はてなキーワード: 中学校とは
そら大学の生徒数減は、少子化よりも18年遅れてくるんだから、こんなもんでしょ。
今まさにこれから減ると言うだけの話。
将来の準備に向けて単体としての競争力を増やすフェーズは既に終わり、いまは合併や再編の話もそこかしこで出ている。
それでもまだ、いま主に減っているのは小中学校だけどね。
塾の類ももう減っていくよ
・A君 26歳
パパの病院を継ぐ予定。合コンが大好きでパパが節税用に買ったマンションをやり部屋にしている。スピリタス入りカプセルを常に懐に忍ばせる。
・B君 26歳
貧しい家庭から猛勉強して官僚になった。減点主義の警察組織で長官となるため、部下が不祥事を起こさないかビクビクしている。
中肉中背、普通顔
・C君 26歳
旧華族出身。「スケジュール」と言うと「シェジュール」、「エレベーター」と言うと「リフト」、「このビルの3階だよね?」と言うと「2階ね」と訂正してくる。
・D君 26歳
腕っ節が強い。船の上では頼もしいが陸に上がると何もしない。漁港の女性たちが営む定食屋かお婆ちゃんの営むスナックで漁師仲間たちと過ごす。
今日ニュースで、中学校の先生が作った現代版の仏像ってのをやってた
記事では石原さとみに似てるって言われてたけど、私の印象ではめっちゃ壇蜜に似てて笑ってしまった。
どんな顔にありがたみを感じるかはたぶん人それぞれなので、壇蜜顔の仏像があってもいいと思うけど、もし私が仏師なら浅田真央か、愛子さまをイメージしながら彫るかなぁ。
切れ長のしょうゆ顔が相応しいと思いきや、インド人は目鼻立ちがクッキリしてるわけで、どんな顔が仏像顔とは一言では言えない。顔というより柔和な表情かな?神秘的というか、私生活が謎のヴェールに包まれている感というか…。あ、これがアルカイックスマイルってやつか!!
女性ばかり挙げてしまったが、男性だとどうだろう。中性的な神木隆之介、サッカーの内田篤人なんかはいい線いけそうな気がする。先程のインド人の例でいえば、インドの俳優は仏像にするとゴージャスで映えそうではある。バーフバリの人とか(バーフバリの人しか知らんけど…)でも仏像っていうより仁王像か?
とにかく左右対称で整った顔立ちであることは間違いない。かといってキムタクはちょっと違う気もする。ちょっと野生味が強すぎる。シワがないことは重要なファクターのひとつだろう。…あ、香取慎吾!!香取慎吾はめっちゃ仏像っぽい!!奈良の!あまり骨ばってない、ふっくらとした顔が望ましいのかもしれない。
何気なく動画サイトで動画漁ってたら、昔の箱根駅伝のテレビ中継がそのまんまあったんで、見てみたら中学の同級生が出てた。
俺は箱根駅伝に時々出るような大学の出身だけど、正直なところ、テレビで同じ大学の選手が走ってても今までずっと何とも思わなかった。
どれぐらい心動かされたかと言うと、フリーザ様やリラックマが出てきた時以上に画面に釘付けになった。
大していい思い出なんかないクソ田舎の中学校で大したことない中学校生活だったし、どっちかといえばクソみたいな思い出のほうが多かったくらいだし、その同級生とは3年生の時に同じクラスだっただけで特に仲がよかったわけでもない。
だけど、その同級生が走ってる姿には、そんなクソみたいな中学校の、まるでみんなの夢を一身に背負っているかのような神々しさを錯覚してしまったし、過去の動画なので既に結果はわかってるはずなのに、彼に勝ってほしいと願わずにはいられなかった。
同級生は2区を走って10位ぐらいで3区にたすきを渡していた。地味に何人かに抜かれていたし、中継でも時々ちょっとだけ出てくる程度だったので、おそらく日テレ的には、中継番組的要素としては、ぱっとしなかったということになるのだろう。
だけど23キロを1時間ちょいで走るなんて一般人には無理だしやっぱりすごいし、25年越しで同級生の晴れ舞台を見ることができたので俺は嬉しかった。
僕と少年ジャンプの話をします。僕は小学四年生の頃から現在社会人3年目の今まで週刊少年ジャンプをほぼ読み続けていました。
当時小中学校の時はToLOVEるなど女子と性的なコミュニケーションを取る漫画をハラハラドキドキしながら読んでいました。しかし大学生も後半の頃に当時ToLOVEるを読んでいなかったという友人(男)に出会いました。その時僕は理解ができなくてしどろもどろ興奮しながら「男なのに!?意味がわからない」と発狂しました。しかし今は「性暴力」と「女性も同じ人間」だという事を知っているので、彼がなぜToLOVEるなど性的な作品を読まなかったのか理解できます。「相手の同意を取らずに性的な行為をするのは性暴力で、相手の心を傷つけること」「女性の体を見境なく性的に見ることは当然のことではないこと」ということを当時の僕が知っていれば僕も彼と同様ToLOVEるなど性暴力を扱う作品を楽しく読むことはなかったでしょう。「性暴力含むエロを豪胆に愛して憚らないのが男らしさ」という少年誌のメッセージを内面化してしまい、性暴力を含む作品を声高に称賛して、男らしくなれてると錯覚してた自分は本当に恥ずかしいし迷惑なことをしていたなと思います。
小学校高学年の頃、東京に住んでいた僕は秋葉原もそこそこ近く、「非実在青少年」の話を皮切りにした漫画の規制の話をよく耳にしてました。少年ジャンプの作者たちも「読者は現実とファンタジーの区別ができる」と言った論調で規制を反対していました。ぼくも「その通りだなー」と思っていました。しかし今思い返してみると当時の僕は区別なんかできていないことに気づきました。今でもすごく心残りの事件があるのですが、僕が小学生の頃公園で遊んでいると同級生の男子が女子に棒アイスを差し入れました。僕は少年漫画でアイスやチョコバナナを男性器に見立てて、それらを普通に食べている女子をエロい目で見るというセクハラの存在を知っていました。しかし女子たちはそれを知らずに暑い夏だったので棒アイスを感謝しながら食べてました、男子たちは僕の予想通りいやらしい笑みを浮かべて彼女たちを見ていました。その時は嫌な奴らだな、でも「男子はそういうものだからな」ということが当たり前だと思い込んでいたので、問題な行動だとして注意をするという発想がありませんでした。男子たちも仲間内で露悪的だけど楽しいことをしているといった雰囲気でした。その男子集団のリーダーだった男子は高校生の時に風呂覗きをして学校を退学になっていました、風呂で盗撮した写メを男子のグループに共有したらしいです。多分いいことをしていると信じての行為だと思います。僕も彼も「男子はそういうものが好き」という少年ジャンプが発信する嘘の常識を信じ込んでしまっていた点は同だと思います。そのために、セクハラをされたらその人の心は傷つくという当たり前のことに気づけなかったのです。
小学生の頃、僕は少年ジャンプを作っている人たちに「子供は現実とファンタジーの区別ができる、倫理観や道徳観を持っている、判断がつく」というような期待をされました、そして今の僕がそれに答えるとしたら「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と答えますし、現実とファンタジーという区切りではなく、「社会的責任がついて回る空間と、そうでない空間」での影響を論じるべき内容だと思います。
僕は面白い漫画を読むためにジャンプを買ってきたつもりです。大学の頃に出会った彼もそうだと思います。極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けてただろうと思います。
ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために描かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。
個人的に、女体を切り売りして、それを喜ぶ層に商売をする今のジャンプは見ててつらいものがあります。女女でやれば批判されないと思っているのか、この頃女から女にセクハラするという作品が増えています。今一度、同意のない性的な行為は相手が誰であろうと性暴力であり相手は傷つく、という認識をジャンプ編集部は持ってください。
漫画を使って教育しろと言う気はないですが、今のジャンプの作品内での女子の扱い方は、パブロフの犬のように、読者に「女体=エロ」と脊髄反射でつなげてしまう、そういう訓練になってしまうという一面があると思います。
「男は、女性の性的な部分を力づくやラッキーで見たいと思ってる」というような「男=狼」観を決めつけで小さい子供たちに信じ込ませるようなメディアを作るのは大人としてやめて欲しいです。
そもそも作品でよく描かれている高校生以下の女子は、大人が守るべき児童の枠の中にいます。倫理的にそういう枠の子をエロく描くのはいけないのではと思います。
詳しくはこの動画を見て欲しい。
[登場人物]
・主の娘: 中2。発達障害者(自閉症スペクトラム)。小学校と中学校が併設された学校の特別支援学級に通っている。兄弟に対する他害あり。パニックになると他人にも他害することもある。
[動画内の他害の経緯]
・小学部と中学部合同で体幹トレーニングをするイベントがあった。
・娘はイベントに参加したくなかったが、無理に参加させられ、始めは我慢していたが、イライラから来る感覚過敏に大音量のBGMと小学生の騒ぐ声が重なり、担任に他害をし始めた。
・担任がそれを無視したため、イライラが頂点に達し、そのイベントを企画した教員に他害し怪我を負わせた。
[投稿主の主張]
・しかし怪我を負わせるまでに、食い止められるポイントがあった(イベントに参加したがらなかった時と、担任に他害し始めた時)。また娘の特性を理解していれば防げたかもしれない。
・そもそも支援学級の教員達の知識が無さすぎる。日本の教育制度全体に問題があるとはいえ、支援学級を担当するなら支援の知識をつけるべき。
・中1の時は授業にきちんと参加出来ていたのに、中2になって授業を受けないことが増えたため、担任に問題があるのではないか。
以上が概要だ。
娘に落ち度はない。したくて他害している訳では無いし、抑えようとしても出来ないのが発達障害なのだから。
しかし昨今、いじめ等の学校の閉鎖的な姿勢に批判が集まる中で、生徒からの教員に対する暴行はどこまで学校内で処理すべきなのか。
教員に支援の基礎的な知識がないのは事実だろうが、そもそも教員は支援の専門家ではない(特別支援学校教諭免許状を持つのが好ましいとはいえ必須ではない)。
教員不足の現状で支援の免許を持たない教員が担任になることもあるだろう。支援の専門家でない人にきちんと支援しろというのは、他害傾向のある発達障害者に他害するなと言うのと同じではないのか。
そもそも学校教育というのは、画一的な国民を作るシステムだ。「個々人の特性を理解し、良いところを伸ばす」という思想とは相性が悪すぎるし、その余力は現場にはないだろう。
現在26歳。今年27歳になる女だ
フォークダンスで手を繋いでくれなかった大半の男子の中で「オエーーwww」と吐く真似をした同級生に娘が産まれた
地元の友人と他愛のない話をしていた時、その話を聞いた瞬間この記憶が蘇ったものの誰にも言えないからここに残しておく
うちの中学校は中学3年生になると体育祭は全員参加科目でフォークダンスに参加しなければいけなかった
当時私は女友達には恵まれたものの、見事なデブス(160cm/70kg)でオタクだったので男子からは見事に嫌われておりフォークダンスの事を考えるととにかく憂鬱だった
他の生徒も皆思春期からか「ダンスカバーにしよう」「恥ずかしい」といった声も少なくはなかったが先生が「小学生じゃないんだし、案外毎年皆普通に手を繋いで踊って楽しんでるよ」と言って続行となった
私はその先生の発言を聞いた時、めちゃくちゃ安心した…が、いざ練習をした時ほぼ全員の男子が私と手を繋ぐ事を拒否した
30人前後×4クラス120人、そして男女比が半々だったので男子数は約60名。その中で6人の男子以外は私と手を繋ぐ事を拒否し、繋ぐフリで空中でそれっぽく踊っていった
たまに手が触れると舌打ちをされたり露骨に睨まれたりして、多少の人数の拒否は覚悟をしていたけど流石にここまで大多数にしっかり拒否されるとショックで少し傷ついた
逆に手を繋いでくれた子は名前は忘れちゃったけど、今でもぼんやり覚えている
クラス委員2人、医者を目指していた賢い人、PSPとかAKBの話をたまにしていた人、誰にでも優しいニコニコした人、後ヤンキーでたまに学校をさぼっていた人
この6人は当時デブでブスな私とちゃんと踊ってくれてありがとう。今も元気に暮らしているといいな
話が逸れてきたのでここで一旦話を戻す
ある日フォークダンスの練習で先生に私とある男子が手を繋いでいない事がバレてしまい、きちんと手を繋いでるか監視が強化されてしまった
私は数回の練習と度重なる拒否で「お互いの為だし、もう無理に手を繋がず適当に踊って過ごしたい…」と思っていたが、大人(教師)が怖いのでその日は指導が入った途中から全員を手を繋いで踊った
授業終了後、ヤンキー気味のやんちゃな子が「オエーーーwww増田の手握ったんやけどwww」って吐く真似をやった
仲間の子も「増田菌で手が腐り落ちそうwww」「握った手でオ〇ニーしたりしてwww」と仲間も便乗して男子は大爆笑
私は気づいていないふりをして友達と制服に着替える為校舎に戻ったが、流石にトラウマになりしばらく夜泣いて過ごした
監視の目が光っていたのはその日だけで、その後の練習や本番はまたほとんどの人と手を繋がずなんとか乗り切った
それから高校生、成人と成長するにつれダイエットやメイクを覚えたり、歯列矯正やほくろ除去、二重整形等自分の給料で美容整形施術を行ったことで昔よりはマシな見た目になった
地元を出て働き、縁もあり人(整形カミングアウト済)と半同棲をして自由に暮らして個人的には大満足、むしろもったいない暮らしをしているがやはりこの出来事はたまにに思い出す(10年以上たってさすがに頻度は減ってきたが)
年末年始地元に戻った際、その吐く真似をした男子が子供が産まれたと友達に教えてもらった
SNSを見せてもらったが会社(板金屋)を立ち上げ、去年秋娘が産まれたと人生が順風満帆そうだった
本人や友人の写真、車の写真しか載せていなかったけど、恐らくかわいいギャルの子を嫁にしているので子供の顔もかわいらしいだろう
ふと「もし娘がもう少し成長して私に似た不細工な子供だったら手を繋ぐのだろうか」と悪い事を思ってしまった
私は幼少期も顔が不細工だったので父親から「お前は顔がなぁ」「金使いたいとは思えない顔なんだよ」としょっちゅう言われたり、理不尽に怒鳴られる等いい記憶がほぼない。父親そっくりの顔なのに。
(母親や両祖父母にはきちんと愛情を注いでもらったからなんとか成人し、今もこうやって生きてます)
ラジオを聴いていたら、終わらないコロナ禍と物価高で、医療に助成金、低所得世帯や売上の減少している中小企業への支援金、小中学校の給食費の一時無料化、農家への燃料費・肥料費の助成金、などなど、幅広く税金が投入されており、税収が過去最高なのに何でこの国は金がないのか? っていう疑問の答えは、シンプルに支出すべき所がここ数年とても多いという事もおそらく一因なのだと思った。
コロナ禍と円安が起こる前だって、毎年国内のどこかしらで災害が起こり、現地の経済活動は滞り、大きな損失が出て、それに対する義援金などを支出していたのだし、そもそも東日本大震災の復旧だってまだ完了していない。
沢山沢山、金がかかる。一つの災害が起これば、安く見積もっても損失の二倍お金がかかる訳だ。
災害大国である以上、この国はとても金がかかるという事。単に生きていくというだけの事に、金がかかる国なのだと言ってもいいかもしれん。
(という状況の中で、どさくさ紛れに美味い汁吸ってやろうとか、やめて欲しいもんだな)
あなたが中学生の時、ともすれば高校生の時、こんな話を1度くらいは聞いたことがあるだろう。
「自分は教科書を10周くらいしないと覚えられないけど、学年トップの人は教科書1周しただけで全部覚えるらしいよ」
他にも、こんなことを語ってる人を見たことはないだろうか。
「普段勉強全くしてないけど、テスト前に教科書チラ見したら満点とれた」
凡人の自分たちは、一度くらいはそんなことを聞いたり見たりして憧れたのではないだろうか?
しかし社会人になると、そういう人間は全く見かけなくなるのである。
「Pythonの教科書1発見たらすらすらコード書けるようになった」
確かに、契約書を一発で覚えるとか、レジュメを全部頭に入れられるとか、
プログラミングもある程度習熟した人であれば、類似の言語であればすぐに書けるようになる。
しかし自分が少年時代に見たような「天才児」は消えてしまうのである。
結局彼ら「天才児」はどこにいったのか?と言えば、まぁそれなりにいい企業に入って居たり、勉強についていけず落ちこぼれたりしているのである。
何故かと言えば、「天才児」が教科書1周で頭に入ったり、一夜漬けでテストでいい点を取れたのは
「塾」に行っていたからだ。「中学校受験」をして、既に学んだ内容でできることだったからだ。
新しい事、新しい知識、新しい型になると、途端に彼ら・彼女らは覚えられなくなる。身に着けられなくなる。
20代を過ぎ、脳みそが成熟したぐらいになると脳の早熟も意味を失う。
もしこれを見ている子供がいたら、周りの天才児を見てもどうか気を落とさないで欲しい。
大学や企業に入れば、どえらい発明や発見をした「天才」と呼ばれる人たちは
学生時代は勉強が苦手だったり、案外記憶力が悪かったり、その分野以外はポンコツだったりする。
これお前かあ
この変電所変でんしょ?というダジャレを小学校の廊下に貼ってあった電気関連の啓発ポスター(の変電所のところ)を見て思いついて以降、いつか使ってみたいと40年近く待っているのだが変電所がなかなか話題に出ない
このままだと中学校の社会科のタイガ森林の説明で先生が「タイガは鬱蒼とした森になっており…」と言った瞬間に「ウッソー!」と大声で叫んでクラスが凍ったあの頃と同じように
独仏は参考にならなかったので英国や米国の学校内運動部方式を参考にした。
あくまで仕組みを参考にしただけで、英国のエリート養成学校のいわゆる嗜みとしてのスポーツという精神や、米国のスポーツ参加の平等性や公正性は無視された。
戦後の高度成長時期からは、学校の運動部活動は、一部私学のマーケティングとして利用され、公立学校では非行防止の一環と位置付けられた。
しかしそういった真の目的はウラの話としてささやかれるだけだったため、合理的で科学的なスポーツ環境は育つことはなかった。
十年以上前から、国民のスポーツする権利を保障するため、地域スポーツの強化が国の計画で打ち出され、ヨーロッパ型の地域総合型スポーツクラブを推進されてきたがうまくいかなかった。
そこに教員の労働時間短縮をカネをかけずにやり過ごしたい国が、教員の代わりに地域に押し付けようとという発想で生まれたのが、今回の運動部の地域移行である。
地域移行にあたっては、国民の健康や文化的な生活向上にスポーツを活かすという本当も目的がお題目として掲げられる。だが、真の目的が不純だからだ。
本当に地域移行しようとするなら、
本気でスポーツを国民に根付かせ健康や文化的な生活向上につなげたいなら、
まずは大学や実業団の運動部を廃止することから始めないといけない。
大学や大企業では、もっぱら一部の者だけが利用するために、体育施設や運動場が整備されている。
それらは、新法をつくり、無償で地方自治体に贈与させたらいい。
大学の運動部も結成自体は結社の自由があるから設立や活動自体は自由であるが、彼らのために特別な優遇措置を図る必要はない。いわゆる文化系サークルと同様の扱いをしておけばよいだろう。
私学にも国の助成金で運営されているのだから、運動部活動優遇措置を継続させたい私学には、助成金ゼロにしたうえで、固定資産税はじめ高額の税を課せばよい。
大学一般教養の体育の授業で利用するためだけなら体育施設の整備は認められようが、せいぜい大学共同利用施設として整備されれば十分だろう。
もっとも一般教養で実技としての体育の授業をすること自体に大いに疑義がある。なぜなら同年代の大学進学をしていない者は、年に24コマの体育をする権利が保障されておらず、大学生と職業人との間でスポーツ権に差が生じるからである。
大学で実技体育を必修科目とするなら、労働関係法を改正して雇用者に対して従業員のスポーツする時間を有給保障させる義務を負わせるべきであろう。
中学校の運動部活動は、中学校が義務教育機関であるため、大学や高校とは異なる視点が必要だろう。
12~15歳の者にとって、推奨されるべき運動量が、授業の体育だけで十分なのかは科学的に検証すべきであって、授業時間だけで不足するなら、それはやはり学校教育の場で対応するのがよいだろう。それも、運動部活動の形態を取るべきではないのは言うまでもない。
そして、推奨運動時間を超える部分は、学校が行うべきではなく、他の行政機関が社会体育として実施するべきものであろう。
高校や中学の運動部は無料で利用できたが、地域移行により保護者負担が増加することや、地域移行の受け皿に企業が進出することを懸念する声もある。
しかし、学習塾や進学塾にはカネを出すが、必要以上のスポーツ活動にカネを出さないのは理屈が通らないので、そういう声は無視すればよい。
企業進出については現状やむを得ないだろうが、企業と利用者(生徒・学生の保護者)が直接契約するのでなく、あくまで自治体の教育委員会社会教育部門が業務内容を決定し、それを企業に委託し、利用者は教育委員会に申込む、というスキームにすべきだろう。
そして、十年以上かけて、徐々に地域スポーツ指導員を育成し、市の正職員として雇用するなり、自治体出資のスポーツ振興事業団職員として採用するなりしていけばよい。
まあ、いままで無償で教員に押し付けていたものを、他のスキームでやるのだから膨大なカネがかかる。
そこはビッグデータやAIを活用して、国民の健康力がアップして医療費総額が何兆円減りますと計算させればよいし、米軍思いやり予算をゼロにして軍事費をGDP1%程度のままにしておけば何とか財源は確保できるだろう。
東京都で子供一人につき月5000円を配るとか、高校無償化とかいろいろやってるみたいだけど、実際のところそんなんじゃ子ども増えないよね。
生ぬるい対策じゃこの問題解決できないと思ってるからいくつか対策考えてみた。
・ 全寮制の施設中学校卒業まで(基本はみんな入寮、土日親と会える)
先進国だとこのくらいしないと増えない気がする。
部活動は、中学校学習指導要領において「教育課程外の学校教育活動」と定められる。だが、校長から「お願い」されて、ほとんどの先生が何らかの部活動の顧問をしているのが現状である。シングルマザーで、頼る人も周囲いないのに、運動部の顧問になった人を知っている。
僕の感覚だと、部活動の顧問をやりたくない人は相当の数いるのではないかと思っている。
それなら「お願い」なのだから「拒否」すればいいという人がいるだろう。
インターネット上では、部活動顧問を拒否する方法が散見されるが、実際に拒否するのは、相当に肝が据わっている人だろう。
それは、みんなやっている顧問を拒否したら、いわゆる「村八分」にされるかもしれないと思っているからだ。
教員集団は良くも悪くもチームで働く。村八分になってしまうと、様々な業務に支障をきたしてしまうことは想像に難くない。
ただ、顧問を拒否したところで、本当に村八分にされるかは、わからない。「みんな自分と同じように我慢している」というのが前提となり、ノプティコンのごとく、「あいつは、みんな我慢しているのに拒否した」と思われることを恐れている。
また、先生たちの部活動に対しての温度差も大きい。部活動に意義を見出し、生きがいにしている先生も一定数いる。とにかく何でもいいから認められたいという理由で、モチベーションが高い先生もいる。こういった先生を前に、「部活やりたくない。意味ない」なんて言ったら大変なことになる。だから、賢い先生は部活動が好きなふりをしている。
また、部活動では、どんな先生でもモチベーションが高かろうが低かろうが、生徒や保護者から様々な注文や批判に晒される。同僚や管理職も味方のようでいて、保護者と同じように「クレームを入れられる先生が悪い」なんて言ったりする。
部活動顧問は、一種のガチャである。異動のタイミングで引くことが多い。というか、内部の人間は、うまく調整して逃げられるのだ。
僕も着任早々、なかなか前評判の悪い部活動の顧問を打診された。というか決まっていた。
異動した先の部活動の前任者は、土日両方の朝から晩までやっていたらしい。しかし、実情は先生は職員室にいるだけ、参加率も低く、適当な練習に飽きた生徒は、時間つぶしに鬼ごっこをしているということだった。そこで、文部科学省の部活動のガイドラインを根拠に「練習は土日のどちらかを休みにする」「活動は3時間程度」にしようとした。
生徒たちは、その提案を好意的に受け入れてくれたようだった。しかし、保護者からは、かなりの文句を言われることになった。「前は教務主任の先生だった。力のない一般の先生で残念」「先生はやりたくないんですよね」「素人でやる気のない先生に教えられて子どもたちがかわいそう」「教育者としての自覚がない」などと言われた。
おまけに、保護者が、僕が競技経験がないことを理由に、外部コーチの候補を半ば強引に連れてきた。そのコーチは、来て早々に「何、この意味のわからない練習」と保護者にこっそり言っていた。生徒の責任にするつもりはないが、当時の3年生の生徒と一緒に考えたメニューだった。
そのコーチは、競技界隈では有名な人らしいが、お断りすることにした。保護者はグチグチ言っていたが、とても一緒にはできなかった。
このような経験をした先生はかなりの数いるだろう。自分に置き換えてみてほしい。僕は、部活動で雇われているわけではないのだ。そのコーチに再び会うことがあったらこう言ってみたい。
「あなたは生業としてコーチをしていますね。では、あなたがお休みのときに、5時間、みっちりと楽しく授業してください。5時間頑張ったら3500円支給します。ただ、あなたの休みのときは、すべてお願いします。あなたの都合で休むことは許されません」
如何に異常かがわかる。
結局、僕の異動1年目は、保護者や管理職の声に押される形で、土日に練習を行うことになった。大会などで三か月休みがなかったこともあった。
そのことを、あるとき校長に話したところ「みんな通ってきた道」と言われた。学校管理職は、管理というものをはき違えているようだ。
こんな風に部活動顧問が嫌な人は、周囲をみんな敵と思い込み、孤立を深めていく。保護者もダメ、同僚もダメ、管理職もダメ、部活に関わる外部の人もダメ。
はてな匿名ダイアリーに限らず、インターネット上のブログ全般に対して初めてです。
タイトルのように某東京23区(どこかは秘密です)の成人式に行ってきました。比較的閑静な住宅街が広がる地域です。いろいろと感じたことがあったのでそれをこの場で書き残そうと思います。
まずは軽い自己紹介。
・高校は家から少し離れた高校で地元からの知り合いや友達はほぼ消滅。
・地元の友達は片手で数える程度だが存在していて、そのうちの一人は頻繁に会う。
元々、成人式には行くかどうか悩んでいました。というのも上記のように友人がそこまで多い方ではなかったので、わざわざ行って寂しい思いをしてもなあと考えていましたが、行かずに後悔するよりも、行って後悔する方がまだましかなと思い、行くことを決定。
当日は上記の頻繁に会う友人と一緒に会場へ向かう。
会場の最寄り駅まで向かう際の電車では男女問わず、一目で成人式に行くのがわかる格好で「今日は成人式があるんだ!」と予め感じる。
会場の最寄り駅に着くと、人が多すぎてビビる。
会場の敷地に入って、5~10分くらいで中学校の友人に再開。髪型が変わりつつも、当時の面影があり、すぐにわかる。めちゃくちゃ懐かしいし、会えてうれしい。この時点で成人式に来てよかったと感じる(単純)
その後、再開した友人と話しているとちらほらと同じ中学校の友人と再会。(小学校だけ一緒だった人はほとんど再開せず)
写真を撮る。
その後、式典の会場へと向かう。偉い人の話自体はほとんど誰も聞かず、私たち含めてみんな、お互いの近況やら思い出話やらを話していた。
私も3,4人で集まって話してた。
とはいえ、私は式典のライブ配信を別の教室で見るという形だったので、話せていたがホールで直接見ていた人はおしゃべりもできず、息苦しかったのかも。
式典が終わると、敷地内の屋外でみんな友人を探していた。私もここですぐ帰るのも折角来たし、あれかなと思い、当時の友人や知り合いを探した。
初めはあまり見つからなかったが、徐々に発見する。男女問わず一緒に写真を撮った。私が当時とあまり変わっていない(?)らしく、向こうからよく声をかけられた。
私はというと、男性も女性も「ごめん、誰だっけ?」状態で、マスクをとってもらったり、名乗ってもらったりして初めて気づくこともしばしば。それでもすぐにわかる人も多いから不思議なもの。
同窓会はどうやらあったらしいが、会いたい人とはしっかり連絡先を交換したのと、そもそも自己紹介で述べたとおり、仲の良い人も限られるので不参加。
以上、当日の流れでしたが、感想としては以下のとおり。
①やっぱり会えば当時のテンションで話し合える
久々に会ってどういうテンションになるのかは私自身、怖かったが意外と当時のテンションで話せた。
裏を返せば、その当時のスクールカーストが保持された状態とも言えるのかな。
②行けば意外と楽しい。
私自身がいじめられていたり、クラスで浮いていたりしたわけではないのでという譲歩付きですが、みんな久々の再開という事で好意的な態度。そもそもハレの日だから、怖い怖い雰囲気ではない。
「今何しているか?」ということはほとんど興味がない感じで、むしろ当時を懐かしむ雰囲気。
③来てない人も(当然)いる
あの子絶対来るだろうな、と思っていた人が来ていなかったらしい。まあ、大学や高校での集まりを優先する人もいるだろうし、これは当然かな。
最後に。
いろいろ書きましたが、地元の人とまとめて再会する機会は成人式と同窓会くらいしかないので、成人式は自治体が用意してくれて、みんな招待されるものこれくらいなので、行った方がいいと思いました!
私は、1993年の1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市で生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地の優雅な建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町の長田、六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域も個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生の3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。
私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパスは自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校で勉強するのかな、なんて思っていたものだ。
私が小学校にあがる前のある日、父とふたりで大学の中を歩いていた。ふと父が「父さんは今日こっちの道に行きたいんだ」と言って、普段は入らない芝生の中へ私を連れて行った。杉の木立の中には、小さな茶色の碑があった。父はその石碑の前で足を止め、静かに手を合わせた。「これは何なの?」と尋ねると、父はこの石碑が、阪神淡路大震災で命を落とした学生たちを追悼するための慰霊碑だと教えてくれた。銘板に刻まれた名前の中には、地元で教員をしていた父の教え子がいるという。父は何十年も教員として勤務していたが、彼が家庭内で教え子の話をすることはほとんどなかったので、少し驚いた。
小学校にあがると、音楽の授業で「しあわせはこべるように」という歌を習った。この曲は阪神淡路大震災のことを歌っており、神戸市内の小学校では震災学習の一貫として習うのだ。たぶん、1995年以降に神戸市で勉強した人間なら、誰もが諳んじて歌える一曲だろう。小学校でも中学校でも、毎年1月17日には黙とうを捧げ、校長先生のお話を聞いた。ある年の学校新聞の1月号に、同級生とその妹のことが書かれていたことも覚えている。2学年下に在籍していた彼の妹は、まさに阪神淡路大震災の混乱の中、1月17日、被災直後に生まれたという話だった。
高校生にもなると、「しあわせはこべるように」を合唱する授業はなくなった。進学校だったので受験勉強は忙しく、みんな志望校に入るため必死だった。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。先輩は部活でも目立っていて、関西の超有名大学への現役合格を果たしたことはすぐに後輩の私たちにも知れ渡った。卒業式の日に卒業生代表挨拶を担当したその先輩は、両親を阪神淡路大震災によって亡くしたことをみんなの前で話してくれた。10年以上が経った今でも、あのスピーチを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。
高校を卒業すると、私は自分の実家から一番近い大学に進学した。それは、子どもの頃から家族と散歩していたあの学校だった。私の学部はかつて父と散歩したキャンパスからは少し離れていたのだが、それでも時々あの慰霊碑を見に行くことがあった。いつのまにか、私は父の教え子だったという誰かより1歳年上になり、成人を迎えた。成人式の会場に向かう途中のタクシーでふと「私たち、本当はもっといたかもしれないな」と思った。
大学を卒業して上京すると、色々な地域出身のさまざまな年齢の人と関わりあうようになった。地元は神戸なんです、と言うと、ほとんどの人が「おしゃれなところだね」なんて言ってくれるので鼻が高かった。しかし時々、50代くらいの人と話すと「震災の時、もう生まれてた?」と聞かれることがあった。生まれてたけど2歳になりたてで記憶はないんです、と返すとだいたいそこで話は終わるのだが、ごく稀に「実は僕は当時大阪に住んでいて…」と、当時の記憶を話してくれる人もいた。
ある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東京出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。乗っていた電車が止まったこと。復帰のめどが立たず、線路を歩いて帰ったこと。その時、自分の前を歩いていたお姉さんが泣いていたこと。
その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は関西だから、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。私も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。阪神淡路の時に2歳だったよ、と告げると彼は気まずそうに「そっか、そっちか」と呟いた。
彼は私より少し年下だったから、もしかしたら阪神淡路大震災のことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。小学校の社会の教科書にはきっと地震のことも載っていたはずだけど、自分が高校生の時に体験した東日本大震災の方が記憶としてはハッキリしているに違いない。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。
私は今、違う場所で暮らしているけれど、今でも自分が育った神戸はとてもいい場所だと信じている。街の中心部である三宮駅前には、かつて「神戸阪急ビル」という名のビルがあった。この辺りは震災で大きな被害を受けてめちゃくちゃになったという。街のランドマークだったというビルは取り壊され、それからずっと低層のビルが駅舎に繋がっていた。このビルは2021年に高層ビルとして生まれ変わり、震災前の姿を模した外観でリニューアルオープンした。私より年上の世代は新しいビルを見て「元の神戸の姿だ」と喜んでいたが、私には正直良く分からなかった。私が毎日のように遊んだ三宮は「仮の姿」だったのか!それでも、西洋風のモダンな茶色のファサードは、「私の好きな神戸」の姿に近いような気がしていいなと思った。
私は今日、30歳になった。平成初期に生まれた私たちは、阪神淡路大震災の記憶とともに生きる「最後の世代」だと言われている。確かに、地震は私にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生、別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まだ2歳になりたてだったから当日の記憶もまばらだ。でも、成人式の時にふと過ったあの感情を、誕生日のたびに思い出すのだ。阪神淡路大震災がなければ、私たち、本当はもっといたかもしれない。地元の同級生は、実はもっと多かったのかもしれない。自分の人生のどこかのフェイズで、あの時いなくなった誰かが私の大切な人になっていたかもしれない。
記憶も年をとる。誤解を恐れずに言うと、阪神淡路大震災のことは、これからどんどん忘れられていくだろう。神戸と縁のない人たちにとっては、もうすでに阪神淡路大震災のことは別の災害の記憶に塗り替えられているかもしれない。はっきり言って、これはどうしようもない、誰が悪いわけでもない、日本に住んでいる限りは、大きな地震が定期的に起きることは避けられないのだから。でも、少なくとも私は― 傷ついた神戸の街に育ち、ゆっくりとその傷が治っていく中で青春を過ごした私は、これからも阪神淡路大震災を忘れることはない。「最後の世代」という言葉は、「私たちは本当はもっといたのかもしれない」とリアルに思える「最後の世代」だということなのだろう、と今は思っている。30歳になった今日も、またふと考えた。私と一緒に年をとってくれる誰かが、本当はもっといたのかもしれない。
そいつはちょっと面倒で、たまに拗ねたりする以外はスゲー良い奴なんだ。
それでさ、ちょっと家庭事情がよろしくない女の子と付き合っちゃって、2人で住んでるアパートに酔った父親が夜中に金をせびりに来るような感じでさ、ソイツは身を呈してクソ親父から守ってやったわけ。
プロポーズもしてさ、でもソイツも金はそんな無くて、その彼女も稼ぐために勉強したいつって、ソイツの実家に二人で転がり込んだの。
彼女は他に身寄り無いし仕事辞めてガッコー行って勉強してさ、「二人」の未来のために頑張ってたのな。
でも俺の友達はさ、ちょっとそういう生活に嫌気さしちゃったのかな、マッチングアプリで浮気したらしいんだわ。
彼女さんが俺と、俺の親友(ソイツの親友でもある)に夜中に泣きながら相談してきたんだわ。
もーね、ソイツ呼び出して、3人で膝詰め合って徹底議論よ。
「オメーは最低だ」
「何が最低って、彼女はお前以外にアテが無い状態で裏切ったことよ」
「ひとり身が遊ぶのは良いんだけどさ、お前の状況は筋が通ってねぇよな」
結局、浮気っつーか逢引?は3回くらいでさ、それが真実かは分かんねーけどさ、彼女さんに三人で頭下げてさ、「もう二度とこんなことはさせない」って俺らで誓って平謝りした。
んで、ソイツは改心したのかな、真面目に彼女だけを愛してさ、彼女がガッコー卒業して二人暮らし始めて、子供生まれて家も建ててめでたしめでたしよ。
長くなるけどな、ここからが本題なんだわ。
自慢じゃねーけど、俺らの地元はまー過疎化の進んだ、終わった土地なワケ。
小中学校は統廃合繰り返して、就職先も工場か病院くらいしか無いんだわ。
同中で地元で今も暮らしてる奴なんて、同級生600人いたけど100人もいねーと思うわ。だってここにずっといても無駄だからよ。
そうした土地でさ、ソイツ、嫁さんにせがまれて家建てたんだわ。
俺の親もさ、歳重ねて家建てたよ。土地込みで2500万だったかな。
寂れた駅から徒歩5分。でもJRの駅だからな、まぁまぁ良いだろ?
でもさ、ソイツの建てた家な、駅から徒歩30分だ。田舎も田舎の方よ。
びっくりだよな。広さもそんな無いぜ。庭込みで精々100平米ってとこか、2階建てな。
建売は嫁さんが嫌がって、注文住宅にしたんだとよ。こんな寂れた土地で5000万か。
そもそもソイツは家建てようとは思ってなかったって言ってたよ。
俺は察したね、ああ、切り札を使ったんだ、って。
あの時の浮気を許してやるからとか、色々言われて、この家を建てることにしたんだって。
きっとソイツは、もうあそこを終の棲家にせざるを得ない。
気の迷いが、積もり積もって5000万になった。
浮気の恐ろしさを思い知ったね。