ.宇崎ちゃんバッシングなんてない方が遥かに良かったわけで(もちろん表現の自由というものがあり,作品への批判をするなとは言わないのだが,しかしその批判をどう思うかというのはまた別の話で……).
社会学部に運動家が集中しすぎている。法学部や経済学部や文学部とは比較にならないほどに集中して存在する。社会学と社会学部全体がうさんくさいものとして見られるようになった。
社会学部なんて設置してる大学は少数派なんですが本当に印象論でしか語ってないんですねというのがよくわかる.偏見を正当化したいだけのノイズ.
この世界は全て物理法則に従って動いている、というのが本質主義なら実際それは多分正しいんだよなぁ…そこに戻れないのは単に人間の知性が追い付かないから「仕方がない」だけなので/クリーブランドはロリだから叩
学問的良心からはたかだか門外漢との対話なんぞのために本質主義を採用するなんてできませんわ.
社会学部を設置してる大学は少数派でたいていの大学に社会学部なんてものはないわけですが本当に印象に基づいたお気持ちで社会学を叩いているんですね(それとも,ひょっとして社会学部がある大学の卒業生なのかな?).
人によります.普通の句読点使う人とかカンママル好きとかコンマピリオド派とか.出版社だと東京大学出版会は横書きの本は基本コンマピリオドですね.岩波もそうだっけ?
「お気持フェミが自分のお気持の裏付けとして使用していますがそもそも関係ありませんし用法も間違っています」というならわかる。フェミニズムと深い関連があるなら批判に耐えるだけの論拠が欲しい
耐える以前の問題で批判側が雑すぎてマトモに相手してやる価値もないというだけの話なんですが.社会構築主義を批判するなとはもちろん言わないけど,批判の質が悪ければ歯牙にもかけないよ.当たり前でしょ.
というかそもそも,社会構築主義の是非と一部のお気持ちフェミの表現規制要求の是非って無関係だし.勝手にその2つを結びつけたのはアンチフェミの側.一部のお気持ちフェミには自由主義とか哲学とかのツールを使って対抗すればいい話で,社会構築主義を疑う必然性はどこにもないし,疑うっていうなら俺の立場は表現規制反対派のオタクから文系研究者に変わりますよというだけの話.文系研究者としては雑なアンチフェミの議論なんて支持できるわけないでしょ.一介の市民としてなら喜んで性的解放とか表現の自由とかを叫ぶけどさ.
本来ならそこは互いに削り合ってこそ信頼性が担保されるはずなのにおフェミさん達は互いにお手々つないで仲良しするからこうなの。社会構築主義の信頼性を担保したかったらおフェミがそれを乱用するのをたしなめろよ
マジで社会構築主義がフェミニズムのあいだでしか通用しない概念だと思ってんの? 馬鹿じゃないの? もう何度でも言うけど本当に馬鹿じゃないの?
文系の学問について無知なのは別に悪いことじゃないけど無知なのにこんな勘違いしたままでドヤ顔で物申すのは馬鹿で恥知らずだと思う.勉強しろよ.
社会構築主義はポスター批判側から確かにあんまり出てなかったけどいなかったかといえば居たような…。「表象」とかゆってた人はソレとは違うの?教えてください!
表象の話は『世界』5月号に載ってた小宮さんのやつかな? あれは社会構築主義とはあんまり関係なくない? いやもちろん関係ないということはないんだけど,小宮さんが言ってるのは表象と女性差別の問題だよね.
実のところ社会構築主義ってマジで社会について分析する上でのベースとなる考え方だから社会構築主義が滲み出てくるのはある程度仕方ないところはあるんだけど,anond:20191104014500でも書いたように社会構築主義の是非以前の問題だなと思うことはあるんだよね.ジェンダーは(というかセックスも)社会的構築物だけど,それは議論の前提であって,じゃあその上でどの程度の女性表象を許容すべきかみたいなそういう話は倫理とか哲学とか思想とかの領分じゃないですか.そこに社会構築主義はどうなんだみたいな話を持ってくるの不毛すぎない? ロールズとかの話しません?
ちなみに私は小宮さんの主張には反対するんだけど『世界』掲載論文の注10(236ページ)には同意する.みんなもっと本質的な話しよ.「そもそも男性だって公共空間で性的消費されてるんだから架空の女性が多少公共空間で性的消費されてたって別にいいじゃないですか」「性的自由の拡大が目指されるべきであって表象を制約しようとするのはおかしいでしょ」「医療のための広告には高い倫理性が求められるのだとしても,人気マンガの多少えっちなイラストを使った広告すら問題とされるのはおかしい.それは医療のための広告に求められる倫理の範疇に収まるはずだ」みたいな話しよ.
……この規制反対増田を多数の「お気持ち棍棒」で殴り倒して口封じし「パワフル表現規制」した方が、学問で論破するより遙かに低コストって事は確実そう。だから規制派は扇動するのか。なるほど、俺でもそうするな。
それは過大評価ですよ.私はフェミニズムに学問的反論を加えているのではなく,フェミニストの一般社会に対する主張の一部に対して一人の市民として反対しているだけだもの.私は知の体系としてのフェミニズムにはちっとも触れていないので学者としてフェミニストに勝つことはできません.それはジェンダー研究の偉い先生が私の専門分野で私に勝てないのと同じ.
気持ちはわかる。が、賛成批判両側ともに多数の人間がいる以上、雑でなんも考えてない意見は出るだろうし、そういう意見は大体過激でツッコミ所が多いから目立つんだよねえ。正直、どうしようもない気がする。
フェミニストのお気持ちで趣味を殴られるのもオタクのお気持ちで仕事を殴られるのも正直疲れ果てたというお気持ちがあるけど,でも流石に今回は献血ポスターが叩かれたということで全血献血15回以上行ってるワイもちょっとプチッと来たよね.これまでは割とフェミの言い分もわからなくもないという感じだったけどキズナアイバッシングと献血ポスターバッシングで「こいつらの主張は基本聞く必要ないな」くらいにまで変わった.メチャクチャすぎるものこの2件.でもこの2件でオタク界隈に吹き荒れた文系バッシングの嵐も忘れてないからね.キズナアイバッシングや献血ポスターバッシングを主導したフェミと社会学叩きや文系バッシングを煽ったオタクはどちらも僕の中では絶許という扱いです.あとpixiv論文事件での学問叩きのことも忘れてないぞ……(しつこい)
まあフェミのことなんて無視して表現の自由を満喫してオタクのことなんて気にせず学問の自由を謳歌すべきなんだろーけども,オタクであることも学者であることも私の重要な一部なので,そう簡単に忘れることはできないんだよなー.
あー、キズナアイの時と同じ人か。私の感想としては当時のこちら(https://anond.hatelabo.jp/20181010204115)の増田とほぼ同じです。ていうか、学問の重要さを訴えたいなら匿名じゃない場所でやったほうが効果的でしょうに。
ネット上の有象無象が学問をdisってるときになんで納税者様への説明責任みたいな話になるのか理解できんわ.科研費の報告書とかはちゃんと出してますし論文も書いてます.納税者様への責任はそれで果たしてるはず.はてブ民とか棘の米欄住人とかに丁寧に説明して差し上げる義理はどこにもないよね.
というかそういうこと言うなら同じ口で二度と民主党政権の事業仕分けを批判しないでほしいんだが……
匿名じゃない場所でやれ? 嫌です.自分の専門分野を誠実にさらけ出して物申した先生方がいたけど,どうなったかといえば物知らずの連中が学問分野ごと燃やしに来ただけでしょ.私は私の専門分野に無知と思い込みでケチをつけてくる連中を招き入れるつもりはありません.
あのさ,それは何一つ否定してないじゃん? 法学部や文学部と並んで社会学部って書くのはおかしいよねって話じゃん? 誰も社会学専攻は置いてないなんて言ってないじゃん? 学部の名前と学問分野の名称は往々にして乖離するもので,そんな肌感覚もなしに批判してるのかよって話じゃん?
ただ関西の方だと有名な私大には社会学部を設置しているところが多いので,関西の有名私大を出た人だと社会学部があるのは当たり前って思っちゃうかもしれない.関東の大学でも,例のキズナアイバッシングの急先鋒だったセンセの勤務先は社会学部だしね.けど繰り返すように全国的には社会学部を設置してる大学は少数派です.
「社会学部」と「社会学専攻」を混ぜて論じてよいと思っている人につける薬はありません.文学と文学部,法学と法学部を区別できないってことでしょ?
歴史学者や政治学者や文学研究者もヒウィッヒヒーには生息して色々発言しているわけだけど,社会学者への偏見があるから社会学者が目立っているように見えるだけでは???
実際のそれっぽくみえる行動だけで政治的イデオロギーを判断しているし、
本人からそれを聞きたくないの?
人間は思想は変遷していくんだから、過去の発言は過去の発言程度にしかならない。
ぶっこぬきの犯罪者だって? それを掲載していた各メディア側の責任はどうなる?
現在の展示も中止にした。
で、それからどうしてもらいたいのさ?
そのほかの展示物については気にしないのか?
気にならないのか? とりあえず祭りに乗って批判している人たちは
自分が政治家、運動家の拡声器として利用されている自覚あるのか。
結局無責任な発言だけして、それに乗っかっていたっぽい過去の上司の行動も大人気ない。
正義面してやっていることは報復じゃん。いい大人が何やってのよ。
どっちが擁護すれば、右派左派とか決められるものでもないし、作品に関する個人的な感想でも同様。
物事を単純化したり、とにかく答えを早急に求めたりしすぎなんだよ。
表現の自由とか不自由とか、それ以外の話を持ち出して風呂敷広げて結局わけわからんなくするよね。
で、ワンイシューで怒っている人たちに利用される。
今回の件とか吉本反社会問題とかで政治家の口出しが早すぎて、風呂敷が広げすぎているけど、
で結局どうしてもらいたいのか言えばいい。
実際のそれっぽくみえる行動だけで政治的イデオロギーを判断しているし、
本人からそれを聞きたくないの?
人間は思想は変遷していくんだから、過去の発言は過去の発言程度にしかならない。
ぶっこぬきの犯罪者だって? それを掲載していた各メディア側の責任はどうなる?
現在の展示も中止にした。
で、それからどうしてもらいたいのさ?
そのほかの展示物については気にしないのか?
気にならないのか? とりあえず祭りに乗って批判している人たちは
自分が政治家、運動家の拡声器として利用されている自覚あるのか。
結局無責任な発言だけして、それに乗っかっていたっぽい過去の上司の行動も大人気ない。
正義面してやっていることは報復じゃん。いい大人が何やってのよ。
どっちが擁護すれば、右派左派とか決められるものでもないし、作品に関する個人的な感想でも同様。
物事を単純化したり、とにかく答えを早急に求めたりしすぎなんだよ。
表現の自由とか不自由とか、それ以外の話を持ち出して風呂敷広げて結局わけわからんなくするよね。
で、ワンイシューで怒っている人たちに利用される。
今回の件とか吉本反社会問題とかで政治家の口出しが早すぎて、風呂敷が広げすぎているけど、
で結局どうしてもらいたいのか言えばいい。
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンはインディアンに対する差別や黒人奴隷プランテーションを大々的に行ったから、建国の父として讃えられることは間違っていると主張するニュース記事を見た。
個人的にはアメリカにもワシントンにも思い入れはないので、別に彼を擁護するわけではないのだが、このような考え方には違和感を覚える。あなたが彼だったとして、あの時代に生きて、奴隷制に反対という立場を取るだけの勇気があったのか?と偉そうなことをいってみたくなるのである。よく言う、時代性を考えれば妥当じゃないかというやつである。
どうして時代性という考えが生まれるのか。我々の倫理観はどうして進歩するのか。
人は、環境によってその生き方を変える。アイヒマンという有名なナチ高官がいた。彼はもともとは穏健派でマジメな公務員タイプの人間で、ユダヤ人はアーリア(ドイツ)人と隔離して生活させるべきという思想こそ持っていたが、虐殺することはやりすぎだと当初は考えていた。しかし、他のカリスマある過激派幹部党員たちと討論を重ねた結果、ユダヤ人はやはり根絶やしにするべきだと意見を翻す。
結果としてユダヤ人を虐殺する命令書にサインした彼は、当然のことながら裁判にて死刑を言い渡されるが、のちに、彼と同じような圧迫状態に置かれたときに人間が倫理にもとる行動を取るかを調べた、いわゆるミルグラム実験において、人間の多くは道徳より権威・安全・保身を優先することがわかった。
人を、倫理を、道徳を規定するのは環境だ。では環境を規定するのは何か?一体何が奴隷という怖ろしい制度を肯定する道徳を生むに至ったのか?
ワシントンの時代、奴隷労働による大規模なプランテーションなしにはアメリカの工業化は支えられなかっただろう。リンカンによる奴隷解放だって、北部の工業化が十分に進んだ結果、奴隷の需要が薄くなったのが原因のひとつだとされている。
彼らは、奴隷労働なしには生きられなかったのだ。少なくとも、奴隷労働なしにはアメリカは今日のような巨大工業国に育つことはなく、このグローバルな科学社会もいまほど繁栄することはなかったであろう。
環境を規定するのは科学技術だ。人類の知恵だ。我々の需要を、その時代の科学技術が満たしきれないとき、我々は一部の社会的弱者に負担を押し付けてやり過ごそうとする。これは時代を超えて起こってきたことだ。日本国内を見ても穢多・非人・部落など枚挙に暇はない。
奴隷労働という『悪徳』の恩恵を享受した我々が、そのことによって得た新たな道徳観で彼らを批判するとはなんだか皮肉だ。回顧主義によって昔の人の悪徳を批判するのもいいが、むしろ未来の人間に批判されるべき悪徳が自らに備わっていないか、我々はもっと考えるべきではないか。
非正規雇用労働者、医学部の不正入試問題、保育士や看護師と言った一部の職業の常軌を逸した低賃金労働、過密環境下での畜養エトセトラエトセトラ……これらは、数十年後科学技術が進歩したときにはおそらくほぼ解決されるだろうと私は考えているし、その暁には未来の運動家たちの回顧的な批判にさらされるだろうとも、私は考えている。
貧困にあえぐ非正規雇用労働者が労働者全体の数十パーセントまでをも占めるのはなぜか。会社に正規雇用者を雇って保険料その他の経費を払うだけの経営的体力がないからだ。会社が流動性の高い人手を求めているからだ。正社員がその要件を満たすようにするための仕組みがないからだ。それらの問題を解決し、全ての雇用者たちに十分な生活物資を与えるだけの生産技術を我々が持っていないからだ。
犬や猫といった一部の哺乳類が動物愛護法で手厚く守られているにも拘らず、同じ哺乳類でも豚や牛は毎日おびただしい数が動物愛護という概念につばを吐きかけるような環境で肥育され屠畜され死んでいくのはなぜか。そうしないと我々は良質かつ大量の動物性蛋白質を手に入れることができず、そして動物性蛋白質を手に入れなければ人は健全に成長することが難しいからだ。
女性が医者になることが嫌われるのはなぜか。女性が妊娠したときに、医療という絶対に穴を開けてはならない業務にできる巨大な穴を埋める方法が現在見つかっていないからだ。そもそも、女性が妊娠したときに長期に渡って休職しなければならないほど、医療技術やリモートワークが進歩していないからだ。
話はそれるが、医学部不正入試の際に、この問題を提起した人が炎上していた。女性が多くなると、その分医療従事者に負担が増えることになり、システム全体が崩れかねないと。日本に生きている以上、誰しもこの構造的な問題の恩恵を受けているはずなのだが、これを一方的に叩いていた人は一体何様のつもりなのか。さぞ時代を先行きする高い道徳心をお持ちなんだろうな、と思いながら見ていた。
もっと直接的な話をしよう。石油資源を燃やさないため、トウモロコシなんかの生物資源から取り出した燃料を使おうという動きはかなり昔からある。だが、もし今すべての車がバイオエタノールを使いだしたら何が起こるか。全ての森林をトウモロコシ畑にしたとしても、我々の消費しているエネルギーを生産するにはとうてい足りないのだ。つまり、バイオエタノール、生物燃料という考え方は(少なくとも現行の技術では)人類を支えるだけの力を持っていない。現在の我々は自らの使うエネルギーを自己生産することすらできないのである。そして、そのつけを払わされる社会的弱者とは、未来人たちだ。彼らは、化石燃料は燃やし尽くされ、大気の汚染され尽くした地球という大きな負担を押し付けられるのだ。
この我々の巨大な『悪徳』に対して、我々は未来人になんと言われるのだろうか。呪詛を投げつけられるのだろうか。それとも、時代性という言葉とともに、やんちゃをしてしまった子供を見るような目で許してくれるのだろうか。いずれにせよ、今のところは物言わぬ存在である彼らからは批判されないのを良いことに、彼らに莫大な負債を押し付けていることは間違いない。
我々は皆、生きていくために必死だということを言い訳に、平気で他者を踏みにじる、巨大な業を背負った罪人なのだ。そして、そうである以上批判されることはあるし、完全に正しく生きてかつみんな幸せにしようなどという幻想は捨てねばならない。様々な意見を取り入れ、熟慮し苦悩した末の自らの選択は批判されないと思ったら大間違いである。皆あなたと同じように苦しんで、罪を背負って生きているのだ。むしろ、我々の権利とは、自由とは、選択とは、もらった批判を受け入れるか、心の中でくさすか、そこにこそあるのだ。
理想論を語るにしろ、現実論を語るにしろ、それを受け入れるところから始めなくては、現代の社会問題に関する議論は的外れなものになってしまうだろう。