はてなキーワード: 権威とは
面白い部分が無いわけではない。酒飲みの話とか、夕焼けを何回も観られる星の話はむしろ気に入っている。
ただ作品全体に漂う「コドモは純粋、オトナは何もわかっていない」みたいな雰囲気が嫌いだ。
冒頭のボアの話は、まだいい。両親が相手にしてくれなくて残念だったね。ただ大人になってまで初めて会った人にいきなりヘンテコな絵を見せて返ってきた反応が、気に入らなかったからと言って「こいつは何もわかってない」というような評価を下すのにはもやもやする。他人を品定めするような態度は失礼だとさえ思う。まぁ、ボアの話はいい。最初に読んだとき(確か12歳)も大して引っかからなかったし。
その後も「何もわかってないオトナ」を批判する展開が続くわけだが、大人は数字が好きという話は当時から納得できなかった。子供が友人の家の様子を説明するときに、レンガの色や花壇に咲いている花などの定性的な描写にオトナは耳を傾けず、建てるのに幾らかかったという数字のみを重視するというのだ。流石にそれは言いすぎだろうと思った。仮に、自分の子供が「今日〇〇くんの家に行ったけど、10億円のおうちだったよ」ということを報告してきたとして、我々オトナはそれだけで何かを理解できるだろうか?10億円、多分とても豪邸なのかもしれない、いや確実に豪華だろう。けれども親子の会話はそこで終わらないだろう。「洋式なのかな、和式なのかな」とか、「そんな家ならプールが付いていたりする?」とか色々問いかけてみるはずだ。確かに10億円という数字からそのお友達の親の収入なんかを想像することもあるかもしれない。ただそれを子供に言うようなことはしない。少なくとも自分は。
当時、国語の授業でそれを読まされた私は、星の王子様の冒頭で繰り広げられるオトナ批判にもやもやしたものだが、「もしかしたら自分も年齢を重ねたらこういうオトナになってしまうのかもしれない」という一抹の可能性を危惧し、持論を主張をすることはなかった。しかし、アラサーになった今、確実にそうではないと言える。むしろ10億円だの1000万円だのの数字は子供のほうが好きじゃないか?「ひゃくおくまんえん」みたいなこと言ってる子供よくいるじゃん。
挙げ句、決定的だったのが破壊の象徴とされているバオバブという植物の扱いだ。そもそも植物(生物)に良い悪いもあるか?という話。勿論、農作物を荒らす害虫とか、害獣なんかの概念は理解できるし、バオバブが星を壊してしまうのは決定的に害だからという論理は理解できなくもないけど。ただ生きているだけの植物に"悪"の概念を押し付けてるのが当時から納得できなかった。現実だったらバオバブは星を破壊するようなことはしないわけで、架空の世界で一方的に悪者にされている感じに義憤ぽい感情を抱いたのを覚えている。
さて、昨日から批判されているプラントハンター西畠氏の話であるが、どうやら星の王子様ファン(?)が大層ご立腹な様子。その様子をきっかけに色々調べてみると、バオバブはファシズムの象徴とされている(真偽はさておき説として)とか、セネガルではとても親しまれているなどの事実を知って更に星の王子様嫌いが加速してしまった。サン=テグジュペリ何も知らねーでバオバブ悪者にしてんじゃねーよ的な。西畠氏が胡散臭いとかそういう話は置いといて、「プラントハンターという立場的からすると、悪者にされてるバオバブの名誉を回復させたかったのでは」位の想像は自分でも出来るんだがな。いや、別に西畠氏が完全に悪人で金儲けのために世界的文学作品を汚そうとしたみたいなオチでも良いんですけどね。私はバオバブの立場にしか興味が無いので。
読んた当時は言葉にする術を持たなかったけど、大人になって書き表せるようになったので、書いてみた。冒頭でも書いたように、好きなシーンが無いわけではないが、作品全体としては嫌いっす。なんかマックの女子高生とか、電車内の子供とか、片言の外国人みたいな純粋さの権威的象徴(他の星の金髪純粋王子様withキラキラしたイラスト)に自分の意見を代弁させる嘘松みたいなものを感じるんだよなー。
P.S. いい機会なので読み返してみたら、学会の小話は感心した。そんなことあるのかなと思ってたけど、女性というだけで侮られるとか名前がアジア系だと英語に文句つけられる話とか、現代のアカデミアでもよく聞く話だったので。
世の中で言ういわゆる毒親とかそういうのではない。むしろ一人っ子の娘とだけあってとても大事に育ててもらった自覚もある。しかし依然として成人を超えても親が苦手だった。親と言っても主に母親である。母親としては尊敬しているが、一人の女とみると絶対に仲良くはしたくない人種であることも挙げられる。しかし母親としての彼女に対するこの気持はなぜなのかについて最近考えてみたところ私は母について「理解する」ことはできても「共感する」ことはできないからだと思った。逆に言えば母にとって私のことも理解をしてくれても共感はしてくれないだろうという根本の気持ちがあるからなのかもしれない。だからこそ母に対してなにか「相談をしよう」であるとか「自分の近況についての話」であるとかをしようとは全く思えない。だから今では母に口出しをされるのが何よりも嫌でなにも話さない子になってしまった。
こうなったわけには一つの理由があると私は思う。それは小学校でいじめられていたことである。いじめといってもよくあるトイレの個室の上から水を掛けられたりであるとか、ノートを勝手に捨てられたりだとかそういう目立ったことはされたことはない。(一度小学二年のときに体育から戻ったら洋服が教室の奥のダンボール箱の中に隠されていたことはあったが)主に目立っていたのは悪口だった。馬鹿らしくも集団のグループを大事にし、イレギュラーという異分子を許さない雰囲気が私の学年にはあった。私は幼稚園を私立で卒業し、そのなかでも私自身地が強いので合わない子と口論になったりもしたが、その子はその子他の子は他の子でのびのびと楽しい幼稚園生活をしていた。
小学校に上がって一応国公立を受験したものの、自分自身よくわかっておらずテストを真面目に受けなかったものだから普通に落ちて、地元の市立に入学した。そしたらどうだろうか女子と男子のカースト制度、その上野蛮、小学校に上る前はそれなりに漢字や勉強に興味のあるいい子であったはずなのに、小学校に入ったときに自分の名前をすべて漢字で書いたらある日男子3人に机を囲まれてこう言われたのだ「習ってない漢字を書くのはルール違反だぞ」と。今でも「は?」と思うし、当時も「何いってんだこいつ」と思っていた。けれど現実というのは自分ひとりだけじゃどうしようもなく、そのころの私はいわゆる私立出身の気弱なお嬢さんだったわけなので、そういったことを言われたり、私の学年は男子の言葉が絶対で男子の評価で女子からの評価も決まっていたので当然私は冷遇されてるのに耐えられなくてその権威に屈したのである。
その上何よりも嫌で嫌で仕方なかったのは小学1年と2年のときの小学校の担任である。もうこの担任が本当に嫌だった。そんな子供っぽいクラスメートの女子の意見をそのまま鵜呑みにして私のことを変に特別扱いし、一緒にして馬鹿にしてくるような担任だったのである。ついでにいえば1年のときにクラスの男子が教室で殴り合いになったときも止めずに観覧していたような担任である。そんな担任とクラスメートのと一緒に過ごす小学校生活になんの楽しみもなく私はひたすら自我を抑圧され、耐えるしかなかった。
結局6年まで耐え抜いたものの、私自身の性格は順応できるように自分でも歪んだ自信もあり、なおかつ口も悪くなった。今では治った方ではあるが当時は本当にそんな野蛮のなかで生きていたので口より手がでるような子供に育ってしまった。自分でも今思って悲しくて仕方がない。
その間私は何度も親に「学校に行きたくない」「休みたい」という主旨の主張をしたが、一度たりともその苦しさをわかってもらうことなんぞなく、理解してくれようともしなかった。そんな親であったので小学校の私は直接親に「いじめられているから行きたくない」などとはとても言えなかった。バイト先の主婦さんの子供が小学校に馴染めず今不登校してるという話を聞く度に「羨ましい」という気持ちしか湧いてこない。私もできることなら不登校になりたかった。あんな場所に今でも一ミリたりともいたくない。
20年以上生きてきた中でも人生のどん底は今でもあの小学校時代だった。そんなトラウマである小学校時代なにも救いの手を述べてくれなかった親に対して「理解する」「理解してもらう」ことなどできないと今でも心の奥底で思ってしまっているから、親に心を開くことができないのだと思うし、これからもこの溝を埋めることは決してないのだろう。
言葉について、「辞書に載っているからこの意味が正しい」というのは完全に間違いです。
辞書は、世間で使われている意味を拾って記録してあるだけです。
1億人以上いる日本語話者同士がコミュニケーションを取るにあたって、それぞれが使用する言葉の意味をすり合わせていくことは重要ですが、辞書を権威のように扱う人が出てくるのはどうかと思います。
はっきり言ってあなたの思考は原理主義に凝り固まりすぎている。
不必要なほど高い権威意識のせいで、物事の良さを柔軟に汲み取ることができない状態にある。
作中の言葉でいえば「ノイズに心の傷を広げられている」ような状態だ。
その「傷」を言語化するならば、
"音楽に対する思いが強いあまり、それを扱う他者を不誠実だと唾棄し、批難して憚らない精神を内面化している"という所だ。
作中にあなたとまったく同じ「傷」を抱えている少女は今のところ登場していないが、
それと似たような感じでネガティブで頑固な思いに囚われ、
そしてそれが部員とのやり取りの中で「救い」へと昇華されたストーリーはいくつかある。
そこまで熱心に批判をする気概があるのなら、実際にプレイし読み進めてもらえれば、
必ず響くシナリオを見つけられると思うし、それがあなたの救いにもなるはずだ。
既プレイ者からすると、編成についての批判などはすべて的外れで、
作中の状況や器楽部という部活の特殊性を理解していないから生まれる意見だと感じる一方で、
納得させる簡潔な文章を書くのは非常に難しいとも感じる。
だから何度も言うようだが、批判を続けるのならメインストーリーを可能な範囲で読んでからにしてほしい。
5幕の終盤くらいまでは一気に進めるはずだ。
過去に行われたイベントストーリーなども、当時のメインストーリーの進度と同期して登場人物の振る舞いが変る等があり、
批判のためにそれも見たいということなら、個人的に撮りためたものをアップしようと思うので言ってほしい。
YouTubeを漁れば一部アップされているものもあるが、全部はないと思うので補完が必要だと思う。
先ほど納得させるのは難しいと言ったが、一点だけ説明してみようと思う。
器楽部というのは、吹奏楽部やオーケストラ部のような形式張った伝統的な部活の常識に囚われない、
楽器を使ってパフォーマンスを行う部であり、定演などもあるが、主な活動の場は学内行事と、地域のお祭やイベント、幼稚園での音楽劇だとかになる。
部員には世界レベルの実力をもつ設定の子も数人いるが、あえて初心者とも混じって「楽しむ」ことに主眼を置いた部活をやっている。
つまり、コンクールなどの高みを目指して切磋琢磨する系の作品とはまったく主旨が異なるという事だ。
ところがネトウヨの多数は自民党支持ではあるが、統一教会と幸福の科学は嫌っている。というか「自民教」「日本教」以外のカルト宗教はいっさい嫌う。
でも、自分らがそういう日本会議系やらの票田価値が大きい集団からすれば泡沫的存在とはまったく思わず、自民党(日本の主流的権力・権威)と自分は一体だと思い込んだまま、こと表現規制に関してだけは反対するという自己矛盾がナゾなのだ
まあ、彼らに一貫してるのは別に自民党(権力・権威)への忠誠でもなんでもなく自己愛であって、それゆえ自分の好きなエロ漫画の規制に反対しつつ同時に、勝手に都合良く自民党(権力・権威)は自分の味方と思いたがっているのであろうか
が、この見方は余りにも「自民党(権力・権威)支持の表現規制反対者」を安易に戯画化しすぎた見方じゃないかと自分でも思える
で、彼らの自己矛盾をすんなり納得できる説明を見たいのだが、ここに書いてる諸氏には当の「自民党(権力・権威)支持の表現規制反対者」はおらず、外部からの分類分析しかないみたいだな
「好みのメンバーを集めてプレイ環境を整える」っていうゲームの外側の行為を、ゲームのルールで解決しようとするのが、そもそもの間違い。
「ゲームのプレイスタイルについての論争」もまた、ゲームの外側であって、その解決をゲームのルールに求めるのは間違い。
この件はパラノイアだけではなく他のTRPGのタイトルにも見られるんだけど、日本人特有の「お上の裁定に主権を白紙委任したい」「自分たちで自己判断するという重圧から逃げ出して責任者に丸投げしたい」という欲動が、TRPGにおけるGMという裁定者の存在や公式という存在に、悪い意味でマッチしちゃって、トラブルの解決を権威に依存してしまった。
(これに関しては、公式やデザイナーたちも悪くて、ゲームデザイン上の手抜きや欠点を、GMという現場監督になすりつけている共依存が存在する)
ともあれ、つまらないセッションも、トラブルも、参加者の共同責任だ。つまらないセッションの存在は人間関係上の手抜きから発生している。
増田トラバーの方々とかぬかしてるけど、長文でマウンティングかましてるのは全部俺だぞ。
それはいいとして、元増田の疑問や問題意識にはあまり響いてないようなので、少し切り口を変える。
【伝統】
様々な試論はあるが俺個人の考えでは、いくつかの文化が政治的経済的な諸々の要因と分かち難いレベルで結びつき、民族という単位でまとめあげられたものが伝統と呼ばれるものの正体なのだと思っている。
便利だから続けているライフハックの類は習慣と呼ばれるが、こちらには民族的な色彩はない。
伝統はそうではない。伝統は自らの民族を語る上で欠かせない要素であり、我々を我々たらしめるものだ。
そして我々と彼らを分け隔て、区別する為のものでもある...というのがギリシャ時代からの人々の認識だ。
しかし、伝統とは漠然と存在するものではない。あくまで異文化と接触して、彼我の違いを知り、
その違いこそが我らの唯一無二の価値だと見出すことなしには伝統という名を冠す事ができない。
だから、常に伝統は危機に晒されている。文化は戦争だ。負けたら我が民族の権威が失墜する。
そんな政治的経済的文化的な理由で弄ばれてきたのが伝統の正体なんですよというのが輪島さん達の考え。
そこまでは元増田も正確に読み取ってるなと思ってる。
「伝統は良くも悪くも我々の根幹に関わるものである」というある種の信念ではないかい?
というのも、実際にそういう人達にスポイルされた悲しい伝統というものが古今東西あって、
その問題提起が例の本だったと思うんだよな。
バルトークという作曲家がいるのだが、彼は作曲家であると同時に民俗音楽研究家でもあった。
今にも失われそうな子守唄、労働歌、踊り、気晴らしの遊びや口説き歌など膨大な歌と音楽や舞踊を採譜した。
それらの蒐集とそれぞれの作品の分析を通じて、民族の音楽とは何ぞやというテーマを深く掘り下げ、
彼らという民族を民族たらしめるものを特定し、伝統という名のバトンの受け渡しの大きなうねりに作曲家として、愛国者として身を投じようとした。
バルトークの作品群の中でも編曲作品は明らかにこうした政治的意図を持っている。
しかし、彼の音楽研究は結局の所、労作であるハンガリー民謡を読めば分かる通り、うまくいかなかった。
暗雲立ち込める祖国の中で閉塞感を感じ、積極的に行ってきた民謡の蒐集からもやがて興味を失い、
音楽的ひきこもりといえるような苦悩を臆面もなく吐くようになってしまう。
追い討ちをかけるように、愛国者バルトークはハンガリーウヨからもルーマニアサヨからも批判される事態に陥る。
アメリカは日本へ2発の原子力爆弾を投下して、日本は無条件降伏した。
無条件降伏だったので、日本はアメリカの植民地、奴隷にされた。
江戸幕府は鎖国政策を行っていたが、欧米はその間にも技術を発達させ、軍事力も増大させていた。
江戸幕府は当初「公武合体」によって、新しい日本の体制作りを目指した。
公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。
しかし、公武合体は失敗に終わり、薩長のテロリストたちがクーデターを起こした。
イギリスに支援された薩長同盟 VS フランスに支援された江戸幕府
英仏の代理戦争が日本国内で展開されて、イギリスのフリーメーソンが勝利した。
明治維新以降、日本は日露戦争に勝利する等、外国と戦争して勝つことができた。
調子に乗ってアメリカにも戦争をしかけたら(真珠湾奇襲攻撃)、逆にボコボコにやられてしまった。(原爆投下で第二次世界大戦敗北)
天皇が「勝つ見込みはありますか?」と尋ねたら、軍部は「短期決戦で勝ってみせます」と応えた。それならOKと戦争を開始した。
軍部は「アメリカから買っていた石油がなくなったので、これ以上戦争を継続できない」と判断した。(そりゃ戦争やってる相手に石油を売る馬鹿はおらんわなw)
松谷誠のように、早期講和を検討した者もいたが、軍部に握りつぶされた。
日本が2年程度で戦争を止めていれば、満州を失うだけで済み、日本の本土まで取られることはなかった。
結果的に、天皇と軍部は判断を誤り、早期の損切りができなかった。
松谷 誠(まつたに せい、1903年(明治36年)1月13日 - 1998年(平成10年)10月7日[1])は、大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛官。
天皇の悲劇は、周りにイエスマンしかおらず、適切な判断材料となる反対意見を言う者がいなかったこと。
(天皇一人が悪いのではなく、取り巻きの連中が使えなかった。)
もしも、松谷誠らが天皇に直接提案する機会があれば、完全敗北を避けることもできただろう。
歴史を振り返ると、ワンマンのリーダーが判断ミスすることによって、国が滅ぶ例が多々ある。
日本の近代史を振り返ると、日本の岐路は、「公武合体」にあった。
もしも日本が、天皇と将軍のツートップ体制だったら、どちらか一方が判断ミスをしても、リカバリーできる可能性があった。
しかし、ワンマン体制だと、一人のリーダーが判断ミスすることによって、ドミノ式に全体がミスに巻き込まれる。
公武合体が成功していたら、日本は今とは違う歴史を歩んでいただろう。
負け惜しみで、明治維新を賞賛する向きもあるが、敗戦の結果を見れば、明治維新の天皇制は失敗だったことに気付く。
残念だ。
本エントリーは増田文学賞2018前期の投票に関する総合案内用のエントリーです。投票は以下にリンクを張った各部門の投票用エントリーのブコメにて行ってください。また、文学賞全体に関する質問・意見は本エントリーに、各部門に関する質問・意見は部門別投票エントリーにはてブか増田で行ってください。
2018年8月4日:結果を発表しました。発表が遅れ、すみませんでした。
はてな匿名ダイアリー(以下、増田)の匿名性と日記というフォーマットによって生まれた「名乗るほどではない、あるいは名乗ることはできないが誰かに話したい感情や体験、発想をウェブ上で共有し、称え合う文化」を守り、増田のますますの発展に寄与する
(注:以上期間はすべて日本標準時とする)
本文学賞の運営者は、各部門ごとに投票を集計し、投票されたエントリーのうち投票数上位5件を「ノミネート」、最多票を得たエントリーを「受賞エントリー」として投票所上で発表する。
コメント賞を除く全部門の投票を総計し、最も多くの票を得た記事を大賞とする。大賞の発表は別記事にて行う。
集計時はコメント文をプレーンテキストとして扱うので、リンクされなくても大丈夫です。
・ハリルホジッチ解任
───
元ハリル副官・ボヌベー氏インタビュー
https://russia2018.yahoo.co.jp/column/detail/201805150004-spnavi/
解任される前、チームがそのような危機的状況にあると、あなた自身、認識していたか? 悪い予感を覚えた瞬間はあったのか?
ああ。そしてそのことについて、ヴァイッドに話した。
───
選手とハリル側双方のインタビューも出てきて不和があったことは間違いないようだ。
有力な選手を揃えながら敗れ去ったアルゼンチン代表がそうであったように、
解任に値する十分な理由ではあったが、JFAの説明は重要な問題を扱うにしては不明瞭なもので今後の代表運営に不安が残る。
・ハリルジャパン
相手にボールを持たせる方針を取りながら最後まで守備が安定しなかった。
噂された秘策の中身もボヌベー氏のインタビューを見る限りこの致命的な弱点を補えるものではなく、やはり一発逆転のうまい話はない。
ハリルジャパンの方向性は日本代表に欠けているものが必要になる戦い方であり、上手くいけば長年の弱点が改善される可能性もあったので、惜しいと感じるものはあった。
最終形のベースは散々指摘されてる通りザック+アギーレジャパンだろう。
遺産をしっかり使って短い期間で上手くまとめたと評価していいと思う。
当時似た編成で試していた時と比べると乾・大迫・原口・酒井宏のレベルアップが目覚ましい。そして昌子素晴らしい。
遠藤(ガチャピンの方)が「後継者は?」と聞かれて「岳ちゃん。」と答えていたがその通りになった。柴崎素晴らしい。
ザックジャパンはキャンプ地等の関係でコンディション問題があったのではと言われていたが、今回である意味リベンジが見れてザッケローニファンもようやく成仏出来るだろう。
色々寄り道した中での一つの到達点になるのかも知れない。
眠気を堪えて見てよかったと思える本当に良い試合だった。
条件①中3日気温36度という悪条件で主力を出来るだけ休ませたい。
まずGL突破を願ってたファンにとっては悪夢だった人も多いはず。
サブメンバーのチョイスはどうだったのかという事も問われているが、
つまりは短い準備期間という監督解任騒動のツケを支払う事になった。
「負けてる状況でボール回し10分間」は振り返って考えても確かにGL突破の可能性を最も高める選択ではあったが、
例えるなら他力より勝る自力を用意できなかった日本代表に下された罰である。
同じことを繰り返したくないならGL第3戦で勝ちに行けるサブを用意出来るくらい強くなる事が、真剣勝負と見て面白いサッカーを両立させる唯一の回答だろう。
ベルギー戦でベストメンバーをまずまずのコンディションでピッチに立たせることに成功した事が西野監督がギャンブルに勝った報酬である。
おかげでベスト8の夢を見て、負けたけど良い試合だったと言える気分で感想を書くことができる。
難しい心境だったであろうセネガル審判のジャッジも、正直試合中は忘れる程に素晴らしいものだったと試合が終わってからようやく思い出した。
・次の代表
人が代ればサッカーも変わる。
これまでの道を受け継ぐのか新たな道を探すのか、
何が最善か考えながら進むなら弱くなっても見続ける価値はある。
・感想
全体を振り返って様々なことを本当に楽しませてもらった。
連動した前を向かせない守備を実現して欲しいとか、個々の選手に対する不満とか、
あの選手呼んでとか、すでに感謝以外の欲望も色々あるけどそれ以上に、
組織の在り方、報道の在り方、ファンの在り方、選手以外の色々な問題も可視化されたW杯だったと思う。
次のW杯は色んな人がもっと素直に楽しめる環境になってたらいいなと思いました。
残りの決勝トーナメントはコロンビア、ベルギーに肩入れしつつ、
本気で勝ちたいと望む選手たちの競い合いを決勝まで楽しみたい。