はてなキーワード: 品格とは
ファブリーズの件もそうだが、今の日本は「超潔癖主義」に蝕まれすぎではないかと思う。くさやが臭いのは誰がどう考えても事実なので、地元はこのCMに便乗するくらいでいいと思う。
何かにつけて「地域差別ガー」というバカにはあきれてしまうが、つまるところ地域の抱える不都合な事実を外部が指摘することを拒絶するけつの穴が小さい子供である。それこそ、彼らの好きな言葉を借りれば「言論弾圧愛好家」ではないか。文化や社会には二面性がある。
私が生まれて間もない頃の話だが、1980年代~1990年代の鉄道文化が洗練されていたという話題がSNSや掲示板で流行している。はっきり言って、不良が巣を作りそうな文化がそこにあったわけだが、それでも鉄道ファンは誇らしく思う。「鉄道王国」も日本文化だと自尊心を持っているはずだ。
本来文化・社会性とはそういうものではないか。2000年代の新自由主義旋風だって文化や科学技術などの高度化の裏に犯罪の高度化や富裕層人口のインフレの問題もあった。2010年代も1960年代の再来のようなのムードの裏に貧困問題があった。オートバイブームの裏にはシビアな封建もあった。
オタクが今日社会全般で受け入れられているという。あれといえば、昭和の負の遺産にもかかわらず迷惑者が誰も輩出しなかったことを「世界に誇る日陰者」と自画自賛する書き込みが拡散されたことが多くの人に衝撃を与えたものだった。案の定、オタク自身の努力で出世が実現するとスゴイ発言まみれになった。
冷静に考えてほしいのだが、同じ大衆の同胞であるべき人達がそれと村八分にされる時点で、そもそもすごくなんてないのである。そもそもオタクとは昭和時代の学歴社会化実験の失敗に伴いヤンキーと共に発生した負の遺産である。本来ここで必要な発想は、負の歴史として再発防止策を考えることであり、恥かしく思うべきことである。
仮にもしオタクがすごかったとしてもそれは個人個人がすごいのであってオタクはすごくないのである。社会が立派だったとしても、それは日本人の寛容性のことである。もしあなたが大衆の一員であれば、さほど無関係ではないか。
私は「オタクスゴイ」とそっくりな問題を抱えているのが「マイルドヤンキー」ではないかと思っている。地方のリア充の話題が出ると、なぜか不良とこじつけた話題が出てくる。不良とは縁のない人でもヤンキーのように扱われる、あの変な社会の空気である。
当たり前だが、リア充すべてが悪人なわけではない。大体ヤンキーの本来の意味は実は汚い。もともとはアメリカ人の白人を罵る言葉として生まれたものだ。ジャップと同じ意味合いでアメリカ人が「ヤ○○」の言葉を使うものとしてとらえてほしい。
マイルドヤンキーに代わる言葉はあるだろ。とんでもなくダサそうな文化を謳歌しているのは一握りの地方民のうちの一部とか、不良経験者だけではないかと思う。あのグダポンの撒き散らす固定概念への批判としてもいうが、私は地方を何度も見てきたが、北関東でもマイルドヤンキーなんて一握りの数しかいなかったよ。
そもそもマイルドヤンキーの言葉の根底に都会人による地方人への偏見がある。車好きを例に挙げるまでもなく、外国には日本人が思い浮かべる都市部の人間は殆どいない。むしろマイルドヤンキーの特徴として挙げられる、「買い物先でショッピングセンターに依存している」人は日本を出れば都市部ですら腐るほどいる。国土全体で鉄道依存社会が成り立つ国は、日本を除けば、オランダみたいな地形に恵まれる地域やシンガポールのような都市国家以外にない。
私はこの潔癖の究極が「子供」至上主義だと思う。日本人はみな車嫌いで鉄道好きというおかしな風潮も、子供のために嗜好を装う仕草だという。必死すぎる。大人な人は、それが普通ならしょうがないと受け入れるべきではないか。一番ひどいのは私鉄だ。
子供は日本人の美徳だと、道徳的な人を表す言葉として普及しているが、これはあの押しつけがましい「道徳」と同じうさん臭さを感じて、私は不気味に思っていることである。子供って要は非現実的理想の追求であり、病気だ。
そもそも日本の私鉄社会の根源は鉄道の公有化の失敗だとか戦争の連続による財政難だとか、歴史上におけるネガティブなものの副産物である。今でも「幼稚」とかいう。それはつまり堂々とした対等な存在としてリスペクトするものではなく、結局これは子供なる年齢を使った言葉で「恵まれない現実にある人達」を見下している、前時代的な、差別を連想する表現である。
欧米圏を見ればわかるように、鉄道は弱者というか、つまりよそ者、あるいは貧乏人や弱者のためにある公共施設であって、所得関係なしに使うことをよしとする、ましてや商売の道具としてみなす日本はおかしいのである。
一昔前ですら日本ではここまで「子供」はうるさくなかった。子供は大人らしい事由で成熟した男女を目指した途上段階であり、気づけば加齢で大人になっていた、あるいは10代ですでに見た目も中身も大人同然という人もごろごろいて、それがわずか15年ほど昔までの常識だった。
あるいは「リア充な美しい大人は好きですか」というように、青年性を脱した兄や姉であるべきだった。正しさではなく「美しさ」が評価された。この美しさという言葉自体清潔を意味するもので今の異常な潔癖主義に通じたのも、もちろん事実ではあるけどね。
特定の環境を聖域化し、あるいは特定の人を「聖人」化してみなし、それを潔癖性を極めた発想とともに崇拝し、潔癖と反する不都合な事実を見て見ぬふりをしたり、あるいは無理してでも隠蔽させようとしたり、それを指摘する存在を許さない、あの感覚。グダポンの言葉を借りればこれは畳精神である。
昔の高校を題材にした作品から黒髪すっぴんさんの描写を削減し、わざとそうでない人を代わりに差し替える。これも聖域を作る発想に由来することではないかと思っている。
その点、例えば私が韓国の学生をみて感動をしたのは、日本において学生というと黒髪が少ないイメージなのかもしれないが、実際には黒髪のおりこうさんが多くいたこと、そういう風潮がそこかしこにあったため、他人に緊張することがなかったからである。
バスの停留所で会話したローカルの若い女性は、なんかお茶目で、自分の生活圏にやってきた外国人を楽しませようというホスピタリティがあって、ものすごく魅力的だったが、やっぱり大人でオタクで、至上主義のない国のほうがよほど大人も魅力的だなと感じたのだった。
これは地方にも言える。マイルドヤンキーの連中なんてありゃ「普通のリア充か重度なオタク」だ。オタク?ってくらい偏執的で、大衆らしさに欠けている。いわゆる元ヤンさえ良くも悪くもリア充らしさがない(事実、彼らが外国に行くとサブカルオタク扱いになる)広い意味での問題なのだ。
日本に出てくるテレビのタレントには個性らしさがない。オタクがいない(例外はあるが)。根っこからのおりこうさんであることを売りにした俳優・声優がいないし、変わった趣味を売りにする者もいない。誰もがそうなるありのままもないし個人差もない。
これは、日本人の一定割合。どちらかといえば韓流ファン経験のある人たちで、同じくマイルドヤンキーか学がありそれなりに品格のあるような人が、ものの感じ方の成熟が遅れたことにあるんじゃないか、と私は思っている。子ども時代や貧乏なときは誰もが感性が幼稚で極端な理想を抱くものだ。
しかし、大人になり、10代になり、豊かになれば、あらゆる体験を通して現実を知るというか、様々な存在を知って、自分自身の肉体と考えの成長もあって、そういう非現実な理想を一度捨てることになると思う。代表が大学生における運転免許取得ラッシュだ。「免許取得者は学のない人のほうが多い」とか「都会人は一生免許と無縁」の虚構に気づく。
私達ネット原住民的には中二病とか高二病とも揶揄される、つまり冷笑主義にも陥るのだが、その現実・実在、不都合性を含めた事実の中にある魅力に気づき、そこから新しい夢を見出だしたりするのが、普通の諸外国ならハイティーンか遅くても20代で経験する段階で、日本人もかつてはそうだったのではないか。
そういうわけで、高学歴だろうと、立派な社会的地位にいようが、年齢が中高年だろうと、マイルドヤンキーと変わらないような潔癖主義の理想を振りかざして現実を拒絶したり自由な創造表現のユーモアを叩くあの感じは非常に納得がいかない。幼稚な人が多すぎる日本の現実がほんとつらいです。
(韓国などの例外を除く)外国のコンテンツは、優れた表現ほど徹底的に不都合な現実・事実に向き合っている。だが、それをただそのまま描いたり、不穏に誇張するだけではなく、そこから楽しさや夢を見出だそうとする傾向があると思う。その際にはお堅い因習を破ることになる。
だがその独創性の第一段階にある「お堅い因習を破ること」を全力否定するのがグダポンのいう「畳精神」であり、右派や私の言う「コリアニズム(文化的右傾化)」である。つまりどんな理不尽でもそれがしきたりで、その空間では聖域性を守るために自分が屈しなきゃいけないし、適応しない他者は咎めなきゃいけないという枷を兼ねた同調圧力も発生する。韓流ブームにものすごく親しんだ人ほど危ない。
ティーンエージャーになる前の現実離れした理想主義(と、それを理想を向けられた側がそのまま受けとめなければいけないということ)に畳精神やコリアニズムはとても相性がいいのである。新しい幼稚な感覚と、古い老いた因習をコラボさせると、アニメや漫画か特撮ドラマかビデオゲームまがいな、子供だヤンキーだという狂うジャパンがあふれるのである。
私が現代の日本はともかくとして一昔の韓流・華流コンテンツを敬遠したのは、アメリカのコンテンツとは違い、理想主義を極めたあのディズニーでさえ、そのテーマパークや映画などに「不都合な現実を受け入れた上でのイマジネーション」がないからだ。理不尽なものを批判的に描くこともなく、拒絶せずにそれを受け止めることすらしない。現実逃避ありきなのだ。
私の記憶する限り韓国や中国のテレビドラマやアニメには、日本人がネガティブ過ぎるとして驚いた自転車乗りの姿が描写されていない。1990年代や2000年代(2010年代)に日本型の暴走族が話題になったが、それを風刺するような作品は出てこない。当たり前だが韓国人や中国人のオタクを風刺するような作品もない(日本ですらオタク風刺作品はあるが)
そういう子どもたちはこうしたコンテンツの変わりに漫画や小説(ライトノベルを含む)やゲームのいかれた様子を見ることで、それを教訓にすることができるわけである。日本の作品で言えば喧嘩番長や龍が如くに出てくる「不都合な現実を誇張した」不健全で卑猥な日本の風景も、実は意外にも理想や夢とどこか通じるものがあるし、その中にもやはり社会に対するメッセージもある。
そう考えると、欧米程でないにしても自由な創意工夫性は日本においてはなんとか健在であり、その自由表現の娯楽を通して成長につながることもできたりし、その上でまた新しい夢が見れるというのが、本当にすごいと思っていて、韓国や中国にもそういうクリエイティビティを獲得するには、まず日本同様に現実至上主義と畳精神の解体を加速させることが必要なのだ。
わかるーー!!わかるよー!!!!砂かけしたくなる気持ちわかるよー!!!!すごくわかる!!
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あの頃はよかったって初期を思い出してしまうよねーー!!漫画も小説も上手な人がたくさんいたし、マナーが悪い人ももちろんいたけど、マナーがいい人の比率の方が高かった気もするよねーーー!!!
それぞれの神もジャンル移動してしまったし、今は読む本が無くなったって思ってしまうよねーー!!わかる!超わかるよ!!!
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別に砂かけしなくても、あなたたちがちゃんとこのジャンルが好きでそのカプが好きで活動してたの知ってます。
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あなたたちが私のことを一人の作り手として下に見てたのも知ってます。
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みんながあがめる神がすごいって思ったこと一度もありません。走り続けてきたあなたたちの方が、毎回一定のクオリティを保って本を出してくれるあなたたちの方がもっと評価されるべきだってずっと思ってました。
真摯にやっているからこそ、交流重視になっているイベントに疲れていることなんて想像に容易いです。そんなこと、ちゃんと知ってたよ。気付いてる人いっぱいいるよ。私だけじゃないよ。ちゃんと見てるよ。みんなちゃんと、知ってたよ。
でも疲れてるのは貴方たちだけじゃないんだよ。続けてる私たちも交流重視とか、マナーのない人間とか、「先生~先生~!」って崇め奉ってキャッキャッ遊んでる人間たちのこと面倒だなって思ってるよ。
それでも何も言わずに続けてるのは結局htrの私が何言ってもどうしようもないし、実力で殴るしか無いなって解ってるからだし、何よりジャンルとカプが好きだからです。まだ描きたいって思ってるからです。
そして、貴方たちは交流シャットアウトしてるだろうから耳に入らないだろうけど、そういう気持ちで耐えるように活動してる人、案外たくさん居ます。少なくとも私の周りにはそういう人しかいません。
そういう人の心を折るのを辞めてくれよ。頼むからさ・・・砂かけよくない。
そんなことしなくてもジャンルに疲れて出て行ったのちゃんと気付いてるし知ってるよ・・・・・・・
すなかけなにも生まないよ・・・あなたたちの品格下げるだけだよ・・・・・・すきな作り手さんが好きな作り手さんを貶してるの見るの悲しいよ
最後に一つ言わせてもらうけどすなかけした時点でてめーらも非常識な人間になったからな!!!!!!!ばーーーーーーーーか!!!!!!!!!
そして私もこんなところで砂かけに応戦してしまったから同じ土俵にたってしまった・・・・・・・
すなかけはすなかけしかうまない
同様の例としては皆無。それはそうで、負けても対局料が手に入るのにそれをみすみす捨てる馬鹿はいない。
ただ、寝坊やスケジュール管理のミスといった過失による対局放棄はある。
近年の例で言うと、2010年に郷田真隆九段(現・王将、タイトル通算6期の超一流棋士。9月に公開対局での二歩で話題になった)が寝坊で竜王戦の予選を不戦敗になった。
この際の郷田に対する処分は1.対局料の不払い、2.竜王戦参稼手当100万円の半額を返納、3.ファンへの奉仕活動1日 だった。
類似の例としては、日本将棋連盟の分裂寸前にまで至った「陣屋事件」というのがある。
1952年2月に行われたタイトル戦の王将戦第6局で、挑戦者の升田幸三八段が会場となった神奈川県弦巻温泉の旅館「陣屋」に到着したが、「玄関のベルを押したが誰も出てこなかった」ことに腹を立てた、と言って対局を拒否、第6局が不開催になったということがある(ただし当時陣屋の玄関にベルはついておらず、これは枡田の虚言。これをきっかけに陣屋は、玄関に呼び出しのための陣太鼓を置くようになって、陣屋名物となっている。また升田は陣屋に向かわず秦野温泉の別の旅館に籠って対局を促しに来た関係者にも会っているので、過失ではなく明確な故意による対局拒否)。
事の真相は明らかになってないが、将棋界の間ではまず間違いなく以下の理由だったと言われている。
王将戦は当時から現在に至るまで七番勝負で四勝先取したほうが勝ちというシステムだが、この当時はどちらかが四勝以上してもさらに継続する、というシステムだった。そして決着がついた後の対局は、シリーズに勝ったほうが負けた方に対して自分の駒(香車)を落とすハンデをつけて指すことになっていた。このシリーズは第5局までに升田が木村義雄名人に4勝1敗で勝利を決めており、この第6局は升田が木村に対して香車を落とすことになっていた。
名人というタイトルの重みは現在でも特別だが、この当時はそれにも増して大きいものだった。単に将棋界最強というだけではない、ある種の宗教的な権威があるものと言っていい。その名人が、対戦相手に香車を落としてもらうなどということは、名人の品格を著しく傷つけるもので、いかにルールとはいえ誰も見たくない(この感覚は、羽生善治がコンピュータ将棋に角を落としてもらって対局する、という場面を想像してもらえばいいかと思う。対局に関係ない第三者でさえ屈辱を感じるというようなものだ)。もちろん王将戦が始まる前、この事態は当然予想されていて、香車を落とすことに強く反対していたのが升田、一方で「名人が第7局を迎える前にシリーズに負けることはない」と言ったのが当の木村義雄名人で、木村の一声で沙汰止みになってしまった(昔から今に至るまで、将棋界というのは将棋の強い側の声が通るのだ。そして当の本人がこのようにその報いを受けてしまう)。升田は「将棋を守る」ために、バレバレの嘘をついて対局を拒否したのだろう、と思われている。
真意はさておき、タイトル戦を故意にすっぽかしたことには変わりないからこれは一大事で、当初将棋連盟は升田を一年間の出場停止処分にしようとした。これは現代の目から見ても重さとしては妥当だと思う。ただ、日本将棋連盟は関東と関西の将棋指しの団体が合一してできたという経緯があり、東西の対立まではいかずとも派閥意識というのは当時強かった。関西の棋士である升田への処分に対しては関西の棋士たちが反発し、すわ東西分裂か?という事態になった。最終的には木村名人の一存に委ねられ、升田は一切お咎めなし、という結末になった。
逆説的だが、スパム増田がいることによって、コンテンツの質、クオリティが担保されているのではないか、と。
スパム増田は、ニワカや荒らし、ウェーイ系などの抑止力になっていると思うんだ。
現状のスパムは機械的なものが多く、人為的なスパム、いわゆる荒らしは殆ど見ない。
これは、「すでに荒れてるじゃん」と感じさせて、荒らしを遠ざけているのではないのか。
クオリティの低下を招くマジョリティ層から、荒れて殺伐としている様を見せつけ、我々を守っているのではないか。
かと言って、増田ユーザーには機械的であるが故にブロックしやすく、そこまで邪魔にはならない。
また、得てして、良質なコンテンツは、ぬるま湯の環境では生まれにくく、一定の我慢やストレスがある場で生まれるものだ。
増田を楽しむためには、今風のサービスでは考えられないような我慢が必要である。
上から目線なブコメ、補足できないエアトラバ、旧時代的なUI・デザイン、そして、スパム増田の存在…
これらが相互に作用して、増田を良質なコンテンツを育む箱庭とさせていると思うんだ。
しかし、スパム増田の存在だけは、他のサービスには決してなく、増田を増田たらしめる差別化の根幹なのである。
外部の手から守り、内部のバランスも育む。ヘイトさえ一手に引き受ける。
誰にも理解されることはなく、陰ながらに。
壁にちんこが入る程度の穴があり、その穴の先にオナホを設置しておく。
男優(童貞が望ましい)には、このAVが壁を挟んでセックスする企画ものであることを予め伝え、オナホとは知らせずに「セックス」させる。
男優にバレないように、オナホは本物に近いと言われる名器の品格を使い、体温と同じになるようそれ用の保温器具を使う。
品格は非貫通式なので、小さな穴を開けそこへ挿入時間に比例してローションを注入する。
さらに、小汚いおっさん(←ここ重要)の手によって、男優にバレないようにオナホに圧を加え、膣内の動きを作り出す。
それでも男優が感づいて穴を覗きこんだ時は、素早く先ほど喘いでいた女優のマンコに差し替える。
とか泣けることを言わせて大団円。
1作品に6人収録。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160815-00000023-sanspo-spo
記事を読む限りだと、なんとなく叩かれるような雰囲気はある。コメントもだいぶあたりが強い。中継はみていなかったが、これだけたたかれたインタビューには興味が湧いたので動画をみてみた。
https://www.youtube.com/watch?v=PIEnYTB_qE0
インタビューが始まってすぐに涙があふれた。とまらない。うそだろ。辛すぎる。これをみたうえでこの人達はこんなコメントが書けるのか。
これをみて、人はこんなことを普通に言えるのか。頼むよ。悲しすぎる。
泣いているだけじゃないか。声を詰まらせながら話しているだろ。
金メダルとれなかったんだぞ。2位とか3位とかで「とれなかった」じゃないんだ。三十路過ぎて、人生を使って、それでこの結果だったんだぞ。怪我と失敗続きで、そうして最後のいまどうやったらこの現実を受け入れられるんだ。失敗としかいえない結果でもう終わったんだ。
誰も彼もが1位になれるわけじゃない。それを理解しながら、それに恐怖しながらこうしてがんばってきたんだろう。
この人だけじゃなくて、オリンピックの舞台に立っている人はだいたいそうじゃないのか。スマートに涼しい顔して、成功を得られている人なんて多くないだろう。みんな人生を使っているんだ。勝手そう生きているだけだけど、だからといって一方的にこんな絶望をつきつけられるのか。
たった一度のぶりっ子した人たちのカタルシスが届いて、懸命に生きている人の声がここまで届かないなんて悲しすぎるだろう。頼むよ。ここまでの過程をふりかえればその人が本気だったかどうかなんてわかるだろ。
大阪国際女子マラソンのとき、増田明美が泣いた意味がどこにある。この人は、ヘラヘラしてて、品がなくて、日本の恥ともいえる人間に対して泣く程度の人だったのか。
あのときのマラソンはイチローも泣いたといっていたぞ。イチローの目は節穴なのか。懸命の人かどうかも見る目がない人間ということなのか。
http://anond.hatelabo.jp/20160627173600
onasussu 彼女がクズなのは確かだけどここでどっちが悪いとか論じてどうすんの?とりあえずその彼女と話せよ、脅しを受けてることも含めて。ネットに書き込んで同情集めるし出来ない時点でお前が弱者なんだよ当事者間でやれよ
以下、差別と区別の境界がガバガバなトンチンカンカスたち。こういうクズがHIV・エイズを蔓延させる。不治の病であるHIV・エイズという重大な感染症患者には、社会的にきちんとした制御、コントロールが必要なんだよ。
それをしないから日本では、特に東京でエイズが増え続けているんだよ。差別だ差別だと壊れたテープレコーダーのように繰り返すだけの無知な馬鹿は反省しろ。
てんかん等発作を伴う病気のやつに自動車なんつう大虐殺凶器の運転を許すやつも同罪だ。
huttka 正直に言ったら差別されるようなこと誰も進んで言わないだろwむしろ心許してカミングアウトしたのに結果的に差別されて可哀想ではある
Kitajgorodskij 増田の行為と彼女の行為、個々に批判はしない。ただ一点「HIVのキャリアはもう恋愛とかやめてくれよ」は撤回して反省しろ。
大至急
たくさんのブコメありがとうございます。
あのあとすぐにミスドに乗り込みましたが、閉店間際ということもありほとんど売り切れてました。
一晩明けた本日の昼、教えてもらった情報を参考に10個くらい買いました。
でも、棚いっぱいのドーナツから手当たり次第にトレイに掴んでいくあの感覚はたまらないです。
パン屋と違って、後から入ってきた客がドッスンみたいな顔で追い詰めてくるスリルもあります。
それと、レジの女の子が可愛かったです。めちゃモテしたいです。
冷めたオールドファッションはサクサク感こそ欠けてましたが、密度あるしっとりさはさすがの風格でした。
サクッ、からモチッに変わるときの切り替えしの鋭さは、コンビニドーナツじゃ味わえないですね。
正直、イロモノだと舐めているところがありました。
レシートを捨ててしまった上に、気づいたら箱が空になってしまってました。
だから何を買ったのか、はっきり覚えていないのですが、
ゴールデンチョコ、エンゼルフレンチ、チュロ、ポンデリング、オールドファッション、
このあたりは買いました。フレンチクルーラーは売ってなかったので断念しました。
今度は朝一番、出来立てのオールドファッションの品格を楽しみつつ、
膀胱が機能不全を起こすまでミルクティーを飲んでみたいと思います。
白鵬の変化についてニュースがかしましいものの、相撲ファンではない自分がなんか言ってもトンチンカンになるよなあ、と思っていたのだが、そのトンチンカンになりそうな理由がちょっと分かった。
自分は横綱が変化すべきでない不文律って「フェアネス」の問題だと思っていて。
格上が手段を選ばず闘えば、格下は勝つのが益々難しくなるので、すべきでない、という話なのかと捉えていたが。
でも今回は相手も横綱であって、その「フェアネス」でいったら、同格なら何でもあり、縛りなしの真剣勝負じゃんかと。
で、そうなってくると、次の言葉が、「負けた方こそ、真剣勝負でなんで相手が手段を選んでくるなんて思ってるんだよ、それ、甘えてない?」ってなるんだよね。
「相手も、やっと真剣勝負ができる相手がきたと思って、すべての手段でお前を倒すぞで来てんじゃん」と。
でも、違うんだね、「らしさ」の問題なんだね。
横綱になるには強さの基準としての勝ち星だけじゃなく、「品格」って基準があって、要するにこれが「らしさ」で、
要するに横綱は「最強の称号」という「チャンピオン」ではなく、
勝負の場も、2人の世界だけじゃなく、「らしさ」を憧れの目で見てる第三者がいるんだね。
で、「会長は会長らしくせんかい」という話と、「え、フェアネスの話してたんじゃなかったの?」みたいな噛み合わなさが自分の中であったから、よくわかんなかったんだなぁ、と。
「会長は会長らしくせんかい」みたいな話って、不文律だの背中を見せるだので、外国から日本に連れてきた人に通じる?
「土俵を降りた後の振る舞いも見られてるぞ」みたいのは、海外のスポーツなんかでもキャプテンクラスには言われるんで、通じるかなって思うけど、それが土俵の上での戦術の選択にまでかかわって来るとなると、すげえ独特だなって思うし。
人間、喋っても伝わらんものを、「言わなくてもわかれ」みたいな話に見えて、それはそれで理不尽じゃねーの?とも。
青二才は努力すればレールに乗るのは比較的簡単にできたほうの人間だ
にもかかわらず自分がレールに乗れなかったのは
で、他の奴は楽してレールに乗ってると思ってるんだよな
にもかかわらず自分が誰よりも不幸だと思ってる
東大生がうつになったりしたらそんなに恵まれた家庭環境なのにわがまま言うなといい
有名人の女性には自由に生き方を選ぶ権利はなくそれを主張するのは品格がないと難癖をつけ
それどころか会社で鬱になった人に対して
僕みたいな過酷な環境で鬱になった奴以外の鬱は甘えとかぬかすしまつ(これは慌てて記事の該当部分消したけどな
このように自分だけがかわいそうで、自分以外の人間が自分を差し置いて同情されるとケチをつけに行くような二歳児で人を平気で傷つけるクズ
そういうことを知らない人から見たら
さぞ弱者の味方に見えるんだろうよ。
断言してもいいが罷り間違って成功するようなことがあれば
こいつは間違いなく弱者を甘えとして叩くようになる。すでに自分ほど努力してないブロガーはなどと狭い世界では強者ぶって若い人をいじめようとしているしそのことになんの悪びれもしない
女性に文句を言われたときもその文句には付き合わずすべて女性全体の問題にして全く反省しない。こいつに彼女ができることは100%ないができたら暴力を平気でふるって支配しようとすることが目に見えている
こういうクズなのに記事単位ではさも偉い人間のように振舞って人から共感を搾り取る才能だけはある
サイコパスってよく知らないがこんな感じだとしたら本気でこええよな
そんなもん、ドブにでも捨てろ。
それこそ、相撲が競技でありフェアでクリーンなもんでなきゃいけないみたいな風潮があるけど(例=横綱が猫騙しを使ったらダメみたいな風潮(まつたけのブログ))ちゃんちゃらオカシイというか何を勘違いしてらっしゃるのというか。そんな、クリーンでフェアなものが見たいなら、スポーツ見てればいいでしょ、と。まあ、今のスポーツだってどこにもクリーンさやフェアネスなんてねえんだけど、クリーンでフェアを歌っているものについてクリーンでフェアであれと訴えるのは、一応自由だと思うんだよね。でも相撲は、関係者の誰一人、ファンの誰一人すら「スポーツだ」なんて言ってないっしょ? じゃあ、そういうこと言うのはどうなのよって思う。
一般に了解されてるところでは、相撲は神事で文化であり神への奉げ物であるところの儀式だってこと。宗教なんだ。でもって、チカラビトの横綱というのは儀式の祭司ポジションなのよ。勝てば自動的になれるというものであってはならんし、それがいわゆる「品格」なのよ。
たとえば、巫女さんの舞をフィギュアみたいに採点しろっつーアホがいるかよ? んでもって高得点出したら自動的に神主に昇格するとかって? そんなこと言い出したら、頭大丈夫かって思われるよ。それがこの手の意見だろ。
相撲が「そういうモン」だと理解できないなら、ハナから自分は相撲に求められてる観客ではない、ということを理解してさっさと去るべき。そんで、「フェアネス」のルーツでも知って更に絶望するがいいよ。
ちなみに、明文化されない「暗黙の了解」なんて、実はスポーツにもいろいろあるよね。やきゅーの「大量点で勝ってるチームは盗塁すんな」ルールとか。それ破ったらビーンボール投げられる?怖すぎるっちゅーの。さっかーの「怪我人出たら外に蹴り出して、相手チームはそのボールを相手に返して、観客は拍手」ルールとか。スタンドで「攻めろやー」って叫んだらきっと人外かよみたいな目で見られんだろ。あと、「貴族のスポーツ」(それこそ「暗黙の了解」として、だ。)とされてるものについては、そのチャンピオンには高い社会的地位とともに、見識やら良識やらをマスコミその他から求められる、って点も、やっぱり相撲と似たようなもんだ。その手のスポーツでは、チャンピオンになることイコール「特権階級」とみなされることであったりするんだぜ。ゆーのー?
まあ、私が言いたいことは、相撲は相撲だから、ああいうこと(格下相手に猫だましとか)横綱が平気でやるようになったら、「横綱相撲」という日本語の意味自体が変わっちゃうんで、なるべくやめてほしいねぇ、ってことです。でもって相撲が相撲であることそれ自体にケチをつけたりするのはやめようぜ、文化なんだからさ、と。
http://ncode.syosetu.com/n4830bu/287/
そう言いながら、わたしは赤いジャムのかかったガレットを一口食べた。次の瞬間、あまりの衝撃に目を白黒させて、言葉を失う。凶悪な甘さだった。
馬鹿丸出し。欧米で主に使われるというグラニュー糖はそもそも言うほど甘くはない。キャンディーの甘さになれてる現代っ子からしてみれば、そのまま口に入れて噛めば甘いという程度だ。それでも言うまでもなく、味というものを超えた部分で、食べるとすぐに飽きるという点では、砂糖であることに変わりはない。日本の砂糖たる上白糖は甘いが、甘さの中に独特の風味があるし、水に溶かした時の甘さと唾液に溶かした時の甘さは違うし、チビチビ食べる時と一気にガバッと口の中に突っ込む時とでは話はまるで違う。
醤油だってそうだろ?一升瓶一気飲みと、お寿司を浸して食べるのと、お寿司の一部をちょんと一瞬だけつけて食べるのとでは、話はまるで違う。
異性化液糖も、何らかの形でグラニュー糖に換算すれば、よほどの量がコーラなどには入っていると聞くし、醤油のしょっぱさも、ただ単に量が多ければいいというわけではなく、砂糖のように作り方の違いにもよれば、油分が加わることで塩味がぐんと強くなることもある。
要は、甘さで測ると砂糖は決して頂点ではないということだ。むしろ砂糖よりも蜂蜜の方が、ねっとりとして遥かに甘かったりするし、醤油の油分のように、色々な工夫があるんだろうと思われる。
いずれの場合も、温度による味の違いというのもある。
本当に料理を分かってる奴が、こんな偏見を抱くだろうか?料理人なら砂糖や醤油をなめって味を測らないといけないはずだ。当然、油分などと混ざることによる味の変化も知らねばならない。異性化液糖もそうやって成分の量を使い分けると聞く。
あと上白糖は、グラニュー糖よりは小さいとはいえ、まだまだ結晶の光沢が見えるほどには大きいわけだから、水に溶かして水分を飛ばした後に残るような、あるいはマジパンのように他の成分と混じって粉状になったようなものとでは、また味は違うわけだ。上白糖はグラニュー糖ほどではないにせよ、口に含んでまだ噛めるくらいには大きいわけだから。
あと融解熱か何かによってひんやりするものは甘いという気もする。上白糖やグラニュー糖は逆に熱く感じるくらいだから、また違うわけだ。
砂糖は胃腸の弱っている人でも栄養を補給して体力を回復させる助けになる機能的な食品であり、嗜好品だからと言ってこのように見下され馬鹿にされるのは我慢がならない。物も知らないくせにこんな風に人を馬鹿にして回る奴が一児の母親だなんて吐き気がする。
食べ物の好みでここまで人を馬鹿にすること自体異常なことで、作者の人格が窺える。相当嫌な奴だってな。
そう言いながら、わたしは赤いジャムのかかったガレットを一口食べた。普通じゃないくらい甘かった。 ……ううぅぅ、口の中の粘膜・歯冠・唾液、なめると全部甘いよぉ……。
と改変すれば、俺の経験に適うことになる。砂糖であれば、唾液ですぐに洗い流されるほどの密度と粘度しか持たない。本当に甘ったるいものは、こうなるんだ。
矛盾は、高価な砂糖を使っていると主張しているというところではなく、口の中がジャリジャリするというところだ。前者は当たり前の知識だが、後者は完全に作者が料理を碌に研究したことがないことによる空想であって、事実無根だ。そしてこういうフランス趣味的な知識がありながら同時にグラニュー糖と上白糖という知識が無いのも、雑学として看過し難い偏見だ。
砂糖がステータス、というのも安直で、その背景にある砂糖の入手方法など、一体どうするつもりなのかがよく分からない。砂糖をどうやって手に入れるから単に高価なのかあるいは希少なのか。高価ないし希少だから、とにかく甘くして主張するのか。これは全部必然的な流れなのだろうか?単に料理人が自分で食べないからそういう味になってしまっただけかも知れないし、特定の宮廷だけで通じることかも知れない。
あとベッコウアメや綿飴は基本的に砂糖と水だけなので、やはりジャリジャリするほどの砂糖が入ってることになるわけだが、こうした伝統的な味覚も否定するんだろうか?味覚が破綻してるのは一体どっちなのかと面と向かって問い詰めたい気がしてならないんだが、この点は。それともそこに思い至らないほどのDQNママなんだろうか?
ザラメだって砂糖には変わりないわけで、ただの砂糖と言っても色々あるということでもあれば、砂糖をそのまま使った方がカロリーは高くなるが甘さはむしろ優しくなるという証拠でもある。砂糖が甘ったるいと言えるようになるのは、何かの生地に混ぜて固めた時だけなんだ。
それに甘さだけしか感じないのは、他の刺激が甘さに比べて弱いせいでもあるだろう。その意味じゃこの作者が世の中の甘さについて論じることができていないというのはもはやこれ以上の論を俟たないことになる。甘いのはこの作者の甘味論と大人としての品格であって、この母ちゃんが攻撃する所の砂糖じゃない。
ていうか、そもそも砂糖をそのまま入れて甘くないということはもう既にはっきりしてるわけで、しかも砂糖の形なんて残らない方が甘いというのも、最近のマカロンなどがお好きな皆様方にはよくご存知のことだろうから、論外中の論外だし、痛切に批判したい。
バラだとかユリだとか、甘くなくても甘いと形容せざるを得ない感覚はあるし、イチゴよりもレモンの匂いがした方が甘かったり甘くなかったりするものだ。
酸味があるか、甘味がどれくらい残留して長い間密度を保てるか。様々なファクターがあるんだ。そのために人は努力して研究するんじゃないのか。
結局俺は近代の宮廷で出されたお菓子を食ったことが無いので、実際どのような味覚がするのかは分からない。だが知っている範囲でそのようなことが考えられないことであるということだけなら、疑う余地は無い。作者の表現の誤りを架空のものと断定するには足る。ただ残念ながら、正しい表現は、その筋の本でも読んでそれこそ調べるよりほかないだろう。
作者には、偏見に基づき差別的な悪意のある批判を、架空のものであろうとも、事実に基づく仮託である限りにおいては排除することと、浅い経験による空想をそのまま言葉にすることを慎むことをいつの日か自覚されることを期待したい。
そりゃ「できない人がマイナスである風潮」を多少でも感じている本人に、自分はそんな考えではない、けどもやっぱり「出来る人は凄い」とだけ伝えたら傷つくよ。
もやもやするのもわかるけど。ライフステージの違いはあるけど、持てる者が持たざる者に向かって発言する時は、気をつけないといけない。デリカシーだし、それが持てる者に必要な品格だと思う。でないと持てる者は、口を開く度に恨みを買うばっかりだよ。
とは言いつつ、子供生まれた所なんだから嬉しいし、伝えたいよね。そういう所からもう、「子供が生まれなければわからなかった事」を知る機会が始まっていくんだと思う。ご出産おめでとう。
数年前、取引先の偉い人にいわゆるスナックを紹介してもらった。
スナックなるものに行くのは初めてだったのだがなんとなく静かに飲めて店の女の子やママとだらだら会話ができていいとこだなと思った。
通ってるうちに「一見さん(もしくはごくたまにしかこない客)」「常連」/「金を多く落とす客」「あまり金を落とさない客」で扱いの違いがあることがなんとなく分かってきた。
人間なのだからある程度接客態度に違いがでてもしょうがないなと思っていた。
いつからだろうか、多分気づかないうちに徐々に変わったのだろう。ある日いつもと同じように店で飲んでいたら気づいた。
綺麗で大人しい飲み方をしていた常連をほとんど見かけなくなった。
そこからは私が意識して観察していたせいもあるだろうが店の雰囲気がどんどん悪くなっていった。
ママが常連の某会社幹部たちにその場にいない客やスタッフの悪口を言ってゲラゲラと笑いあう。
常連の金は落とすが口汚いときには物を投げるような客がスタッフに罵詈雑言を浴びせながら灰皿を投げつける様をママと他の常連がニタニタと笑い眺める。
他にもあげればきりがないが会社経営者や幹部、店の経営者がここまで下品に下種になれるのかと驚いた。
私は店のスタッフの一人が気に入っていて通っていたがもうここは以前のような落ち着いて飲める場所ではなく不快なだけの場所だと見切りをつけて通うのをやめた。
その後、偶然その店の常連(この人もかなりスナックに金を落としていた太客)だった人とバーで遭遇した。
ふと、最近のスナックの様子はどうか聞いてみたらこんな返答だった。
「もう静かに飲んでいた常連はほぼ全員愛想が尽きてあの店には行かなくなってるよ。お金をたくさん落とすけど飲み方の汚い客しか残ってない」
そうだろうな、と思った。
今日もそのスナックは一部の客と人の悪口や下品なネタで話に花が咲いていることだろう。
もう私には関係ない場所だが時折あの店の光景を思い出すと気分が沈む。
つい先日、店のスタッフが数人一気に辞めたという話を聞いた。
オリンピックのエンブレム、あれ、言うほどダサくはないと思うし、パクリだとも思わないけど。
あの展開例やらトートバッグはとにかくとして、デザイン自体はまずまずの出来。
むしろカッコいいし、オリジナリティもあっていいんじゃないかな。
まあ、でもオリンピックのエンブレムとしてはどうなんだろって思うところはある。
泥臭くて、汗臭くて、躍動する筋肉の祭典じゃんか。
だから、歴代のって、躍動する人とか、聖火とか、五色の輪やらをモチーフにしたエンブレムにしてるわけじゃん。
まあ、わからんでもないけど。
JapanのJの文字に日の丸を付けたJリーグのエンブレムみたいでさ、あれよりはまだ時代に合わせたスタイリッシュさはあるけどさ。
Jリーグのエンブレムはまだサッカーボールを想像させるところがあるけどさ、例のエンブレム、オリンピックを思わせる要素どこよ?
「日の丸が1964年の東京オリンピックのエンブレムを想起させる」
アホかよ。
日の丸から日本を想起するまではあっても、64年の東京五輪を思い出すって、関係者だけだろ。
正直、方向違うんじゃないかなと。
誰がみても「オリンピック」のシンボルであることがわかること、それが第一に優先すべきじゃんか。
5色使うか、輪を5つ使うか、躍動する人間を使うかしてだな、とりあえずオリンピックとわかるものであってほしい。
おまえ、Bの一文字から北京を思い浮かぶの?Lの一文字からロンドン思い浮かぶの?
とかなんとかいいつつ、また似たり寄ったりな方向間違えたエンブレムになるんだろうな。
赤とか黒とか金とか好きそう。
デザイナーたちも、スタイリッシュなのが好きで泥臭いの嫌いだろうしな。
そもそも、日本人って肉体軽視だしな。
歴代のを並べてやると、前の東京オリンピックも、札幌も長野も浮いてるよね。
小兵がデカブツを倒すのが好きそうで、言ってみれば筋肉が足りない。
長野みたいに、フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ、スシ!な開会式で、挨拶では「絆」とか的はずれなこと言っちゃうんだろ。
機械や科学の力を使わず、己の肉体だけを武器に、この星の一等賞を決める泥臭くて汗臭くて人間賛歌の大会ってことを忘れちゃいまいか。
まあいい。
いやー、びっくりですね。
火事と喧嘩は江戸の華ってよくもうしますけど、火中の栗を拾いにいく物好きがまだまだ世の中にいたりするもんです。
あ、いや、奥歯に物が挟まったような言い方はやめにしましょう。
最近の炎上案件、そこにわざわざつっこんで行く経営者というのが、居るわけです。経営者みずから焼きそばを焼いてみたり、これは経営体でしょうけどわざわざ採用される当てのないオリンピックロゴをコンペしたりするんです。
もうこれって、品格の話であるなあと思う次第なんです。屍に鞭打っているつもりでございましょうが、自分が次にその屍になるという想像力がない。それでいて、毎日講演活動ってなもんですから、まあご身分ですねとしかもうしようがありゃしません。経営者は軽挙妄動を慎み、株主のために行動いただきたいものですね。