はてなキーワード: 運動家とは
これだけ説明してもまだ理解していないようなのだが、再度主張しておこう。ロリコン差別が不当であるというのなら、そのような言説に真正面から立ち向かうべきであり、それをせずにロリコン差別が不当だと増田でグチグチ言ってロリコンの正当性が社会から容認される可能性は万に一つもない。そして他のマイノリティの運動家の血の滲み出るような運動にタダ乗りして「ロリコン差別に文句を言わないのはダブスタ」「LGBTがOKならロリコンもOKですよね?」などとほざく乞食根性が気にくわない。戦わないなら、差別は差別のまま放置されるだけで、なぜロリコンに共感する必要性があるのか理解に苦しむね。ロリコン差別は不当である、という声明の一つでも発表してみろよ。それすらしてねーだろうが。
そして他のマイノリティの運動家の血の滲み出るような運動にタダ乗りして「ロリコン差別に文句を言わないのはダブスタ」「LGBTがOKならロリコンもOKですよね?」などとほざく乞食根性が気にくわない。戦わないなら、差別は差別のまま放置されるだけで、なぜロリコンに共感する必要性があるのか理解に苦しむね。
ほら、やっぱり「運動家じゃなきゃ人権はない、差別されて当然だ」と言ってるじゃん?自分の書いてることも分からないの?
まさか戦いもせずに偉そうな口聞いてないよね?
これだけ説明してもまだ理解していないようなのだが、再度主張しておこう。ロリコン差別が不当であるというのなら、そのような言説に真正面から立ち向かうべきであり、それをせずにロリコン差別が不当だと増田でグチグチ言ってロリコンの正当性が社会から容認される可能性は万に一つもない。そして他のマイノリティの運動家の血の滲み出るような運動にタダ乗りして「ロリコン差別に文句を言わないのはダブスタ」「LGBTがOKならロリコンもOKですよね?」などとほざく乞食根性が気にくわない。戦わないなら、差別は差別のまま放置されるだけで、なぜロリコンに共感する必要性があるのか理解に苦しむね。ロリコン差別は不当である、という声明の一つでも発表してみろよ。それすらしてねーだろうが。
予備知識をもっていたほうがスムーズにいくなら知識を持っているほうがいいし、
それを前提に話をすすめたほうが、結論に達するのが早いよね。
たとえば「イスラム教では豚食べないなんて損だねえ、あんなに美味しいのに。」も知識とそれを補強する素直な感想だよね。
別に食事を用意してもらう人でないならどう思われていてもかまわないですよね。
理解が自然に広まるまでは「ワタシは正確にはイスラム教ではないのでその話はちょっと」といって躱しておけばいいですよね。
あなたは新聞記者とか運動家とかではないんですよね。増田住民もなんか勘違いしてるけど別にここで運動してもなにも怒らないですよ。
じゃあ流せるところは流してけばいい。
だって自分とは別に(とあなたが思っている)意地悪をしている京都人が実在する以上、それを身近な人とかが治すことでしか京都全体のイメージなんて改善できないでしょ。
どうしても食事とか命にかかわるなら理由を上げてとことん戦うことになるよね。
もちろんそれが必要になる場面も世間にはあるけど、増田はSNSレベルの交流場所だろ。
増田では今まで京都吊し上げとかしてないでこの話を出してきてるってことは
躱せばいいレベルのお悩みかなとおもったんですけどね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.anlyznews.com/2018/10/blog-post_29.html
まあ学者じゃなくて運動家・活動家でしたって話で終了っちゃ終了なんだが。
しかし悪意を持った気に入らない論敵が現れたなら、それを理屈でめった切りにしてこそ学者だと思ってたんだけど。
「私の理屈はここまでです。理解できないならここで終了です」ってこれが学者のやることかねー。
そのままアイボリータワーに引きこもって優しい世界で閉じていきそう。
いや、そうなるならまだマシで、香山リカ化する恐れもなしとしないなー。
学者なら「分かってくれる人だけ分かってくれれば」的な態度取り始めた時点で腐敗が始まってる。
昨今の流れでは、お気持ち、と揶揄されがちだが、他者の感情に対する配慮自体は確かに重要なことである。
というのも、ちょっと前までの人権っていうのは、個人の感情というものを全く無視していた。弱者への保護は、「無知のヴェール」で有名なロールズ流の功利主義的な操作によってのみ正当化されていたし、そうでないといけないと考えられていた。だって客観的論理的に議論を進めるには、感情を無視した功利主義を使うしかなかったから。
でもそれじゃあやっぱり理屈から取りこぼされるものが出てくるし、そもそも現実に即してない。現実の人間は感情を持っていて、感情に基づいて人を助ける。もし自分が弱者だったら、とかいちいち想像力を働かせて人権を守ってる奴なんていない。
理屈にならない感情、個人のお気持ちに対する配慮、共感こそが人権を守る本当のキーなのだ。
そういう事を言い出したのがだいたい20世紀後半だ。「相手の気持ちを考えましょう」と俺も学校で教わった。
でもここでKKOとかの話が問題になってくるわけだ。
キモいオッサンに共感する人は少ない。人権の話をしているのに、*ただイケ、みたいな事が起きてしまう。
そもそも昔、ロールズが功利主義で人権を定義づけようとしたのは、そうしないと平等には出来なかったからだ。なのに功利主義を捨てて共感メインに走ったら、それはもちろん不平等・身内ひいきになる。そういう批判は昔からされていたが、ポリコレ運動の結実とSNSの普及が始まった2010年代になって、現実社会で危惧が顕在化してきた。
増田やツイッターの上っ面だけじゃなく、もっと別の文脈でも、このような批判は、既に始まっている。
https://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2018080275981.html
「でた、お気持ちー!」とか揶揄している人たちが本質的に求めているのは「お前の気持ちはいいけど俺らの気持ちは?」ということだ。ヘイトスピーチを広めるネトウヨたちにも気持ちはある。しかも彼らは往々にして低所得者で、つまり社会的弱者だよ。人権運動家が彼らと敵対するしかなかったの、ほんと思想的危機と思うわ。
かといって、今更ロールズに戻るわけにもいかず、一体どうするんだろうね。
---------------------------------------------------------
たくさんのブクマカありがとうございます。
>一体どうするって、やはり戦争が続くのだろう
ですかね。
このエントリは、言及先の増田を見て、個人的には戦争以外の何か包括的な考えがないだろうか、という思い付きから書いたものだったが、「そんなもんねーよ」と言われたら、うーんやっぱりかーという感じ。
弱者のみを都合よく救うことなどできない、という話も胸にささった。こうなるともうネットで正義を議論すること自体が不毛で愚かだ。それもやっぱり感ある。
貴方がたは正しい。
男どもは貴方の父親や夫じゃないので、貴方が性行為に恐怖していてもしったこっちゃない。
このエントリは、そんなしったこっちゃないの殴り合いでいいのか?という思い付きを記したものだが、やっぱ殴り合いはするしかないのだろう。
あそうか、変な言葉使ってしまった、というのが正直なところ。教科書にないことを書いた。
しかしやはり僕は、ロールズは実際に功利主義の一派だと理解している。正義論は功利主義批判とは言われるが、その内容はつまるところ「無知のヴェールみたいな仮定を置けば、功利主義でも弱者を守れる」であって、遅れてきた修正功利主義といって差し支えないと思う。しかもその理論は、ロールズ批判に重箱の隅をつつかれまくって最終的に破綻したように思われ、その根本原因はロールズが功利主義的であったからじゃないかと思う。
ロールズ後に現れた共感、と書いたは現代フェミニズムの源流の一つ?であるケアの倫理の登場を念頭に置いており、フェミニズムの皆様がお気持ち理論を繰り広げるのは明らかに「ケア」の影響のはずだ。しかしそれは先の述べたように社会全体としては争いを誘発するものであるようだ。
そういう自分の中のぼんやりした理解を、雑に社会学史一般に当てはめてしまったのは、やはり失敗だったのだろう。まさかこんなに読まれるとはね。
じゃあなんであんなに偽物ばっかりが幅を利かせて偉そうにしてんの?
どう観ても学問じゃなくてツッコミどころ満載のエッセイもどきを学者でござい、って出してるやつが教授になってんの?
偉そうにしてるフェミの重鎮が「データを隠すことも悪いことだと思ってない」なんてぶっちゃけてふんぞり返ってんの?
腐敗してるのは大前提で、論文の評価は関係ないとすると、どこに腐敗の原因があるの?
社会学の教授といえば、ろくにまともな講義もせず、演説のような愚にもつかない話を延々と講義中やってた。しかも内容が薄っぺらだから非常に評判悪かった。
社会学入門は面白そうな学問の匂いがプンプンしてたのに、やってるやつは完全にやばい。
研究室に行ったらフィールドワークと称して観光に行き、行政をdisってるだけの、ばかみたいな運動家の卵がゴロゴロしてた。
本気で学問したいのなら、あそこだけは止めろと親しくなった上の人間は口々に言ってたよ。10年前からそうだった。
なんであんなんなんだろうか?
なぜだ?
metamix 英語論文なぞいらん日本語で事足りるって話はまあいいけど、理系なら学部生ですらやらされることを文系だと教授クラスでもやらなくていいんだーフーンみたいな感想
お互いの分野で必須タスクが違うだけだろ……英語以外の外国語を読まなくていい理系はずいぶん楽ですね,って言われたらどう思うよ? 私は修論書くにあたって複数のヨーロッパの言語読んだし,東洋史だと修士でも複数の現地語+複数のヨーロッパ言語を読むのが当然みたいな分野もあるけど,理系は英語だけ読んでりゃいいんだっけ? ふーん.
dot 学術言語は一理あるとも思うけど、査読有りが理系のローカルルールという言説には面食らう。記述言語も査読有り無しも最終的には学術論文としての品質をどう担保するのかというところに帰結すると思うんだ。
slimebeth この問題、英語も査読も不要、理系が絶対と思うなみたいな捨て台詞をいろんな人が吐いてくのに「では代わりにどういう制度や方法論で研究の質を担保してるのか」を未だに誰も一言も言わないの底知れぬ闇感すごい…
本当に疑問なんだけど,こういう主張するひとたちって「まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される」っていう箇所が読めてないの? 査読つき雑誌はある,査読つきの業績は重要である,しかし査読がないからといってダメであることを意味しない,ってそんなに難しい話かね.
ていうかこういうひとたち,普段は査読通った論文なら無批判に盲信してるんですか? 論文は批判的・懐疑的に読まれ,瑕疵があれば後発の研究によって批判されたり乗り越えられたり無視されたりするものだ……というのは文理を問わぬ学問の常識だと思っていたのだが,「査読がないとどうやって研究の質を担保するの?」などと吐かす一部の理系はどうやら査読を通ってさえいればアッサリと先行研究を信じてしまうらしい.どっちが権威主義なんだか.
reuteri ペレルマンは査読されてないが多くの人から批判的にチェックされるでしょ?そのチェックの有無が科学にとって重要で、「学界の権威が言っているから正しい」という世界は科学ではないのですよ。日本語については同意
藁人形叩かれても困るんですよねぇ.
theta 日本には日本のXX学、米国には米国のXX学、印度には印度ののXX学があって相互に互換性が無いのなら、それは普遍性のある学問なのかなという疑問がある。
こういうレベルの説明から始めなきゃいけないの本当に馬鹿げてると思うんだけど,日本の西欧研究なら西欧諸言語の先行研究は当然追いかけているし,英語圏の日本研究者は日本語の先行研究読んでますよ.ドイツ人のドイツ史研究者と日本人のドイツ史学者は同じ学問に従事していて,同じ問題意識を共有している.ただ,日本の西洋史研究は日本の歴史学という別の文脈の中にも置かれていて,そちらから影響を受けて「日本の西洋史研究」独自の色を出すこともあるし,アメリカでは日本研究者と東南アジア研究者が共同プロジェクトで独自の問題意識を深めているかもしれない.そういう意味で各国の研究には多かれ少なかれその国の事情に根ざした独自性があるわけ.そして,時には「本国」以外での研究潮流が「本国」での研究に影響を及ぼすことだってある(たとえば前世紀末から今世紀初頭にかけてのアメリカのソ連史研究が典型的かな).日本の中国学はフランスや台湾の中国学と微妙に違っているかもしれないけれど,それでも同じ中国学なんだ.
kingate だとして。最先端は何処よ?学術・研究論文で最先端に批評貰う必要があるんじゃねぇの?ローカル内容でも批評貰わんと正否は出ないでしょ、総論として。で、あの学者モドキはその総論に後ろ足で砂掛けたの。
分野によるとしか言いようがないし,別に最先端は複数あってもいいんじゃないかと思わなくもないが.たとえば私が研究対象にしている地域については間違いなく英語でのショボい研究蓄積なんかよりも現地語での研究が最先端だけど,私は現地での最先端の研究をフォローしているし,現地人の使っていない資料とかも使って彼らと勝負しているつもりでいるよ(現地人だからこそ盲点になってる資料みたいなのがあるんだよなぁ).
iyochoo 国内のアカデミアを重視するか、世界のアカデミアを重視するか。両方の言語で書いてくれると助かる人が多いです。
「世界のアカデミア」なんて幻想で,各国別のアカデミアが併存してるんだよなぁ.もちろんそれらの間に橋を架ける必要はあるけれど.
(……)恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。(……)
ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.
そもそも,査読はあるし重要だが,査読がなくても良い論文であれば評価の対象たりうる,という話を少なくとも私はしていたわけで,それを「査読文化がない」と要約されても困惑するわけですが,まあ全ての論文が査読を受けているわけではないという状況を「査読文化がない」と書いているのだろうと好意的に解釈するとして.
当たり前ですが文系でも「レベルの高い査読誌」「査読はないがレベルの高い雑誌」「レベルの低い査読誌」「無査読紀要」ではチェックの優先順位や論文の重みは違います.当たり前ですね? 査読はしていないけれど,その分野では定評がありよく読まれる雑誌,というものが存在し,たとえばそのへんの査読をつけた院生向け紀要とかよりも圧倒的に読まれる,というような状況がある中で,査読がないからといって無価値扱いするのは不当だ,という話を私はしていたわけです.
なので,ニッチだけど優れた研究をしている人は,よく読まれる媒体に論文を投稿すればよろしい.というか人文系の研究対象って,研究水準の深化に伴ってどんどんニッチになっていく傾向があったりしますしー.
そもそも人文系の多くでは被引用数を重視する文化はあまりありませーん.理由のひとつとして「正確な被引用数を測定するのが困難」というのが挙げられます.著書も業績になり得る上に各国が自国語で研究する世界において,外国語も含めた紙の本での被引用数なんて管理しきれないのでー.私も自分の論文の被引用数なんて知りません.外国語で書いたやつは3ヶ国語くらいで引用されて,日本語のやつも紙の本に1回引用されたかな? でも他にも引用されてるかもしれないので,これは最低限の数字っすね.周りで被引用数なんて気にしてる人見たことないなぁ(私に指摘されて初めて自分の論文が他人の著書に引用されてることに気づいた先輩とかいたっけ).そもそも,引用されてむっちゃdisられてても1回引用とカウントするわけですよね? それ本当に論文の質の指標になるんですか?
(……)一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。(……)
それはアメリカの社会学者が自国語で論文を書いているだけでは……?
というか,日本語圏の社会学者でも英文学術誌に投稿してる人はいますし,英文学術誌に投稿してる非英語圏の学者でも,それとは別に母国語の論文書いてたりしますし.英語以外の言語での論文が載ってる社会学の学術誌,探すとあちこちにありましたよー.
韓国語> http://www.ksa21.or.kr/kjs/
中国語(簡体字)> http://sociology.cssn.cn/xskw/shxyj/
中国語(繁体字)> http://tsa.sinica.edu.tw/publish_01-1.php
ロシア語> http://www.isras.ru/Sociologicalmagazine.html
フランス語> https://journals.openedition.org/sociologie/index.html
ポーランド語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=240
リトアニア語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=1027
カタルーニャ語> https://www.raco.cat/index.php/RevistaSociologia/index
ところで日本社会学会は和文雑誌の『社会学評論』以外にもちゃんと英文の学術誌持ってるんですよねー> https://onlinelibrary.wiley.com/journal/14756781
いやほんと,テキトーな知識でよその学問分野に軽々しく口を出して,正しいこと言ってるならともかくめっちゃ的外れとか,生きてて恥ずかしくないんですかね?
death6coin “ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.”攻撃的ですねぇ
理系の研究事情や査読制度を知りもせず「理系の研究は権威主義だ! 定説にとらわれて思考が硬直している!」とかわめく連中に,これまで理系のひとはどんな目線を向けてきたっけ? 冷ややかな目線を向けて嘲笑ってきたよね.もちろんそれはまったくもって正しいよ.理系の事情を知りもしないのに思い込みで的外れな批判をするのは愚かな行為であり嘲笑に値する.文系に向けて似たようなことをわめく連中にも同様の態度を取らせてもらうというだけ.
これは本当にそう.最近だと三元社なんかが琉球諸語・日本語対訳の出版物を出していたりするけど,言語復興運動家の著書とか学術誌のコラム止まりで,琉球諸語で書かれた学術論文は残念ながら見たことがない.琉球諸語は最近書記法の整備とか色々進んでいるから,今後はそういう方向に期待したいよね.もちろん琉球諸語で書かれた論文を査読できるひとはそう多くないと思うけれど,査読なしで論文を発表することも許されているという文系の事情を積極的に活用して中身のしっかりした琉球諸語論文を発表していくひとが出てきたらいいなと思う.
それに対しては2つの論点から応答したい.1点目に,「日本語は過去の豊かな蓄積を持ち,現在も多くの学術論文を生産し続けている言語である」という前提条件を忘れてもらっては困るということ.日本について研究している学者は日本語で論文を書くわけで,この点が方言とは違う(大阪弁を研究する者のほぼ全てが標準語で論文を書いているし,山形弁で書かれたヨーロッパ史の高度な研究は現段階では存在しない).
第2に.もちろん書いていいです.少数民族が独自の民族として生き残っていこうとするには何らかの形で文章語を持つことが(必要ではないが)望ましく,実際にヨーロッパでは人口数万人の少数民族でも自分たちの言語で書かれた学術誌を持っている場合もある(もちろんその場合,当該言語や当該言語で書かれた文学,当該民族の歴史といった限られたテーマについての論文を書くので精一杯だったりするのだが.ちなみにそういう少数民族の学術誌に少数言語で論文を載せてる日本人研究者もいる).それに,言語と方言とのあいだに本質的な違いはなく,たまたま政治権力を持ち規範が整備された言語変種が「言語」とされ,「言語」と見做されなかった地域的変種が「方言」と見做されているだけ,というのが社会言語学の常識であり,実際に気仙沼方言は方言ではなく独自の「ケセン語」だと主張して聖書を翻訳したお医者さんなんかもいる.上で書いたように,宮古語と日本語のバイリンガルのコラムを載せている学術誌もある(コラム止まりで,論文ではないけど).なのでたとえば,鹿児島大学で薩摩弁を公用語にした紀要が出版されてもよいと思うし,もしその紀要に優れた論文が次々に掲載されたとしたら先行研究を読むために薩摩弁を学ぶひとも出てくるかもしれない.そしてそれは,悪いことでは決してない.
きゃーお恥ずかしい.ご指摘ありがとうございます.訂正しました.
そうじゃなくて少数意見=異常って見方は組織全体として非常に危険思想だからやめとけって話。
全体主義というなら開戦に向かった日本なんてまさに帝国主義に染まってたじゃねえか。
赤軍もファシストも問題なのは全体主義になっちまうことでしょ?
少数意見にもそれなりの理由があるんだから、それを分析して考えていかなきゃおかしな方向に簡単に曲がってしまうってことを俺は言ってんの。
すぐに左翼だとかいって気に入らないやつはレッテルを張って沈黙に追い込む方がキチガイ。
それに理解できるかどうかが変革できるかどうかの分かれ道。
もっと言えば資本主義がファシストや社会主義に勝ったのは少数派意見が比較的通りやすいってところだから。
今資本主義が標準になってしまったせいで対比する相手がいなくて、また少数意見への風当たりの強い世の中になってきてしまった。
時代を撒き戻すのもいい加減辞めて欲しいもんだ。