あなたが中学生の時、ともすれば高校生の時、こんな話を1度くらいは聞いたことがあるだろう。
「自分は教科書を10周くらいしないと覚えられないけど、学年トップの人は教科書1周しただけで全部覚えるらしいよ」
他にも、こんなことを語ってる人を見たことはないだろうか。
「普段勉強全くしてないけど、テスト前に教科書チラ見したら満点とれた」
凡人の自分たちは、一度くらいはそんなことを聞いたり見たりして憧れたのではないだろうか?
しかし社会人になると、そういう人間は全く見かけなくなるのである。
「Pythonの教科書1発見たらすらすらコード書けるようになった」
確かに、契約書を一発で覚えるとか、レジュメを全部頭に入れられるとか、
プログラミングもある程度習熟した人であれば、類似の言語であればすぐに書けるようになる。
しかし自分が少年時代に見たような「天才児」は消えてしまうのである。
結局彼ら「天才児」はどこにいったのか?と言えば、まぁそれなりにいい企業に入って居たり、勉強についていけず落ちこぼれたりしているのである。
何故かと言えば、「天才児」が教科書1周で頭に入ったり、一夜漬けでテストでいい点を取れたのは
「塾」に行っていたからだ。「中学校受験」をして、既に学んだ内容でできることだったからだ。
新しい事、新しい知識、新しい型になると、途端に彼ら・彼女らは覚えられなくなる。身に着けられなくなる。
20代を過ぎ、脳みそが成熟したぐらいになると脳の早熟も意味を失う。
もしこれを見ている子供がいたら、周りの天才児を見てもどうか気を落とさないで欲しい。
大学や企業に入れば、どえらい発明や発見をした「天才」と呼ばれる人たちは
学生時代は勉強が苦手だったり、案外記憶力が悪かったり、その分野以外はポンコツだったりする。
まじりけのない透明なる天才たちに支えられているのが社会なんやで