はてなキーワード: 抑うつとは
私は障害者になれない程度のうつ病と不眠症を患い、10年ほどになる。障害者になれない程度なので、のんびり投薬とカウンセリング、認知行動療法あたりを試す感じだ。
いまはそこそこ落ち着いて生きている、と思う。
それでも、病んだ当時はわりとひどかった。
横道にそれるようだが、私の母方の祖父は母が幼いころ自死している。詳しい話は聞いたことがない(親戚みんな口をつぐんでるので、よっぽどなにかあるんだろうと思うが)。
父方の祖母とは同居していたが、私が学生時代入浴中に心臓発作を起こし、全身爛れた状態で亡くなった。発見したのは、あんまりにも長い入浴に不安になった母だ。以来実家の湯船には伸ばした膝にかぶるくらいのお湯しか張られなくなった。
ひどく不安定な状態だった病み立てほやほやの私は、でも「わかりやすい自殺」を選び母を壊すことが怖かった。浴室で手首を切ったら、きっともう二度と母はお風呂場に立ち入れなくなる。首をくくったら、飛び降りたら。
いまもその傾向が強いが、私は「役に立てない」自分が嫌いだし一秒でも早めに死にたい。社会人になってすぐに生命保険には加入していたから、せめて保険金くらい遺したい。
死んでまで家族に迷惑をかけることは怖かった。でも死にたかった。
だから、処方された薬でODをちょいちょいやっていた。一万錠くらい一気に飲まなければ死ねないのは知っていた。ただ完全に事故死にはなれないだろうけれど、「不安感から薬を飲みすぎて、嘔吐するもその吐瀉物で窒息死した」なら許される気がしたのだ。
胃洗浄が間に合わないくらいは常に我慢したので、親に救急外来に連れられても当直医の方に「死ねないくせにくるな」と言われる程度だった。これについては申し訳ないと思ってはいた。まあ、言われる度にまた落ち込むので、主治医のところに懺悔するよう駆け込むのが常だったけれど。
そんな風に、わりと頻繁に「死にたくなっていた」私はいまだに、「病気で生きたいのに生きられない人もいる。それなのに自殺しようとするなんて」ということばをきくと、心がざわざわする。
あの、「生きていてごめんなさい、死ねなくてごめんなさい、ちゃんと出来なくてごめんなさい」と謝り続けた日々にきもちが戻ってしまう。
抑うつ状態の人間も、生きていたいのに生きられない人のことがいることはわかっている。でも、あの瞬間、本当につらいし、そう言われると余計に、自分はダメな人間だ、ちゃんと出来ない、人を不快にしている、だからやっぱり死ななければいけない、と感じてしまう人もいると思う。いやまあ、人によるだろっていうのは承知してもいるが。
とりあえずメンタル病んでるだろうなという相手が死にたいとこぼしたら、下手に「死んじゃダメだ」と口にするより、「お医者さんに行ってみるといいよ」と返す方がいいと思う。
その「死んじゃダメだ」が呪いになって、ふっとそう出来なかっただれかの背中を押すかもしれない。
というか、ちょっと今日調子悪かった私は、他人に向けられた「病気で生きたいのに生きられない人もいる。だから生き足掻くべきなんだよ」というようなことばをきいて久しぶりに(ODにはならない程度に)頓服薬をガリガリした。
ちゃんと出来なくてごめんなさい。でもほんと、わかっているから。追いつめてるつもりは無いだろうけれど、でも勝手に追いつめられて「死ななきゃ」と思うひともいるから、だからお願いだから、理解しないでいいから、「病院行ってみよ?」や「ちょっと休んでみたほうがいいよ」で済ませてほしい。
生活を自分のものにできなくて苦しい。時間を管理できないしルーティンにできないしデジタルなものへの依存が深い。健康が徐々に失われていく。
不健康だから自分をコントロールできないのか、自分をコントロールできないから不健康なのか。
発達障害か、仕事のストレスで抑うつか、貧血か、ホルモンバランスか、育ちの問題か、刺激過多な都市生活の弊害か、現代社会が求めすぎなのか、全てか。
寂しいのが根底にある気もする。頭ではこうするべきとわかっていても、なぜか自己効力的な行動をできない。心は別のものを見ている。ものすごく緩慢で自分でも気づかないくらいのセルフネグレクトによって、寂しいと言ってるような気もする。
しょぼいと思われるかもしれないが、
自分の中で、新卒入社した会社を辞めずに三年続けるというのは、一つの大きな目標だった。
なぜなら、私はいつも、ある一つのことを続けていて、それが上手くいっていると急に台無しにしたてしまいたくなる癖がある。
中学生のとき、バスケ部に入っていた。毎日早朝と夕方からの練習に欠かさず参加していたし、チームメイトの輪を乱すこともしなかった。二年生になれば、ときどき試合に出してもらえるようになるかもしれない、という未来も見え始めていた。
私は一年生の最終学期、突然練習に行かなくなった。退部届を出したかどうかも覚えていないけれど、二年生からは全く部活に行かなかったことだけは確かだ。
単純に、どれだけ地道に頑張っても花形選手にはなれないと気づいていたから、努力するのが面倒になったのかもしれない。
ただ、そんなことは入ったばかりの頃にとっくに気づいていたはずなのに、なぜ一年続けた後で?という疑問は残る。
今でも古い付き合いの友達に「どうしてあんなことしたの?(とてもうまくいってるように見えたのに)」と言われてしまう出来事の一つで、一番古いものであるのは間違いない。
それ以前もちらほらと、小学校の読書クラブや、公民館の児童クラブ、友達に借りたゲームカセットで、似たようなことはあった気がするが、全て挙げていればキリがない。
二年生から受験のことは意識して勉強していたので、滑り止めの私立にはあっさりと合格して、本命の国公立大大学の前期試験に挑んだ。
父親はお前の好きにすればいいと言ってくれたけれど、母親は過保護なところがあったので、地元に残って実家から通って欲しいという願望(つまりは、第一志望には受からないで欲しい)が見え隠れしていた。
そんな母に実は気の引けるところがあって、あんなことをしたのだろうかと、ときどき振り返って考えることがある。
だけどそれはおかしい、と同時に思う。
結局私は後期試験で県外の第二志望の国公立大学に合格し、結局実家を離れることになったのだから。
前期試験のあの日、あの一瞬だけ、気持ちが揺らいだのだろうか?
自信はあった。
試験範囲の勉強は計画通りきちんと終えていたし、模試でもA判定かB判定が安定して取れていた。
今でも思う、あの日、あんなことをしなければ、多分50%くらいの確率で、試験には受かっていた。
第一志望と、後期で入った第二志望の大学は、だらちも国公立大学だったけれど、知名度と規模の点で大きく違いがあった。
もし、合格して、入学していたら、大げさでなく人生が変わっていたかもしれない。
そうしたら、今日こんな風にズル休みしてこの文章を書いていることもなかったかもしれない。
しかし、私がその正門の内側に入ることはなかった。
受験生に向けて、いろいろなパンフレットや、サークルのチラシを配っている学生や大人たちが待ち構えている花道を、私は通らなかった。
大学の正門前、最後の横断歩道を渡る前で私は立ち尽くし、しばらくそこで考えた後、踵を返して駅に戻った。
駅のトイレでしばらく座ってぼんやりしている内に、試験の着席時間が過ぎていった。
それでも、トイレから出て走って会場に向かえば間に合ったと思うが、私はそうしなかった。
駅のコンビニで、実際遅刻して走って会場に向かう他の受験生を見守って、完全に試験の開始時刻に間に合わなくなった頃に、電車に乗って、ホテルまで引き返した。
県外の大学だったので、受験会場のホテルに前日から泊まり込むことにしたのだが、家族はついてきていなかった。
好きなアーティストのライブを見るために、一人で遠征することには慣れていたのもあって、親の同伴を断ったのだ。
少しだけ後悔している。
きっと母親とホテルに一緒に泊まっていた、会場まで見届けられていたら、流石にあんなことは出来なかっただろうから。
私はやってしまった。
ホテルの部屋に帰ってきてから事の重大性に気付いて慌てて、色々な言い訳を考えたが、学校に行くのをサボったわけではないので、試験会場に行かなかったことが、学校にも親にもバレることはなかった。
感想を聞かれたら、「あんまりできなかった。落ちたかも」とだけ繰り返した。
同じ高校で同じ学部を受けた子はいなかったので、試験内容について詳しく聞かれてバレることもなかった。
受験発表の日、ネットで番号がないのを先生と確認して、「ああ、落ちちゃったんだね」で終わりだった。
月日が経って、時効かなと思えるようになって、友達にこの話をしたことはあるが、半信半疑だった。
長い間志望校合格に向けてがんばっていたから、はっきりと不合格の通知を受け取るのが怖くて逃げたのかもしれない。
思い当たることがあるとすればあと一つだけ。
学生の頃、留学資金を貯めるために、半年休学して工場で働いていたことがある。
いわゆる交代制シフトで深夜も稼働している工場で、かなりキツかったが、無遅刻無欠席で頑張っていた。
短期で来る人は流れ者のようなだらしない人も多かったから、班長からも信頼されて、普通は社員しか触らない機械の整備もさせてもらったりしていた。
大学辞めてこのまま就職しないか、なんて誘われたりもしていた。
さらさらその気はなく、期間満了までしっかり働いて、爽やかに終われたら、と考えていた。
その最後の週だった。
作業中、絶対に押してはいけないと言われていたボタンがあった。
大型の機械には事故防止のための緊急停止ボタンがそこら中に設置されているのだが、中でも、本当に緊急のとき(例えば腕が切断されそうになった、とか)以外は絶対押すなと言われていた、装置全体の非常停止スイッチがあった。
他の停止ボタンと違って、プラスチックのカバーで覆われていて、簡単には押せないようになっている。
この手の緊急停止スイッチは、いわゆる強制シャットダウンをするので、再び機械を稼働させる前にメンテナンスが必要になり、その間はラインを停止させることになる。
一部だけが停止されるスイッチならば、20〜30分程度で復旧できるが、全体を止めてしまう非常停止スイッチを押してしまうと、一日作業が再開できないこともある。
そうすると、当然のことながら生産に遅延が発生して、多大な損害が生まれる。
これをして頭を抱えるのはお世話になった班長だ。
班長は私には親切にしてくれていたが、短気で気分屋なところがあって、前に契約社員が一部の動きを止める緊急停止スイッチを間違って押してしまったときは、手もつけられないくらい荒れていた。
上からのストレスが相当あるのだろう。パワハラ と取れるような発言も飛び出して、結局その契約社員は期間満了を待たず仕事を辞めた。
それより更に悪い、全体の非常停止ボタンなど、押していいはずがないのだ。
私はそれを班長のそばで、班長の話を聞いて、誰よりも理解していた。
そして、一部停止のボタンを押すこともなく、これまで真面目に勤務してきた。
もうここまで来ればわかるだろうが、私は最後の週にそのボタンを押した。
プラスチックのカバーを外し、そのボタンを押すところを、誰にも見られないようにやったつもりだったが、他の作業員に見られていた。
班長は結局、(私がしどろもどろの言い訳をした後で)pわざとやったわけじゃないんだろうと許してくれたが、後でその目撃者に、何であんなことしたんだと尋ねられて、私は答えられなかった。
その日の作業ができなくなって、社員以外は帰されることになり、ロッカールームで着替えている時に、聞かれたのだが、当然答えることができず、無言を貫いた。
その内相手は苛立ち始め、覗き込むように私を見た。
私は残りの着替えもおざなりに、荷物を全て持ってロッカーを出た。
流石に外までは追いかけてこなかった。
そのまま逃げるように家に帰り、次の日から工場には行かなかった。
いわゆる「飛び」だった。
最低最悪なことをしてしまった。
それは、「私は本当はすごく悪い人間なのではないか」という不安だった。
理由もなくこんなことをしてしまうなんて、そんなことがあっていいはずがない。
ただの怠惰や、逃避癖を超えた、もっと悪い何かが私の中に根付いていて、一生そのせいで私は周囲に迷惑をかけ続けるのだと思った。
怖かった。
とにかく怖くて怖くて堪らなくて、就職活動中、たくさん適性検査という性格診断のようなものを受けさせられるものだから、この検査とやらで、私のその何か悪いものが見破られて、私はどこの企業にも就職することはできないのではないかと思うとさらに怖かった。
実際は、適性検査のタイミングで不合格となることはほとんどなく、まわりと比べて大した遅くもない時期に無事内定をもらえたのだが、そのときの自分にはそれが奇跡に思えた。
入社してからは嫌な上司に当たったり、苦労することも多かったが、今は待遇面で満足もしている。
こんな状況下でも収入は安定しているし、今の上司に感じている恩義も深い。
自分は何か物事がうまくいきかけると、自ら全て台無しにしてしまう癖がある。
きっとこの会社もせっかく入ったのにそんな理由で、最悪の辞め方をしてしまいそうで怖い。
何があっても、三年は絶対に続けよう。そう決めていた。
そして今年の四月で、見事それを達成した。
ああ治ったんだ、と私は思った。
私はもう、大丈夫なんだ。普通の人と同じように、最後まで頑張ることができる。人を裏切ったりもしない。逃げたりしない。もう大丈夫だ。
その自信が私を強くして、責任を持って仕事をできるようになってからは毎日が楽しかった。
今日も、連休前に済ませたい仕事がいくつかあって、それを終えれば長いお盆休みに入れたのだ。
それなのに、私はまたやってしまった。
朝はいつもより少し早く起きて、サボりがちな朝食も食べる時間があった。
会社に行く用意は前日からしてあって、あとは外に出るだけだった。
私は時間になっても、家の机に座ったままだった。
一人暮らしなので、誰かがそれを指摘することもない。
会社の始業時刻は朝9時だけれど、営業は直行直帰が多いのと、フレックスで事前の申請があれば11時までに行けばいいというルールもあるので、9時の段階ではまず誰からも連絡はなかった。
申請は出していないけど出し忘れたと言い訳すればいい。11時までに行こう、と私は思った。
11時を過ぎて、まずい、と思った。
遅刻するだとか、体調不良で休むだとか、連絡をするならこれが最後のチャンスだ。
それを嵌めて、今日もいつものように出社するつもりだったのだ。
ほんの数時間前までは。
私はじわじわと、これもまた「同じ」なのだと気づき始めていた。
怠惰なのか、逃避なのか、わからないが、自らうまくいっているものを台無しにしてしまう癖。
治っていなかったのだ。
三年が終わったので、気が緩んでいたのだ。
ああこの会社は本当に、私を雇ったのは間違いだった。
この病気は一生治らない。
発達障害だとか、そういう診断をしてくれるクリニックに行ったこともあるが、自分を責めすぎないでと言われて抑うつ剤を出されて終わりだった。
たとえ発達障害が原因だとしても、治療法はないのだから一生この自分の悪癖と付き合っていくしかないのだ。
ああ自分を責めるなと言われても、こんな風に周囲の人の信頼を裏切ることを繰り返してしまうのはやっぱり私が悪い人間である証明ではないか。
ああ怖い。
恐ろしい。
いっそ死にたい。
上司は午前中は外出の予定があったから、メールさえ家から送れば、すれ違いだと思われておしまいかもしれない。
明日からはお盆休みだから、休み明けに何食わぬ顔で出社すれば案外バレないものなのかもしれない。
しかし、私がまた「やってしまった」ということに変わりはない。
私が「そういう人間」だということに変わりはない。
私は
私は……
近々のことなので文体の乱れは心の乱れを反映しているということで、どうかご勘弁を。ライヴ感というやつ。障がい者の解雇増などのニュースに触れ、ふと思い立ち記録する。
・主催者側が手話通訳や筆記者などを用意しており、希望により同伴可能だった。
・企業側の採用担当者も様々な障害とその特性について学んでいる様子で、インタビュイーへの配慮が見てとれた。
・面接会場と、志望者の列が近く、内容が筒抜けだった。恐らくコロナ対策でオープンブースだったんだろうが、気後れした志望者も多かったのではないか。
・参加企業の数に対し、志望者が過供給。希望する企業の面接を受けられない志望者もかなりいた様子。
さて、ここからは私の面接の様子である。ファンタジーなので真に受けないでほしい。直前の申し込みだったので、採用した戦術は、やる気·元気·いわきと英語がんばりましたアピールである。持たざるものにはこれしかないと思ってよ......
「元々、海外で働きたくてTOEFLの対策などをしていました。その過程でTOEICもぼちぼちの点数になりまして。でもコロナ禍以降、諸事情あり、TOEFLの受験や海外という選択肢自体も難しくなりまして。」
――うちは今回は事務だけになるんですけど、のちの評価次第ではスキルに合わせた配置もあり得ます。ただ外国の方と対面してやり取りするようなポジションを用意するのは難しいかも知れません。
「御社が提供しているサービスの性格を踏まえても、現状のインバウンドの激減は影響が大きいものかと思いますし、その事による英語話者の需要低下もありますよね。また、健康リスクを抱えたものを窓口に配置するのは、やはり難しさもありますよね(ザ庶務な求人多めだなー)」
――......あれ、入学と卒業時期のずれがありますね。前期卒業予定とは?あと出身高校などの記載がありませんが。
「恥ずかしながら元々引きこもりでして、中学、高校に通っていませんでした。20代前半に高認(旧大検)を取得し、非正規雇用で働きながら放送大学のサテライトで受講生として学ぶようになりました。その後、学習を継続したいという思いから地元の夜間大学に入学しました。
20代後半になって、職場での不適応を自覚し通院を始めました。発達障害の診断を受けたのですが、それがちょうど4年次のことでして。そのタイミングで1年半ほど休学したので、卒業が遅れました。初診時は若干の抑うつ状態もあったかと思いますが、現時点では主観的に、また主治医の見解においても、そういった抑うつなどの二次障害はありません(元気アピール)」
「学部は○○学部となっており、○○にまつわることを幅広く(i.e. 浅く広く)学びました。また語学への関心から、英語で提供される留学生混合の講義や、国際協力のゼミなどに参加しました。」
「NetflixやYoutubeの活用や、TOEFLの対策などを通じて学んできました。ある程度、スピーキングが上達したのはオンライン英会話や、英語話者と1年半暮らしていたことも大きかったと思います。」
「発達障害です。障害特性上、マルチタスクやタスク管理が苦手です。また仕事における正確性にも問題があります。個人単位でToDoリストの作成や、タスクの段階的な処理、レビュー回数を増やす、などの注意を払っていますが、それでもミスを完全に無くすことは困難です。職場に望むのは、上記した特性を踏まえた仕事の割り当て、またミスなどのチェック機能です。」
「基本的に私ができる仕事なら、どのような仕事でもやりたいと思っています。正直に言うと、非正規での経験しかないので、適性が分からない部分もあります。これまで経験したのは主にサービス業ですが、その中でも向き不向きはあったように思います。
願わくは英語を活かしたいですし、その方が生産性を発揮できるのではないか、とも思いますが、絶対条件ではありません。ただ法定雇用率を満たすため、という以上の付加価値を多少なりとも生産できるような仕事をしたいです。」
――では、まだ並んでいる方もいますので、この辺で。本日は有難う御座いました。結果に関しては一月以内にお知らせします。
こうして私の障害者就労1stラウンドは惨敗に終わった。じきにお祈りされるのだと言う確信を得て会場を後にした。帰り道に蕎麦屋があって心底すくわれた。麺つゆでひたひたにしたかき揚げで、唇をうるおすと少し回復するものがあった。ゆで太郎はえらいんだ。麺つゆは大人のエナジードリンク、萎れた中年につばさを授ける。
反省点は下記の通り。多分、傍から見たらもっと、もーーーっとたくさんある。
・ 面接が下手
みんな、すらすら御社とか言えて偉すぎ。1000本ノックの必要性。
・人生が下手
中年に差し掛かろうという年齢にも関わらず、新卒枠を狙わざる得ない痛さ。元ヒキで小卒で発達でアラサーが新卒(予定)とかいろいろな要素が合体事故なのよ。
・準備不足
直前に知ってアプライとか舐め過ぎ。勢いで合同面接会いくやつはしぬ。おれが生きた証拠だ(しんでいる)
もー、コロナやりすぎだよう。あとDeepLしゅごすぎだよう。。
・覚悟のなさ
銭のためなら、滅私奉公という精神に欠けた。年齢、職歴等、諸事情によるニーズのなさは踏まえた上で面接に望まないとね...... このご時世、売れたら儲けものよね......
小卒発達障害者の就活 to be continuedということで、まぁ、がんばりますね。結局がんばるか、がんばるの二択なのでがんばる。俺はシュレッダー担当になるっっ!重要文書を紛失するのは得意なので働かせてください!!
7/25、早朝。
死ぬなら今だ!
意を決してバンジージャンプを飛ぶように。
紐はないが。
そのときは「何もかもうまくいかない。死ぬしかない。」と悲壮感が強かった。追い詰められていた。
だが、うっかり衝動的にやらかしそうで怖いな、という感覚だけが残る。
寝ぼけているうちになにかをなにかして、なにかしているかもしれない。
酷い抑うつ状態のような、「もうだめだ、でも死なない、死なない」という抑止力がない。
死んだら楽になれるとか、もう終わりにしたいとかまったくない。
ただただ、バンジージャンプを飛ぶような爽快感しかないのだ。紐はないけど。
しばらく気をつけながら生活しようと思う。
おしまい。
今年22歳になる。同級生達は大学4年生で就活真っ只中だ。もう進路が決まった人もそれなりにいるだろう。
私には夢がある。それは普通の人になることだ。仕事に行って、パソコンの前に座って仕事をして、同僚や上司と他愛ない話をして、多くなくていいからお給料を貰って、そのお金から税金を払って、生活をしていく。一般的に想定されるような、なんてことないOLになりたい。
でも多分なれない。タイトルにも書いてある通り、一度腐った人間だから。
思えば挫折は高校三年生の時から始まっていた。勉強が好きだったから進学校と呼ばれる高校で受験勉強を頑張っていたけど、家が貧乏で進学を断念した。
こう言うと聞こえはいいけれど、今時貧乏でも母子家庭でも奨学金を借りてバイトもしながら苦学生をやっている人なんて珍しくもない。私は勉強は好きだったけれど分野を絞ることが出来ず、かつ多額の奨学金を借りることにどうしても抵抗があり(高三時点で社会不適合者の自覚があり、ちゃんと就職して返済できる自信がなかった)、一言で言えば気概のない子供だった。
高校を出ていくつかバイトを経験したあと派遣社員として1年ほど働いていたが、セクハラとパワハラの多い職場で、気概のない私は最終的に抑うつになって辞職した。
派遣社員だった頃、中国語の歌にハマったことが理由で中国語の勉強を始めた。前向きに取り組めることがあることが嬉しくて、独学だったけど勉強はどんどん進んだ。大した資格ではないが、勉強を始めてから1年くらいである中国語資格の最高級を取った。Skypeの講座を取り、会話練習も欠かさない。
中国語の勉強を楽しむ自分がいる一方で、社会と接するときの自分はどんどん腐っていった。
派遣社員を辞めたあと、どうしても働きたくなかったけど生きていくために働かなきゃいけなかった私は、風俗で仕事を始めた。ブサイクだけど若いから受かった。
中国語をやりながら、デリヘルで働いた。最終的にソープで働きはじめ処女を喪失した。
中国語のレッスンで自己紹介をする時、職業を偽らなければいけないのが虚しかった。
手垢のつきまくった言葉だけど、客とセックスするたび気が狂って叫び出したくなった。薬を飲んで仕事に行き、待機中はずっと勉強をした。待機室でよく一緒になった実家暮らしの女子大生に真面目だと褒められた。鬱は悪化し続けた。
鬱の悪化と同時に、なぜか語学の勉強をしたいという気持ちがどんどん強くなった。中国に留学するか日本で進学するかで悩んだが、英語に興味が湧いており、普通の人のように就職をしたかった私は国際系の専門学校に進むことにした。
収入が途絶えたら死ぬから風俗は続けた。セックスしながらまた勉強をした。大した資格ではないが英検準一級を取った。
あっという間に1年が経ち、いまは専門学校の2年生だ。鬱は治っていないが、ここでまともにならなければ一生まともになれないと思いながら就活に奮闘している。
気概もなければ誇れるものもないけど、語学の勉強だけは人並みくらいには頑張ってきた。中小企業だけを受けている。内定はひとつもない。
就職課の先生曰く、コロナウイルスの影響で、外国語が必要とされるような航空や観光業が軒並み採用中止となっている上、例年だと専門学生がメインに受けるような企業に四大生が受けに来ているらしく、国際系の専門学生は就職が厳しいらしい。
先生の話を聞きながら、たとえコロナがなくても私を採りたい企業なんてないだろうなと思った。
私は英語と中国語が話せる。それ以外で明確な専門分野はないけど、簿記やプログラミングの勉強はしたことがある。インキャだけど風俗で働いていたからコミュニケーション能力はある。派遣だけど事務で働いた経験もあるし、普通の接客とかのバイト経験もまあ豊富だ。人に感謝されたこともある。人に頼られたことも頼ったこともある。家事は自分でやるし身体を売って稼いだ金で学校に通い、家賃を払ってる。高校時代はしょぼい部活だけど部長もやってた。エクセルやワードの資格も取った。
それでも誰も私を採りたいと思わない。なぜなら一度腐った人間だから。
数年前まで自称進学校に通っていたが、正直人生で一番辛い時を過ごした。割と自業自得な所もあるから純粋な批判が見たい人はお勧めしない。
高校受験に落ちて補欠で取っていた自称進学校、A高校(Aはイニシャルではない)に通うことになった時、地元の中学では優等生と評価されていただけに悔しかった。地元はあまり頭のいい学区ではなかった。井の中の蛙になっていた。余裕かましてろくな努力もせず、勉強している自分に浸っていただけだった。
言われてみれば当然の仕打ちだったが、それでもしんどかった。自称進学校特有のわけわからん泊まり込みのクソ長オリエンテーションでは大縄跳びをやらされた記憶と、朝昼晩の山盛りの食事に打ちのめされて、帰ってから1、2ヵ月摂食障害になった記憶しかない。摂食障害は最悪だ。食べられないが腹が減る。だから授業中に腹の音が鳴らないか心配だった。笑い飛ばせるタイプでもなかった。そして、精神が弱いと蔑む親の目が何より怖かった。
授業中には普通に喋るようなやつがいるし、超が付くほどのバカもいた。なのに教師は某有名進学校で使っているテキストをやらせていた。数学なんかこのテキストで挫折した人間いっぱいいると思う。国公立目指してるくせに生徒の使える教科減らしちゃマズいだろ。受験期には10時間勉強しろと急かされた。何時間勉強した?が朝のお決まりの挨拶だった。正直、1年からちゃんとやれば10時間とかやんなくても私立ぐらい行ける(国公立は知らん)。3年になっても受験モードなんてほぼ感じられなかったから、実際合格発表は悲惨なもんだ。一握りの成績いいやつらが上げてただけ。クラスメイトのやる気のなさは自分にも影響する。周りが緩んでると自分を甘やかしてしまう。あと一人で勉強してる孤独感。中学受験は想像以上に大事だ。意外と大学受験に関わってくる。
学年集会が2~3か月に一回はあった。みんな大好き進研ゼミの業者が来たり、受験前の休みに入る直前の集会ではガッツポーズをさせられた。非常に冷める。
国公立推しはすごかった。学年で半分ぐらいの順位のやつがおだてられて国公立を志望していた。MARCH志望の俺より全然成績悪いやつがT葉大?笑ってしまう。
全教科平均で、特に苦手な教科もなかったから国公立を受験直前までしぶとく勧められた。本当に直前。私立オンリーだったが、センター受ける2週間前ぐらいまで地方国公立の出願用紙を渡された。確かに私立は厳しくなってきてたから、国公立を勧める理由もわかる。でもそれぐらいには信頼されてなかったってことだ。この学校側の不信感が、無能感と不安を何倍にも膨れ上がらせた。模試だけで機械的に判断され、自己肯定感が潰された。模試システムにも問題があると思う。受けさせられる模試は大体記述式。選択肢が多く、スピード重視の私立文系には合わなかった。そこで出た判定なんか信じちゃいけない。実際俺はE判の第一志望を受けて普通に受かった。なんなら全日程、個別日程どっちも。信じるべきは過去問がいかに出来てたかどうかだ。模試にあくせくするぐらいならやんない方がいい。過去問をやれ。
狂わせる、と書いたが狂ったのは俺だけかもしれない。だが、自分に合わない環境、教師による利益重視的な行動、不信感、孤独感、認められていない悔しさ。本当にしんどかったし、その抑うつ感情は今も続いている。あと教師とか生徒とか全てにおいて頭が悪かった。親御さんは高い金払って自称進学校なんかに行かせるメリットがない。それなら安全圏の公立高校に通わせるべきだ。
って、他人に怒ることがいかに無駄なのかということを体感した一週間だった。
以下の理由により、千葉県在住の俺は4月から始まった(それでも遅い)リモートワークを継続したい旨を上司に打診した。
・オフィス最寄りの駅でも(そしてオフィスと道を挟んで隣の商業施設でも)クラスタが発生した
なお、今月から全社員週3日は出勤するようお触れが出ている。理由は「対面によるコミュニケーションのため」。
例にもれず先週は出勤していたけれど、正直出たくなかったので始発で出勤→半休取って帰る、ということを繰り返していたけれど、無駄に有給を使いたくなかったので、上記のような申し出を先週上司へとぶつけた。
結論は「社長や役員含めて全員一旦は週3出勤と決めて出勤しているので特別扱いはできない」というものだった。
なんで分からないんだ、と、怒り狂って週末を迎えた。怒った反動でひどい抑うつ感で仕事にならないほど虚無の世界に閉じこもっていた。二日くらい。
社内には未婚既婚子なし子持ちとさまざまな立場な人がいる。俺は未婚子なしの恋人持ちだけど、周りに感染させるとかの前にそもそも俺が罹患したくない。
健康的な人だって重篤化することがある。「軽症」って表記されている人の「軽症」はにこにこわらってネトフリ見てお菓子食うようなそんな楽なものじゃない。
呼吸がつらくて意識がもうろうとしてしまう、そんな症状する「軽症」。絶対なりたくない。
時差通勤OKって言ったって、この人混みじゃあいつ感染してもおかしくない。だから家の中に居たい。
そう言っているのに分かってもらえずに、怒り、落ち込み、ふさぎ込んだ一週間だった。
恋人に話を聞いてもらったら少し落ち着いて、「いや、もうこの会社やめよう。社員を守るつもりもないんだ」って思ったら楽になった。
どうしてわかってくれないんだ、って怒るより、とっとと離れた方が良い。それに気付いたのは心が少し元気になってからだった。
改めて上司には出社拒否をする旨の連絡と、リモートが許可されない場合は有給を取る旨の連絡を入れた。
世の中、こういう会社ばかりなんだろうなって思う。
東京都での1日あたりのコロナウイルスの感染者が100人を越えて、なんだか気持ちが落ち着かないので以前の事を書いてみようと思う。
7年前、癌の宣告を受け、手術をした。
その後長い抗がん剤治療が待っていた。
抗がん剤治療にも色々あるが、自分は通院で週3回受けて1週休み、それを6ヶ月間続けるというものだった。
意外に知らない人が多いのだか、抗がん剤治療中は白血球値が下がって免疫が弱まってしまうことが多い。
白血球値が下がりすぎて危険な状態にならないために、まず血液を取って白血球値を調べて、問題なければ抗がん剤治療をして、ダメならば次週に持ち越して白血球値が上がるのを待つ。
自分は白血球値がかなり下がってしまい、計18回の治療の間、「全く問題ないですよ」と言われたことは2回しかなかった。
病院に行っても「今日は無理ですね」と言われればそのまま帰るしかない。
医者からは免疫が下がっているので人ごみには行かず、外出時にはマスクをするようにと言われた。
1週だけでもきついが2週連続で治療を受けられなかった時は相当落ち込んだ。
当初半年だったはずの治療は伸びに伸びて、最終的には8ヶ月となった。
とにかく一日一日が長かった。
治療を受けられればまだ少しでも前進している実感があったが、受けられない時が続くと地獄だった。次の治療までの1週間が永遠のように長く思えた。
6ヶ月先とか、いったいどれだけ先なのか。
月に1回治療を受けるタイプの人は体調の良い時に出かけたりもすることがあるらしいと後で知ったが、自分は副作用もひどく、病院を往復する以外はたまに家の近所を散歩する程度だった。
病気を心配した母親が田舎から出て来て身の回りの世話をしてくれたが、それも良し悪しで、心配のあまり家から一歩も出すまいとした。
10分程度の散歩に行くのすら、今日は暑すぎるだの寒すぎるだの顔色が悪いだの、何かと難癖をつけては阻止しようとした。
ちょっと遠回りして帰るのが遅くなるとスマホに電話が掛かってきたこともある。
帰ると「どこかお店にでも入ったんじゃないでしょうね」と詰問された。
何もすることがなかった。
でも、今、コロナで自粛を続けて不安を感じても相談に乗ってくれるカウンセラーがいないのと同じように、自分にも相談する相手はいなかった。
日本はそういう面では遅れているのだと思う。
抗がん剤治療中の患者の心のケアをしてくれる専門家はいないのだ。
友人には「神様がくれた休暇だと思ってゆっくり休んで」と言われたが、何をバカなことを言っているんだと思った。
自分の癌は再発したら助からないのだということはわかっていた。
希望などどこにもなかった。
当時の自分と今のコロナ渦の状況と比べてどちらがどうということもないと思う。
全世界で同時に人々が災厄に見舞われてるこの状況は大変なことだ。
周りはみんな元気だった。
Twitterで目にした「スタバでカフェラテ中」という書き込みが胸に突き刺さった。
やがてTwitterも見なくなった。
散歩でいく公園から見える遠くの線路を眺めながら、自分はあの電車に乗って出かけることもできないと泣いた。
少なくとも今はみんなが同じように苦労をしていて、その気持ちを共有することができる。
それはすごいことだと思う。
8ヵ月の治療の間、いつかはそれが終わり、また社会に戻ることができるという事がどうしてもイメージできなかった。
それが実感できたのは治療が終わる1週間前だ。
暇つぶしに見ているどうでもいいバラエティ番組の次週の予告を見て、ふと「そうか、来週のこの時間は治療が終わっているんだ」と気づいた。
勤めていた職場が休職扱いにして待っていてくれたというのも大きかった。
誰かに仕事を与えるというのは生きる希望を与えるということなのだ。
職場に復帰した初日、帰りの電車の中で、車窓を流れる景色をずっと眺めていたことを今でも覚えている。
川沿いにならぶマンションに夜の明かりが灯って、それが水面に映って揺れていた。
こんなにも世界は美しくて輝いているのか。
治療中「行ってみたいところ」と書き出していたところを毎週末訪れて、全部まわるのに半年かかった。
ずっと夢見ていたのは、世界のどこかに絶景を見に行くとかではなく、普通の日常に戻ることだった。
朝起きて、行くところがあるというのは素晴らしいことだ。
ドアを開けてどこでも行きたいところに行けるということは本当に素晴らしいことだ。
きっと日本にもこれからもっともっと大変な状況が訪れるのだろう。
たとえ乗り切れたとしてもその先にどんな世界が待っているのかわからない。
そして今現在も抗がん剤治療を受けいてる人はたくさんいる。その人たちはどんなに不安に毎日を過ごしているだろう。
それがどれぐらい先かわからない。
まだ光は見えないけれど、いつかこの困難を乗り越えて、普通の日々を取り戻す時がやってくる。
その時ドアを開けたら、輝いている世界がきっと待っているのだろう。
グッドラック。
ずっとクソ恋愛サーキュレーションサイトを眺めてる
俺、大学4年、22歳、中高男子校、4月から就職、1月にフラれた。
元カノ、同級生、6ヶ月ちょっと付き合った、俺ははじめて関係持った相手、プライドは自他ともに認める高さ、顔面偏差値は元カノ<俺。
年末からちょっと相手の態度がおかしくなる。年明けにちょっと電話して話す。その後数回デートも距離を置かれるような感じ。関係改善の電話をしたところそこで別れを切り出される。
俺、一月から不安でちょっと体調崩す(彼女への連絡とかは従来通りの頻度)。別れを切り出され向こうの意思が固く、数日後に直接会って別れる。別れを切り出されてから眠れない、食欲が沸かない、何もできない等の症状で精神科に行き適応障害気味重度の抑鬱状態との診断、抗不安薬と睡眠薬をもらう。ここまではちょっと重い恋愛としてある話。
元カノは親しい友達でいたい、SNSをブロックしたりするのは嫌だと主張。それは相手を傷つける別れ方だと言ったがそれでも私はそうしたいと言ってきたので渋々了承。
フラれた理由は「俺が優しすぎる」「申し訳なさで恋愛感情がなくなった」とか、まあ向こうはあーだこーだ言ってるけど不一致だったんでしょう(一般的に見て俺に悪いところはないらしい)。俺はそれでもめっちゃ好きだったから本当に凹んだ、あんまり恋愛をちゃんとしてこなかったのもある。卒業のためにめっちゃ勉強教えたんだけどな。
元々他の人に言ってなかった恋愛だったので他の人に言うなよと言われた。自分一人で凹めと。
1ヶ月くらい抗不安薬を飲みつつSNSは極力見ないようにして、その状態で安定していた。元カノに対して特にメッセージ等は送らず。インスタもTwitterも相手のものは見ないようにしていた(傷つくからね)。毎日予定入れて友達と会ってた、親友にはカムフラージュしてフラれて辛い話をした。本当にしんどい日々だった。
数日前に卒業式に関するお達しが大学からでた。その時にインスタを見たらまだ友達だった(元カノも俺も鍵)。
で今日見たらインスタのFFが外れていた(ブロ解)、Twitterも同様。俺、再度抑鬱状態になる。抗不安薬服用。卒業式がなくなって会わなくなったからなのか。けどLINEと顔本は無事、何故?
あれだけ向こうが嫌だと言ったから我慢していたSNSの交流を経つのを、それでも慣れようとしていたところで向こうからやってくるとは、死体蹴りもいいところ。
そうなってくると向こうが別れる時に言っていたいろんなことが信用できなくなる。あげた/もらったものに罪はない、とか、しばらく彼氏は作る気ない、とか諸々が全て嘘だったように思えてくる。俺が最後まで信じようとした言葉を簡単に裏切ってきたのがとても辛い。もちろん初めて関係持った相手だし普通にすごい好きだったから執着している節はあるんだろうけど、人はこんなにも簡単に他人を傷つけられるのか。何を考えているのかさっぱりわからなくてずっとクソ恋愛サーキュレーションサイトを眺めてる。食欲もわかない。
俺は元カノが大好きだった。合わないのはわかってたけど大好きだったし、最初ぞっこんだったのは向こうだった、けどだんだん俺が好きになった。
ここ1ヶ月くらい頑張って気を紛らわして、たぶん復縁してもうまくいかないし(そもそも復縁できないだろうけど)だから前を向こうと必死になってた。
けどやっぱりちょっと気になってしまってたところを、顔面に壮大な裏切りを喰らった感じ。いや別に結局見ないからいいんだけど、わざわざ俺を傷つけたいのか...。
元カノは一体何を考えているんだ。
家にいると延々とインスタントコーヒーを飲み続けてしまうので、空になったのを機にネスカフェのカフェインレスに替えてみた
それから数日経ったけど片頭痛がひどくてググったら、カフェイン中毒 - Wikipedia の離脱症状にがっつり当てはまってて「ああ…カフェイン中毒だったのか…」と納得している
摂取を中断した場合の離脱症状としては頭痛が一般的であり、12 - 48時間以内に出現し、2 - 4日以内に消退する。他の症状としては眠気、集中力の減退、疲労感、不安、抑うつ、運動遂行能力の低下、発汗、吐き気(嘔気)、カフェイン摂取の渇望などがある[11]。禁断性の片頭痛に対しては鎮痛薬で対応できるが、通常短期間(数日)のうちにすべて治まる。一般用医薬品の鎮痛剤には、カフェインも含まれている場合がある。
頭痛だけじゃなくて、前ほどコーヒーを飲みたいと思わないのもカフェイン中毒の現れだったせいか~ なるほどな~(ネスカフェのカフェインレスコーヒー、味はちゃんと美味しいんだよ)
俺は苦労して医者になった。
両親は高卒で、片方は貧困のため仕方なく、もう片方は学力的に、それぞれの理由で大学進学を諦めて働いていた。
俺はそんな両親の長男で、田舎レベルではあるけれど、そこそこの頭の良さと、かけられた期待のおかげで、それなりに優秀と言われて育った。(親戚は高卒だらけだったが、唯一旧帝大卒のおじさんがいてそれを目標に、とか言われていた)
共働きで働いていた両親に変わって、母代わりの祖母が家にいて俺はよく慕っていた。祖母のお茶飲み友だちにもお前は頭がいいと褒められていた。
俺が小学校低学年の夏、その祖母が交通事故で重傷(ちなみにこれは医学用語ではない)を負ってから、俺は医師になることにした。小学校の卒業文集には未来の「増田医院」の話を書いた。
中高時代のことは面倒だから省くが、俺は医学部には入れなかった。偏差値が5以上足りなかった。通える範囲の地域で一番の進学校だったけれど、現役で医学部に進学したのは4人(国公立3人、自治医1人)だった。
なんとか浪人させてもらえることになり、政令指定都市にうつり寮から予備校に通った。
結果から言えば、俺は医学部には入れなかった。2浪はできないので、センター試験で85%以上なければ医学部は受験しないと両親と約束したからだった(具体的には84%に止まった。全統記述は偏差値67程度だったので、無理はできなかった)。俺と同程度の偏差値の奴らが少々の国公立医学部に受かっていった。俺より悪い成績の奴らがいくつかの私立医学部に受かっていった。俺は俺でも受かりうるレベルの私立医が3000-5000万の学費がないと通えないことに絶望を覚えた。(当時、帝京大医学部の学費は4900万くらいだった)
やりたいこともなかったが、旧帝大の工学部に合格したので進学した。
やりたいことがなかったので、1年生のときは単位をほとんど取らなかった。「旧帝大の工学部」の合格ごときで喜んだ両親をなぜか恥ずかしいと思っていた。2年目は休学した。休学して再受験しようと思ったけど、思っただけで、びっくりするほど何もできなかった(抑うつ的だったし、適応障害的だったなあと振り返って思う)。
復学してからは進級できて、そのまま4年生になり、大震災があり、思うところがあり、残り10ヶ月の期間だけ勉強して医学部を目指すことにした。両親には黙っていた。予備校には通えなかった。教授には2ヶ月後の記述模試でA判定を出さなければ受験を認めない、と言われた。3ヶ月後、教授から受験の許しを得、両親に黙ったまま勉強を続けた。
お金がなく、模試も全部で4個くらいしか受けなかった。2万円弱のセンター試験の出願料だけでも生活費を圧迫した。1校6万円する私立医の併願など、もちろん念頭になかった。
国公立医学部を受けるとして、地方の受かりやすいところを探せば統計的には確実に受かりそうではあったが、遠くに受験しに行くお金はなかった。女性ではないので性別を理由にした入試差別を受けることはないが、再受験生は性別によらず差別のリスクがある。こういった差別的傾向は当時も医学部受験界隈でよく言われていて、そのため差別のない(と言われている)大学の医学部を受けることが再受験生の受験戦略となるのだった。こうした入試差別は、偏差値に比例してなくなっていくとされていた。旧帝大医学部は純粋な学力勝負ができる。俺はそのまま部屋から受験しに行ける旧帝大医学部を受験することにした。
前期試験一発勝負をして、約10日後「合格」の文字を見ることができた。
医学部生活は面倒だから省くが、一言でいえば普通に部活をし、遊び、勉強をした。留年することなく進級・卒業し国家試験にも合格した。俺は医師になれた。
研修医生活は本題ではないので省く。でもちょっとだけ言うとすれば、医師の労働環境は、人間のする働き方ではなかったということだ(俺は比較的楽な方の研修だったが、週1,2回の連続30時間勤務や25連勤でもう無理だと思ってしまった)。女性医師は出産や育休で労働時間がああだこうだと言っている人がいるけど、この働き方は男でも無理である。東京は医師が多いのでまだ余裕があるが、俺の出身地方はすでに医師がどんどん減ってきており、崩壊は当然に時間の問題である。医師の使命感と根性で成り立っている地方は特に女性医師にやさしい環境ではないし、女性医師にやさしい環境でない地域は女性医師が残らないので、つまり男性医師も残らないか人柱になって折れるのを待つだけだろう。