はてなキーワード: 麻痺とは
元増田です。
実のところ、“明らかに人権侵害”と書きましたが、現時点で「~~だからホームレスは公共の場所に相応しくない」「~~だから自閉症患者は公共の場所に相応しくない」は罰することも損害賠償を請求することもできません。地方自治体などにはヘイト対策法に基づいて阻止する努力が課せられていますがそれだけです。
なぜならば、現在の日本の制度では、人権があるのはあくまで特定の個人または法人であり、『在日朝鮮人』や『同性愛者』や『女性』といった抽象的集団の人権は認められていません。『ホームレス』『自閉症患者』もこの点では同列です。以前ヘイトデモに損害賠償が認められていましたが、あれはあくまで『朝鮮学校』と名指しした(一条校ではないだけで、法人格は取得しているはずです)ことが原因です。
ただ、私はこのような抽象的集団についても、ごく最小限のヘイトスピーチ(殺せ、追い出せなどを直接的に訴える行為というのが個人的基準)は取り締まられることはやむを得ないと考えます。もちろん、「ヴェニスの商人はユダヤ人へのヘイトスピーチだ」は広義にはその通りであるとは考えますが、「だから禁書にせよ」については私は断固として反対します。
それで、skrnfさん(小文字だと見づらいのですが、SKRNFを小文字にしたのがidですよね?)の意見は「表現するのは自由、それに抗議するのも(『ガソリンを持って行くと電話する』『集団で大量に抗議電話をかけて麻痺させる』などの犯罪にならない範囲ならば)自由』というものであると理解します。その通りです。
ただ、ここで気をつけるべきなのはそれが“感想”であるか“意見”であるかです。
“感想”であるならば、よほどのことがない限り否定するべきではないと考えます(明らかに書いてあることを書いていないと表明するなどはまた別です。たとえば、「大魔王バーンが何のために地上を征服しようとしたのか分からなかった」という感想があったら「明らかに当人(当魔?)が言ってたじゃねーか」と否定されるのはやむを得ません。)。たとえ『剣道や弓道を見ると戦争を連想して不快になる』『城跡を見ると戦争を連想して不快になる』『レイプ物AVを見ると性暴力を連想して不快になる』『慶應大学にある福澤諭吉像を見ると脱亜論および日本によるアジア侵略を思い出して不快になる』『コロンブス像を見るとネイティブアメリカン迫害を思い出して不快になる』『少女が管楽器を咥える姿は口腔性交を連想して不快になる』であっても、この段階であるならばまだ感想です。
ただし、「~~だから止めろ」「~~だから公共の場所には出さないで欲しい」になったらそれは“意見”であり、意見を表明する者はそれに対する反論も受けなければなりません。
そして、抗議もまた意見です。つまり「このような絵は公共の場所に相応しくない」という抗議に対して「これこれの理由でそのような意見は間違っている」と指摘するのも同様に表現の自由であると考えます。
だから私は、レス先の増田氏が述べた「イヤだから見ないを実行できない場(公共の場など)には出さないでほしい」という部分を中心に「リベラリズムの観点からそれは間違っている」という意見を述べただけです。何も「レス先の増田氏がリベラルの敵だから排除せよ」のように訴えるつもりは一切ありません。もちろん、その意見に対するskrnfさんのレスは正当な意見として尊重します(同意するかは)別です。
手癖で変なシワが入っている=普段からそういう絵ばかり描いている、って事だし
(自然に描けばそうなるんだと主張するのもいるけど、なら何でプリキュアとかの子供向けや大人向けでも女性向けだと無いの?)
スカートも下手だけど長いのを描く人なんかいくらでもいるわけで、
単なる実力不足って方が無理がある
むしろ、意図的にエロくしたんだろうと言ってやりたくないから下手なだけだ、意図は無いと言ってフォローしているのが多い印象
普段からああいう絵ばかり描いていて他人の絵もああいうのばかり見てるからなわけで
んでそう言うと「麻痺するような環境がおかしい」と反論されるのが分かっていてそれが嫌だから
「ただ下手なだけ」と言って庇ってるのが多いように思える
たいてい顔面コンプレックスを小中高で抱えて、なぜかメイド喫茶やらアイドルやら顔面が売りのところに自ら飛び込む。
顔面コンプレックスを抱えているのにそんなところに飛び込む勇気があるから整形もできる。
顔が売りの職業についたら、すぐに予想できる「可愛い子がいっぱい」という現実に打ちひしがれ整形を決意する。
整形を決意して一気に仕上げかと思いきやなぜか細かい一箇所のみの整形をする。(二重の埋没や涙袋ヒアルロン酸注入、目頭など)
自己評価全体に高すぎて笑える。
で満足できなくてまたいじる。
でゴールを見極められる人が全然いない。たいてい中間地点が一番可愛かったと言われる仕上がりになってしまう。
だんだん感覚やらいろいろ麻痺しているのかマジでやりすぎる人が多い。
ツイッターとかでちやほやされすぎてなぜか変な方向に舵を切り失敗する人多数。
整形をオープンにする風潮は別になんとも思わないけど、最初から自己評価高くて自分大好きでアイドルやメイド喫茶に行けちゃうやつは好きじゃない
ジャップってマジで本当に何が問題なのかわかってないよね。さも自分はセンシティブな問題を理解してますよ~っていうポーズを取る人間ですら大正ロマンには無批判で所詮は戦犯国家の末裔かと落胆させられる
女性受けオンリーの渡辺直美ですらボートニャーみたいな乳バーンなCMはやらんので
自分の娘や兄弟友人の娘さんに説明できないことはやめましょうねって話やぞ
ツンデレといえばルイーズみたいな感じでウザ可愛い属性の代表格キャラ
ガサツだけど料理も出来たり意外と家庭的だったりとかいろいろと夢を詰め込んだ子
あとお話もエロくは無いんだなこれが。日本人の二次元エロに対する感覚は完全に麻痺してるので
お話がエロくない普通のラブコメだったので読んだ上でOKしちゃったんだろね
公共ポスターなのだから、大正ロマン風に着物のウエイトレスじゃダメだったのかね。ボディーラインでない上にレア感あるじゃん。
宇崎ちゃんはエロ漫画じゃないしドストライクだけどポスターとしては適さない(大正ロマンなメイド服にしよう)
いうて成分表貰えるしなとか手軽にいいことっぽいことができるしジュース貰えるしという理由で
献血を過去何度も(アキバでやったこともあるで)行なってたワイ氏的には気になるものではなかった
けど適切さないのは確かなので指摘が入ったのなら
https://b.hatena.ne.jp/entry/4681474048918495554/comment/bocbqcmn
この手の絵柄を見慣れてしまってる人から見れば、どこがヘンなの?になり、萌え絵やエロ絵を見慣れてない人から見ると、のけぞるくらいヒドイ表現なのよ。お願いだから、《感覚が麻痺してること》に気づいて欲しい。
「女性が好きな服を着れる社会にしよう」「女性を窮屈な服から解放しよう」
60年代のフェミニストたちは、それまでのモードが女性に伝統的な女らしさを強制したものであるとし、新しい女性解放や自己解放は、「強制された女らしさを排除すること」であると考えた。そこで若い女性たちは、それまでのオートクチュールが提案していた「成熟した女らしさ」に対するカウンターとして、若さを強調する「少女ルック」を採用した。
「女性が手足を出すことは奇妙な行動ではなく、自然なことで、健康的な振る舞いである」という価値観も、先達の女性たちがそれぞれの闘いの末に社会に浸透させてきたという側面がある。
https://news.yahoo.co.jp/byline/puradonatsuki/20190812-00138025/
ビキニと名付けられたツーピースの水着が売り出されたのが1946年。ビキニ環礁での原爆実験直後に発表されたため、このように名付けられたらしい。
フランスでは1945年に女性が投票権を獲得したが、その後20年経った1965年に、やっと女性が自分名義の銀行口座をもち、夫の許可なしに仕事ができるようになった。ピルが許可されたのが1967年。
上記は1964年に南仏サントロペでモノキニが流行っていることを報道する当時のテレビ番組だが、第二次フェミニズムの流れに乗って、60年代から1990年代前半まで、モノキニで海岸を闊歩するのは当時、「カッコいい」ことだった。
これ
https://twitter.com/K_Norisato/status/1227780041120968705
ブコメこっち
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/K_Norisato/status/1227780041120968705
ブコメで書こうかと思ったけど長くなりそうなのでやめてこっちにした。
スカート透けてるってどう見ても透けてないんだけど、言いたいことはまぁわかる。で、この絵ってたぶんオタクはわりと見慣れているんだよね。オタクじゃなくても、オタク絵を頻繁に目にするようになった人たちは、パッと見違和感ないよって人も多いと思ってる。この絵を通した JA のひとたちもさすがに節穴だとは思わないので特に違和感覚えなかったか、この絵なら OK でしょって認識だったと思うんだよね。
この表現が世間で一般的と言えるかって線引きは難しいんだけど、ブコメでこれだけ「アウト」って言ってるならアウトなんだろうなと思う。でもその境界線ってほんとうに微妙じゃないかな。だってこれ透けてないし。直接的じゃない「ほのめかし」なんだよね。だからスルーする人はスルーするし、気づく人は気づくっていうライン。そういうのがどこまでアウトなのか?って結構きわどいと思ってる。オタク絵だから炎上チックになってるけど、実写の広告でもこの手のってあるよね。脱毛の広告がやたら露出してたりとかさ。東京ガスの深田恭子とかも俺からするとすげーエッチだと思うけど、どうなのとかさ。「ほのめかし」もアウトならもうオタク絵がどうとかって問題じゃないし、全部少しでも性的っぽいのはアウトにしちゃえばいいんじゃないかな。
あとね。これはちょっと極端な話だけど、50年前とかってミニスカでも破廉恥とかビキニなんてありえないとかそういう感じだったのが、徐々に「性的」なものに対する感覚がみんな麻痺してきたわけじゃん。それと同じことが今オタク絵っていう新しい文脈の中で起き始めているわけだと思うんだよね。だから最近よく炎上しているこの手の問題、オタク絵の問題って形で矮小化しないほうがいいと思うし、オタク絵以外でも似たのがあればバンバン指摘して議論してってなればいいんじゃないかな。なんかオタク絵ばかり槍玉にあがってるから変な感じになっているよね、というのはすごく思う。だから表現の自由がとかオタク差別が、という話になるんでしょ。オタクの側も「表現の自由」を盾にして思考停止しないでちゃんと考えればいいと思うけど、指摘する側もオタク絵ばっかり指摘しているからこうなるんだよとも思う。
最後に元ツイについて。「な…なんで」とかそういう情緒的な感情的な訴えじゃなくって、ちゃんと伝えたいこと理論立てて伝えたらいいのに、なんでこういう書き方するんだろうなと。私には信じられない、私は正常、みんなもそう思うでしょー?みたいな訴えかけ方がすごく苦手。
簡単に自己紹介すると俺はヤンキーだらけのド田舎中流階層出身でF欄卒の氷河期後期世代(もうすぐ40代になる)
例によって就活は全滅で卒業後しばらく工事現場の下っ端警備員をやってた
半年くらいして知り合いのツテで大手の孫受けみたいなとこに運良くアルバイトで滑り込む(基本給12万残業代あり)
ここは意外とホワイト企業だったのでベースの給料は安かったが研修とかに出してもらえたりして1年目から戦力の頭数に入れてもらえたりした
3年くらいいて居心地は良かったんだけど、ちょっとヌルいというか、このままこの会社に骨を埋めるのもなーと思い、転職を夢見て悶々と過ごしていた
転機が訪れたのは自分より格下と思っていた同僚が社員登用されたこと
どう考えてもスキルは俺の方が高かったと思うんだけど、上司の覚えが悪かったのか、社会人になって初めてNOを突きつけられたのが耐えられなかったんだと思う
自分の中で折り合いを付けるためにも、もっと華々しい世界で働いてみたいと思って転職することにした
転職先は六本木にある業界最大手の会社で、1社目での経歴をいい感じに評価してもらえたのですんなり入ることができた
生まれてはじめて経験するキラキラした世界、都心で働く俺スゲーみたいな気分に浸った
要求される技術のハードルも高いが、それ以上に徹夜が当たり前の仕事で、月に4日くらいしか家に帰れないこともザラだった
ここも3年ほど在籍していたが最後の方は精神状態がおかしくなっていて終盤は業務に支障をきたすレベルに病んでしまった
最後らへんはあんまり覚えてないが、総務部とかに大声で訴えてやるとか叫んでたような気がする
結局自己都合で退職して1年くらい引きこもっていた(お金を使う暇がなかったのでそこそこ貯金はあったのだ)
前職のトラウマから同業は避けたかったのでファミレスとかで探すが
年齢が20代後半というのもあってか当時は中々引っかからなかった
なんとか滑り込んだのは出版社のアシスタント(要は使いっパシリ。基本給12万残業代なし)
ここは半年くらい在籍した
会社自体は割とホワイトだったが如何せん給料が安く技術も身につかず将来性の見えない出版業界というのもあって早い時期から転職活動をしていた
4社目はベンチャー(当時は25人くらい)
社長からの訓示は「経営者目線であれ」とのことでそっち系の書籍補助が厚かった(このせいで独立に興味が湧いたのだが)
ここでは2社目のブラック企業で培ったスキルが評価されて早々にリーダーポジションにたどり着く
ベンチャーだったので年次ごとに人が増えていき、組織が出来上がっていくのを目の当たりにした
この過程で当然ながら優秀な人材が入ってくるので、段々自分のポジションが危うくなってくる
しばらくはブラック企業で会得した根性でしのいでいたが、あるとき給与の話になって、後から入社した社員より俺の給料が低かった事が発覚する
俺は割と役員と仲良かったと思っていたのだが評価としてはイマイチだったのか…今回人生で2度目のNOを突きつけられたのだ
ここで会社に対する「拾ってくれた恩義」が一気に消えて
事前に色々と情報収集していたおかげで設立自体は難なくできたが
資本金も底を尽きかけていた時に意を決して、なりふり構わない営業を行い毎日10社にDM送ったりしていた
実際に返事をくれるのは1割以下の会社だったし、毎回サラリーマン時代以上にドライな対応を受けるのだけれども
NOを突きつけられる回数が増えると麻痺してくるというか、じゃあ次いこ!みたいに切り替えが早くなるのである
お金をくれる可能性のある上司が無限にいるかのような錯覚なのかも…
そういう生活を続けていたある日、いい返事をくれたクライアントがいて
そことは今でも永くお付き合いさせてもらっている
まさに捨てる神あれば拾う神ありという事なのか
さらに当時営業に行って軽くあしらわれていた会社からも「人手が足りないので助けてほしい」みたいな話が続々来るようになった
今景気が良いからなのかわからないが、ちゃんと食いつないで行けているし、何だったらちょっと贅沢しても大丈夫
たまたま良いタイミングで時流に乗れただけなのかもしれないが、今人生で初めて余裕のある生活ができている
好きな時に好きなものを食べられるってすごい
今は生きてて良かったと思う
40も半ばを過ぎた。
自分で言うのも何だけど、今まで割と真面目に生きてきた。
好きじゃないものでも受け入れようと頑張って、全てに寛容でいようと思った。
このまま自分の人生は何か得体のしれないものに蝕まれ続けなくてはいけないのだろうか。
探り探り話を聞いてみると、皆一様に苦労を抱えていて、不幸ではないけど幸せかと言われれば首を傾げてしまうような話を繰り返していた。
近況は程々にお酒も進めば昔話に花が咲く。気がつくと、20年前の話ばかりをしていることに気づいた。
あの頃はまだ世の中に対する責任も薄く、自分たちは好きなことだけを原動力に走り回っていた。
もちろん苦労もあったけど、時間が経って忘れているだけかもしれないけど、でも、好きなことのための苦労はその都度報われて、報われるたびに涙を流すほど喜んでいたような気がした。
仕事とか、家族とか、いろいろな責任が増えると、自分の好きなことは後回しになった。
周りの人間もそれが当たり前のことだと口を揃えている。
だからそうなんだと思って毎日を繰り返してきたけど、こうして当時の話を大騒ぎしながら聞いていると、なんだか長い時間をかけて麻痺していた心が少しずつ脈動を始めたかのような気がした。
この日のこの時間は、なんだかキラキラに輝く宝石箱の中にいるように思えて仕方がなかった。
続けようと努力はしたけど、すぐに邪魔をされて、水をさされて、好きなことが素直に楽しめなくなっていたのだ。
そのうちに心はときめくことを忘れてしまい、面白みの無い効率とか効果ばかりを優先するようになってしまった。
好きなものに素直に生きることは、好き勝手生きることとは違う。
でも、自分の好きなものでさえ世の中に遠慮していたら自分が自分として生きる意味なんてないのではないか。
捨てられないからと言って、好きでもないもののために時間を使うのは、自分の人生をただただ無駄に浪費しているだけなんじゃないか。
この先どんな後悔が待っているかわからないけど、まずはしっかりと自分の好きなものと向き合うことから始めようと思う。
今ならまだ、死ぬ寸前になってまで後悔しないで済むかも知れない。
そういうのは結局、誰も自分を欲してなかった結果、自分の精神、肉体、生き方を全て「おひとり様」にカスタマイズしたことによるもの。
ただ死刑を待つ死刑囚のような気持ちで毎日を生きている。感情を殺している。
人並みか、それ以上に孤独や寂しさを感じているが、それを解消するのではなく受け入れ、麻痺している。じりじりと精神が削られている事すら気付かない。
基本的に人間がうっすらと嫌いで、他人と関わる時は、自分がその人を好きかより、その人が自分が好きかで判断する。
「わきまえてる」ので、ストーカーにもなりにくいし、犯罪者にもならない。配慮の塊で、配慮の故に誰も傷つけず、誰も幸福にしない。
吐き出させて下さい。
私は産まれて30余年、常に独りでした。
別に孤児でもなければ、天涯孤独でもありません。話し相手は少ないながらもどの年齢でもいたし、いじめを受けたわけではありません。
それでも私は、どうしようもなく孤独でした。どこで誰と何をしていても、自分が何物とも繋がっていないような感覚ばかりがありました。
理由は何とでもこじつけられる気がします。望まれて産まれたとは到底信じられない家庭環境。遺伝的、精神的欠陥。それらを覆せなかった自分の弱さ。
…思い出せる昔の記憶は、階下から響く両親の罵り合い、私が男でありながら腰を振る兄。視線ひとつくれず、仏頂面で鬱陶しそうな顔で過ごす母。家事をろくにしない母への憎しみを私にぶつける父。
記憶にある唯一の母の声は、休日の朝に朝食をせがんだときに聞いた、「風邪ひいたから」という子供でも分かるような嘘。塩ごはんや牛乳ごはんなどという手料理も、それが普通だと信じたかった。
両親は自分の問題だけで手一杯で、明らかに私を愛していなかったが、それでも奇妙なバランスの上で形を保っていた。だから消極的にも期待していた。いつか両親が真っ直ぐな愛情と関心を私に向けてくれることに。だから耐えるように、道化を演じてみたり問題を起こさないよう強く自分を抑え込む術を自然と身に付けていった。
同級生達とは、関わる度に違和感を感じていた。彼らから発せられる、家族からの温かい愛情やそれに基づく自信めいたものを感じるのが辛く、眩しく、何より悔しかった。私もそうありたいと願い同じように振る舞うのだが、自分を偽った罰なのか、常に自分の中にヘドロのような憎しみが募り、それがときに漏れだしては、私の人間関係を破綻させていった。
…ある日、母が消えた。言葉ひとつも、書き置きも無く、突然と。だが何の感情も湧かず、涙も流れなかった。幼心に予想と覚悟はしていたのだろう。そうして、孤独と共に生きるというテーマが課せられた気がした。…それからは、忍耐から麻痺が生きる手段だった。
家はまるで会社のように感じた。父という経営者の下、勉強という仕事の対価に衣食住という報酬を得るような環境。己を律しきれず感情を顕にすれば、待っているのはクビ、つまり死ぬこと。逃げ出す勇気も、自分で環境を変える強さも無かった。経を淡々と読み上げるような修験者のように、無痛のうちに日々が流れていった。
不幸にも中途半端に事務処理能力が高かったのか、大学に入学できた。大学は理系で、物理を専攻する学部だった。今にして思えば私はそれそのものには興味は無く、ただただ盲信できる唯一無二の真実を、家族や自己の内面ではなく、外側の世界に求めていたのかも知れない。
契機はすぐに訪れた。その頃の私は誰の、何の助けも無く生きることに歪んだプライドを懸けており、独りの力で講義をこなそうとしていた。しかし当然のように挫折した。当然のように孤立した。
ある朝、いつもと同じように無痛のまま大学へ向かおうとしたが、体が動かず、講義をサボった。その日からぷっつりと糸が切れたように、大学に行けなくなった。
そしてそのまま2年間引きこもった。無痛という手段も通じないと分かってしまった私には、生きるために何をすればいいのか分からなくなってしまった。しかし罪悪感以上に、解放感と、呪縛から逃れたような安心感があった。そして同時に、いよいよプライドも生きる理由も意欲も自負も、全て失った。
兆候はあったがその頃から急激に死に惹かれるようになった。自分が事故や病気でいきなり死ぬ妄想をしたり、楽に死ねるという情報から練炭と七輪を買い、日常的に自傷をし、着々と死に近付いていった。流れる血と生々しい傷に、不気味なほど安堵と溜飲が下がる思いを感じた。堆積した恨みの攻撃性の解消と、自罰感情と、ボロボロの精神の投影先を見出せる行為だった。それゆえ日々エスカレートし、あるとき刃が大きな血管を切った。噴水のように噴き出す血を眺めながら、まだ死ぬ準備が整っていなかったため、止血の処置をした。特に感慨は無かった。ああ…あのまま放っておけば死ねるんだ…と、妙に冷静になっていた。
そこから、少し何かが変わった。本当に死の一歩手前にまで陥っても、やっぱり私に救いの手は差し伸べられず、また自分の力で生き残ってしまった、と思うと、諦めを通り越した何かが芽生えた。自分は生きることも死ぬこともできない、苦しみ抜いて幽鬼のように漂うのだろう。歪んだ悟りのような暗い閃きを覚え、そこから自傷は少なくなっていった。そこからの記憶はほとんど無い。大学へ行かず引きこもっていることがばれ、地元へ戻った。また無痛から忍耐の日々へ逆戻りした。挫折を経験したが再起を図る息子を演じつつも、心の底では誰かが殺してくれることを願うばかりだった。
そしてまた不幸にも、さほど時間は掛からず定職に就いた。待っていたのは、学生時代より遥かに開いていた周囲との差。普通の人々が青春や友情や愛情を経験している間に自分がしたことといえば、暗闇の中でもがき蠢いていただけ。真の孤独は人と人の間にあるという言葉通り、人に近付く度に遠く感じた。
…しかしそんな生活もそれなりの期間が経てば慣れていった。相変わらず人間の振りをするような不自然な過ごし方であったが、歳を重ねた恩恵なのか、排斥に対するヒリヒリとした警戒心、切迫感は和らいでいった。多様性を容認する組織だったからかも知れない。孤独は続いていたが、別種の孤独を抱えた年上の人々との関わりが、私の乾いた傷口を薄く濡らした。
そんな積み重ねから、ようやく初めて「人間」というもの形の一端に触れられた気がした。同時に、自分の家系の歪さを思い知らされた。そして、ようやく家系が受け継いできた負の連鎖に気が付いた。
狡猾さと傲慢さ。口では愛を語り、家族を意のままに操作し、自分の理想を叶えるための道具としようとする悪辣さ。その邪悪な気質を、互いに感じ取っているからこそ罵り合い、また山彦のように帰ってゆき、自分をも傷付ける。そんな不毛なやり取りをしながらも、本当は誰よりも自分が得をしたい、愛されたいと思っているからこそ離れられない。その矛盾と混沌の中で、私の家系は奇妙な内臓のようにぐぎゅるぐぎゅると腐って混ざりあっていた。
私は先月、家族と絶縁した。帰省しない私に業を煮やし職場に押し掛けてきたとき、従わぬ者に実力行使をする傲慢さに、どうやらこの人達とは一生分かり合えないらしいと確信した。
いよいよ社会的にも孤独になったが、さしたる感慨も無かった。きっとこれもどこかで予想と覚悟を済ませていたのだろう。私の手元には、いつの間にか独りで生きるには充分な資金があったのも、このことを予見していたからのような気さえする。
今になって思う。私は無意識のうちに、生きるための最善を選択していた。代償や失ったものは多いが、今では孤独も不幸も憎しみも、その先にある役割、天命のようなものを果たすためだと感じるようになった。両親や神の寵愛を受けて産まれた者と、孤独に魅入れられように産まれる者もいる。そうしてその中間が中庸となり、人々の生き方の基準が出来上がる。そういう仕組みなのかも知れないと、ぼんやりと考える。
相変わらず生きる理由も意欲も無いが、自分が生き続けることには何らかの意味があるから、こうして結果的に死んでいないのだと思う。人生のどの段階でも、死のイメージといつか自分は人を殺すだろうという直感があった。人生のどの段階でも、自分を解放して周囲を巻き込んで破滅することはできた。だがその度にそれを踏み留ませてきた何かを知ることが、目下の関心だ。天寿を全うする気はさらさら無いが、何らかの答えを得るまでは生きてみようと思う。それをもし得られたとき、孤独の意味と真の栄光を手に入れられると信じて。
…長くなりました。ここまで見ていただいてありがとうございます。
それをヒト→ヒト感染という。
基本的にこういう風邪とかインフルエンザとか、それが重症化して肺炎まで進む場合の感染経路は二つ。
感染者から出たウィルスがどこかに付着し、その付着したウィルスをほかの人がとりこんで感染することを接触感染という。
特に、どこかに触った手で目、鼻、口をさわると感染の確率が高まる。
そして人間は無意識のうちのこの3つのどこかに頻繁に触ってる。
コロナウィルス自体はじつはとてもありふれたウィルスで、鼻水が出るタイプの風邪を引いたことがある人間ならかなりの割合でコロナウィルスに感染したことがある。
新型コロナウィルスについていえば新型なので重症化しやすいことと(感染が続くにつれヒトに適応してくるので弱毒化する可能性が高い)、まだ直行の薬がないのが問題だけど、
感染力自体はインフルエンザと同程度のようだし死亡率はふつうの肺炎よりも低いので、
武漢みたいな「閉鎖されてて医療機関が麻痺してる・医療関係者は疲弊しきっていて、医薬品も不足している」ような場所じゃないかぎり、さほど恐れる必要はない。
新型コロナウィルス患者に、インフルエンザとエイズの治療薬を併用して投与したら改善したとのこと。
それ自体は良かったと思う。だけど、件数1なら、その治療が無関係でも治ったのかもしれない。
人体は複雑なブラックボックス。そのうえで、薬を投与したらなおった、あるいは薬を投与したら悪化したということがある。
だが、例えば薬を投与したのと関係なしによくなり、わるくなったこともある。
その因果関係はどうやって判断するのか?大規模比較調査をかけるしか無い。
大規模に比較をして、統計的に見てもやはり因果関係がある。因果関係がないという判断を下す。
子宮頸がんワクチンも同じ、子宮頸がんワクチンをうった後に麻痺が現れた患者がいたのは間違いない。
ただ大規模調査をしたら、どうも子宮頚管がんワクチンは関係ないのじゃないか?という結論に至りつつある。
その結論が出てきた段階で再開するというのが正しいとなる。つまり手のひらクルーだな。だけどまだ調査しきれてないものである以上手のひらクルーこそが正しい判断。
症状ゼロの状態で世界中に蔓延した病原体が突然一気に致死性を獲得し、世界中でバタバタ人が死に始める 国境封鎖なんかをしてみたりするんだが、全員感染してるから意味はない
いよいよヤバいことがわかるにつれ、各国は莫大な予算を投じて特効薬研究を行うようになる 人口の3分の1とかが死ぬ頃には倫理基準を取っ払って人体実験をしたりもする
でも人がドンドン死んでいくから国家機能は麻痺するし、研究のペースも少しずつ落ちる この頃には民間の飛行機や船なんてものは一切動いてなくて、研究者を載せた決死隊みたいなのがまばらに動くのみ
それでも特効薬の完成まであと一歩!ってところで突然遺伝子配列が変わったりして、その頃には暴動が起きまくったりして各国政府は完全に倒れる
圧倒的な人手不足で研究の見込みは断たれる あと6年あれば特効薬は完成するはずなのに、毎日残存人口の数%が死んでいく
最後にはみんな何もできず横たわって死を待つ もう何も機能していない…
特効薬完成まで80日!→79→78→78→79→83→90→123→1年…みたいな感じで希望が遠ざかっていくところホント好きなんだよな
今日、ようやく弁護士の先生との話がまとまり、半年近く書類を溜め込み、まとめ、提出を受諾した。
これで労災申請についてはスタートラインを着ることが出来るだろう。肩の荷がおりると同時にまたひとつ肩に荷物が乗ってくる形にはなるが、やや身軽にはなった。
今日は陰鬱とした内容とするよりは、将来的に見返した際にかつての私自身が何を理念にして行動をしていたのかをなんとなしにでも書き起こしておきたいと思う。
過去の怨恨の煮凝りのようなブログを見てもこの時期はこんなに落ち込んでいたのか。そう思うことで一つの気持ちの整理がつく、今もこうやって執筆(?)することでも気持ちを吐き出せている心持ちになり気が軽くなる。結構日記をつけるということは大事なのかも知れない。毎日でなくてもマイペースに吐露したい気持ちがあればぶちまけておく分には誰も損はしないはずだ。
そんな前置きはさておき、何を考えて行動しているのか、逆に何を考えないようにして行動しているのかをポイントを踏まえて整理しておきたい。
1.精神面について
2.肉体面について
大区分としてはこうなるだろう。
以下に記す。
【精神面について】
これはネットワーク社会が構築された現代社会・世界の中では、非常に困難を極めることであると考える。しかし難しい一方でせめて自身を大切にしないといけないのも事実である。
自己を確立し承認欲求を満たすためにSNSで幸せに見せかけるような料理・動物・景色などの写真を上げたり、社会派な発言をして理解を得るコミュニケーション等、人によってやりたいことがあると思う。
しかしながらネットワーク社会は残酷で、常に自分より上を之くと感じる人々を見つけ、目をやってしまうことが多い。絵ならば神絵師なんて言われる神的存在があたりに跋扈し、写真なども他者のバズりを見せた動画に対し自分のものは何故伸び悩むのか、そんなことで自身を雁字搦めにしては自分を「弱者」と捉えては自身で自身を不幸の道へと誘ってしまう。
それらを完全に無視することは難しくあろうとも、自分なりの努力や工夫をした過程はせめて評価してあげて欲しい。結果を出すことができるのは残念ながら才能のある人やチャンス・タイミング等を上手く掴み伸し上がる努力をした人たちだ。
SNSは性質上成功者の発言や情報発信を多く目にするため感覚が麻痺しているが、目にしている傍らには自身と同様に彼らを見上げている有象無象が居ることを忘れないでほしい。
個人的には日本人特有の「つまらないものですが」「らくがきです」「てきとうにつくりました」といった謙りを強くかけてハードルを下げるような行為を好きなこと、趣味の中では決して行わないでほしい。私生活では”出る杭は打たれる”なんて表現があるように目をしかめられたり、よく思われないのではないかと私自身も憚ることがあるが、自己を卑下したところで残るのはセミの抜け殻みたいな空っぽの精神だけなのだから。
「がんばりました!みてください!ここをがんばったんです!!」と強く胸を張ってほしい。それに反発する人が十中八九居るだろうが、全方位に笑顔を向けたり好きになってもらおうと努力する必要なんてないのだ。尖った貴方にこそ惹かれる人が居るだろう。
あまり尖りすぎるとそれはそれで問題では有るが、丸みを帯びた鉛筆よりかは荒削りだろうと、懸命に削って先の尖った鉛筆のほうが使っていても見ていても心地が良いし。
ポイントを一つだけ上げれば「自己を卑下するな。常に胸を張れるようにあれ。」と言った形だろうか。
1-2・・・上司の脅しに屈するな。社内規律より法律を優先しろ。
これはブラック企業が蔓延している世の中では誰しもが優先してほしい。
社会人になった最初の上司ガチャ次第にもよるが「協調性」「我慢・忍耐」「従順さ」のようなものを押し付けてくる相手であるなら、ソシャゲだったらリセマラ案件だ。
そういう相手の多くは「自身がした苦労」「それらが慣習化していること」あたりを武器に殴ってくるが、それらに屈してはならない。会社が内々で何を定めていようとも、相手にプレッシャーを過度に与えたり、ましてやその反応を楽しむようなことは法律上許されないのだから。
最近ハラスメントについても防止法が施行されている。2020年6月には労災要件にパワハラが追加される予定でもある。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000126546.html
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私の場合は、「一方的な人事査定」「未払い残業代」「数々のハラスメント」に対して業を煮やし、我慢が出来ず、部下の仕事の管理すらしない名ばかり管理職の上司に対して毎日のように炊いては内心ではキレ散らかすほどになり、少し冷静になって情報を集めてようやく法律は味方をしてくれることにようやく気がつくことが出来た。
多くの人は泣き寝入りをし、中には社会復帰すら困難な立場に追い込まれた人もいるだろう。
そうなってしまってからでは行動を起こすことすら難しい。だからこそ、ボイスレコーダーでもメモでもメールでも日記でもTwitterへのツイートでもなんでもいいから証拠を残すんだ。自分がこうあったという記録を残すべきなのだ。それらは決して自分を裏切らない。最たる証拠、すなわち最強の武器と盾になるだろう。今もそんな気持ちでブログを書き起こしている。前述したが、案外文字にするとこう思ってたのだと再確認する機会を得ることも出来る。非常に大事だ。
ネットワーク社会の情報の荒波に飲まれると、ふと「自分は何もしていないのではないか?」といった謎の焦燥感に駆られることは現代人に置いて常にあるものだと感じる。だから日々、写真とか上げるのだろうし。
取り残されないためにも何かをしないといけないと思っては「無理に外出をする、遠くへ旅行をする、恋人を探す、結婚しようとする」といった何らかのアクションを起こす。人の幸せの感じるバロメーターはそれぞれ別モノであるから、他者がやっていることを後追いする必要なんてものは一切ない、後追いしまくった結果、何も残らず虚脱感を得られる…なんて負の遺産が待っているコトだろう。
人によっては「家でゆっくりする」「寝ることが幸せである」「愛猫愛犬などの動物と入れたら良し」といった外に出ずとも完結する幸せなんてものも多数転がっている。
少なからず私は近隣の猫カフェに行って何時間も何も考えずに猫と触れ合ったり何もしない様をみて改めて「何もしないことも幸せの一つ」だと噛み締めたり、偶に奮発したお高めの即席麺やお酒を飲んだりすることで満足している。
お高めのお金がかかる趣味や旅行が趣味ならそれはそれで構わない、ただ自分が本当に何がしたいのか、他者の行動に振り回されないで破天荒じみた生き方をしても、公益を妨げない限り誰も不幸にはしないはずだ。
【肉体面について】
2-1・・・飯はよく食え、ダイエットは単なる炭水化物の減量でしようとするな。
学生時代は代謝が良かったのか、社会人が動かない生活をしているせいなのか、多くの人は体重の増加に悩むことが多いだろう。
そこで考えるのがダイエットである。「低糖質ダイエット」「ごはんを豆腐に代えろ」「葉っぱだけを食せ」といったような荒療治で痩せることは簡単ではないうえ、本気で痩せようとしている人かするべきではない。
第一に生活を根本から変える必要があるためにストレスが非常に高まる、コレに尽きる。そのため一時的にダイエットが終わった後、短期間でのリバウンドが絶えないだろう。
痩せるために何かをするのであれば、まず個人的に推したいことは「飯はゆっくり目に食べる」「よく寝ること」「(昼勤務の人は)夕食時、少しだけご飯を控えめにすること」「金銭面で余裕があればプラセボ程度のサプリメント(フィッシュオイル/CLA/カフェイン/難消化性デキストリン等の食物繊維)の摂取」だと感じる。
しっかりと寝ることは精神面の安定にも繋がり、ストレスによる過食も防げる。ちなみに科学的根拠もあったりする。
2017.6.21|国立大学法人 筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS) 睡眠と代謝の密接な関係
https://wpi-iiis.tsukuba.ac.jp/uploads/sites/2/2018/01/PR_170621_jp.pdf
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ストレスと投薬によってここ数年間は体重増加が半年に±10kg程度あったがよく寝るようになると、少なくとも私は目に見えて痩せて安定傾向になった。荒療治は続かない上、時代に沿った流行(トマト・バナナ・ブロッコリー・卵など色々見た気はする)があったりするため、それに着目した企業からの甘い誘惑も多い。
空腹がどうしても気になるのであればカゼインプロテイン(マイプロテインやバルクスポーツが安く手に入りやすい)などの消化吸収が穏やかかつ高タンパクな健康食品で補うと、間食に走るよりはだいぶマシになるはずだ。あとはどうしても固形物食いたい人は紀文食品の低糖質麺シリーズ(https://www.kibun.co.jp/brand/toshitsuzerogmen/)を食うと幸せになれるかも知れない。こんにゃく臭さが微塵もしなくなってるから「食べやすい・食物繊維多め・腹持ちよし」の良さみ高め食品なのだ。
2-2・・・筋トレとか運動を少しでもしろ。そのついでに日光を浴びろ。
陰鬱になると家にこもりがちとなる。結果として自身の体力や見てくれにこだわりなどなくなり、浮浪者のような格好となる。去年夏から冬にかけて髪を切らなくなったこともある。気をつけなければならない。
その改善策としては筋トレをすることを勧める。少なくとも外に出たり、ジム通いをすることになるので最低限の身だしなみは整えるようになる。おまけで筋肉もついて少しだけ自身がついたりもする。金はかかるが最低限のことをした気にもなるので安い出費だろう。
テストステロンが出たり、こまめな運動で気持ちのリラックス効果も期待できる。やることがないならそうしろ。
(https://sportsgym-fc.com/self-help/)
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外に出るついでに日光も浴びると良い。日光浴ができるとなお良い。温かいのは気持ちが良い。のんびりしていることへの罪悪感も少し消える。日光は良い。浴びろ。
今日ははこんなところとする。
なんというか、自分がとにかく相手に惚れてアタックした上で「誰の一番にもなれない」と嘆くなら分かるけど、アンタはそもそもダレダレ君の一番になりたいと望んだことがないやんと
例えば朝掃除のおばちゃんにニコッとしてもらうだけでもまずこっちが繰り返し(真意は置いといて)親愛のポーズをとらなきゃ無理なのに、人の心に食い込もうとする努力や執念ゼロでヘラーっとヌボーっと時を過ごすだけの人が生きた誰かの一番になるなんて無理に決まってるやん
正味アンタみたいな人なんてたくさんいるけど、そのまま死んでいくのが嫌になって一念発起するかマジでそのまま死んでいくかどっちかになるだけでヌチョヌチョヌチョヌチョ自問自答するほどの話ですらない
自分は欲求の薄い儚い存在…人と違うのが少し悲しい…というようなことを思って酔っていればいい
最初から己の立ち位置ややるべきことをふんわり受け止め続けたからそんな麻痺したようになってるだけで寝たきり老人が腹筋できないようなもんでかっこいいことじゃないわ
当社元社員の逮捕について | プレスリリース | ニュース | 企業・IR | ソフトバンク
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.softbank.jp/corp/news/press/sbkk/2020/20200125_01/
この記事のブコメ、「ロシアが金出してるんだから無価値なわけないやん」といった類のコメが散見される。その見解を否定するわけじゃないんだけど、便乗する形で週刊誌的な与太話をしようかと思う。
たしか元外事警察官が語ったという体のネット上の記事だったと思う。外国の、というかロシアの諜報員の手口が語られていた。それによるとまずターゲットはあくまでビジネスの付き合いという体で食事に誘われて、お土産と称してプレゼントを渡されるらしい。で、次第にプレゼントが高価なものや金券等にエスカレートしていく……。次の段階として、正式に機密に指定されているわけではないけれど、部外者には知られていないような事柄を聞かれ、教えれば報酬がもらえる。やがて聞かれる内容が機密に及ぶが、最初は「何の役に立つのかわからないような、一見無価値なもの」を要求されるらしい。これを繰り返すうちに贅沢と罪の意識が麻痺していく。そこまで仕込まれたらあとは「今日の情報は無価値だから報酬は出せない。次はXの情報を持ってこい」といった具合に直接的にコントロールされるようになる、らしい。
そもそもソフトバンクは個人情報と取引先の情報には言及してるけど、安全保障上の情報には言及してないよね。ソフトバンクのインフラが安全保障上どのくらいの価値があるのかはしらんけど。