はてなキーワード: 言わずもがなとは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/ryukyushimpo.jp/news/entry-1411336.html
日本縦断2800キロを徒歩で挑む 18歳の比嘉さん、きょう波照間を出発
道民です
このニュースでブコメ欄が賛否手斧の投げ合いみたいになってるけど
明らかに真冬の北海道本当に危ないから単純に心配している勢にまで嫉妬だの挑戦を否定するなだの言うブクマカはちょっと落ち着いてほしい
多分だがかつてあったこの二つの凍死事故のニュースが今でもずっと頭の片隅に残って離れない北海道民は多いはず
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK03017_T00C13A3000000/
https://mainichi.jp/articles/20190118/k00/00m/040/201000c
猛吹雪「ホワイトアウト」で家見えず 自宅数十センチ手前で凍死 北海道当別町
全国ニュースやワイドショー的番組でも結構大々的に報道されたので覚えてる人も多いかなと思ったが、
温暖な地域の人にはそんなに実感を持って迫らないニュースだったのかもしれない…とブコメ読んで思った 改めて上の二つの記事を読んでほしい
斯様に冬の寒さや雪に慣れているはずの道内在住の人間であっても、自宅がすぐ近くにあってさえ冬の北海道で凍死事故は起こるのである
(山岳事故等(夏のことではあるが同じ低体温症死を引き起こしたトムラウシの遭難は忘れられない…)なら言わずもがなでありこれ以外にも恐らく過去に例があるので少し調べてみてほしい)
まして沖縄から来て徒歩で真冬に、しかも野宿で北上せんとしている若者を心配しないわけあるか…
札幌や都市部ならまだしも山間部や海岸部の道は吹きっさらしの寒風どころではない寒風が吹いたり車も埋まって中の人間が逃げられず死ぬほど雪のどかどか積もる道であり
かつ数キロ~数十キロも民家や施設がない区間もあるのにそこを徒歩で行こうというのに心配しないわけあるか…
そこで暴風雪に突然行き会ってしまえば簡単に死ぬ これは脅しでも想像力が足りないわけでもなく、単に事実なのだ
意見の違う人をただ打ち負かしたくて机上のバトルをやっとるだけの人がいるわけではないのよ…
そりゃ本人の熱い意志があるのはわかるんだけれどその挑戦自体はいいと思うのだけど、
若い人間の命を危険に晒すようなことを無知に無邪気に応援するのはちょっと罪深すぎるし注意喚起しないのは道民の沽券にかかわるところだと思うので一応書いておいた
ブコメの"広島あたりで寒さのあまり中断して現地でバイトしながら春を待って初夏の北海道に到着とかいいじゃない。"
にめちゃくちゃ賛成である せっかくならのんびり楽しんでやってほしい いろんなところのいい季節の景色をゆっくり見ながら歩いてくればいいよ 死なんでくれ…
まあ北海道にはブギウギ奥の細道っておバカなテレビの企画があったけれどもあれは日程が飛び飛びで中断した地点からの再スタート方式、
ぐだぐだ独り言言ってるだけだから時間を無駄にしたくない人は読まない方がいい
前から自己保身のためにしょうもない嘘をつくクセがあった。片想い期間が長かった彼氏に付き合って三ヶ月で二股かけられて振られたのが恥ずかしくて、彼氏のことを知らない友達に半年付き合った後自分から振ったって嘘ついたりなんだったり。
あと、数年前、はてな匿名ダイアリーで盛った話をアップするのにハマってた。まるっきり根も葉もない話じゃないけど知り合いに言ったら虚言症だと思われるレベルの嘘をついた。本当は甲子園準々決勝決勝敗退なのに、決勝進出した、みたいなね。
恋愛とか勉強とか頑張ってたことがことごとく途中でダメになって、だけどプライドだけ無駄に高すぎたからダメだったよって素直に友達に言えなかった。現実をうまく咀嚼できなかった。
ネットの中ではいろいろが叶ってる自分になりきっていたかった。
だけどそういうごっこ遊びにすぐ虚しくなって、はてな匿名ダイアリーの利用をやめた。
それから数年後の今日、私がはてな匿名ダイアリーにログインしたのは一人の夜がなんとなく寂しくなったからだ。まあこういう人間ですよ。惨めなぼっちは、しょうもない嘘松話に二、三個だけついてた温かなコメントを見たくなったんです。さもしいですね。
でさ、ログインしてみてびっくりしたんだ。二、三個しかコメントついてなくてブクマも多分ゼロだったはずの私のしょうもない嘘松話にめちゃくちゃブクマとコメントがついてたからだ。なんで今更掘り返されてんの??あれかな、誰かの返信がめちゃくちゃセンスがあって面白くて連鎖的にバズったのかな、とか思った、だけど違った。ファクトチェックで嘘がばれてぼこぼこに叩かれてたのだ。
なんか、血の気が引いて、バズってもない数年前の投稿のファクトチェックを丹念にする人ってのがインターネットにはいるんですねーこういう嘘ってバレるんですね、インターネットリテラシーを体で学びましたごめんなさいあはは、みたいな気持ちにはまあなった、なったんだけどそれ以上になんだかな、まあ恥ずかしくなったよね。
そりゃそうだって感じなんだけどさ、その恥ずかしさがなんというか、嘘をついていたことがバレた、人としての倫理にかかわる恥ずかしさとか話盛ってて現実のぱっとしなさが露呈した恥ずかしさもあるんだけど、なんというかもっと深い羞恥心?が重くのっかってきたんだ。
私はそりゃ、いろいろうまくいかなかったけどさ、自分なりに頑張ってはいた。それで甲子園の決勝には進めなかったけど準々決勝までは行った(もちろん甲子園というのは例えです、言わずもがな)。試合でそんなに活躍できなかったけど、少なくとも鬼コーチのしごきには最低限耐えた。
だけど決勝進出って嘘ついた瞬間、私は夢を持って白球追いかけてた私自身を、なんとか生きてた私自身を恥ずかしいものとしてドブの中に捨てちゃってたんだ。はてな匿名ダイアリーだけじゃない、現実の至るところで私は本当の私に「死ねよ、お前はいらない」って言い続けてたことに気づいた。こんなこと言うとありがちな自分を愛そう系自己啓発本みたいだけども。
こういうこと言っても狼少年的に嘘だと思われるかもだけど、こんな私にも気の置けない友達が少しいる。支配的な親との関係で病んでたとき関西からわざわざ飛んできてくれて、話を聞いてくれて、実家を出ることに対して背中を押してくれた幼なじみもいる。まるきり孤独というわけではないのに、ずーっと孤独感が抜けなかった。それは親子関係の不和もあるだろうけど、というか根幹はそれかもしれないけど、今の私自身の問題として考えると、私が私自身のダメなところを認めて、受け入れてあげなかったから、っていうのがしっくりくる気がした。
だけどファクトチェックによって嘘が浮き彫りになったことによる羞恥が分からせてくれた。
あと繰り返すようだけど嘘やごまかしってなんだかんだバレるんだって教えてくれてありがとう。というか倫理的に良くないよね。過激な正義厨を全肯定する気はないけど、自分も他人も貶める普通によくないことしてました。反省してます。
個別指導塾で4年ほど働いている。
自分の働く教室ではカモ、いやもはや詐欺といってもおかしくないレベルの指導のゴリ押しが横行しており、やるせなくなってきたので一部を書く。
まず初めに言っておきたいことは、個別指導塾に来る親子には総じてバカが多いということである。
そして親の方は受験の知識もノウハウも何も持ち合わせないまま、とにかくプロに金さえ出せば合格に導いてくれると思っているバカ親だ。
こういう親は集団指導塾に行っても子にどの授業を受けさせればいいかわからないので、全部”おまかせ”でやってくれるオールラウンダー、1対1で見るからに高級感のある個別教師を信じてやってくるわけだ。
相手が受験の知識を一切持ち合わせていないと知るや、無知に付け込んで甘言を流し込み、本来なら手の届かないような難関校にも合格できるかも、と思わせる。
どうです、今ここで1年頑張ればその後の人生が大きく開けてきます。僕たちと一緒に頑張ってみませんか。
そして「難関校に合格するための」大量の授業を素早くセッティングしてしまうのである。
というのも、模試を受けると生徒の悲惨な学力が明らかになってしまい、親子が夢から覚めて正気に戻ってしまうからである。
なので、実力がつくまでは逆に負担になるとか、模試は直前期だけでいいとか適当を言って外界と接触させないようにする。
過去問も解かせない。
外界と接触させないというのは問題もそうで、大学受験レベルになると流石に青チャートとかの一般書を使うんだけど、小学~中学くらいなら塾が用意したお手製のプリントとかを使う。
客観的に判断して内容は間違ったこと言ってないし、まぁよくできてるプリント。
だけど全てが塾の中で完結していくので依存度が高まるという点で注意。
ここが一番の詐欺ポイントで、受験に関係ない科目を授業の山の中に紛れ込ませてしまうのである。
例えば本来は「数学Ⅲ」が必要な生徒なのに、まずは基本を固めましょう!と「数学1A」を延々とやらせてしまうとか。
もしくは9割が文法問題を占める英語の試験なのに、長文読解の対策授業を受けさせるとか。
親子はハイハイと言われるまま授業を受けているので気づかないの。
信じられないと思うだろうが、サロン的な個別指導塾に来る親子は本当にこのような、自分の頭で考えない人が非常に多いのである。
個別指導に来る子の成績不振の原因というのは、大体が「復習が自分でできない」ことに収束する。
集団指導塾に通う生徒や塾を必要としない生徒は、受けた講義の復習を自宅でして...という良サイクルができるのだが、個別指導の子は復習ができない。
だから自分1人で勉強してもちっともわからないけど、先生に質問しながらやるとできるぞ!ということで講師に依存していく。
本当は少しずつ講師を脱却して自習サイクルを身に付けないと受験では戦えないのだが、そんなことを言っていては個別指導塾も商売にならないので、より講師に依存させていくのである。
親子が成績が伸びない...と不安を吐露しはじめたらチャンスで、じゃあもうちょっと頑張りましょうか!と更に授業を増やしてお金を取る。
本来生徒に足りないのは家での反復復習なので、教室での新たな知識の詰め込みを増やすのは悪手。
やっぱり成績が伸びない...→じゃあもうちょっと頑張ろう!の無限ループでどんどんと授業が増え、親の財布も子の体力も擦り減っていく悪循環。
終いには反復復習も塾内でやるようになっていって、1つ専用の自習室があって、そこに缶詰で勉強する。
部屋には常に1人講師がいて質問に答えたり雑談したりして生徒と仲良くなっていく。
仲良くなるだけなら全然いいんだけど、塾やめたいけどあの先生がいるし辞めると気まずいし...とか言い出したらヤバいから早く辞めた方がいい。
いいように振り回された子どもには、基礎的な力は全くついていない。
無理な範囲の勉強と日々の授業ラッシュをこなしボロボロになっているので、言わずもがな学力は悲惨なものだ。
そろそろマズいな、と思ったところで漸く模試を受けさせる。
そして模試の結果にショックを受ける親子に、ここまで頑張ってきましたが残念...しかしまだ希望はあります!今からこの大学に向けて必死に勉強しましょう!!とかなりランクの落ちた大学を勧め、適当に勉強させる。
大学のランクをかなり落とすので、あれだけ高いお金を払って勉強した数Ⅲも難しい長文も出ない。
最初から身の丈に合った大学を目指して勉強していればあんな高額で無茶スケジュールの授業なんて受けなくてもよかったのに。
一部の個別指導塾ではこのような詐欺レベルの商売が平然と横行している。
自分の頭でちゃんと考えられる親子にとっては、個別指導は適切なサポーターとなりうる。
バカなので自分たちがカモられていることに最後まで気づけない。
もっと酷いと、受験ストレスで疲弊した親子が家庭内で衝突したりして子の成長に悪影響を及ぼす(実際そういう生徒も見てきた)。
自分もカモられていることに気づいたときは生徒にそれとなくプランの見直しを勧めたりしているが、自分1人の手ではどうにもならないのが現状である。あ~あ!
バカは搾取されるだけなんだ...バカを治すために入塾する塾でもこの有様。
どうしたらいいんだろうね?
【追記】
思ったよりたくさんの方に見てもらえているようだ。ありがとうございます。
当たりです。
ポスターになるような輝かしい実績を持つ生徒っていうのは、ぶっちゃけ最初から頭が良い生徒。
個別指導の塾っていうのは集団指導に比べるとちょっと特殊で、最初は落ちこぼれだったけど頑張って成績上位に!みたいな子は実はかなり少ない。
最初から成績上位の子が入ってきて、それが更に伸びて輝かしい合格を掴む、っていうケースが大半。
つまり、できる子は自分の苦手なところもよく理解しているので、その苦手部分だけ効率よく週1回の授業を取って、あとはこっちが何も言わずとも勝手に勉強してくれるのである。
この点集団指導だとどうしても大多数に合わせたカリキュラムになっちゃうから、賢い子ほどオーダーメイドの個別指導を上手く使っているという感じ。
塾があれこれ言わなくても自分で模試受けて次はここの授業をお願いします!って頼んでくるし、それで合格実績にカウントできちゃうんだから気楽なものである。
纏めると、成績上位の子ほど少ない授業料で最大効果を出すので、その分の金はカモの子から引っ張っているのだ。
集団指導の塾では成績上位の子には奨学金が出たりするみたいだけど、落ちこぼれほど負債を背負い込む構図はどこでも一緒なんじゃないかな。
おっしゃる通り。
勿論最初から模試をちゃんと分析して、面談できちんと質問してくる親もたくさんいる。ただ、そうでない親も、結構いる...。
あと、確かに自分の教室はかなり悪質なものだと思うが、仮に悪意がなかったとしても結果的にこのようなケースに陥ってしまっている親子は多い。
塾側が誠実にしっかりスケジュールを組んだとしても、子の学力が予想を下回っておりスケジュールについていけなくなるパターン。
親子塾ともにやる気はあるのでなんとかしようと更に授業を詰めるけど、効率が落ちる悪循環。
全員が焦ってしまい、直前講習や補習に金を注ぎこむも結局は不合格、というように。
良くも悪くも塾と親子の距離が非常に近いので変な連帯感というか、駄目な時の文化祭前夜みたいになってしまっているのをたまに見かける。
時には退くことも大事だし、厳しい言い方になるが、そのお金を本当に今この子に注ぎ込んで後悔しないかじっくり考えた方が良い。
一理ある。一理あるが、それでもあえてバカと呼ばせてもらう。
いいか、世の中にはほんっとにどうしようもならないバカだっているんだ。
自分だって悪人じゃないからカモられてる親子を見つけたらこっそり生徒に話を聞くし、後述するお楽しみ会の時とかにそれとなく話を聞くよ。
でも駄目なんだよ。駄目なんだ。終いには心配するこっちが「人の指導に口を出す迷惑な講師」ってことになっちゃう。
子どもも子どもで金持ちのボンボンなんだか知らないがそもそも人の話を最初から聞かないやつも多い。
一応言っておくけど障害とかストレスとかじゃなく、ほんとにただこっちを舐め切っているやつとか。
答えのプリントを写してやってはいけないことを懇切丁寧に説明して、じゃあ問題解いてと言ったら目の前でまた答えをガン見し始めた時は度肝を抜かれたね。塾に来ないでくれ。
そんな中でも本当の被害者、つまりバカ親の下で振り回されるよわい子どもみたいなのは一定数いて、そういう子を見ていると本当に辛くなる。
子どもは親を選べないし、塾も選べないもんな。親は金だけは持ってるからな...。
これ!これはかなり気をつけてほしいところなので書いておく。
1人捕まえたらねずみ算式に人を呼ぶために、今度は捕まえた子を勧誘者側に取り込んでしまうんだ。
教室にはすごろくのポスターが貼ってあって、1人勧誘して教室に連れてきたらすごろくのマスが1進む。
一定のマスまで進むと「ガチャ」が引けて、ガチャポンマシーンを回して図書券だの消しゴムだのを当てる。
生徒も結構ガチャ中毒というか、フォートナイトのスキンの話ばっかりしてる子とかもいるのでやった~!となってしまうんだよね。
あとは教室内で定期的に「お楽しみ会」を開く(この時期ならハロウィン会とか)。
お菓子をいっぱい用意して、塾生じゃない友達も誘ってあげてね、って生徒を学校に送り出し、勧誘させる。
お楽しみ会には親も参加できるので、友達の輪、ママ友の輪から更に入塾者が増え...みたいな。
こういう塾ってもう内装とか人の話し方がかなりオンラインサロンっぽくて、あっヤバいな、と一瞬でわかる雰囲気があるのだけど、サロン文化に嵌った親には寧ろ意識の高い良塾として映ってしまうらしい。
本当にそうです。
全員が善意でも結果としてこのようになっているケースもある。
大手でも全然あります。大手でも教室ごとに個性がかなり出るし、上記のような手で業績を出してる教室も確実にあるだろう。
外から見れば綺麗でも、中に入ると全然違って、何かがおかしいのに指導されている子ども本人は気づけなくて、親も駄目で、全てが狂っていく家族は世の中にいっぱいある。
塾は行かせれば成績が上がる魔法のアイテムじゃなくて、メリットデメリット併せ持つもの。
体力も減るし、ストレスもかかる。お金も減る。時間も減る。夜寝る時間が遅くなる。
今、子に与えるこの授業が家族にとって苦い良薬になるか、毒になるかを親がしっかりと判断してほしいと思っている。
25歳にもなりろくな職にも就かずふらふらとしていたが、そんな私の生活にも終わりが来る時はある。もうしばらくしたら、25年間惰眠を貪った部屋と脛を齧った自分の親元を離れ、遠くで細々と働きながら暮らす。
何をするわけでもない間に老いた両親と離れて暮らすのはなんとも申し訳ないが、だからと言ってこれ以上世話になるのも気が引ける。私は「旅立ち」と言うには薄汚れた、遅い巣立ちの時を迎えたのだ。
しかしそんな両親にも懸念点がある。一見仲睦まじい両親だ。老いてなお息子を支えるために協力する姿は、子からすれば1番の理想と言っても過言ではない。
きっかけは些細だった。帰宅したら黒い女性用ボンテージランジェリー姿の父親がいるのだ。一瞬何がなんだかわからなかった。頭が真っ白、という表現以外思いつかないほどに混乱した。
別に何をするのも父親の人生、そもそも苦労をかけた身としては「やめろ」なんて言える訳はないし、言おうと思わない。しかし、この家は両親と私で住んでいる。母親は知ってるはずもない。知り得もしないものを、急に脳に叩き込まれた。私はどうしたらいいのかわからず、1回目は見なかったことにした。
もちろん、2回目もあった。その時は、少し小言を言った。たしか「何をしようと父親の自由だが、流石にびっくりしてしまう」とだけ言った気がする。本心だが、言った後に1人で考えている際、「そこじゃないだろ」と自分にツッコミを入れたのは言わずもがなだ。
そして今日、3回目があった。今回は前の2回とは勝手が違う。自分がシャワーを浴びる際、見慣れないボトルがあったので見たら「LOTION ANAL」と書いてあった。流石に笑ってしまった。
仏の顔も三度まで、今回ばかりは父親に話をした。父親がしまい忘れたローションをタオルでくるんで隠しながら、ゆったりしている母親を別室に押し込めた。我ながら今思うと阿呆らしいが、ここでミスをすれば人生が終了するかのようなプレッシャーを感じていた。それを取り出し、父親に見せた。父親は、気まずそうな顔をして動揺を隠しながら、平静を装っていた。「別に何をしようと勝手だし自分の好きなことをするのは構わないが、家で隠そうとしてるのに隠せないなら家でやるのをやめろ」と言った。そして父はどこかにそれを隠し、また座りながら煙草をふかした。
正直、気づかないフリをした方が良かったのかもしれない。または母親に隠さない方が良かったのかもしれない。全くわからない。何をしても、今までの「家族」として見ていた映像が瓦解するのでは、という感覚に苛まれる。我ながら、無理を通した。
確かに父親が何をするのも止められないが、父親の性具が転がっているのを見るのは息子としては最悪である。母親のナプキンを見てようわからんと思っていた頃よりも微妙な気持ちがある。父と母の性行為を想像するのに抵抗があるように、父親と母親と性事物が同時に視界に入るのは、頭がぐるぐるしてしまう。
そういう女は言わずもがな結婚して安泰な未来は来ないまま年取ると捨てられるし、悪くすると殴られてお金取られたり風俗で働かせられたり妊娠後捨てられてシングルマザーになったりと「男がいない方がマシ」な目に遭うんだよね
悪い男に騙されないように貞操だけでも守ろうって頑張っても、気も頭も弱い女には性犯罪者やモラハラ男が寄ってくるし
女は穴に需要がある!って力説する男いるけど、ガチ無能な女なんて悪い男の性奴隷兼サンドバッグ兼風俗財布になるんだから、どうせひとりぼっちなら搾取もされない弱者男性の方がマシだと思う。
大抵の弱者男性は洗脳でもされない限り女には暴力で勝てるから、悪い男につかまった女の「逃げたら見つけ出して殺すと脅され奴隷のまま」って事態にもならないし
本件のみの失言や認識の誤りで以後気をつけるといった謝罪を出すのであれば別ですが、彼らは陰謀論に加担したシンパです。
QアノンやJアノンが非常に危険な存在であることは言わずもがな、陰謀論者はカルト集団であり統一協会と同じく危険視しなくてはいけない存在です。
つまり、日頃から彼らの意見を支持してきた人間は渡瀬裕哉とおぎの稔の関係のように
陰謀論者に関係する陰謀論者の仲間だと導けるわけです。スターをつけて賛同してきた人間はカルトに加担した連中ということ。
とはいえ、狂った人間も稀に正常な意見を言うこともあるので月に数回くらいならスターをつけてしまっていても大丈夫でしょう。
ですが日常的に彼らの意見を支持してきた左派の人間は自らがカルトに加担する人間ではないと積極的に宣言しなければ
山口貴士氏がカルト対策について語っていたように、真摯に強く反カルトであり関わりを持たないようにすると宣言してくださいね。
創作に限らず学ぶということは、自分の馬鹿さ、才能の無さを何度も何度も思い知らされる。
プロは言わずもがな、ネットにもレベルの高い人がいっぱいいて、自分なんかが創作しても、と思ってしまう。だから、褒めてもらっても世辞に感じる。
ずっと先を行っている人の多くは、この苦しさを乗り越えている。そうじゃない人は珍しいってことも知っている。
でも、折れてしまいそうだ。
それ以上に、今自分がごちゃごちゃ言っているのは失敗したくないからだってわかっている。でも、失敗したくない。登場人物は悪くない。しっかり活躍させてあげたい。けど、出来ないのが悔しい。
子供のころは楽しいだけだったのに、大人になってからは苦しい。
でも辞められない。
辞めようって何度も思ったのに、苦しいのに、やっぱり好きだから辞められない。
クソみたいな感情だ。
言わずもがな、すごい人だということはわかってる。
若くして大リーグの歴史を塗り替えようかという大活躍をして、その上紳士的で行いもよろし、顔もイケメン。
すごいすごいとは何となくわかるんだけど、実際何がどれくらいすごいのかはわからない。興味も持てない。
ゆえに個人としては正直なところ、「別に…」な心境であることを否めない。
「は? オマエより100万倍すげぇ人なんだけど?!」
「え? じゃあテメェは何がスゴイの??!」
とかとかなどなど、非難囂々間違いないだろう。
リスペクトして「ね!オータニサーンってスゴい人だよね!!」と同調しなければならない。
うんちゃらねるの創業者も然り。
自分にとっては、何でもない人。
増田に聞かれて記憶とともにYouTubeを探っていたら、数あるモノマネ動画も出てきたのだが、その中でも「これ、オリジナル越えているだろと思ったのがあったんで、ご紹介したい。
実に50年前の曲である。それが令和のモノマネ番組のネタとして出てきて高得点を叩き出すんだから訳が分からない。
だけどこれで笑わない人がいないぐらいネタとしての完成度がずば抜けている。そしてモノマネとしてそっくりなのもすごい。
見どころとしては後ろのエアギターである。実は元ネタもエアギターなのもある意味でおかしい。
モノマネ自体は非常に真面目なモノマネなのである。なのだが始まった途端に司会の東野幸治が大爆笑している。のちに東野はこれまで見てきたモノマネの中で一番インパクトがあったモノマネとしてこれを選んでいる。
だってこれ知っている人が見れば笑うしかないハイコンテキストなネタだもん。
80年代の日本製AORの一大プロジェクトとして誕生したオメガトライブ。初代voを担当したのはソロデビューさせると騙して加入させた杉山清貴。
ファーストアルバム完成後杉山は大喧嘩の末脱退。その後釜として充てがわれたのがなぜか日系ブラジル人のカルロス・トシキだった。
たしかにその澄んだ歌声は今までにないものだったが小刻みすぎるリズム取りにたどたどしい日本語と相反するように流暢すぎる英語のギャップが聴いたものに?マークを与えた。
全体的に小ヒットぐらいでフェイドアウトしたのも言わずもがな。カルロス氏は音楽活動の後ブラジルでニンニク栽培で成功している。
そんなユニットだから完全再現すればそれだけでネタになるのも仕方ないことで。
パラリンピックを見ていると、自分の中にとても複雑な気持ちが生じてくる。
体の一部を失ったアスリートたちを見て、素直に美しいと思ってしまった。
同時に、過去に障害者を扱ったポルノを見て強い嫌悪感を抱いたことを思い出した。
その時の心情に立ち返って、その嫌悪感は本当に正義と言えるのだろうかとふと疑問に感じた。
パラアスリートは美しかった。その瞬間、わたしにとって健常者よりも美しいと思えた。
素直に気持ちを表現するなら、その美しいと感じた感情に性欲が含まれていたことも否定はできなかった。
その時の自分は、素直に美しいものに対し美しいと感じ、そして少しの欲情をもよおしたのだ。
果たして、パラアスリートたちを美しいと思う気持ちは許されないのだろうか。
そこに少しでも性欲が介在した瞬間に、その美しいと思う気持ちは不謹慎なものとされてしまうのだろうか。
恋愛から性欲だけを切り離すことは絶対にできないし、それがあるからこそ子孫は反映してきた。
健常者に性欲を抱くことは許されて、障害者であることを理由に性欲を抱くことは不謹慎なことなのだろうか。
そう考えれば、そもそも障害者を扱ったポルノを不謹慎なものとすることさえ、差別的ではないかと思うようになってしまった。
ミゼットプロレスが不謹慎という理由で中止に追いやられた結果、障害者たちがレスラーという数少ない働き口の一つを失ってしまったという話を見たことがある。
もしポルノ業界に障害者が働く余地がないとしたら、それは逆を返せば健常者だけが働くことを許されているという職業差別と言えなくもない。
当然十分に職業選択の自由があり、消去法的ではなくても選択できる一つの職業であると認められることが必要だとした上での話だ。
しかし、ある側面では、そこにもしニーズがあり、お金を稼ぐ手段として確立されているにも関わらず、福祉や道徳という規制で制限されてしまうとしたら、それはまたやはり差別的ではないかと考えてしまう。
そこに想像の余地があるからこそ、誰もが自分にとって最も美しい姿を空想できることが傑作である理由とされている。
わたしはパラアスリートたちにそれと同じ美しさを見た。(四肢の一部がないのだから本当は見えていない。)
その姿を美しいと思ってしまった自分を偽ることはできないし、障害を理由に美しいと感じたのであれば、それが差別的であると言われても否定できない自分がいた。
そこまで考えても、はやりパラアスリートたちが美しいという気持ちを止めることはできなかった。
彼ら彼女らの美しさは、もっと広告としての価値があってよいと思った。(いわゆる芸能人たちがルッキズムをもとに広告的価値が高いとするのと同じ意味で。)
障害を理由に、それの美的価値を不謹慎と言う言葉で押さえつけることのほうがよほど差別的ではないかと思うからだ。
パラアスリートたちは美しい。
ポケモンは初代とその次位しかやってないおっさんだが、4人が別々のチャートでわいわいしながら走るRTAは終始楽しめた。
・CUPHEAD
高難度アクションゲームとしても有名な本作
クソゲーと名高い本作。「上から来るぞ!気をつけろ!」や赤くない扉に対して「せっかくだから俺はこの赤の扉を選ぶぜ」のセリフが有名。
名言織り交ぜた実況で楽しめた上に本イベントで世界記録を達成した。
映画の演出のような技を使いながら戦うヒーローのアクションゲーム。カプコン製。
RTAゲーマーにゲーム時間の高速化や遅延を持たせてしまったら後は分かるね?とんでもないスピードでボスを瞬殺していく姿に感動する。
精密なプレイが要求されるはずなのに喋りながらやっていて恐ろしい。
クソゲーオブザイヤー受賞作として有名でめちゃくちゃなバグで有名なゲーム。通称ダメジャー。
ついでに正常なハズの挙動の野球すらメチャクチャだと教えてくれるとんでもゲーのRTA。
恋愛シミュレーションゲームとしてジャンルを作り上げたヒット作。
そんな恋愛ゲームだが、RTAの時短の為にとにかくヒロインを放置したり、イベントをスキップしたりとメチャクチャな生活を見せてくれて
とてもヒロイン攻略ができているように見えないが、その結末やいかに。
・DanceDanceRevolution SuperNOVA
非常に高難度のチャレンジをプレイするが、こんなの無理だろと思わされるゲーム側の嫌がらせっぷりに注目
・新・北海道4000km
全く知らないゲームだったが、1983年当時の北海道の交通手段を再現したというゲームで解説の方が北海道を紹介してくれることもあり
「ある日普通に暮らしていた女性が、通り魔に理由もなく殺される」
痛ましい事件だと思う。個人間の怨恨などが理由でなく、ただ目についたから標的にされたという理由のない殺人。
異常な人間が異常な事件を起こして犠牲者が出た。これまでなら、そう思えていたんだと思う。
ただ、今はそう単純に割り切れなくなってきた。
その理由は、通り魔が所謂「弱者男性」と呼ばれる社会的弱者側の存在だったからだ。
通り魔殺人は異常者(男性)が女性(弱者)を殺傷する卑劣な事件だと、これまではそう割り切れていた。
だけど、この事件は追い詰められた「弱者」が恵まれていそうな「強者」を妬むルサンチマンから発した事なのではないか?そういう考えが浮かんでしまった。
こういう考え方は少し前まで一般的だった。或いは今でも多くの人の頭に根付いているかもしれない。
それまで合同で体育を学んでいた子供達は、ある日女子と男子で別れるようになる。スポーツは男子と女子で競技が別けられる。重量がある物は男性が持って当然である。
「女性は男性と違って力が弱い存在である。だから強い男性が女性を守ってあげなければいけない」というマチズモを多くの人間が信じていた。
だが近年その幻想が崩れてきた。江戸時代には300kgの米俵を女性が運んでいたし、太古の時代人間は男性も女性も関係なく狩人として食料を確保していた。
創作の世界でも、「女性はただ守られるだけの存在ではない」と男性に混じり戦うヒロイン達が増えてきた。女性は決して男性に劣る弱い存在ではないと、意識改革されてきたのだ。
男性は家から出て働き、女性は家の中を守る物。そういう考えはやはり一昔前までは一般的だった。
父親は一家の大黒柱として収入を得るため働き、家族は父親に感謝する。父親が家計を支えているため家庭内で一番偉い存在であり、母親は父親の言う事を素直に聞くのが正しい姿である。
この父家長制と呼ばれる制度の影響で、男性と女性には上下関係が存在するという意識が当然のようにあった。しかし近年その考え方は少しずつ変わって来ている。
女性の社会進出が進む、女性は男性の経済力に頼らなくても自分の収入だけで生活出来るようになったのだ。それに伴い「家庭」という概念もじわじわと薄れてきた。
未だに女性の平均収入は男性の7割ほどと深刻な男女格差は残っているが、個人単位で見れば男性より優秀で収入も平均以上である女性もそれなりに見られる。
「女性」というだけで守られ養われるべきであると扱われてきた性別の人々は、今では弱者と侮って良い存在などでは決してないのだ。
女性は従来思われていたほど肉体的に弱い訳でも無いし、経済力もグングン付けてきている。精神力は言わずもがな、である。
という事を頭に置いて通り魔殺人という痛ましく残酷な事件を考えてみると
幸せそうな人(女性)を見て殺したいと思った異常者(弱者)が恵まれた物へのルサンチマン(妬み)から起きた殺傷事件という見方も出来るのではないだろうか。
苦しい生活をしている人が幸せそうな人を見て「自分はこんなに辛いのに何であいつは…」と思ってしまうように、強者側である事は時にそれだけで嫉妬の対象になる理由になる。
こんな事を書きながらも、結局自分は従来のジェンダー観に則って
だと思っている。
その一方で、「女性というだけで弱者と思う事は絶対に間違っているし、後先考えない事件を起こすような男性は豊かでない環境に居る可能性も高い」という考えが頭の片隅を過ぎっている。
仮に幸せそうな女性と不幸せそうな男性の二人が居たら、果たしてどちらが「強者」でどちらが「弱者」なのだろう?と、こんな事を考えてしまうのは自分の価値観が少しずつ変わって来ているからなのだろうか…。
子どもには小学校入試と高校入試を経験して大人になってもらいたいと思っている。
その理由は単純で、中学入試、大学入試が勉強さえできれば入れる試験だからだ。
小学校入試ではペーパーのほかに、行動観察や面接試験で協調性や運動能力、マナーを見る。
したがって、お勉強さえできれば受かるというものではないので、入試に向けての取り組みが
総合力を養うのにつながると考える。
高校入試は言わずもがな内申があるので、主要五教科だけではなく、音楽美術体育家庭科などの
私自身は教育に熱心な両親のもと、友達と遊ぶことや習い事を制限され必死に中学受験をした。
中学に入ってからも、レベルの高い同級生に振り落とされないよう、部活もゆるいものに入り、必死で勉強した。
結果として、コミュニケーション能力の低い、勉強をそこそこ頑張ってきただけの無能な社会人になった。
だからこそ、入試を通じて総合力を試されるような経験で成長してもらいたいと思っている。
因みに、そんなに裕福な家庭ではないので小学校は国立しか考えていない。
受験に至るまでの過程で協調性やマナーなど、優秀なお子様たちとの触れ合いの中で多くのことを身に着けてもらうことが狙いだからだ。
私が中学受験をしたとき、両親は言った。「高校受験は内申に左右されるからフェアじゃない」
勉強が出来るのに内申が付かないというのは、やはりコミュニケーション能力や、集団の中でうまくやる力がないということなのだ。
これは仕事と一緒で、個人の実力がいくらあっても組織の中で生きていける協調性がなければ煙たがられる人材にしかならない。
気の早い話だが、もし私の子供が理不尽な内申評価で希望の高校に行けなくても、それはそれで態度の問題だろうとしか思わないので理不尽だとは思わない。
就職できないもの仕事がうまくいかないのもぶっちゃけ発達障がい関係ねぇぞ
ワイトはテンションブチ上がると席に座っていられないレベルの重篤さで
セキュリティの責任者だったにも関わらず、施錠キー・入館証を無くす・PCや書類を置き忘れる
人ってどうあってもマイナス特性だけじゃなくてプラス特性もあるじゃないですか
過集中でババッと短期間で課題を解決することが出来る+長時間集中+長時間労働が苦にならないので
物量でマイナス面を押し切ることが出来る
じゃあなにが障壁になるかというと "人付き合い" ですよ
ほんでこの人付き合いもやっぱ発達障がい関係ない
無理をしてでも相手に好かれよう・取り入ろうって気があるかどうかだけなんですよ
一応、気を張り巡らせて会社のメンバーや顧客の誕生日は把握するしすべての雑談は記憶して
雇用主・顧客以外に特別なイベント打つ気は微塵も起きないンゴねぇ
役員にはまぁ気はつかうけどなにがなんでも取り入ろうみたいな気迫は微塵も湧かない
役員相手がそうなのだから一個上の上司やライバル視してくる同僚なんて言わずもがな
ただ部下や後輩には割と優しいと思います
ここで話したいのは、「オリンピックの開催の是非」になる。
オリンピックの開催の是非に関しては、時期によって異なると考えている。
人命は言わずもがな、政治を誤れば経済が揺るぎ、貧困による死や少子化があるためだ。
これらを前提とさせて欲しい。
1~半年前の決断であれば「延期」がベストであったと思うが、今年の4~5月、つまり2~3ヶ月前になると中止延長が難しくなると考える。
何故なら「開催に向けて対策を万全にする」という感じのことをだいぶ前に言っちゃったからだ。土壇場でここで「できませんでした」は政治的に難しいのは容易に想像できる。
直前すぎるため中止延長を申し出れば「今まで何してたん?」という話ができてしまうからだ。
そしてこの時点で日本という国は現場は頑張っているのにトップが変なところで悠長であったため、ワクチン接種は不十分、JOCの人事はグチャグチャという有様だった。
改めて上記の状況を鑑みてここでの中止延長を考えてみよう。
恥を忍んでという形にはなるが、人命も守れるし、政治的にはちょっと悪いがまあ言い訳は効く。
世界中から謗られたとしても五輪という挽回の場が残されているのだ。
中止は流石に厳しいだろう。人命の面では問題ないが、政治の面であまりにも悪い。
スポンサーとなっている世界的な巨大企業郡への背信行為というのは、資本主義が行き詰まっている今、社会主義でもなければできない。
そして、日本は社会主義国を掲げている国ではないし、できるような資本主義であることが良いが、そのできる資本主義は最近提唱されたばっかりで導入している国はない。
更に挽回の場もない。
つまりできないのだ。
では仕方なくするという形になってしまうのだが、その「するための準備」が全くできていなかったと感じる。
一番の問題はここだ。
つまり、行政、運営側に「ゴールをに対して最善を尽くす」という力が欠けていたのだ。
五輪の開催可否はIOCに一任されているが、彼らの意思を見定めてそれに対して開催するしないなりの対応をするのは日本及びJOCの仕事だ。
あらゆる可能性を想定しすぎ日和見的、かつ楽観的に構えてしまい、結果的に悠長で後手後手の対応になってしまったというのが実際のところだろう。
人命も政治も宙ぶらりんだと言える。
開催セレモニーも、MIKAKO氏が降板してから再構成したのであればかなり綺麗にまとめたなとは思ったが、そんなクソみたいな事情は見る側には関係ない。
JOCはオペレーションの簡略化に気を配るあまり、成果物のクオリティを下げてしまったと感じる。
結論としては、「やるとかやらないとかではなく、ギリギリまで動けなくて何もかもが間に合わなかった。」
だと個人的には感じている。
今回の開催は「やると決めた」ではなく、「なんかやる感じになった」なのだ。
対義語は「やらない」ではなく、「やる、やらない」そのものが真反対の意味になる。
そういう風に感じている。