はてなキーワード: 区画整理とは
職場の先輩が今年いっぱいで退職することになった。すでに新しい職場が決まっていて、年始からそこで勤め始めるという。
良い先輩だった。うちの職場はどうしようもないところで、労働環境が劣悪というわけではまったくないんだけど、もう空気が遅滞して弛緩しきっていて、ベテランの多くは勤務時間中でもネットサーフィンか駄弁ることに余念がない。じゃあ若いやつはどうかというと、こちらも俺含めてみんな自堕落で、「いや、この状況ってどうなのよ?」って間違いなく感じながら、新しい案を出すこともなく、次の職場を探す勇気も能力も自身の中に感じられず、入職して日が経つ者から順番に、抱いている葛藤を徐々に気楽な方に傾けながら、「適当にこなして給料もらえるならその方がいいよな」というところに落ち着いていった。
先輩はその中で、ほぼ唯一の、気を吐いている人だった。空回ってしまう寸前のところでバランスを取りながら、保守的と言えば聞こえはいいが、単にものぐさが染みついただけの上司を上手く転がし、取り組んでいる事業について、ここで向こうの言い分を呑んだら二度といい潮目が来ない、というラインでは相手が誰だろうときっちり反駁し、戦っている人だった。俺は自分ではそうなれなかったが、尊敬していた。
その人が辞める。もちろん衝撃はあったが、遅すぎたくらいだな、とも思った。この人にとって、ここにいた期間は長すぎたくらいだ。
まったく関係ないが、地元でずっと愛顧してきた店が区画整理のために閉店することになった。別の場所で再開することもないという。コロナウィルスの影響もあるのかもしれない。接客業だから、なんの関係もないことはないだろうし、それであれば来年以降も明るい展望はないだろう。良いタイミングではあるのだが、その転機のわかりやすさ、抗いようのなさがなんだか悲しい。
俺はさびしくて仕方がない。先輩が一人、ひいきの店が一つなくなるだけなのに、体の密度が半分くらいになって風が好き放題通り抜けるみたいだ。
なんで俺を置いてどんどん変わっていってしまうんだろう。俺なんて、今そこにあるものを受け入れて、認めて、慣れていくのでいっぱいいっぱいなのに。周囲に漫然とあるものを恐々見ながらその良さを探すのが俺の限界値なのに、あっさり色んなものが変わってしまう。
あるいは、この感覚の正体は、ずっと停滞し続けている俺の自覚に対する、遠回しな自己批判なんだろうか、俺はこうやって、自分にもわかりにくいかたちで、のんべんだらりとやってる場合じゃないぞ、と喝を入れているのだろうか、とも思うが、やっぱり一番はさびしさだと思う。さびしくて仕方がない。俺の周りの何にも変わって欲しくないが、どうしようもない(人には人の都合がある)。
毎年思うのは、コレ合筆してくれねぇかなぁ、ということだ。
土地の数の単位を筆という。目には見えないけれども土地は区切られている。大体の土地には1筆ごとに番号がついている。
これは「公図」というものを見ればわかる。公図は登記所や一部の自治体の窓口で有料で見る(もらう)ことができる。
昔、土地に番号をつけて管理をするということになったとき、多くはその時の土地の所有者や利用状況によって区切られた。
その頃の建物一棟の敷地とか、その時の田んぼ1枚とか(もちろん違うこともある)。
そこを後になって違う使い方をするとき、新しい使い方の一区切りごとに区切り直す。範囲を決めて土地を利用したり所有したりするには筆単位にしないと色々と面倒だからだ。
そのとき、新しい形を上書きするだけのことがある。もとからあったいろいろな線の上に、改めて四角形を書くようなイメージだ。
また、隣の土地を新たに自分の敷地に加えるというときに合筆(2筆の土地の間の線を消すこと)をしないということもある。
そうすると、今の1つの使い方をしている土地の範囲、例えば柵で囲われた住宅の敷地とかの中に、いくつもの筆があるという状況になる。
それの何が面倒なのかと言うと、一つには画地計算だ。
市街化が進んでいるところの土地は大抵画地計算法というやり方で固定資産税を課税するための土地の評価額を計算する。
この方法では土地の間口や奥行きを測らなければならないのだが、測る範囲は大抵は同一の利用をしている範囲だ。
同一の利用をしている範囲内にいくつもの筆があると、それぞれの測量図を引っ張り出してこなくてはいけない。
もちろん、画地計算が未だに電子地図上でできない(ウチが導入してないだけ)のが悪いのだが、仮に出来たとしても昔の測量図はスキャンしないと始まらないので面倒なのには変わりない。
測量図も含めて全部電子化してぇなぁ。でも上を説得したりするほどのやる気はない。
面倒な点の2つ目は評価だ。2つ以上の筆で1つの評価単位になる場合は処理がめんどい。
単に同じ評価にするだけでなく、何らかの形でこれとこれとこれはひとまとまりですってしておかないと課税システム上で特例適用地積の按分をすることができないし、
地図上にそれを表すことも出来ない。
これも地図システムから評価できるやつにできれば楽になるんだけどなぁ。例によって自分がやる気はない。
面倒な点の3つ目は、データの数が多くなること、データが重くなること。
ただ、コレに関しては一番の戦犯は国と自治体だ。道路がいけない。街区ごとでいいから道路を合筆してくれたらいいんだけどなぁ。無駄手間でしかないけど。
そういうわけなんだけど、一方では合筆はしてほしくない。
俺は結構地図とか地形とか歴史が好きだ。その点では、公図はかなり面白い。
「あ、ここ昔畑だったんだな」とか、「これが昔の道路だな」とか「この道路は拡張されたんだな」とか「ここに水路があったんだ」とか「ここ湧水だ」とか「池だったんだ」とか、
そういうのが透けて見える。
こういうのは全部今の利用の形に合わせて合筆されたら見えなくなってしまう。
極致は区画整理だ。一旦全部まっさらになるから昔のことは何も分からん。
もちろん昔の資料がなくなることはなく、単に現在の公図がキレイになっちゃうだけだけど、
それでも「史料」に当たらずとも今の土地の形から見えるものがあるっていう面白さが消えてしまうのは残念だ。
まあ心配いらないんだけどな。キレイにするためだけの合筆なんて金かかるだけで所有者使用者にはそんなにメリットはない、んだろう多分。ほとんど誰もやらないし。
AとB、どちらが有望か? DiDiなど、話題のMaaSは配慮していない。
個人的にはシェアリングサービスと自動運転(バス・個人乗用車)で街の価値は大きく変わる。
あまり変わらず、公共交通機関の鉄道が優位を保ったままと仮定した場合。
・JR駅から東京駅まで平日日中60分(通勤時72分)、新宿駅まで67分
・相模線利用でリニア中央新幹線の品川駅まで(橋本経由) 約40分+10分=50分
現状は都心まで90分程度、最寄り駅から徒歩5分以内のオフィスなら通勤可能な郊外のベットタウン。
◇再開発にあわせ、映画館ありのショッピングセンターが開業予定
◇圏央道のICも近く、車のアクセスも良好。首都圏各地、伊豆・箱根・富士エリアにどこでも行ける!
◇2027年、リニア中央新幹線が開業すれば名古屋・大阪も日帰り圏内に!
・最寄り駅(JR)まで 徒歩15〜25分 ※場所による、一部路線バスあり
・最寄り駅1(私鉄)まで 徒歩15〜20分 ※場所による、一部路線バスあり
・最寄り駅2(私鉄)まで 徒歩10〜15分 ※場所による、路線バスなし
・JR駅から東京駅まで平日日中80〜90分(通勤快速90分)、新宿駅まで68分
・私鉄駅1・2から新宿駅まで平日日中66分〜70分程度 ※乗り換え1回
・リニア中央新幹線の橋本駅経由で品川駅まで 約40〜50分+10分=60〜70分
現状、山手先の西側で最寄り駅から徒歩5分以内のオフィスなら通勤可能な郊外のベットタウン。
◇近隣に大型ショッピングセンターあり
◇圏央道のICも近く、車のアクセスも良好。首都圏各地、湘南・伊豆・箱根・富士山にどこでも行ける!
◇2027年、リニア中央新幹線が開業すれば名古屋・大阪も日帰り圏内に! 東京・品川も行きやすく!
実は、AとBでは前提となる鉄道路線の速度が異なり、Aのほうが速く、よって所要時間が短い。
日本の生産性向上は、駅周辺に乗り捨てOKのシェアリングサイクル・カーシェアを設置して、
通勤電車の速度を上げればいい。本数アップも条件によっては有効。
現状、採算性から都市ガス対応エリア外で、下水道未整備エリア、整備済でも合流式のエリアは論外。
意識が高いところは電柱地中化・電灯LED化を行い、開発にあたって提供公園や公開空地の設置を義務付けている。
国の補助で取り組みを加速し、サブスクのゲームや動画がたっぷり見られる「着席通勤」で売り込めばいい。
ちなみに、前者は割とすぐわかるはず。後者は当てはまるエリアが多く特定しにくいと思われる。
この勢いで、川崎市麻生区、新百合ヶ丘近くに住んでいて川崎市生まれ、川崎市育ちである増田の俺が、川崎市全体について紹介する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82
川崎は、政令指定都市であり、川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区、麻生区の全7区ある。
Wikipediaなんかより、川崎市本家が紹介してるページの方が分かりやすいね。
http://www.city.kawasaki.jp/miryoku/category/63-1-0-0-0-0-0-0-0-0.html
ちなみに、150万人のうち、半数近くが武蔵小杉に住んでいると言われているほど、最近は武蔵小杉にタワマンが増殖して、町内会に加入しないといったコミュニティ問題が深刻化している。
川崎市全体については、自分は上手く表現できない。というか、川崎市は3つくらいに分割化されるべきであり、川崎市という括りに違和感がある。
幸区、中原区、高津区、宮前区は知らん。どこかに、上記で言及した武蔵小杉があって、あと溝の口とかあるけど、割とどうでも良い。知らん。治安と民度は割と良いと認識している。
まず、多摩区から。多摩区は、小田急線と南部線が交わる登戸を中心に、昔は向ヶ丘遊園に遊園地があって栄えていた。
今は、登戸に小田急線の快速急行が止まるようになり、ドラえもんといったら登戸でしょ!というくらい、登戸が強くなっていて、向ヶ丘遊園は弱体化しつつも、小田急線始発駅、千代田線から小田急線の直通電車の大半の到着駅が向ヶ丘遊園である。
最近は、シェアサイクリングが整備されて、昔より良くなっているが、登戸駅前に居座っている居酒屋どもは今すぐ失せろ。区画整理に問題が発生している。
治安は良い方というか、夜は人が誰も歩いていない、車が走っていないのに信号機のエネルギーの無駄遣いとなっている。石垣島を参考に、赤信号点滅方式に政府は今すぐしろ。
さて、最後は麻生区。俺の地元。はっきり言って、小田急が空き地の大半を握っていて、市が思った通りに関与できない見捨てられた町ではあるが、新百合ヶ丘あたりは最近発展しつつあって、感動している。新百合ヶ丘の最後の底力が発揮されている。
数年後、横浜市営地下鉄が乗り入れてくるのは歓迎するが、線路幅といった物理的な問題で直通運転は実現不可の模様。乗り換えのスムーズさや料金によっては、誰も利用しない。というか、わざわざ横浜へ行く用事がない。彼女と観光に行く時に使うかな。期待0。
多摩区以上に、麻生区の夜は人が居ない。誰とも会わない。治安も何もない。本当に人が居るの?というくらいで、アメリカのマイナーな町に例えると、レッドウッドシティと例えられる。なぜ俺がレッドウッドシティと例えるのか、宿題だ。
以上が、川崎市全体についてだ。
痛ましい事故が起きると高齢者から免許を取り上げろという声が挙がる。
果たして、そうして声高に叫んでいる人の中で、どれくらいの人が実際に自分の両親に運転をやめるように伝えることができているのだろうか。
そんな父の運転をわたしも好きだったし、今のわたしの運転の見本になっているのは教習所の教官でも車好きの友人でもなく、紛れもなく父の運転だ。
そんな父に、わたしからもう運転はやめるように伝えたのは父が70のとき、5年前のことだ。
とっくに車を手放していた父は、こうしてお墓参りに行くときや年数回のゴルフや旅行に行くときにわたしの車に乗ってハンドルを握った。
毎年通る道、毎年変わらないはずの道が、その年は区画整理を兼ねた大きな工事が行われたことで、いままで見たことのない風景に変わっていた。
いつも使っていた道は閉鎖され、見知らぬ信号機に見知らぬ交差点ばかりだった。
それでも父ならば大丈夫だろうと、娘を脇に抱えてぼんやりと風景を眺めていた。
しかし、その時の父は違った。
今まで一度も見せたことのない様子で焦り、苛立ち、わたしがなにか言おうにも頭ごなしに遮り、運転そのものすら見たことがないほどに荒々しいものになってしまっていた。
極めつけは、道のど真ん中で急に停車して、クラクションが浴びせられる中での急なUターンだった。
ようやくの思いでお墓までたどり着いた頃には、母も見るからに苛立つし娘も泣き出すしで、さんざんな状況になっていた。
「わたしの運転だと不安かもしれないけど、帰りは代わろうか?」
一応進言してみたものの、父はそれをきっぱりと断った。
これ以上何かを言えば父を信用していないみたいになってしまう。父を傷つけてしまうような気がして、それ以上はわたしから何かをいうことはできなかった。
それからも、迷いがありながら、父がゴルフや旅行に出かけるときは快く車を貸し出した。
しかし、たまに同行する母からは、その度に曲がり角を間違って苛立つ父の話や、高速の出口を間違えて何故か母に強くあたる父の話を聞かされるばかりだった。
これ以上父に車を貸し続けていていいのだろうか。車を貸し出す度に迷いが募っていった。
そんな時、とうとう父が事故に巻き込まれたという連絡が警察から入った。
幸いながらもらい事故だった。
いざ迎えに行ってみると、父はただひたすらに如何に相手に非があって、如何に自分が悪くないかを繰り返した。
聞けば相手側の不注意による追突事故らしく、過失はほぼすべて向こう側にあるらしい。
思いもよらない父の一言に唖然としてしまった。その後も父の口から事故を起こして申し訳なかったという一言は最後まで聞くことはできなかった。
父が走行している間、事故を起こした相手は不安定な運転を繰り返していたらしい。
一昔前の父なら、そんな相手がいるなら絶対に近寄らないし、ましてやその車を後ろに背負うことなんて絶対にしなかったろう。
それなのに、ただひたすら相手が悪いと繰り返し言い続けている父を見ていることはただただ悲しくて辛かった。
それから程なくして、結局少しの持ち出しとともに新車に買い換えることになった。(くわしくはわからないが車軸が曲がっていた?とかいうことらしい)
「保険の種類が変わったことで、父が保険の対象外になってしまった。」
そのかわりに、父が車に乗りたいと言い出す前に今まで以上に両親を旅行に誘った。
出費や親のために使う休暇も増えたが、父が事故を起こすことに比べたら何でもないことに思えた。
ある時、隣に乗っている父が「老後は小さなスポーツカーで色々なところに出かけるのが夢だった」と独り言のように話し始めた。
父はまだ運転を諦めていない。
「それは素敵な夢だね。だけど、もしそれで娘と同じくらいの子供を事故に合わせてしまうようなことがあったらわたしはどうしていいかわからないな。」
父は一言「そうか」とだけ口にしただけだった。
高齢者による事故が起きれば、あのときの自分の判断は間違ってなかったと自分に言い聞かせる。
でも、ただ取り上げることを声高に叫び続けるだけではなく、それによって失われるものを埋めるための努力が本人以外にも必要なのだ。
婚姻届の受付や処理も多くした。その時感じたことは、ほとんどの人は戸籍制度について全く知らない。戸籍制度自体は割と男女平等だ。(待婚期間や嫡出推定は除く)ただ、市民側の意識が古臭いままだと感じたのでここに書いていきたい。
「結婚=夫の氏を名乗る=夫の戸籍に入る 」と思っている人がいるが完全に間違い。お互い初婚の場合、婚姻届を出すと同時に夫も妻も2人とも親元の戸籍から除籍になり、新しい2人だけの戸籍ができあがる。その戸籍で名乗る氏は夫の氏か、妻の氏か、どちらでも選べる。そして、その戸籍をどこにおくか(=本籍をどこにするか)も自由に選べる。よく、夫の親の本籍地と同じにすれば夫の親の戸籍に入れると思っている人もいるがこれも間違いで、あくまで同じ場所に独立した戸籍が存在するだけだ。皇居に本籍を設定している人は多くいるらしいが、その人たちがみんな同じ戸籍なわけない、と考えると分かりやすいかな?
うちは先祖代々、本籍地は決まっている!なんて人もいるが区画整理などでその本籍地を新しく設定できない場合もある。諦めてほしい。
もう現在の戸籍制度は「家」単位じゃなくて夫婦単位なのだ。夫婦で話し合い、どちらの氏にするのかを決め、本籍をどこにするのかを決める、そして、新しい戸籍を2人だけで作るのだ。
ここで、「でも俺のお母さんが…」とか「姉ちゃんが言っててんけど…」とか言うと100パー揉める。窓口で揉めるカップルを沢山見てきた。
イタズラではないけど幼稚園か小学生になったばかりの頃、近くに埋め立てた釣り堀があって
有刺鉄線の隙間から友達と入って遊んでたら埋められたシラスの釣り堀の池が底なし沼みたいになっていて
自分は足がズブッとなった瞬間に怖さを感じて離れたけど友達は既に膝を超
えて沈んでいた。
大人を呼べばよかったのに自分は何か恐怖を感じて家まで走って帰った。
その後に友達が行方不明になったっていう事で大人たちが大騒ぎになったのを覚えていている。
実際に友達は見つからずにみんなを集めて先生が説明をした記憶がある。
大人になった今考えるとなぜあの時に釣り堀に沈んでいったって事を誰も考えつかなかったのだろう。
今は区画整理もされ釣り堀の場所がどこだったかもはっきりしないけど埋め立てや造成の時に
見つかったって話も聞かない。そのまま埋まったままなのだろうか。
「点と線」の舞台になったような町に、魚久という割烹旅館があった。
障子の向こうには海岸線が広がっていたそう。
明治の頃から、旅に祝い事にと、人々の色々な瞬間を見てきたその旅館は、
戦争の頃には、旅立つ若者を送り出す宴なんてのもしていたそうで。
海岸線はだんだんと遠くになってしまって、街の景色も変わっていって、
ある時、隣の醤油屋の煙突の灰のくすぶったのが原因で本館は火事に見舞われて。
どうにか別館だけは残ったものの、割烹旅館は廃業してしまった。
残った建物は、
部屋はたくさんあるものだから女子学生の下宿なんかになったりして、
そのあとは、時計修理の修行を終えた若者が新しく店を出したり。
それから40年、その若者はそこで家族をつくって、そこに住むようになって、
旅館と呼ばれていたそれは、面影もだんだん薄れて、家となった。
そして、その家も、数年前に街の区画整理で、建物としての幕を閉じて。
やもすると、ここにそれがあったなんてことは、
あと一世代も廻れば誰も覚えていなくて、
本当に誰の記憶にも残っていないんじゃ?と、ふと。
でも、言われてみれば、建物の一生なんて、いろいろな人の人生を見守りこそするけれど、
人の記憶に長く残る建物なんて、由緒あるほんの一握で、手からこぼれたものたちは、
だんだんと覚えている人も減り、最後には誰の記憶にも残らないものになるのだろうな、と。
ただ、その、一握にまではならなくとも、
そもそも論なんだけども、少子高齢化は解決する必要が全く無いんだよ。
少子高齢化による人口減少は、ぶっちゃけ日本人人口が5千万人を割った時点で考えたら良いの。
その頃には、高齢者の割合が多いなんてことは無くなってて、年齢別人口分布は綺麗な寸胴型で高齢者のみが先細る理想形になっている。
でね。
今考えるべきは、人口5千万人時代へ上手くソフトランディングさせることなの。
人口が減った分だけ都市機能を縮小し、農地の区画整理を進めて、農業の効率化をはかったり、
今までは人口増加を前提とした施策しか考えてこなかったから、人口が減りだすと当然ながら上手く回らない。
上手く回らないから、人口を増やさなくちゃいけないと考えがちなんだけど、それ自体が間違いなんだと気付く政治家が増えてほしい。
俺の家の地域は、二十年ほど前に、区画整理と道路の拡張の話が出た
しかし当時の60~80代の地域の奴らが大反対をし、逆に30~40代の働き盛りは、車通勤時も道が狭くて大変だし、子供の通学も道が暗くて狭くて怖いし、救急車も消防車も入れないし、と賛成した
地域は二つに割れ、老害たちの時間と暇をもてあました大規模反対運動に、若手は勝てるわけがなかった
俺たちが生まれ育った土地を変えるというのか!移転しろだと!許さない!が老害の言い分だった
そして、区画整理と道路の拡張は流れ、それから何件かの家がぼけた老害がストーブを倒したり、天ぷらあげたりしたのを忘れたりで、全焼
もちろん、区画整理されていないので、消防車は入れず、近隣の若者のバケツリレーで対応
道が狭いので足腰の弱った老害は夜に歩いていて溝に落ち骨折。入院。そのまま戻れず死亡
まさに自業自得。
別地域でも同様に区画整理の話が持ち上がった。この地域の老人たちは「未来のためには便利に車が通れるようにしたほうがいい」という賢人ばかりで、その地域は立派になった
大金をもらって地域を出て行った老人たちは、町中の便利なところに土地を買い悠々自適
道が整備されたことでスーパーなどが増え、新しい家がたくさん出来た。今は土地価格も上昇し、あの地域の者はみな金持ちになった。
区画整理をしなかった我が地域は、住みにくいからと老害の子供は実家に戻らず遠くに行き、老人ばかりが増え、人が減ったので商店3件は全部潰れ、バスの本数が減り、とうとうバス停もなくなった
残った老害たちは不便な中生活していたが、一度流れた区画整理の話がもう戻ってくるわけがない
市は、地域のためを思って言ったのに、大反対をされたトラウマがあり、再度の区画整理の話はしなかった
そして20年
死んだもの、老人ホームに入った者。そんな反対の元気もない者。病院にずっといる者。
二十年ぶりに区画整理の話が持ち上がり、当時30代だった人たちが「待ってました!」と立ち上がり、ものすごくスムーズに、反対一つなく話が決まった。
とても嬉しい。
24時間TVとか関係なく、イベントやお祭りに事前情報なしに行くと、あまり良い目には合わないだろうなーとは思う。
それとは別に、地域の祭りって、周辺からもお客さんを集める「観光色の強い祭り」と、盆踊りとか子供会とかそういう「地元の祭り」の2種類あって、後者だったんじゃと思う。
ちょっと話は変わるけど、
田舎の宅地造成地の中に、イオンのスーパーがあるという感じだとしたら、イオンが24時間TVのスポンサーやってる関係で、
区画整理事業でできた新しい街の地元の祭りに、イオンつながりで24時間TVが来たんじゃないかねーと、思った。
邪推がもしあたりだとしたら、その祭りのスポンサーもイオンが金出してる可能性少なくない。
いわゆる「まちづくり」ってやつ。
田んぼつぶして道路作っておんなじような形の戸建がずらっとならんで、真ん中にイオンのスーパーマーケットとちょっとした公園とか広場作って一丁上がり。
洒落怖など現代型の怪談の話では、事故や犯罪の被害者・自殺者・病人・貧困・被差別者など、社会の弱者が死後何らかの祟りで生者に危害を加える、というパターンが多い。精神異常者や知的障害者による凶行、祟りによる奇病、呪われた「家」や「血筋」や「地域」でおこる悲劇とか、怪談以外のジャンルだと問題になりそうな設定が許されているのは不思議だ。
虚構と現実の区別云々という反論がありそうだが、怪談はかならず実体験として語られる以上、フィクションよりも認識へ与える影響は大きい。「この話に出てくるアレってどこそこの…」とか邪推する人は普通にいる。
ついでに気になった事を言うと、怪談の根本原因というのは企業(大規模建設)・自治体(ダム、区画整理)・国(戦争、軍)のどれかに集約されるケースが多い。にも関わらず、こうした大本の原因に対する祟りや復讐はあまり描かれず、むしろ現場の作業員やたまたま訪れただけの無関係な人がいつも犠牲になっている。
怪談というジャンルに流れる思想は「暴力は強者から弱者へと流れる」「弱いものや差別されている者にはそれなりの理由がある」という強者の論理だけでしかないように見える。
なにか話が大きくなっているがとりあえす俺の経験を書いておく
うちでも同じように、新設の小学校ができるときに学区問題が発生した。駅の南側に小学校を新設する予定だったのだが当初市で想定した以上に駅前の人口増加が急激で、新小学校の学区は駅前のみになって駅前以外の南側の地域は従来通り既存の小学校の学区のままという噂が流れた
それを知った親たちが、まず署名を集めて学区審議会とやらに町会長名で要望をだし、次に住民への説明会の開催をもとめそこで現時点での案や今後の進め方を問いただし、地域のつてで市議会議員を呼び町会長や将来保護者会になりそうな親たちの代表で会って要望を伝えた、俺も審議会の会合に会社の休みを取って(発言権は無いがオブザーバーで)出席したが、結果としては、既存の南側の住宅地も新小学校の学区に入った
学区審議会に出ていた当初案は、案1:駅前のみ、案2:駅前+区画整理地内、案3:駅前+南側既存住宅地の案だったが、この活動によって案3になった。ただしかし実際の審議会議論では、当初案2が有力で案3を採用するにあたり予想増加児童数の調整の為に案2で入っていた区画整理地内のうち学校から遠いまだ人が住んでいない整理地の一角を外してその分を南側既存住宅地に割り当てるようなQAがされて答申案が確定した。当該の区画整理地には当然まだ人は住んでいないので票にならないから除外してもOKというのがすすけて見えたけどここは黙っていた。ちなみn当日の審議会には、数名の市議会議員らしき人も見にきていて市役所の職員がなんか資料を持ってきたりと気を使っていたから、やはり市議会議員の影響力はあるんだとも思った。
ちなみに新設小学校の西側には別の町会で既存の別の小学校の学区もあったのだが、こちらは変更されずそのままとなった。実はそっちに知り合いの親子がいて早い段階でそっちも動けるようにと状況を報告したのだが、残念ながらそちらの町会にはまたそちらの事情があり(そちらの町会地域の一部は新設小学校より既存小学校に近いなど)その意見は汲み入れられなかったようだ。審議会でも委員から「学区変更は地域住民の総意なのか?」という質問があり、うちの町会は町会長の署名入りの意見書も出し当日本人も同席していたのでそのままOK.隣の町会は総意ではないという事務方の発言もあり却下(というか修正案通り)だった印象だ。
ちなみにその後将来保護者会になりそうな親たちの代表が候補者と一緒に「あの時はいろいろ相談にのってもらいました」とあいさつに来た、そしてそれから1年くらいして市議会選挙があった。その時に自分の投票行動にどう影響したかまでは覚えていないが、一連の流れとしてはしっかり記憶している。
もうひとつ、その当時の将来保護者会になりそうな親たちの代表というのは、中規模マンションの輪番制の代表で当時からこのマンションは地域の町会活動などに積極的に協力していたし、いまも町会の中核メンバーとして地域活動に貢献している。だからこそ、町会長初め地域全般でのプッシュもあって学区問題が解決したと思っている。
そして、今うちの子がちょうどその小学校に通っている。実のところ新設小学校のできる前の古い小学校もすごく良い学校で雰囲気や歴史なども気に入っているので最悪そっちでも親としては何とかフォローしようとは思ってはいたのだが、やはり通学路の距離や危険性からは新小学校で助かったと思っている
壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。
目次 [非表示]
1 歴史
2 境内
3 文化財
3.1 重要文化財
3.2 焼失した重要文化財
3.3 重要無形民俗文化財
4 行事
5 関連項目
6 アクセス
7 脚注
8 外部リンク
園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。
中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる[2]。
江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。
当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。
現在の本堂は1970年(昭和45年)の再建である。境内には他に大念仏堂(狂言舞台、重要文化財)、近藤勇銅像、壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。
錫杖(しゃくじょう)
紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)
壬生寺大念仏堂(狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
金鼓 正嘉元年(1257年)銘 - 「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと
毎年節分と春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財に指定されている。公開は2月の節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照
壬生六斎念仏踊り
年中行事として、かつては毎年8月9日の精霊迎え火、16日の精霊送り火、23日の地蔵盆に壬生寺で上演されていたが、現在は9日にのみ実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照
地蔵盆時の出開帳
壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵の石仏を貸し出す、俗称「レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。
京都でも新興住宅地などでは地域の地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合は宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺の場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである。
だからもう放っておいて下さい。あなた方には本当に関係のないことですから。
膨大な細長い空き地が延々と続いているんです。
それが出来上がれば交通渋滞が緩和すると言われ続け、今のひどい道路事情が放置され続けてるんです。
住んでいる人たちはずっと塩漬けにされたままなんです。
もともと農道しかなかった土地に十分な区画整理もせずに道路を作ったものだから通勤時間帯の渋滞は壊滅的、かつ歩道が確保できないほどに狭い道路は危険極まりないんです。
市川駅、本八幡駅から日中なら車で10分もあれば行き来できる場所でも、通勤時間帯は40分からヘタしたら一時間かかります。
この周辺から都内へと江戸川を渡るためにある道路は6号、14号、京葉道路のたったの3本。
抜け道という抜け道に車が溢れ、毎日のように小さなこどもたちが危険に晒されてるんです。
原因はなんだと思います?
少なくとも、わたしの知る市川市民はさっさとこんな工事は終わらせて欲しかったと考えています。
子供の頭のすぐ30cm横をバスが通り過ぎるような状況を好ましいだなんて思っているわけがないんです。
最近になってやっと少し工事が進んできましたけど、いったい誰が反対してたんですか?
保育園のことで市川のことを知らない人間がわいてきて好き勝手言うのは構いませんけどね、外環の時と同じく一言言わせてください。
市川のことも知らないでギャーギャーいう暇あったら自分たちのところことだけ考えてろよ。
住んでいるところは楽園ですか?あぁそうですか。
それならなおさら市川市民として言わしていただきますけどね、はっきりいって迷惑です。
これで無理やり保育園オープンして子供が事故にあったりしたってあなた方には届かないでしょうし、届いたら届いたでまた批判するんでしょ?
一体誰が本当の悪なのかよく考えてください。
ネットがつまらなくなった。ここ数年ぽつぽつとそういう話を聞く。
面白かったと言われる頃のサイトもフラッシュ黎明期やニコニコ黎明期の動画もほとんど今でも見ることができる
新しいコンテンツは続々増えている。
なのになぜ、つまらないと感じる人が出てきているんだろう?
それは単純に老いたから?ネットのコンテンツに慣れきってしまって刺激が足りなくなってしまったからだろうか?
それも理由の一つではあるだろうけど、ネットのコンテンツは爆発的に増加して動画やゲームも取り込んでいる。
本も読めて、ネット上の友人と話すこともできる。仮想体験も含めれば、ネットは現実の娯楽のほとんどを網羅しそうな存在だ。
そのネットに飽きた理由が単純に老いであるならば、それは人生を飽きかけてる仙人のような存在なんだろうか。
それはなかなかないんじゃないかと俺は思う。
ネットはつまらなくなったと思うけど、現実はまだまだ俺にとって面白いのだ。
じゃあ、ネットが変質したのか?と考えるとそれはあると思う。
いまや検索で何かについて調べると、ネイバーのようなまとめサイトや、企業広告、妙にべた褒めした口コミが目につく。
もちろん検索の方法やアドオンでそれなりに回避はできるけど、面白いコンテンツを探すのがとても大変になった。
いくら面白い物があっても、それを楽しむためにかかる時間や手間が大きければ敬遠する人が出るのは当然だ。
ディズニーランドの待ち時間や自炊の手間暇を嫌う人がいるのとおんなじだ。
そして、情報を得るためのネットだけでなく、情報を発信するためのネットも、変質したと思う。
ネットは昔、一般人でも情報発信ができる革命みたいなものだって言われてたけど、今は人数が増えて、区画整理されて
普通の人はだれからも見てもらえないような有象無象になった。昔は小さなブログやお絵かき掲示板でもコメントが付いた。
ネットも昔は小さいコンテンツしかなかったから、たくさんの人が少ないサイトに集まってたんだと思う。
そして、発表の場はどこでも良かったけど、いまはツイッターやニコニコやpixivみたいな発表に合った場を使わないとまずい。
そしてそこで見ると、誰かの作品というよりニコニコやPixivのコンテンツとして見てしまい、作家の独自性が薄まる気がする。
絵師のサイトが乱立してた時代ってサイトにはその人の個性が溢れてて好きだったな
あとは、お金儲けのために情報をがむしゃらに発信する人が増えて、劣化した発信者が増えたんじゃないだろうか。
変な動画を乱発しているユーチューバーや、機械が作ってるようなまとめサイト、ブログを見るとそう思う
ちょっと前に流行ったmixi、フェイスブック、Lineのような部外者の立ち入りを禁止する閉鎖的コンテンツも
ネットがつまらなくなった原因じゃないかと思う。普通の人の適当な発言や日記はそういうところに集まってしまって
商業性や政治性の高い発言ばかりが集まるところの情報しか集まらなくなって、それをまとめるサイトが増えて
なんてことのない日常の会話や面白い話がオープンなネット上では増えにくくなってるのだと思う。
ネットが分断されて区画整理されて、新しい面白さは大きなサイトに閉じ込められ、昔ながらのサイトや良い情報を供給するサイトは
検索対策をした商業サイトや膨大なつまらないサイトに埋もれてしまった。
ネットを使いこなせば、昔のように楽しめるだろうけど、有象無象が増えすぎたり、良いコンテンツは奥の方に行ってしまった。
そして、検索による開拓は大変な労力が必要になり検索も億劫になって、昔ながらのサイトにあった知人やお気に入りのリンクはなくなってしまって
ネットが巡回ばかりになっている徘徊老人のようなだらだらとしたネット徘徊者も増えてるんじゃないかな。俺のことだけど
いわゆる大規模な、区画整理された整然とした住宅地って、近くに「コンビニもなければ」「喫茶店もない」。
だから、例えば「14時にお伺いします」とアポを切った場合に、
電車遅延等に備えて早めに会社を出て、結果13時30分に現地に到着したような場合に
「時間調整が出来ない」。
これが「区画整理されてないような、雑然としたエリア」なら、30分間時間をつぶせるようなサ店とか、
せめてコンビニとかがあるのに、「パーフェクトな住宅地」には、それがないから困る。
仕方ないから、児童公園のベンチで30分ほど暇をつぶしてたりするが、下手すれば不審者として職質受けてしまう。
とんでもない渋滞が多発してみんなが困ったら、じゃあ何とかしようとみんなが工夫し始める
今更に横だが、そうした結果が「お互いに気を付けよう」だよな。
道を何とかしようと思ったら、区画整理の買収立ち退き。
配達をどうにかしようと思ったら、自宅配達・集荷は遅れても文句言わせない
時間が気になる奴は、基地局まで出しに・取りに来てくれ⇒基地局は幹線道路に集約。
あれは、在庫を持つためのリソースを、配送業者に押し付けた話だよね。
配送業者は遅れると罰金だし、早くついても受け取ってもらえないから、路上駐車で待つことになる。
そんな社会。
別にかまわないと思うんだよ。
阪神・淡路大震災から20年ということで、新長田の再開発がうまいこといってなくて苦悩する市民、みたいな特集をやっていた。
新長田の再開発が「大失敗」だってのは有名な話なので、まぁ大変だよなーどうすんだろねとか思ってみてたのだが、カチンと来たのはナレーションで、
『再開発の巨大なビルから一歩入ると、昔ながらの長田の下町の風情が残る町並みに…』とかなんとか言っていた。
繁華街から遠くて焼け残った、地元住民が懐かしむ町並みは、裏を返せば、もし次にまた大災害が起きたら真っ先に燃えるか倒れるかする弱い町でもある。
間抜けな知事が「大規模再開発で町をもっと強く生まれ変わらせるいい機会だった」とか口を滑らせてしまったように、『災害に強いまちに』というスローガンの生け贄になってしまったのが新長田。
話は変わるが、地方都市のシャッター街やら東京の下町の木密地区なんかも、地震を考えるととても怖いのだが彼らは建て替えようとか町を出ようとかは考えない。問題は「起きるまで」発見されない。
話を戻す。
新長田が生け贄になってしまった理由は、やっぱりお金の問題で、お金がないと復興ができないからだ。
道路を切り直し区画を大きくしてでっかい建物建てれば、被災者が使う分以外の余った分を不動産業者に売って復興資金が捻出できるから。
新長田が失敗したのは、行政の見通しがただひたすら甘かったのが原因だが、なぜそんなに甘かったかと言えば、
まだバブルがはじけた直後で、日本全体が「将来的にここまで日本が収縮するとは思ってなかった」からだろう。神戸は都会だし住民も多い。投資する価値があると踏んだんだろう。
まぁ今思えば甘いけど、当時だったらと考えると、バーカバーカ甘いんだよと簡単に切り捨てるのもどうかという微妙なラインだったりもする。
既に不動産バブルは崩壊してたので、一部では当時から「あれは微妙だろう」という声はあったらしい(当時学生だったので詳しくは知らない)。
だが、阪神大震災が起きたのは、バブルははじけたとはいえまだ山一証券や拓銀や長銀や債銀やらも破たんする前の話だ。市場変化に疎いことでおなじみの役人が気付かないのも、まぁありうる。
しかし長銀とか債銀とか今となっては完全に死語だな…。若い増田たちは存在も知らないだろうな。それはともかく。
ナレーションきっかけでカチンと来つつ報道ステーションを見ていたわけだが、
ありえない仮定ではあるが、阪神・淡路大震災が起きたのが2011年だったとしても新長田の再開発は失敗しただろうか、と考えると、もうちょっと上手くやれるだろうと思うんだ。
「ちょうど良いサイズ」の再開発をやったと思う。神戸は何だかんだで都会だから、初期投資の規模を間違えなければ行けると思う。
「もともと過疎化が進んでいた場所をどうやって復興するか」という、ものすごく重くて大きくて難しい問題を抱えている。
三陸のある町では、甚大な津浪被害にあった町を、高台に移転するか元の海沿いの土地を土盛りかさ上げして復興するかで揉めている、なんてニュースもあった。
報道ステーションで古館は、見知った人たちと離れたくないという老人のインタビューの後に、地元住民の感情を無視した復興にならないでほしいですね、的なしたりコメントをしていたのだ。
住民感情を置いておいて、まだまだ余震を含め大地震が起きてもおかしくないと言われている時期に、ちょっと土盛りしたぐらいで「次は安全」な町なんて、とてもじゃないが保証は出来ない。
土盛りかさ上げ工事をして区画整理したある町では、結局元の住民の3割しか戻ってこないといって困っているらしい。
オーバースペックの復興事業で20年前に痛い目に合っているのに、また同じことを繰り返している人たちがいる。
新長田の"復興災害"を糾弾する口と同じクチで、オーバースペックな「地元住民目線だけど完全にマーケットアウト」な復興を焚きつけるかのようなコメントを吐く輩がTVに出ている。
冬目景の漫画を暇つぶしに読んでいた。建物の一部に手を触れることで蘇る建物の記憶に振り回される主人公の姿に、今逗留している祖母の家で何か見えるものはないのだろうかとふと気になった。
今いる祖母の家は古くて新しい。二十年前に今の場所に建てられた時、ふんだんに最新の家庭設備が取り込まれたそれは今も黴びた様子はない。地震で浮いたままの玄関の畳石、打ちっぱなしのコンクリートに浮かぶ排水溝の汚れ、Nationalブランドの自動給湯機、そういったものに目を瞑れば。
"リモコン"のボタンを押さなくても、立てば勝手に流してくれるトイレには子供ゆえの興奮がすごかったのを覚えている。二階にシャワー室なんてものもある。着替え室を出れば、電磁調理器の炊事場に冷蔵庫。新築を案内するときに、友達をたくさん連れてきてもいいのよ、と笑った祖母の言葉は、あれからずっと叶えられてない。多分ほとんど利用されたこともないのだろう。浪人中、吹き抜けで蒸し暑くなった廊下を横切って風呂を利用する煩わしさから度々利用したシャワー室には、まだ当時購入したシャンプーがそのまま残っていた。棚に入っていたボディタオルの柄も同じ。無論、清潔な状態だが。今は週一でいらっしゃるお手伝いさんが、祖母一人ではカバーできない人の記憶を家に残すことで朽ちていくのをかろうじて防いでる。
その昔はその隣の日本家屋に住んでいた。マツダスタジアム建造に伴う都市区画整理で更地になった今、その面影を記憶している人たちはほんのわずかしかいない。
いつまでも好きになれなかった、日本人形が置かれた寝室。餌をやった錦鯉と金魚。土間で繋がっていた隣のガソリンスタンドにラジコンを突っ込んで、専務さんと呼んでいた親戚筋の叔父さんに怒られた後、コーラを奢ってもらった。裏庭に作った打ちっぱなしで練習する祖父をこっそり見ていた。お庭の松の木が立派だと、離れに住む芸術家の大祖母と話す母の姿。それぐらいしかない。ほとんどの記憶は鬼籍に入った人たちが持って行った。二階立ての母屋と同じくらいの高さを誇った土倉は約七十年前のあの日、被曝した建物だという。祖父の弟が当時別荘だったあの場所に大八車で運び込まれて息を引き取ったそうだ。土倉に入ったことがあると母は言うが、全く覚えていない。外観ばかり記憶に残っていることを思うと中はつまらないものしかなかったのだろう。
更地を見つめていると、関東では見られない白と灰色を掛け合わせたような土の色に、対岸の同じ色をした公園で祖父と遊んだ記憶が蘇った。公園は未だにあるけれども、その問面にはあの頃にはなかったスタバが立っていた。区画整理で道が広がる前は古い木造建築の民家が道なりに犇いていた所だったから、 この家のリビングからよく見慣れたロゴが見慣れないモダン建築に輝いていることに気づいた時、唖然としてしまったのはたった二週間前のこと。よくよく見れば、黒い正方形の建物は周りとよく調和している。私は記憶にある対岸の街とスタバを重ねて、そして今ある対岸の街とスタバを重ねたのだろう。かつては浮いていただろう風景も、街全体が若返った今、可笑しさを感じるのは変化を知らない異邦人だけなのだ。
ちょうど雨が舞い込んだこともあって駐車場には満車の看板が立っていた。今二階のバルコニーで佇むお客さんらの視線の先に、八十年前に猿猴川を裸で泳ぐ祖父らの姿を被せると可笑しい気がしてきた。川の流れだけはいつまでも変わらない。