はてなキーワード: オアシスとは
幼いころに観た、「ドラえもん のび太のドラビアンナイト」には、ぜんまい仕掛けの舞姫が出てくる。しかし、まだ自分はそれに欲情することはなかった。パンツがエッチなものと認識はあったのに、しずちゃんのへそ出し衣装にも、それどころかオアシスでの全裸水浴にも何の感慨も抱かなかったのである。
もう少し大きくなってから、とある学習漫画で見たベリーダンスには、なぜかエッチな気持ちになった。確か、アラビアと聞いて半裸の女性が踊っている不埒な妄想をしているシーンだったような気がする。性の目覚めとは不思議なもので、その時に出会ったものとタイミングによって、その後の性癖に多大な影響を与えてしまうし、パンツの向こうにある女性器に興味が出てきたのは、中学生以降になってからだった。
文学でベリーダンスに出会ったのはオルハン・パムク、2006年のノーベル文学賞作家を読んでいた時だ。結婚式などの場にベリーダンサーを呼ぶべきかどうかについて議論している個所が作中に出てきた。どうやら、ベリーダンスの持っているイメージや社会的な意味が、ヨーロッパとはかなり違うのではないかと気づいたのはこの時である。
今回はかなり日英のウィキペディアの記事が充実しているので、そこから抜粋しよう。
そもそもベリーダンスには二種類の社会的コンテクストがある。一つはRaqs BaladiまたはRaqs Shaabiと呼ばれる社交ダンスで、別に露出度の高くない通常のファッションで行われる。保守的な地域では男女別に踊るものとされている。もう一つがパフォーマンスとしてのダンサーだが、社会的地位はまだ高くない。想像する通り、イスラームでは禁忌とされる肌の露出を行うからである。
衣装はbedlahと呼ばれ、典型的なのはぴったりしたブラトップ、臀部のベルト、そしてロングスカートかハーレムパンツの組み合わせでできている。ブラとベルトはビーズやスパンコール、クリスタルやコイン、ビーズや刺繍で飾られている。ベルトはスカートと一体のこともあれば、別々のこともある。
ベリーダンスの起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。たとえば、紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。ウィキペディアにはこんなことが描かれているが、画像がないのがもどかしい。紀元前14世紀のネブアメンの墓には、少女が帯だけを身に着けて裸で踊る姿が描写されているが、紀元前5世紀とは年代が合わない。紀元前13世紀のもので、トップレスのダンサーの姿を描いた陶片も出土している。
健全な精神がどうたらという言葉で有名なユウェナリスや、風刺詩人のマルティアリスは、現在のスペインや小アジア地方で波打つ動きやカスタネット、太ももを震わせて床に沈み込む所作のある踊りを記録している。
そして、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる、とあるが、これもウィキペディアはリンクを貼っていない。やれやれ。
ちなみに、アンダルシア地方でロマ人の踊りと融合してできたのがフラメンコだという説がある。
エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍は芸人や音楽家としてられるガワーズィー族と遭遇した。フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた踊りに徐々に引き付けられた、という。
現在のエジプトのベリーダンスの多くはカイロで行われ、その起源はナイトクラブにある。多くのダンサーはエジプトの映画に出演し、エジプト様式のダンスの発展に寄与した。
プロのダンスはエジプト人に限られていないが、2004年に当局は外国人のダンサーがパフォーマンをすることを禁止した。現在は解除されてはいるが、排他的な雰囲気は残っているようだ。
エジプトでは、ダンサーはbedlahを着用している。また、メッシュで覆われた切り込みの入ったドレスを着ることもある。エジプトには、ダンサーが着用できるものとできないものに関する法律があり、文学作品の検閲に関する法律第430号によると、ダンサーは乳房や腹部を含む下半身を覆わなければならない。事実、衣装については「Raqs sharqi」の項にも詳しいが、1950年代以降、エジプトではベリーダンサーが腹部を露出して公の場でパフォーマンスをすることは違法とされ、ワンピースガウンを着用することが一般的になってきている。
と、書かれているそうだが、一般的には、肌色の薄手のメッシュ生地で腹部を覆うだけで十分である、という記載もある。カイロの多くのダンサーはこの規則を無視しているが、この規則はそこまで厳密に施行されておらず、腹を出してパフォーマンスをした場合は単に罰金を科されるだけである。しかし、外国人のベリーダンサーが衣装を着て逮捕されるという事件が何度も起きているとのこと。
ブラとスカートを別々に着用する場合は、ベルトはほとんど使用されず、タイトでなめらかなlycra(?)のスカートに直接刺繍が施されている。腹をカバーするために、薄手のストッキングを着用しなければならない。
エジプトのダンサーは伝統的に素足で踊るが、最近では靴を履いてハイヒールを履くことも多い。また、抑制のきいた正確な動きでも知られている。
子孫繁栄を祈る踊りでもあるため、中東各国では結婚式に欠かせないそうだ。なるほどパムクの小説に出てきたのもこれで説明がつく。
トルコのベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていた。
多くのトルコの衣装の特徴的な特徴は、V字型または三角形のベルトが含まれており、上端の周りに形を整えたり、輪郭を描いたりすることができる。また、ブラジャーとベルトの両方に多くの装飾やビーズのフリンジが含まれる。スカートは、しばしばエジプトの対応するものよりも充実しており、lycraよりもむしろシフォンやベルベットで作られている可能性が高い。
1980年代から90年代にかけては、両足をヒップまで露出させたスカートや、広く開けたブラジャーやはなはだしくはスパンコールのみなど、非常に露出度の高い衣装が採用された。何があったのだろう?
今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。ト
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいた。しかし、今日のトルコのベリーダンスは、エジプトやシリア、レバノンと言った姉妹様式よりも、ロマ民族やローマ人の様式により強く影響を受けている。現に、現在のトルコのダンサーの多くは、ロマ民族にルーツを持つ。トルコの法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式や衣装に制限を課さなかった。
エジプトとトルコの様式の中間であると言われる。レバノンダンスは、古典的なオリエンタルダンスをベースにしながらも、現代的でもある。大きなステップ、体幹の後方への傾き、ヒップローテーションのねじれ、大きくて忙しい腕、そして多くのシミー(体自体は動かさず、肩のみを前後に動かす所作)がある。
衣装については、腹部を見せることを禁じる規定は存在しないため、bedlahスタイルが一般的である。スカートはエジプトのものよりも透けている傾向にあり、ダンサーの身体がよく見える。ヴェールはエジプトと比べて広く用いられ、ハイヒールも一般的。レバノンのダンサーはエジプトよりも衣装の自由を享受している。
アラビアの様式によく似ており、イランではベリーダンスのことをアラブのダンスと呼ぶ。
その他の伝統的な様式がある。興味深いのは、民族的なスタイルのブラに着けられたコインは中近東のものとは限らず、日本や中後のものらしいものが含まれることだ。参考、ブラトップ。乾隆通宝とあるので、18世紀のものだ。当時からそこまで交易網が広がっていたことがありありと浮かぶ(インド洋交易の歴史はもっと古いが)。
ベリーダンスという名称も、https://en.wikipedia.org/wiki/Belly_dance#/media/File:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_011.jpg:title-ジャン=レオン・ジェロームの絵画]の俗称に由来しているという説がある。この絵画では腹部どころか乳房をあらわにして兵士たちの前で踊っているが、この画家は空想を織り込むことで有名だ。たとえば別の有名な蛇使いの絵画]
の後ろにある青い壁と床の組み合わせも、確かどっかの宮殿とモスクを適当に組み合わせたもので、正確さに欠けている。異国情緒あふれていて魅力的だが、今ではたぶん許されない表現だろう。実際、ベリーダンスからイメージされるものは、元来その地域のものであったものとは異なる。
普通、ベリーダンスの衣装としてまず想起されるものは、1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装で、たいていビーズかコインがブラの周辺に飾られたブラジャー風のトップスで、腰のベルトにもビーズかコインが飾り付けられている。下半身はハーレムパンツ、ストレートタイプのスカート、サーキュラー・スカート、パネル飾りがあしらわれたスカートである。
20世紀のバーレスクや映画産業がこうした幻想を広めたのだが、当のエジプト人ダンサーたちもまたまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏うようになった。映画でも、セクシーな悪役のイメージとも結びつき、胡散臭いものとして見られることも増えてしまった。このイメージの払拭には時間がかかった。
今でもカイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために露出度の高いドレスを採用している。身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装とは異なるのである。
https://dic.pixiv.net/a/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%9C%8D]
踊り子と聞けば川端康成ではなくこっちを思い出してしまう人は多いだろう。
たぶん、日本のゲームでベリーダンス的な幻想を多くの青少年に植え付けたもっとも古いものの例だ。今に至るまで踊り子といえばへそ出しであり、無数の同人誌で多くの人を悶絶させたはずである。ただ、中東のベリーダンスは伝統的にはここまで脚を出さない。
【マギ】モルジアナさんの踊り【ぬるぬるな高画質】 - ニコニコ動画
現代の漫画でオリエント幻想を一番前に出しているのはこの作品だと聞いたのでリンクを張る。読書の傍ら、漫画も読もう読もうと思って全然読めていないのが悔しい。短篇ばっかり読んでいる。
ただし、書かれているのが謝肉祭とのことであり、結婚式の場ではないようだし、伝統的な衣装とは幾分異なる。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21377022]
英語版のウィキペディアでアニメの中のベリーダンスとして紹介されたのがこの作品だ。鳴子ハナハルの作品については、エロ漫画ソムリエの友人から薦められて楽しく読んだ。大体、彼が進めてくれるのはストーリー重視で性欲があまり刺激されないものが多いのだが、それはさておいて、上の動画は深夜アニメなだけのことはある。
しかし、衣装や腰の動きは半ばリオのカーニバルじゃなかろうか。未来が舞台だから文化が混交しているのかもしれないが。
Intimate parts in Islam - Wikipedia
で、実際イスラームにおけるへそ出しファッションってどのくらいのタブーに当たるのか?
上記記事によれば、身体のどの部分を覆うべきかについては大きな差があるようだ。主要な見方をまとめると次のようになる。
とはいえ、トルコのようにかなり世俗化しているところもあるし、特に異教徒に対して顔を隠すべきかはかなり差があるようだ。
実際のところ、イスラーム圏でへそ出しダンスって普及しているの? と思っていたので、意外と広まっていたのには驚いた。しかし、あれだけ広い地域に広がっている宗教なのだから、戒律をどのくらい守っているかには地域差があって当然だし、都市と農村では法の運用方法にも差があってもさほど驚くべきではないだろう。悪名高い女子割礼や名誉の殺人にしたところで、イスラーム本来の教えというよりはその土地の部族の慣習が強化された面もあるようだ。海外に行くと善意から両手を合わせた挨拶をしてくれることがあるが、タイ人と日本人を混同するような誤解を、きっと僕らもしていることだろう。
って大変じゃない?
依存先を複数用意することを上手くやれるのって、相当な文化資本とか人脈とか、かなりの「持つ者」にしかできないワケで、「持たざる者」にとっては、やっと依存先を発見すると砂漠の中のオアシスをみつけたかのようにそこにドップリ浸かってしまいがちなのでは?わたしですが・・・
ソシャゲ課金しすぎて破産したり、アイドル声優がご報告したらCDを割るファンがいたり(耳が痛いですが)、奥さんに家事や身の回りを依存しきっていて亡くなってしまったらなにも生活できなくなる昭和おじさんとか、ギャンブル依存症、アルコール依存症、いろいろあるけど。
一つの物ごとに大きく依存しすぎていて、そこからハブられてしまって途方に暮れてるんですけど、いま。その依存先の固め方が甘かった。
まだ自分は、反省して長期的な見直しができるような精神状態じゃないんですけども。緊急避難的に休まなきゃならない状態。とてもつかれてる。
phaさんの書いたどこかの本だったか、なんか書いてあったきがする。
「一人で一生できる依存先」「みんなでできる依存先」「一時的で、何年かでなくなる依存先」みたいに、異なる性質毎に分散依存しておくのが堅いよね。みたいな。違ったかな。どこかで聞いたと思う。誰にも壊されないプライベートで堅い精神的依存先を所有したいよね、それは自己肯定感とイコールかも知れないけども。それを持たざる者は多いので、外に依存先を求めるざるを得ず、人生が不安定になる。
たとえばオンラインサービスの類はいつかはサービス終了があるんで、そのつもりでいなきゃダメだ。しかし、たとえば非電源系ゲームだとか、オフラインで動くゲーム機だとかは半永久的に遊べるかもしれない。バブルシステム基板のグラディウスなんかは危ういですが。
諸行無常。
その点、伝統宗教は優秀だよな。少なくとも自分の人生が終わるまでの期間は存在しつづける期待値が高いもの。まあ、まずサービス終了することは無いでしょうね。そういう安心感がある。
自己防衛。当然だよね。VTuberなんか(人生を賭けた精神的依存先として)あてにしちゃダメ。あてにしちゃうから文句が出る。
発電を核、水、火、風、光、などに分散して安定性を増すのと同じで、人生の依存先も複数用意しないと安定しない。
収入源を会社だけじゃなくて副業にも確保するとかね。それができている人はかなり少ないでしょうけれども。
CD-RやDVD-Rも経年劣化で読み出しできなくなる、むしろプレスROMディスクですら危ういんですよね。だから数年毎に物理的に変えながらHDDバックアップ、というほうが堅いでしょうね。"ハード"ディスクだけに。
生粋の田舎者である自分にとって「広告の汚さ」が東京の第一印象だった。新卒でようやく都会に触れる人間というのも今時珍しい気がするので記録しておきたい。
都心に向かう電車から見えるのは、もはや慣用句と化している「高収入バイト」の嵐を手始めに、クソデカ極彩色で0(ゼロ)の文字が並ぶ謎の不動産屋、いつ切れたのかもわからないのにこちらを向いているラブホのネオン管など。漫然と見ていると不意に現れたTENGA(正確にはエムズ)の看板がオアシスに見えた。
車窓から見えるそれは、地方都市の駅周辺では地元の大企業が手掛けた綺麗なものが多く、都心へのベッドタウンに近づくにつれ汚さを増し、都心の周縁でピークに達し、そこから急速に金の塊のような意匠の凝ったきれいな広告に置き換えられる。元から規制が厳しそうな屋外広告という条件に加え、おそらく携帯やスマホの普及でボーっと窓の外を見る人が減り元から低い広告価値が下がりきっているのだろう。内容の低俗さよりも「更新の無さ」のほうが印象的だった。
その中で、一番自分の目を引いたのはボロボロの「日本一のテレクラ」の看板だった。
さぞかし有名なのだろうと検索してみてもほぼヒットしなかった。自分の感性を否定されたようで悲しい。が、これやこれなど、数件はあった。だいたい似たようなことを感じてる人も一応居た。安心。看板のみてくれからその実態にも興味が湧いてきた。
まず「テレクラ」というワードからして高ポイント。一応若者である自分にとって、ほんのり聞いたことがあるだけで実態は全く分からないが"古い"ことだけは伝わる。Wikipediaのテレフォンクラブの項目を見ると、テレクラの個室に入って待ってると女性から電話がかかってきて成年未成年関係なくセックスに発展しまくってたらしい。草。どんな時代だよ。流行ったのはバブルの前後?で、法改正と規制条例で一気に廃れたようだ。平成初期のtinderといったところだろうか。ただこの辺の基礎知識は老人の巣窟であるはてなの住人の方が余程詳しいだろうから割愛する。
看板の下部に社名らしきものがあるがイマイチ読めないし、勿論フリーダイヤルも検索に引っかからなかった。ただこのツイートにそれらしき社名がある。規模感が分からないが34店舗というのは大きい部類に入るのだろうか。18歳未満の利用を禁じる記述があるので、先述のwikipediaと照らし合わせるとツイートにある店舗は2002年の風俗営業法の改正以後まで営業していたということになる。意外と最近の話で草。とはいえ20年近く前で自分は小学校にも入ってない時代だけど。
このグループ名で検索すると2002年の2chのスレ(正確にはbbspinkか)が出てきた。レスはどれもテレクラを完全に過去の存在として扱っている雰囲気だが、この時点でもまだ一応現役の存在だったというのは興味深い。各レスが業者の宣伝という可能性も全然あるけど、間接的にではあるが過去の盛り上がりのようなものが伝わってくる。
このスレの44に、まさにボロボロ看板の主たる店舗の記述がある。
『またーり、ほんわか、かつ、しゃきしゃき』がどんな状態なのかは私の想像力が及ばないところであるが、ともかく看板の店は実在し「日本一」かは分からないにせよある程度の盛況を極めた場所であったようだ。
なぜか後で寄った四ツ谷駅で、いかにも上級な雰囲気を纏った小学生たちを眺めていると(犯罪)、都会はこんな広告がいっぱいで子供たちが見たらどうするんだろうとか思ったが、中央線で都心に出てくる人間なんて長い通勤でくたびれたおっさんか、金は無いが都会への夢に満ちた田舎の若者くらいかもな、という偏見もあり、それなりにターゲティングされた広告なんだろうなと勝手に納得した。怒涛の高収入バイトを見る限り今も昔も変わらない傾向なのかもしれない。
ボロボロ看板の出元を探るのはそこそこ面白かったが、この調べものごっこのせいで自分の中での「都会の第一印象としてのテレクラ」がゆるぎないものになってしまったのはかなり後悔している。
「誰もが シンデレラ」
今のデレマスを見たらふざけてるのかと思うようなフレーズだ。登場アイドルの偏り、明らかに消化試合だった声無しSSRの実装、イカれたキャラのセンター化。これまでそれとなく隠れていた格差がこの2年で尽く表面化されてしまった。
どうしてこんな事になってしまったのか。おおよその人はこう答えるだろう。「運営が下手」「運営のゴリ推し」と。大半の人は運営の無能さを揶揄、罵倒する。偏りは事実であるし虐げられている側のプロデューサー(あるいはファン)はそう感じても仕方ない。
アイドルマスターシンデレラガールズは当初「普通の女の子がアイドルに」をコンセプトとして作られたコンテンツであり、非常に多くの多彩なキャラクター全員(ここでは一応183人とする)がシンデレラのようなお伽話の主人公になれるというストーリーであった。
このシンデレラというお伽話、前半では魔法使いに魔法をかけてもらってお姫様になり舞踏会へ、後半では12時に魔法が解けた後に王子という相方に見つけてもらってハッピーエンドというお話になっているのだが、デレマスではどのように扱われているのか。
プレイヤーは魔法使い(プロデューサー)となり、女の子に魔法(魔法ではないが)をかけてお姫様(アイドル)にするという部分まではすんなりと認識出来ると思う。とりわけシンデレラは舞踏会で周囲の女性を差し置いて王子と踊るのだからトップアイドルを目指すのもここから来ているのだろう。
ではその王子とは?プレイヤーは魔法使いなので王子ではない。そう、運営である。お姫様となったアイドルは運営という名の王子が造ったホール(ゲーム内)で踊り、その輝きを放つ。ここまでは183人のアイドル全員が通った道だ。
さて、そこから先のお話はというと魔法が解けたシンデレラはお城を去り、王子に見つけてもらう必要がある。ここが今のデレマスであり、王子(=運営)が探す気になったお姫様が発見されてそこから先の道を歩んでいる。そうでなかった人達は灰被りへと逆戻りだ。
ここで本題である。「お願い!シンデレラ」を始めとする開発初期はお伽話の前半であり、今のデレマスは既に12時を過ぎ、魔法が解けた後に王子に見つけてもらえた本当のお姫様が主役となっている。運営は贔屓してる訳でもゴリ推ししてる訳でもなく、初期とはコンセプトが変わっているだけなのだ。王子が探し出して幸せになったお姫様を祝う魔法使いと、未だに王子様が探してくれると思ってる灰被りと魔法使い。そんな地獄。とっくに誰もがシンデレラになれる時間は過ぎ、自分の足で歩かなければならないのが大半である。もはや「お願い!シンデレラ」は死んだといっても過言ではないだろう。近年出ずっぱりのアイドルは明言される事は無いが成功者であり、舞台で踊り続けるお姫様である。
そしてそれがなあなあになっていた所に舞い込んだ7人。この7人は書くのも憚られるほどに罵倒の的にされているがここまでの話が真であるとすれば「不要だった」という意見以外は的外れとなる。物語の後半、姫と灰被りが二分化した所にわざわざ灰被り役を大々的に投下するなどという行為はする訳もなく、彼女らは「お姫様として追加された」のだ。そして彼女らは賛否両論の中で与えられた舞台で踊り、成功した。となれば「不要だった」とももはや言えないだろう。
そしてその裏では失敗、とまではいかなくとも大成功にはならなかったアイドルもいる。彼女らは運営の気まぐれ(何か事情があるのかもしれないがこちらからそれを知る事はできない)で声が付き、何度か大きく取り上げられはしたもののいつの間にか表に出てこなくなってしまった。年に一度、あるいは数年に一度だけ他のアイドルに添えるように登場するのみのアイドルもいる。まるでお姫様を迎える為に掃除当番で呼ばれている灰被りの少女だ。
ここまでひたすらに地獄のような文章が続いたが、そんな観点で見るとデレステ5周年曲である「Go Just Go!」は明らかに異質だ。オリメンとして9人が表立ってはいるが190人の個別モーションという革命的とも言える要素を含んでいる。消化試合だったとは言え直前に190人全員のSSRが実装された後に出すものとしてこの上なく、ユーザー全員に希望を与えた。
何故こんな事をしたのか。それは「モバマスを終了させるから」ではないだろうか。現在9周年を迎えようとしているモバマスは更新の縮小を始めとして誰が見ても明らかにサービス終了へと向かっている。もしもサービスが終了した時にその受け皿となるデレステでSSRが実装されていなかったら?当然担当プロデューサーは怒り、そして離れていくだろう。そういった事態が起きないように駆け足で受け切る準備をし、「認知はしてますよ」という迎え入れの姿勢を見せる為に個別モーションを付けたのではないだろうか。こう書くと皮肉に見えてしまうが、何も与えられないのと比べるとそれは雲泥の差だ。モバマスが全てのアイドルに向けて作った「お願い!シンデレラ」が死んだのであれば「Go Just Go!」はデレステが新しく190人に向けて作った曲なのかもしれない。もしかしたら最後の慈悲かもしれないが。あとアニメMVとCMが慈悲のかけらもない現実を見せつけているのは単純にプロモーションが下手だと思う。
ここまで読んでくれた人がどれくらいいるか分からないけれど、こんなチラ裏を読んでくれてありがとう。ここまで書いておいてなんだけど正直この文章はそう思わないとやってられないっていう気持ちからこれを読んで同じように思ってくれる人を増やす為に書きました。この荒廃した砂漠に貴方のオアシスはありますか?私の担当アイドルはライブと総選挙の呪いでずっと他人の為に書かれた歌を歌い続けているよ。
最初に、「陰キャ」という言葉が流行った。これは元々若者言葉の一つだったものがネットに持ち込まれてマウンティングの格好の道具になったとされている。次に流行ったのが「チー牛」だ。これは陰キャの見た目を表すネットスラングだ。ブサイクや眼鏡、アデノイドといった個々の属性は陽キャでも当てはまる人はいるだろうが、それらの属性が綯い交ぜになって生み出されるあのイラストの垢抜けない雰囲気は陰キャにしか出せないものだろう。
このようなネット上でオタクが馬鹿にされる流れは明らかにここ数年で加速した。一昔前のインターネットなら「俺たち童貞ワロタwwwリア充爆発しろ!」といった傷の舐め合いが主流だったはずだ。それが今では「チー牛陰キャきっしょ!(無意識に自分は除外)」のようなマウント合戦にシフトした。一体何故か。
元々昔のインターネットで傷の舐め合いが流行ったのは、それだけオタクが傷を負いやすい弱い立場だったからだ。その昔ゼロ年代と呼ばれた時代、アニメ、ラノベ、エロゲといったオタク趣味もとい、それらを好むオタクという種族は今の何倍も世間の風当たりが強かった。その世間の流れに反発するかの如く、2chを始めとした匿名コミュニティが隆盛を極めた。当時から煽り合いはあったが、今ほどの陰湿さはなかったはずだ。少なくとも自分は「回線切って首吊って氏ね」より「電車とか好きそう」とか「vtuberに投げ銭してそう」って言われた方が傷つく。まあこれは主観だが、やはり全体的に自虐混じりな煽りが多かったし、煽る場面でも無いのに一人で煽ってマウンティングして悦に浸るような者も少なかった。
しかし、10年代に突入し、流れは変わる。スマホ、SNSの普及によるネット人口の増加、半匿名空間の拡大、深夜アニメを始めとしたオタク文化の浸透。これらによって、「インターネット=オタクのオアシス」という構図が崩壊した。この構図はオタク達がインターネットに求めていた「一体感」に直接関わるものだ。この一体感というものは、普通の人なら学生時代に体育祭や文化祭で味わい、その後の人生の糧にしていくものだ。オタクはそれをインターネットで疑似体験していた。ただ、もうオタクとして振舞っても一体感を得られないから気持ちよくなれない。そこでオタク達が目をつけた手段がマウンティングなのだ。
「オタクは現実を見ろ。ゲームもいいけど現実で女でも作れ。大人になれ」のパターンだよな、これ
最後にリアルで金と女を手に入れた明るく若くてゲームも上手い今時のギークたるパーシヴァル(とその他4人)こそが勝者。それ以外は何もつかめなかった負け組。
ラストの「ゲームが遊べない曜日を作って現実を楽しもう!」ってさ、その現実が辛すぎてオアシスというゲームに全世界がのめり込んでるって世界観じゃん。そりゃパーシヴァルは成功して現実が楽しくなった側だからそう言えるのだろうけど、その他大勢はそうじゃない。強者の権力でみんなの娯楽の時間を奪っただけじゃないの?ノーメディアデーとかゲームは1日1時間とかいってる自治体と同レベルじゃん。
そもそもパーシヴァルはオアシス世界を救ったけど、現実社会はIOIが消滅しただけで格差は依然そのままだろうし荒廃した世界には問題が山積み。「現実に向き合え」と言われても、それが出来ない無力感からゲームにのめり込むんでるその他大勢に強者の理屈を押し付けるなよ。
ゲーム画面を広告でベタベタにしてやろうぜってIOIとそもそもゲームを遊ぶ権利を奪ったパーシヴァル。どっちが勝者でもあの世界で受け入れられたとは思えないんだが。
敵側にアイロックというキャラがいる。途中までゲーム内強者として振る舞う強敵ポジションだったのに、爆弾のせいで10年分のやり込みデータが消える恐ろしさからビビって逃げ出すシーンで感情移入してしまった。「ゲーム以外」が無い人間にとって、自分の積み上げてきたデータが1回死ぬだけでロストするって怖いよな……
自分はパーシヴァルのようなトップにはなれない。めちゃめちゃ頑張ってアイロックか、あるいは最終決戦に参加していた「ゲームが好きな無名のモブ」が限界。
データが消えればただの人。トップ5にまで上り詰めれば現実の名声と金を得られるんだろうがそれも出来ない。
自分では上手いと思ってもe-sportの大会やゲーム内ランキングには必ず自分より圧倒的に上の存在が居る。上位3%には入れても1%より上の世界は届かない中途半端な存在。
現実もダメ。ゲームもダメ。じゃあ自分に何がに残るんだろうと考えてしまった。
アイロックはあの後どうなったのかなぁ。
好きな女の子とキスも出来ずに死んだ負け組ナードの象徴として描かれているオアシス開発者のハリデーですら、物凄い才能で理想のゲームを作り上げ世界を巻き込み神とまで崇められるほどの偉業を成し遂げている。
1消費者でしかない自分から見たら、ハリデーこそオタク側の成功者じゃねーかと思ってしまった。なんであんなに卑屈になるんだよもっと胸を張れよ。
そんなハリデーに「現実がうまくいかなかったからゲームに逃げた。でも現実でしか食えないうまい飯があるからお前は俺のようにならずに頑張れ」って言われても全く響かない。
ところで「現実でしか食えないうまい飯」ってリアルに接触する女体のこと?ラストシーンを見て不意にそう思ってしまった。
色々思う所はあったが娯楽映画としては面白かった。デロリアンと金田のバイクがレースをしたり、「好きなゲームはゴールデンアイでオッドショップのチョップ縛り」に笑ったり、ライトセーバーに影響を受けたビームサーベルを使うガンダムがハリウッド映画でメカゴジラ相手に奮闘する下りは胸が熱くなるし感慨深いものがあった。
しかし散々オタクが好きな要素を散りばめ引き寄せておいて最後に「リア充こそ正義」というオチを見せられ、布団の中でもやもやしながら最後には「コンプレックスを刺激されて辛い映画だったなぁ」という感想になってしまった。
よしんばパーシヴァルになりえる前途有望な若者なら純粋に楽しめるのかもしれないが、穿った見方しかできない老人には眩しすぎる。
パーシヴァルにもなれいしハリデーにもなれない。中途半端にオタク側にいるせいでノーランのようにビジネスと割り切って社会的地位も築けない。
やっぱつれぇわ……
伊丹のイオン・イタミオンに行くぞ!と昨日の午後思い立ったがまあ遠いしどうせ行かねえんだろうなと心のどこかは覚めていたのも事実。
しかし今日の午前中(俺はニートみたいなものなので平日の午前中から外出が可能)、最寄りのスーパーに買い物に出ようとしたとき、心が叫ぶのを確かに聞いたのだ!「伊丹のイオンに行くぞ!」
道中にあるパン屋(馬鹿みたいに安い・味はそこそこ)で惣菜パンを3つ(240円!)買い、チャリを漕いで俺は出かけた。
伊丹イオンに行くまでの道順はシンプルだ。しばらく行って、川1に突き当たったら左折。川沿いに行くと川2にまた突き当たるので、同じく左折。河川敷の道をしばらく行ったらイタミオンが見えて来る、とこんな寸法だ。ずっと川沿いで気持ちが良さそう、というのが出不精な俺の心を奮い立たせたのだった。
川1は細い。源流のあたりはちょっとした景勝地になってるらしいが、イタミオンロードにあたる流域はマジでしょぼい。尿みたいなもんだ。川というより用水路に近く、ゴミ。
…と思ってたんだけど存外開放感があった。細いからこそのインディーズ感というか、柵なんかも少なくてファンとの間に垣根がない感じがした。やるじゃん川1、と思いながらちょっと行ったところにはエアフロント・オアシスなんて洒落た名前のちょっとした公園があって、伊丹空港がよく見えた。コロナのせいか減便している(ホンマか?)ようで飛行機はいつもより少なく見えたけど、滑走路を見渡せる位置には5〜6人が座ってボケっとしていた。俺もちょっとその輪に加わったが(というと会話があったみたいだが、誰もひとことも口はきいていない)、はやるイタミオンへの気持ち・喉の渇き・腹の減り・チャリの駐輪場所への不安などから早々にそこを辞した。
いや、流量自体はマジでヘナチョコなのだが、その割に河川敷が超広い。開放感がすごい。川1の開放感が5なら川2の開放感は70くらいある。
まあひらけてるからなんなんだっつったら何というわけでもないが、普段コンクリート・ジャングルに抑圧されているのでなんだか無性に嬉しかったのだった。
川沿いの道はチャリに適している。アップダウンがないから、漕げば漕いだだけ進む感じがする。開放的な川沿いをスピーディーに進むのは気持ちが良くて、気がついたらイタミオンは目の前だった。…というと語弊があり、最後の方は橋を渡ったり横断歩道があったりでちょっとめんどくさかった。
隣の市、なんなら県境を跨いでるから隣の県だ。すげえ遠い場所・俺ではたどり着けない・永遠の憧れ…と思ってたんだが、チャリを漕いで1時間もかからなかった。
駐輪場のシステムが掴みきれずに不安になりつつも、薄暗い裏口みたいなところから入店した。
つかイオンとしてはちょっと小さめだった気もする。俺はど田舎の生まれなので郊外にあるクソデケーイオンに慣れていて、市街地にあるイタミオンは正直ちょっとショボくすら見えた。あるいは俺の図体がデカくなって相対的に小さく見えるようになったのか?でも中2から背伸びてないしな…
初訪問のスーパーマーケットは最後の楽しみにして、まずはモールをぶらついた。つっても俺は外食嫌い・ファッション興味なし・貧困なのでマジで何も買うものがなかったので本当に端まで行って戻ってくるだけだった。今回の目玉のひとつだったイオン特有のデカイ吹き抜けと一階にあるベンチは堪能できたのでまあヨシとする。
スーパーはデカかった。デカかったし、魅力的な商品も多かった。カオマンガイの素に加えてナシゴレンの素もあり、入浴剤コーナーがあり、惣菜コーナーがデカく、パスタも充実していたし、よくわかんねえ蒟蒻商品みたいなのが大量に並べられていた。飲料コーナーなんかもマジで気が遠くなるくらいデカかったので、俺は疲れも相まって初めてスーパーの完全探索を諦めた。また行こう…
数キロの帰途があるのも忘れていろいろ買った。ギリギリリュックに収まるくらいの商品を買って、一回正面玄関から出て伊丹の街を見た後に帰った。
帰り道、川2沿いでイタミオン惣菜コーナー謹製の鮎の塩焼きを食った。川沿いでアユを食ったら川つながりで美味さが高まるかな、と思ったが、まあ別に変わらなかった。塩気が強めだったけどしっかりうまかった。身が風に煽られてちょっと落ちて悲しかった。
帰りはちょっと違う道を通ってみたりして、そうするとまた発見があってよかった。ショボい道が川1とクロスして水没している場所があって、俺は仕様として水没している道というものを初めて見たのでたいそうテンションがあがり、サンダルを脱いで川に浸かってみたりしたほどだ。水はぬるいかとおもったが案外冷たかった。
ビショビショ・砂まみれになった足が意外なスピードで乾くのを楽しみながら停めていたチャリにまたがろうとしていたら、水没道をチャリで突っ切っていくオッチャンが見えて風情があった。
イタミオン、よかった。
また行きたいな。今度は秋口あたりに行きたい。
古代水の謎を探る
中米メキシコの北部に位置するチワワ砂漠には、クアトロシエネガスと呼ばれるオアシスがある。
だが、実際には200以上の泉が連なっているのだ。
クアトロシエネガスは、5億年前のカンブリアン紀に存在した池のレプリカと考えられている。
この泉を調査する事によって、地球上に原始生命が誕生した謎に迫る事が出来ると考えた、科学者達の足取りを追う。
https://navicon.jp/title94358/
再生時間 : 47分 再生方法 : Windows Media Player 帯域 : 3000k
価格 : 210円 視聴期間 : 7日間
(C)NGCI
まとまったページ数で漫画(長編小説)を投稿してくれてメジャージャンルでもトップに立てるほどの画力(文才)で定期的に投稿してくれる唯一の人材をよってたかって潰しにかかる
この現象なんなんだろうな
今もまた一人潰れかけてる、本当に困る
厨房がチラシの裏ににシャーペンで殴り書きしてスマホで撮った薄暗い画像や誤字まみれで10秒で読み終わるような作文しか投稿されなくなって初めて金の卵を産むニワトリが死んでいることに気づいてようやく嘆き始めるんだ
あの人がいなくなったらこの界隈はいよいよ不毛の地になってしまうのに分かっていないのだろうか
別に女性向けが平和というわけではなくてあっちはあっちで裏垢やヲチスレでヒソヒソ悪口言ったりしているのだが
女性向けの場合本当にいなくなってほしくてそうしているのに対して男性向けではいなくなってほしくないのに全力で本人に悪口ぶつけに行ってる感じがある
支配欲?自分の思い通りに動けとかこうすればもっとよくなるんだから俺のアドバイスをありがたく受け取れ的な
ROM専のくせに自分以外の男が注目を浴びて称賛されていることに激しい嫌悪を覚えている節もあるように見える
もしくは久しぶりの投稿作品を見て砂漠の果てにオアシスを見つけた気分になるのではなくレストランでさんざん待たされた挙げ句出てきた料理にお詫びのデザートが付いてなかったことに
俺は客だぞ、さんざん待たせたのにこれは何だ!
とキレ散らかすような
本当はお前は客じゃないし、金も払ってないし、相手はプロでもなんでもなくて趣味や厚意でやってることなのに
まじでやめてくれ