はてなキーワード: 先入観とは
こんなことを改めて説明しなければならないのは、少なくとも俺にとって、ため息をつくしかない事態なのだけど…
本当にごく一部のブックマーカーらを除いて、キモいは無害な感想だから好きに使っていいでしょう、みたいなノリの人たちばかりなので解説します。
死ね と同じようにイジメで多用されるのに、死ね と違って控えられる様子がない。
エロい と同じように、発言者の内の感覚を相手の属性にすり替える言葉であることも問題だ。
客観的評価じゃなくて主観的評価なので、評価者の物差しがわからない限り反論のしようがない。
バカでないことは証明できるが、エロくない/キモくないことは証明できないんだ。
無根拠のままに、エロくない/キモくない、と言い返すのも無理がある。それは相手の感情の否定になってしまうから。
「この部屋暑い? いや暑くないよ」
気軽に人の感情を否定する人はハラスメント気質として忌避される。
だからキモいと言われた側は一切の非がないのに、みずから悪人にならなければ突き返すこともままならない。“そっちこそどうなんだ式”の反撃をするにしても、 「自分はキモい」というネガティブなイメージを一旦は抱えることになる。
感想のテイをとった無敵ワードである「キモい」。あまりに便利なのでリベラルもフェミニストも、正義側を標榜する人々でさえ惜しみなく使う。
しかし、痛みを知る人は決して使わない言葉である。でも、使わない理由が語られることは少ない。
自分がイジメられていたと告白するのは、インターネットで獲物を待ち構える魑魅魍魎の餌になりにいく行為だからだ。
LGBTへの生理的嫌悪、腐女子への生理的嫌悪、オタクへの生理的嫌悪…
無意識のうちに差別をする人たちは、自分の感情を生理的嫌悪と称する。まるで生物の根本から来ているシグナルだから仕方ない、みたいに。
でも「生理的」の根拠なんて本当は何もないんだ。実際は、差別対象の実態を理解してないか、あるいは関心を払う手間さえ惜しんでいるかに過ぎない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1867409
【捏造事件】いつもの方々がタバコポイ捨て告発で大喜び→捏造発覚でアカウント消し逃亡【温泉むすめ】
気に入らない女を追い出すために捏造騒ぎを起こしてたんだよね。
結局バレたけど、何が一番怖いって
まだ首にならずに居座ってるんだよね。
男なら百パーセント首だし、首にならなくても自主退職するだろうけど
マジで身体の周囲から黒いオーラ放ってて近寄りたくないレベルだし
今後それなりの先入観を持って接するだろうな
原文
https://lb.ua/culture/2022/03/18/509953_cancel_russia_yak_instrument.html
ヴォロディミール・シェイコはウクライナ研究所(日本の国際交流基金にあたる)の長で、ウクライナの文化外交の責任者。訳者の感想は最後に。
ロシアの侵略開始からわずか数日後、ウクライナの文化関係者および団体は、国際社会に対してロシアに対する「文化的制裁」を実行し、プーチン政権やロシア資本から直接的・間接的に支援されている人物・団体に対する協力の停止を呼びかけるアピールを出した。
ウクライナ研究所は、国内・海外のパートナー団体や専門家のネットワークの代表500人以上に対してアピールを送って拡散することを依頼し、それとは別に欧米の学術団体や大学に対しても書簡を送ってみた。この「文化的制裁」に対する公開書簡には3800人以上のジャーナリスト・人権活動家・教育関係者・文化人たちが署名していて、在外のウクライナ人たちも同様のアピールを拡散している。
ウクライナの主張に反論することはできないだろう―――ロシアによって仕掛けられた戦争は、明らかに国際法に違反しており、罪のない人々を数千人も理由なく殺害し、歴史的建造物を意図的に破壊しているのだから。この状況で侵略者と文化的に協力することは戦争犯罪を正当化することであり、ロシアによる印象操作のために新たな場所を提供することに他ならない。ウクライナ研究所は声明の中で、ロシアが数十年もの期間にわたって文化を政治的プロパガンダの手段として利用して国際的評価を高めることで、世界の注目を他国への戦争犯罪から逸らしたり、人文学において帝国と植民地のヒエラルキー体制を確立してきたことを指弾した。このロシアの行為に高名な学者、キュレーター、美術史家、財団理事、美術館、フェスティバル、フィルハーモニーたちは加担してきた。彼らは2014年以降もロシアの政府機関に進んで協力してカネの出所を無視して見なかったことにしてきたし、そんなロシアの芸術的プロジェクトを通じて広められた有害で非科学的な主張に対して反論することもなかった。その象徴的な事例が、ニューヨークのMoMA、ロンドンの王立芸術院、パリのグラン・パレで十月革命百周年の2017年に開かれた「ロシア芸術」の豪奢な展覧会だろう。ロシアから「最恵国待遇」を受けてコレクションを借り出したキュレーターたちは、ロシアがウクライナその他の国の芸術を盗み出してきたことを見なかったことにしたし、その全体主義的な芸術を無批判に美化することを止めようとしなかった。
ウクライナに爆弾が落ちた2022年2月24日、「素晴らしいヒューマニズムのロシア芸術」というメタファーはようやく消し飛んだ。それでも、文化をプーチンの政治や戦争責任と切り離して考えることができるという信じている数百万の海外の人々にとって、トルストイ、ドストエフスキー、ショスタコーヴィチあるいは「ロシア・アヴァンギャルド」は心の中で生き続けているようだ。
全世界とウクライナとの連帯は過去に類を見ないほど広がっており、世界の文化界は言葉と行動によってウクライナに大きな支援を送っている。しかし「ロシアに対するキャンセルカルチャー」に対して西側が示した反応は、ウクライナの文化外交に課題を投げかけた。
メトロポリタン歌劇場、カーネギーホール、バイエルン歌劇場などの多くの団体は、指揮者であるゲルギエフや歌手のネトレプコとの契約を打ち切って、ロシアのアーティストと協力しないことを公表した。カンヌ映画祭はロシアの代表団と政府関係者の参加を拒否した。それとは裏腹に、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスはウクライナの戦争を「人道危機」とした上、ロシアについては何も言及しないという恥さらしの声明を発表した。私たちがコンタクトを取った人々の多くは、ウクライナの難民を支援することを口約束する程度で、ロシアとの協力を停止する呼びかけには大した反応を見せなかった。思っていた通り、ポーランドとリトアニアの団体が最も毅然とした態度をとって、ドイツペンクラブは「真の敵はプーシキンではなくプーチンだ」という声明を出し、フランス人たちは沈黙した。
そして、西側の文化学術団体はウクライナとロシアの「和解」や「異文化交流」を推進する事業を始めたようだ。注目すべきは、彼らがどうやら戦争が始まって4週間でのウクライナにとっての「和解」の必要性への無関心だろう。ロシア人を「プーチン政権の犠牲者」と位置付けることで、戦争の犠牲者となっているウクライナ人と同じ「犠牲者」として等しくとして扱うような形で、ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人を一緒くたにした沢山の事業が始まった。
こうして、23年もの長期にわたってプーチン政権が継続してきたことや、ウクライナでの起きている戦争や、ロシア社会の政治的受動性、あるいは市民の抵抗が失敗し敗北してきたことにに対して全てのロシア人の責任をなかったことにしたいのだろう。他にも図々しい連中はいる。フリードマンとカーンというロシアのオリガルヒによって資金提供を受けたことにより度し難い妥協的施設となったバビ・ヤールのホロコースト・メモリアル・センターの芸術監督イリヤ・フルジャノフスキーはプーチンの犯罪と戦うことを要求する書簡に署名した。これがウクライナ世論の怒りに火をつけたことは言うまでもないが、逆にブリュッセル、ワシントン、ベルリンでは歓迎されたようだ。
これは偶然そうなったわけではない。西側はウクライナとロシアの関係を完全に誤解してるし、ウクライナには独自の文化もアイデンティティもない軽視すべき存在だという考え方を持っているのだから。よって、国際社会にはロシアによる戦争が新たな植民地主義であることや、ウクライナが脱植民地を目指して何世紀にもわたって独立運動を繰り広げてきたということを理解してもらう必要がある。ロシアの帝国主義とウクライナの独立は絶対に両立しない。ウクライナは武器で遊んでいるのではなく自らの独立をかけて戦っているのである。だからこそ、軍事だけではなく文化も同様に重要な最前線なのだ。
ウクライナがロシアへのボイコットを呼びかけていることへの見下した反応や、侵略者とその犠牲者を「和解」させようとする一際魅力的な欲望は、西側が持つ植民地主義的な考え方を強く反映している。この考え方の根底にあるのはロシアが中心でウクライナが辺境であるという先入観で作られた世界観だ。これは権威あるロシアの文化は周辺の人々の生死よりも重要なことで、ロシアの言うことは聞くべきだが、周辺の人々の言うことに価値はないという考え方だろう。そのようなパラダイムの解体なくして「和解」や「対話」もあるべきではない。
ロシアとの和解は遠い遠い未来に始まる―――まずはロシアがドンバスとクリミアを含むウクライナの領土から完全に撤退し、国際法廷で戦争犯罪が裁かれ、ウクライナに賠償金を支払わなければならない。プーチン政権は打倒しなければならないし、その後に生まれる民主的な政府、市民社会、メディアはウクライナへの犯罪を認めて謝罪しなければならない。そのようなロシア社会の自己批判と深い反省があって、ようやくその時になって始まるのである。
もちろん、こんなバラ色のシナリオが待ち受けていることは分かっているが、だからといってウクライナが今日にでも妥協しなければならないということでもない。ロシアとの「和解」を急ぐことは危険なことだ。それは旧来の考え方に基づいたロシアによるウクライナの再植民地化が開始されることを意味している。要するに、ウクライナを再び文化的辺境へと押し戻し、ロシアが「スラブ」「ポスト・ソビエト」「ユーラシア」の中心であり続けるということだ。世界はロシアの帝国主義や植民地主義の知識人とさらに深く和解することを望むだろう。そうすれば、ウクライナは自分たちの意見を反映した和解のあり方を作るチャンスを失ってしまう。
「戦後のロシアをどうするか」は、ポストコロニアル研究には重い宿題となる。ロシアは脱植民地化の苦痛という歴史を経験しなかった不幸なほど時代遅れの国だが、なぜかは分からないが西側はそのことをよく理解していないらしい。この戦争はそんな西側の目を覚ます機会となるだろう。新しい視点、コミュニケーションや共存の新しい在り方を作っていく機会なのだ。それは理論だけではなく、より重要なのは法的、経済的、人道的な政策として具体化されるべきで、ウクライナはその創造者の一人とならなければいけない。
これが現在のウクライナの文化外交が目指すべき到達点だ。これは長期的な目標になるだろう。ロシアとの戦争という状況下においての文化外交は、対話や和解を促進するべきではなく、ロシアの文化的・言語的な支配という脅威に対して抑止力として機能することで、私たちのアイデンティティを守らなければならない。
訳は下訳を作って機械翻訳とも照らし合わせて作りましたが、あいにく初学者なので文責は持ちません。
ウクライナ研究所はそのブリティッシュ・カウンシルに範をとった機関として2017年に設立されました。ヴォロディミール・シェイコはブリティッシュ・カウンシルで働いた経歴のある人物ですが、日本語wikipediaで所長として示されている指揮者の人とは同姓同名の別人です。
lb.uaはそこそこウクライナでは有名なニュースサイトで、元々は週刊誌のweb版です。
で、このコラムは前半はアリキタリで面白くないんですが、後半からの西側批判は面白い部分かなと思います。特に文化界にありがちな既存のヒエラルキーを温存した形の「和解」を強要しようという流れを戒めているわけですな。
最近流行りのネオナチ問題に絡んでウクライナの右翼問題に言及しておきますと。
途中のバビ・ヤールについてですが、このメモリアルセンターは地元ウクライナのユダヤ人たちによって反対運動が起きたほど国内では評判の悪い施設です。要するにロシアによる情報操作の一環として「ウクライナが反ユダヤ主義的な国であるかのような展示」をするのではないかと考えられていたようで、ウクライナの情報機関SBUが「その証拠は今のところ存在しない」という文書を出すに至り、センターがその御墨付をWebページに掲載しているほどです。フルジャノフスキーもセルフプロモーション目的のクズ扱いされてました。まあドンバスで内戦やらせてる奴の身内連中が集まってきて虐殺を記念するセンターを作ろうなんてグロテスクな話ですわな。
それと、元からウクライナのユダヤ人というのはロシアはもちろんのことイスラエルを中心とした西側のユダヤ人社会とも折り合いが悪く、この反対運動の先頭に立っていたYosyf Ziselsなんかは西側でネオナチ扱いされているほど評判が悪いようです。なぜかといえば、このYosyf Ziselsを始めとしたウクライナのユダヤ人というのはソ連時代に反体制派の経歴を持つことも多く、独立以降はウクライナ人意識が強烈だったりするんで、平気でWW2時代の「ナチス協力者」を擁護しちゃったりするんですな。まあ自分たちユダヤ人が建国した国という意味ではイスラエルに負けてへんぞ!みたいな意識があるんでしょうな。
なのでウクライナ右翼の金主の一人であるコロモイスキーがユダヤ系だったりするのは、それほどおかしなことではありません。
よってウクライナの極右というのは、西側のネオナチよりも、日本の「任侠右翼」と類似しています。靖国神社とか橿原神宮に集まってる右翼のお兄ちゃんが数年後に民団の役員やってるのとかと同じで、思想的背景にはほとんど意味ありません。欧米の学者やジャーナリストは「犯罪的組織の公然部門としての右翼団体」みたいなものが理解できないので頓珍漢な「サッカーフーリガン起源説」を唱えるのですが、そんなものにコロモイスキーが金主になるわけもないし、戦闘力が高い説明がつかないでしょう。要するに軍事的経験のある右翼のアニキが愚連隊を抱えて作ったお国のための組織という説明で日本人ならすぐ分かると思うのですが、これが西側の人には理解できないようです。
鈴木智彦さんがちょっと笑い話みたいな形で織田絆誠のPMC構想をウクライナと絡めて話していましたが、ウクライナの極右グループは実際にチェチェンやグルジアで得た戦闘経験を元に国家機関までのし上がったわけで、割と笑い話にもできません。まあ日本の暴力団と同じで、なんだかんだお上には絶対に逆らえない性質があるので、ナチスの紋章がどうだとかは暴走族が旭日旗振り回してるのと同じだし、奇妙な儀式とかやってるのはヤクザの盃事みたいなものだと思って受け流せばよいと思います。
というわけで反乱の懸念もないどころか、国家親衛隊は普通の大隊の方がヤバい奴多いと思ってるんですよ。なんせ2014年には自腹でも戦争したいって連中が集まってたわけで、金目当てだの兄貴分に言われて参加しただのの方が理由としてはいくらかマシでしょう。ただまあ、いつか武装解除した時には犯罪者を野に放つようなものなので、単純に治安が悪化することを懸念してなくもないです。
多分男性専用車両(もっと進んで男性用女性用が分かれる)は導入されるし、満員電車は避けられる傾向になる。
ただ、逆に痴漢の当たりや的なのが頻発するから、監視カメラは必須で、警察はアタリヤか否かの検証に追われることになるだろう。
そうすると、「思考実験として、痴漢は即罪に有罪という概念を無くす」ことを思いつく増田が誕生してくる。
「痴漢冤罪という概念」を無くすのとは少し毛色は異なるが、「男性側からの女性の体を触りたい欲求」や「女性が男性に触られる嫌悪感」を無くす等の方向にシフトしていくことも考えられる。
ただその頃にはもはや満員電車みたいな時代遅れの状況は残ってないだろう。
仮想空間で、自分の性別がどちらでも、男性、女性、あるいはそれ以外のアバターで、パラメータ変更で相手との距離感を設定でき、
もっと言えば、各自が自分の望むNPCに囲まれて生活できるような。
これは男にだけ責任があるわけじゃなく、頻繁に電車を利用しない女性が団結してないところも問題。
半数は居るのだから、そのうちの半分でも全鉄道会社に要望すれば、(電車内での)痴漢は無くなるだろう。
複数車両ある路線は、毎年(か四半期毎に)男女比率で車両を割り振る。
田舎とかで一両で走ってるやつとかは、ダイヤ毎に男性用、女性用が分かれる。本数が少ないと凄く不便だ。
結局、男性からも、痴漢とは無縁の女性からも、痴漢を自衛出来ている女性からも、支持は得られれない。
今は自分が地頭が決して良くはないことは自覚して生きてるんだけど
大学生~社会人の始めくらいまでは、東大の自分は自分が地頭がいいと勘違いしていた。
念の為誤解のないように言うと、「東大生は頭が悪い」と言ってるわけではなくて
「東大生であるからと言って地頭がいいわけではない」ということを言いたい。そして自分は地頭がよくない。
思い返してみると受験のとき本当に信じられないくらい勉強をして超絶がり勉の末に
たまたま受験に成功して東大にはいった。とにかく時間と労力をかけて合格することができた。
であったにも関わらず、東大に入ると周りから「頭いいんだね」とか「すごいんだね」という
扱いを日常的に受けることになる。そんな環境にいると自分が本当に頭がいいんだといつしか
錯覚してしまう。その上で、「頭がいい=なんでも直ぐにわかる」みたいな先入観に支配されるのか
自分はそういう人間なんだと思い込んでしまっていた。思い返してみると大分痛い。
この錯覚がなにを生むかというと、自分の力を過信することになる。
資格試験とかにあんまり対策をせずに望んで撃沈する、ということが起きる。
労力と時間をかけて試験を突破してきたタイプなのに、そのプロセスを踏まないで
ある日ふと「そういえば自分はがり勉タイプだった」と思い出し、そこからなんとか軌道修正することができたが
気づかずそのまま勘違いしていたらと思うとぞっとする。
日本の大学受験は物量と対策で突破できる類のものである為、地頭の良さの証左にはならないということを言いたかった。
尚、体感的にはいわゆる超エリート中学校みたいなところ出身のひとは大学の学歴に関係なく本当に頭がいい率がかなり高い気がする。
幼少期に超頭を使うことで知能がグンと発達するのかもしれないし、エリート中学の受験ていうのは頭がいい人間を選抜できる仕組みが整ってるのかもしれない。
出張中、ちょっと文具関連の用事があって、次の予定まで時間があったので、東急ハンズは行ったことがあるのだが、行ったことのなかった世界堂に行ってみた。知ってる人はよく知っているだろうが、私はネットのニュースでどこかの支店が閉店したというニュースをうっすら覚えている程度だ。今調べたが「額縁や絵画はもちろん、画材・デザイン用品・文具などを豊富に取り揃えています。」というチェーン店。(確かに額縁は他の文具店と違って力が入っていた。)
ぶらぶらと店内を歩く。油絵具やアクリル絵具、パレット、パステル、水彩色鉛筆、ガラスペン、羽ペン、色とりどりの筆ペン、マーカー、サインペン、キャンバス、スケッチブック、模造紙、…
ペインティングナイフ(パレットナイフ)プラスチック製もあるのか! 使い捨てというのも合理的だ。
ふと目についたのが「スクリーントーン」。令和の時代にもまだ売っているとは。原稿用紙にしっかり転写するためのヘラのようなものも何種類も打っている。近くにはペンとペン軸がある。「Gペン」「丸ペン」「スクールペン」 タチカワ、ニッコー、ゼブラ
「スクールペン」。知識として触れたことはあったが単語として目にしたのは何年ぶりだろうか。
さまざまなパッケージでペン先が売っている。丸ペン3本セット、Gペン10本セット、100本セット、3種類のペン先セット、ペン軸とセット…
つけペンがあれば当然インクもある。「まんが用墨汁」という商品名をみて思わずにっこりしてしまう。ラベル付け替えただけでしょうね。
まんが用原稿用紙なんてものもあった。雲形定規、吹き出し用定規(?)
まんが用のセットボックスもある。小学生向けかな。無印(スタンダード)にデラックス。タイプ2。何が入ってるんだろ。
自分でもまんがを描こうと思った少年少女は多かったのではないか。わたしがこどもだった当時は(今は知らない)毎号投稿作募集と紹介のページがあって、デビュー、金賞・佳作などのランキングと講評、それにまんがの描き方が数ページ載っていた、ような気がする。〇〇先生は墨汁を使っています。◎◎先生は丸ペンで描いています。ケント紙を使うのが一般的ですが、△△先生は画用紙を使っています。のような情報も載っていた。もちろんまんがの描き方だけの単行書もあった。
そんな頃のことを懐かしく思い出した。しかし、全体的に何とも言えない黄昏感が漂っていた。ほぼ無客だったし。
欠品があったのは売れて売れてしかたがないというよりは、補充がないという感じで(先入観か)、充実した品ぞろえは売れ残りという表現が近いのかもしれなかった。現実に、書籍のコーナーには色あせた1990年代の参考書も並んでいた。
私の祖母は趣味で日本画をやっていた。増田の多くが知らないであろう、ほとんどが見たことがないであろう岩絵の具が何種類も彼女の家にはあった。ガラス瓶に入ったそれはとてもきれいだったのを覚えている。少女のころに日本画で身を立てたいと思ったことも少しはあったのかもしれないが、そこまでの才能か、熱意かがなかったのか、時代が悪かったのか、もちろんプロではなかった。
世界堂で見た、さまざまなアナログまんがの道具・材料。生き残りをかけて手を広げたであろう商品につく〇割引セールの文字。
おそらく、回転のいい商品はごく一部なんだろう。多色ボールペンを並べても、大型文房具店で買う人の方が多そうだし、最近はカラーのマーカーも100円ショップで多色展開しているという(必ず全色そろっているというアドバンテージは専門店にはあるだろうが)。毎年電動消しゴムを買う人がそうそういるとも思えない。
完全に滅亡することはないかもしれない。だがコンピュータでなく、世界堂でなければ手に入らない道具や材料を使う行為は、美大生を除けば、日本画のようにごく少数の人が続ける稀な趣味になっていき、世界堂の支店はだんだんと減っていく。
そんな未来。
チャンポンチャーンス!
今日の日替わりランチチャンポンランチだと思って張り切って飛び込み前転して入店して頼んでやって来たそのランチは普通の豚骨醤油ラーメンでした!
私の勘違い!
てっきり私「麺」ってイメージだけが勝手にチャポンって言う先入観ですり込まれていたわ。
チャポンとは一言もいってない感じの、
倍増だと逝ったけど2倍とは言ってないを喰らったかの如くよ。
まあそれはいいとして、
今はさー
幸せなイクラ丼を食べるぐらいの幸せなイクラを味わうぐらいの余裕が欲しいところだけど
そんな待ちぼうけを喰らっても
暇なんて潰せるのよいくらでも。
そんでさー
これマジで私どれだけ待たされても待つわアミン攻撃を逆に仕掛けることが出来るのよ。
ふふふ。
色々一回り一周して飽きたら動画も観られるんじゃない。
すごい暇つぶしのために暇が欲しい世の中の人が多いのかしら?って反面
聞き逃しサービス月額は少額だけど払っていると言えども、
やっぱりちゃんとしたエンターテインメントにはタイ米を払うべきなのよ。
こないだのいつか忘れちゃったけど、
米津玄師さんが出てたフォートナイトってあれって米津玄師さん倒せるの?
米津玄師さん倒せるんだったら、
参加したかったなぁ~って。
てーかそもそもライブ会場で火器をぶっ放すってメタバースと言えども危ないわよ。
物騒な世の中ね!
そのぐらいいくら時間があっても事欠かないってことを言いたいわ。
でもふと急に思うのよ。
人生に疲れたら土いじりとシャンソンが癒やしてくれるって言うけど、
実際にそうなのかも知れないわね。
消費に疲れたら土いじりって。
結局1時間ちょい待たされたけど、
大抵のラッパーがだいたい感謝している両親と同じぐらいに感謝だわ。
うふふ。
焼きたてのまだ脂が跳ねている感じの焼きたての鯖ちゃんは
脂がのっていて美味しかったわ。
そんでノリにのってる鯖を横目に
御飯杯分を間違えておかずと一緒に消えて無くなってしまうはずだった麦飯を最後海苔で巻いてしまいにするって
そうはいかなかったわね。
喉が潤うわ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
初投稿にあたり、その動機と共に、名前と属人性の関係について認識を書き連ねる。
自分語りが大半を占めることをご了承のうえで読み進めてもらいたい。
記憶は定かでないが、自分がハンドルネーム・ペンネームすらなく(少なくとも意図的に)匿名で文章を書くのはこれが初めてだと思う。
読む人に自分の存在を認識されたい、あわよくば好意的に思われたい承認欲求の権化だからだ。
だが一方で、実名を怖いとは思う。
鍵付きのTwitterのリア垢でのツイートさえ本名は隠すし、友人ともそういう文化を共有している。
できた人間でないことは自覚しているので、いつか何かやらかした時に悪評が名前と結びついて実生活に響くようなことがあったらと思うと怖くて夜も眠れないし、本名はじめ個人情報を求めながら管理が杜撰なFacebookとそれへの登録を強要してきた人物を恨んでいる。
仕事上しかたなく実名で書いた文章が、見る人は多くないがネットの海に放流されており何なら面も割れてるので、FGOの不夜キャスのごとく日々(社会的)死に怯えている。
しかし、リアルの肉体から切り離したオンライン上で、リアルと関係ないハンドルネーム・ペンネームを使うなら別だ。
別名さえあれば、アバターをまとうまでもなく違う自分になれる。
捨てる必要がどこにあるのだろう。
ぶっちゃけマシュマロとか悪口でもない限り送る側のメリットが思いつかない。
せっかく感想を伝えるなら「この人はいいファンだな」と思ってもらいたい。
それならなぜ、わざわざはてなアカウントを取得してまで書いたかというと、名前に囚われず、目的もなく文章を書き散らす経験をしたくなった。
全くの一般人だが、周囲への配慮を抜きにしても、自分がどう見られるかを気にせず発言したくなったのだ。
散々自分語りしておいて何を言うかと思われるかもしれないが、それが本心だ。
想定される意見としてハンドルネーム・ペンネームを増やせばいいという案はもっともだが、あいにく検証済みである。
古い感覚の持ち主ながら浮気性の超雑食なので、Twitterを中心に住み分けのために複数名義を持っている。
住み分けの必要ないと思っていたpixivで長らくのメインジャンルと違う属性にシフトしたらフォロワーがみるみる減るという痛い目を見たし、活動内容の違う複数名義をTwitterの1アカウントで運用したが周りからの印象が気になって結局アカウントを分けた。
「人に忠実で毛を持ち四つ足の哺乳類の動物」を「イヌ」と呼ぶと、誰かが発想し決めただけだ。
しかし、使われるごとに人々の脳内でその関係は強固になり、やがて不可分と認識されるようになる。
(シニフィアンとシニフィエの理解は大昔にかじった程度なので間違っているかもしれない。ご指摘は甘んじて受ける。)
(ところで、ひょんなことから出会った二人が運命共同体になるのエモい。言語学擬人化誰か作ってほしいし存在するなら教えてほしい。)
抽象的な話抜きにしても、開示する名前を得る(IDなどアカウント≒個人に固有の記号すらも)と、他者あるいは事象と継続的・複合的に紐づく。
履歴を追うことが可能になり、名前によって繋がりを得る(繋がりが明らかになる)のだ。
後は、個人情報なしでターゲティング広告が可能になるように、履歴によって複数の言動を重ね合わせることでハンドルネーム・ペンネームに人物像を見いだせてしまう。
(追記:はてなのサービスを使い慣れていないのでわからないが、IDなど投稿履歴をたどれる機能があるのだろうか……)
(追記の追記:ヘルプによれば「書き込みした人のIDは表示されません」とのことなのではてな匿名ダイアリーでは履歴は他者からたどれない模様。安心した。)
自分でも当たり前のことを偉そうに書いているだけなのではとそろそろ不安になってきたので、今回はここまで。
オチまで考えずぶん投げるなんて普段なら無責任さに苛まれるが、気にならないのも匿名ならではかもしれない。
匿名で書いてみた感想としては、読む人を想定する必要なく思うままにアウトプットできるので、思考の整理に役立ちそうだ。
表に出す必要性はないのにせっかくだから誰かに見てもらいあわよくばコメントをもらいたいと思うのは、クソデカ承認欲求のなせる業だとしたら、匿名でも満足できると言えるだろう。
なんとかタイトル回収したところで、筆を置く。
人生で初めて推した俳優の「ご報告」というツイートには「結婚」の2文字と直筆の名前が綴られた画像が添付されていた。初めて、推しが結婚した。
彼のことを知ったのは当時まだ18歳の頃で、ろくに遠征もしたことないし現場すら行ったことない地方学生のときだった。正直それまではアニメばかり見ていて、舞台もミュージカルも低予算実写化と一緒にしていた何も知らないオタクだった。
好きなアニメが舞台化、しかもその中で1番好きなキャラクターを彼が演じると知ったとき、単純に私は嫌だな、と彼のことを何も知らないのに実写は嫌だ、の気持ちだけで遠ざけていた。今の私からしたら考えられない(俳優目当てで観劇に行くオタク)
そこから1年半ほど経って、何故か私は1枚のチケットを握りしめて彼の出演する舞台を観に行っていた。紆余曲折あるけど、たまたま身近にミュージカルが好きな友達がいて、たまたま私の意識の変わる出来事があって、たまたまミュージカルの円盤を借りて、やっと舞台やミュージカルが実写化映画とは異なることを知ることができた。
「舞台っていいものだね」そう円盤を貸してくれた友達に伝えると、そのまま3月に地方に来てくれる舞台のチケットを申し込みをするはめになっていた。その舞台は当時チケットが全然取れないことで有名で、大楽はライビュが開催されるくらいだった。それなのに、人生初めてのチケット申し込み、ビギナーズラックなのかなんなのか分からないが2枚取れてしまったのだ。取れたのだから行くしかないし過去作も見るしかない。友達に(また)円盤を借りて見て、そこではた、と気づく。チケットが取れた舞台で私の好きなキャラクターを演じているのは彼だ。1年半前、嫌だとなにも情報を入れずに先入観だけで拒否をしてしまったあの俳優さん。
気づけば画面に食い入るように見ていた。私の好きなキャラクターがそこで実際に動いて生きていた。再現度も然ることながら、本当に違和感なくストンと受け入れられたことにも驚いたし、ああ私は3月に彼の演じるキャラクターを生で観れるのか、と思うとじわじわと実感が湧くと共に嬉しさでいっぱいになった。この人のお芝居を観ることができるのは嬉しいな、なんてしっかり目に焼き付けようと思ったことも覚えている。
親に猛烈に反対されながらもチケットあるから!の一言で人生で初めての遠征をした。新幹線で1時間かかるかかかないかのところだが、今まで一度も遠征も外泊もしたことがなかった私からしたらなにもかも新鮮だった。
一緒に行く友達はいろんなジャンルを観劇するタイプで、なにからなにまで教えてもらって劇場に着いた。
幕が上がって、しばらく泣き続けていたと思う。原作の重要なシーンだったし、なにより強烈に記憶に残っているのは彼の見せ場だった。7年経った今でも鮮明に思い出せるくらい。ボロボロに泣きながら双眼鏡覗いていた記憶。
カテコ後にはもう彼のことしか考えられなかった。本当にあの舞台上には私の好きなキャラクターが生きていたし、そうしてくれたのは彼だった。これが初めて俳優を推す、ということなんだろう。そんなことを思いながら物販で買い足すために列に並んでいたことも覚えている。
地方学生の身だったけど、いくつかは彼の出演作を観劇することが叶って本当によかった。今でもチケットがとれて予定が合えば行くか〜、くらいの気持ちで過ごしていたが、ここにきて「結婚」のお知らせだった。
不思議と気分が落ちたり死にたくなったりすることはなかった。素直に心からおめでとう!と言葉がすんなりでてきたことには驚いた。今の本命の推しが結婚したら私は死にたくなるし、同じ事務所の人が結婚しただけでも血の気が引いて明日は我が身、と怯える日々だったのに。
別に俳優と結婚したいとかそんな大層なことは考えていないし無理なのも分かっているけど、そういう事じゃないのだ。いや、それでも彼の結婚に関しては心からお祝いできたことが嬉しい。
私がこうして今の推しの追っかけをしているのも、あのとき彼のお芝居を観ることがなければなかった時間だ。人生で初めての推し、遠征も外泊も飛行機も全部初めては彼の現場だった。たくさんの幸せと思い出をもらった。未だに最前線に立ってくれていることも嬉しいし、こうして家庭をもって幸せになってくれるのも本当に嬉しい。
長々と書いてしまったけど、今まで推しが結婚する、ということが絶望以外の何者でもないと思っていたのに、彼の結婚は心から喜べた。私も俳優の結婚をお祝いできるんだと思ったし、なにより初めて推しが結婚するのが彼でよかった。本当におめでとうございます。これからもご活躍応援しています、またいつか観劇に行けることを楽しみにしています。