はてなキーワード: 権威とは
彼が本当に「議論を避けて、罵倒だけをしていた」ならそれもありうるかもしれないけど
現実には彼は「罵倒メインだけど、たまに思いつきで議論らしきものをふっかけて、知識不足で逆にボコボコにされる」ことを繰り返してたんよ
だから長く付き合ってきた人ほど、彼の学歴と実際に見た議論レベルとの乖離に戸惑っている
たとえば彼は「論理学には詳しい」と自称しておきながら、命題と述語の区別がついておらず
「"Aする"の否定は"Aしない"ではないぞ低能w」という恥ずかしいミスをしても最後まで間違いを認めないほどだった
また彼は偽科学批判をやっつけたいという動機から「科学とは何か(科学哲学)」の議論を始めたこともあったが、
どんな入門書にも必ず書いてある「反証可能性」という概念をどう扱うかまったく考えていなかった。そもそも知らなかったように見えた
(これは古典的な概念なので、賛成しても批判してもそれぞれに理論は組み立てられる。科学の権威を崩したいならこのテーマをスルーすることはありえない)
なるほど、
いや別に
国内外のミスコンに則るとすれば、それは容姿だけの評価じゃないよね、と言っているだけ
容姿だけで評価するなら、国内外のミスコンに則る必要はないでしょう
本当に容姿だけで選んでるなら
うーん、キミは「ファッション業界で権威のある人間が容姿だけで選んだら、ファッションモデルみたいな人しか選ばれない」って当たり前の主張をしたいわけ?
そんなの当たり前じゃないか
よく実施されてるかは知らないよ
一般庶民の昔の文化・風習を研究している人はあちこちにいるから、
美を追求するコンテストを廃止するなんて美を賞賛する事もダメなのか!
知識量を決める事と何が違うのか!
みたいな知性のかけらもないブコメ並んでてブクマカって馬鹿しかいねえな〜と思った次第。
馬鹿には分からんかもしらんが、一応説明すると人の外見において、何が「美しい」ものなのかってのがもう人に決められるもんじゃないって時代に来てんのよ。
自分の美、の基準は自分で決めよう、自分のありのままの姿を自分で認めよう。
他人が優劣をつける事はやめようって話ね。
背が低くても足が短くても、美人。
ニキビがあっても、肌がきめ細かくなくても、お尻にセルライトがあっても、それも美しいじゃない、って話よ。
もちろん建前でもあるよ?
大っぴらに
肌がきめ細く色白でニキビもなく足が長く髪がサラサラで艶があって額が狭すぎず広すぎず姿勢が良くてお尻が垂れてなくて二重で目が大きくて鼻が高くてどこかに気になるアザも大量のホクロもないって子
を、美人として優劣をつけ評価する事は、そういう美の基準を作るって事になるんだよ、分かる?
持って生まれたアザやチリチリの髪や短くて太い手足を否定して、その昔ながらの美の基準を目指そうって価値観自体がもう古いって話。
そしてそれこそそうした価値観から遠い人が傷ついて苦労して来たって話ね。
もちろん芸能みたいな商売はまだまだ利用すると思うけどさ、それとこれは違うやん?
あんな人間を売り物にするような業界自体が普通じゃないんだからさ。
知識とか運動みたいに明らかに多い少ない速い遅い強い弱いで優劣がつくもんじゃねえんだよ、美ってのは。
誰かが勝手に決めてきたもんなんだ。
んで苦しんできたもんなんだよ。
その水原希子もケツのセルライトを修正せずに出して一部ではなんで汚いものをって言われたんだよ。
それが美だよ。
まあ水原希子だって顔小さいし足長いけど、そうじゃない子だって少しずつモデルとして活動出来てきてるじゃん。
それを認める事なんだよ。
何であんなのが、って言うのは間違ってんだ。
そうなんだよ、もはやモデルって何って話で良いんだよ。
いやそれでもそれなりに色々あるだろうけどね。
リスクがあってもね。
それを否定は出来ないよ。
でもな、そうして整形願望を持つ子たちの根っこには、過去に形成されてきた画一的な美の基準があって、それに伴う世間の評価が存在してるからなんだよ。
ありのままの姿でずっと評価されて認められてきてそれが世間で当たり前になってりゃそんなリスク犯さないんだよ。
鼻が高いのが可愛いよねって価値観が男女共になければ、そんな事しなくて良いんだよ。
よくよく考えるとさ、健康を害してまでウエストを締め上げたコルセットの時代からまだそこまで進歩しちゃいねーんだよ人類。
だから少なくとも大っぴらな美の基準を固定化する行為は否定されて然るべきなんだよ、わかる?
ちなみに俺は高校生の時に学校のミスターコンテストで優勝した事あるけど、この流れは素晴らしいと思う。
これは冗談で言うけど、おまえらブサイクブスばっかのくせになんでルッキズムの片棒担いでんだよ。
というかそこにコンプレックスあるやつほど執着すんのかもな。
あれだけ従わされてきたルールが突如変更になるって、俺私のこれまでは何だったのって。
でももう楽になろうぜ。
そんで自分達の子どもの代では過去の美の価値観から解放してやろうぜって思わんのかね。
追記:アノニマスでもなんでもないけど読んでくれてあざす。
だいぶ煽ったおかげで読まれた気がするけどもその部分の反発やご指摘は仰る通り。
自分の云々は蛇足だしどうせ僻みだろみたいな反応への予防線なんか張る必要なかったし馬鹿だったと思う。
多分自分がブコメするほうでもそこ一言嫌味入れると思うしのっけから馬鹿だなんだという部分で不快になった人には申し訳ない。
ただ揚げ足取りや内容への言及なしなものが大半になっちゃったのも否めずなんつーか諸刃だった感もあって。
全部いちいち注釈入れて全方位配慮型で中庸に仕上げた文章読まないでしょ?という気持ちは今もなくはない。
重要なのは美の基準の話だけど、生理的なレベルの好き嫌いに関しても俺は後天的なものだと思うんだよね。
生まれた時から周りに自然にいる人に対して自発的に生理的嫌悪は起こさないんだよ。
いわゆる顔面うんたらみたいな障害持ってる人とかも、出会ったことがなければ衝撃を受けるのは自然な事だけど、仮に身近に当たり前にいれば生理的嫌悪も起きないわけよ。
現代の美的感覚も西洋の文化からの受け売りのものが多数であって、心理的なものですら必然的な現代生活の刷り込みあっての後天的な環境要因あってのものだと思うわけ。
現代文明に触れてないジャングルの奥の少数民族が同じ美的感覚持ってると思うか?って話。
だからそれらも刷り込みであって、その土壌を作ってきた1つの美の様式を小さなとこから解体していくべきと俺は解釈してるわけ。
それはある種文化を壊すことにもなるけどそれがあるべき人間の進歩には間違いないわけよ。
海外の流れがそういう考えを元にしてるとは思わんけど、自分の美の基準を自分で決めるべきってところを掘ってくとそういう話にもなるわけ。
今までの基準を壊していく事、刷り込まれてるものを一旦全部リセットしてっていう。
ファッションだって黒人がヴィトンのショーを数日前にやって、ストリートの手法がどんどんラグジュアリーにも本格的に受け入れられて、まあそっちはマーケットベースで動いてるけど、そういう一連の流れと多様性と価値観の進歩は全て共鳴してんのよ。
藝大みたいなとこは、って言ったのはアートとかそういうのは価値観を先に進め時代を牽引するものであって、だからこそ表のミスコン?にはそういう意図があった中、保守的な従来型のミスコンをやるってのがそりゃ違うでしょってなるのは必然って話。
あと運動能力や知識量は明らかな勝敗がつけれるものであって、生まれ持ったものに左右されるのは確かだけど、美の基準が後天的に作られてるっていう前提からすると同列には語れない。
それも比較するな、となったら努力を否定する事になるってのは分かるけど、運動能力や知識量は目指すべき方向性が決まってる。
それに対して美への努力は何を持って美とするか、を誰かが決めるものではないって話。
あと芸術点のある競技の話に関して鋭いツッコミあったけど、これは競技に限らず芸術作品、文芸、ファッション、音楽とか全てにおいて権威が評価を決める事への反発の動きもあって時に変動するからこそ基準に対して流動性があって良しなわけ。
それにそれらは人が作った競技だから基準を人が作っても良いわけよ。
でも美人の基準は流動性がなく(ほんとは若干あるけど、流行りの顔とか。でも生理的なものとか言われるくらいだから根底はあんまずっと変わってない)、なおかつ人の外見なんか人が生み出した競技ではなくその美の基準だけ人が生み出して、それで苦しむ人がいるわけやん。
んでミスコンはそんな外見の優劣なんて競技に参加したつもりもない人間を判別する基準を制定する事になる行為だって話。
だから取りやめる事は必然であって、他の競技も出来なくなるとかつまらない時代とかって批判はおかしいっしょっていう。
この辺が話の本題で本質ね。
ブコメが本質の話にあまり至ってないのは俺の責任でもあるけど、少しでも気にかかった人はこの追加まで読んでくれると真意は伝わると思う。
再追記:タイトルや煽りで損してるのも分かってるけど敢えて改変はしないつもり。
キモい、とかそういう内容に言及しない批判はどうでも良いし、的外れな批判を取り上げて持論を補強する卑怯なやり方もしないっす。
でもブコメの意見がめちゃくちゃバラバラでそれは良いのかなと。
勢いで書きなぐったのでまとまってないのは申し訳ない。
誤解を生むのも自分のせいかなと思うけど、未だに「黄金比みたいな美の基準は決まってる」みたい論は、それ後から決まってきたものであって、例に出してる現代文明に触れてない人間には通用しないんじゃない?=文明の影響で黄金比を感じる土壌が出来てるのであって後天的なもんだからそれを普遍的な美だと決めつけて人様の顔に当て込んで評価するのやめようぜって話。
で、そうした美の基準は多様で良いって前提なら従来型の画一的な美の基準に照らした評価を継承するミスコンは無用で過去の価値観を補強し定義する害悪って言ってる。
美以外にも努力は否定してないし、ただ美の努力の方向性を勝手に誰かが決めてくのは終わりって話よ。
肌が綺麗とかどーとかよ。
ありのままでええやん、が本旨。
何回も言うけど、他の運動や芸術などのコンテストや競技は競技自体を作ったのが人間であり、何かを行ったもの、を評価するものだから評価基準を人が作って良い。
一方、顔やスタイルなどの造形は生まれた時にある程度決まっており、何かを行ったもの、ではなく存在する外見そのものを評価する事でもあるから、評価基準を人が作るべきでないって事。
努力っつっても外見に関して何に向かって努力すべきかを他人が決めるなって話。
そこからデフォルトで遠い人間がネガティブな評価を受けるから、以上。
だったら中身だけでやれって話になるので。
余談だけど俺はめちゃくちゃ性格悪い自覚はあるから言及しなくて良いっすよ。
でもこれは問題提起とか解決してほしい問題として投げるのではなく、私の心の中のもやもやを吐き出すため、そして誰にも聞かれることなく消える独り言ではなく、誰かに聞かれる可能性のあるネットの海への投稿として吐き捨てたくて書いているので既出だとかはひとまず置いておきましょう
生きる意味が見いだせない。でも死ぬのは手間がかかるから仕方なく生きている。
生命保険がかかっているので後2年は生きるけれどそれ以降何をモチベーションとして生きるか決めていない。決めていないので現状2年生きるのに最低限必要なラインでしか頑張れない。それ以上生きることになったとき苦労したくはないが、生きるかどうかもわからない時間のために努力できるほどできた人間でなかった。
こんな生とは死とはとか考える時間があったらまず何かしら行動したほうが百倍マシというのは頭では分かっています。でも趣味なんです。露出狂みたいなものです。タイトルと冒頭数行で時間を無駄にすると確信した方はブラウザバックしたほうが良いです。この記事に意味はありません。
有り難いことに悪くはない人生を送らせてもらえたと思います。それでも積極的に生きる意味がわからない、そして積極的に生きる意味が無ければ生きるための努力をしたくないと思っている。しかし積極的に死ぬのは面倒なので、今のところ消極的に生きている。
これの問題は生きてるだけで迷惑という点です。積極的に生きていないので、生産性が低い。生きるためのタスクがあり、しばしばそれはチームプレイになる。その時私のパフォーマンスは低い。締切ギリギリにしか手を付けない、準備期間があってもサボる。
他に頑張りたいことがあるなら(他人に迷惑をかけるという点でアレかもしれないのですが)まだマシだというのが私の評価です。でも私には頑張りたいことが無い。それなのにしない。私が足を引っ張っている。生きてるだけで赤字です。即刻操業停止すべきです。
他の人にもこれ(消極的に生きているのは無駄だから今すぐ操業停止しろさもなくば生きがいを探せ)を適用するわけではありません。多分。してないはず。他人に迷惑をかけるのはどうなのと思うし、何とかしたほうが周りとしても助かるよねと思うけど、その人のための解決策は人生の操業停止じゃないです。過激すぎる。
でも私は解決策を探すためにまずは生きる意味を求めるのでそれが見つかるまでは操業停止路線で行きます。私は意外と頑固なようです。
Twitterでよく「生きる意味 ない」「死ぬ 面倒」などで検索するのも趣味の一つなのですが、多分、何で生きているのかなぁと、ライトな感じで思考しているであろう人も見かけます。私もライトに考えてます。
手首を切ることはしていません。相談室に電話をかけたこともありません。人生が嫌で嫌でたまらなくて、という方には遠く及ばない、何なら贅沢(「辛い境遇」でも無いのに「大切な命」を捨てようとするなんて)とも言えそうな考えです。
私も本気で富士の樹海に行きたいとか言っているわけではなく、生きることに理由を求めてしまう、面倒なバグにこだわってしまってるだけだと思います。周りの人が優しい(/甘い)ので「あなたにとって生きる意味は何ですか」と言う問を酒の席で投げると本気であれ軽い感じであれ返してくださるのですが、そんなものなくても生きるという人がいます。社会に対して何かしら功績を残して/貢献をしてからでないと死ねないという人もいます。何であれ、理由がなくても生きれる人たちです。なぜ生きるのかを問うて答えが出なかったとしても生きるために頑張れるのが、私の理想とする人間でした。そういう人間として生きる中で、生きる積極的な意味を見つけるのが小中高で夢見た人間でした。無理でした。
私は私の嫌なことが嫌いです。やりたくない。逃げたい。逃げ方として社会的に死ぬだとか、人生操業停止するだとかも選択肢としてあがることでしょう、この先。多分。そうした分岐点でいちいち生きるか死ぬかから考えるのはコスパが悪い。時間の無駄。そういうのは趣味としてやる方がいい。
ですので、分岐点で生きるに自動的に行けるように、仮でも人生の意味を作り、自己暗示し、思い込み、それのために頑張るのが目下の目標です。最低限2年は生きないといけないけれど、その後も生きて、できれば私に投資された分くらいは回収したいから。
権威に流されたい。規律に縛られたい。これを信じれば正解だという唯一の答えがほしい。
小中高までは楽でした。勉強さえして、テストの数字が良ければ、私には価値がある。私には生きている意味がある。と思い込めていた。(実際にはスポーツや芸術等その他の分野で創造するのもすごいことです。更にテストの点を、学校の試験レベルの中途半端さで追求したところで、それは手段(知識を得て、そこから何かを生み出したり発見したり研究したりする)が目的に完璧にすり替わってるのでどうなのって感じです。)
現実社会はケースバイケースで、その時時のベストはあっても導き方はそれぞれでしょうし、ベストは誰が決めるのかという話ですし、ベストを求めるよりベターを求めるべきときもありますし、一筋縄じゃ行かない。そして人生のテンプレートが無い。(昔はあったかもしれませんが、今の社会で実現可能な「中流階級」(平均値ではなく中央値的な……)のテンプレートってありますか? 何歳で結婚何歳で貯蓄何万みたいな)更に人生のテンプレートに私が魅力を感じて、この幻想に人生を賭けたいとなるかわからない。
権威に従い人生脳死プレイな人間は今の時代求められてないことは知ってます。もしくはヤバイ案件に関わらせていざとなったら切り捨てられる人員か。組織の一員であっても自分で考え行動する創造力ある人がほしいんでしょうね、すみません。
就活という、来年以降自分の身分が定まらない今の状況が嫌です。来年以降の身分を自分の責任で選択しないといけないのも嫌です。私の能力と性格を何とかして判断して勝手に職場配置してほしい。そういう経済圏に移住しておけば良かった(そう簡単に国籍変えられるかわからないんですが)
私が頑張るべきフィールドとやることを示してもらえれば頑張るので、という気持ち。
何とかして生きて、何とかしてどこでもいいから職場さえ決まれば、そこで何とか頑張れそうな気がします。そのために今頑張る理由を何とかつくりだして自分を洗脳できれば少なくとも数カ月は生きられるはずです。
そんなことをうだうだと考えながら、保険証裏のドナーの1.に丸をつけました。
人生を閉店するための仕事が面倒なので、無気力に(しかし娯楽は享受し)生きています。積極的に生きるために職を見つける、職を見つけるためにやる気を出す方法を見つけるのが今後の人生の方針です。せめて生きる後2年は、他人に迷惑をかけないように生きることだけは最低限頑張ります。もうすぐ深夜2時。夜ふかしをしない理想の大人に私はなることができませんでした。
以上
大学教授のニュースについて。この人は刺激的な言葉を使って人の反応を愉しむような講義をしていたし、その刺激的な言葉に面白さを感じて講義を受ける学生から人気だった。
今回のニュース、つまるところ恋の話なんじゃないかと思っている。
恋に落ちることは、悪いことなのか。自制の働かなかったことが悪いことなのか。
教授は女子学生が本当に好きで、きっとこの口説き方ならついてきてくれるんじゃないかと思ったんだろう。その時にはもう恋に落ちていて、批評家だったから、その子の文書や容姿や仕草から、自分への好意を読み切ったつもりだったんじゃなかろうか。そしてそれが誤読であって、女子学生は嫌な思いをしてしまった。
時代は変わっている。ハラスメントという言葉、考え方、配慮は当たり前で、その配慮のない人が恐ろしいとされる時代で、いままさに書いているこの言葉だって槍玉にあげられかねないくらいだし、自分でもそう思うくらいだ。
年老いた批評家はその時代感覚を読み違えたんじゃなかろうか。恋にも落ちていた。時代も変わっている。きっと自分を好きであろうと考えた目の前の相手が、本当は自分が好きなだけであったことに気づけずに口説いてしまった。
しまっただけ、ではない。その読み間違いがひとりの女性を深く傷つける至ったのは事実だ。ただ、師として尊敬していた教授が、自分への想いを誤読していたことへの失望と、いままさに時代のなかで嫌悪されているハラスメントを同時に行っていること。
そして、大学側の対応の不誠実さ。ここにも、事情はあるのだろうけれど、この教授の心を慮ったばかりに、学生へ不誠実な対応となったのじゃないか。
批評家は誰よりも客観的に、そこに立ち現れている物語の裏側をひっぺがえしてしまう人だ。言葉遣いに隠された、当の作者でさえ考えてもみなかった意味を、作用を、炙り出してしまう。読者にとってはそんなことどうでもいいよということもあれば、全く新しい思考の世界を開かせることもある。人のモノの見方をがらりと変えてしまう職業だ。
その批評家が「読み誤る」ことの恐ろしさ。それはプロとしての批評家としての失敗であり、今回に関して言えば権威の失墜であり、何より当人がことの重大さを一番にわかっているのだろう。
そしてそれを引き起こしたのが、恋だ。
問題は多々あるけれど、根幹には、人間の抱えている美しく、罪深い、この恋という厄介な性質がある、ということがこのニュースが伝えていることのひとつなんじゃなかろうか。さびしくて、かなしいニュースだ。女子学生の心がせめてきちんと、救われるような結末になるといい。
そもそも、外部の人間が議論を区分しやすいためにくくるのはともかく、自分で名乗る必要は微塵もない。
自分で名乗るのは「自分は比較的勝ち組のこの立場の意見だから正しい」なんていう権威にすがろうとするだけ。議論には全く無意味なもの。
例えば、対ブラック労働についての左派と、安保法制についての左派では全く関係ない。なのに両方左派でいる必要なんかないだろ?
新自由主義とケインズ主義、日本は1980年代までケインズ主義だったが、自民党が党を変えないまま新自由主義に鞍替えしてしまったので両方保守として扱われる。
新自由主義は格差バンザイ、政府は経済への干渉は最小限に。政府の干渉は的はずれなんだから、政府が経済に干渉しないと最も景気が良くなるよ!のスタンス。
ケインズ主義は累進課税など税制をフルに利用、経済への干渉バリバリ。むしろ経済に政府が干渉せんと不景気になるよ!のスタンス。
そのように両方保守とみせかけて実はだいぶかけ離れた概念だ。では保守ならどっちのスタンス?
そういう意味で「昔ネトウヨだがリベラルになった」なんて言ってる時点で君はまだ洗脳が解けていない。
学者先生や、運動で食ってる人たちは、自分たちの立場が正しいと権威づけしないとならないからもしれない。
けど一般市民が喋ってるだけみたいに派閥に属する必要性がないようなものでもない。だから、自分が思うことを話して、必要なところは議論をして意見を変えて修正して自分流で行くべきもの。
増田文学100選( anond:20180617025544 )を読んでいて、そろそろ本当に増田文学賞とか創設されてもいいんじゃないだろうかと思い、ついつい草案を作ってしまったので晒してみる。
いま思いついたことを書いただけなので、「俺ならこうする」という対案を寄せてもらえると嬉しい。この草案通りじゃなくていいので本格的な、増田らしい「増田文学賞」を誰か実現してくれないかなあ。
はてな匿名ダイアリーの匿名性と日記というフォーマットによって生まれた「名乗るほどではない、あるいは名乗ることはできないが誰かに話したい感情や体験、発想をウェブ上で共有し、称え合う文化」を守り、増田のますますの発展に寄与する。
今日みたらいつの間にかブコメがついていてびっくりした。自分ですら忘れていた。とりあえず言い出しっぺの法則ということで、実験的に今年前期の文学賞を主催してみました。
アカデミアにいるわけでもない人間が酔った勢いで吐き出すので,間違っていたら寧ろ積極的に否定してほしい.
今年度の科学技術白書が話題を集めている.ブコメでは金がなくて雑務が多いんだから当然だという指摘が多くて,その指摘はある程度正しいように思える.僕は企業の研究者だけれども,実際に日本の大学の先生方は(その分野の権威であっても!)たった100万の研究費を出すだけでもとても良くしてくださるし,100万円ぽっちにそれだけ頑張らないといけないのだから当然のごとく忙しい.(海外の大学に研究費100万円なんて言ったら門前払い.少なくともその10倍からスタート)
じゃあ国がもっとお金を出すようになれば技術力の低下が解決するのかというと,少なくとも自分がいる分野ではその段階を超えつつあるのではないかと思っている.一昔前に話題になったポスドク問題の印象で,金を出してポストを増やせば論文数が増加すると思っている人はそれなりにいるのではないかと思う.しかし今,僕がいる分野では寧ろアカデミックポストが余っているらしい.ポストは減っているのになぜそれが余るのか.答えは簡単で,アカデミック人材がそれを超える勢いで減っているのである.僕がいる分野では,文科省の狙いが成功したのかたまたまなのか博士卒が多く民間企業に就職している.民間企業に就職すれば給料は多いし,なによりも期間の定めなく働ける.研究は自由にできないかもしれないが,大学にいても文科省様のおかげで好きな研究ができるわけではない.そして育てても育てても企業へ流出し,そして更に企業への就職志向が強まる悪循環によって,僕の観測範囲では博士新卒の6〜7割かそれ以上が企業に就職している.
つまりいまお金を多少投入されてもこの分野ではその研究費を投入できる人材がいない.企業から呼び戻せるほどの給与と安定したポストを用意できるだけの長期間かつ大きなの予算が与えられれば別だけど,流石にそれは現実的ではないだろう.ポストの空洞化がこのまま進めば教える人がいなくなるので,日本でこの分野はそのうち滅びるのかもしれない.博士卒の人材が就職したことで産業界に根付きつつある技術も,人材が安定的に供給されないのでは滅びるだけだろう.企業に博士人材が流出するのは一部の分野だけだから大丈夫!寧ろ殆どの分野では企業への進出が進んでいない!と主張する人もいるかも知れないが,そもそもそういう分野は博士取る人が減って同じ結果になるんじゃないかと思っている.
大学改革や選択と集中も必要だろう.でも日本のエリート教育の根幹を支えるアカデミックポストの魅力を大幅に引き下げてしまったのは大きな失敗ではないかと思う.そりゃあ腹芸が得意な役人にとって大学の先生方は扱いやすかっただろうけれども,日本の根っこを支えている人たちであるという敬意を失ってはいけなかったんじゃないだろうか.少なくとも研究計画の説明中に寝てんじゃねえよ.
新幹線の事件で「もう家族ではない」というコメントが出たとか祖母に預けられていたとかいう記事が出ていたり、大言壮語して何もしないアラサーニートを殴りたいという増田があったりして、他人事に思えなかった。当方アラサーニート。
社会は優しくて、問題を起こしても「お前は底抜けに知能が欠けているが、悪気はないから仕方がない。何か困ったことがあれば助けてやる」という態度でいてくれた。小学生の頃にはDQN(他に語彙がない、申し訳ない)がいきなり凄んできて囲んでゲーセンに連れていかれ、遊ばされたこともあった。彼らは勝手に危ない所へ連れて行き、家の金を使ったと罪まで被ってくれたりもした。つまりそれほど目に見えて社会から隔絶され、おかしな考え方をしていて危険な状態にあるということが小学生 ── 低学年だったと思う ── から見ても明らかで、彼らは同じ人間として救わなければいけないと考えたわけだ。それは一回きりで、おそらく決定的に何かを変える効果はなかった。
家では、成功も失敗も、軽重に関わらず何がしかの交換材料として扱われた。ほとんどすべては定性的で、失敗の原因はすべて単なる怠惰であって努力を人並みに戻せばよいもので、成功は何らかの権威の成果ということになっていた。お前の努力の結果ではなくカネが注ぎ込まれたから成功したのだとか、だから喜ぶ前に感謝をしろとか、あるいはこの前の成功は面白かったのだから次はもっと面白い成功をしろとか、この前の関係のない成功がこれに繋がったのだからよく考えて喜べとか、記憶に残ることは常にねちねちと引き合いに出された。成功と失敗と言っておいてほとんど成功した時の反応の話だが、不都合なことを告げた時に何が起こったのかは、覚えていないのかもしれない。新幹線の犯人/容疑者が祖母に言われていたという、社会は厳しいんだとかお前は穀潰しだとかいうようなことと似たようなことを言われていたのかもしれない。常にお前は天才でありかつ社会は厳しいのだからだめな人間だと言われ続けていたような気はする。
結果が出る前でも、何か行動をしたり計画を立てたりすると厳しい批判に晒され、監視され、常に望ましい形に修正させられた。最終的な成果よりも、行っている方法が一見して正しいこと、過程でも承認欲求への分け前があることを求められた。学生のうちはお前の仕事は勉強することだと言われ続けたが、この勉強することというのは明快に勉強道具を扱っている姿を見せることであって何らの定量的結果を出すことではなかった。だから道具を開いて時間が過ぎるのを待つとか、これは暇潰しであって計画の遂行ではないと言い訳しておくとか、成功のように見えるが小規模な失敗であって取り上げるに値しないと報告するとか、これは多少の戦略的転進であってやはり取り上げるに値しないと上げるか、これは見て分かる通りこういう結果だが結果を正しく判定するには更に時間と手間がかかり説明は困難だと返すとか、あるいは説明を放棄して起きたことはすべて握りつぶすとか、とにかく餌を与えず介入する余地も見せない工夫が必要だった。
中学の時には級友から「なぜお前は何をするにも次々予防線を張るんだ」と言われたこともある。既に直す動機もなかったし、何を予防線と言っているのかもほとんど理解できなかった。
大言壮語しておくのは、本当に結果を求めるよりも安全だった。実感の薄い遠大な目標と、ふわっとして中身のない成果、手頃感のある予算規模は、例えその先に崖しかないとしても、もっとも輝ける道だった。
日本的大企業の製品の欠陥だとか、業績不振のニュースとも被って見える。身の丈を外れたハイエンド志向、複雑で意味不明の設計、一見して分かる製造品質。ハイエンドを志向しておけば言い訳が立ちやすい。成果が難解なほど叱責を免れやすい。見た目を磨いておけば体裁が整いやすい。そういう製品を使おうとは思わないが、その舞台裏に書いてきたような苦しみがあるとすれば、共感できる。
社会は手を差し伸べ続けてくれたが、握り返すことはできなかった。今でもできない。彼らは同じ人間として助けようとしているから、「困ったことがあれば」という留保があり、自我の確立しない緩やかな自殺志願者は助けられないのだ。人類の進歩と調和のために今必要だとか欲求を充足することに理屈は付けられるが、そこに主語を与え、理屈を実践する主体が自分であることを必要とするのはエゴなんだ。強い動機を育てられなかった人間は、一体どうすればいい? 社会はこの使い道のない人間の個体をどう加工し、使役し、どんな成果を取り出してくれる?
何か希望することが許されるなら、それを教えて欲しい。
アフィカスがまとめたくだらないまとめをまた読んでしまった http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1236466
ラノベオタクはすぐにラノベの「定義」がどうのと言うけど、このことこそ彼らがいかに無教養かということを示している。「定義」を絶対視し厳密に議論しようという科学的態度の自分たちこそ教養ある人間だと思っているかもしれないが、実はそれは単なる盲目的な科学主義にすぎず、文学(もちろんラノベも含まれる)という現場とは相性が良くない。いかにも中途半端な理系が多そうな発言ではある。
本来言葉の定義というものは存在しない。辞書に書かれてあるのは編纂者が勝手にまとめたものにすぎない。彼らは神ではない。権威ある辞書の存在しない時代にも言葉はすでに存在したなんてことは誰にとっても明らかだろう。
言葉というのは使い方によって意味が決まってくる。言語使用こそがすべてである。辞書に書かれた定義という閉鎖的な意味だけを持つのではなく、言葉というのはもっと開放的で自由なものだ。もっといえば創造的なものだ。それこそが詩というものであるわけだし。極端なことを言えば、同じ言葉でも発されるたびにすべて意味的にも差異がある。本質的に言葉というのはいつもアドホックな意味を持っている。辞書の定義そのもので厳密に語られるということは実はそれほど多くない。
文脈を共有し言葉にアドホックな意味を込める、そしてその意味を共有しあう、そういうのが人間同士のコミュニケーションだ。定義通りにやり取りするのはAに対してはBという動作で確実に反応するようにプログラムされたロボットだろう。ラノベオタクはこういうロボット的なコミュニケーションこそ科学的で崇高で尊敬されるべきだと考えているのかもしれない。しかし現実はそうではない。むしろ逆だ。冗談を言い合うとき、無意識のうちに通常の辞書的言語使用とはずれた使い方をするし、そういうずれをお互いがすぐに理解して笑いあう。そんなことは日常生活に当たり前に存在する。「定義」がどうのと言っているのはそれこそ文字通りにしか文章を読めない人たちであり、彼らはたしかに科学者ではあろうが、文学者ではない。ラノベオタクにはそういう科学者的態度の人が多いというのが不思議だ。彼らは文学愛好家ではないのか。
件のまとめも、定義がどうのと言わず意図を読み取ろうとすれば読み取れるわけで、またつまらない揚げ足をとって、他者の発言を理解しようとしていないではないか。ラノベオタクというのは基本的に他者に対する興味が乏しい。世間の人々は平凡な言葉にアドホックな意味を込めて使うが、ラノベオタクはそういった辞書的定義から外れた言語使用を嘲笑して、そんなものは厳密な言語ではないからと認めようとしない。これは他者を理解しようという意志がないということを意味する。要するにラノベオタクにとって世界に他者は存在せず、自分しかいない。だから自分の攻撃性には無自覚で、簡単に人を傷つけ、ひどい差別語で罵るようなことを毎日やっている。
ラノベオタクはたくさん読書をしているのに、想像力が貧困で、人文科学を蔑視し、科学主義に凝り固まっている堅物でしかない。そして彼らは自分たちこそ真に教養ある知識人だと思っていて、自分たちのやり方以外のもの、自分たちの思考様式を外れたものは非科学的で嘲笑すべきと思っている。これによって出来上がるのは他者に対して不寛容な厄介なおっさんなのである。
タイトルの通りです。