はてなキーワード: 女性自身とは
私フェミニストなんだけどさ
で終わったらダメだと思うんだけど
どこ向かってんのって思ったら軌道修正しないと
私は10年20年後にちょっとでも変わってたらいいなくらいに思ってるんだけどさ
だからフェミニスト同士で殺し合ってこの流れを止めてしまうような事はやめてほしいのよね
私は女性蔑視問題って夫婦別姓が一番分かりやすいと思うんだけどさ
まあ別姓というか
選べんのに選べないのよね
妻の姓にすると不思議がられたりね
でも夫姓になるのを喜ぶレディも沢山いる
まあ喜ぶのはええよ
でも、なんでそうなったんだろう、と
そこよ
夫姓を選ぶ事とか
めっちゃ普通な事になってるけどそもそもそれ女性蔑視からきてるよね
で、それを女性自身も疑いなく受け入れてるわけやな
これが根深い
姓に関しては結婚することのアイコンになってるから受け入れるどころか嬉しいと思うようになったわけやな
公的機関がセクシーポスターを使うのは倫理的にどうなん?ってまあ、正直思うけどさ
そういう表面的なやったやらないみたいな話じゃなくてさ
情けは人のためならず、だが他人に施すためには自分が、そして社会全体が豊かで余裕がなければ。自分や社会全体がカツカツで生きてるのに他者を助けることは物理的にも心情的にも無理。だから経済成長は善なのだ。 - id:rider250
ブコメページ - サナギさんのツイート: "ここは俺の日記帳 公務員になって最初の辞令で生活保護ケースワーカーに任命された時はショックだった 地方公務員がやりたがらない業務のトップ常連だし、何より生活保護に良いイメージを抱いていなかった 某お笑い芸人の一件も記憶に新しかったし、当時は俺も生活保護バッシングに同調していた"
専業主婦じゃなくても、旦那が高収入じゃなくても、出産・子育てができる環境にならないと少子化なんて改善されるわけがない。 - id:urakenism
ブコメページ - Yoko on Twitter: "違うな。「女性が最も安心して出産と子育てができる環境」は、高福祉社会でしょう。 相手の男性の経済力なんて不安定過ぎる。百歩譲って「その女性自身が経済力があること」かもしれない。 https://t.co/aDpgJVprnP"
女性の自己決定権があがると出産率は下がるんじゃないかと思う。だから、女性が産みたくないなら産まなくて良いし、それで国が滅びるとしても仕方ない。誰かの犠牲の上に成り立つ社会などなくて良い - id:theatrical
ブコメページ - 「子育ては命を削る」女性に出産を押し付ける人々に、出産育児の実体験を持って反論「気絶した」「他人にはおすすめできない」 - Togetter
クチャ食いをマナー違反としない文化は意外と世界でメジャー。マナーは自分を律するもので、他人に強要する方が恥ずかしい。 - id:jaguarsan
自分自身にとっては十年前のことだが、この「なぜ自分は働くのだろう?」という問いを強要しつつ、じゃあ働きたくないという答えを許さない、都合の良い答えばかり求める就活というものが大嫌いだ - id:hakyu
欲を持てば足を引っ張られ、夢を語れば馬鹿にされ、やる気を出せば一方的に搾取されるこんな世の中じゃ。 - id:inumash
ブコメページ - 【正論】「欲ない、夢ない、やる気ない」……現代日本の最大の危機はこの「3Y」にある 作家・堺屋太一(1/5ページ) - 産経ニュース
典型的な日本人的考え方。完璧だから大丈夫として、不測の事態に対する備えをしない。不測の事態は想定外だから起こること。最低限の備えは常にしなければならない。 - id:sisya
弱者男性論はフェミニズムへのカウンター・ミラーリングから生まれた概念で、だからこそカウンター・ミラーリング以上の社会的意義を持たないし目的もないというのは正しいと思うし、そのカウンターとしての意義すら見失ってしまった「あてがえ論」や「女性の教育や社会進出を制限」などという時代錯誤な意見は論外だと思う。
そういった過激な思想を取り除いたとしても弱者男性論は結局の所かわいそうランキング向上運動でしかなく、弱者であるから優遇されるべきだ、弱者なんだから強者(女性)への攻撃は正当化されるといった外部への責任転嫁に終止してしまい、その「成果」を得るためにますますかわいそうランキングを向上しようと自身の弱者性をアイデンティティにしてしまう矛盾に苛まされることになる。だからこそ、弱者男性論に解決すべきイシューはなく救いようはないという意見や反論もわかる。
そうは言ってもフェミニズムという性別による差別に戦ってきた先輩の方法論に学び、弱者男性という階層・集団が発見され名前がつけられたことは意義があったんじゃないだろうか。名前があることで初めて対象を考察できるようになる。弱者男性の存在を頑なに認めない人もいるが、課題があることを認めることはそれを即時解決しなければいけないことを意味しないし、ましてや解決していないからと咎められることもない。人間できること・やれることには限界がある。まずは「弱者男性」という概念があることだけでも認識されれば十分な気がする。
そんな非モテ弱者男性を本当に救うのは、あてがえ論や女性の社会進出の制限など女性の権利を押さえつけることではなく男女平等を実現することではないかと思い至ったので簡単に書き下してみる。この増田では上でも書いたとおり特に非モテにフォーカスした非モテ弱者男性論について書くので低収入等については考慮しない。一般に弱者男性とモテの話が切り離せない理由、弱者男性論が女性に向けられる理由も同時に書こうと思う。
フェミニズムや反女性差別の本丸の一つは間違いなく所得格差だろう。具体的な数字もありわかりやすく、女性の社会進出の指標としてよくあげられる。実際のところ、正規雇用社員において女性の所得は男性の75%程度に留まると言われており、男性と同一の労働でありながら女性であるからという理由で所得格差がもたらされているとすればそれは差別的と言える。
たとえば、統計的に女性の20代後半から30代の離職率が高いので女性という属性によって雇用を渋ったり昇進を阻んでいるとしたら、それは犯罪率が高いという理由で男性保育士の雇用を渋るのと同様に差別的だ。
グラフやデータはほしい結論を仮定して読むと見誤る。女性の所得が低いのは女性が差別されているからというのは本当だろうか?女性自体が高い所得を望んでいないとしたら?日本の女性の幸福度は男性の幸福度に比べて著しく高い。目的と手段を取り違えてはならない。大金を手にすることが目的ではなく幸せに生きることが本質的であり金はそのための手段に過ぎない。日本の女性は稼ぐ必要に迫られずとも幸せになれるからそもそも稼ぐ必要がないということはないだろうか?逆に男性は「稼がされていて」それゆえに不幸で、女性は労働から解放されていて「稼ぐ必要がない」ゆえに幸福なのではないだろうか?
仮に実際に稼ぎたかったとしても女性は稼ぐ努力をしているだろうか?非モテ弱者男性が悲鳴を上げているとき真っ先に投げかけられる「モテる努力をしていないのでは?」「だからモテないんだ」という言葉、そのまま返ってくることは考えなかったのだろうか?まさかキラキラ文系キャンパスライフみたいなことをしてなんの学も積まずそれゆえに「パンプスを履かされる」ような労働しか選択肢がないことを差別などといっているのだろうか?低い職業能力しかないから容姿が問われるような目にあっているというぐらいの想像力もないのだろうか?女性性を求めず、責任に伴って高い給与を与えてくれる仕事なんていくらでもある。
シンプルな話として、そんなに稼ぎたいならなぜ女性は理系を選ばないのか?少なくとも稼ぎたい女性であれば実際的に稼げる能力やそういったキャリアパスに投資すべきだろう。理系修士・博士女性の知人友人なら年収1000万程度かそれ以上も珍しくない。
成果物を求められる仕事は成果物こそが全てだ。愛想笑いでは機械は動かない。そういった世界では性別なんてものは些末で、結果を出す人間こそが正義だし高い対価も支払われる。なぜそれを目指さないのか?「稼げる努力をしていないのでは?」「だから稼げないんだ」と言われても仕方ないのではないだろうか?
フェミニズムや反女性差別の文脈で特徴的な表現に女性の性的客体化や性的消費というものがある。性的客体化はものすごく簡単にいえば「女性をモノとして扱うこと」「女性の主体性を認めないこと」である。
女性に限らずだが同じ人間を人間として認めずモノのように扱うのはまったくもって不当であるし、そういう風景を見るのも不快に感じる。そして女性がそのような人間的でない、男性の性欲を満たすためのモノ扱いを受けるといったシーンは見たり聞いたりする。そういった加害者と戦うべきだ。書くのも嫌だがいわゆる「ヤリ捨て」といった言葉などにもあるように、モテ強者男性が女性をモノのように扱うような話は枚挙にいとまがない。ではフェミニストや女性はモテ強者男性と戦っているだろうか?
これはトートロジーではあるがモテ強者男性は女性にモテるのだ。すなわち、なぜかフェミニストや女性は自らを性的客体化するモテ強者男性を攻撃しない。それどころかモテ強者男性に群がっているのだ。つまり女性の性的客体化を積極的に支持しているのは女性自身という矛盾が生じる。そしてなぜか女性には触れることも会話することも早々にかなわない非モテ弱者男性を攻撃するのである。
フェミニズムの文脈ではこの性的客体化の不自然な適用がしばしば行われる。いわゆる二次元女性に対して「これは女性を性的客体として扱っており、そのような表象は女性の累積的な抑圧経験の強化につながる」と。たしかにこういった表象は男性をATMに例えたり年収で評価するようなことを公の場で発言することで直接的な男性の経済的客体化・モノ化と同様抑圧的かもしれない。
このような過激な言説は一部の極端なフェミニストの行動であり大半の女性はそのような攻撃的なことは行っていないと思うかもしれない。しかし様々な研究で明らかになっている通り女性は男性の上位2割程度にしか魅力を感じず、そして魅力を感じない非モテ弱者男性8割についてはその行動の如何に関わらず不快だと感じる。席替えで非モテ弱者男性が隣の席になったからと泣く女性がいた場合、加害者はどちらだろうか?
このような非モテ弱者男性を積極的に排斥しようという女性の本能的欲求が、相手を求める男性の「正(+)の性欲」に対して相手を排斥しようとする女性の「負(-)の性欲」と表現されたことは記憶に新しい。
この負の性欲と「女性が不快と思ったら加虐」とされるセクハラ・性的消費という概念の組み合わせは非常に強く、何をやっても女性に不快と思われかねない非モテ弱者男性は女性の気分を少しでも害したらセクハラだと指弾され社会的に抹殺されかねない。
女性は男性に対して身体的に弱いため男性が近くにいると恐怖を感じるという話と同じように、非モテ弱者男性は女性からの中傷やセクハラ指摘ナイフによっていつ刺されるか常に怯えながら生活しているのだ。悪いことに、暴力を振るえば逮捕は免れないが、セクハラ指摘なら非モテ弱者男性を社会的に殺してもなんの罪にも問われない。
これが弱者男性論が非モテと不可分であることの理由である。モテの量は女性の感情的な加虐性からの盾であり、非モテであることは女性からの加虐を受けることを直接的に意味する。そしてその意味において現代日本の男性はほとんどが弱者男性であり、結婚していても「本当に結婚したかった男」にはなれずATMとして扱われたり旦那デスノートで罵倒されたり托卵されたりなど被虐される立場にあるのだ。あてがえ論は女性の人権を制限するという意味でもまったくもって荒唐無稽であるが、同時に弱者男性の救済にも値しない。
ここまでだらだらとフェミニストの主張や女性差別について考察してきた。端的にまとめると現代日本では一般的に女性は理性的に行動ができず本能を抑えることができない野蛮で怠惰な状態にあるということが言えるかと思う。そしてそれが非モテ弱者男性という女性に加虐される被差別階級を生み出している。
しかしここで短絡的に「だから女が悪いんだ!女はダメなんだ!」と思った方々は少し落ち着いてほしい。これは上記のあくまでごくごく僅かな例から一般化した話であり、女性のすべてがそのように振る舞うということを意味しない。今短絡的に怒りに飲みこまれたあなたより遥かに理性的で、高い成果を上げ人類に貢献してきた女性はそれこそ星の数ほどいるだろう。すなわち「女性であること」は「理性が弱く本能を抑えることができない野蛮で怠惰な状態」の必要条件でも十分条件でもない。つまり弱者男性論に散見される女性叩きではなにも解決しない。そうではなく、現代日本の女性がそのような野蛮で怠惰な振る舞いをしてしまいがちな構造的な問題があると考えるべきだ。
そしてその構造的問題を解消できれば、女性が理性的で主体的になり男性同様本能を抑えられるようになることが期待できる。そしてそれは非モテ弱者男性にとって本質的な救いになりうる。
社会が男性に本能を抑制するように要請することで近年の社会秩序の発展と女性の地位向上がなされてきたように、女性が本能を理性によって抑制できるようになれば女性による非モテ弱者男性への中傷や排斥的加虐が抑えられ、何度も訴えられてきた非モテ弱者男性の消耗した自尊感情や社会とのつながりの回復も期待できるだろう。
では、女性が本能を理性で抑制できず野蛮になってしまう構造的問題とはなんだろうか?おそらくそれは男女の不平等だろう。
未だに「女性が高学歴だと結婚できない」「男性は自分より所得の多い女性と結婚したがらない」「女性は家事と愛嬌」といった女性に対する社会的抑圧は残念ながら存在する。そしてこのような女性の教育や社会進出を推奨せず結婚して扶養されることこそが幸せだという価値観の押しつけは女性の教育・社会進出を阻害するだけでなく、そういった過程で培われる理性的思考や主体性を女性から奪ってしまう。同時に女性に「私は社会から抑圧された」という言い訳を与えてしまい努力するモチベーションを失わせて堕落させてしまう。こうして本能のままに弱者男性を攻撃排除し被害者面をしながら強者男性に媚びを売る怠惰な女性が構造的に発生してしまう。繰り返すが彼女らにその責任はない。構造的問題は構造的に解消されるべきだ。
ではこれらの慣習を打破し、男女平等を実現して女性に理性的になってもらうにはどうしたらよいだろうか。高度化した現代では教育の水準がある程度強く所得に影響しており、経済的事由によって教育を受けるインセンティブを設定できる。すなわち女性が「稼がねば」と自ら思うような状況を生み出すことで、必然高い教育を受け理性が鍛えられ本能を抑制できるようになることが期待できる。
ではどうやったら女性が「稼がねば」と思うようになるだろうか?わかりやすいのは婚姻制度にメスをいれることだ。しばしば「女性は婚姻制度で楽をしている」「理解のある彼くん」と批判されるように、女性が男性の収入に依存する構造が女性を怠惰に堕落させ社会進出を阻んでいる。ひいては最初に上げた所得格差などを温存する結果となっている。
そのため女性が男性の収入に依存できないようにし、女性自身が必死に「稼がねば」と思うように法律を修正するのが効果的なはずだ。たとえば
このように、女性が男性の収入に依存するための多くの法律や制度が存在する。基本的にこれらの法律の修正をしたとしても「一人暮らしが二人」の経済状況とは変わらないため、女性がきちんと社会進出し労働し稼げている限りにおいて女性が極端に不利になることもないはずだ。にもかかわらずこれだけ「女性は男性の収入に依存せよ」というシグナルが法律にまで入り込んでいるのはグロテスクに感じる。女性が社会的制度によって強く婚姻や男性に依存して堕落することを動機づけられてしまっているのは異常だし、社会で活躍したかった・できたはずの多くの女性にとって悲劇と言えるだろう。フェミニストとしても解決したい課題のはずだと思う。
もちろん女性の出産に伴うフォローのための法改正も同時に必要になるだろう。これだけは男性にはどうしようもない。1年間の法定産休・育休と休職期間中の給与保証などの大胆な支援策もあるべきだと思う。フェミニストのいう結果平等はこういった形で強力に推進されるべきだろう。
出産後に男性の経済的支援があるならとパートタイム等の責務の軽い・時間の短い仕事に移ってしまう女性も多いと聞くが、上記婚姻制度改革によって男性依存を断ち切ることで改善が期待できる。男性のように「働かなければ・キャリアを失ったら死ぬ」という緊張感があれば成長意欲も刺激されるだろうし離職率も下がって「女性は30代になると離職するから」などという理由で採用・昇進を渋られることもなくなっていくだろう。
このような先進的な男女平等の実現・婚姻制度の解体によって女性も男性同様社会に参画し、男性に求められるよう女性も理性によって本能を抑え他者への加虐性を抑制することで、弱者男性は初めて「弱者男性」としてではなく「弱者」として男女平等な救済の道に進めるだろう。弱者男性の本質的な救済は男女平等を推し進めることにあるはずなのだ。
弱者男性はマッチョイズムから抜け出してきた人たちだと定義できるだろう
弱者男性はマッチョイズムから抜け出しているにも関わらず幸福にはなっていない
フェミの主張である、女性に対する不当な扱いをやめることで、男性にも利益があるというロジックを組めなくなるからだ
弱者男性はその利益をすでに手にしていて、本当であれば幸せであるはずなのにそうなっていないという矛盾が起きる
フェミは思う、では弱者男性の幸せとはなんだろう?と、しかし聖人でもないのに人の欲望を聞くという行為は愚かだろう
弱者男性のグロテスクな欲望を聞き、フェミはどうしようもなくなる
フェミはこう思うことにした、弱者男性の幸せとは普通の生活を行い、普通に暮らすことだと
それであれば女性の幸せと釣り合っているし、ロジック的にも問題なくなる
思うにこれが一連の流れだと思う
問題点はあるが、フェミが対応を誤らなければ対処可能だと思われる。
問題点
捨てきれていないというのはフェミにとっては歓迎すべきことである
弱者男性と同列に扱うかは気を付けた方がいいだろう
基本的には弱者男性からマッチョイズムを見いだせればフェミの勝ちである。
男性性を放棄している状態でどのようにアプローチが有効かは女性自身の幸せにもつながる
そんな世界で女性が結婚したい相手を見つけることを一緒に考えるのは男女平等的な観点からも問題ないはずだ
「そもそも弱者の問題であって性別で分けて考える必要は無い」というのは認識していて、元の記事でも次のように書いている。便宜上彼らを「ガチ弱者」と呼ぶことにする。
女性で生きるのがつらそうなのは、キモくて金のないことではなく、普通に働けないレベルの深刻な病気や障碍を抱えていたり、食うに困るレベルの貧困だったり、毒親や介護などの事情を抱えていたりという人。
ただそれは男性も一緒
ガチ弱者は、現状の救済策が十分ではないにしろ改善すべき社会問題として認識されている。というのが論旨のひとつめ。
女性だって容姿がキモいかキモくないかでジャッジされ、嘲笑され不当な扱いを受けてきたと思うけどね(これは個人的な経験もあるし一般的にもよくあることだと思う)。昔からあるエンタメの記号で、美人は性格が良くてデブスは性格が悪いってのあるじゃん?これってそういう扱いがメジャーだったから浸透したわけでしょ?
これ、実は男性の内心と女性自身の自認で大きく異なる。男性は美人をもてはやすが、いわゆる不細工といわれる女性でも生涯の伴侶とするのに抵抗はない。ただそのことを口に出さない。
理由としては、そういうことを口に出すと男性社会での地位(マウンティングランキング≒モテランキング)が落ちるから、あるいは女性をけなした方が女性を獲得しやすいから(恋愛工学)。もちろん、対立した女性の悪口としてあえて言うこともある。悪口なので本心ではなく、対立しなければ普通に恋愛関係になれる。
ためしにネットじゃなくてリアルで恋愛をあきらめたような弱者男性の声に耳を傾けてみると、彼らは全然女性の容姿をけなさないことがわかるんじゃないかな?恋愛をあきらめた男性は異性をけなしてモテランキングを上げるモチベーションがないから。
何が言いたいかと言うと、美人はポイントとして加算されるが、不細工は減点にならないということ。いわゆるルッキズムと男性の内心とは相違があるということ。これが主旨のふたつめ。
まあ、これはこれまで何度か増田に書いても女性には信じてもらえなかったから、今回もあんまり期待してないけどね。
弱者男性論はいろいろとフォーカスがぶれることもあるが、基本的にはガチ弱者よりもう少しマシな人たちと認識してほしい。彼らは食うに困るほどではないから生活保護をはじめとする社会的支援は受けられない。
男の場合、いわゆる男らしさも、キモいことも、金のないことも、同性からの評価も、異性からの評価も、自分自身からの評価も、すべて強く関連していることが最大の生きづらさの原因だ。
高い収入を得る職業に就けば、同性からも異性からも高く評価される。自己肯定感も上がる。金があれば身だしなみもきれいになる。男性の服は女性の服ほど工夫のしがいがなく、高い=かっこいい、なのだ。ユニクロで小ぎれいにしたところで嫌悪感が消えマイナスがゼロになるだけで、性的魅力はプラスに転じない。もっと上位の身だしなみが必要だ。
つまり、収入が普通レベルよりも低く生活保護を受けるほどでもない男性は、それだけで「キモい」も「モテない」も「同性からの低評価」も「社会からの低評価」も「自分からの低評価」も必ずセットでついてくるのだ。
女性の場合、金がないけど美人とか、不細工だけど家庭的、といった一芸入試的というか複数軸の評価がありえるが、男性はそれがなく一本道ということだ。
そしてこの、中途半端に金がなくて、それゆえにキモくて、それゆえにあらゆる人から蔑まれ、努力不足と言われ、的外れなアドバイスを勝手にされ、無害にも関わらずネットで女性を攻撃しているとあらぬレッテルを貼られる、社会からまったく同情されない人たちが弱者男性なのだ。
これが主旨のみっつめ。
キモくて金のないおっさんは、女性から視界に入れたくないものとして差別され、弱者救済の文脈ではあたかも存在しないかのように透明化される。
女性に金がないことは異性獲得市場でマイナスポイントにならないから。
キモいことも大きな問題ではない。ルッキズムの呪いに囚われているのは女性自身の方で、男性は理想を高く言うことは多いがその実ストライクゾーンはガバガバで大抵の女性ならいける。痴漢被害にあったというのがその証拠だ。
だから、自称キモくて金のないおばさんはそれだけでは男性ほど生きる足かせにはならない。婚活サービスではスペックで見るしかないので不利かもしれないが、職場や趣味で知り合ったのなら全然ある。
女性で生きるのがつらそうなのは、キモくて金のないことではなく、普通に働けないレベルの深刻な病気や障碍を抱えていたり、食うに困るレベルの貧困だったり、毒親や介護などの事情を抱えていたりという人。
ただそれは男性も一緒だし、そのレベルまでいくと改善すべき社会問題として認識されているので、問題が透明化されている弱者男性とは事情が全然異なる。
証明終わり。
※元増田が、自分と属性が異なる他者の苦しみを実感ではなく頭で理解できてそれを言語化できる知性を持っていることは尊敬するし、このような相互理解を一歩進める文章を残してくれたことに男性としてありがたいと思う。その上でさらに一歩進めるために書いたアンサー文章なので、元のエントリーを否定してるわけではないです。
わかる。
日本のジェンダーギャップ指数は女性自身がそれを望んでいるかどうかに関わらず、女性が重責を負っていない事実のみを示している。
教育を受けている男女比や同一職種の賃金は男女同等で、要職に就いている男女比に特にギャップがあるので。
これを是正するには、小学生くらいの女の子が将来の夢としてお花屋さんや保母さんやアイドルをあげたり幸せな結婚を人生の目標にするのを否定して起業家や政治家を目指させる必要がある。
起業家や政治家を目指す人が男女同等になっても、実際になれるのは男性ばかりだったときに初めてそこに差別的な構造があるのではないかと見直す必要が出てくる。ジェンダーギャップ指数の段階で一足飛びに日本が差別社会だと主張するのは論理的な思考ができていない。
1)男女は平等であるべき、性別による能力の決めつけは良くない。
→その通り、よくない。
2)たとえば医学部受験の問題はひどい女性差別であり許されない
→その通り、許されない
→病院は深刻な人手不足で、女性の医師は中途退職が多いという事情がある。なんでも差別の問題にすべきではない。
4)そもそも女性の医師が早期退職するのは育児支援の不足など働く女性への理解不足が原因。
5)さらには長時間労働など仕事の量と質が男性基準のままだから
7)じゃあ女性差別はどうやったらなくなるのか。
→女性自身が軽い仕事の無責任でいられる地位に甘えているなら、差別がなくなるわけがない。いま男性が多く担っている責任や負担を女性も背負うべき。
https://anond.hatelabo.jp/20210318200022
この増田について、ブックマークのコメントで気になったものに返信させていただきます。(長すぎて切れてしまったので増田を分けることにしました)
碧志摩メグの件で不快感を示す海人さん達を叩き、映像研で作者を叩いた人達たくさん居たよね。権利者が言ってるのにそれはないだろうと思う。あと、オタク兼フェミニストも沢山いるので勝手に対立させないでくれ
碧志摩メグさんの件は実はこの件に関して物凄く重要な例だと思っています、ナマモノとそうでないものの境界だからです。後程詳しく説明します。
映像研の作者さんはこの文章を書く上で念頭に置いていました(具体的には(ここにも例外はあり、明確な基準を出すケースもあります)辺りで)、ただ「叩いた人達たくさん居た」と言うのが自分の印象と異なっていて驚きました。恐らく観測範囲の問題だと思うのですが、自分の見える範囲では大部分のオタクに受け入れられていたので自分の中では「一次創作者が基準を出し、受け入れられた例」として記憶していました。
あとオタク兼フェミニストが居るというのは文章中も書いた、と言うより結論部で強調したはずですが・・・・どういう意図のコメントでしょうか・・・・・?
対立しているとも書いていませんし(集団間に信頼関係は無いとは書きましたが・・・・)、互いに信頼関係の無い集団の両方に属する人が居るのは当たり前の事です。
オタク兼フェミニストが存在するという事実は私の論旨にとっても非常に重要な事実です。既に書いた通り、それは二次創作を取り巻く環境の特殊性を知っているフェミニストの方が居るという事ですから。
そもそもウマ娘に関しては騒いでる「フェミニスト」というのは最初から存在せず捏造デマの嘘松エア炎上だったで決着してたはずやがこの増田はいったいどこの「フェミニスト」に向かって言ってんのや?
誤解がある気がするので詳しく説明します。私が念頭に置いているのは以下の増田さんの冒頭で引用されているツイートです。(尚、この増田さんの文章はフェミニストへの敵意が露わになって居る為、閲覧には注意が必要だと思います。内容としては似通ったことを言って居るかも知れませんが、態度に私は同意出来ません)
https://anond.hatelabo.jp/20210317235416
ここで引用されているツイート主の方は別の所で見た事も有り、フェミニストの方だと認識していますが、それ以前にツイート内で「フェミニスト」と「それに「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」と言う人」が登場します。
ここで質問なのですが「ウマ娘に関して騒いでる「フェミニスト」」とはどのような人を想定されているのでしょうか?
さっきのツイート主の方の事でしょうか?であれば存在します。そうではなく例えば「ウマ娘自体を(性的であったり、動物を女性化しているという理由で)批判しているフェミニスト」という意味であれば、私はそのようなフェミニストの方をそもそも想定していませんし、文章内でも触れていないはずです。(もしそうであれば、どこからそういう発想が出て来たのか良く分からないです・・・・)
私が想定し、理解を求めているのは「オタク(二次創作者)は一次創作者とフェミニストで態度を変えているじゃないか」と違和感を持つフェミニストの方です。そうした方の存在は先のツイートで居るのだと認識して書きました。
同様の誤解を与えてしまって居そうな方を挙げます。私の文章が分かり辛く、すみません。
今のところ私は「ウマ娘を叩くフェミニスト」を見たことないんだが…なんか仮想敵作ってシャドーボクシングする案件増えてないかなあ…。
本作品で「エロいから/女性の性的消費だから引っ込めろ」的な「いつものフェミニスト」の過激主張ってそんなに大きかったっけ?エア炎上は有ったがまさかソレが既成事実化しててその前提であちこち話が広がってる?
フェミが焼いたみたいなデマを元にしてる時点で評価できない。そもそも自分たちがやってること、消費してることに対しての危険性を自覚しろ。開き直るな。それこそ同じオタとして迷惑だ。
ウマ娘は「『フェミが炎上させてる』は嘘だった」が知られているし女性にも人気なのでそっとしたいてほしい。オタクは嘘炎上でも構わないから女叩きがしたいんだ、とまとめて敵視されたくもない。テイオーかわいいよ
恐らく同様の誤解を与えてしまって居ますね。申し訳ございません。
恐らく想定されているような「ウマ娘を叩くフェミニスト」はこの文章では元々想定していません。あくまで「オタク(二次創作者)は一次創作者とフェミニストで態度を変えているじゃないか」と違和感を持つフェミニストの方向けの文章です。
「一次創作者と二次創作者の信頼関係」に対して、「フェミニストとオタク」を当てはめてる意味がわからないんだけど。せめて、「フェミニストと表現者」では? 「オタク」というのはどういう存在なの?
これは実は非常に重要な点です。実は先の元になったツイートで私も良く分からないのがこの点なのです。
ウマ娘における曖昧な基準でも受け入れられる暗黙の関係は、ご説明した通り「一次創作者と二次創作者の信頼関係」で成り立つ特殊なものです。
一方でツイート主の方が想定されている「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」とする人の大部分は恐らく一次創作者でも二次創作者でもありません。つまりそこに二次創作の特殊な事情で成り立つ関係が同様に適用出来るという発想が私には不思議なのです。(そのような意味で、「せめて表現者を想定するべきでは?」という疑問は私も共有します)
ただしこうした関係が二次創作の特殊な事情に依るとそもそも知らなければ、おかしな発想ではありません、そこで私はそのような想定でこの文章を書こうと思った次第です。
また、勿論二次創作者とオタクを兼任する人は居ますので、兼任する人だけを想定している、という考えはあり得ると思います。そのような想定も念頭に置いて書いたつもりです。
「オタク」については「「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」とする人」では長過ぎるので、言い換えています。「「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」とする人」かつ「「ウマ娘のエロ絵は禁止」の一声で「何がエロだと受け取られ、馬主を不愉快にするか」をきちんと自分達で考え始めた人」の集合ですね。
増田はあなたがあなた自身で二次創作者に向けて「自分の作品に」配慮して欲しい旨を伝えたことがあるのだろうか。編集部などではなく自分自身で二次創作の過激なエロを止めて欲しいような事を発言したことが?
私自身は自分の作品の二次創作は自由に遣って頂いて構わないので、そういう発言をした事は無いです。
ただ、自分以外の方の例を見て、発言すれば意図を汲んでもらえそうだなと思う事はあります。
あと映像研の作者の方の件は受け入れられた認識だったので(そうではない可能性が出てきましたが・・・)、そこでも一次創作者の意図は組んでもらえそうだと考えていました。
上っ面で敵意がないとか言いながら俺らは昵懇なので口出すなって言ってしまう無能な増田だ。都合よく選んだステークホルダ間に閉じたオレオレ信頼の話じゃなくて社会一般に開いた話をしようね。
対応の差は元々問題と思わないので異論もないが、表現においてOK/NGの基準が暗黙裡に共有されるって相当特殊な状態なわけで、部外者にそれを求めるのは無茶かと。オタク差別的な表現を非難する時に基準などないでしょ
このお二方は私の文章と同じ趣旨の事を、反論という形で書かれています。つまり誤解を与えてしまって居るという事ですね、申し訳ございません。
私の文章はまさに「社会一般に開いた話」に「都合よく選んだステークホルダ間に閉じたオレオレ信頼」と同じ対応を求めるのは無茶である、と言う趣旨です。
また「表現においてOK/NGの基準が暗黙裡に共有されるって相当特殊な状態」を「部外者同士(フェミニストとオタク)の関係間にも求めるのは無茶」という趣旨です。
本当に重要な事なのですが、「二次創作者と一次創作者」の暗黙の関係の方が特殊で異常なのです。だから社会一般の殆どの関係でそれと同様の対応を求めることは出来ないし、「フェミニストとオタク」の間にそれを求めるのも不可能、という事なのです。
うーん・・・・これでも分かりにくいかも知れませんね・・・ただこれ以上どう詳しく説明すれば良いのか、苦慮している状態です。表現者としてなっていませんね・・・・。
あとは最初に言っておいた碧志摩メグさんの件について書きます。
実は碧志摩メグさんの件はこの話で非常に重要な論点です。何故かと言うとウマ娘における馬主や競走馬達と似た(しかし微妙に異なる)立場に海女さんの方々が置かれた例だからです。
まず重要なのは「碧志摩メグさんはナマモノなのか」という事です。ウマ娘の場合、限りなくナマモノに近い、と言うより個人的にはナマモノと言ってしまっていいと思います。実在の馬に対し、個体を識別できるレベルで二次創作を行っています。
対して碧志摩メグさんはと言うと、実在の海女さんという職業を対象にしていますが、個人を識別できるレベルの二次創作ではありません。海女さんという職業を対象にした萌えキャラ化という認識です。
ただし注意しなければならないのは、「職業を対象にした萌えキャラ」を全て同等だと考えるのは危険だという事です。
例えば駅乃みちかさんは恐らく鉄道スタッフを対象にした萌えキャラですが、彼女と碧志摩メグさんを同等に考えるのは危険です。何故なら海女さんという職業に就く人の少なさに加え、「伊勢志摩」という地域の限定もかかっている為、個人を識別出来るレベルでないとしても絞られる人数の規模が異なるからです。
私の書いた文章では、まず第一に法律レベルで尊重されるのは一次創作者の様に作品の権利を持っている場合か、ナマモノの様にその人自身が肖像権等の権利を持っている場合だと考えていました。
通常、職業を対象にした創作について、その職業の方が権利を持つ事はありません(例えば漫画家が「漫画家の萌えキャラを描かないで」と言っても効力は有りません)、しかし単純にそれを碧志摩メグさんに適用するのは危険だと私は考えています。
これは個人的な考えですが、碧志摩メグさんの例は、一次創作者やナマモノの対象者の様な権利者と、職業萌えキャラの間ぐらいに位置すると考えるべきだと思います。
恐らく(素人なので分かりませんが)法律的に海女さん達が碧志摩メグさんに権利を持つ事は無いと思います。しかしだからと言って彼女たちの意志を無視するのは倫理的に問題がある、というのが私の考えです。
そしてウマ娘ではまさにこうした問題に対する対応が行われています。法律的には競走馬の馬主の方々やファンの方々はウマ娘について権利は持っていないそうです、しかし権利を持っているCygamesが馬主やファンの方々の意思を尊重する姿勢を明確にしています。
こうした関係は理想的ですし、碧志摩メグさんについても同様の対応がとられていれば良かったのではないか、と考えています。
すみません、そのような前提では書いていません。
フェミニストの方の中にはオタクも、腐女子も、ウマ娘を愛好する人も、ウマ娘と二次創作者の現在の関係を理解し肯定する人も、二次創作者も、一次創作者も、その他色々な人が居る、という前提の下書いております。
特にフェミニスト兼オタクや腐女子、二次創作者や一次創作者の方は、私が説明するまでも無く二次創作を取り巻く環境の特殊性は理解されている、と言う認識で書いております。
フェミニズムに親和的な人間もそれぞれの趣味に傾倒するし創作もするよ。そのなかで誰かを傷つける可能性に葛藤も悩みもするよ。だからこそ不誠実な「何がエロかわっかりませ~~ん」に怒るんだよ
フェミニズムに親和的な人も創作する事、存じております。と言うよりも(隠していた訳では無いですが)私自身フェミニズムに強く共感している創作者の一人です。
ただ、それ故に「何が不誠実なのか」を論点先取する事には一定の躊躇を覚えます。「エロ」というものの定義困難性や明確化の困難への懸念や警戒を「何がエロかわっかりませ~~ん」へと翻訳することについてもです。
一人の創作者でありかつ創作の受け手でもある人間として、「エロ」というものの難しさに向き合うことにも誠実でありたいのです。
「何がエロなのか決めることが難しい」事が本当に不誠実な態度なのか、まずはそこを決め付けずにもう一度詳しく検討したり、議論したりすることが誠実な態度なのではないでしょうか?
フェミが焼いたみたいなデマを元にしてる時点で評価できない。そもそも自分たちがやってること、消費してることに対しての危険性を自覚しろ。開き直るな。それこそ同じオタとして迷惑だ。
この方の後半についてなのですが、ここは私自身の立場がややこしいというか、難しいのですよね。
私自身勿論オタクでもありますが、同時にその「消費」を提供する作者でもある訳です。
創作者側としては、割と好きに消費して欲しいという思いもあり、この件に対しては複雑な心境です。
また私の描いたキャラクターが特定の属性の消費に繋がるか、という事についても・・・・余り私自身の情報で変な予断を増やしたくないので暈しますが、例えば私が女性で、女性のキャラクターを消費し易い形で出したら、そこにはどのような問題が有るでしょうか?
これは女性が自身を自由に表現してよいか、という女性自身の自由にも関わる話であり、この議論はそうした様々なパターンを想定した上でなければ(つまり男性が女性を消費すると言う様な典型的なケースだけ考えるのでは)意味が無いと思うのです。
前半はこちら↓
https://anond.hatelabo.jp/20210306213555
結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界を世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。
その上で、あくまでもそういうインテリ業界や文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的に同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想や感情を表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラルの原則からしても、非リベラルの人の表現の自由を制限するのは筋が通らない。ただしその表現を批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。
しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界はリベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別と偏見にあふれているものが普通だ。
たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本ではいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業は否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成の視線の方である。現在の目で見て、こういう川端康成の視線が女性蔑視的要素を含まないということは難しい。
また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身の体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニストの批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。
私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家の視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティの視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しかし古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの、話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観を攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのりの作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法で保守派の戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。
イシグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本の書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客の歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。
「小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉が移民であり民族的マイノリティであるイシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会の成熟を示すものでもあるだろう。
しかしあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル的価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラルの発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル的社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である。
ところで、私は川端康成や太宰治の作品に差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版にしろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成の文章の美しさも、太宰治の小説の面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。
「キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品を全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想の公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。
この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術を総体として愛するならば、自分の嫌いな作品、理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在の視点で川端康成や太宰治の表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法は作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。
ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかったかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点からの批判も作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成を教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。
最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実や科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。
しかし人間の感情というものが社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在の世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルにももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。
まず現状認識が違い、芸術の世界がリベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に、文学や芸術の世界でまで政策議論の場合のように感情を排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学がトランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶるものは文学や芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実の生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術に表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情や思想の避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学的エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分の人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。
また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的、民族的、性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情を表現することを私は一律に非難したくない。被差別者の表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識の問題になるが、今の社会でマイノリティがマジョリティを攻撃するような表現を公然と行えば、より危険にさらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数のマイノリティはそんなことをせず、むしろ感情の抑制に非常に長けている。
BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制の怨恨を復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカの白人社会はすでに何度廃墟になっているかわからないということだ。しかし現実はそうなっていない。現実のマイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情を表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代が幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。
ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。