はてなキーワード: バーチャロンとは
むしろ「「フレームグライドが合わなかったけどソウルシリーズ合うと思う?」とかフロム信者でも判定できないでしょ。」という言葉が聞きたかったので、助かりました
フロム信者でも判定できないくらい違うならば、試してみる価値があるかも。ありがとう
バーチャロンや初期のガンダムvsは面白いと思ったので、なぜフレームグライドが合わなかったのか、自分でもよくわからないんですよ
ちょっと違うかもしれないけど、どんなに面白いハクスラゲーであっても、ハクスラ自体を面白いと感じなかったら、そのゲームはその人に対して面白く感じないですよね?
このゲームのどこを面白がればいいのかが、しばらくやったけどよくわからなかった。昔、グランツーリスモにも似たものを感じたので、
あれは平成になったばかりのことである。私の実家は町の台地の下側にあった。町は単に「上」「下」と呼ばれている。「上」のやや裏側、養老乃瀧の横、パチンコ屋の地下にそのゲーセンはあった。無論、「下」にもゲーセンはあったし、こっちは1P50円だったのだが、些か小汚い(後に人生で唯一回のカツアゲに遭うこととなる)。その点、上のゲーセンは新タイトルの開拓に割に熱心で、発売後にG-LOCの可動筐体なんぞも入った。1P100円で天井は低かったが、店内は場所の割には明るかった。
家庭方針でファミコンが与えられなかった私は、中学に入ると間もなく小遣いはもちろんの事、色々な"錬金術"(図書券の釣りを現金でくれる本屋で買うとか、親支給のオレンジカードで切符を間違って買うとかだ)で小銭を作っては、一人でせっせと通ったものである。当時から些か反射神経に難のあった私の目当てはもっぱらバブルボブルだ。2でもシンフォニーでも、メモリーズでもない、素のバブルボブルである。御存じない方にお教えすると、「1986年にタイトーから発売された固定画面アクションゲーム。『泡』を題材にした独特のアクションを用いる」(ウィキペディア)だそうだ。ステージは100まである。
で、ウィキペディアの続きを見ていただければわかるが、このゲーム裏ワザがあり、コイン投入前にコマンドを入力することで自機がパワーアップ出来たり、ノーミス報償をミスしていても取れるように出来たりする。これは公式がシールを筐体に貼って告知していた。貼っていない店もあり、上のゲーセンはそれだった。私はたまたまE電(当時)で別駅までゲーセン遠征をしてそれを知ったのである。
そして、40面までたどり着き、裏ワザで出現するはずのノーミスアイテムをとって裏ボーナスステージに潜入し、ここでゲームオーバーを迎えると、ハイスコア表示に102面到達のありえない表示が出るようになる。これに厨房だった私はハマった。
無論、ゲーム自体は下手なので(どのくらいかというと、ミスしやすくなるのでスピードアップアイテムを取らないほどである)40面にたどり着けるかはわりに運である。しかしたどりつけば、栄光の102面表記ができるのだ。もっとも、ハイスコアは次の奴のために「I.F」にしておくのだが(こう入力しておくと次のプレーヤーは序盤にいいアイテムが取れるのだ)。
そんなある日のことである。いつも通りちまちまと面を進めていると、テーブル筐体(まだアップライトは最新型であった時代だ)の向こうからリーマンと思しき兄ちゃんがしげしげと私のプレーを見ている。しかしこちらの腕前は先述の通り、この日は運もなかった。40面の前で私のバブルンはコマが尽きた。今日はついてねぇな、と思って席を立とうとすると、リーマンが黙って隣に座り、百円玉を筐体に投入するではないか。
バブルボブルは古いタイトルである、コンテニュー機能はない。が、1P側がきちんと死に切ってゲームオーバーになる刹那の前に2P側が参戦すれば、疑似的なコンテニューが出来るのだ。何するんだこいつ、と思ったら、リーマンはもう一枚コインを突っ込んで1P側のスタートボタンをも押すではないか。
何をしゃべったかも覚えていない。とにかくいきなり現れたリーマンは私にコンテニューと共闘をおごってくれたのである。しかもたしか1000円ぐらい。何故そんなことを彼がしたのか、同じ裏ワザ使いとしてのよしみを感じたのか、こいつならエンディング-協力プレーでないとみられないのである-に行けると値踏みを誤ったか。理由は聞かなかった。とにかく彼が夏目を崩した百円玉で行けるところまで行こうぜ-そんな闘いである。
何面で死んだかはもうとっくに覚えていない。大分足も引っ張ったはずである、ボスの待つ100面まで行かなかったのは確かだ。
「いやぁ残念だったねぇ」とにこやかに笑う彼に何度も礼を言って、その場でわかれて以来そのままである。上でも下でも、いやさ遠征先でも当然このリーマンと邂逅することはなかった。正に一期一会。
私の人生で、極々たまにこんなことが起きる。だから私は、少々楽天家に育ったのかもしれない。バーチャロンが終わり、戦場の絆に乗り遅れて-あれは私の感覚では高すぎた-私はゲーセンを卒業した。
追記:
id:kisiritooru 遺憾ながら違う。後学の為その判定の根拠をお伺いしたい
id:htnmiki い、インポちゃうし!!
再追記:
id:kisiritooru こちらこそ即レスでないので申し訳ない。私の感覚だと、平成一桁前半ぐらいは「平成になったばかり」だと思った
https://www.twitch.tv/videos/239642229
任天堂が好きなら何も聞かずに上記のURLを開いて5時間ほどお付き合いいただきたい。
上記のURLは昨日(2018年3月17日)開催された「春拳 Spring Fist」というゲーム大会だ。
種目は
・ARMS
日本中から、俺こそが最強だという猛者が集まって午前中の予選を抜けて
最強のプレイヤー達がふるい落とされていった。
予選の動画もあるけど各自探してほしい。どの試合もハイレベルで観る人の心を揺さぶるものだった。
だけど、この決勝トーナメントを観た時、確かにeスポーツなんていう新しい言葉を使ってでも普及させたいと思う人の気持ちもわかってしまった。
オリンピックの種目にしたいと思ってしまうのもムリが無いかもしれない。
ただ、しかし、気になる事が1つ。
なんでホットエントリに上がってくるのが大会のレポートだったり大会の動画じゃなくて
ゲームが好きなら、揉め事じゃなくて観るべきは選手と試合だろ?
ゲームが好きなら新作を買おう。
昔ゲームが好きだった、今は下世話なゴシップが好きな老害になりたいと思う人がいるだろうか?
ゲームは最高に面白いし、それは「ゲーム」をありとあらゆる種類の趣味に変えても同じだ
人生は最高に面白い事で溢れているから、もっと面白いものや素晴らしいものを観て生きよう。
ここまで読んでくれたなら
https://www.twitch.tv/videos/239642229
さぁ、5時間付き合ってもらおう
”大会の動画じゃなくて” ?? 見てるゲームも大会もバラバラだろうになぜホットエントリに入ってくると思うんだ? どういう行動を想定してるんだ、この増田は
ゲームの競技大会には興味無いのに、プロゲーマーだのJeSUには興味津々ってのがくだらないってだけで、もっとみんな今日のバーチャロン大会予選とか観てほしいわけよ。
ぜこのブコメ(の一部)
はてなブックマーク - 「バーチャロン」の新作が15年ぶりに出たのにあんまり盛り上がっていないのでいいところをひたすら挙げる記事を書きました (1/3) - ねとらぼ
http://b.hatena.ne.jp/entry/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1803/09/news145.html
記事の批判したくなる所も無い訳じゃないがあえて振り切っている爽やかさに比べて、駄目だしすりゃいいと思っている批評家気取りのブクマカたちの醜さ。売れ行きが良くないってのがわかっているのを確認して叩いているのも醜さが増す。本当にこういう人間にはなりたくない。
やれ文書力がどうとか、熱膨張がどうとか言われてたけど、俺は面白いと思ってずっと読んでる
アニメも円盤買ったし映画は都合が付かなくて劇場で見れなかったけど、円盤は買った
はじめて画集にも手を出した
前に出たノベライズの方は買ってたしね
ハード持ってないから、そっちも買わなきゃなぁとか思ってたんよ
でも、ネットではバーチャロンファンと見られる人達の「禁書要素いらねー」とか「落ち目のラノベとコラボすんな」とか、そういうのばっか目に入ってくる訳よ
そういうの見ちゃったせいか、なんか買う気失せちゃってなぁ
という状況だ。
だと言える。
私のジャンルはゲームオタクだ。古今東西の様々なジャンルの中から琴線に触れたゲームで遊んできた。
そして、SNSや匿名掲示板でゲームの話題で盛り上がるのが好きだし、新作にワクワクするのも好きだ。
事前情報だとすごい盛り上がるのに発売したらプレイ報告が少ない。という事が増えてきた。
多分、通信対戦等が当たり前になった事で実際に買っていない事が可視化されてしまったのだろう。
もちろん、発売日当日に匿名掲示板に書き込みしまくってる人は携帯置いて寝食も忘れてまずゲーム遊べよとは思うのだけど
それでも発売前の盛り上がりに比べて発売後の盛り上がりが薄いと気になってしまう。
Nintendo SwitchのLaboも、発売前だというのにそうなりそうな気がプンプンしている。
ダンボールすげー!って盛り上がるだけ盛り上がるけど、自分は買いたくないって気持ちが透けて見えている人がたくさんいる。
オールスタータイトルに得意げにケチをつけて「〇〇がいないから買わない」なんかの買わない理由探しをする人が嫌いだ。
マニアックな要素が足りないだのなんの文句をつける層は、だいたいその要素を満たしているゲームが過去にあっても買ってはいない。
仮想敵作りすぎだろって思うかもしれないけど、積もり積もった実感なんだ。
(タツノコVSカプコンにテッカマンブレードやコンドルのジョー出せよとか、マーベルVSカプコンにロックマンX出せよとか、ゼルダ無双にマリン出せよとか、スパロボにパトレイバーやリューナイト出せよとか、スマブラにクラウド出せよとか、ディシディアにラムザ出せよとか、ガンダムVSにピクシー出せよとか、キン肉マンの格ゲーにベンキマン出せよとか、ストリートファイターにバーディやレインボーミカ出せよとか、ジョジョの格ゲーにバオー出せよとか。実際期待に応えて出してくれたのにもかかわらず買わねえんだあいつら)
3DSで発売した超究極武闘伝と同じアークシステムワークス製のドラゴンボールシリーズの格闘ゲームだ。
まずイラっとしたのが
という意見だ。
DBの格ゲーでキャラクターの数と言えば「ドラゴンボールZ Ultimate Battle 22」がファンならまず出てくるハズだ。
アレは隠しキャラ含めて「ドラゴンボールZ Ultimate Battle 27」になる事も有名なゲーム。キャラクターの多さがとても話題になった。
そのゲームと比べて、完全新作なのに24人で少ないという意見を出す人がいるのが腹立たしい。
3DSの超究極武闘伝だって水増しがあるとはいえ25キャラだ。
アシストキャラクターにいたってはよくこんな無茶なキャラ出したなってぐらい山盛りいる。
実際に観てもらった方がはやい。
http://exbd.bngames.net/character/assist3.html
ドラゴンボールヒーローズは外せないだろう。
DBが好きで豊富なキャラクターを使いたいなら、このゲームをやればいい。
ゲームとしても実に奥深く、対人戦が熱いゲームで大会も開かれている。
全国の猛者と本気でオンライン対戦ができるんだ。
現状は
という状態なのに、ドラゴンボールファイターズのキャラが少ないと言われる。
そして、実際に発売された。
されたら買わないんだ。
そこまでは織り込み済み。いつもの買わないのに話題には乗りたいって人達だったんだなってのはわかる。
わかるけどDLCでバーダックとブロリーが発表された途端に集まる集まる
って意見が
なんで買わないゲームにキャラクターが出て欲しいって思えるんだよお前らは。
ガチャポンやアクションフィギュアやプラモデルの話題でも絶対同じノリで買わないのに言ってるだろお前ら。
彼らの心境は俺の思い込みだと
とかそんな感じだろうと思ってる。
バーチャロンのツインスティックがどうのこうの言ってる人にもその手の人が多いと感じている。
買わない癖に盛り上がって、いざ発売されたらAmazonでいつでも買える状態にある事で満足してしまうんだ。
そして売り切れたら再販を声高に叫ぶわけだ。買わないのに。
最新作を買わない人はそのシリーズやジャンルが好きなんじゃない。好き『だった』んだ。
今ではもう、お金を出して自分の時間を割く価値を感じてはいないんだ。
エアプと動画勢は意味不明で頓珍漢な事ばっかり言うからマジ黙ってろ。プレイしてないタイトルの動画観てもわかるわけねえだろ。
内容が気になるなら…買おうぜ!過去作とかやってなくても気にしなくてOK!
なんなら原作知らなくても全然大丈夫。三国志とか封神演義とか原作知らないけどゲーム化やコミカライズめっちゃ好きだし。OKOK。
最新作だけ買えばそれで十分!ようこそ楽しい最新ゲームの世界へ!
事前情報だけで盛り上がる事の114514倍楽しい事は保証するからさ
多分私を叩くブクマやトラバがつくと思う。お前の意見は間違っている、事前情報だけで盛り上がって何が悪いと
でもここ日記なんだから嫌いな連中に対する悪口ぐらい言っていいだろ別に。
大好きなシリーズの最新作を追わなくなったらもうオタクじゃないよ
rag_en ジャンルを殺しにかかる意識高い型。/いわゆるひとつの一般論だけど、裾野が広いほど山は高くなるんじゃないですかね。フィギュアと将棋、昨日だけ盛り上がった人、めっちゃいるでしょ。たぶん。
コレに返信。
大会の内容は観ずに、勝者の話だけで盛り上がる人達が嫌いですね。
大会って本当に楽しいポイントは、それまでの積み重ねが花開く瞬間。競技そのものだと思うんです。
それに比べたら誰が勝ったとか日本が負けたとかどうでもいいし日本が勝つだけでいいなら日本人が勝った世界大会とかいくらでもあるので好きなだけ日本万歳しててほしい。
日本人だからで喜ぶ人は、私から見たら同じ性別だから、同じ血液型だから、同じ星座だから、優勝者がイケメンだから嬉しいと言ってる人と同レベルの話に思えます。
自分が好きだと思う戦法、複数の選手の中でも琴線に触れた動きを見せてくれた選手、共感できる意気込みを聞かせてくれた選手をこそ、応援すべきだと思うのです。
将棋に関しては「若手が勝った」それはすごいなと思うのわかります。
すごさがわからないものをすごいすごいと言ってる自分を客観視して、クソだせえって普通は思うよねって。
だから、楽しむためにも関連書籍買ったり競技のルール把握したりしましょう。
私は観戦も応援も最高に楽しいと思っていますし、休みが取れたら現地に行く事もあります。
重要なのは勝者が決まるまでの競技そのものであって、競技が終わった後の結果だけで盛り上がるのは世界を数字でしか見ていないんだなって思います。
経験や体験はその数値から光り輝く面白い物を掘り出す事ができるシャベルです。
私を指してジャンルを殺しにかかる意識高い系と言うならば言え。ただし、最もジャンルを楽しんでるのは実際に金出して時間使って心の底から楽しんでいる私達だと
胸を張って言えます。
rag_en 追記の返信で、この増田のヤバみが増した。
私このブクマカ嫌いだわ。何言いたいかなんも言わずヤバいとだけ言われる側としては気持ち悪
つっまんねー奴
ultimate-ez 非課金ユーザーみたいなもんでしょ。サービスやってる側からしたらめちゃめちゃ大事なユーザーやと思うけど。
私が嫌っている層はユーザーですらないんですよ
もっとも色んな批判を観ると、発売する前に盛り上がる事は特に問題にすべきじゃなかったかなーと言っておきつつ思ってる。
発売前に盛り上がる事そのものに悪い事はなんもないんじゃないかなって思いはするんだけど
すっごいテンションバク上げしてもんのすごい気持ち悪いぐらいの持ち上げ方をするのに実際に発売されたら買やぁしないって人にだけ嫌悪感覚えてるんだと思う
買わない理由を表明するのは悪いこっちゃないのかもしれない。ただ、その理由が重箱の隅をつつく系なのは本音で言ってないだろって思っちゃう感じ
z1h4784 わかる。将棋にも中継や棋譜を見ていないし見ても分からないくせに、結果だけ追って誰が強いだの弱いだの言っている連中がいる
マジ勿体ないよね
ちょっとアプリで将棋遊んで専門誌数冊読んだらもっと楽しい世界が広がってるのに
棋譜見たら震えるぐらいの興奮と感動が味わえるから将棋ってめっちゃお金のかからない趣味だと思う
中継観ながらみんなであーだこーだ言ったり感想戦する方が億倍楽しいから棋士のオヤツや将棋以外の奇行の話ばっかりの人がいるとちょっとコイツなんなんって思ったりする
大人のプリキュアファンなのにびた一文お金出さない人はファンじゃないって普通に思いますよ私は
何もBD買えって言ってるわけじゃなくてプレミアムバンダイでフィギュア予約したり主題歌買ったり映画観に行ったりゲーム買ったりふりかけ買ったりプリスト行ったり変身アイテム買ったりコスメ買ったりコミカライズ買ったり
様々なお金を払う手段があってお金を払った先には好きなコンテンツの面白さが待っているのにそのどれにもお金を落とさない人は
その程度しかプリキュア好きじゃないんだなって普通に思います。毎年カルタを買っているガチ勢の方なら共感していただけると思うのですが…
児童は別として、大友は金使える機会が山のようにあるんだから使える所に金使った方がいいと思いますよ
ネットで設定資料集の面白いページの写真だけクレクレされるとマジでケチな人だなーって思ったりします
xevra 運動と瞑想しない者の末路はいつも悲惨だ。なぜこんなになるまで放っておいたのか?もうダメかも分からんね。お大事に
中学生の頃、サターン版のバーチャロンに耽溺した時期がごく短期間だが、あった。
当時、すでにバーチャロンは千円以下で投げ売りされており、僕はコストの割にハイパフォーマンスの娯楽を享受することができた。
しかし、いまにして思えば、周囲にいた女子中学生達と付き合ったりしたほうがさらにローコストかつハイパフォーマンスだったはずで、もっとそっちを必死に追い求めればよかった。
過去の自分に「おい、テレビゲームなんてやっている場合じゃないだろう」と檄を飛ばしたい思いでいっぱいだが、飛ばしたところで無意味なうえにそこそこ満足していたはずの自分の記憶を貶めるので止めておこう。
脱線だ。
空手の先生に「意志を持って山を登り始めたら初段。上り方がわかってきたら二段だ」と言われたことがあるので、おそらく当時の段位は初段だろう。強くなる方法が分かってくる前に投げ出したので二段は取り損なった。
しかし、満ち足りて道を退いたのだとすればそれはむしろ足るを知った末の幸福な下山だったともいえる。
下山した後はその足で色欲の山に登り始めた為、それ以前に上った山の記憶が曖昧模糊としている。
今もその山道の途上にあって、二年ほど前後不覚のままあがいた後にどうにか初段を得て、ずいぶんあとになってに二段を取得してから再度濃霧に迷わされている。
今ではこの身を突き動かす衝動もめっきり弱くなった。火花は飛ばなくなり、着火も鈍くなった。
もはやこの山でこれ以上高みを目指すのが無理であろうとは漠然と思っている。
ゲーム好きが多そうなインターネット関連の仕事をしているが、社会人になってからは自分ではほとんどテレビゲームには触れていない。今となっては、子供たちがたまに遊んでいるのを眺める程度のものだ。
そんな俺だけど、最近、ひどいソシャゲ課金問題がニュースになったり、実況動画のユーチューバーに扇動されるキッズたちがそんなゲームにハマっていたり、息子の3DSを発狂して叩き割るヴァイオリニストがいたり、そういうニュースを見て大人が眉を顰めていたりするのを見て、そういうのはものづくりとしてなんか残念だなぁって思い、ふと思い立ってこれを書いている。
俺は本当は元々ゲームが大好きだった。どうしようもなく好きだった。たぶんここでマニアを名乗れるほどでは無いけれど、ファミコン世代ど真ん中で、小学生時代は任天堂に憧れ、ファミコンとディスクシステムに埋もれて育った。反抗期はメガドライブで道を踏み外し、幾多の良ゲークソゲーにまみれてサターンで遊んだ(結局スーファミもプレステも持ってたけど)。この世代によくいるエンジニアの例に漏れず、ゲーム好きをこじらせた結果、IT関連の仕事に進んだ。
社会人になってからは大好きなゲームで遊ぶ機会は徐々に減り、いつしかまったく触れることも無くなった。
興味が無かったわけじゃないけれど、ネットとWebとコミュニティ関連の仕事をしていたら、やたら忙しくて使える時間は限られたものになり、そのうち自分の家庭を持つようになり、結果として一見何も生産されない(ように感じる)ゲームにひとりで貴重な時間を費やすのは勿体無いと割りきって考えるようになったのだ。
仕事でもプライベートでも、どうせディスプレイに向かうのなら何か成果物を残せるか、実際に人との繋がりを作れる仕組みに力を入れようと考えるようになった。それはクラシックなホームページだったりECサイトだったり、ブログだったりSNSだったりしたのだけれど、いずれにしても「俺たちのインターネット」は今までと違う新しい世界を作るんだ、という気概のようなものを勝手に持っていたような気がする。つまり、ゲームを作る側でも無い普通の人間にとって、「ゲームで遊ぶ」という行為はクリエイティブな行動とは考えなかったのだと思う。
そのうち自分の子も大きくなり、人並みにDSやWiiで遊ぶようになった。
でも、うちの子たちがそこまでゲームに熱中しているほうでもなく、妻がゲーム嫌いなこともあって、それほど家庭の中でゲームが話題になることはなかった。俺自身もWiiを見たときに、すごいユーザフレンドリーで簡単に遊べて任天堂はすごいなーって思ったり、子供たちとちょっと遊んだスマブラが面白いなーと感じたりしたことはあったけれど、基本的には世代を超えてマリオに親しむ子供たちの姿を見て微笑ましく思ったり、良い物は良いねって言ってみたり、つまりは親として、第三者的な感想を述べるという以上に自分自身がのめり込むような体験が再来するようなことはなく、ああ、やっぱり自分が少年の頃感じたあの感動や興奮は、あの時期特有のものだったんだろうなあ、子供たちが今のゲームに同じように感じることはあったとしても、自分自身がもう一度あの感覚を体験することは無いんだろうなあ、などと悟ったようなことをちょっと寂しく勝手に考えていた。
我が家はそんな、ゲームにそれほど熱くなっていない一家なので、最新のゲーム機やゲームがすぐ家にやってくるというようなこともなく、WiiUも発売から3年経ってようやく我が家にやってきた。息子のクリスマスプレゼントということで、義母が買って送ってくれたのだ。正直随分とリッチなクリスマスプレゼントだと思う。
その半年ほど前、なんかイカがインクを塗るゲームが発売されて話題になっているということは知っていた。俺はホッテントリにそのゲームがしばしば上がるのを面白そうだなーと思いながら眺めていたし、息子もそれが欲しかったのだろうということはなんとなくわかった。
かくして、流行から半年ちょっと遅れて我が家にもWiiUとイカのゲームがやってきたのである。
すっかりゲームに興味が薄れてしまったおやじである俺は、息子が喜び勇んでイカのゲームで遊ぶのを温かい目で後で眺めていた。とても面白そうだった。
一台のWiiUでは基本的にはひとりずつしか遊べないので、パパにやらせろよと言うでもなく、オシャレでいいなこれ、っていう程度のことを思っていた。
その穏やかな認識が一変するのは、その一週間後の大晦日のことだった。
12月31日、仕事やら親戚の都合やらなんやらで予定が合わず、年越しは妻と子供たちだけが実家に帰り、俺はひとり寂しく自宅に帰って新年を迎えることになった。やり残した掃除を済ませて一息つき、ひとりで年末番組を見る気にもならずビールを飲んでだらだらしていたが、すぐ退屈になってしまった。そこで、なんとなく一週間前にやってきたWiiUの電源を入れ、自分のIDを登録して息子が遊んでいるイカのゲームをやってみたのだ。
ほうほうどれどれ、操作は複雑そうだが簡単に覚えられそうだ、とりあえずバトルに参加してみるか、しかしこれ音楽カッケーな、と……
かくしてイカを操作し始めた俺は、すぐにとんでもない衝撃を受けることになる。なんせ、俺はゲーム体験の歴史が軽く15年は飛んでいる老帰還兵なのだ。
操作に慣れるまでのタイムは僅か0.05秒にすぎない、とまではイカないが、少なくとも開始30秒後には俺はなんかすごいものに触っているぞという気になりはじめ、思った方向に画面が動き、自分が向いた方に画面が回り、目の前の画面に映るイカが自分と一体化した気分になり、それを気持ちいいと感じるまでに実に1分もかからなかった。大げさでなく、これはすごいことだ。ものすごいUIだ。
正直、まるでダイナモローラーで全力でぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
なんだこれは。
気持ち良すぎる。楽しすぎる。
気が付くと、がむしゃらにわけもわからずインクを塗っているだけであっという間に1ゲーム終わっていた。
一体、なんなんだこれは……!!
3戦、4戦と繰り返しあっという間に30分くらい過ぎてしまった。
なんだか涙が出てきた。ていうか、恥ずかしいことにおっさんの俺はひとりでゲームをやりながらボロボロと涙が止まらなくなってしまった。
別に、大晦日にひとりでゲームをやっていたのが虚しくて涙が出てきたわけじゃなかった。自由に軽快に動くイカのキャラを見て、夢中で空間を走り回っていたら、子供の頃、家にやってきたファミコンで初めてスーパーマリオを動かしてまるで自分の思いのままにマリオが走ったときの感動や、自分のお年玉を貯めて買った発売されたてのメガドラで似非3Dのスペハリ2がぬるぬる動くところを見たときのことや、ゲーセンで「自分の思うままに3D対戦できるゲームが現実になるなんて!」とバーチャロンに100円玉を積んだ思い出なんかが次々蘇ってきた。
とんでもないものを作る人がいる。
そうだ、楽しいゲームをプレイしたときの体験と感動っていうのはこういうものだ。ありがとう、それを思い出したし、世界は過去より進化している。
かつて夢に見た未来がここにある、そんなことを思った。
だって、フィールドを思い通りに走り回り、リアルな人間同士がスポーツのように対戦でき、公平で、平等で、みんなが活躍できる。
去年の5月から遊んでいる人達にとっては超今さらな話なんだと思うけど、これってとんでもないデザインじゃなイカ。
良かった、どうやら俺が枯れてしまったわけではなかったようだ。だって、ゲームで遊んで猛烈に感動したもの。良い物は良い、ていうのはこういうことを言うんだろう。
気が付くと、外は元旦の日が昇っていた。
信じられないことに、どハマりしすぎて正月になってしまったのだ。その時にはその日フク屋にあったギアは全部買い、その時持っていたギアの中で一番イカす組み合わせをコーディネートする程度にはインクの沼に溺れきっていた。ちょっと妻と子供たちには言えないが、ひどい年明けだけどどうしてなかなか気持ち良かった。
すさまじいゲームバランスと運営で成り立っている世界だ。幾多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦のスナイパーみたいなマニアと、たかしくん5歳(推定)やさくらちゃん4歳(推定)が同じ世界の上で楽しくワイワイとインクを塗って遊んでいるのだ。よくできたレベルごとのマッチングもあるにせよ、殺イカ鬼みたいなプレーヤーが前線で戦っている後方で、たかしくん5歳(推定)がコロコロとローラーでインクを塗って喜んでいるフィールド。みんなそれぞれ楽しい世界だ。任天堂だからできるっていうことはあるにせよ、ゲームで楽しませるんだ、新しい世界を見せるんだという思いがビシバシと伝わってくる。ガチャですり減るばかりのソシャゲのようなものとは本質的に違う。すごいゲームを作るものだと感心しながら家族の待つ実家に向かった。1月1日、俺の頭の中はカラフルなインクでいっぱいで、なぜだか不思議とクリエイティブな気分だった。
ところで、上の方にインターネットに関わる仕事をしていると書いたけど、もはや「俺たちのインターネット」的なコミュニケーションに特別な思いを抱く時代では無いんだなあ、っていうことを改めてしみじみと思った。
普段、仕事でわりと年配の方も使うWebサービスに関わっているんだけど、残念ながら2016年現在の今なお、インターネットを特別なもの、得体の知れない不穏なものと敬遠する層があり、そういう世界がある。世代間ギャップだけの問題だけではなく、サービスの内容にもよって向き不向きもある。流通業なんかだと、いまだに「リアル対ネットの戦い」だとか、「紙媒体とWebメディアの二項対立」なんていうものがあり、「オムニチャネル」なんていう言葉が持て囃されたりする。
仕方ないんだけど相変わらず、クラシックな層に対して「インターネットの普及」を懸命にやらなければならなかったりする(だいたいインフラの話とアプリケーションの話がごっちゃになっている)。正直ウンザリすることもあるけれど、それが現実だと受け止めている。
しかし一方で、イカのゲームで遊ぶ子供たちを見てつくづく考えさせられるのは、もはやこの世界で成長して大人になっていく今の子供たちにとってはインターネットがそこにあるかどうかなんてことは考えることすら無いし、我々が90年代後半から00年台にかけて見てきたような「俺たちのインターネット」としてネットの場を特別視するようなことも無いのだ。彼らにとって、ネットは電気や水道と同じようにあたりまえにそこにあって、ゲームをやろうとスイッチを入れれば、仲間や対戦相手が生身の人間であることがあたりまえなのだ。
既に、テレビゲームで遊んでいてそれがリアルかバーチャルかなんていう議論ももうあまり意味が無いんだろうなあ。それはバーチャルな場を使用したリアルであって、線引き自体がよくわからない。近い将来親になる世代に対してはネットは「普及」するものですらなく、このコミュニケーションがスタート地点ですらある世界がいよいよ本当にやってくるのだ。
思うがままに書いたけど、たぶん、ずっとゲームをやり続けてきた人から見たら何年も前から当然のようなことなのかもしれないね。
対人で対戦できるFPSやTPSだって、オンラインのRPGだって20年くらい前にはあったし、上に書いたようなネットゲーム体験はそれからずっと培われてきた技術によって成り立っているんだろうなって思った。
でも、そうやって新しい物好きやマニアの層が開拓してきた技術や経験がいよいよ一般層にまで展開されて、子供たちが何も考えずにその世界の上で育っていくという現実に、なんだかもううかうかしてられない危機感と楽しみみたいなものを感じずにはいられない今日この頃。
バーチャロンの、カッコいいからって理由(オーバーテクノロジーなどの理由で戦争が興行として成立している世界で、人型のほうがウケがいいとかかんとか)はどの辺りだろう
たしかに、エロゲもコンシューマも毎月おもしろいゲームが出て、アニメも毎期おもしろかった。
Gガンみて泣いたりVガンみてぞっとしたりしながら天地無用のLD買ったりエルハザードのLD買ったりしてな。
同級生2も yu-no も闘神都市2も鬼畜王ランスも買ってやった。アリスの会員なったりしてなー。
PSかサターンどっち買うかで語ったり、鉄拳2派とバーチャ派がいたり、バーチャロン対戦したり
IT 系のバイトして、お金貯めてゲームかったり、バイト中にニフティー見てみんなで楽しんだり、
エヴァをリアルタイムでみてたし、漫画だと、ピンポンとかそのあたりハマってみてたり。
BBSメインだったけど、そのうちインターネットが着ても常時接続なんてできなかったから金スゲー
かかった、パソコンも高かったしメディアもメモリもなにもかも高かった、QV-10なんてあのスペック
で6万とかだっけ?
いまは金銭的な意味ではだいぶ安くいろいろ楽しめて羨ましいなって思う。
予め断っておくが、正しいからと言って面白いとは限らない。「科学的には正しいけど面白くない話」は「科学的に正しくなくて面白くもない話」と大差ない。
共振器で光を励起させ、指向性を揃えて撃ち出したものがレーザーである。レーザーの実体は「光」そのもので、この点で実体弾ともビームとも大きく異なる。当然光であるから、レーザー兵器は弾道が伸びる様子は見えず、基本的に撃った瞬間着弾する。※1 従って「弾道の伸びが見える時点で、その兵器はもうレーザー兵器ではない」という考え方は、概ね正しいと言える。この前提を踏まえると、現存するゲーム、マンガ、アニメ等で「レーザー」と呼ばれている物のうち、いくつかは、あるいはほとんどは、実はレーザー兵器ではないという事になる。SDI計画がミサイル迎撃にレーザーを使おうとした理由もスピードにある。トップスピードで移動しているミサイルに対して、後から撃って高い確率で命中させられる兵器は、究極の弾速を持ったレーザー兵器しかなかった、ということだ。
レーザーは発射に際し反動がないのも特徴である。※2 これにより「射撃に際して反動があるようならそれはレーザー兵器ではない」という言い方もできる。また銃身が不要なのも特徴の一つである。レーザー兵器が発するのは光であり、飛翔体を飛ばすわけではないので、銃身は必要ない。CD/DVDプレイヤーのピックアップレンズのような形状が、レーザー兵器の基本的形状である。
レーザー兵器には実弾兵器では得られない様々な利点があるので、ビーム兵器のような「そもそも何のために作られたのかよく分からない」兵器とは異なり、実弾兵器と共存していても何ら不思議はない。また、レーザー発振器は非常に巨大でかなりの電力を食うが、ビームを撃つために必要な粒子加速器に比べればまだマシなレベルなので、単体での存在確率もビーム兵器よりはだいぶ高い。
弱点について考えた場合、例えばレーザーは光なので、鏡面コーティングによって拡散し、減衰する、という点がある。とはいえ、ただ単に「鏡を貼ればレーザーは無効」というところまでは行かない。励起されレーザーとなった光のエネルギーはそんなに生易しい物ではない。より大きな弱点と言えるのはやはり減衰率だろう。レーザーは空気中では直進せず、また距離によって減衰する。従って、レーザー兵器が完全のポテンシャルを発揮するのは、基本的に真空状態の時だけである。
ビームとは、加速され、一定方向に指向性を持った粒子の事である。つまり「ビーム」というのは固有名詞ではなく、単なるジャンル名に過ぎない。例えるなら、レーザーは「自動車」ぐらい具体的だが、ビームは「乗り物」くらい曖昧である。しかし現実として「ビーム」はなぜか固有名詞と扱われている。そうなった原因は言うまでもなくガンダムにある。
加速した粒子の集合体を対象にぶつけよう、という発想がビーム兵器の発想だが、粒子加速するためには巨大な粒子加速器と巨大な電力が必要であり、コストは絶望的である。現時点においては、粒子加速器は広大な敷地に建築物として作成するしかない。将来的にどうなるかは曖昧だが、単に対象を破壊するなら、同じエネルギーを使って別の手段を講じた方がまだマシという可能性は高い。
またシステムの複雑性とコストの問題を無視しても、ビーム兵器には威力、弾速などがレーザー兵器や実体兵器に比べて強力であるという根拠がないという、存在意義そのものに関わる問題点が残る。レーザー兵器はその速度から明らかに独自の用途があり得るが、ビーム兵器はそもそも何のために作られるのか、という部分が既に怪しい。そのためビーム兵器をフィクションの中に登場させたとしても、実弾兵器と共存する理由を持たせる事すらできない場合が往々にしてある(色々な話がこの部分で苦しんでいるのをよく見かける)。
手持ちの銃から「ビーム」が出るというのはかなり突飛な発想であり、ガンダムの持っている「ビームライフル」は、過去から現在に至るまで、誤ったビーム解釈の象徴としての立場を維持し続けている。撃っていると途中で「エネルギーが切れる」など、バッテリーで撃っているような描写が見られるため、あれは結局レーザーライフル的な発想だったと思われるが、撃ち出される「何か」の速度は非常に遅く、また射撃に際して大きな反動がある。そのためあれは、「実弾」でも「ビーム」でも「レーザー」でもない、何か全く別の兵器と考えるしかない。銃自体の形状にも謎は多い。ビーム兵器もレーザー兵器同様銃身は不要である。仮に銃身を付与したとすれば、発射時に通過するビームによって破壊される(ちなみにガンダムのビームライフルは銃身内にライフリングまである)。語感でつい「ビーム」と命名してしまっただけで、実際はただの実弾兵器が何となく光っているだけなのだ、と考えるのが一番辻褄は合う。
ビーム仲間のビームサーベルはさらに状況が深刻である。理由は言うまでもないだろう。
なお、現実に照らし合わせた考証を全てぶち壊すために生まれた概念がガンダムで言うミノフスキー粒子であるが、それを言い始めると考える意味がなくなるので、ここでは無視する。
ショットガンは非常に単純な発射システムおよび弾体を持っている。具体的に言えば、通常の銃と異なりライフリングがなく、銃身はほとんど「散弾に指向性を与える」ためだけに存在している。拡散性は銃口先端の形状に依存しており、この構造をチョーク(絞り)と呼称する。銃口が小さく絞られている方が、より狭い範囲に密集して飛ぶ。
拡散性や軌道、散弾が実際に何発出るか、といったようなことについて、基準となるようなラインはない。例えば鳥を撃つような、数百発もの散弾が入ったシェルを始め、ごく狭い範囲を効果的に狙う六粒弾や九粒弾、さらには一粒弾(スラグ)というものまである。
なぜわざわざショットガンで単発の弾を撃つのか、という点については、単に「そうそう何丁も銃を持ち歩けない」という非常に現実的な理由による。ゲームのように何丁も銃を持ち歩き、用途に合わせて使い分ける、などという真似はできないので、ショットガン一丁で色々撃って使いまわそう、ということだ。ライフルドスラグの存在はショットガンの特性を顕著に表している。つまり、ショットガンは実は単なるランチャーに近いという事である。ショットガンは「散弾銃」と訳されるが、役割から考えれば必ずしもそうとばかりは言えないのである。一丁で散弾もライフル弾も榴弾も撃てるような、そういう潰しが利く「ショットガン」こそが、真に優れたショットガンである、とすら言える。
ガンダムには「ビームショットガン」というものがある。バーチャロンのアファームドも同名の武器を装備していた。現実のショットガンは、シェル底部の火薬の爆発によって散弾に推進力を与えて放出する。しかしこれが「ビーム」だった場合、そもそもショットガンのショットシェルにあたるものが何なのか分からない。普通に考えれば、「ビーム」を拡散して発射しようとするなら、発射する方向のぶんだけ別々に発射口を用意するしかない。謎が謎を呼ぶばかりである。
ある飛翔体を、火薬とその爆発力ではなく、電力とローレンツ力で発射するのがレールガンである。つまりレールガンがやっている事は、根本的に言えば火薬式の銃と何も変わらない。だから、ビームガンのような怪しい物とは異なり、火薬による射撃武器の正当進化形として使用される可能性がないとは言えない。コストも悪くない。もっとも度を越した小型化(「このハンドガンはレールガンです」というような)はギャグでしかないが。
レールガンは理論上電力を上げれば上げるほど高速な弾が撃ち出す事ができ、その限界値はおそらく火薬で飛翔体を飛ばすよりもだいぶ高い(銃身の耐久性の方が先に限界に達するので、無限の速度が得られるわけではないが)。なお、なぜレールに電気を流すと物が飛ぶのか、という説明については長くなるので、この文書では省略する。
「バズーカ」という名称は「ビーム」と似たような立場にある。現状、「この手の武器」はジャンル名として一般的に全て「バズーカ」と呼称される傾向になっているが、これは誤用であり、バズーカという固有名詞は本来米軍のあの「バズーカ」しか指さない。代表的な歩兵用携帯対戦車兵器には、パンツァーファウスト、カールグスタフ、RPG(Rocket Propelled Grenade)等があり、しかもこれらは、ロケット弾発射装置だったり、無反動砲だったりと、構造にも統一性がない(この2者の違いは現物を見ればすぐ分かる)。これらを総称で呼ぶなら、それは「バズーカ」ではなく、やはり「歩兵用携帯対戦車兵器」以外にはない。
端的に言えば兵器としての描写が正しいかどうかに関わらず「バズーカ」と呼んでしまった時点で1手ミスということである。ガンダムでは何とかバズーカが色々出てくるし、バーチャロンのライデンも「バズーカ」という名前の武器を持っているが、これらは典型的なパターンと言える。
名称の問題を置いておいたとしても、まだ問題は残る。まず無反動砲の場合、これらの兵器は基本的に一本で一発しか撃てない。ハンドガンやアサルトライフルのように、一発撃ったら自動で次弾が装填されるという事はないし、現場での再装填すら困難である。この理由は、歩兵が携帯するので体積的に余裕がない、というのはもちろんだが、最大の理由は、これらの兵器が無反動構造を持っている、という点にある。無反動砲がなぜあの形状なのかと言えば、前方に飛翔体を発射すると同時に、後方にも同じ運動量を発生させ、見かけ上の反動をゼロにするからである。歩兵用の無反動砲には必ずこの構造が備わっている。※3 従って、再装填なく砲弾を連射していたり、あるいは発射に際して大きな反動が見られる場合、それはかなり正体不明な兵器ということになる。
また、これらの兵器については、成形炸薬の「指向性を持った爆発エネルギー」で敵装甲を貫通する構造であり、そもそも運動エネルギー兵器ではない、という点にも留意すべきである。つまりこれらの兵器の弾体は高速飛行する必要がない。元々速度で貫通する気はないので、弾はとにかく当たりさえすればよく、後はどれくらい火薬が積めるかの勝負となっている。この性質を長所とすべく、これらの兵器の一部では火薬の爆発による推進機構ではなく、弾体自体が推進能力を持つという、いわゆる「ロケット弾」構造を採用している。この構造により、弾体は弾丸ではなく爆薬に近くなり、弾体の発射速度は著しく遅くなって、さらに無反動性が高まる結果となっている。つまり、ロケット弾であるにも関わらず、発射と同時に弾体がライフル弾か何かのように一直線に目標に向かって飛んでいくようなら、それは何か間違っている、という事になる。
ちなみに似たような間違いとして、戦闘機のミサイル描写がある。戦闘機のミサイルは羽から切り離されたあと空中で点火して自力推進を始めるのだが、一部の作品では羽に付いている段階のミサイルがいきなり火を噴き始める。あれではミサイルを撃つたびに羽にダメージを受けてしまう。
※1 有視界距離を想定した話。光も無限の速度を持っているわけではないので(約30万km/sec)、異常に距離が遠ければ遅延は発生する。
※2 非常に微弱なだけで厳密には反動ゼロではない。しかしいずれにせよ火薬武器とは比較にならないレベル。
※3 一般的な無反動砲では平衝体を用いず、発射ガスを後方に排気することで無反動構造を実現している。しかし、この構造では至近距離で排気炎が発生することになり、車両ならともかく、歩兵用の携帯火器では深刻な弱点となる(射手や味方が排気炎に巻き込まれてしまう)。このため、歩兵用の無反動砲では、発射ガスを後方に放出せず、平衝体を用いて相殺を行っている。
※間違ってるところがあれば教えて下さい。超能力で。
自分のうちに熱量の不足を感じる。熱量を注ぎ込むような一冊が俺にもある。
説明書とは言うが、中身はほとんど開発者の当時をふりかえるエッセイで、またプロデューサー亙のそれが圧倒的分量を誇る。プロジェクトの始まりから終わりまで、その後も含めて。そこに込められた熱量は印刷された紙が燃えてしまうほどに熱い。ひたすら熱い。書かれた言葉すべてに熱が宿る。
全スタッフに共通するのが初めての3Dゲーム制作であったこと。そして誰もがそれを楽しんだとしか書いていない。過去の経験話なのだから美化されて当然、と諦めてはいけない。当時のその場にはそういった頭のいい奴はいなかったと判る。誰もが未知のものに対する興奮だけを持ち寄ったのだ。
それは2万メートルから地表を目指す猫のように、いちずで、無邪気だ。できると疑っていない。
未来が過去を書き換えたのかもしれない。それでもそこにある言葉は楽しそうだ。愉快な仕事の話だ。今日もまたこれを読んだ。有明に行くために。
1974年に開館した「船の科学館」が、今年9月末で本館展示を休止する。
近くの日本科学未来館には3回ほど行ったことがあるし、お台場メディアージュの中にあるソニーエクスプローラサイエンスにも1回行ったのだが(どちらもオススメ)、船の科学館は一度も行ったことが無かった。
ので昨日行ってきた。
「原子力の平和利用」という言葉の意味が変わってしまった今となっては複雑な思いで見る、原子力船むつの1/50模型。
スクリュープロペラを持たない(!)超電導電磁推進船なんて研究があった(日本が完成させ、そして消えていった)という驚きの事実。
「バルバスバウ」といえば某バーチャロンを思い出すけど、本当はそれは船首構造の名前だったということ(http://p.tl/mNmu)。
ラジコン模型でしか知らない水陸両用ホバークラフトの実物が、人を乗せて航行/走行している映像。
駆け足で見たのだけど、船に詳しくない私でも色々と興味を持って知識を得ることができて、とても面白かった。
休止前の特別料金で、ふつう700円のところ200円なので、興味と時間がある方はぜひ行くといいと思う。
それはともかく。
いったん本館から出て南極観測船「宗谷」を見学しようとすると、道路側にとんでもない数の(何百人単位の!)人が集まっていた。
ぽつぽつと日の丸を持っている。
そう、噂の「フジテレビ抗議デモ」が、今まさに出発しようとしていたのである。
あまりの人の多さに呆気にとられて、私は宗谷の甲板からデモの列を最後尾まで見届けてしまった。5人1列に並んで、最前列がスタートしてから最後尾がスタート地点を通るまで、30分以上。どう少なく見積もっても1000は下らない人数だ。
主催者発表では参加者は6000人、デモに好意的でないスポニチの報道
でも4000人が参加したとされている。
とにかくそれだけの人数の人たちが、
「私達はK-POPなんて聞きたくないぞー!」『聞きたくないぞー!』
この光景は衝撃的だった。
どんなデモにせよ、多くの大人が団結して主張をしながら行進するのはそれだけでインパクトがあるのかもしれない。でもその主張が
「冤罪を許すなー!」とか
「原発を止めろー!」とか
そういうものならまあ、そういう主張の人が頑張っているのだな、と理解できる。でも今回は違う。
もちろん、一般に偏向報道はよくない。私もアナログ停波以降はフジテレビを(テレビを)見てないし、フジテレビが善良なテレビ局だとも思わないし、『HEY!HEY!HEY!』をたまに見ると必ず韓流か懐メロの特集をやっていてつまらないなあとは思っていた。それに、普段から「韓国製」の買い物は避け、できるだけ国産を買うようにしている。特に韓国製のCD-RやDVD-Rは非常に質が低いのだ。韓流スターの名前はペヨンジュンしか知らない(KARAのメンバーに石川梨華のパロディみたいな顔の子がいるのは知ってる)。言うまでもないけど、竹島は日本の領土である。
それに反対するために、何千人もの人がお台場でデモ行進をしてるのか?
ネットの情報を「テレビでは報道されない真実なんだ!私たちが立ち上がらなくちゃいけないんだ!」と盲信した中高生が集まっちゃうならまだ分かる。でも私が見た限りでは、参加者は本当に老若男女で、300人に1人くらいは、私と同じくらいの年齢(20代)の、おしゃれな今時の女性もいた。おじさん・おばさん・お兄さん・お姉さん・そして親に連れられてきた子供も。
そのデモでの主張が、「フジテレビ韓流ゴリ押し反対」でいいのか?
…これが、私の第一印象である。
しかし第一印象はそれが正当なものであるか吟味されねばならない。
(1)「もっと重要な問題があるだろう」
彼らへの評判をネットで探してみた。よくあるのが、「テレビがどうこう言う前に、主張すべきもっと重要なことがあるだろうよ」というものだ。
でも、この批判って、既に他の「もっと重要なこと」のためにアクションしている人にしか、言う資格はないはずだ。
自分はtwitterとかネットで勝手なこと言ってるだけなのに、実際に体で活動してる人を言葉だけで「それをやるならこっちをやれ」というのは、単なるネット弁慶じゃないか。
というのも、正直、民放の放送内容がどうこうよりも、領土問題だとか、人権侵害救済法案や外国人参政権という、それこそ韓国とも関係大ありな政治問題のほうがずっと重要だと思うからだ。
ただ、思うに、そういう政治的重要事案じゃないからこそ、これだけ多くの人が集まったのかな、とも思う。
「韓流ゴリ押し反対」というのは、政治的なようでそれ自体は政治問題ではなく、「公共的な性格をもつ国内民間企業への批判」にすぎない。だからこそ、特定の政党に関与したり変に利用されることなく、これだけの人を動員できたということはあるだろう。日本人の多くが「政治」より「テレビ」に関心を持っているという事実も、今回の動員に味方した。
「もっと重要なことがある」と言っても、「もっと重要なこと」にはどうしてもキナ臭い政治が絡んできて、ネット上でさえこんな大きな潮流を作れないだろう。その意味では、対韓国の政治問題のとっかかりとして大きなデモを行うには、むしろ今回のテーマがベストだったとすら言えるのかもしれない。
(2)「嫌なら見なきゃいい」
これに対する再反論は、もうすでに定式化されているようだ。
作家・深水黎一郎さんが簡潔に整理しているが、簡単に言うと、
「テレビ局は<公共の>電波を独占して使っているのだから、勝手な偏向放送をしておいて『嫌なら見るな』は通用しない」
ということ。
嫌なら見なきゃいい、と言われる前から私は確かに見てないのだけど、見てもらってる側がそれを言っちゃいけない。放送法という後ろ盾もあるのだから、テレビ局にはそれに基づいた良心的な経営が求められるのは当然だろう。ただし、ただでさえテレビ不遇の時代に、自局グループの商売を有利に進めようとするのは営利企業としては当然で、そのへんは線引きが難しいところではある。
(3)陰謀論
「フジテレビ抗議デモは、原発から目をそらすための陰謀だ!」。
こういうツイートやmixi日記は複数あった。どんなところにでも陰謀論はあるものだ。面白い。
(結論)
デモを批判する理由は私にはない。
しかし「韓流ごり押し」に対しては、私はどう考えるべきなのか?
政治的問題に関しては比較的冷静な狼板をのぞくと、「ブームってそういうもんだろ」という書き込みを目にした。
確かにそうだと思う。
韓流ブーム捏造、なんていうけど、ブームなんてたいがい作られるものだ。
結局今回の問題は、それが誰の目にも「行き過ぎ」「ごり押し」と捉えられるほどのものになってしまったという所にあるのだろう。
私としては、前に書いたように、「竹島は守るべき」「人権侵害救済法案は危険」と思っているし、他にも例えば、「在日外国人犯罪者の偽名報道は反対!!!」である。その点だけについて言えば右翼的であるのかもしれない。
ただ「反フジテレビ」については、何とも言えないのだ。
だって、フジテレビから韓流を引いたからと言って、番組が面白くなるとも企業体質が良くなるとも全然思えないのだもの。
それに私は、そもそもフジテレビがあっても無くても、まったく困らない。
とりあえず現段階では、「フジテレビがこんなにバカなことをやってるよ~」とネット上に確かな情報を拡散させておけば、それで十分という気もする。
デモに参加する気には、とてもなれないのだ。
追伸