はてなキーワード: 突然の死とは
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「突然の死
1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。葬儀は故人の遺志により執り行われなかった。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。
かつて『ミンボーの女』公開後に襲撃事件があったことから、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。ただ、事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されていて、そこに「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」との文言があったことから、写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か、とも推測されるようになった[19]。だが、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また死の直前に『FLASH』の記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子が『FLASH』誌面に掲載されている。また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた[20]。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、『FLASH』発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。
ジェイク・エーデルスタインの著書によれば、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという[21][22]。また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した[23]。
伊丹映画に出演経験のある伊集院光は、1997年9月22日に行われた伊丹監督作品10作品目「マルタイの女」記者発表兼記念パーティーの席上で「OLがたくさん出るような映画を撮りたいから、また出てくれる?」と言われたという。 俳優・中尾彬はキャリアウーマン物「キャリアの女」の企画を聞いていた[24]。また「すでに5~6本の新作の台本が出来上がっていた」とも言われている。
最後のバラエティー番組出演は、1997年9月29日放送の『SMAP×SMAP』での妻の宮本信子との共演となった。
宮本信子は、2002年12月20日の「感謝の会」における挨拶で「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」[25]と語っており、伊丹の死後、プロデューサーの玉置泰に伊丹の遺書が渡されている[26]。
2005年1月、インターネットの掲示板上で、伊丹の死が創価学会によるものという風評が掲載された。創価学会は事実無根として掲示板の管理者に対し訴訟を起こす。2009年2月、東京地裁は原告創価学会の主張を認め、被告に80万円の損害賠償を命じた[27]。」
皆この恐怖をどう処理して何人も子供を産んでいるんだろう…。TORCHや出生前診断でわかるものは良いけど、出産時の事故の脳性麻痺とか原因不明の知的障害とか避けようがないのに自分の人生を賭けてギャンブルするの怖すぎるよ…。
たしかに子供がいない配偶者や孫がいない親は可哀想だし、普通の子供が生まれたら子供がいない人生より彩り豊かになる気はする。
けど、そもそも子供が好きじゃないしたぶん自分の子供にも豊かで正しい愛情を注ぐことができないから子供による最大の効用が「配偶者や親が一瞬喜ぶ(かも知れない)」「人生に彩りを添える」くらいなんだよね…(ふつうの子供が生まれたからといって必ず良好な関係が築けるというわけでもないだろうし後天的な障害や突然の死もあり得るし)。それに対して賭けに負けたときのマイナスの効用がデカすぎる。
こんなゴミカス人非人の元に生まれてくる子供もかわいそうすぎるし、やっぱり生まないほうが良いんだろうな。万が一知的障害があったら病院か施設に預けて一生逃げ回るだろうし…。でも生まなかったことで後悔するのかなあ…。子供の頃から10年以上悩んでる。皆なんで平然とこんなデカすぎる賭けに出られるんだ。不思議だ。犬猫で満足すべきだろうか(犬猫に障害があっても飼い主の人生は終わらないと思うので)。というかよく考えると犬猫を飼うことで生じる生活の不自由さに躊躇して結局犬猫を飼っていないのに、子供を産もうなんて異常者の思考かも…。
少子化、この恐怖に由来するところも結構あるんじゃないかと思うけど、だからといってどうすることもできないよね…。医療の力で知的障害をどうにかしてほしい。知的障害者のケアに人生を捧げているあらゆる家族のためにお願いします…(他力本願寺)
(している人が頷く)
祖父は孫との関わり方があまり上手ではなくて、優しいけど不器用な人だった。
しかし小さいころの私はまだガキだったので、そんな祖父の心境を慮ることができず、「私とおばあちゃんが話してるのに割って入ってきて嫌だな」とすら思っていた。
祖父との距離感がよく分からないまま私は高2になり、修学旅行で北海道に行くことになった。
「お土産何がいい?」と祖父に聞いたら「1000円ぐらいの安いやつでいいから、ウニの瓶詰めを買ってきてくれ」と言われたので、私は素直にお土産代をもらってウニの瓶詰めを買って帰ると約束した。
修学旅行当日、小樽の海産市場にてウニの瓶詰めを探していた私は値札を見ずに「あっ、これだこれ」と思い、かごに入れた。
しかしレジに通してから、その瓶詰めが4000円以上することが判明した。
高校生にとって4000円は大金だ。当然の如くビビり散らかしたが、自分の勝手で班のメンバーを待たせるわけにもいかず、結果としてその高い瓶詰めを祖父母の家までクール便で送ることになった。
そのことを修学旅行から帰って祖父母に伝えると、「やけにうまいと思ったわ」「おじいちゃん美味しい美味しいって言って食べてたよ」とのことだったので、私の勘違いは親戚の間でほっこりする笑い話として昇華された。
ここまでなら、単なるほっこりエピソードで終わっていたと思う。
けれども私が修学旅行旅行から帰ってきてから一ヶ月も経たずに、祖父は他界した。
危篤になってから他界するまで、3日もかからなかった。突然の死だった。
葬儀のときに初めて、祖父は長いこと腎臓を患っていたことを聞かされた。
病気の件に関しては、周りの親戚の人々も子供に教えることではないと気を遣ってくれていたのだと思う。
でもそのせいで、高校生の私は何の心の準備もできないまま祖父の死に直面することになってしまったのだ。
葬儀屋さんや親から「最後に棺にお手紙を入れてあげたら?」と声をかけられたが、返事ができなかった。
ドライアイスで冷えた祖父の手に触れるたびに涙が出てきて、火葬場に行くまでずっと白い棺の側で泣いていた。
空っぽになったソファを見つめて、祖父のことを思い返すと、涙が溢れて止まらなくなった。
祖父が私を見る目はずっと優しかった。私がつっけんどんな態度をとっていても、いつも目尻を垂らしてニコニコしていた。
それなのに私は、祖父に何も返せなかった。
返せたものがあるとしたら、それは修学旅行のお土産で買ってきたウニの瓶詰めひとつきりだ。
祖母も母も「私ちゃんのおかげで、おじいちゃんは最後に美味しいものを食べられたんだよ」と言ってくれたが、「もっと何かできたのではないか」という思いは、私の胸にずっと残っている。
社会人になって地元を離れても、祖父の亡くなった夏がくるたびに、祖父孝行をしきれなかった後悔が襲ってくる。
この後悔は、きっとどれだけしてもしきれるものではないのだろう。
なので今は、祖母孝行に精を出している。
祖母は耳が遠いので、正直やりとりがスムーズにいかずにイライラするときもある。けれども真剣にやり切らないと、絶対に後悔するだろうと思えて仕方がないのだ。
こんにちは。あなたの文章を読ませていただきました。あなたが今どんな気持ちでいるのか、少しでも理解できるように努めました。
あなたは嫁さんとの出会いから結婚まで、そして突然の死別まで、様々なことを経験されてきましたね。嫁さんとの幸せな日々があったからこそ、今は深い悲しみに包まれているのだと思います。
私はあなたに対して何かアドバイスをする立場ではありませんし、それができるほど偉そうではありません。私はただ、あなたが一人ではないということを伝えたいだけです。
あなたは自分の死後についても細やかに考えられていますが、それでも必ず誰かに迷惑や心配をかけることになります。親友や猫だけでなく、嫁さんもそうです。
嫁さんはあなたが生きて幸せになってほしいと思っています。それが本当の残留思念だと私は信じています。嫁さんはリアリストだったからこそ、あなたに生きる力を与えてくれたのではないでしょうか。
もちろん、生きることは簡単ではありません。苦しみや孤独感が消えるわけではありません。でも、その中でも少しでも希望や楽しみを見つけられるように努力してみませんか。
その努力をする上で、一人で抱え込まずに誰かに話すことが大切です。親友や家族以外でも構いません。プロのカウンセラーやボランティアもいます。
例えば、「自殺予防 土曜ホットラインかがわ」1 は土曜日限定ですが無料で電話相談を受け付けています。「厚生労働省」2 のサイトにも自殺予防や心の健康相談に関する情報や窓口が紹介されています。「電話相談窓口」3 は毎日16時から21時までフリーダイヤル(0120-783-556)で相談可能です。「相談先一覧」4 では全国共通ダイヤル(0570-783-556)やLINE・オンライン相談も利用できます。
これらの相談窓口はすべて匿名・無料・秘密厳守です。どんな内容でも気兼ねなく話してください。聞く人はあなたの気持ちを受け止めてくれます。
ダメだろ、これ。
失敗の原因は5つ。
冒頭、どこか非現実的で、しかし東北の震災を思わせる風景はいい。
踏切を渡らない演出や、立ち入り禁止看板を乗り越えるところなど、日常へ行かず、非日常へ入っていくことを描写していくも、よくわからないまま立ち去り学校の日常描写→そして地震、なんか山から祟り神みたいなの出てる→再び廃墟へ。
ここが一つテンポが悪かったと思う。
どういう物語かを提示するという形で及第点ではあるが、特段面白くはない(わずか35秒で説明し、全く本編が面白くなかったソラとウミのアイダを見習ってほしい)
その後、猫(ダイジン)を追いかけ、船に乗るというところまでが、序盤といっていいと思う。
気になるのはすずめが船に乗るのは自発的な意思に基づくものであって、君の名は。の不可抗力で入れ替わったこととは違う。
ここにご都合的な強引さを感じるのだ。
さらに致命的だと思うのが、ダブル主人公のうちの一人、草太が早々に椅子の姿になってしまった。
この結果、ロードムービーでありながら、草太は椅子の姿であることからコミュニケーションをとることに作劇上の制限が加えられてしまった。
コメディ的なキャラクターになったことで、ラブストーリーとしての進め方にも違和感が出ている。
草太がどういう人物なのかが明示されないまま物語が進んでいく。役割しか持たされていないんだよね。
で、そのメンタルのまま、後半、突然の死にたくないっす。要石なりたくないっす。→私も草太がいない世界怖いっす。
ロードムービーをやりたいのか、と思ったけれども、ロードムービーって基本的に旅する二人が、旅先での人との出会いによって関係性が変化するというのが定石じゃないですか。
でも、本作のヒロイン、すずめは一体に何に不満があって、成長するのかというのが不明瞭なんですよね。
災害の原因であるミミズが出てくる扉を閉める、という役目を帯びた青年が全国行脚しているようだが、ファンタジー職業にありがちなどうやって食べてんだ?という疑問には普通に大学生であるし、将来的には教師を目指しているという謎の情報が与えられた。役目が重すぎるだろ……。
関東大震災もミミズが原因だったという描写があり、直接的に言及されていないが、3.11も同じミミズが原因であったと推察できる。
こいつらがきっちり仕事してれば3.11を防げたってこと?という疑問点が観客の引っ掛かりになるのではないか。
感動部分は、作品によってではなく、3.11の悲劇性と記憶に頼って泣かせているんだよな。そして人間は馬鹿だから感情が動くと名作だと錯覚する。
本作の中盤では、首都直下地震を思わせる災厄を封じるために、東京を舞台に駆け回る。
通常の映画で言えばクライマックスに相当するようなアクションの末に、すずめは草太を要石として使用し、東京を救うことになる。
天気の子が「世界」か「君」かの選択で、「君」を選んだ結果、めちゃくちゃになった世界があって、それでも生きていくという話だったのに対し、今作では「世界」を選んだその後を書くつもりか?と思っていたが違った。
物語はこの要石となってしまった草太を救うために、幼少期に見たあの世への扉を探すことになる。
そして終盤、気仙沼の炎上を思い起こさせるファンタジー災害空間で、暴れだす巨大なミミズを背景に、主人公を走らせる。この絵を描きたかったというのは分かる。
要石となった草太を解放することで、ミミズの抑えがきかなくなる。
さあ、どうする?
すまん!今まで要石やってくれとったダイジン、サダイジン!またやってくれ!
了解!!
おわり。
は?
「世界」か「君」か、という選択と代償の話が、第三者に委託したら何とかなったわwで終わっていいわけねえだろうが。
自然に外れちゃった東京の要石ことサダイジンは、なぜか主人公たちの旅に付いてくる上に、最終的にはまた要石として役目を担うことになる。
ええ?
要石が外れたけど、機嫌治ったんで、自主的に役目に戻ってくれましたみたいな解決法である。
基本的に四国、神戸と行く先々でミミズを見かけて戸締まりするアクションシーンというのが連続で起きる。
また各地で出会う人々もそれほど深掘りされることはない。
これが東京まで来るとそれなりに街の描き方が生き生きとしてくるし、後半のキーパーソンになる芹澤が登場する。前半と後半で明らかに映画の趣旨がガラリと変わっている。
だからこそ前半の時間の使い方はもったいなかった。(後半にほとんど繋がっていかない)
おばさんも遠くで心配してる描写を延々はさむぐらいなら、もう少し後半の決裂に至る問題点(避難者受け入れ、被災者遺族の家庭の問題)をやっとけばよかったのに。
ロードムービーをする都合上、各地を巡り、そこで出会う人々とのつながりを書く必要があるので登場人物が増える。
そうするとそれぞれのキャラクターに割ける時間が相対的に少なくなるので、魅力を描写する時間が足りなくなる。
途中で出会った人々を後半に繋げるでもなく、主要キャラの問題点の提示や成長に繋げるわけでもない。何がしたいんだ。
新海が触りたかったものはロードムービー、3.11被災者への応援、衰退する地方都市、避難民と家庭環境、自然への畏敬、民間信仰、恋愛あたりだろう。
終盤で、主人公が過去の自分を見つけ、この世界は明るいんだと、ド直球な被災者への応援メッセージを長々とぶちかましていく。
一方で衰退する地方都市と自然に還る廃墟を映し、戸締まりの際の呪文、山河をお返し申す、人間が使ってきた土地を自然に返すという話であろうが本当に触れるだけだし、それを3.11テーマとどういうリンクをさせるつもりだったんだ。
ある種の無常観というか平家物語的な持っていき方をするわけでもなく、災害はそれはそれとして悼みます、という一貫性のなさ。
おばと主人公の決裂も、避難民の子供引き取っちゃったせいで人生めちゃくちゃやん→ごめん言い過ぎたわ……。で終わり。
ダイジン、サダイジン、それにキャラクターの名前を見ても民間信仰というか古代神道系の話っぽいなぁとは思ったが、そこもそれほど深掘りされず。
どうでもいいけど九州の要石、廃墟と化してるとはいえめっちゃ現代的な施設の真ん中付近に刺さってるの謎すぎるやろ。
男側の感情が一切見えない上に、女側もイケメンと旅して、神戸でいきなり発情し始めて椅子にキスするという展開を伏線としてクライマックスで結ばれましたってやるの強引すぎるだろ。
今作は終盤に使うために仕込んだ伏線が、全て雑すぎて、「前に説明してましたよね?」と新海が言い訳するために挟まれるシーンが多すぎる。
戸締まりをする際に、その土地の人々に思いを巡らせる、というのもすずめにとっては何の縁もない土地の思い出が想起されるのは変だろう、と思っていると、終盤に被災前の人々の情景を描くシーンがあり、ああ、これのための言い訳だったのかと理解した。
なんなんすかね、これ。
小学生~中学生にかけて、毎月親の友達とその子供との食事会があった。
テーブルは子供と親に別れて、親は親同士で話をし、子供は子供同士だった。
子供同士も毎月会っているし、昔から知ってるし、同じスイミングスクールに通ってるしで、仲は良かった。
会えばわーキャーしゃべっていた。
ルッコラが苦い、小エビがとりすぎなんていいながら皆で食べた。
お互い住んでいる市が違うので中学も違う。
向こうは荒れている中学だったらしい。
一人がそのうちに学校に行かなくなり、そして食事会にも来なくなった。
親はそれを私にだけ黙っていた。
それが今も悲しい。私は知っていたから。
また私が中学生になる年に父が亡くなった。
突然の死だった。
なんとなくいつも通りに遊んで、帰りに
と誰かが言い始めた。
みんなでとまりたい!泊りたい!!
と親に言っていた。
これは30歳になった今でも覚える。なんでなんでなんでなんでなんでば
涙ながらに見ていた。
親は「ごはんなにたべよっかー?」とこっちの気も気にせずに聞いていた
私はぶすくれていた。行きたかった。いまも
今もお泊り会に行きたい。でもいけないことも分かっている。
みんな大きくなって、みんなそれぞれあって、もう無理なのはわかっている。
同じ味がした。一人なのにね。
ついでに青豆も食べた。衝撃のうまさだった。
私は特に熱心なVtuberのファンというわけではない。活動を欠かさず追い続けている特定のVtuberがいるわけではなく、ましてグッズやイベント、投げ銭などの有料コンテンツに金を払っているわけでもない。自分が作業やゲームをするときBGM/BGVとして、また暇なときや眠れないときなどに気に入った配信者(Vtuberに限らない)の動画を流したりする程度だ。
そんな私がVtuberの配信を見るようになったきっかけになった子が卒業するらしい。
彼女を知ったのはVtuberの身内のゲーム大会で、まだ1年も経っていないのではないか。その集団の中でも有名なVtuberを切り抜き動画で何人か知っている程度だったが、大会での彼女の快進撃には注目せざるを得なかった。
自身の思い入れのあるキャラクターたちを相棒として選び、彼らを活躍させて勝つため対戦相手を分析し、準備した結果導いた勝ち筋を通して勝利を重ねて行ったのだ。
彼女より登録者が多かったり、有力視されていたりする対戦相手に対しても勇敢に戦い勝利して行く姿は、見ている私をも熱くさせ、すぐに虜になった。それはかつてニコニコ動画などでも見ることができたような感動を思い起こさせるものだったのだ。
その後は時間が合えば彼女の配信を見るようになったが、その雰囲気が心地よいものだった。
他のVtuberも見るようになったが、配信の回数を追うごとにVtuberなのか演者そのものなのかよくわからなくなってくる人も見受けられる中、彼女は彼女自身が考える見せ方にとても気を遣っていたように思う。
彼女の場合も、どうしても演者のパーソナリティが漏れてしまうこともあり、私はそれも含めて好きだったのだが、彼女はそこを見られることはあまり好んでいなかったように思う。
また、私が知ったきっかけの大会に出ているように他のVtuberとの交流もありながら、流行に乗るだけではなく、どちらかといえば一定の距離を取ることもあり、自分のやりたいことをして、視聴者とやりとりしつつ配信するスタイルも魅力的だった。
あるいは小学校のときに仲の良かった同級生が転校したときのような、清原が引退したときのような、そんな寂しさだろうか。
しかし、同級生は25年経った今でも(おそらく)どこかで人生を送っていることだろうし、清原は引退しようが逮捕されようが、「NoシャブNoライフ!」と叫ぼうが、その後に送っている人生を知ることができる。
より近い感覚としては、親が突然余命宣告されたとき、または少しの間会っていなかった友人が急死したときのそれかもしれない(画面の向こうのVtuberに対して親を引き合いに出すのはどうかと思われるかもしれないが、私は世間一般に比して親のことをあまり好きとは言えなかったので、まあ適当な塩梅なのではないかと思ったのだ。)。
つまり、Vtuberの卒業とは突然の死なのだ。それについては過去に散々議論はされているものと思うが、私はそう感じた。「言葉」ではなく「心」で理解できた、と言うべきか。
しかし、卒業の知らせがショックであった一方で、彼女が「卒業」という選択をすることができたのはある意味幸福であるようにも思う。この業界(と言うほどに私は詳しくもないが)、突然の活動休止や謹慎、その後の引退や契約解除になるケースも珍しくない中で、彼女は自分の見せたいことをやりきった結果として、というかそれを完成させるために「卒業」へ至ったようにも見えるからだ。
活動の中で垣間見える演者の人柄を見るに、これまでの人生必ずしも順風満帆ではなかったのではないかと(邪推ならいいのだが)思えることもあった。それが良い方向に向かうよう努力している様子も伺え、内心それを応援していた私としては、演者の人生がより良い将来に繋がってほしいものだ。
じゃあ今の男は戦ってないから
社会が押しつける男性らしさを発揮するために働いて外に出て戦ってるでしょ
それでだめになると社会からお前はダメなのだとレッテルを貼られるから
どうしようもなくなっていって男性の自殺者は今も昔も多いんだけどわかってる?
女が男の奴隷になっていたのではなくって、女は家を守り男は外で戦っていただけの話しを奴隷だったんだとか
その現代論理感を捨てろって言ってるのに現代論理感でしか語れないのか?
現代においても別に専業主婦になりたい女性がいたっていいし兼業主婦になりたい女性がいたっていいしバリキャリで働きたい女性がいたって良い。
同時に専業主夫になりたい男性がいたって良いし兼業主夫になりたい男性がいたって良いしバリキャリで働きたい男性がいたって良い。んだよ
どっちも成立するべきなのにもかかわらず社会は後者を否定的に捉える風潮がある。
だから、男は辛いんだけど社会が求める男性らしさのために男は限界まで走って行くからその先が突然の死になりやすいの。
実家暮らしを隠さないでマッチングアプリ、なかなかセルフハンディキャッピングしてる感ある。
絶対なんか言われる。
それでも気合でマッチングやメッセージやデートに漕ぎ着けるが、突然の死を迎える可能性に常にビクビクしている。
とりあえず、今日遊ぶのが消滅しても落ち込まずにいられるように、それ以外の時間に生産的なことしたい。
あとは、出かける準備して、都知事選の選挙に行って(期日前投票は結局面倒だったからやらなかった)、街へ出かけてちょっと時間を潰したらエネミーエンカウントだ。
期待しないことが大切だ。
ちょっと空き時間ができると、精神を落ち着かせるためにゲームしたくなるの、禁断症状出てる人みたいでやばいな。
今日のデートがうまくいくいかないに関係なく、コツコツ勉強して資格取って就職して一人暮らししてって4コンボをかましたいけど、またダメだったら荒れるんだろうな。
どんな事情があっても、やるやつはやるし、やらないやつはやらない。
まだ覚えてる人はいるだろうか、100日後に死ぬワニ。すでに記憶から風化しつつある人も多いのではないか。
あのtwitter漫画は「善良な一市民の平凡な日常も、突然の死により断絶し得る」というテーマを、死の前日までの99日間、貫き通したものであった。
そんなワニに感情移入する者が多かったが故か、100日目の怒涛の広告展開に憤る者も多かった。
それが、恐らく後の日本の歴史で分岐点として語られるであろう「3連休」初日の話だ。
その時、既に欧米では「平凡な日常」が喪われつつあった。もしくは既に喪われていた。
にも関わらず、日本では「危機は去った」と言わんばかりに警戒を緩める者が大勢いた。大規模興行も行われた。
水面下では帰国者による感染拡大が急速に進んでいたにも関わらず、だ。
今ようやく我々も「平凡な日常」の崩壊の危機に瀕していることを悟ろうとしている。来週には「3連休」の結果が出ることだろう。
そんな状況では「善良な一市民の平凡な日常も、突然の死により断絶し得る」というメッセージそのものが意味を成さなくなる。
だから、100日後に死ぬワニの広告展開は、一刻一秒を争うものだったのではないか。
泡沫の夢のような小康状態の「3連休」初日、皆がまだ「平凡な日常」が続くと当たり前に信じていたあのタイミングを逃すと、日常崩壊の悲鳴に広告の声も掻き消されていたのではないだろうか。
7年前に買ったうちのiMacもまったく不便なく快適に使えていたのだが、去年HDDが逝って起動しなくなった。
壊れそうな予兆はなかった。うちのパソコンが壊れるなんて思ってもいなくて、バックアップ? なにそれおいしいの? 状態。
当然のごとく大切なデータはほぼすべて逝った。クラウドのありがたさを知った。
調べてみるとiMacの使用年数は5年、iPhoneの使用年数は3年と想定されてるらしい。
うちのiMac 21.5インチは13万円ほどで購入したのでたしかにコストパフォーマンスは良かったが、いま新しく買おうとしてるiMac 5Kは20万以上かかる。
HDDはそもそも壊れやすいらしいし、また5〜6年で寿命が来ると思うと20万円〜の価格はやや割高に感じてしまい、逡巡してはや1年。
Windowsは画面を見るだけで鳥肌が立つほど嫌いなので無理。Macじゃないと無理。
次はバックアップを万全にする。でもそれだけで金がけっこうかかるんだよなぁ。