ここで話したいのは、「オリンピックの開催の是非」になる。
オリンピックの開催の是非に関しては、時期によって異なると考えている。
人命は言わずもがな、政治を誤れば経済が揺るぎ、貧困による死や少子化があるためだ。
これらを前提とさせて欲しい。
1~半年前の決断であれば「延期」がベストであったと思うが、今年の4~5月、つまり2~3ヶ月前になると中止延長が難しくなると考える。
何故なら「開催に向けて対策を万全にする」という感じのことをだいぶ前に言っちゃったからだ。土壇場でここで「できませんでした」は政治的に難しいのは容易に想像できる。
直前すぎるため中止延長を申し出れば「今まで何してたん?」という話ができてしまうからだ。
そしてこの時点で日本という国は現場は頑張っているのにトップが変なところで悠長であったため、ワクチン接種は不十分、JOCの人事はグチャグチャという有様だった。
改めて上記の状況を鑑みてここでの中止延長を考えてみよう。
恥を忍んでという形にはなるが、人命も守れるし、政治的にはちょっと悪いがまあ言い訳は効く。
世界中から謗られたとしても五輪という挽回の場が残されているのだ。
中止は流石に厳しいだろう。人命の面では問題ないが、政治の面であまりにも悪い。
スポンサーとなっている世界的な巨大企業郡への背信行為というのは、資本主義が行き詰まっている今、社会主義でもなければできない。
そして、日本は社会主義国を掲げている国ではないし、できるような資本主義であることが良いが、そのできる資本主義は最近提唱されたばっかりで導入している国はない。
更に挽回の場もない。
つまりできないのだ。
では仕方なくするという形になってしまうのだが、その「するための準備」が全くできていなかったと感じる。
一番の問題はここだ。
つまり、行政、運営側に「ゴールをに対して最善を尽くす」という力が欠けていたのだ。
五輪の開催可否はIOCに一任されているが、彼らの意思を見定めてそれに対して開催するしないなりの対応をするのは日本及びJOCの仕事だ。
あらゆる可能性を想定しすぎ日和見的、かつ楽観的に構えてしまい、結果的に悠長で後手後手の対応になってしまったというのが実際のところだろう。
人命も政治も宙ぶらりんだと言える。
開催セレモニーも、MIKAKO氏が降板してから再構成したのであればかなり綺麗にまとめたなとは思ったが、そんなクソみたいな事情は見る側には関係ない。
JOCはオペレーションの簡略化に気を配るあまり、成果物のクオリティを下げてしまったと感じる。
結論としては、「やるとかやらないとかではなく、ギリギリまで動けなくて何もかもが間に合わなかった。」
だと個人的には感じている。
今回の開催は「やると決めた」ではなく、「なんかやる感じになった」なのだ。
対義語は「やらない」ではなく、「やる、やらない」そのものが真反対の意味になる。
そういう風に感じている。