はてなキーワード: テレビ番組とは
ナインティナインのオールナイトニッポンのリスナーになって10数年たつ。ヘビーリスナーとまではいかないが、ちょっとしたリスナーだ。なので、昨今の岡村さん叩きは見ていてむかつく。それあなたの感情論ですよねといわれたら、もうそうだとしか言い様がない。
「嫌なら見るな」。たしかにラジオでそう言った。なんのことかピンときてない人に説明すると、めちゃイケをはじめとしたテレビ番組に寄せられる苦情にたいして岡村さんが発言した一文だ。これが「フジテレビは韓流ドラマばっかり放送する」>「韓国は嫌いだから見ません」>「韓流ドラマばかり流すフジテレビは見ません」>「フジテレビは嫌だから見ません」という風潮になっている。すでにフジテレビは韓流ドラマの放送は視聴率の低下か、それとも世間の嫌韓をとらえてか自粛しており、改めて「反フジテレビ」の流れを見てみると、最初の目的をとうに忘れていることがわかる。
こんな暴走気味な言葉を持って、だ。大手ニュースサイトであるオレ的ゲーム速報@JINではこのような記事が書かれている。
○岡村隆史さんが広瀬すずへの批判にコメント・・・「批判してる人の仕事は何?お前ら関係あらへんがな!」
http://jin115.com/archives/52086667.html
記事の中身はオレ的~という時点で見るまでもなくひどい。ニュースソースはテレビ・ラジオの都合のいいところだけ抜粋するカンタンなお仕事で有名なLivedoor芸能ニュース。そこからさらにオレ的~で記事の中身を抜粋。この記事の反応として、どこから持ってきたんだかわからない批判ばかりを載せ、最後に嫌なら見るなを連呼し〆。
上記の説明文を見て、それでも素直に「いや、岡村さんが悪いでしょ」とか言うひとがいたら、それは完全にイカれている。というかオレ的~のコメント欄は700コメントオーバー。イカれた人がこんなにも。わーい。
さて、ツッコミどころは多いが、3つの点が素直に気持ち悪いと感じた。
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・Livedoor芸能ニュースをまともに見るバカ(JIN筆頭に)
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Livedoor芸能ニュースは先ほども述べたとおり、テレビやラジオであったことを垂れ流し、なんなら少し悪意を持って書く。1週間ほどLivedoor芸能ニュースを見ていれば十分わかる。見出しは煽れば煽るほどいい。芸人がスベったら「苦笑した」とか付け加えてより寂しい感じを出せばひとつの記事が出来る。なんかいいことを言ったら「スタジオが鎮まりかえった」とか書けばまた一本記事が出来る。と、こんな具合である。テレビ・ラジオのソースが9割。それをニュースとして扱う。どっかの芸能事務所から怒られても仕方ないくらい、悪意に満ちている。
今回の岡村さんの記事は、オールナイトニッポンを聴き、煽りたいだけ煽って記事を書いている。ニュースではない、ただの日記だ。増田のほうがよりプライド持っているので格調高い。
話半分で聴き、Livedoorニュースはバカだなぁ、とか自分の思考を挟ませた上、脳みその片隅においやる。それが正しい見方。
しかしそうはせず、Livedoorニュースをまともに受け取るバカがJINだ。
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先述の意味をなくした「嫌なら見るな」を連呼するAAとともに「まぁ、そうなんだけど・・・ それ言っちゃったら何も言えなくなるような 確かに広瀬すずさんへの批判すげーなとは思うけどねぇ 岡村さんがそれ言っちゃうと・・・ねぇ・・・」と謎の問いかけで〆。「ねぇ」じゃねぇよバカ。「嫌なら見るな」言いたいだけじゃねぇか。
恣意的な記事を作っておきながら、本人は善人面してしらばっくれる。コメント欄は煽られてよく燃える。そこにはエンターテインメントもクソもない。岡村さんや広瀬すずさんがどういう意見だろうとも関係ない。PVが全てだ。
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リスナーとして言わせてもらうが、まず岡村さんはラジオをひとつの「番組」として持っている。当たり前だ。個人のブログなどではない。プロの芸人として楽しませるためにやっている。ラジオのワンコーナーで昨今ヤフー!ニュースに取り上げられることでご意見番みたいな位置に持ち上げられて、さらにそれがツイッターやまとめサイトで炎上していることも承知の上で、エンターテインメントとしてやっている。それがわかってもらえる土壌がラジオであり、リスナーである。
しかし、ラジオの発言を無理やり引っ張りだしたあげく、さらにはそこからさらにオオカミ少年みたいなやつがあたりにふれまわる。ラジオのことを知らない人がそのニュースにふれ、カン違いして「また岡村が偉そうなこと言ってるよ」なんて思うのは当たり前だ。だってそう仕組んだやつが、少なくともLivedoorニュース、JINの両名がいるのだから。
長くなった。
まとめると、ソースがすべてとは言わないがちゃんと自分で見聞きし、判断してほしい。叩くならその上でたたけ。もっとわかりやすく言うならLivedoorニュースとかJINとかばっかに頼らないでテレビ・ラジオなどのメディアに触れるといい。「そういうのは嫌だから見ません。だって岡村が言ってたもん」とか言うひとは、LivedoorニュースとかJINとか今あなたが見てる記事とかも見てるんじゃない。眼と耳をふさいで、人の言うことばっか信じて思考を停止させてろ。都合のいいときだけメディアにすりよっていくんじゃねぇ。
一地方民である私は、地方の変わったモノをネタにするバラエティとか、都会の住民が田舎に移住する番組とか、
都会の女性が田舎に移ってあれやこれやする朝ドラとか、そういった類のテレビ番組が嫌いである。
正確に言うと、番組そのものに興味はない。ああいう番組がもてはやされるのが気に食わないのだ。
都会の住民というのは、我々にレッテルを貼りたいのかもしれない。
「地方民とは、得体の知れないソウルフードをこよなく愛し、前時代的なしきたりやしがらみにとらわれた部族であり、
排他的で相互監視することはなはだしいが、心を開いていればいつかは共同体の一員として温かく迎えてくれる」
という物語を、地方に押し付けたいのかもしれない。やられる側にしてみりゃたまったものではないが。
地方は地方で、都会の住民に金を落としてもらいたいものだから、むしろこの流れに便乗している。
変わり映えのしない焼きそばやゆるキャラを売り込んで、失敗するなんてのはよくある話。
最近では地元の住民が細々とやってた伝統芸能を猛烈にプッシュし、ついには県外に引っ張り出したりもしている。
ひこにゃんやくまモンやふなっしーは知っていても、地元にどんなのがいるかは全く知らない。
伝統芸能にしても、今やどこのイベントにも出張ってくる有様で、
「アレが嫌いな人間が住んでたら、さぞ窮屈で仕方ないんだろうなあ」とか余計なことしか思いつかない。
都会の住民に非日常性を求められても困る。我ら地方民はそこで日常を送っているのだ。
挙句に「似たようなショッピングモールばかりで、つまんなくないのかよ」とか大きなお世話だ。
人並みを求めて何が悪いというのか。
「とんねるずのみなさんのおかげでした」という番組の中での広瀬すずの発言が話題になっている。
本人がTwitterで番組内での発言を謝罪したということだが世の中の大人達はあの発言の真意を
悪意もなくバラエティの雰囲気に基づいた発言に本気で怒る馬鹿な視聴者が存在しているという事実を見ると
テレビ番組が守りに入っても仕方ないなと感じさせられる。
言葉の真意や空気を読めない大人、クレーマー、テレビを見ないゆとり世代
この3つが存在する限りこれからのテレビは更に守りに入ることになるだろう。
しょうもない内容をしょうもない奴が見て馬鹿みたいに笑ってればそれでいい。
終わってるなあ。
爆笑問題のニッポンの教養 動画 「女と男“仁義なき戦い” 上野千鶴子(女性学)」
http://veohdownload.blog37.fc2.com/blog-entry-10689.html
番組開始して10分すぎても、上野さんがおもしろいことを言わない。
爆笑問題の2人は番組のホスト役だから聞き役となって、ゲストの上野に好きにしゃべらせている。テレビ番組としてだんだん困ってきたという感じになってきた。主役の上野は自分のテーマの提示として冒頭は好きに話していて、爆笑問題の太田も田中も相づちを打つような感じであるにも関わらず、とくにおもしろいことを言わない。男はもろいよねえ、とか、男どうしの張り合いはムダだよねえ、とか、その程度の話に終始していた。
これが日本のフェミニストの大家なのか、という脱力感だった。というのは、自分は今まで本らしい本を読んだことがなく、ここ3~4年で社会評論の本を読むようになって、誰がスター選手なのかをだんだん把握しはじめているところだった。上野の本も何冊か読み、重要ポジションにあることを知るようになった。上野は、紅白に出る北島三郎や和田アキ子みたいなランクにある。それを知ってから、上野に絡むネット情報で、この番組の存在を知った。実際に放送されてから数年経って見たことになる。
10分過ぎたところで上野は、秋葉原事件の例をあげ、ネットのコミュニケーションを否定してみせた。秋葉原事件の犯人は、自分には恋人がいない、恋人がほしいということをネットの掲示板で訴えてた。それはダメであると上野は言った。
ここに太田はやっとというか、反論する場面を得たような感じで、ネットの会話が何が悪いのかと言う。
ネットの書き込みがダメだと言うのは、明らかに時代錯誤である。ここが上野のつまづきだった。単に古い人間だったことが露呈してしまったのだ。ブログもいいし掲示板もいいけど、LINEはダメだというような、新しいものを怖がる素朴な大人のひとりに大幅にランクダウンしてしまった感じになった。
自分は、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』という本を読んだことがある。http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%99%BA%E5%A4%A7%E3%81%AE%E8%BB%8C%E8%B7%A1-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%B2%B3%E5%BF%97/dp/4022617667
加藤智大は、実生活での友人もおり、女友達もいた。また、男女関係ではないが、女友達の家に泊まったこともある。風俗にも行っていた。ゲームやネットもやる。非モテではあるが、引きこもりではないし、それほど不利な立場にいたわけではない。異常な母子関係が問題の核で、ネットの問題は二次的なものだと映った。
爆笑問題のふたりは、どちらもかなりの元非モテで、それが上野のとって相性が悪かったようにも思える。
上野は、男のここがダメだ、あそこがダメだ、ネットはダメだ、男は変わるべきだ、男は生身の女と会話しろ(直接の声掛けとか電話とかになるのか)というばかりだった。論理を言わない。論理を聞きたいのに。
ここに、田中がついに反論してしまった。太田が吠える役なのに。男に変われと要求しているが、ジャニーズ事務所にキャーキャー言う女の子を見ても、女の子のほうだって何十年も何も変わっていない。フォーリーブスからたのきんトリオから光GENJIのように。田中は、自分の背が低いことをコンプレックスに思って育ってきて、モテる男性に女性が寄っていくという場面をみただけで傷つくという主張をした。これに対して、上野は説得力のある話を展開できなかった。
上野は、自分は弱いとカミングアウトしている男性には、歯がたたないということだったのか。強がっている男を叩くことには長けていても。
爆笑問題のテレビ番組に出るということは、視聴者層がだいぶ違う。文化人にとって、実質的なテレビデビューに近いと思う。文化人しか出ないの討論のテレビ番組は視聴率が低く、何十年もテレビに出ていても認知度が大したことがないと思う。ここでコケたのは、ダメージは大きかったのではないか。
番組のロケ場所は、秋葉原のメイド喫茶だった。そこに上野は、AKBみたいなミニスカートの衣装を来て登場した。メイド喫茶で喜ぶ男はダメだということも言った。自分が嫌いなものをただ並べているだけで、これではマズイ。秋葉原のメイド喫茶で、秋葉原事件の話を持ちだしたのだから、ロケ場所の指定に上野も関わっていたと思われる。自分の読者以外の視聴者を意識して、媚びてしまったのではないか。
『ためらいの倫理学』(2001年)http://www.amazon.co.jp/%E3%81%9F%E3%82%81%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6%E2%80%95%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%83%BB%E6%80%A7%E3%83%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4043707010 という本で、上野は10年以上前から強烈に批判されていることを知った。
上野は、『マルクス主義フェミニズム』という流派であるらしい。他にも流派はあるらしく、アメリカの前衛派は、黒人差別と男女差別を同列に扱い、その派生として、トイレも男女いっしょになるのかという極論もあったらしい。黒人は、レストランもバスもトイレも、席が別だったという理由で。日本にも、脱・上野路線みたいなものがあるらしく、フェミニストどうしでも批判しあっているそうだ。
ニコニコ動画のトップページ上部の「その他」をクリックすると出てくる「ニコニコ実況」というサービスがある
通常のニコニコ動画と同様に、コメントが流れテレビ番組の実況をすることが出来る
具体的な使い方としては、テレビの前にノートパソコンを置き、ニコニコ実況の画面ほ開いて実況する。という形になる
人気番組であればコメントも多く、テレビの新しい楽しみ方となる
更に願望を言えば、パソコンや、スマホやダブレットでも、テレビを表示しつつ実況コメントも見れるようになったらいいなと思う
そろそろ、画面の上にコメントを流す、いわゆるオーバーレイ表示をテレビ業界も許可して欲しい
確実にテレビを見る人は増えると思う
現状は下品なコメントも多いので、一般人にはハードルが高いかもしれないし、酷いコメントもあり人を傷つけてしまう場合もあるが
体験したことがない人には、一度試してもらいたいし、なんとか上手いことテレビ実況が楽しめる世の中になってほしいと思う
投票日当日の未明現在、ギリギリで否決され、廃案になる情勢らしい。
投票日直前に橋下市長が妙手を放って、先日の地方選や前々回の市長選のように一気にひっくり返すと予想していた。しかし違った。
妙手という程でもないかもしれないが、手としては3つほど思いつく。
1.大阪市会議員の報酬額に言及する手。大阪市会議員は昨年末に自分達の給料を10%上げていて、都構想成立すれば30%減額される。そもそも高給取りが保身のため反対していると言われれば市民として嫌悪の感情が湧くし、維新の議員はそれでも賛成していると聞けば応援したくなる。
2.安倍首相の力を借りる手。この土日に関西に来たのは盛り上がっている大阪の様子を見たかったのもあるだろうが、援護射撃できるよと橋下市長へのメッセージだったかもしれない。もちろん大きな貸しを作る目的で。
3.否決の場合は引退すると宣言する手。テレビ番組で仮に否決されたらと聞かれ、そうなれば自分は政治家として能力不足なので辞めるべきとしつつも、投票は橋下徹への信任でなく都構想への賛否で決めるべきだとして明言しなかった。
橋下市長ならこれら123より効果的な手もあったかもしれないが、待てども一向に、KOパンチの出る気配はない。
そればかりか、ぶら下がり会見では、都構想法案が否決されたら市民の大勢は反対派支持なのだから、今後は自民党など野党の意見に沿うように市政を進めるとまで言ったり、
テレビ番組で共産党議員が言った、渡ろうとしている橋に危険があると疑って警告するのが野党議員の仕事という意見に、確かにそうですねと同調してみせた。
もちろん反対派のデマや理屈に合わない主張は否定しようとするものの、いつもの喧嘩上手なやり口、政治闘争手法が結局投票日に至るまで見られなかった。これは、何故なのか?
答えは単純なことだ。今回は橋下徹にとって特別な投票なのだ。おそらく政治生命どころか一生を賭けてやっているのだろう。
何度も何度も途切れそうになりながらも奇跡的に繋がってきた一本の道が、ようやく何かの入り口のドアに繋がった。このドアを開けるのが自分に課せられた使命と感じていて不思議はない。
だから今回ばかりは政治闘争を極力抑え、説明を尽くした上で大阪市民に委ね、その決定に従うと決めているのだろう。
多少悪い言い方をすれば、これだけ何年も心身を削って理解されないなら、さすがにもう大阪は無理だ、どうにも出来ない仕方がないという気持ちかもしれない。
反対票を増やすためなら無知な市民を少し騙すくらいまではやむを得ないといったところか。それにしても言説は滑稽なものばかりだ。
特別区になると市民税や国民健康保険が上がる、2200億円を府に取られる、防災機能が下がる、これら反対派の主張は明らかな嘘で、おそらく言っている本人も分かっている。
地方税は法律で決まっているし国民健康保険はいま上がっている。2200億円は府に移管する業務分の費用で現在も同じ目的で消費されているもの、防災機能は予算と比例するので府と合算した方が高度なものに出来る。
また都構想が実現すれば住民サービスが低下すると騒ぎ立てているが全く逆だ。もし市民サービスを低下させそうな話をすれば、都構想下の区長は現在の市長よりずっと簡単に交代させられる。
反対派はどうしてこんな稚拙な主張しかできないか、これも非常に簡単で、これまで全く検討してこなかったからだ。
維新は第一党とはいえ過半数に届かず、野党は全党が反対なのだから公明党が裏切るまでは廃案確実、検討する意味などなかった。
いざ住民投票となるまで維新以外の議員は提案をろくに理解していなかったし、おかしな主張をして突っ込まれるわけにもいかなかったので、大阪市が無くなると感情に訴えるか、市民サービスが低下するぞといつもの脅しを繰り返すかしか出来なかった。
加えて、そもそも自分たちも二重行政を日々感じながら手続きや会議をこなしているのだから、その解消案に本心から反対できるわけもない。
変化に対する不安を口にするだけなんて市民のやることで、協議して不安を取り除くのが議員の仕事のはずだが、経緯によって出来なかった。そう考えると反対派議員の言動も理解はできる。肯定はできないが。
案の段階で大きな問題はない。しかしやってみなければ分からないことはたくさんある。
東京を手本にしているとはいえ全く新しい制度で、別の土地で条件も異なり、完全にうまく行く保証はない。
それでも良い案なのは間違いない。なぜか。現在の大阪府と大阪市という制度があまりにも悪いから。
あえて言えば大阪都構想は普通である。まともに考えればそうなるべき姿であって、現状がそうでないことが異常で、非効率きわまりない。
そんな致命的な問題のある組織を、許容できるだけの経済的な余裕が大阪にはとっくに無く、
数年で破綻することは自明であって、今すぐに効く経済の特効薬が無いなら、今すぐに制度を転換するしか生き残る方法が無い。
大阪都構想が騒ぎになり、下降一方だった他府県からの注目度も強まっている。
成立すればさらに注目され、一種の都構想特需が発生するだろう。これを契機に企業や人が活気づき、ビジネスマンや観光客が増えるといった効果は、2年後を待たず明日から見られるのではないか。
橋下徹は府知事と市長の職務を歴代の顔ぶれよりうまくこなし成果を上げた。反対派の議員でも橋下徹の首長としての手腕は評価している。
大阪府の借金の話などは仕組みが複雑で理解しづらく非難もされたが、任期中に債務を減らし会計を適正化した。
よくコストカットが非難されるが、例えば文楽は現在は盛況になり締め付けは結果的に文化継承に役立っている。
カットして生まれた財源は財務改善だけでなく教育と医療を中心に手厚く配分され、まずいと騒がれた給食も既に改善がはじまっている。
伊丹と関空を統合して関空の利用料を下げたことで外国人観光客は数倍に膨れ上がった。専用のターミナルを設置してLCCも大阪が一人勝ちの状況。
地下鉄の料金を下げ、可動柵を設置し、トイレを綺麗に作り直した。今までどうしても出来なかった高速道路がやっと建設に向け進み始めた。
つまり簡単にまとめると、非常に有能だった。問題もあったが、良い面の方がずっと多い。
橋下徹は性格に少々難点があるが、稀に見る有能な政治家だった。
だが人々の印象よりずっと、純粋でバカ正直な政治家でもあったらしい。
橋下徹はたったいま、大阪都構想を可決させようとしていない。案を作り、説明して、あとは大阪市民に委ねた。
問題だらけの大阪を真っ当な姿に是正しようといくら信念を持って活動をしても、有権者の反対票が多ければそれまで。
一生を賭けた大仕事が実らず、残念なことにバッドエンドではあったが、それが橋下徹の考える政治家だったのではないか。
このまま大阪の舵取りを続けて貰えたら、数十年前の日本のように、あるいはアメリカのように、首都は東、経済の中心は西という国になったかもしれない。
世界に誇れる統合リゾートと、世界一のハブ空港と、交通網が快適に整備され、市民サービスは充実しているのに負担は低い。
大阪にもディズニーランドができたり、中小企業が成長スピードを競い合ったりといった夢のような話も、なかには実現するものもあったかもしれない。
東京ドームとかいう謎単位(http://anond.hatelabo.jp/20150510091631)という記事にはてブがたくさんついており、
そういえば、「<単位>としての東京ドームの誕生」とかいう謎卒論で、単位をもらって大卒の肩書を得たことを思い出し、
おぼろげな記憶ながら内容を抜粋し、Q&Aの形でエントリを書いてみようと思いついた。
A1. 違う。東京ドームの前は、霞が関ビルディングが単位として使われていた。ちなみに、1東京ドーム = 2.48 霞ヶ関ビル。
Q2. いつから単位が、霞が関ビルから東京ドームになったのか?
A2. 次第にとしか言いようがないが、確認できる限りで初出なのは、東京ドームがオープンした1988年3月18日の翌日の読売新聞のコラム
『東京ドームの大きさは、 霞ヶ関ビル何杯分?』。ここでは、約2.5倍と紹介されているが、ほかにも上野動物園と比較されており、
明確に読売グループが新単位を創出し定着させる意図を持っていたことが分かる。
A3 結果的に単位としての東京ドームは、日本国内で受け入れられている以上、ある程度、単位としてのふさわしさを持っているのは事実。
しかし、日本テレビ「ズームイン!!朝!」のテレビ番組表欄を、1985年から2001年までみると、オープン後1年経った1989年でも東京ドームについての
特集が3か月に1度程度ある。そして、1990年には『東京ドームは○○の何個分!?』という特集コーナーが設けられており、
この特集コーナーは毎年1度はあった。また、めざましテレビでも、1995年、1997~2002年に、同種の特集コーナー(おそらくめざまし調査隊)
でこれが取り上げられている。東京ドームは、阪急東宝グループとも因縁浅からぬものがあり、フジテレビは阪急東宝グループと関係が深く…
というのもあるかもしれない。もっとも、関西だと甲子園という単位が通用しているところから考えると、
単に関東のテレビでは、そのころには、東京ドームという単位が定着していたのかもしれない(少なくともメディアの中では)。
また、副都心開発にのってお台場に移転しようとしたフジテレビの社屋を表すのにも、東京ドームという単位が一番適切であったはずである。
Q4 やっぱりそれでも東京ドームは単位として不適切。大きさが分からない
A4 1989年にすでにそれを言った芸能人がおり、石橋貴明が、『とんねるずのみなさんのおかげです』のコーナーの一部で、東京ドーム何杯分とたとえるアシスタントに、
「わからねーよ」と襲い掛かっている(youtubeに昔あったのだけれども消えた)。このように、東京ドームという謎単位は生まれて間もなくから、
その単位のふさわしさを疑問視され続けてきた。もっとも、石橋の発言の後、東京ドームの広さの説明が番組中に挟まれたのは言うまでもない。
いわば、東京ドームという謎単位は、常に疑問がさしはさまれるがゆえに、コンテンツとして消費され続け、<単位>としてメディアに使用され続ける側面も持つ。
作者と会うのは義務というわけではなくて、
ある作品が好きなら、それを作った作者がどういった人物なのか気になるものだと思う。
やっぱり気になる人物がいたら、
実際にお会いしてお話ししてみたくなるのが普通の反応だと思う。
でも一方で、みんな作者のことをそれ以上知るつもりがないのではないかとも思うんだ。
作者がその作品をどう考え、どうやって作ったか。それをみんなは知りたがっているように思う。
それは作者論ではなく、作品論だと思う。大事なのはその先なんだ。
その人がどんな趣味をもち、どんなものを食べていて、好きなテレビ番組は何で、
よく見るネットの記事は何で、よく遊ぶのはどんな人で、家の掃除をしているかとか、寝るときは布団なのかベッドなのかとか。
これらを知ることは完全にストーカー行為で、プライバシー侵害だが、それは仲が良くない場合の話だ。
仲が良くなれば一緒に泊まって、一緒にご飯を食べて、一緒に話が出来る。
作者として見るのではなく、一人の人間としてその人を見る。それが作者論だと俺は思う。
ファンとしてのその人、知り合いとしてのその人、隣人としてのその人、伴侶としてのその人、家族としてのその人。
声優ファンにはこの「一人の人間としてみる」という部分が抜けている人が多いように思える。
汚い話になるが、自分の好きなアニメキャラの声で喘いでほしいと言うだろう。少なくとも俺の場合はな。
仮に何かの手違いで結婚できたとしよう。その声優自身の気持ちはどうだ?
私の全てを見てほしいと思わないだろうか?
アニメキャラクターの中の人としての私ではなく、一人の人間として私を愛してほしいとは思わないだろうか?
かつて阿難という人がいた。
彼は仏教の始祖である釈迦につきっきりで身辺の世話をし、最も彼の教えを聞いた人だ。
阿難にとって釈迦という人物は、現代社会で祀り上げられているような
まるで神のような存在ではなく、尊い考えを持った優れた人物であるとみていたことだろう。
まあこれも、実際に阿難に会ってみないとわからないことなんだけどね。
実際は嫌々付き添っていた可能性も無きにしも非ずだからね。
言うなれば、作者論を語るということは、その人を語るということなんだと思うんだ。
だから「作者」って言い方自体が作者論を語る上では不適切なんだ。
「作る者」と「見る者」。両者は同じ人間のはずなのに、何か見えない壁があって、
「作者」というのは遠い雲の上の存在のように感じたりする。
忘れてはいけないのは、その人と自分は、同じ空の下で呼吸しているということ。
(皇族とかも肩書きだけ、と言いたいところだが、さすがに彼らにお近づきになるのは難易度高いよね。)
作者論を語るなら、まず会おう。そして、話そう。
昨日、TOKYO MXで放送されていた『みるみるミルキィ』を実況板を見つつ視聴しようかと思ってた。
仕方がないので番組だけを見ていたが、見ていると段々「声優に鼻の穴を伸ばしている俺最低」という考えが頭をもたげてきた。
その後しばらくして実況板が復旧し、いつものように実況を見ながら『みるみるミルキィ』を視聴した。
視聴後、ふと「実況板を見ないとテレビ番組すら満足に見られなくなったのだな」と思った。
普通の人間なら低俗なバラエティにも、異性に媚を売り金をむしり取るアイドル声優にも興味を抱かないのは分かっている。
一方自分は毎週、声優さんが出てくるバラエティ番組を部屋で一人で見ている。
そのことに対する嫌悪感を、実況を通じ紛らわしているのだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20150410101845
エウリアンにはついて行くな
秋葉原などの繁華街で絵葉書を無料で配っているお姉さんたちがいる。
しかし、ついうっかりお姉さんから絵葉書をもらってはいけない。
言葉巧みに画廊へと連行されて、気が付くと大して価値もない絵(というか版画)を、何十万ものローンを組まされて買う羽目になる(絵画商法)。
エウリアンにも新社会人にも全く興味はないんだけど、版画への冒涜は許さん。
君が代に過剰反応する左翼のように、どんな文脈だろうと、どんな事情があろうと、版画をdisられるとプッツんしてしまう。
エウリアンの売る版画というものがどんなものか知らないけれど、これだけは言える。
生でみなければ、版画の魅力はわからない。
否、
触ってみなければ魅力はわからない!
断言するけど、江戸時代の浮世絵から最近の現代作品に至るまでの伝統木版画、これを見たことがある日本人はほとんどいない。
そんなものは、世界の車窓からのDVDをみて海外旅行に言ったと言ってるようなもの。
和紙の質感!どんなに拡大しても粒子が見えてこない無断階のグラデーション!摺りによって出来た凹凸!
まず、床や机において窓から差し込む斜めからの光のもとでみて堪能。
テレビ番組の映像や、窓から差し込む車のヘッドライトが絵の面を瞬間的に照らした瞬間も美しい。
入ってくる光の方向、光の種類によって、表情が変わる。
そして、やっぱり手に持って鑑賞だ。
パンツが見えそうで見えないグラビアを、下から覗いてみえないはずのパンツを見ようとする、アレを浮世絵でやるとすごい。
ちょっとだけ見える。見えないはずのところが本当に見えてくる。
目の錯覚でしかありえないんだけど、紙のたわみと、光の加減で、ときどき本当にみえてくる。
うわぁぁんってなる。
ぶっちゃけ、浮世絵美術館、あんな一般展示なんかやめてしまえ!!
額やショーケース越しでしか見れないなら、触れないんなら、カラーコピーで十分だろ!
額装やショーケースに入れる職員の目しか楽しませられないなんて、時間も無駄!文化財の無駄!
触らせないんなら燃やしてしまえ!
よさが微塵も伝わらないのに飾ってみせる価値が有るのか?
1億円と書かれた小切手を飾って見てるようなもんだろ。
医学とか物理学とかは、100年前と今では大きく違うけど、絵は、たいした進歩してないだろ?
ぶっちゃけ、1万5000年前のラスコーの壁画と、そのへんの美大生の絵のどっちが上手いかって言ったら、芸術とかよくわからん俺にはどっちが上かわからん。
でもね、印刷という技術を手に入れた、触れることが出来る!その素晴らしさ!
俺ね、江戸時代の浮世絵の価値は認めるよ、でもさ、浮世絵のいいところって、ライブ感なわけ。
絵師が描く、描いた絵は板に貼り付けられて、その上から刀を入れられて紙ごと彫られてゴミとなってしまう。
絵師の絵を活かすも殺すも彫師次第。
それから、色の指定があって、色の数だけまた彫りがあって、そんで摺師が摺って、試しに作ったものに対して、あーでもないこーでもないっていうディスカッションがチーム内でされたわけ。
色の調節をして、時に柄を変えて、セッションによって出来上がる。
売りだしたあとの、町の人々の評判さえも取り込んで、みんなが主役のライブだったわけ。
俺、音楽はよくわかんないけど、たとえしょぼいバンドの小さなライブハウスでのライブでも、有名フィルの録音にも負けない感動があるでしょう?
一番有名どころだと、北斎あたりだと思うけどね、もうね、ヤバいの。
元々が天才でしかも努力もしまくったらこうなるってやつ。努力ってのが普通の努力ってんじゃないの。
だいたいにおいて、他派の画法を学んで破門されたあたりからだけど、もう何でもあり。
大和絵も漢画も銅版画も油絵も、手段を選ばず学んでるようで、見りゃ誰でもわかるんだけど、もうホントヤバい。
すべて独学で。本読んで覚えたってより、ひたすら描いて描いて描きまくって吸収したという感じで。
貧乏の理由が、お金を封筒でもらったまま中身の確認もせず、支払いの時には「その封筒からもってけ」くらいに無頓着だったからという馬鹿。
掃除をすれば、「ここにあった蜘蛛の巣どこ行った?(描きたかったのに)」くらいの馬鹿。
誰よりも自信家で、本が売れたのは俺の挿絵が良かったからだ!と言って作者と喧嘩する傲慢な一方で、猫がうまく描けないっていう理由で80歳で悔し泣きをする馬鹿。
30回画号を変えるってのがもうよくわからん。たとえば漫画家が30回名前を変えてデビューするとかないだろ。売れっ子が新人に戻るってことだろ。馬鹿かと。いや馬鹿だよ。
そんな絵中心のわけのわからない生活を、88歳で死ぬまで続けちゃうってのがもうね。
例えば、水木しげるが週刊少年ジャンプで週刊連載をしてて、CG(北斎はコンパスや定規やらも使いこなしてるようで、幾何学や製図も知ってる様子。当然おそらく独学)を使いこなし、ありとあらゆるジャンルを書き分け(春画から、行ったことのない中国の古典小説の挿絵まで)、30回新人デビューとかしてたら、人間じゃないだろと。
で、そんな北斎の線ときたら線の始まりから終わりまで、この線以外じゃダメっていうカンペキ。筆の入り、筆の終わり、太さ細さ、もうすごい。線が凄いってわかるってことは、彫師が凄い。フリーハンドじゃアリエナイような精密で、コンパスや定規ではありえないような強弱があり、油絵なら何度でも塗れるだろうし鉛筆なら何度も消せるし、CGなら何度でも書き直せるけど、最小限の輪郭線で森羅万象を切り取ってる。
写真を目指してたんじゃないだろうか。
写真というものがなかったので、目指してたというのは変な話だけど、露光時間調節やピントズレに近い表現があって、写真を目指し、写真を超えたなにか他のステージに足を踏み入れようとしてた、ように思う。写真なんかなかった時代に。
で、それがわかるっていうのは、彫師がすげぇ。
摺師がすげぇ。
俺がこの数ヶ月で買い集めた70枚ほどのほとんどは復刻だけどさ、復刻もまたライブなんだよ。
摺る工程を見せてもらったわけ。
濃い絵の具を数種類用意するだけで、都度混ぜて薄めて版木に塗り、摺る。
なんということだと思わないか?同じものをたくさん作るなら、同じ濃度に調節したプレミックスを作っておくべきだろう?
絵師と彫師と摺師だけじゃないの。
版木を作る職人、紙を漉く職人、紙にドーサを塗る職人、絵の具を作る職人、バレンを作る職人、数えきれない職人たちのライブが木版画。
だから響いてくる!
で、ライブが存続するためには、絶えず誰かが買わないとダメなわけ。
材木から板を作る職人は消えちまったそうだよ。ただ板を平らにするだけじゃダメらしい。
バレンを作る職人も消えかけらしい。
だからさ、エウリアンが木版画を扱ってるかどうかはしらんけど、なりふり構わず売るということは少し理解できる。
俺だって、1ファンとして、こんな見苦しく匿名掲示板で見苦しく宣伝してるけどさ、どうせ中の人だろ、ステマうぜえって思われてるんだろうけど。
日本中の浮世絵美術館が燃えることより、職人がいなくなることのほうが損失はずっとずっとずっとデカいんだよ!
復刻浮世絵なんて一万円そこそこで買えるんだよ!
数万円となった山桜の版木を何枚も使うわけだし、キャリア何十年の職人が一月かけて彫るだけで、いくらの人件費だ?
キャリア何十年の摺りの職人が、今では手に入らない材料で自作した絵の具で、人間国宝が作った紙に摺る。
一枚200枚やそこらは売れないと滅びるだろ。
お願いだから買ってやってくれよ。
俺がビルゲイツだったら、もっと買ってやれるんだけど、安月給なサラリーマンじゃこれが限界なんだよ。
財布に入ってる1万円札、あれに1万円の価値があるのか?あんな小さな銅版画にわくわくするか?
せっかくだから文句を言いたい。
千円札の富士山わからんでもない。写真を銅版画にするなら許せる。
5千円札、2千円札、屏風絵を銅版画にするとか、絵巻物を銅版画にするとか馬鹿なの?オマージュにしたって、もうちょっと工夫しろよ。
100万円札を和紙で作れ!木版画で作れ!一枚一枚違う味があって味があるだろ!
偽造されてしまう?
偽造けっこう!本物と見紛うような彫りと摺りの技術が世界中に溢れれば、日本銀行の信用がどうなろうと、人類の幸福の絶対量は増加する!
木版画紙幣の発行は無理でも、一つの可能性として、造幣局で木版技術に関わる職人を世話してやってはくれないだろうか。
造幣局に一人くらい、材木から板を作る職人がいたり、絵の具を調合する職人がいたっていいだろう?
多少脱線しましたが、そういうわけで、ちょっとだけエウリアンを擁護してみました。
終わり。
考えてみればライブって凄いよな、芸術家って、基本的に俺が俺がじゃないか。
当然だけど、絵も彫りも摺りも極めることなんか出来ない。
それが、分業制、買う客の声も含めて、一人一人が主人公、思いがけない方向に転ぶ面白さ。
今でも、現代作家が版画にするために専門業者に頼んだりはするけれど、基本は作家の意思が優先で、作家の作品という域を出ない。
やはり、売れないことには、ちまたに溢れないことには、あれがいいこれがいいと話題の中心が木版画にならないことには、木版画に未来はない。
音楽としてどうかはわからないけど、AKBの会いにいけるアイドルという路線は、一つ評価したい。
あれが、理想の姿。
巷に日々木版画が溢れ、あれがいいこれがいいと、皆が好きに意見を言う。
町の人々の意見を取り入れ、流行の先端を走り、絵師や彫師摺師が腕を振るう。
たまらんじゃあないか。
ネットに毒されてるよこの人
10年前は円盤買って貢献なんて言ってる人なんてほとんど見かけなかった
アニメというかテレビ番組はもともとスポンサーありきの商売だったんだから、製作委員会方式で作って自分たちで売って回収という業界の事情まで考える必要があるのか
「お金を落とす方法がない」とか言ってるけど単にお金を払いたくないとしか聞こえない
まあ、続編を作って欲しいという人に向けてクラウドファンディングで寄付を募るとかくらいはやってもいいような気はする
今某テレビ番組の未解決事件ってのを見てるんだけど、チェゲバラに傾倒して原著で読むために獄中でスペイン語マスターって
とこにすごいよなあ…と思った。
いや、この人の場合元々頭がよかったんだろというのもあるんだろうけど、案外
こういうケースって多いよね。
たとえば韓国スターにハマって韓国語マスターしたオバちゃんたちも、私にとってはすごいと思っている。
もちろん韓国語は日本人にとって割とマスターしやすい言語という説もあるのは知ってるけど、
でも、私もアメリカのドラマ好きではあるけど、英語ちっともマスターできないし
義務教育から10年以上勉強してちっとも「使える」もんにならなかった立場としては
本当に素晴らしいと思う。