2021-08-31

パラアスリートが美しいという気持ちを止めることができない

パラリンピックを見ていると、自分の中にとても複雑な気持ちが生じてくる。

体の一部を失ったアスリートたちを見て、素直に美しいと思ってしまった。

同時に、過去障害者を扱ったポルノを見て強い嫌悪感を抱いたことを思い出した。

その時の心情に立ち返って、その嫌悪感は本当に正義と言えるのだろうかとふと疑問に感じた。

パラアスリートは美しかった。その瞬間、わたしにとって健常者よりも美しいと思えた。

素直に気持ち表現するなら、その美しいと感じた感情に性欲が含まれいたことも否定はできなかった。

その時の自分は、素直に美しいものに対し美しいと感じ、そして少しの欲情をもよおしたのだ。

果たして、パラアスリートたちを美しいと思う気持ちは許されないのだろうか。

そこに少しでも性欲が介在した瞬間に、その美しいと思う気持ち不謹慎ものとされてしまうのだろうか。

健常者の女性だって性欲をもよおすことはある。

恋愛から性欲だけを切り離すことは絶対にできないし、それがあるからこそ子孫は反映してきた。

健常者に性欲を抱くことは許されて、障害者であることを理由に性欲を抱くことは不謹慎ことなのだろうか。

そう考えれば、そもそも障害者を扱ったポルノ不謹慎ものとすることさえ、差別的ではないかと思うようになってしまった。

ミゼットプロレス不謹慎という理由で中止に追いやられた結果、障害者たちがレスラーという数少ない働き口の一つを失ってしまったという話を見たことがある。

もしポルノ業界障害者が働く余地がないとしたら、それは逆を返せば健常者だけが働くことを許されているという職業差別と言えなくもない。

当然十分に職業選択の自由があり、消去法的ではなくても選択できる一つの職業であると認められることが必要だとした上での話だ。

しかし、ある側面では、そこにもしニーズがあり、お金を稼ぐ手段として確立されているにも関わらず、福祉道徳という規制制限されてしまうとしたら、それはまたやはり差別的ではないかと考えてしまう。

ミロのビーナスは誰もが認める最高芸術の一つだ。

言わずもがな、両腕の欠落した女性である

そこに想像余地があるからこそ、誰もが自分にとって最も美しい姿を空想できることが傑作である理由とされている。

わたしはパラアスリートたちにそれと同じ美しさを見た。(四肢の一部がないのだから本当は見えていない。)

その姿を美しいと思ってしまった自分を偽ることはできないし、障害理由に美しいと感じたのであれば、それが差別的であると言われても否定できない自分がいた。

そこまで考えても、はやりパラアスリートたちが美しいという気持ちを止めることはできなかった。

彼ら彼女らの美しさは、もっと広告としての価値があってよいと思った。(いわゆる芸能人たちがルッキズムをもとに広告価値が高いとするのと同じ意味で。)

障害理由に、それの美的価値不謹慎と言う言葉で押さえつけることのほうがよほど差別的ではないかと思うからだ。

パラアスリートたちは美しい。

パラリンピックが伝えたいメッセージが何なのかよく知らないが、そのことにもっと焦点を絞ってもよいのではないかと思えた。

  • 美とは悪のことだぞ その逆に正義は醜い そんなことはネットの正義マンを見ればわかることだ

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