はてなキーワード: 岸信介とは
戦後は飢餓状態になり、区を通じて米軍支給品のコンビーフなどを配給した。“犬と同じ餌付けだ”と感じたが、食べなければ死んでしまうからみんな列をつくって並んだ。アメリカは日本人など虫けらぐらいにしか思っていないのに、日本の偉い連中はアメリカのために死ねという法案を通す。私たちには今も怨念がある。どんどん暴いてくれ。銀座のど真ん中でやってほしい」と訴えていた。
C 原爆投下後の広島、長崎に匹敵するような悲惨さだった。米軍は春風の強く吹く3月という時期、民家を効率よく焼き払うための油脂焼夷弾の開発、空襲の手順も含めて用意周到に準備し、一般市民の民家が密集する下町地域をとり囲むように爆弾を投下している。火の壁で逃げ場をふさいで集中砲火を浴びせ、火の海を逃げ惑う人人に機銃掃射までやっている。
「機銃掃射で狙い撃ちしてくるパイロットが笑っていた顔が忘れられない」と何人もの人が語っていた。黒焦げの死体だけでなく、窒息死してピンク色をした遺体が蝋人形のように散乱し、それらが公園や学校などで山積みにされて焼かれたという。墨田区錦糸町では、錦糸公園で約1万4000体が焼かれて仮埋葬されたというが、それを伝える看板一つない。あまりの多さで処理できない遺体は何日もかけて川や海に捨てられていたという。
隅田川にかかる橋の欄干や、総武線のガード下などには今でも積み重なって焼き殺された人間の油がそのままの形で染みついて、何度ペンキを塗っても浮き出てくるのだと語られていた。5月の品川での空襲でも「真夜中にガソリンを撒いて焼夷弾をばらまいた」といわれていたが、「あれが戦争犯罪でなくてなんなのか!」と、7、80代の年配者が語っていた。とても昔話という雰囲気ではない。本当に語る場所がなかったからこその鬱積した思いがある。公園などに仮埋葬された11万体といわれる遺骨は、関東大震災の慰霊堂(墨田区横網)に一緒に入れられている。
東京空襲を弔う単独の慰霊施設はいまだにない。なぜそんなことになっているのかだ。
D 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目町会では今年3月、町内の空襲犠牲者789人の名前を刻んだ墓誌を建立した。町会役員によれば、当時の町会長が戦後すぐに空襲による町内の犠牲者を調べ、焼失を免れた戦時国債購入者名簿を頼りに『戦災死没者過去帳』という約10㍍にもなる巻物をつくって保管していたから建立できたという。遺族の「この地域に住んでいた人人の証となる供養の場所がほしい」という願いが70年をへてやっと実現した。
E 墓誌をつくるための調査で、1家12人が全滅した家もあったことなど、地元の人も初めて知る事実が明らかになっているが、都にも当時の犠牲者名簿などの資料があるにも関わらず遺族が申請しても公開されないのだといわれていた。
地蔵や碑の建立についても「宗教的なものは受け付けない」とかの理由で許可は下りず、「黙認する」程度だという。行政から助成も受けられないため、発起人を中心に町内外に呼びかけたら、続続と寄付が寄せられてつくることができたといっていた。
終戦直後にも数千人が空襲で亡くなった墨田区の菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所から拒否されている。河畔を改装するたびに白骨がたくさん出てきたので「これ以上放っておくわけにはいかない」と住民が独自に地蔵を建立して毎年法要している。
D ある遺族から、1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書のコピーを見せてもらった。当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔の建設計画に対して、官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てた通達だ。
「一、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。二、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針が明記され、これに協力するため「この方針を徹底的に守るようにしなさい」と記されている。
70年たっていながらこの占領下のプレスコードがいまだに続いていることに驚いた。
A 25万人もの都民を殺戮しながら意図的に攻撃対象から外したものもある。ここからアメリカの東京空襲の狙いが見てとれる。
C 代表格は皇居だ。東京のど真ん中に広大な面積を持つ皇居について、米軍ははじめから「攻撃対象にしない」という指令を徹底していたし、天皇側もそれを知っていた。皇居北側の近衛師団司令部、東部軍司令部などの軍中枢部や、市ヶ谷の陸軍省・参謀本部(現・防衛省)など、本来狙われるべき軍中枢が無傷だった。赤坂離宮(現・迎賓館)、青山御所、新宿御苑、浜離宮、上野公園などの皇室所有地や、官僚機構の一端を担っていた皇族住居はことごとく攻撃の対象外だ。
東京駅は焼失したが、皇居に挟まれた丸の内の金融ビル街も残った。三菱本社、三菱銀行、三菱商事、日本興業銀行、横浜正金銀行、東京銀行、第一銀行、勧業銀行、関東配電(東京電力)などの財閥のビルが林立している。朝日、毎日などの新聞各社、放送会館(NHK)も残った。八重洲では日銀、三井本館。永田町や霞ヶ関でも、内閣府、国会議事堂、警視庁、内務省、大蔵省などが残された。ちなみに上野公園に隣接する三菱財閥統帥の岩崎久弥邸も攻撃を受けていない。広島、長崎、下関空襲でも三菱の主要工場は無傷であり、政財界とアメリカの盟友関係を裏付けている。
軍施設がほとんど残されているのが特徴で、陸軍の心臓部といえる赤羽の陸軍造兵廠、陸軍火薬庫、工兵大隊、陸軍被服本廠、兵器支廠、東京第一、第二兵器補給廠も周囲が焦土になるなかでわざわざ残されている。代々木の近衛輜重大隊、陸軍輜重連隊官舎、広大な駒場練兵場や野砲隊の官舎群もみな無傷だ。
E 工業施設でも、東芝本社のある芝浦工業団地から品川駅付近の港湾施設も攻撃されなかった。全滅した深川区に隣接する石川島造船所、佃島、月島など東京湾に面した工業施設、南部工業地帯の蒲田でも中心市街地が徹底的に焼き尽くされたが、羽田飛行場などの軍需施設はほとんど攻撃されていない。「米軍作戦任務報告書」に記された工業的目標はわずか22カ所に過ぎないが、そのうち破壊したのは18%だと記されている。実は無差別爆撃ではない。絨毯爆撃ではあるが、アメリカの対日支配に役立つものは残し、その邪魔になる庶民は殺すと極めて明確に選別している。
B 「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。原爆投下と同じく「戦争を終わらせるためにやむをえぬ」というものではなく、日本を単独占領するために国民の抵抗力を摘むための大量殺戮だった。
米軍の皆殺し作戦 殺すに任せた支配機構
A 東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。
F 広島、長崎への原爆投下でも、軍はB29に対してレーダー照射をして来襲を事前につかんでいた。大本営は原爆投下機の接近を信号を受信して知っていた。長崎では、B29を迎撃する部隊が大村航空隊で待機して出撃命令を待っていたが、結局、命令は下りなかった。NHKも当時のパイロットが怒って証言する場面を放映していた。
A 終戦末期になると特高警察がマークしたのは青年将校だった。敗戦が濃厚になるなかでこれらが反乱を起こすことを恐れた。左翼は早くに壊滅しているが、青年将校らは戦斗経験もあり、速やかにアメリカの占領下に誘導しようとしていた軍上層部にとっては脅威だった。敗戦が決定的になっても国民には「一億総玉砕」を叫んで、若者には特攻作戦をやらせ、本土を死守させる体制をとりながら、上層部が終戦工作にいそしむことに彼らの反発はすごかった。
天皇の「終戦の詔勅」の放送を前に、陸軍の青年将校が近衛師団長を殺害し、録音盤を奪おうとした事件もそうだが、マッカーサーが厚木に降り立つときにも迎え撃つという騒動があり、青年将校に影響力をもつ高松宮が必死になって抑えて回ったというのは有名な話だ。
B 敗戦直後、内地では軍を通じて直ちに武装解除させた。あれは天皇の命令だけでは動かない。軍司令部の指揮系統が動かなければできない。それを米軍上陸前にやらせるためには軍中枢を残しておかなければいけない。もともと海軍をはじめ軍中枢部分には親米派が多かった。陸軍も中国大陸で行き詰まって南進作戦に切り替え、南方の島島に兵隊を放り込んで食料も弾薬も送らない。ニューギニア戦線の体験者も「毎日イモばっかりつくっていた」という。南方はほとんどが餓死と病死だ。
D 敗戦を迎えるにあたって、あのドサクサのなかで米軍上陸、単独占領に誰が荷担したのか。東京大空襲で無傷だった施設を見ただけでも歴然としている。戦後は「財閥解体」といったが、財閥はしっかりと温存された。戦争に国民を投げ込んだ天皇はじめ、官僚機構も丸ごと温存された。開戦時の商工大臣をしていた岸信介が、その後CIAのエージェントとして力を与えられたのが象徴的だが、政界、官僚世界などが叩きつぶされることもなく、対日占領の協力者としてせっせとアメリカに媚びて戦後も機能していった。メディアでも大本営の中枢にいた読売新聞の正力松太郎や朝日新聞の緒方竹虎などがCIAのエージェントとして活躍する始末だ。
イラクでもアフガンでも、他国を占領しようと思えば必ず抵抗があるし、何年かかってでも肉弾戦で侵略者を叩き出そうとするものだ。日本の場合、なぜ無抵抗に近い形で単独占領することができたのか。それは支配機構が丸ごと占領の協力者になり、国を売り飛ばしたからだ。支配機構が軍事支配を受けながらアメリカの道具になって戦後は機能していった。それが今日まで続いている。
E 空襲で生き残った下町の人たちは、戦後は食べ物がなくて生活できないのでみんな市外に出て行ったという。国民を抵抗できないようにバラバラにさせている。抵抗力を削ぐために徹底的に空襲を加えたし、首都圏の人人はとにかくその日を生きるのが精一杯の状況になった。首都圏制圧のためにあれほどの空襲をやって、まさにショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)で占領していった。
C 食料を意図的に統制したので、戦後の方が食料難がひどかった。当時の調達係の人が証言していたが、米軍が国内の食料倉庫を統制して食料危機に追い込んだ。米軍は関門海峡などの機雷封鎖も「スターべーション(飢餓作戦)」と名付けていた。国内から戦地へ食料を送らせない、大陸から送られてくる食料を遮断するための飢餓作戦だった。
都市部はとにかく食べるものがない。配給でもらった大豆をポケットに入れて、それを食べて水を飲んで膨らませて空腹をしのいでいたという。飢え死にが出るような飢餓状態に追い込んでおいて、ララ物資などのアメリカからの、それこそ家畜の餌になる食料が入れられた。そんな屈辱に国会で感謝決議したこともあった。
E 戦後の上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちは生きるために窃盗や売春をせざるを得なかった。GHQは「治安対策」を名目にして浮浪児を見つけ次第捕らえる「狩り込み」をやり、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設に強制的に送致し、檻(おり)に入れて監視・収容することまでやった。
B すでに武装解除しているのに進駐軍は必ず銃を携行して、電車も絶対に米兵専用車両に乗るし、接収した建物も日本人は立ち入り禁止にした。「彼らは日本人の反撃を恐れていた」と語られていた。
A 例えば、日本軍が満州を占領統治するのに100万人の軍隊がいったといわれる。日本を占領するには本来100万では足りない。それを日本の支配階級が従って代理政治をすることで米軍の負担を軽くできた。イラクやシリアを見ても、むき出しの占領支配になれば人民の抵抗を抑えることは難しい。それを天皇以下支配階級が全面的に協力し、それによって地位を守るという関係があったから占領できたということだ。
F 同じ敗戦国でも、ドイツではナチス関係者は戦後はみんな追放された。新聞社などもみな解散させられた。連合国による全面講和を結び一国に縛られなかったから、独立の自由性がある。アメリカが単独占領した日本との違いだ。
90年代の米ソ二極構造が終わったときもドイツは独立の方に行き、日本は対米隷属の方に行くので、ドイツ首相から「慌てるな」となだめられたほどだ。その従属路線が現在までエスカレートして、安保法制まできている。
A 現在でも官僚機構も含めて各省庁ごとにアメリカ直結だ。財務省も経産省も防衛省もだ。政策についてもアメリカ大使館の指示の方が強い。
米財務長官サマーズが何度も日本の財務省に直接怒鳴り込んできたし、原発事故のときもアメリカ政府関係者が首相官邸に乗り込んでいって菅直人を怒鳴りつけて指示を出す。アメリカの圧力なしに、民主党の鳩山、菅から野田までの変遷ぶりというのは理解ができない。現在の安倍の突っ走りにいたるまで対米従属の系譜だ。
財閥やメディアも米軍占領下で地位守る
C 原爆展キャラバンのなかで、戦時中に赤坂見附に住んでいて親族がアメリカ大使館に出入りしていたという婦人が、「アメリカ大使館の外側は私服警察の警備で物物しかったが、中にいる在日米国人は戦時中にもかかわらず中庭でゴルフをしていたり、まるで勝ち戦の後のような余裕ある生活をしていた」と疑問を語っていた。
F 当時の駐日大使ジョセフ・グルーがアメリカ本国に帰国するのは真珠湾攻撃の半年後だった。グルーは日本では天皇を中心とする「宮廷外交」を基本にし、軍部の反米派と対立傾向にあった天皇側近の木戸幸一、重光葵、吉田茂、近衛文麿などを「自由主義者・穏健派」と見なして親交を深めていた。開戦後の半年間で終戦までのプログラムをつくる工作をやっていた。
グルーは秩父宮に「安心しろ」といって帰国したが、アメリカ本国では「皇居は攻撃してはならない」、天皇は「軍国主義崇拝に役立ったと同様に象徴として役立つ」と説いて回り、吉田茂とも直接手紙をやりとりしていた。
のちの駐日大使ライシャワーは当時諜報部員だったが、この方向で「天皇を傀儡にして間接統治する」という占領プログラムをつくった。そこでは、戦争中も「短波放送の聴取が許される500人ぐらいの日本のエリートに常に知的な情報を粘り強く伝達せよ」と米陸軍に提案している。実際、1945年5月から「ザカリアス放送」という日本の上層のごく限られた者しか聞くことができない短波の日本向け放送をやり、いつどこを空襲するとか、広島、長崎への原爆投下をいつやるかも全て伝達していた。
これら米軍からの情報を集中しながら六月段階で、米軍の攻撃を全部開けて通して、「アメリカに敗北することで自分たちの地位は保証されることが約束されている」と側近の木戸幸一が天皇に提言している。
A 2月には、アメリカから情報を得ていた吉田茂が近衛文麿に天皇上奏文を書かせた。「米英は国体(天皇制)の変更までは要求していない。最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴っておこる共産革命だ」というものだ。彼らの関心は戦争の勝敗などではなく、いかに国民を押さえつけてアメリカの占領下で地位を守ってもらうかだった。そのためなら原爆を落とされることも甘受するし、東京を焼き払って人民大衆をへとへとに疲れさせることはむしろ好都合という関係だった。
F 財界も最初から通じていた。三菱財閥統帥の岩崎小弥太は、開戦にあたっては「アメリカとは友人だから心配するな」と訓示し、敗戦時は「これから愉快に仕事ができる」と発言している。また、戦争末期には、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎、日産コンツェルンの鮎川義介、浅野財閥の浅野良三などの財界代表が内閣の顧問会議を形成していた。藤山によれば、終戦6日前の閣議でアメリカとの経済関係をただちに回復させる計画を発表し、「自分たちの時代がやってきた」と喜び、軽井沢の別荘でシャンパンのコルクを抜き、新時代到来を祝して乾杯したという。はじめからアメリカは自分たちを大事に扱うことを確信していた。グルー自身が三菱とつながりの深いモルガン財閥の代理人で、戦前から投資していた権益、金融資産を含めてどう守るかというのが主任務だった。日本の財界人との関係ではアメリカ留学組が多く、鮎川とフォード、浅野とルーズベルトなど、人脈もできあがっていた。
A 天皇をはじめとする支配中枢も財界も、中国への侵略戦争で行き詰まり、負けることはわかりきっているが、中国に負けることになれば日本における支配的地位が失われる。だから日米開戦に突っ込んでいき、アメリカに降伏することで地位を守ってもらう。そのためには国民を犠牲にしなければいけないという意図が貫かれている。
C 東京はすべての政治勢力の本部があるところだが、東京空襲の慰霊碑問題をみても、都民の切実な要求をすくい上げるところがなかった。そこには、第一に米軍による抑圧、宣伝がある。いかにもアメリカが平和と民主主義の味方であり、日本を解放するための戦争をやり、原爆も空襲も戦争を終結させるためにはやむをえなかったかのように徹底的に宣伝したし、戦前以上の言論統制と弾圧をやり、反米につながる原爆や東京空襲についての言論を封殺した。
もう一つは、人民の側に立つべき共産党の指導部が「アメリカは解放軍」と規定して、旧軍部を批判するが、原爆にしても東京空襲にしてもアメリカの犯罪を問わずに来たことが大きい。都民はアメリカと共産党指導部の両方から抑圧され、ものがいえなくなる関係だ。
B 大衆のなかでは東京空襲への鬱積した怒りがあるが、東京で生まれた戦後世代でもほとんどその全貌を知らずにきた。そこでは革新勢力が進歩的な装いで「日本軍が重慶を先に空襲したから、それを反省すべきだ」「日本がひき起こした戦争だから仕方がない」という論調をふりまいてきたことが大きい。原爆投下を「日本の軍部から解放するために必要だった」というのと共通している。
F 共産党は戦前、天皇制の弾圧もあるが、大衆と結びつけず自然消滅をたどった。そのことの反省もなく「獄中18年」を威張り、アメリカを解放してくれた友と見なす一方で、庶民を戦争に協力したと蔑視してきた。特攻隊経験者や戦地に駆り出された者も、「予科練崩れ」「戦争加害者」などといって攻撃し、敵と友を転倒させてしまった。
徳田球一ら指導部中枢は、米軍に釈放されてすぐの人民大会でGHQまでデモ行進し、「解放軍万歳」を3唱した。「民主主義革命の端緒を開いた」といってマッカーサーに感謝し、GHQに入り浸り反米の情報を提供していた。東京空襲も原爆についてもそのような感謝が根底にあるから、正面から批判させない。知識人のなかでも対米従属問題についてなかなか触れることができないということも独特の抑圧構図を象徴している。
A アメリカがプレスコードをかけて行政機構が協力したし、東京空襲についても語らせなかった。そして共産党はあれほどひどい目にあった都民のことを無視して、アメリカを平和と民主主義の友と見なした。敵と友を転倒させて、むしろ大衆を敵扱いしていった。だからいまもって東京空襲について無関心できている。都民の苦労というものにまったく思いがなかったということだ。
C アメリカ民主主義がよかったというが、70年たってみてどうか。日本の富はみな吸い上げられて散散な状況になっている。遠慮知らずのアメリカが、終いには米軍の身代わりで自衛隊を戦地に引っ張り出すところまできた。それで安倍晋三がせっせと協力している。売国政治の根っこは何もかわっていない。左翼の戦後出発について先ほども触れていたが、都民の苦難に足場を置かずに抽象的な全国政治か何かを主張しても話にならない。大衆的というのは地方的で具体的だ。そこに足場を置かなければ全国の普遍性は見えない。東京にはあれだけ政党の本部があって、学者も日本一いながら東京大空襲の惨劇について怒りをもってアメリカを糾弾する勢力がいない。
A 東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。これは原爆を投下された広島と比べたら明確な違いがある。広島には平和公園も資料館も供養塔もある。八月六日になるとみなが早朝からお参りに足を運んでいる。十数万人の命日だからだ。そして町のいたるところに町内会、学校、職場などいろんな単位の慰霊碑がある。何が違うのかだ。広島はたたかってきたからだ。戦後は広島でもプレスコードがかかっていて原爆のことを語らせない力が働いていた。「終戦のためにやむを得ぬ手段だった」というので原爆投下への怒りをかき消し、徹底的にとり締まっていた。
しかし当時、風呂屋に行くとみながケロイドを見せながら延延と語っていたという。それを当時の広島では「アメリカの人類に対する犯罪だ!」と真っ向から暴露して斗争がはじまった。占領下の50年8月6日の斗争が端緒を切り開いた。そして5年後には世界大会まで発展した。
この運動を指導したのが福田正義主幹(本紙)をはじめとした共産党中国地方委員会だったが、当時も東京の共産党中枢が「アメリカ解放軍」規定で中国地方におけるたたかいを弾圧していた。これと同じ構造が東京では現在でも生きている。日本人民の苦難の側から敵を暴露するのでなく、友と見なす。戦後出発に大きな違いがあった。
分かれ道は敵は誰か、友は誰かが鮮明でないといけない。あれほど殺されているのにアメリカ民主主義のインチキに幻想をもったら大変なことだ。アメリカが日本を侵略した敵だ。日本人民は戦中も戦後も大変な目にあってきた。人民の敵に対する憎しみと人民への愛情が統一されていないといけない。その人民を代表して敵を暴露する立場でないといけない。東京でもそれが問われている。
A 東京をはじめ首都圏は、沖縄に次いで米軍基地が多い。東京都だけでも総面積は約1603㌶(東京ドーム約340個分の広さ)に及ぶ。空襲で攻撃対象から外された軍事施設は、ほぼ例外なく米軍基地や自衛隊施設へ変わった。横田基地は在日米軍司令部であり、すべての在日米軍と自衛隊を統括する指揮所だ。神奈川県には、原子力空母を擁する米海軍第七艦隊の拠点である横須賀基地が盤踞し、在日米陸軍司令部、第一軍団前方司令部など米陸軍司令塔であるキャンプ座間をはじめ、爆発事故をおこした相模総合補給廠、通信施設、燃料貯蔵施設、住宅地、演習場などがひしめいている。
とくに横田基地は3350㍍の巨大滑走路を持ち、米軍人数は約3400人、国防総省文官200人、米軍家族含め約1万4000人もおり、米軍のアジア戦略における最重要拠点だ。その影響力から「横田幕府」とさえいわれる。米本土やハワイ、グアムなどから運んできた兵器や軍事物資を相模総合補給廠に備蓄し、戦時になると横浜ノースドックから搬出し、横田基地から空輸する体制で、西太平洋・東アジアを管轄する兵站補給基地だ。
東京都港区の六本木ヒルズがある都心にも赤坂プレスセンターといわれる米軍基地がある。その中身は、陸軍研究事務所、海軍アジア室、米軍の機関紙「星条旗新聞社」、保全連絡分遣隊、座間基地第78航空隊、独身将校宿舎、麻布米軍ヘリ基地だ。横田基地を経由して日本に侵入する基点として提供され、入国審査や税関などの規制は一切なく、ここから入国する人物については情報公開義務がない。地図上でも「白地」にするほどの機密扱いだ。
そのほかにも府中、由木、大和田、硫黄島の通信施設、日米合同委員会をおこなうニューサンノー米軍センター(港区)、米軍家族専用の娯楽施設である多摩サービス補助施設がある。敗戦直後208カ所あった米軍施設は住民の頑強なたたかいで「返還」されたが、実質どの施設もいつでも使える体制にある。朝鮮戦争の出撃基地となった立川飛行場は基地拡張が砂川斗争で頓挫し「返還」されたが航空自衛隊基地は米軍との共同使用であり、広大な国営公園、広域防災基地、道路、運動場として当時の施設はそっくりそのまま残されている。
地元でも「道路はいつでも滑走路に転用できるように周辺には高い建物や民家の建築規制がある。ひとたび戦争になれば街全体が一気に軍事基地に様変わりする」といわれていた。
B さらに首都圏の上空には、「横田ラプコン」と呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)にまたがる、広大な米軍専用空域がある。この空域の高度約7000㍍以下には米軍の許可なしには日本の民間機はいっさい進入できない。
羽田空港や成田空港を離着陸する航空機は、通常の離陸はできないため急激に高く上昇してラプコンを飛び越えるか、大回りしなければならない。それが離着陸時の事故、ニアミス事故の頻発につながっている。首都上空を飛行するのに米軍の許可が必要な国など他にはない。
A 沖縄が前線基地なのに対して、司令部が集中しているのが首都圏だ。日本の支配中枢を軍事で抑えつけることで日本全国を占領下に置く。その目的のために、大空襲であれほど殺し、戦後も軍事力を配置しているのだ。沖縄の問題はよそ事ではない。真珠湾でもフィリピンでも、ベトナム戦争でも、いったん攻撃をさせて「報復」を掲げて参戦するのがアメリカのやり方であり、司令部が集中する東京こそミサイルの標的にされる可能性は高い。
B 本所の東京空襲体験者の男性が、「アメリカが問題なのははっきりしているが、どの政治家や政党がこれとたたかえるのか! 結局、自分の地位を守るために裏切る政治屋ばっかりだ」と吐き捨てるようにいっていた。空襲後に軍隊に志願入隊して整備士として厚木飛行場に配置されたが、地下壕を掘らされるばかりでその地下施設を今は米軍が使っている。「戦後は焼け跡から町工場を営んできたが、TPPに参入すればこの仕事が奪われていく。全部アメリカのためだ。そういうことをもっと暴いてくれ」と切実に語っていた。昔から自民党の支持基盤であってもみんな上を信じていないし、内に秘めた思いは少少ではない。
F 東京大空襲は広島、長崎、沖縄に匹敵する大量殺戮だった。その真実をおおいに語り継がなければいけないし、それは日本を再びアメリカの戦争に引きずり込むことを許さない全国的な世論を発展させていく大きな力になる。そのためには、私心なく大衆のなかから意見を集中し、それを代表して導いていく政治勢力が必要だ。そこでは、自己主張ではなく、大衆的であると同時に敵を鮮明にして人民に奉仕する思想でやり抜くかどうかが問われる。
司会 今回の安保法制まできて、対米従属構造こそ日本の平和を脅かす根幹であり、これとの対決なしには再び日本は戦場にされる
安倍に対する「A級戦犯の孫」というフレーズを見るたびに、「この人は本音では人権などどうでもいいのだな」と思う。
まず、岸信介はA級戦犯容疑者として逮捕されたが、不起訴になり無罪放免されている。
これを「元A級戦犯」と呼ぶこと自体が「疑わしきは罰せず」「無罪の推定」という刑事裁判の大原則に反する。
しかも本人ではなく祖父の「容疑」を持ち出して批判材料にしている時点で、出自による差別としか言いようがない。
他にも学歴差別、不妊者差別、特定疾病差別を繰り返しながら、同時に「憲法守れ、人権守れ」などとのたまう輩がいる。
「権力者への批判は差別ではない」などと言うが、安倍の属性に対する差別発言は、安倍と同じ属性を持つ弱者にも突き刺さっている。
本当に人権を大事にしていたら、安倍だけではなく安倍と同じ属性を持つ人も傷つけることを言う前に気づけるはずだが。
普段は人権だ差別だヘイトだと言いながら、敵に対しては平気で差別発言を繰り出せる人たちだというのは、橋下の件で既にわかっていた。
江戸時代の日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府と諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。
などといった問題に対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度は
というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で
といった状態で、日本は近代的金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本は国立銀行への転換が進んでいった。
しかし殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題に対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。
結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式の中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。
このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦→関東大震災 に突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後の景気後退に震災によって銀行には不良債権が蓄積された。
上記のように各地に雑多に存在する金融資本は江戸時代のそれを引きずっていたため近代的銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。
その状態でさらに 1929 年 10 月 24 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。
かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場は大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義は継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。
こうした集権的かつ計画的な経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉は吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想と国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後の日本の内政を主導した。
全然関係ない話だが、社会主義、国家主義、反自由主義という思想セットは革新官僚のリーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。
戦後岸が政界に進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義は廃止され、戦後の資金流通の円滑化のために戦後地銀がいくらか設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。
このような情勢のなかで、戦後日本の金融当局==大蔵省は銀行に対して
を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。
これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合と兵庫銀行が倒産するに至った。
また長らくの護送船団によって日本の金融システムの陳腐化は著しく国際社会において東京が金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。
これらの問題に対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由なサービスや投資を行えるようになった。
ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣はバブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。
そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化、金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行、山一證券が破綻、翌 98 年には橋本内閣は総辞職、現在まで続く長い長い不景気が始まった。
しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行の経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行は合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。
結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的な理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己の立場の防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか。
そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer や技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。
僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほの現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。
集団的自衛権の容認をはじめ、なんだかんだ安倍晋三ってそれなりに政策の実現を図ってきて、
それなりの支持率をもってそれなりに成果を上げてきているんだろうと思うんだよね。
多分、それなりの成果を上げた総理大臣として歴史に残るんだろう。
それが良いのか悪いのかはとりあえず置いといて。
その一方で、安倍晋三って人には、あんまり教養は感じられないし、
文化人のお友達は、百田尚樹とか、そういうレベルしかいなそうだし
ちょっと自分に都合の悪いこと言われると、興奮して元々の早口がさらに早口になって、
何言ってんだか良くわからなくなるし、
あれで、たとえばプーチンとかと差しで対談して、あおられたらボロとかださないのかなあ?
とか心配になるんだけど、
なんというか、器が小さくって見ていられない時があるんだよね。
小学校か幼稚園から慶応か学習院に入れちゃえば、大学まで保障されるだろうに
成蹊に通わせたのは、たぶん、親は東大に入れようと思ってたからなんだろうけれど、
東大はおろか早慶に進むこともなく、そのまま大学まで成蹊に通っちゃったのは、まあ、その程度の成績だったんだろうし、
いわゆる受験勉強ができるってことと、本質的な頭の良さは別なんだろうけれど
直接会ってみるとまた違うのかな?
野田佳彦とか、演説とか討論とかみると、それなりに上手だなあと思うし、
小泉は、やはり演説とか世論を味方につける手法とか見事だなあと思ったし
ちと古いところだと、橋本龍太郎あたりは、
なんか女性を引き付けるルックスの良さとかもあったし、喋るとそれなりの重みがあったし、
アメリカの通商代表に「タフネゴシエーター」と呼ばれたこともあるらしいし、
思いつくのは「岸信介の孫」ってことだけで、話の内容以前に、滑舌なんとかならんのか?とか
そんなことばかり気になる人だ。
なんだろう。
結局「神輿は軽いほうがいい」ってことで、なんだかんだ官僚がやりたいようにやれて、
それを阻止するほどの頭も力もないから、それなりにうまく回っているのかな?
なにしろ九州が未曽有の大災害に襲われている渦中であるから、ひっそりとしか報じられていない印象だが、
安倍晋三が、今日から始まる靖国神社の春の例大祭に真榊を奉納したというニュースが流れている。
参拝は見送ったとのこと。
例のごとく、なぜ参拝しないのか、特亜に配慮なんかするな、戦没者の慰霊がなぜいけないのか、などと
最近はなんだが「マスゴミはなぜいちいちこんなことを報道して騒ぎにするのか?」などという発言も見られるが、
まあ「取り上げれば騒ぎになること」をとりあげるのはマスコミの仕事なのだから、取り上げてあたりまえである。
自分は、靖国神社の存在について、神道の伝統にしたがえばきわめて特殊な神社であると思う一方、
なにかと「首相の参拝実現を!」と叫ぶことには反対の立場である。
というか、首相などということよりも、もっともっと先に実現すべきことがあると考えている。
英霊たちは、岸信介の孫のパフォーマンスなんぞより、今上陛下の御心を待っているはずだ。
先帝陛下は、先の大戦に敗れて以降も、定期的に靖国に親拝されておられたが、1975年11月を最後に靖国を訪れることなく崩御された。
先帝陛下は、その大御心を無視して靖国神社がA級戦犯を合祀したことに対して不快感を持ったれており、
それが親拝されなくなった理由だという説がある
今上陛下がなぜ親拝されないのかということについては、現在の陛下のお立場から考えて、
少なくとも陛下のご在位の間には決して明らかになることはなかろうが、
「もし、今の状況で陛下が靖国に親拝されたりしたら、ハチの巣をつついたような騒ぎになる。
そんなところに、陛下がいかれるわけがない」と答えた、という話を読んだ記憶がある。
となれば、現在、行政の最高責任者である安倍晋三のなすべきは、
自らが「最高権力者でござい」という顔をして陛下を差し置いて靖国に赴くことではなく、
陛下が親拝されるとなれば、やれ軍港主義の復活だのなんのと騒ぐ輩が内外からでてこようが、
それは間違っている。
たしかに、先帝陛下は昭和20年まで大元帥として軍を統率されていたが、
敗戦によって軍服を脱がれて以降、荒廃する日本の各地に赴き、親しく国民と接せられ、
「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世になど波風の 立ちさわぐらむ」という明治大帝の御製を引かれて
その御心を示された方である。
軍服に威儀を正した大元帥陛下でおられるよりも、スーツとソフト帽の姿で民衆に手を振る象徴天皇でおられるほうが、
望みだったのではないかと、畏れ多くも推察する。
もしかしたら、庶民的な君主であろうとしたが故に、君側の奸に疎まれ、挙句は若くして病に倒れた父君
国籍や民族を問わず、先の大戦の悲劇を語り継ぎ、その犠牲者を慰霊することを
自らの責務として精力的に活動されていることは、近年の海外への慰霊の旅の数々をみれば、言うまでもあるまい。
先の大戦に敗れて「象徴天皇」という立場になって以降、日本の天皇というのは
英国の王族などは、軍務につき、結婚式では嬉々として軍服に身を包んでいたりするが、
現在、我が国の天皇はじめ皇族方は、けして軍服などという野蛮な服装に身を包むことなく、
我が国の事実上の軍隊である自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣であるから、その地位にあるものが靖国神社を参拝すれば
現行憲法下で今上陛下が靖国に参拝することが、軍国主義の復活につながるとはとても思えない。
もし、そのことで国内外に誤解があるのならば、その誤解を解くことこそが、首相の仕事であろう。
首相自身が靖国に行かないことで近隣諸国の懸念を防ぎ、陛下の親拝実現に一歩でも近づくのであれば、むしろそうすべきだ。
にもかかわらず、無用に近隣諸国との緊張を高め、陛下を差し置いて自らが靖国に行きたいなどという首相がいたならば、
それは、本当の意味で皇室を敬愛しているのでもなかれば、我が国のことを思っているとは、到底思えないのである。
そもそも現在でも陛下は、伊勢をはじめ、各地の神社や天皇陵を親拝されているし、
宮中では、日夜、神道の形式にのっとって、我が国の安定の民の幸福を祈っておられる。
もちろん、それは「象徴天皇」の「国事行為」ではなく、天皇家の私的な行事としてであって、
その区別は厳格にすべきだろうが。
皇室を敬愛する愛国者のふりをして、近隣諸国へのヘイトスピーチをばらまきつつ「首相の靖国参拝実現」を声高に叫び
結果として陛下の靖国親拝への道を遠ざけ、英霊の御霊の安らかなるを妨げるものは、
愛国者のフリをした不逞の輩というべきであろう。
私は「戦う政治家」に裏切られたり、最近ですと世界文化遺産登録のグダグダ等を見ると、
安倍首相の主張を聞く時には、毎回眉に唾をつけ過ぎて肌荒れを起こすようで正直辟易していますが、
今回の
父親の危篤時に安部首相がゲームボーイしてた!? → 検証不足でした - Togetterまとめ
については、そもそも叩かれる様なことかなぁ?、と。
私は過去にゲームギアとTVチューナーパックを持っていたので、以上の特徴からゲームギアと判断しました。
参考:ゲームボーイの形状 http://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/hardware/index.html
参考:ゲームギアとTVチューナーパックの形状 https://sega.jp/fb/segahard/gg/tuner.html
改めて叩かれている画像を見ると、私は藤本順一氏の「ゲームに興じていた」と言う言葉でバイアスが掛かっていたのは確かなので、
ゲームギアではなく、ただのポータブルテレビかも知れませんが、
少なくとも上記からゲームをしているのではなく、TVを見ている所なのではないか?と見えます。
私は15~20年ぐらい前の頃に、両親の祖父母四人が私の成人後に他界しています。
朝方に危篤状態に陥って、日暮れを待たず他界した場合もあれば、二日ほど続いた場合もあります。
両親は兄弟姉妹がそれぞれ3,4人いて、その連れ合いの人も含めて交代で見守り、
長かった時には私も同席しましたが、病室の外や待合室で出来る事は、待つこと以外にもう何も有りませんでした。
ただ無言で待つ人、交代で食事に行く人、気を紛らわす為に雑誌を読む人、待合室のモニターをただ眺める人と、様々でした。
その実体験から、「隣の病室でTVを見るぐらいはありではないでしょうか」と言えます。
以下は余談です。
藤本氏の主張は、
安倍晋三の父晋太郎が順天堂大学病院で闘病中、隣の病室に詰めていた秘書は、
すでに秘書官であった二男の晋三の忘れられない振る舞いについて述べている。
「父親の死期が近づき、無念の臨終を迎えるという時期に、隣の部屋でゲームに興じていた。
もちろん時間潰しというのもわかるが、何かしらやるべきことはあるだろうと思った。
彼が後継者なのかと思うと、どこかしら頼りなさを感じた。」
「本当はやりたくないんだよ」
父や父の秘書に監視されている状態の中での労働は確かに辛いかもしれない。
だが、周囲の秘書がすべてをやってくれる労働環境自体は申し分ない。
実際、安倍は時間つぶしに漫画を読んだり、ゲームをしたりしていた。
----引用ここまで----
安倍首相の最初の総理大臣就任の2006年に出版された「美しい国へ」と言う著書は、ほぼ母親と祖父 岸信介首相との思い出話で、
安倍晋太郎氏については「30代は政治家修行の為に秘書をしていた」程度しか触れておらず、
何らかの心情的な物が有ったのかも知れませんが、上記のソースについては、上杉氏と安倍首相との間のこれまでの経緯を見るに、
ゲームに興じていたと断定する根拠としては、いささかの疑念を挟む余地があると思います。
藤本氏の主張が
なのか、
なのかは分かりかねますが、
前者だとしたら、素人が「いやゲームでは無いでしょ」と判断出来るよう画像を証拠とするのは弱いと思いますし、
後者でしたらば、私の実体験から、病院に着いてしまえば、その程度をする(その程度しかできない)事が、取り沙汰される事なのか疑問に思います。
私は「戦う政治家」に裏切られたり、最近ですと世界文化遺産登録のグダグダ等を見ると、
安倍首相の主張を聞く時には、毎回眉に唾をつけ過ぎて肌荒れを起こすようで正直辟易していますが、
今回の
父親の危篤時に安部首相がゲームボーイしてた!? → 検証不足でした - Togetterまとめ
については、そもそも叩かれる様なことかなぁ?、と。
私は過去にゲームギアとTVチューナーパックを持っていたので、以上の特徴からゲームギアと判断しました。
参考:ゲームボーイの形状 http://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/hardware/index.html
参考:ゲームギアとTVチューナーパックの形状 https://sega.jp/fb/segahard/gg/tuner.html
改めて叩かれている画像を見ると、私は藤本順一氏の「ゲームに興じていた」と言う言葉でバイアスが掛かっていたのは確かなので、
ゲームギアではなく、ただのポータブルテレビかも知れませんが、
少なくとも上記からゲームをしているのではなく、TVを見ている所なのではないか?と見えます。
私は15~20年ぐらい前の頃に、両親の祖父母四人が私の成人後に他界しています。
朝方に危篤状態に陥って、日暮れを待たず他界した場合もあれば、二日ほど続いた場合もあります。
両親は兄弟姉妹がそれぞれ3,4人いて、その連れ合いの人も含めて交代で見守り、
長かった時には私も同席しましたが、病室の外や待合室で出来る事は、待つこと以外にもう何も有りませんでした。
ただ無言で待つ人、交代で食事に行く人、気を紛らわす為に雑誌を読む人、待合室のモニターをただ眺める人と、様々でした。
その実体験から、「隣の病室でTVを見るぐらいはありではないでしょうか」と言えます。
以下は余談です。
藤本氏の主張は、
安倍晋三の父晋太郎が順天堂大学病院で闘病中、隣の病室に詰めていた秘書は、
すでに秘書官であった二男の晋三の忘れられない振る舞いについて述べている。
「父親の死期が近づき、無念の臨終を迎えるという時期に、隣の部屋でゲームに興じていた。
もちろん時間潰しというのもわかるが、何かしらやるべきことはあるだろうと思った。
彼が後継者なのかと思うと、どこかしら頼りなさを感じた。」
「本当はやりたくないんだよ」
父や父の秘書に監視されている状態の中での労働は確かに辛いかもしれない。
だが、周囲の秘書がすべてをやってくれる労働環境自体は申し分ない。
実際、安倍は時間つぶしに漫画を読んだり、ゲームをしたりしていた。
----引用ここまで----
安倍首相の最初の総理大臣就任の2006年に出版された「美しい国へ」と言う著書は、ほぼ母親と祖父 岸信介首相との思い出話で、
安倍晋太郎氏については「30代は政治家修行の為に秘書をしていた」程度しか触れておらず、
何らかの心情的な物が有ったのかも知れませんが、上記のソースについては、上杉氏と安倍首相との間のこれまでの経緯を見るに、
ゲームに興じていたと断定するには、いささかの疑念を挟む余地があると思います。
藤本氏の主張が
なのか、
なのかは分かりかねますが、
前者だとしたら、素人が「いやゲームでは無いでしょ」と判断出来るよう画像を証拠とするのは弱いと思いますし、
後者でしたらば、私の実体験から、病院に着いてしまえば、その程度をする(その程度しかできない)事が、取り沙汰される事なのか疑問に思います。
現在、一度きりの人生に失敗した若者の自殺が急増してるという。就活失敗を苦に自殺がそうだ。
しかし、安倍はメディアを抱き込んで情報統制し、竹中路線を実施して労働者全体を殺して行っている(移民政策も今後行うという)。
更に在特会とかが出版してるヘイト本を政治資金から大量に捻出したりとそういった方面には余念がない。
在特会は日本人による組織・団体であるという物的証拠をこれまでに示された事は一度もない。
また、安倍は日本会議なるカルト団体に所属し、フランスでAB級以上のカルト宗教に認定されている朝鮮系統一教会の信者だ。
その上、安倍は祖父がA級戦犯岸信介であり、また親族には同じくA級戦犯松岡洋右がいる戦争加害者の一族だ。
これに加えて安倍は国民を更に疲弊すべく消費税率を来年までに10%に引き上げようと画策し、民間の正社員全体の給与が大幅に下がれば
挙句の果てはフランスやドイツ、アメリカですらも失敗した移民政策に着手しようとしているのだから、未来に生きているというか
これが本当のライフハックに違いない。
我々の生活を侵食して破壊してその上に新しい歴史修正主義らしい尤もらしい虚構で形成したライフワークを課そうとしているのだ。
彼らに反発しようものなら、メディアや司法を駆使した圧力やネット右翼を総動員しての反日扱い非国民扱いを受けるのだから嘆かわしい限りである。
彼らネトウヨは理解していないのだ、彼らが支持している物の先は徴兵制度による搾取行為、その糧にされるだけである。
このように自分を支える人間たちですら切り捨てるのだから、安倍という人物の愛国精神には困ったものである。
何しろ、一時期とはいえ、在日朝鮮人疑惑のあった安倍が、日本人を切り捨てるはずがない、というイデオロギーが存在し、
それを煽動するプロパガンダとして愛国を謳っているに過ぎないのにも拘らず
ネット右翼を始めとする安倍シンパは何も理解しようとせずこうした動きを歓迎しているのであるから笑ってしまうのである。
どうやら、こうした批判に対しても安倍シンパは無視する事が出来ないらしい。
ヘイトスピーチを批判したり反戦を歌うだけで目の仇にし、件の愛国精神(笑)による強烈な戦後レジームからの脱却が叫ばれる現代日本において
佐藤優「創価学会と平和主義」を読んだ。佐藤優にしてはつまらないと思うが、物語としては面白く読んだ。
集団的自衛権の話があったので、個人的に公明党には興味を持っていた。
公明党は護憲だったはずなのに今回は解釈改憲に協力したので、いろいろ批判もされていたが
その実態はけして「与党の椅子が惜しくて自民に迎合した」というような単純なものではなかったらしい。
公明党側が意図したのは、閣議決定と従来の政府見解(1972年見解)との論理的整合性を取ること、
言い方を変えれば、閣議決定を1972年見解から逸脱させないことだった。
そもそも「改憲は難しいので解釈変更で代用する」というのが安倍首相の目論見だったが
それに対して公明党は、内閣法制局を抱き込んでギリギリまで閣議決定を骨抜きにした上で
「これは従前の政府見解の基本的論理を変更するものではない。そもそも基本的論理にかかわる解釈変更は行えないし、その場合は改憲が必要」
とぶちあげた。
安保関連法案は来年以降だからまだ最終的な結論は出ていないが、
現状では集団的自衛権は確かに骨抜きにされているように見えるし、
骨抜きにされてなお強行した安倍首相の異様さばかりが際立っている。
偉大な祖父・岸信介が果たせなかった「米国と対等の国になる」という悲願に憑かれているのだと。
そのきわめて個人的な妄執に憑かれ暴走する安倍首相を掣肘できたのは、
民主でも社民でもなくもちろん共産でもなく、公明党だけだった。
残念に思うのは、
安保関連法案の審議で社民や共産がなんらかの役割を果たすことはないだろうということだ。
しかし共産党は結局のところ夢想的な理想主義に閉じこもってなんら現実にかかわろうとしなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20131226225317
>知りたいのは反対を押し切ってまで参拝するモチベーションは何かということです。
→
http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
ここでの安倍首相のじーちゃんの扱いを読んでくれ。一歩間違えれば自分のジーちゃんも靖国に合祀されてたかも。
>初詣や親の墓参りさえ積極的にしない世代なので得るものがないのに神社に行きたい気持ちがわかりません。
→世の中には「自分の価値観ではわかり得ないことを大事にする人がいる」のです。
ただ、現在生きている60代の世代が墓参りをとても重視しているということはわかります。
なぜ重視しているかは知りませんし、しろうとも思いませんが、その人たちの価値観は死ぬまで変わらないだろーなーと思います。
また、日本では選挙で当選するためには、「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」の3つのバンが必要であるとされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%90%E3%83%B3
以上から、靖国参拝は、地盤、看板の関係を考えてみるのがいいかも。
>はっきり書きます。この状況で参拝なんてしちゃうのは、バカだと思います。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130819/stt13081922320003-n1.htm
>産経新聞社とFNNの合同世論調査では、新藤義孝総務相ら3閣僚が終戦の日の8月15日に靖国神社を参拝したことについて51・3%が「妥当だ」と答え、「妥当でない」の38・5%を上回った
価値観の違う人たちが世の中にはたくさんいて、その人達の投票率は安定していて、数が多い。
暴走政権の戦犯・特高人脈
安倍政権、自民党が強行へ暴走している「秘密保護法案」。その推進の陣容を見てみると、日本の侵略戦争で戦犯容疑者となった政治家や特高(特別高等警察)官僚の息子や孫、娘婿が目立ちます。
安倍晋三首相の祖父は、太平洋戦争開戦時の東条英機内閣で商工大臣を務め、東京裁判でA級戦犯容疑者とされた岸信介氏。岸氏は戦後、首相として治安維持法の「予防拘禁」制度の復活(警察官職務執行法改悪)をくわだて、国民の批判を浴びて撤回に追い込まれた人物です。日本への核兵器持ち込みを認めた日米核密約の当事者である祖父を安倍首相は、秘密保護法の闇に隠そうとしています。
自民党インテリジェンス・秘密保全等検討プロジェクトチーム座長の町村信孝元官房長官の父親は、特高警察を指揮した内務省警保局長を務めた町村金五氏。特高警察は、治安維持法のもとで作家の小林多喜二を拷問の末に虐殺した弾圧機関です。
さらに、参院国家安全保障特別委員会委員長の中川雅治氏(自民)の義父は、鹿児島県特高課長を経て戦後、警視総監、参院議長となった原文兵衛氏。町村氏とも親戚関係にあります。中川氏は国会のルールを無視して理事会開会中に委員会の開会を強行するなど、強引な議事運営でひんしゅくを買っています。
いくつか思うことを備忘録代わりにここに書いておく。
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都知事という政治案件で政治の了承なしに情報がもれるとは考えにくい。徳洲会の内紛がきっかけとはいえ、いわゆる国策捜査なのだろう。その背景には毎度のことながらアメリカ政府と日本政府の阿吽の呼吸があるように思われる。
特捜部とアメリカ政府の関係は公然の秘密。田中角栄や平成研、小沢一郎が刺されたのも、背景にはアメリカ政府があったのだろう。角栄ー竹下ー金丸ー小沢は中国政府に近づきすぎた。
また、清和会、宏池会とアメリカ政府の関係も長年に渡り強固なものがある。岸信介、福田赳夫、宮沢喜一、小泉純一郎、その関係は極めて強い。
それは尖閣諸島問題のケジメをつけるためではなかろうか。
尖閣諸島問題の端緒となった国有化は、東京都の尖閣諸島買収問題の解決のためであった。当時の東京都知事石原慎太郎の指示の下、当時の副知事猪瀬直樹が尖閣諸島を東京都が買収するという話が上がり、追い込まれた当時の野田政権が国有化で一応の解決に至った経緯がある。
これが中国共産党政府の逆鱗に触れたわけだが、その最初の石を投げた石原ー猪瀬がいつまでも東京都知事であってはこれ以上話し合いが進まないだろう。
石原ー猪瀬を政治的に抹殺してしまうことが、中国共産党政府に対してもっとも誠意のあるメッセージになると考えているのであろうか。
このように妄想していくと、虎の尾を踏むとこうなるんだな、といろいろ納得できるのだった。
どうせ石原と猪瀬は後先考えずに石を投げたんだろうし、ここまで悪化した情勢を解決するには責任をとってもらうのもやむを得ないんじゃなかろうか。