はてなキーワード: ベールとは
ほどほどに陽当たりの良い台所で、小さな鉢の観葉植物を二つ育てている。
どちらも元々は実家にあり、伸びすぎた茎を切って分けてもらったものだ。自宅に持ち帰って水を入れた瓶に挿しておき、根が生えるのを待ってから鉢に植え替えた。
二つのうち、一つはブライダルベールで、札幌に住む祖母が、家で育てていたものを同じように切り分けて持って来たという。祖母は認知症になり、今は施設で暮らしている。もう何年も会っていない。
もう一つはポトスで、いつからあったのかはわからないが、物心ついた時から実家の景色の一部だった。
植え替えた鉢を、初めは自宅のリビング(と言うほどでもないが)に置いていたのだが、陽当たりが良すぎたせいか、見る見るうちに葉が変色してしまった。ほぼ枯れかけの状態だったが、よく見るといくつか新しい芽が出ていた。まだチャンスはあると思い、まずは鉢の場所を移し、元気のない葉を切り落とし、土の状態をこまめに確認するようにした。場所を移してから半年程経って、ようやく様子が安定してきた。今では植物を育てることに対して楽しさのようなものも感じている。
ただ、どうしても花を育る勇気は出ない。また枯らすんじゃないかという不安があるのももちろんだが、多分それだけではない。小学生の頃、クラスの友達のお誕生日会に行った日のことを思い出すからだ。
*
小学校1年生。お誕生日会というものに初めてお呼ばれした。まだ友達になってから1年も経っていない自分を呼んでくれるのがとても嬉しかった。
ところで、お誕生日会って何をするんだろう。自分の他にも、数名の友達が呼ばれているということだけは知っていた。みんなで誕生日の歌を歌ったりするのかな?学校じゃないからそんなわけないか。ごちそうやケーキを食べたりとか?
ドキドキしながら当日を迎えた。友達の家は少し遠いところにあったので、母が送ってくれることになった。
家を出る直前に母が言った。
えっ。と思った。だって、花束とか、持たないじゃん、普通。わたし、花束もらっても別に嬉しくないし。友達も花なんかもらって嬉しいのかな?嬉しくなかったら嫌だなあ。恥ずかしい。
しかし母はすっかりその気だったので、嫌だとはとても言い出せず、結局花屋に行くことになった。
近所の小さな花屋は、当時から既に古い佇まいだった。今でこそレトロな雰囲気は持てはやされるが、当時は何だか暗くて、できることなら行きたくないと思っていた。
店先の、あまり多くはない選択肢の中からいくつかが選ばれ、花束が作られた。
花束には白くて小さな花がたくさんあった。手に持つと、その小さな花が顔に当たってくすぐったかった。
友達の家に着いた。花束は目立つから、必然的にすぐに渡すことになった。
「わあ!」と、友達のお母さんが喜んだ。
よかった。変じゃなかったんだ。
しかしわたしは見逃していなかった。友達が笑いながらも、少し困った顔をしていたのを。
やっぱりそうだよね。花なんかもらっても困るよね。わたしも知ってるよ。でもお母さんが買うって言うから。
お誕生日会は、みんなでお菓子を食べたりゲームをしたりで、普段遊ぶのとあまり変わらないなと思った。
それはケーキを食べた後だったと思う。他にお呼ばれした友達が、主役の友達に誕生日プレゼントを渡す時間があった。
えっ。と思った。
何でみんな、プレゼントを用意してるの?何でわたしだけ、プレゼントを用意するって知らなかったの?
他の友達があげていたプレゼントは、かわいい文房具とか、エプロンとか、とにかくもらったら嬉しいだろうなと思うものばかりだった。そんなプレゼントを選べる友達が大人に見えたし、なぜそんなに高そうなものが買えるのかわからなかった。
わたしは(お母さんが買った)花束をあげたからセーフ?でも、友達、喜んでなかったし。
夕方になり、その日はお開きになった。少しホッとしながら帰り支度をしていると、そこでまた、えっ。という出来事があった。主役の友達のお母さんが、「今日はみんな来てくれてありがとう」と、全員にお礼の品をくれたのだ。しかも結構大きな袋だった。
家に帰って袋を開けてみた。かわいい文房具や雑貨の詰め合わせだった。花束を渡したとはいえ、自分で何も選んでいないのに、お返しだけもらってしまった。罪悪感で胸がいっぱいになった。
その後も、他の友達のお誕生日会に呼ばれることが何度かあった。その度に母は花束を買ったが、わたしも自分でプレゼントを用意した。だがそれは、他のみんなが用意しているような文房具や雑貨ではなく、手作りの工作のようなものだった。「他のみんなはこういうプレゼントを渡しているんだよ」とは、母には言えなかった。「みんなと違う」と打ち明けるのが何となく嫌だったから。
そして、お誕生日会の最後には必ずお返しをもらった。お返しの品は、決まって文房具や雑貨の詰め合わせだった。
*
わたしが住んでいたのは、市が合併する前の、学区の外れだった。家の目の前は違う市だったし、2年通った幼稚園も違う市にあった。一学年20人もいない、教会附属の小さな幼稚園だった。
卒園すると、学年の半分くらいは違う市の小学校に入学し、残りはバラバラになった。一人だけ同じ小学校に入学した子がいたが、クラスは別になった。
入学した小学校は、目の前に幼稚園があり、クラスの半数以上がその幼稚園出身ということだった。当たり前だが彼らは元から友達同士で、持っているものもみんな同じだった。みんなキャラもので、両面開きの筆箱を使っていた。わたしは「いろいろ機能が付いていると気が散って良くないと聞いた」という理由で、地味な片面開きの筆箱だった。みんなはビニールのケースに入ったクーピーを持っていた。わたしのクーピーは缶のケースだった。缶は開けるときに大きな音がするし、ビニールに比べると古臭いから恥ずかしかった。みんなのクーピーには「はだいろ」があるのに、わたしのクーピーにはなかった。悔しいから、クーピーを赤から順に虹色に並べて気を紛らわせた。
3年生に上がると、お小遣いを貰えるようになった。わたしは今までの恥ずかしさを精算するように、両面開きの筆箱を買ったし、はだいろのクーピーも買った。はだいろは虹色の列の中では座りが悪く、端っこが指定席になった。
そして、友達のお誕生日会で渡すプレゼントも自分で買うようになった。
*
みんなが同じものを持っていたのは、幼稚園に向けて一斉販売があったからだと思う。筆箱も、親同士で情報交換をした結果、同じようなものになったのだろう。
そして、「お誕生日会」も、そのコミュニティの中で出来上がった文化なのかもしれない。誕生日の子が、仲の良い友達を5~10人、家に呼ぶ。みんなでゲームなどをして遊ぶ。お菓子やケーキを食べる。呼ばれた子たちが、主役の子にプレゼントを渡す。主役のお母さんが、帰りがけにお礼の品を渡す。そういったフォーマットが存在していて、みんなそれに則ってイベントをこなしていく。思えば、お誕生日会の主催者はみんなその幼稚園の出身だった。親もその文化を知っているから、子どもと一緒にプレゼントを買いに行くのだろう。だから子どもだけでは買えないようなプレゼントが出てくるのだ。
小学校での日々はそれなりに楽しかったけれど、既に出来上がった輪の中にお邪魔しているような気もして、何となく疎外感のようなものがあった。自分の行動がずれていないか、みんなはどうしているのか、仲間外れにされないかといつも気がかりだった。
*
花束の中にあった白い花は何だったのだろうと思ってネットで調べたら、どうやらカスミソウのようだった。「ちょっと昭和の印象もあったりして、オシャレなお花屋さんでは置いていないこともありますが…」という紹介文に思わず苦笑いした。あの花屋はまだやっているのだろうか。おそらくもうやっていないだろうな。
そんなことをいちいち思い出すので、未だに花は買えないでいる。
いちいち「このゲームはこういった要素があって、ユーザーにこうやって受けてるんですよね」とか語る薄っぺらいマーケティング論マジうぜえんだよ。
如何に嘘っぱちか今から俺が『オレジナル要素分類』を即興ででっち上げて証明してやる。
「レインボー・シックス・パーツ」なんてどうだ?まさに今適当に既存のものパクって思い付きましたなのが俺の狙い通りだな。
じゃあ適当にゲームの構成要素を6つでっち上げるから待ってろ。
ゲーム語り似非コンサル風クソ中身皆無ゴロ野郎「人は自分が必要とされること、自分が世の中に価値のあることをしたと感じることに喜びを見出します。ゲームにおいてその最たるものがクエストとなります。敵を倒して経験値を得ることや、採掘等でアイテムを得ることも、行動に対して報酬を得ることから小さなクエストと見ることが出来ます。クエストとはすなわち労働です。現実の私達は労働を嫌いがちですが、それは生きるための糧をちらつかされて嫌々やっているからです。ですが、人に求められることを実行することは、世界を触媒とした自己効力感の確認にほかならず、本来楽しいはずです。ゲームは労働における不快の原因たる「過剰な理不尽さ」を取り除いて、クエストや稼ぎといった形でユーザーに提供します。労働はゲームを構成する最も基本的な要素と言えるでしょう。」
ゲーム語り似非コンサル風クソ中身皆無ゴロ野郎「ココで言う脱衣とは、何もうんたらこれくしょんに代表されるお色気ゲームの一要素だけを意味しません。謎に隠された物のベールを脱ぐこと全般を意味します。人は隠されれば暴きたくなるという習性を持っています。これはホモサピエンスの本能のようなもので、探求により快感を感じるからこそ人類はここまで栄えたとも言えます。たとえばこれはラスボスを倒してゲームの真実を聞くことや、攻略方法を見出して造り手の狙いを暴くことなども含まれます。当然、キャラクターのパンツがキチンと3Dで作り込まれているかをカメラを傾け探すこともですが。」
ゲーム語り似非コンサル風クソ中身皆無ゴロ野郎「うんこをすることは非常に健康に良いことです。うんことは摂取したものから必要な栄養素だけを抜き出して不要な物を吐き出す行為です。ゲームにおいてそれは、大量の情報や戦力を集めてから不要な要素を捨てていくこと、その過程において戦力全体が膨れ上がりプレイヤーもが成長する過程です。太いウンコを放り出した直後、自分がとても健康になったと感じるように、ゲームにおいては戦力外通告を突きつけることや、装備やジョブ、ひいては戦略を乗り換えていとき、人は本来それが齎す以上の戦力の高揚、そしてそれを実現した自分に達成感を覚えるでしょう。ときに、捨てることは得ることよりも大きな快感を齎します。過剰にそれを求めるあまり、一線級でないものを殊更に非難する癖がついてしまうプレイヤーも少なくないのがこの快感の強さを示しています。」
ゲーム語り似非コンサル風クソ中身皆無ゴロ野郎「システムを出し抜くとき、人は自分の影響力がシステムを超えたとすら勘違いします。王すらも自分を裁けないなら、己は皇帝であると思い込むのです。ゲームにおいてシステムのスキを付くような攻略法を編みだすこと、裏技を発見すること、それまでの定石を破壊することは唯一無二の快感を齎します。もちろんその中には作り手が意図して仕込むものもあります。根幹の戦略をひっくり返すようなコンボや、知れば世界が変わる硬直キャンセル、そういった一見バグにも見えるものを見つけた時、プレイヤーはプログラムという神を超えたとすら感じるかも知れません。ですが、それらのうち何割かは、初心者マークを外したプレイヤーのための次のステージとして最初から仕様に含まれているのです」
ゲーム語り似非コンサル風クソ中身皆無ゴロ野郎「いい加減私も飽きてきました。あなた達もそうでしょう。しかし、これが私によって仕組まれていたとしたら?そうです。ゲームにおける飽きも製作者が仕込める要素の一つです。同じ戦術ばかりを繰り返すと飽きる、単調な展開のせいでなんだかダレてくる。そういったネガティブな感情を敢えて起こすことにより、ユーザーをコントロールすることが可能です。コントロールするということは、こちらが選ばせたいものを相手に自分の意志で選ばせたと思わせることです。そうしたとき、全てが狙い通りに行くでしょう。そして、ユーザーもまたそのように作り手に狙い通りにコントロールされる体験をどこかで求めているのです。狙い位通りに飽きさせてください」
ゲーム語り似非コンサル風クソ中身皆無ゴロ野郎「ヤマナシ、オチナシ、イミナシ。ゲームにおいてこれは決してマイナスにはなりえません。ヤマがないということは、自分のペースで遊びやすいということで。オチがないということは、終わりを自分で決めやすいということです。イミがないということは、体験の価値を自分で決められるということです。過剰な山場の提供、オチの用意、意味の設定、そういったものを鬱陶しいと感じる心は、実は全てのユーザーに多かれ少なかれあるものです。押し付けるなということではありません。どれぐらい押し付けているのかを把握しながら作っていくべきだということです」
どや?
な?
ゲーム語り似非コンサル風クソ中身皆無ゴロ野郎の言うことってマジで信用ならんやろ?
な?
な?
ブコメ見てても日用品を性的に見るのが問題みたいな方向に行ってる傾向があるけど、フェチってそういうものっていうか、対象の性に関連するすべてに性的関連を見出すものだからね、人間は。
ダサい、芋臭い象徴だったはずのブルマやスクール水着がそうなったように。そして変わった水着や短パンにあっというまに「えっちだよね」という意見が飛んでくるようになったように。
ベールに隠れた顔ってえっち、どころかヒジャブってえっちなんて見解も出てくるわけよ。
そもそも「うなじっていいよね」「指ってえっち」「足裏がセクシー」とかさ。もうどうしようもないのよ。
逆の文化で「スーツってえっち」「ネクタイってえっち」なんかもとてもよく見るしね。
で、ここで言う「えっち」「セクシー」っていうのと直接的な性行為、あるいは身体的反応は
必ずしも結びつかないというところがあまり理解されていないきもするね。
個人差あるのはもちろんだけど、いちいち体が反応して直接的行為をしたい感情が沸き上がってるわけじゃないよ。
嫌悪感がある人たちが最悪の想定をして拒否感が出るのもわかるけどね。
勿論タイトルは釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリア(チェコ)人なわけですけど。
独文学というとカフカ、カフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較的ポピュラーな御仁であります。ユダヤ人の家庭に生まれ、生地である現在のチェコ=プラハの言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアスな人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています。
カフカの文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカの作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものをカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリックや暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカの抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカの立場というものが表れているように思われます。カフカは基本的にコミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身の人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。
コミュニケーションという営みは人間と基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分の人生や他人の人生をコントロールしようとします。しかし、そのような一般的なコミュニケーションの立場と、カフカのコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われます。とはいえ、カフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。
つまり、カフカはユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家や国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカは現在のチェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまり、カフカは自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。
カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーションを根本的に支える言語というものは――自身の人生をリラックスさせ、他者との間に健全なコミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種の異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうが、しかしやはりこの視点はカフカを理解する上では切っても切れない重要な点となります。カフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋の異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語やレトリックは基本的に、一種の生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家の国民が土着言語を用いず宗主国の言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語と人格は複雑に結びつき、そして、自身の人格や感情を表す際に、極めて重要な役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかしカフカにおいてはそれは事実ではありません。
カフカの作品群において、カフカは言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語の構成に依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまりは暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカの文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事や物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水が現実の自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身の感情を説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情を説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。
この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マンの文学においても、感情や内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます。感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーションや言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます。言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。
しかしそのコミュニケーションへの失望が結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーションに失望をしていてさえなお、小説をものしたのですから。
何故カフカは文学を書いたのでしょうか? 文学は自己表現である、という一般的な見方と、カフカの文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学は自己から自己への感情の乖離です。いわば自己の自己に対する乖離そのものです。
そのような営みは、恐らくカフカの人間性に淀みを与えているようにさえ思えます。自己の自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊的行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊を目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家や小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命と生活の痕跡を世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまり、カフカの文学はコミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーションや言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。
結論から言えば、カフカが文章を書いていたのは、恐らく乖離を目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己を乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己を省察可能な対象として対置する行為が、彼の文学の目的の一部だったと言えるでしょう。
このような記述は文学における一般論の範疇を出たものではなく、彼の人生や文学の目的は未だもって謎に包まれています。カフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーションの媒体である文字や言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。
初期幹部たちがあまりにも不甲斐ないためにボスが呼んだ幹部のはしり。
最初はブラックにそこそこ優位だったのに回を重ねるにつれ負けることが増えていき既存の幹部にも低くみられ始めたが、強化アイテムサタンサーベルをゲットしたのを契機として強キャラ感を取り戻すも、サタンサーベルがもともとシャドームーン(世紀王)の持ち物だったことからシャドームーンにサタンサーベルを奪われてシャドームーンのかませ犬として瞬殺されて退場した。
強化アイテムで主人公よりも強くなるもラスボスに瞬殺されるのは、後のクウガのゴオマを彷彿とさせる。あっちはもとから弱キャラだったけど。
今をときめく綾野剛の俳優デビュー作。澤田を敵幹部と見るかどうかちょっと微妙なところはあるけどラッキークローバーを敵幹部集団と見るなら澤田も幹部の1人じゃないか?
ラッキークローバーはオリジナルのオルフェノクであることが加入条件っぽかったけど、澤田は使徒再生じゃない人造だから認められたのだろうか。強ければいいのか。
仮面ライダーは改造人間が主人公だったのに純粋な怪人が主人公で、しかも改造人間よりも強く描写され始めたのもおそらくファイズが最初だと思う。
敵にも味方にもなりきれず、適当な理由でベルトを主人公サイドに渡したかと思ったらヒロインを殺したりもしてるので、最期は草加に殺される。
ヤクザ特有の人間の心の葛藤を描きたかったんだろうけど、振り返ってみると彼は何がしたかったのか分かりづらい。
公家言葉を使う服部平次。なのだが、中の人が関西出身なのでそんなに違和感はない。名前も見た目もマロマロしいから腕っ節はそうでもないのかなとか思ってたら戦えば普通に強い。
他の外道衆の面々が三途の川の水嵩を増やすためにこの世の人々を苦しめていたのに対しこのアクマロはあくまでこの世に地獄を出現させることを目的として動いていた。この活動目的の違いは往年のタイムレンジャーのギエンを思い出させる。
最期はちゅーかに音楽性の方向の違いを咎められつつ斬られて死ぬ。
片方はCV飛田のホモ、片方はいかにもパワー系の大食いで、こちらも初期幹部が不甲斐ないので大ボスにプリキュア対策として連れてこられた新幹部。途中ホモっぽい描写を見せつつもそれなりに仲睦まじく暴れてはプリキュアに負けてを繰り返していたが、最期はプリキュアに負けて弱ったところをベールのパワーの源にされてお亡くなり。奪ったパワーを使って、その後数話くらいはベールが幹部の中で一番偉いポジションになったけど、逆にいうと数話しか偉くなれなかった。
巨獣ハンターという訳分からないけどとりあえず強そうな肩書を提げてデスガリアンの幹部になった男。見た目からしてパワー系かと思いきやサイコメトラーみたいな右手と搦手を好むのでどちらかと言えばテクニカル系である。ひょんなことから知略系幹部クバルの記憶を読み取って弱みを握ってしまったので彼から目をつけられることになる。
中盤幹部の宿命からから最初は優位に立ってたけど負けが続いて陰りが見え始め、最期はクバルに利用されるだけ利用され右手も奪われてジュウオウジャーに倒された。
記憶を読み取りその記憶を実体化できる右手は無事クバルに移植され、その後のクバルの反乱に大いに役立つことになる。役に立たなかったけど。
今売り出し中、ヨドン皇帝の秘書官。有名レイヤーさんが顔出しで出演しておられるが、初登場時は巫女の格好で弓道やってて僕っ娘であり、いろいろ盛りすぎてる設定が大いに話題になる。戦隊敵幹部ってあんまり顔出ししない方針なんだけど、方針変わったのかな?
他の幹部みたいに力でねじ伏せるというというよりは、立場を力で権力でねじ伏せる系の幹部であり、それはちょっと珍しいかも。まだ30話ちょいだけど、中盤から出てきた幹部って結構終盤前に死ぬから、最後まで生き残ることをあんまり期待してない。でもヨドンナ様すごい人気だから生き残るかなぁ?
・初心者が最初にやる釣りなんて、大抵サビキに決まっている(断言)。
・投げ釣りをやったとしてもせいぜいがチョイ投げだし、今どきのシャレオツな兄さん姉さんは大抵がルアーを投げるに違いないので、ちょっとした餌釣りやサビキもできる8フィートくらいのルアーロッドのセットを買うのがよい。
・どうしても最初からちゃんとしたブランドじゃないとなんかヤダっていう人はシマノのビギナー向け商品(ルアーマチック S86ML か S80L と アリビオ C3000 あたり)を買うのがよい。ダイワの安物よりシマノの安物のほうが品質が良い。
・小さめのクーラーボックスでよいので買おう。バケツは折り畳み式のやつ。フィッシュグリップとハサミ(文具のハサミは釣りにはとても使いにくいです)。
・最初はサビキやりに行きましょう。陽渚ちゃんだってサビキをやっていた。4~6号くらいの針でよい。とりあえずフルセットの仕掛け(オモリとか針のついた糸とかの部分をこう言う)を買おう(こういうの https://www.amazon.co.jp/dp/B07GBTCNQM)。
・あと道糸につなげるスナップ。とりあえずスナップ付きのサルカン4号とか買っとけばよい。
・チョイ投げも仕掛けセットがある。なんなら「ボウズのがれ」セットみたいな、チョイ投げ+サビキみたいな謎仕掛けもある。
・ルアー?アジを釣るならフロートとジグヘッド+ワームの組み合わせ。マゴチなら重めのジグヘッド(静ヘッドみたいなの)と大きいワーム。何でもやりたいなら18gくらいのメタルジグ。でもとりあえずサビキやろう。
・釣り竿への糸の通し方(リールから出ている釣り糸をベールの下から通して釣り竿に通す)
・リールの操作方法(ベールを立てると糸が出る。寝かせると止まる。ハンドルを巻くと糸が巻かれる)
・糸の結び方(最初はクリンチノットかユニノットだけ覚えておけばよい。リールから出る糸をサルカンに結んで、市販の仕掛けに取り付ける)
・持ち方(竿尻を持たない。陽渚ちゃんは最初からちゃんと持っていてエライと思う)
・投げ方。サビキでは投げるな。
○ご飯
朝:なし。昼:餃子二人前。ビール。夜:考え中。間食:とりあえずドーナツ。
○調子
お酒飲んでしまうと何もできないね。なんとか洗濯はした。それとグラブルの期間限定イベントのクリアも。
○グラブル
装備が、どうして空は蒼いのかの楽器、シュヴァ剣五凸一本、シュヴァ剣四凸五本、マグナ終末四凸(上限アビつけ忘れてたの今気づいた)、ゼノコロ剣、コスモス剣。
石が、両面シュヴァ石、サブがノビヨ、サンダルフォン、フレイ、ゴールデンぴにゃこら太。
第一陣が、
ランバージャックジータ(ディスペル、安らぎの木漏れ日、落ち葉焚き)、リミテッドイオ、恒常レ・フィーエ、銃ゾーイ。
第二陣が、
ペコリーヌ、SSRソフィア、リミテッドヴィーラ、最終前ふんふ。
第三陣が、
最終前ソーン、恒常光SSRジャンヌ、リミテッドノア、恒常SSRアルベール。
とにかくリミテッドイオが強かった。久遠捧げた価値を感じられて大満足。
「BLはポリコレではない」議論(anond:20200710045020)、だいぶ盛り上がりましたね。
もう「現代日本のBLは存在自体がポリコレではない」には共通了解が取れたと理解していいんですかね? いや、だってどう考えても政治的に正しくないし。
理屈が理解できない人は当事者の人がスライド作ってくれてるからそれを見ような。
https://docs.google.com/presentation/d/1RY27M0g28cM9MTm2Mk5TYH-W_RzEZoiymCtJXeftFB0/edit#slide=id.p
個々の描写がどうとかではなくて「性的少数派の性愛をそうでない人たちがおもちゃにしてる」という構図自体がポリコレ的にアウトもアウトだという話なので、いくらホモ呼びをやめたり対等な関係性を意識したりしようがポリコレ違反からは逃れられないってことですね。
で、この、「BLはポリコレではない」って、「豚肉を食べるのはイスラムの教義に反する」みたいな話だと思うんすよ。トンカツ食ってるときに、「それはイスラムの教義に反する」って言われた、みたいな。
これは端的に事実ですよね。だってコーランに豚食べるなよって書いてあるし(細かい解釈の話は措いておくとして)。
でも、あなたがイスラム教徒じゃなけりゃなんも気にする必要ないじゃないっすか。「はあ、たしかにイスラムの教えには反してますが、それがなにか? 私イスラム教徒じゃないし」で済む話。
だからゲイ当事者の人に「BLはポリコレではない」って言われたとしても、おおかたの腐女子の人は「はあ、たしかにポリコレ違反ですが、それがなにか? 私ポリコレの支持者じゃないし」で済むはずなんですよね。
そう、本来ならそれで終わってた。淡々と「確かにあなたの言う教義には反してますね。でも私は異教徒なので」と言えばそれで終わりだった。なんなら「異教徒に身勝手な教義を押し付けるな! お前らは多様性の敵!」という反論をすることもできた。
なんでそれで済まなかったかといえば、まあ、ポリコレを掲げて他ジャンルの人や一般人に意識をアップデートしろと迫る腐女子の人たちがそれなりにいたからですよね。
ヤジーディー教徒が髪の毛さらして歩いてるのを「異教徒め! 外出するときはベールをかぶれ!」と声高に糾弾して場合によっては虐殺までしてきたイスラム聖戦士の皆様が豚肉食ってるんだもの、そりゃ背教者と罵られた挙げ句に石打ち刑に処されますわ。
日頃から豚肉食ってるのにわざわざイスラム聖戦士になろうとするやつなんてそうそういるもんじゃないし、仮に食っててもイスラム国に加入するときには豚肉断ちをするのが普通だろうけど、常日頃BLを愛好しておきながらBL断ちもせずにポリコレの聖戦士になる連中はなぜか大勢いたんですよね。いやほんと意味わかんないんだけど、でも現実なのよね。
まあ、そういうことなので、腐女子の皆さんはBL趣味を続けるならポリコレとは相容れないのでいっしょにポリコレ押し付け反対をやっていきましょう。
実際ポリコレとかただの圧制にすぎないもの。ポリコレに抗してBL文化や萌え文化を守護らねばならぬ。
たとえばカツ丼食ってるやつに「それイスラムの教えに反するよね」って言うのは単なる事実の指摘だよね? 「現状のBL作品の多くはポリコレじゃないよね」ってのもそうですよ。単なる事実の指摘。
その事実をどう評価するかってのは別の問題ですよ。でも事実は事実だから、前提となる事実くらい受け入れてくれ~~~~~~。
男だからといってフェミ叩き男の責任をとらなくてもいいように、腐女子だからといってラディフェミ腐女子の責任をとらなくてもいいと思うんだけどね…
いやほんとそのとおり。腐女子全般が萌えヘイター腐女子の責任を取る必要はない。
でもこれ、責任論じゃないんですよ。仮に男オタクが矛を収めたとしても「BLはポリコレ的にアウト」という部分は変わらないんですよ。なぜならこれはポリコレという主義に照らせばそうなるよねという筋論の話だから。
「BLはポリコレ的にアウトなので別の趣味探します」と「BLはポリコレ的にアウト? 知ったことか、私は反ポリコレだ!」のどっちを選びます? って話です。
個人的なオススメは後者っすね。いっしょにポリコレに立ち向かって文化を守っていきましょう。BL文化が潰されるのはもったいない、すごい損失だと思うので。
BLに限らず、男性向けエロ漫画やエロ同人を描いてる男性でもフェミニズムに理解を示す人や、ポリティカルコレクトネスの意義を認める人はSNS上に存在してるけど、そういう人は増田の観測範囲に居ないのかな?
なんも状況判断できてないんすね。今のポリコレを真面目に適用したら現状のBLは死ぬって話してるんすよ。
BLの中の倫理的ではないカプや描写が死ぬんじゃなくて、BLが死ぬの。
あたしゃ腐女子じゃないけど、BL文化は現代オタク文化の重要な一部ですから、みすみすポリコレなんぞに殺されるのを座視するなんてとてもできませんわ。だから一緒にポリコレに立ち向かいましょう。
腐女子の人たちが自分たちを殺す思想に従わなければいけない理由がわからない。
ポリコレなんて誰しもが多かれ少なかれ逸脱した部分と順守したい欲求を抱えているものだし、創作やオタクや腐女子を守るポリコレもあるべきなんで、どっちの勢力も0か1かみたいな扱いやめてくれんかね。
マジョリティである異性愛者中心の集団が男性同性愛者というマイノリティを使って彼らの実態とはかけ離れた創作してる時点でポリコレ的にはスリーアウトチェンジでしょ、という話をしてるんですが、マジで危機感ないんすね……腐女子はポリコレで守られる対象じゃなくてポリコレで殴られる対象でしょ、どう考えても。
ポルノだけじゃなく、いやむしろポルノよりも日常を描いた全年齢BLがポリコレ的にはヤバいって話はさんざんされてますね。
ポリコレだと、たとえば黒人をポジティブに描くだけじゃダメで、仮に昔のアメリカを舞台にした作品で黒人が差別されてなかったらそれはそれで「黒人差別という歴史を透明化しようとしている」って批判されるんすよ。抑圧や差別を無かったものとして描いてはいけません、ってことね。
現代日本ではゲイ差別は現役で生きてるんだから、現代を舞台にしながらも男同士がなんの偏見も苦労もなく彼氏を見つけて恋愛する「優しい世界」はポリコレ的にアウトっすね。
当然、これ女性差別でも同じこと適用されるんでしょ? 差別がなく要職が女ばかりで占められた世界で美少女キャラがのびのび暮らしてる萌えアニメとか全滅っすよ。こんなんポリコレと敵対する以外に解決策ある?
ポリコレってのはふわっとした「配慮」とか「思いやり」とかのことじゃなくて、こういう差別に関する独自の理論と実践の集積で、その理論はアメリカの社会情勢を元にして作られていて、理論の更新もアメリカ社会(というか英語圏)が主導して進められていて、本来はかなりドメスティックな理論と実践の体系であるはずなのにアメリカと英語の権力を背景に世界中で影響を持ってしまっているものなんすよ。こんなんマトモに導入したら、日本のオタクは自分たちの社会の事情と合わず自分たちが主導権を握れないものにみすみす表現の根幹を明け渡すことになりますよ。それでいいんですか?
(そろそろ我々アジア出身のアジア人は真面目に「アメリカの黒人は英語母語話者のアメリカ人という特権階級だろ」と主張した方がいい局面にいると思う。あいつらマジで特権を自覚してないっぽいので)
考えた結果ポリコレは文化を殺すなという結論に行き着いたので反対しますね~。
笑った。ポリコレ様に従うことで全人類が幸せになれると信じる教団。ブコメまさにそれそのものがいるじゃん。ポリコレ信者の方々にはどうもこれまで踏みつけられて不幸になってきた民草の姿はどうも見えないらしい。
ポリコレで自分たちが有利になるならポリコレを支持することは(善し悪しは別として)合理的だな~って感じなんですが(仮にアメリカで黒人やゲイに生まれたらポリコレ支持するのが一番自分にとって得っすよね)、自分の趣味が殺されることになるのにポリコレ支持してる一部の腐女子は理解不能すぎて……
(いや百合豚はどう考えても隠れて)ないです。百合は下手するとBL以上に当事者の目に触れてるジャンルなので……
創作者の中の当事者比率もそれなりに高いジャンルっすからねえ。ただ非当事者としては当事者のリアルは文献を通してしか知らんので、非当事者の立場から百合の現実度を言い立てることは問題があるかなって……どうしたって当事者にはなりえないので。それより現実とはかけ離れていてもファンタジーだからいいんだよっていう理屈を構築した方がよいのでは。
いや、話は簡単で、お前らはこっちに死ねって攻めてきたからならばお前らもろともに死ぬのか、死なないように相互不可侵を決めるのかどっちだ?と城下の盟を迫られているだけやで
一番迷惑してるのが普通の腐女子っすよねぇ。ごくごく一部のポリコレに目覚めた腐女子に外患誘致されてるんだもの。ほんと、よくそんな天敵を自陣に引き入れようと思ったよな……
ポリコレってメッチャ広範囲故に反対すると踏み絵(それもエグい奴)になるよ?要は別姓も、人種差別、女性差別すらBL支持の為に許容する事に。故にお薦めは是々非々のポリコレなんだけど…
海の向こうで是々非々ポリコレの種を蒔いたらあっという間に「シスはトランスの役をやるな」「白人声優が黒人キャラに声を当てるな」まで成長したの見てたら、とてもそんな呑気なことは言えないっすね。危機意識足りなさすぎでは?
ちなみに「シスジェンダーの白人女性がゲイの少年を主人公にした小説を書くのは搾取」という議論はマジでされてますからね。
https://i-d.vice.com/jp/article/8xeg4b/does-it-matter-who-writes-queer-stories
是々非々っていう態度でこれ拒絶できると思います? 無理でしょ。是々非々でポリコレの侵入を認めていたら絶対こういう話にたどり着きますよ。この理屈が波及したらお姉さま方が描いてるBLなんてほぼ全滅じゃないすか。ポリコレの論理そのものが我々の敵なんすよ。
ポリティカル・コレクトネスは「一般大衆に向けて発表する場合」に問題になるわけで、公開範囲を限定することが前提であれば従わなくても構わない、という点を抜きにした議論は無意味かと思います。
「同性愛匂わせで視聴者を釣るのは搾取」理論で『シャーロック』が叩かれてるっていう現実が見えてないんですかね……>https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47877196
こんな理論適用されたら日本産コンテンツたいていポリコレに抵触するでしょ。『ユーリ!!! on ICE』とかどうなんの? って話っすよ。
もうほんと、ポリコレ支持者ってなんでこんなポリコレに対する認識がテキトーなの? 信じられない。あ、そっかポリコレをテキトーにしか認識してないからその怖さもわかんなくて簡単に支持できちゃうんですね……
ほんとこれ。この期に及んで「でもPCにもいいところはあるし……」とか言ってる腐女子の人たち、マジで何がしたいのかわからん。死にたくなければそいつから離れろと。
ポリコレ推進派の腐女子は当事者のアカウントをブロックしたり無視するのがおすすめ。都合が悪い時は下を向いて黙り込むのがいい。みんなそうしてるし。
あ~、これめっちゃ笑いましたね。サイレンシングでマンスプレイニングでトーンポリシングやんけ! っていう。自分らで発明した概念で自分たちの首絞めてる光景、外野からはウケる~以外の言葉がないというか。
すげー良いこと言ってるエントリにも全然容赦無くウンチだのしゃぶれよだのカスみたいなコメントがつく
マジで意味わかんねえポジティブでもネガティブでもないトラバもある
混沌としてんだよな 人間から社会性というベールを剥ぎ取った姿というか
それをいうなら5ちゃんもそうなんだけど、あそこはあそこで板ごとにカラーとかローカルルールがあったりする
増田には何もない いきなり現れて適当に罵倒を書き散らして去ってなんのお咎めもなし
良いところだよお はてブはその点ブクマかとしてやっていくうちにどうしても社会性を得てしまうというか、ただ口汚く罵倒するってことがやりにくい 罵倒するにしても構造的に一段上から撃つみたいな感じだからやな感じがある
増田は一回限りの書き捨てだから、犯罪予告とかをしない限りはみんななんでも言い放題だし、罵倒は同じ高さから行える コロシアムの観客席から罵るんじゃない みんなリングにいる
好きなんだよ 増田が好きだ!
隙のある差別的な論理を断定的な口調で書くとすげー叩かれて面白いんだけど、この「自分の行動がボコボコに叩かれてるのに別に悲しくない、むしろ楽しい」って状態に結構憧れるんだよな
要は他人事なんだよ 自分の本当の意見じゃないと思えるから何を言われようとダメージはない この精神を人生全体に適用したいんだよな
でも条件がなんなのかわからない 本当に思ってることを表に出さなきゃいいのか?っていうとそれも違う気がする アドベンチャーゲームなんかやってて素直に選択肢を選んでいった結果登場人物全員に糾弾されるようなルートに行ったとして、マジで落ち込みはしないだろう これは「所詮ゲーム」みたいな意識のおかげでまた違う話なのかもしれないけど
とにかく、やりたいように振舞って結果は適当に受け止められるようになりたいんだよなあ
社交の場に行って「今日は陽キャっぽく行こう」と思い、その辺の知らない人に話しかけて友達になろうとしてみたりする それで気持ち悪がられたとしてもその気持ち悪さは「陽キャ」の自分に向かうものだと割り切ってノーダメージで済ませられる そういう感じで生きてえよ
重松清(訂正→森絵都)の「カラフル」ってそんな感じの話だった気がするな