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はてなキーワード: 小中学生とは

2024-06-15

anond:20240615113737

なろうってメイン層が中高年だから分かんないけど俺つえーなら小中学生にもウケてるっぽいし配信サイトでも人気高いよね

俺は弱者男性だけど、なろうは刺さったことないかトレンド分からん

2024-06-12

anond:20240612100942

と思うじゃん?

今でも小中学生Vtuber 歌ってみた ボカロ 東方 ゆっくり実況 と履修しながら一部は確実に淫夢流入していくんだよね

文化って不思議だよな

2024-06-09

      前野町1丁目で発砲事件があった場合に私が何を考えるかですか? 迷惑とか思いませんよ。もしそれをやっている人を自分の自室から確認し、音とか大音量が聞こえた場合

  目的精神は容易に想像できるし、どんどんやれ、と思います

    拡声器Youtubeパソコンデータを保存し撃ってる場合、何を狙っているか簡単に分かりますので。   迷惑だとは思いません。 何もないところに拡声器撃ってる場合延岡だと

  そこから人工知能 AI に、その拡声器から放出される情報が、AI に入力されて業務妨害されていると思う、 3,40代馬鹿狼狽して家から出てきて110番通報してる場合

    あるので。

      月曜日、平日になると、朝の4時30分から、老人悪人AI勢のスイッチが入るので、そのスイッチが入っているときに、拡声器活動で、AI 入力すると、お前が最優先に考えている

  小中学生学校に行かせるというAI電波が狂って狼狽すること、その程度の因果関係はとうに見えてんだよ。

2024-06-07

anond:20240607181647

それね、充分子供に対するマルトリートメント(不適切な養育)なんですよ

子供の前で夫婦仲が悪いのを見せつけてるんだから

子供に与える悪い影響半端ない

横だけど、理想論は置いといて、世の中の人って両親がケンカしてるのを目にせずに育つの普通だったりするのかな…。

俺も小中学生くらいの頃に両親が毎晩夜中に言い合いしてる時期があってマジでしんどかった。

anond:20240606150120

小中学生女子だと恋愛したい女子ばかりだがなあ。

セクハラ対策痴漢対策をまともにやってこなかったせいで男性嫌悪女性無駄大量生産してるんじゃないか

anond:20240607012356

官製チアプは、小中学生時代から成育歴を記録し、

中学卒業と同時にふさわしいマッチング相手を紹介し、高校生時代にお試し交際をさせるべき。

2024-06-05

anond:20240605194928

小中学生が学タブから閲覧するサイト上位ってマ!?

あんなクソサイト管理側でさっさとアク禁しろよ。

ガキにとっては時間無駄どころか正しく有害サイトだろ。

anond:20240605193748

小中学生が学タブから閲覧するサイト上位なんだけど、君は頭小中学生という事で宜しいのか?

2024-06-03

anond:20240603112920

こういうガチ恋愛工学踏み込み型の話になると恋愛工学が云々言ったりそれに星つけてた非モテ弱男ブクマカが静かになったり茶化しに入る。

弱男って小中学生並みのままおっさんになった子供おじさんなんか?

2024-06-02

恋愛市場参入見逃しと、考えのクセ

女は自然恋愛市場に組み込まれていくけど、男はキッカケがないと入り込めないよな

自然に組み込まれていくっていうのは、恋バナや情報誌に影響を受けて身だしなみを整えたり、恋愛について意識し始めるってことね

女はそうする圧みたいなのが同性同士にあって、恋愛市場への参入がスムーズなんだけど、男は以下のパターンに分かれる

①招待される

姉がいて指導されたり、女子から告白されたりして恋愛に入門、下地があるのでその後の恋愛市場への参入もスムーズ

自力で参入

とにかく異性に興味があり、自分なりに勉強した上で恋愛市場に飛び込んでいく。アプローチが悪いとキモがられるが、バイタリティ高くめげない人が多いため何やかん軌道に乗る

③参入見逃し

思春期に異性が身近にいなかった、興味がなかったなどの諸事情で、思春期に異性とあまり関わらなかった結果、異性も恋愛もよく分からタイミングを逃す

③に該当した場合大人になってからの巻き返しは正直言って思いつかない。恋愛より打ち込んだもの大成してそれなりの地位を築いていたり、なんやかんや世話してくれる友人が身近にいれば違ってくるのかもしれないけど

あと思春期に異性と関わらないのって、異性の未熟な姿を知らない分、異性への期待値が上がってしまうのも大変だと思うんだよな。男も女も色んな人がいて、ツンケンしてる奴は実は家庭環境に苦労してるとか、穏やかな人も実は腹の底で色々考えてんだなとか、そういうのを性別わず知っていくことで自分許容範囲が分かっていく。こういう欠点は許せないけどこういう欠点は許せるとか、こういう長所を魅力に感じるけどこういう長所にはあまり惹かれないとか。そういう自分の中の好みがハッキリしないのも苦戦する理由になってそう

考えのクセ

それから単純に生育環境の悪さや遺伝上の困難性から来る精神への悪影響。被害妄想強いやつは治した方がいいよ本当に。小中学生ならともかく、大人になって身だしなみ普通の顔ブサイクな人がいたとしてもそれなりにまともな女なら嘲笑しないから。嘲笑される場合は、品格の低い女に集まる場所いるか、本人の身だしなみが本気でゴミレベルか、その両方

まあ身だしなみも異性への理解自己理解もコツコツやっていくしかない。別に自分境遇が悪いのは、大人になってから出会う人々のせいじゃないしな。恨むなら自分の親とか、変な社会の風潮を作った当時の大人だろう。自分を選ばない女ではなく

自愛

ていうか選ばれないことに悩んでる奴はまず自分を愛せ!自分自分を素敵だと思ってないのに他人に好かれるっていうのは美男美女特権よ(そしてそれなりの苦労もあるらしいし)。自分のために好きな服を買い、好きな香り飲み物を飲み、好きな洗剤で服を洗い…やりたいことは何でもやってみればいい。QOL向上して心に余裕がじんわりできてきたら、それだけで人間たる魅力が滲み出てくる

自分が不満を抱くべき相手は誰なのかと、自分自分を愛していないのではないかということを意識できるだけで楽になる奴もかなりいるんじゃないか

2024-05-28

anond:20240528220724

小中学生が書いたレポートがどれだけ整理されてるっていうんだよw

それこそ参考にならないだろw

ばかじゃねーの?

2024-05-18

性の目覚めがギエピーだった件について

初めて増田を書いています

このこと、ずっと誰かに話したかったけど誰にも話せず、匿名のここを使います

私は今20代半ばの女です。

当時は「それ」を性的感覚とは思わなかったが、大人になってから「多分あれが自分の性の目覚めだったな」と思う出来事を、男女問わず小中学生の頃に多くの人が体験しているのではないでしょうか。

私の場合、それが所謂「ギエピー」つまり久保先生が描かれているポケモン漫画だったという話です。

私の家には、兄がいたこともあってコロコロコミック少年漫画が多くあり、私も幼少期楽しく読んでおりました。

恐らく、小学5年生くらいのことだった気がします、単行本1巻を読んでいた時のことです。

漫画が手元にないので記憶を辿りながら書いておりますが、恐らく1巻の中で最後に載っている話に、レッドピッピ達が、急に荒れた天気の雨宿りのために、ちょうど近くにあった不気味なお屋敷に立ち寄ります。(ググったところ、第7話っぽいです)

そこにはブルーという名前少年が住んでおり、とても暗い性格で、ブルー関係のもので部屋が埋め尽くされています。(その中にブルーレット置くだけがあったのだけはなぜか鮮明に覚えています。)

そして、不気味なお屋敷イメージ通り、そこでレッドピッピ達はゴースなど、ゴーストタイプのポケモン達と戦うことになります

私の性の目覚めとなったのは、次のシーンです。

ゴーストタイプのポケモン達は、エスパーを使ってピッピ達を操り、洗脳状態します。

ピッピの目は正気を失い虚ろになり、ゴーストタイプのポケモンが「自分攻撃しろ」と指示すると、「はいッピ」と言ってピッピ自分の頬を殴ります

正気に戻れ!」と声をかけるレッドに対しても攻撃をしようとしたりするなど、完全にゴーストタイプのポケモンの言いなりになっています

信じられないかもしれませんが、ここなのです。

このシーンを初めて読んだ小学5年生の私は、なんだか胸がドキドキし、体がムズムズし、同時にフワフワ気持ち良い心地になりました。

なんだかイケないことをしている気分になり、リビングソファから漫画を持ったままトイレに移動し、該当のシーンのみを何回も何回も繰り返し読んでいました。

決して性的なシーンではないはずなのですが、「味方だった人が、敵に洗脳され、言いなりになり、味方である自分のことすら分からなくなり、攻撃してくる」というシチュエーションに興奮したのだと思います

このシーンを読みながら自分の体を触ったりすることは一切なかったのですが、今思うと絶対に確実にあれが私の性の目覚めでした。

エロ漫画などでも「洗脳」というジャンル存在しているかと思いますが、なんせ私が好きなのは上記のような「味方が洗脳される」シチュエーションのため、エロ漫画等の洗脳は、それほど刺さらなかったりします。(人の性癖って複雑で難しいですね。)

多分自分より他人洗脳されているのが好きなので、恋人洗脳されるような、NTRの方が近しいかもしれません。

ここまで読んでくれてありがとうございます

かに話したくて話せなかった、私の性の目覚めの話でした。

ちなみに、同じ小学校高学年の時期に、ドラゴンボールも大好きで、よくTSUTAYAとかでドラゴンボール映画OVA?か何かもよく親に借りてもらって見ていたのですが、

その中でも上記ギエピーと同じような興奮を感じたシーンがあったと記憶しているのですが、いくらネットをググっても特定できず、何年も探しています

リゾート地みたいなところで、悟空やその仲間たちがトランプとかしながらワイワイ遊んでいるのですが、敵が襲来し、多くの仲間が洗脳され、悟空達を攻撃してくる、というシーンがあった気がするのです…。

しかすると性の目覚め直後に見た夢かもしれず、そんなもの存在していない可能性があるのですが、もし知っている方がいたら教えていただけますと幸いです!

追記

読み辛いのはすみません

これを特殊性癖とは思っておらず、ただ性の目覚めがギエピーっていうのはなかなか他にいないのでは?と思ったので、それをを主に伝えたかったです。

こういう性の目覚めだったから、こういう性癖になりました、という話です。

ドラゴンボールの件について、これを書いたあと更に調べたのですが、もしかするとドラゴンボールGTのベビー編の部分かもしれないです。あらすじとかを読めば読むほどぴったりな気がします。

2024-05-17

発達障害本当に増えたよな

晩婚化が進んだ結果だろうけど

リアルでもネットでもいる

そしてこういうのほど多産なんだよ、ギリ健を数で埋めようとする本能なんだろうけど勘弁してくれ

不幸と害生産工場にならなくていいか

周りのこと全く見えてない、配慮ができない、成人してても小中学生のクソガキみたいな奴

エンカウントするとマジでビビる

商売してるとわかるけど大家族はだいたいキチガイ

anond:20240517102911

はいGPUの仕組みや重要性を分かりやす説明した本や教材はいくつかあります。例えば以下のようなものが挙げられます

1. 『GPUを支える技術株式会社ボーンデジタル (2023年)

GPU基本的な仕組みから、最新のGPU技術まで幅広く解説されています技術者向けですが、図解も多く分かりやすい内容です。

2. 『つくりながら学ぶ! PyTorchによる発展ディープラーニング小川雄太郎 (2020年)

機械学習フレームワークPyTorchを使ってGPUプログラミングを学べる実践的な書籍です。サンプルコードを動かしながら理解を深められます

3. 『GPU教科書福井真二 (2022年)

GPU歴史から最新アーキテクチャまでを網羅的に解説コンピュータサイエンスの基礎知識がある大学生大学院生向けです。

4. UdemyGPUプログラミング入門 - CUDAOpenCLで学ぶGPUコンピューティング」

オンライン学習プラットフォームUdemy動画講座。GPUの基本からCUDAOpenCLでのプログラミング方法まで解説しています

ただし、ご指摘の通り小中学生向けのGPUの仕組みを分かりやすく教える本は少ないかもしれません。GPUCPUに比べると新しい技術なので、教育現場での普及はこれからという面があるでしょう。

技術の発展に合わせて、今後さらに分かりやす入門書子ども向けの教材が増えていくことが期待されますITリテラシー教育の一環として、GPUについても触れる機会が増えるかもしれませんね。

anond:20240517102506

重要なのは理解できるんだけど、CPUで例えるならアスキー蒲池さんの「はじめての8086」とか「はじめての486」みたいな本ってあるの?

そういえば、蒲池さんの8086の方は絶版だった気がする

小中学生向けに単純なCPUの仕組みを教える本が今はあるんだろうか…

2024-05-16

でもセックスを楽しんだほうがオタク消費も生産も捗った

小6からずっとオタクグループにいるオタク女なんだけど、処女時代オタク体験特有の楽しさというのはあって、その後彼氏できて二次元オタク趣味どころか全趣味エネルギー喪失した時期があって、その後エネルギーが復活したという変遷があった。

最初彼氏ができたときは、恋愛に夢中になってオタクをやめたというパターンではなく、幻滅と軽い鬱みたいになって何もかもが楽しめなくなってしまった。セックスが全く気持ちよくなかったのと、前から自分がブスである自覚はあったけど本当にブスの貧乳で無価値なんだなって思えて同人誌やグッズ類を一回全部処分したし、ライト乗り鉄みたいな感じでいろいろなところに一人で出かける趣味も失ってしまった。消費も生産もあのときは完全に止まった。「生産エネルギーが凄い童貞生産を続けさせるために童貞のままでいさせろ!」みたいな声があるけど、それはこういう理由なのかもしれないなと今でも思う。夢が壊れて読めないし書けない状態になることはあるんだなと思う。私が生産をやめて困る人は別にいないけど、その人の創作依存している読者が大勢いる商業作家であればそういう干渉も起きるもんなのかなと思う。作家感性に不可逆な変化が起きてほしくないと思うわなと。

別れたら恋愛・性のコンテンツとは無関係なところから趣味が復活してきて、これはこれという感じで徐々にフィクションも楽しめるようになってきた。その後、別の人と付き合ってセックス気持ちいいのかよ…となり、急に実写映画など二次元以外のコンテンツも楽しく感じられるようになってインプットの幅が広がって(これが個人的に一番デカ体験だった)、創作寡作だけどまたできるようになった。支部でのブクマ数みたいなところでいうと前より数字出せるようになった。もちろん評価よりも自分仕事生活と両立できて適切な距離感でやっていけることが一番なんだけど。交流や、オフラインでの活動がかなり時間金も溶かすので、そこが無くなっただけで他にも時間が使えるようになる。時間は有限だけど密度みたいなものはある。コンテンツなのかコミュニケーションなのかというのはトレードオフじゃないんだ、生産と消費もトレードオフじゃないんだ、インプットをたくさんすると「個性」を失って他者から評価が減じるわけでもないんだ、というのを思う。そんなに単純なものではない。あと思えば自分のことを個性的だと思い込んでたとき自分って個性的だったのではなく、オタクテンプレートに準じていたただの痛いアニメイトJCの延長だったのでは?むしろ類型的だったのでは?とも思う。

オタクセックスが下手みたいなレッテル意味がないんだよね。元彼も現夫もオタクだし、両方瘦せ型の眼鏡から、「見た目の特徴で見分けろ」みたいなことには意味がない。違いをいうなら元彼友達彼女がいない人ばかりで、現夫の友達彼女がいる人が多くて、年を重ねるうちに既婚者になっていった。そういう傾向が、今思えばあるなというくらい。見た目はまじで両方瘦せ型の眼鏡しかない。とくに高収入とかでもない…むしろ元彼のほうが職業領域としては高収入職のルートに行ったのではないかと思う。追いかけてないけど。

元彼との交際中はメンタルデバフがかかってて何も楽しめないという感じだったし、あれを「現実恋愛しているかフィクション不要になってた」という解釈だけはマジでできない…フィクション大事だし、現実に劣る存在というふうには思わない。低カーストのブスである現実自分から逃れるためのフィクションという位置づけではなくなってからのほうが、むしろ商業という責任の生じる形でコンテンツ生産を担っている人々への敬意や感謝を持つようになった。そして今の夫と交際開始したことがバフなのかというと、バフとちょっと違って、経験値が上がったような感じがした。小中学生の頃は現実と切り離すためのオタク消費・生産であって相互の影響はないと思いたかったし強固にそう思っていたけど、今思うのは、現実経験が「どういうコンテンツを好むか」という好みの部分にかなり影響を与える。実際にやったセックスをそのまま創作晒したり友達モデルにして作品に出すような行いはしてないけど、コンテンツから良さを感じとる幅が広がって多様な小説映画などから影響を受けるようになって、インプットするコンテンツの幅と量が激増したかアウトプットも変わったという感じがする。あと経験っていうのは現実恋愛セックスだけじゃなくて、ほかの対人関係仕事などの影響も結構割合としてある。学生のころ部活で後輩を指導するような役割から逃げ回っていて、職場で後輩ができてついに「先輩」役から逃げられなくなって、案の定うまくいかないとかの経験もかなり大きかったように思う。

自分ダメさを思い知るとかも含め、人生経験があったほうがコンテンツの消費も生産楽しい。私の場合はだけど、生産において評価数字も前より出るようになった。ただ、それは好きな時に好きなだけ趣味創作をして無料で公開するという一番責任の発生しない形のものしかなく、安定性が要求される商業とは違うもの。また、人と付き合うことで鬱状態みたいになると全部にデバフかかって何も楽しくなくなるから人間関係リスクではある。人を求めた結果、ホストりりちゃんにハマってめちゃくちゃというケースもあるんだろう。結局、何の単純化もできない。

 

元彼と関わるとなんで軽く鬱みたいになっていったのか。なんで元彼と付き合ったのか。

https://anond.hatelabo.jp/20240517171536

anond:20240515221358

続きです。

しかし、結果的に言うとマンガ部も違った。こんな言い方が正しくないのは分かっているが、みな意識が高すぎるのだ。真面目にマンガに取り組もうとしている人たちばかりだった

「人は経験したことだけしか描けない」という信念のもと、学外活動にも熱心だった。いろいろな経験を積むことで、その経験作品に、キャラクターに深みを与えるのだと。マンガが好きだからマンガしか読んでない奴には面白いマンガは描けない。そう断言してはばからない人たちだった

しかし俺はその考えには否定的だった。なぜならエロ自由からだ。エロく感じるなら現実など無視して良い。腹ボコ子宮姦も感度3千倍もリットル単位の精液も、どれも現実にはありえない。だがありえないからこそエロいのだ。現実に縛られずに自由に描けるからエロマンガエロ同人エロいのだ

そして俺は漫画家になりたいのではない。エロ二次創作がしたいだけだったのだ。そのためだけに絵を練習してきたのだ。男などは描きたくはないが、竿役がいないと始まらないので仕方なく練習した。毎回毎回異空間に閉じ込める訳にも行かないから、背景も勉強して練習した。もちろん女体もしっかり練習した。だがしかし精緻な設定も重厚ストーリー人生経験エロ同人には必要ないし、そもそも俺にそんなものを生み出せるはずもない。生み出そうという気持ちすらない。俺にとって重要なのは読子まほろさんをんほおさせること。それだけだから

とはいえ先輩方の絵は上手かったし、デッサン勉強会なども定期的に行われていて、同期で入ってきた部員も何人かいたので、しばらくはこのままでいいかと思い、部に残ることにした。表向きは俺も漫画家志望だということにして

マンガ部では定期的に部誌を発行しており、部員は全員それに載せる作品を描くことが義務だった。作品を落とすことは一度目はセーフだが二度目はペナルティ部員全員に食事を奢る、部誌の印刷代を出すなど)を課すという厳しいものだった。なので落とす人はほとんどいなかった。が、これに毎回苦戦していたのが俺だ

だってそうだろう。自分が一から考えたマンガなど、俺は一度も描いたことがない。ストーリーがあるマンガも描いたことがない。だが見様見真似でコマを割ることを覚えたりと、マンガ形式を少しづつ学べたのは良かったと今でも思う

そうして大学生活や部活動にも慣れ始めた頃、ついに俺は念願を実行に移すことにした。そう、エロ同人作家としてデビューすることだ

いきなりコミケハードルが高すぎるし、何よりもサークル当落があるので、本ができても落選では意味がない。だからまずは手近なイベントにしようと俺は考えた。ネタとしてはやはり、当時人気だった「おねがい☆ティーチャー」が鉄板だと俺は予想した。印刷所も手配し、同期にも手伝ってもらって原稿も描き上げた。この同期は真面目でエロマンガエロ同人などには良い感情は無かったが、それでもマンガであることには変わりはないと割り切って手伝ってくれた。マンガとして成立しているかもきちんとチェックしてくれた。コマ運びや大ゴマの使い方など、エロしか描けない俺の絵を「マンガ」にしてくれたといっても過言ではない。ただ、俺が本当にやりたかったのがまさにエロ同人だったと知っていたら手伝ってはくれなかっただろう。そういう意味では騙したみたいで、今でも時々申し訳無さを感じる

そうして出来上がった俺の初のエロ同人誌は、自画自賛だがなかなかのものだったと今でも思う。もちろん今から見れば何もかもが荒削りだし、絵だって素人にしてはまぁまぁ、というレベルだ。当時と今とでは要求されるレベルが違うが、それを勘案すれば「まぁまぁ」だった(今基準ならクソ認定されるかもしれない)

そして結論から言うと、俺のこの初エロ同人誌は完売した。ビビって100部しか刷らなかったのを後悔した。初めてのイベント参加で、初めての本なんか売れるわけがない。そうネットでは言われていたので、100部というのもかなりの冒険だったのだけど、当時は最低ロットが100部からだったので仕方なかった。今のオンデマンド方式なら部数は自在から、30部ぐらいにしていたかもしれない。それはともかくとして

初めてのエロ同人完売したという事実に俺は喜びに打ち震えた。たった100部とは言え、初めての参加で初めての本だ。それの「完売」の勲章は何物にも代えがたい。今までの努力が認められた気がした。エロ同人作家として価値を認めてもらった気がした。子供の頃からなりたかったエロ同人作家に、いちおう俺はなれたのだ

そこから俺はイベントごとにコンスタント新刊を出すようになっていった。この頃にはとらのあなが最大勢力で、信長書店メッセサンオーといった同人を扱うショップも多くなってきた。一方で長年お世話になっていたLLパレスは悲しいことに規模を縮小していったが、こういうショップが勃興することで、俺は部数をどんどんと伸ばしていった。イベントで売れ残っても、その在庫ショップが引き受けてくれるのだから、スペースの限界まで持ち込めるのだ。100部から始まった俺の本の印刷部数が4桁後半になるのもあっという間だった。実家から離れて一人暮らしを始めたのもこの頃だった

一方で同人活動にかまけて、学業どころか大学生活が破綻するようになった俺は留年危機を迎えていた。おまけに世は就職氷河期真っ只中である。だが俺はまったく気にしていなかった。この頃の俺は1000万円以上の収入エロ同人から得ていたからだ。就職卒業もする意味理由も俺にはまったくなかった。が、親に懇願されたのもあって、卒業だけは一応しておくかと思って追試でどうにかなった。大学側の温情も多分にあってのギリギリ卒業だった

から就職をどうするのかと何度も問い詰められた。いまの状況ではまともな就職など出来ない。だからしばらくフリーターをやると言うと、それなりに納得していたようだった。エロ同人作家フリーターも似たようなものだ。だから俺はここで本当の「エロ同人作家」になった。大学生のお遊びではない、本物になったのだ

さて、無事に大学卒業して「職業エロ同人作家」となった俺は、変わらずに活動を続けていた。好きなアニメゲームを見ては妄想股間を膨らませて、いかにこのキャラアヘアヘ言わせるかだけを考えていた。清楚なタイプならギャップ萌えダブルピースも悪くない。ロリロリでもアリだ。ちょうどこの頃はメスガキ分からせという概念も生まれつつあって、それに乗った俺は絶好調だった。少なくとも表面上は

だが、当時は分からなかったが実は俺はほんのりとスランプを感じていた。マンガ技術は桁違いに向上したし、画力だってプロと比べても遜色ないほどに腕を上げた。しかしやってることや描いてる内容は最初デビュー作品から何も変わっていない。いや変えられなかったからだ。技術レベルは上がっても、「中身」は小学生レベルなのだ小学生の描くバカみたいなマンガプロが清書してるだけのようなものなのだ。誰を描いても、何を描いても「うんこ! おしっこ! ギャハハ!」だ。そういうものを延々と再生産しているという事実に気がついた時、俺はゾッとした。結局のところ、俺はエロ同人作家」としては何も進歩進化もしてないのではないか。そう思った

学生の頃、マンガ部の真面目な先輩たちが真面目にマンガを描いていたのを見て、意識が高くて違うなぁと思った。俺にはそんなもの不要だと考えた。エロ同人必要なのは、一にも二にも画力エロスだけだ。そう信じていたが、そうではなかった、エロとはそんな単純なものではない。…俺はそんな風に段々と思うようになっていった。エロスとは人間真実を浮かび上がらせる深奥なる営みの一部なのだ、と。今頃になって先輩たちの「人は経験したことだけしか描けない」という言葉が俺の心をえぐるようになっていった

しかるに今のこの俺はどうだ。実際のセックスなど知らずに、小中学生妄想をただ絵で表現しているだけの、エロスも人間も描いていないただ手先が器用なだけのバカなのではないか小手先エロい絵を描いてるからある程度評価されてるだけで、「作家」としての評価は下の下なのではないか

俺は「漫画家」になりたかった訳では無い。ただエロ同人作家ありさえすれば良かった。だがエロ同人作家であろうとするなら、同時に「漫画家」的な資質要求されるのだということを、俺はようやく思い知った。エロいからというだけで、設定など無視してキャラアヘ顔ダブルピースをさせるなど、そもそも作品理解していないから出来ることだ。果たしてそれは二次エロとして正しいのか。エロ同人作家としてあるべき姿なのか。そんなことを突きつけられた気がした

から思えばそれは事実だった。だが当時の俺に、その事実を受け入れ、飲み込む度量はなかった。なまじ売れていたからこそ、自分が真のエロ同人作家ではないという事実が受け入れられなかった。あれほど憧れたエロ同人作家として成功したというのが、すべて幻だった、勘違いだったなど受け入れられるはずがない

から俺は、「本当のセックス」を知るためにまず風俗に行くことにした。実際のセックス体験すれば、それが何らかの形でマンガフィードバックできると考えたからだ。そのフィードバックを得られれば、俺は一つ上のエロ同人が描けるようになる。そう信じた。マンガ部の先輩たちが言っていた「人は経験したことだけしか描けない」という言葉に、今更のように俺はすがった

だが、「実際のセックス」は俺の求めたフィードバックインスピレーションも、何も与えてはくれなかった。実際のセックスはさほど刺激的でもなく、快感という点でも右手に大きく劣るという有り様だった。しかし一つだけ大きな学びがあった。「セックスはいうほど気持ちよくはないが、しか女の子イチャイチャするのはたまらなく心地良い」のだ

話は少し前後するが、俺は外面が良いというのは何度も書いた。芸能人レベルイケメンとまでは言わないが、雰囲気イケメンぐらいではあった。身長だって175センチあって、武道で鍛えてはいたので細マッチョだったから小中高と女子には受けは良かった。告白されたことも何度かある

でも俺はそれらを断った。なぜか? それは真実を知ることで幻想が壊れることが怖かったからだ。そして己の欲望ありのままにぶつければドン引きされるのが分かっていたからだ

俺とて子宮姦など現実にはできないことは知っているし、そんな長大なナニも持ち合わせてはいない。感度3千倍なら脱法ドラッグあたりなら何とかなるかもしれないが、それとてリスキーが過ぎる。なにより俺には妹がいると最初に書いたが、そのせいで「現実の女」に対する期待値などゼロだった。「人語を一応は解する邪悪な獣」である妹が俺の中では現実若い女性のモデルケースだったので、そんなのの類似品と「お付き合い」など出来るはずがないし、したくもなかった。故に俺はセックスへの憧れ、期待を持ちつつも実行には至らなかった。現実女子などは鬼神のごとく敬して遠ざけるのが最良なのだ

とはいえ性欲は人並み以上にあったので、ヤりたい気持ちは常にあった。ヤれそうなタイミングもあった。しかエロ同人的な世界観内面化している自分が、常識的セックスで満足するとは思えなかったから踏みとどまれ

話を戻すと、いざ実際に現実女子と致すと、なるほど予想の通りにさほど気持ちよくはなかった。全くの想像以下だった。しかし、事前事後に快感とは別の多幸感のごときが押し寄せてきたのだ。これは予想外、想定外だった。幸せホルモンがドバドバと脳内に分泌されている。セックスとは竿の快楽だと考えていた自分にとっては、これは盤外戦のような感覚だった

だがこの感覚マンガフィードバックはできない。竿役のおじさんや触手多幸感を感じたというのをどう表現しどうエロ昇華できるというのか。悩み、迷走した結果、俺は今まで通りの路線で続けることにした

ところでこの頃、自身の迷走もあって売上はよくて現状維持ネタによっては大きく落ちることもあった。かつて数千部を誇った発行部数在庫として積まれるようになっていった。そして何度も言って恐縮だが、俺は外面はまぁまぁいい。高校生の頃からの習慣で、イベントには常にピシッとした装いで参加していた。それは落ち目になったこの時でも変わらなかった

後にどこかで聞いた話だが、腐女子などもイベント参加のために気合の入れた服や装いを用意するらしい。大事同人イベント敬愛するサークルのスペースに訪問するのに、勝負服を着ないでいつ着るのか、という文化があるらしい。俺の装いへのこだわりもそれに近い、と感じた。俺はエロ同人誌が好きだった。それが頒布されるイベントも好きだ。それへの、そこへの敬意として正装をする。それらに対して恥ずかしくない格好をする。もちろん自分なりの、ではあるけれど、それが「礼儀なのだと俺は思う

そして迷走してはいものの、まだある程度の売上があったこの頃、この俺のファンだと名乗る女性サークルスペースに現れた

まだ続きます。。。

2024-05-15

https://anond.hatelabo.jp/20240515054750

   安倍晋三暗殺された事実から既往に遡ってお前が犯罪者であることが立証されている。あきらめろ、志村消防の警防の男。何かなければ安倍晋三殺害するという技術に出ないと解される

   ところ、それが全国ニュースに流れている時点で、全国民安倍暗殺事実を知っているのであるから、そこから推測してその背後の事実くらい、容易に想像できる。

    延岡市に住んでいる小中学生でもそうだが、その報道に接しても、頭の中に結論想像するのが成立してないとすれば想像を絶する馬鹿だろう。

2024-05-12

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

2024-05-08

anond:20240314192743

Fランや専門の情報学校って、単純にIT土方養成学校なんだよね

とりあえずまともな四大を目指すのはだるいけど

高卒じゃ…っていう親の体面と自分プライドを守れる最終手段

そういうやつに限ってリアル土方をバカにしてたりするわけで、結果はお察し


そんなこと20年以上前から言われていたことで

小中学生時代パソコンをある程度かじった当時の人間

ああ、コーディング別に自分でやる必要にないな、って思って他の専攻を選んでたわけ

パソコンの大先生ゆうちゃん候補生たちが

しぶしぶ情報系の学校に行っただけでどうにかなるわけないだろ

覇気が無いのも必然


GAFAしろ何にしろ現実世界の痛みを改善することでのし上がってきたわけで

仮想世界に浸かりきりで表に出てこない人間ソリューションが生み出せるはずもない

"IT"と、"IT土方"をまず分けて考えろ


そして情報系で教えているレベルの話は、まともな四大に行ける知能があれば

本を片手にパチパチ叩いていれば普通はできるわけ

当時から小中学生だってホームページくらい作れたわけだから

で、AIがモノになるようになってもうその程度のコーディング画像生成にIT土方不要なわけ

当時から予言されていたでしょ?なんでネットにどっぷり浸かっててそこまで予想できないわけ

2024-05-07

anond:20240506194046

今どきの小中学生増田やってるような年寄りの子時代ほど男女対立してないよ。

一緒にしないであげて。

2024-05-05

増田存在を思い出したので独り言

自分小中学生時代に絵や漫画を描くのが好きだったけど高校に入る前に挫折した

その後も創作に対する興味や未練はうっすら残っていて

アラサーになって小説を書き始めた

しか自分には文章だけで物語を綴ることが「無から無を錬成してる」ように感じられて(※あくま個人的感覚の話です)

それでも義務感的に毎日書こうとしているうちに限界を迎えた

だが最近また絵を時々だけど描くようになって

やっぱり視覚的に何を作ってるかわかりやすいこっちの方が自分に合っているな、手を動かすだけで楽しいなと思えたので

今後は義務感を覚えないくらいののんびりペースで何か描いていこうと思った

今のところネットにあげるつもりはない、まだ下手な方だし他人の目が気になるとしんどくなりそうだし

とはいえ思い通りに絵が描けるに越したことはないので近いうちに無理ない範囲デッサンとかも勉強し始めたい

今はイラストの模写をすることが多いけど、初心者には凝った構図のものよりシンプル立ち絵の方がいいのかな?

あと漫画を描くことにも今でも興味はある

まあ今は話のアイデアも考える気力もないので少なくともしばらくはやらないだろうし

描けたとしてもネットにあげるかは不明だけど

2024-05-01

anond:20240501142024

旦那アニメキャラの名付けかなんかと勘違いしてそう。辞書の下の方に乗るような難読漢字キャラクターの名前を付けるの小中学生の時によくやったなあ。中二病だよ。

2024-04-30

anond:20240430235213

小中学生ぐらいはまだ他者視点物事を見るのが難しいし、ジョークを使う上でのバランス感覚が未熟なのはしゃーない

anond:20240430142849

昔は、横浜市民が崎陽軒シウマイを食べていないってのは間違ってないかと。

あの商品駅弁シウマイ弁当を売り始めたところ大当たりしたところからメジャーになったはず。

東京から大阪方面新幹線出張にいくお父さん方が初期の顧客だったはず)

そもそも1980年代横浜市民の生活圏内には崎陽軒シウマイを購入できるようなお店はなかった。

シウマイを買う機会そのものがなかったはずだ(少なくも、小中学生自分にとっては)

 

■家にシウマイがやってきた日 

変わったのは1990年前後だと思う。

JR京急横浜駅。たしかホームあたりに崎陽軒のちっさなお店が次々にでき始めたのだ。

すると、横浜駅に立ち寄った横浜市民が家庭で食べるためにお土産として崎陽軒シウマイを買うようになった。

当時、母親横浜駅周辺にある取引先に向かったときには、大抵、お土産シウマイを買ってきてくれるようになったのを憶えている。旅行に行くとき駅弁やよそから来た観光客向けのお土産という、ハレの日の食べ物イメージがあったので、それが突然我が家に持ち込まれることにちょっとした驚きがあった。

 

1990年以降、出展シウマイ消費が加速

崎陽軒の出店施策は当たったらしく、それ以降、出店ペースはどんどん加速していった。

それに伴い、崎陽軒シウマイ生活圏内で買える食べ物日常食べ物になっていったように私には見える。

1990年以降、横浜市民は崎陽軒シウマイを食べるようになったのだ。

 

■その他

横浜市民はサンマーメン食べないよ(たまの外食で食べたくなるようなものでもないでしょ)

横浜市民は家系ラーメン食べるよ(多分、シウマイよりこちらの方がずっと「ソウルフード」って感じだよ)

横浜市民は鳩サブレー食べるよ(鎌倉に遊びに行った人が買ってきたり、鳩サブレー工場で訳あり品が安く売っていたりと、食べる機会が多いよ)

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