はてなキーワード: ディシプリンとは
eternal_reflectionさんへのお返事が長くなったので。
1 代表選手の間に「ジャパンズウェイ」の共通認識がないような
「ジャパンズウェイ的なるもの」は、私の理解だと、コレクティブな、いち早く奪い、すぐに攻撃に移り、前へ前へと攻撃する、いわゆるショートカウンターの種類になるようなサッカーかと思う(違ったらすいません)。
今回のW杯試合後のインタビューなどを見聞きする限り、今回の代表メンバーの中にもこれを必ずしも肯定的に捉えていない選手も複数いた。これは、その選手が悪いということではなく、「共通認識がない」ことの現れではないだろうか。指導者層がこの問題について選手との間にコンセンサスを形成できていないのでは、と邪推をしている。
その邪推の根拠の一つとして、森保監督の選手選定がある。ご本人のインタビューを見聞きする限り、そして私個人としても、「ジャパンズウェイの体現」ではなく勝つための(便宜的な)サッカーだったのではと思うし、勝つことが第一かつ最大に求められる日本代表に関しては当然だと思う。一方で、準備段階ではどうだったか、東京五輪でやったサッカーは「ジャパンズウェイ」的なものだった?違うと思うし、その前の親善試合でも、戦術や選手選定の試行錯誤でもあろうから責める理由はひとつもないが、芯があったようには思えなかった。繰り返すが日本代表は勝利が至上命題(じゃないと話題に上らないからね…)なので森保さんを批判する気にはならない。相手の良さを消すサッカーはねぇ、強いけどね、個人的にはつまらないサッカーやるよなーと思うけど。それは私が思ってるだけで今回とは関係ない話。
ともあれ、日本代表は4年に一回これをやっている。W杯に出られるようになって以降、毎度毎度、一部の選手から「俺の考えは少し違った」が必ず出てくる。「ジャパンズウェイ」という共通のサッカーを作り上げていく気があるようなチーム運営には見えない。繰り返すが選手や監督への批判ではなく、「そういうチーム運営をしている様子がない」という、運営の態度への批判である。
2 そもそも「ジャパンズウェイ以前というか、サッカーの試合における共通認識的な何か」の存在が、「必要だ」ということに、気づいていない選手や指導者(や何なら指導者予備軍の解説者たち)も結構多い気がする。
どちらかというと本題はこちらで、1については単なる試合ごと、大会ごとの戦術論と揚げ足取りでしかない。
示していただいたレポートはサカオタたちの間でも話題になって興味津々にあーだこーだ言ったものだが、あのレポートには割と当たり前のことしか書いていない。当たり前のことを明文化することはとても大切な偉業の一つだと思うが、すでに日本には獲得されつつあることについては比較的具体的な一方で、どうやって獲得したらいいかわからんのではなかろうか…と心配している「サッカーインテリジェンス」とか「考えるサッカー」といったあたりについては、ふわっとした内容だと思う。
我々批判側のブコメにイライラする程度には私なんかよりもずっとサッカーに詳しいのだろうから当然「岡田メソッド」にも目を通しているだろう。あれが今日本にある「サッカー知能獲得メソッド」的なものなんじゃないかと思うんだが、もっと良いメソッドをJFAが確立しているんだろうか。だとしたら私の批判はおっしゃる通りの的外れで偉そうな言説でしかないけど。もう開発済なのかな。それならいいんだけど、もうそのメソッド開発されててそれでこんな感じなんですか?という気もしないでもない。まぁ育成は時間がかかるから…とは思うけどね。
一方でさらに言えば、人選への不信に関しては、主に技術委員長と監督である。お二人とも「サッカー知能を育てる」タイプではないと思うのだ。特に技術委員長の反町さんは、監督がとても上手だが、サッカーインテリジェンスを獲得させるよりは短期的なディシプリンで何とか強いチーム作っちゃおう、みたいな監督だったと思う。森保さんも、反町さんほど極端じゃないにせよ同じタイプの監督だしスカウティングがうまくて相手の良さを封殺するのが上手な「受け上手」な監督だ。人選はそれでいいの?単にコレクティブなサッカーを「仕込む」のがうまい人を選んでるだけなのでは…という疑念がつい。
そして、こちらもまた運営体制への批判だ。代表監督の仕事ぶりを評価するのは技術委員長である。そして技術委員長の仕事ぶりを評価するのは当の技術委員長である。JFAはずっとこの組織で代表チームを運営していて、ハラヒロミが技術委員長だった時に、ご自身で「この体制もあんまりよくないんと思うんだよね~、俺の評価は誰がするのかってなっちゃう」と言っていた。14年に博実さんが退いた後ずっと体制が変わってない。これはあまり良いことだとは思えないのだが、どう思います?
私は横浜Fマリノスをずーっとじーっと見続けている者でもある。マリノスは2014年にシティ・フットボールのグループになって以来、外国人の監督を招聘し続けている(シティの意向でということでもなく、助言を受けマリノスが決定している。強化担当も外国人だったこともあるけど今は日本人)。
最初に来た監督、エリク・モンバエルツは、フランスでU代表の監督などをしていた「育成型」の監督だったからというのもあるのかもしれないが、それこそ練習風景はトップチームなのにこんな基本的なことをやるのか、というメニューがかなり多かった。「来たボールを受ける体や顔の向き、受けるチームメイトはどの場所にいればいいか」など基本的なことを、とても細かく練習していた。練習を見に行くと、顔の向きをしょっちゅう直されている選手もいたし習得できずに力業(走力とか)で何とかしようとした選手も多かった。「そういう基本的な決まり事」の必要性が、慣れによって封殺されてしまっていたのだと思う。
思えばこれはオシムもザッケローニも言っていたことで、どうやらこのレベルで日本は「できていない」と外国人監督からは見えるのだと思う。
ジャパンズウェイはショートカウンターサッカーを仕込むってことじゃないよね?こういう「基本的な知能」を身につけるための育成のメソッドって、ちゃんとあってJFAは理解して実践しているのだろうか。
してるんなら4年後また楽しみではあるんだけど。4年前も8年前も12年前も16年前も、似たようなことを思っていたんだよ私は。いつまでも選手の個の成長頼みオンリーなのは、やっぱりちょっとしんどいよ。組織は何をしてるんだという思いはどうしても出ちゃうわけよ。同じこと繰り返してっから。
社会学ってそもそも近代社会の自己言及のための(早い話が自画像を描くための)学問で、特に戦後は近代社会を支えていた文化制度や権威をあの手この手で批判して骨抜きにするために戦ってきた。
おかげでかつてのような圧倒的な支配力を誰も持てなくなったし、社会の風通しは大分良くなった。その点で功績はあるけれど、その武器として採用した社会構築主義があまりにも使い勝手が良すぎたもんで、それに甘えて研究レベルも下がっていったし、それ自体を人を支配するための武器に使いたがる社会学者が増えすぎたと思う。
そもそも、欧米の理論は欧米の近代社会を批判するための、向こうの権力関係や文脈を前提としたものだから、そのまま日本に持ち込めるようなものではない。そこら辺をかなり日本の社会学者は都合よくごまかしていると思うし、学問的誠実さにも疑問を感じている。
データサイエンスやゲーム理論、歴史学と組んでいる領域は構築主義の汚染がそれほどでは無いからまともな研究者が多い。
だから社会学全体が叩かれる必要なんていうのはないけれど、一部の領域の構築主義に依存しすぎる体質はディシプリンレベルから考え直さないともうどうしようもないと思う。
なので反省して自己批判する必要は大いにあるけれど、謝る必要はさすがにないだろ。逆に謝れと言う奴は一体何にどのように謝る必要があるのかを明確に説得力のある形で言わないとそれこそ不誠実なんじゃないか。
フェムドム (Femdom) はフィメール ドミナンス (Female dominance) の略で、BDSMプレイにおいて女性が支配的な役割を果たすことを意味する言葉。しばしばdomme、domなどとも略される。
BDSM(ビーディーエスエム)とは、人間の性的な嗜好の中で嗜虐的性向をひとまとめにして表現する言葉である。
「B」…Bondage(ボンデージ)
「D」…Discipline(ディシプリン)
「SM」…Sadism & Masochism(サディズム & マゾヒズム)
フェムドムは、女性が支配的であれば服従的なパートナーは男性、女性どちらでもかまわない。そのため女性同士のBDSMプレイは単なるレズビアンではなく、Femfemと呼ばれることもある。英語では支配的な女性は「ミストレス(Mistress:女主人)」あるいは「ドミナ(Domina:支配するというDominationの略)」と呼ばれるが、スペインでは「Ama」、フランスでは「Maitresse」と呼ばれる。
主にフェムドムでは支配的な女性は傍若無人にふるまい、服従的なパートナーに対し激しい鞭打ちや屈辱的な仕打ちをする、という認識が強い。これはもともと現実が長らく男性優位社会であったために男性の服従的パートナーにとっては女性に支配されることがそもそも屈辱であり、その価値観の逆転こそがフェムドムの醍醐味と考えられているからである。また女性同士の場合でも、女性だからこそのえげつない責めや仕打ちを行なう、と認識されることが多い。
プレイにおいては鞭打ち、スパンキング、緊縛、男性用貞操帯による射精管理などのプレイから、ヒューマン・アニマル・ロールプレイなどの地位を誇示しやすいプレイが好まれる。また支配的な女性はペニスバンドと呼ばれる張形つきの下着を身に付け服従的なパートナーとアナルセックス行為に及ぶこともしばしばである。
BUSINESS INSIDER に 日本人は職場の不満が大きいのに、なぜ会社を辞めないのか
という記事があり、まあ、予想通り、
「居続けるなら頑張ってほしい。やる気がないなら辞めてほしい。それが企業の本音だろう。」
エンゲージメントが高いと、企業の生産性が上がる。これを上げるポイントは、「ありのままの受容」と「目的の追求」だそうだ。
よってもって、経営層は、賃金上げずに、タダ(口先だけ)で、エンゲージメントを上げることができ、管理職を再教育すればいいっていう
初心者レベルの考えで活動している。まあ、これを提案しているコンサルとこれに乗っている経営者も2流レベルだと思う。
欧米と比較して、日本だけが賃金がまったく上がらない状況で、欧米のようにはいかないことがわからないんだね。残念な人たちだ。
高い報酬と将来給料が上がっていくという希望、または身近なロールモデルがいるという大前提があって、初めて、「ありのままの受容」と「目的の追求」という、次のステップの課題になる。アタリマエの経営の常識だ。だから、だんだん、ゆっくりと国全体が貧困化していくんだと思う。
はっきり教えてあげよう。「居続けて楽に高給ほしいなら社員の給料上げて欲しい。上げる気がない経営者は辞めてほしい。それが社員の本音。」
まあ、Iさんには、一生理解できないだろうな。もっとも、リストラしすぎて、もう元に戻れないので、理解できても手遅れ。
そういえば、私がやらされたリストラの進め方の後半を書いていなかった。
確か、人事が送ってきた、エクセルリストのことまで書いたと思う。
リストラのやり方で最悪、または、2流経営者がやることは、人員削減xx%という目標を掲げて、人だけを減らしてしまうやり方だ。
そうそう、リストラを始める前に、人事から、驚愕の説明があった。
彼ら曰く。
彼らが調査した結果、
・高給なのは、40歳以上の、いわゆる係長クラスの人達。この人達は、人数も多く、業界平均よりも高給だから、ここの年齢層の給料を下げる。
悔しいことに、当時は、この説明を信じてしまった。実は管理職の給料の話は、大嘘。業界的には、高給な方。
本来なら、まずは、管理職の賃金カーブを下げて、社員に身を切る努力を説明するべき。それが、1流の経営者の矜持だし、ディシプリン。
もはや腐敗した官僚組織になってる。この件だけのことではないが、最終的に、人事は、人間のクズの集まりっていう、
で、当時の”各部の”目標は、人員の12%~15%を、組織外に出すこと。厳格には、辞めさせろとまでは言ってない。
まあ、人事も、人の道を外してます。恥ずかしくないのでしょうか?
しかも、対外的には、我社の人事制度は、若者に高給を(内緒だけど、その原資は高齢者の給料下げて確保)与えられる
制度を導入したとリストラ隠しの花火(講演会してた。ああ、恥ずかしい)を打ち上げていた。もしかして、2流の学生だと、
将来自分の給料が下げられることなんて想像もできずに、すごいって思うのだろうか?
その人の人生、家族を壊すことになり、後味が悪いことこの上ない。できればやりたくない。
それに、自分の家族に顔向けできないし、胸を張れないのが何よりも辛い。
そこで、私は、この人事の卑怯な口上に乗ることにした。
管理職を集めて、とにかく組織から出ていけばいいので、異動したがっている人の背中を蹴飛ばして、異動させろということにした。
当然、異動できる人の大多数は、40歳以下の人たちで、人事の狙いとは違うが、泥をかぶらないように、条件を
BUSINESS INSIDER に 日本人は職場の不満が大きいのに、なぜ会社を辞めないのか
という記事があり、まあ、予想通り、
「居続けるなら頑張ってほしい。やる気がないなら辞めてほしい。それが企業の本音だろう。」
エンゲージメントが高いと、企業の生産性が上がる。これを上げるポイントは、「ありのままの受容」と「目的の追求」だそうだ。
よってもって、経営層は、賃金上げずに、タダ(口先だけ)で、エンゲージメントを上げることができ、管理職を再教育すればいいっていう
初心者レベルの考えで活動している。まあ、これを提案しているコンサルとこれに乗っている経営者も2流レベルだと思う。
欧米と比較して、日本だけが賃金がまったく上がらない状況で、欧米のようにはいかないことがわからないんだね。残念な人たちだ。
高い報酬と将来給料が上がっていくという希望、または身近なロールモデルがいるという大前提があって、初めて、「ありのままの受容」と「目的の追求」という、次のステップの課題になる。アタリマエの経営の常識だ。だから、だんだん、ゆっくりと国全体が貧困化していくんだと思う。
はっきり教えてあげよう。「居続けて楽に高給ほしいなら社員の給料上げて欲しい。上げる気がない経営者は辞めてほしい。それが社員の本音。」
まあ、Iさんには、一生理解できないだろうな。もっとも、リストラしすぎて、もう元に戻れないので、理解できても手遅れ。
そういえば、私がやらされたリストラの進め方の後半を書いていなかった。
確か、人事が送ってきた、エクセルリストのことまで書いたと思う。
リストラのやり方で最悪、または、2流経営者がやることは、人員削減xx%という目標を掲げて、人だけを減らしてしまうやり方だ。
そうそう、リストラを始める前に、人事から、驚愕の説明があった。
彼ら曰く。
彼らが調査した結果、
・高給なのは、40歳以上の、いわゆる係長クラスの人達。この人達は、人数も多く、業界平均よりも高給だから、ここの年齢層の給料を下げる。
悔しいことに、当時は、この説明を信じてしまった。実は管理職の給料の話は、大嘘。業界的には、高給な方。
本来なら、まずは、管理職の賃金カーブを下げて、社員に身を切る努力を説明するべき。それが、1流の経営者の矜持だし、ディシプリン。
もはや腐敗した官僚組織になってる。この件だけのことではないが、最終的に、人事は、人間のクズの集まりっていう、
で、当時の”各部の”目標は、人員の12%~15%を、組織外に出すこと。厳格には、辞めさせろとまでは言ってない。
まあ、人事も、人の道を外してます。恥ずかしくないのでしょうか?
しかも、対外的には、我社の人事制度は、若者に高給を(内緒だけど、その原資は高齢者の給料下げて確保)与えられる
制度を導入したとリストラ隠しの花火(講演会してた。ああ、恥ずかしい)を打ち上げていた。もしかして、2流の学生だと、
将来自分の給料が下げられることなんて想像もできずに、すごいって思うのだろうか?
その人の人生、家族を壊すことになり、後味が悪いことこの上ない。できればやりたくない。
それに、自分の家族に顔向けできないし、胸を張れないのが何よりも辛い。
そこで、私は、この人事の卑怯な口上に乗ることにした。
管理職を集めて、とにかく組織から出ていけばいいので、異動したがっている人の背中を蹴飛ばして、異動させろということにした。
当然、異動できる人の大多数は、40歳以下の人たちで、人事の狙いとは違うが、泥をかぶらないように、条件を
必ず「マニア」の姫と「初心者(NHKの語学番組に出るお姉さんの語学スキル程度にプログレ好き)」の姫が両脇に座ってくれるシステム。
客「(超嬉しそうに)そりゃもちろん。『21世紀の精神異・・・』あ、今は『21世紀のスキッツォイドマン』って言うんだっけ?とにかく、この曲が入っているからね~」
マニア姫「あの曲はクリムゾンのシンボルですよね。あ、ところでお客様は「クリムゾン」派でらっしゃいますか?それとも「クリムズン」派?それとも「キンクリ」派ですか?」
マニア姫「承知致しました。『スキッツォイドマン』と言えば、あの中間部のブレイクが何度聞いてもシビれますよね」
客「(超嬉しそうに)そうそう!口コピすらなかなか出来なくて苦労したよ」
マニア姫「ウフフ、今度是非口コピのコツ、教えて下さい。ところでお客様、一番お好きなアルバムは何ですか?」
客「(超嬉しそうに)悩むけど、やっぱり『レッド』かなあ。でも『リザード』も結構好きだよ(通ぶって)」
マニア姫「『レッド』はフリップ様もクリムゾンのベスト3に挙げてらっしゃいましたよね。私は『プロビデンス』の即興演奏が大好きですわ」
マニア姫「あと、私も『リザード』、大好きなんです。ジョン・アンダーソンのボーカルがちょっと目立ち過ぎちゃってますけどね、ウフフ」
客「(ニヤけながら)そういうあなたの一番好きなアルバムは何なの?」
マニア姫「公式かどうか微妙ですけど、私、『アースバンド』が大好きなんです」
マニア姫「あのローファイにして破壊的なサウンドがたまらないんです」
初心者姫「私、最近、『宮殿』聞いたばかりの初心者なんですけど、クリムゾンに『アースバウンド』なんてアルバムありましたか? じゃ、次はそれ聞いてみようかな?」
客「いやいやいや(超嬉しそうに)、『アースバウンド』は初心者には敷居が高いと思うよ(どや顔で)」
マニア姫「宮殿の次は何を聞くのが良いでしょうねぇ。そうだ、お客様、彼女に教えてくださいませんか?」
客「そうだなぁ(超嬉しそうに)・・・悩むなあ(超超嬉しそうに)。『レッド』と『ディシプリン』と『宮殿』を聞いて、気に入った時代のアルバムを聴いていくと良いんじゃないかな(どや顔で)」
マニア姫「まあ!お客様。素晴らしいチョイスですわね。私も今度からそのようにオススメすることに致しますわ!」
客「いやいや大したことないよ(超嬉しそうに)」
初心者姫「ありがとうございますぅ!『ディシプリン』ってなんだか美味しそうな響きですね。プリンってところが。フフ」
客「『ディシプリン』というのは『修練』という意味でね。名前は可愛いけれど、メンバーが修行僧のように黙々と超絶技巧を織り交ぜて作った曲ばかりなんだよ。でも、これが意外とポップで聞きやすいから不思議なもんでね。ま、『リザード』同様、好きじゃないファンも多いんだけど」
客「(超嬉しそうに)ゴードン・ハスケルのボーカルがちょっと・・・ね。曲もちょっと散漫としているというか・・・でもキース・ティペットのピアノは必聴だよ(どや顔で)」
初心者姫「分かりました!少しずつ聞いていくので、またお店に来ていろいろと教えて下さいね」
客「(超嬉しそうに)いや、教えるもなにも私はそんなに詳しくないし・・・」
マニア姫「いえいえ、お客様ほどのクリムゾン通は初めてですわ。是非、またいらっしゃってください。あ、当店のオリジナル焼酎『紅伝説』、入れておきましょうか?フフフ」
・・・行きてえ!!
経営のディシプリンのシステム思考の話に書いてあるように、なぜエンゲージメントが悪いのかを考えれば
すぐわかることなんだけどね。もっとも、ここは2つのループがあり、それが絡み合って、カビ型組織になってしまっているのではあるが。
特に、ここは、ベテラン率が50%超えて、60%ぐらいだ。つまり、組織の60%のエンゲージメントが地に落ちている。
元をよくしないと、何もよくならないことぐらい、1流の経営者ならわかるのだが。もっとも経営は資格制度ではないので、3流でも経営者はできる。
ゴー○ができてるんだから。
・ベテラン冷遇→ベテランエンゲージメント低下→それを見ている若手のエンゲージメント低下
・外部から実績なしお気に入り若手”だけ”の昇格→それを見ているオリジナルメンバーのエンゲージメント消失
一方で、人事は、年齢構成がいびつなことを理由に、また、今年も、こそこそと、格付け見直しという名の降格、減給というリストラ
を推進している。あの人たち、完全に組織のご都合主義に洗脳されてるようにしか見えない。自分の家族が同じ目にあったらどうするんだろう。
全体の5%はD評価にして、給料下げるので、サイレントなリストラである。
たいていの(特に若手)社員は、自分は下位の5% には入らないと思っているみたいだけど、それは考えが甘い。
理論上は、0.95 x 0.95 x 0.95 x 0.95 x 0.95 = 0.77 5年で 3割の社員の給与を下げることができる。
すくなくとも、ここは長く働く価値はなく、自分の人生をすり減らして貢献する意味のない会社、、正確には組織かな。
全部というのは言いすぎでした。すいません。
お前はもうずっと増田で、「査読がないことは論文の質を決定する要素ではない」と言っているだけ。それに対して、高いレベルの査読が行われていなければ再検証の対象としての優先度は下がるし、再検証されない論文は被参照数が増えず、論文としての価値が低いと言っているわけだ。査読は優れた研究であることを同業者に認められるための条件の一つになるが、査読されていなければ再検証も行われず優れた研究と認められることは稀である。ゆえに査読されない事は、論文の価値を実質決定する。
被引用数にやたらこだわる人が多いと思ったらそういう理由があるのね。当たり前だけど、マイナー事象を扱っていればメジャー事象を扱ったものより被引用数は少なくなるから、それは直接価値を測る尺度にはならんよねって話をしてるわけ(この問題はとうぜん査読誌にも存在するよ。英語圏でも日本語圏でも、ナチスについての歴史研究とそのへんの小国の歴史研究、読まれる頻度が高いのは研究者人口からいって前者なわけで。まあ当の小国で出た論文に限れば頻度は逆転するわけだけど)。あと、論文の中でダメダメな研究を引用した上で批判する、なんてのもよくやるよな(まさかやらんのか?)。このような研究分野において、被引用数は文字通りどれだけ多くの人に引用されたかという尺度に過ぎず、引用の多寡は直接的には論文の価値とリンクしない……というのは流石に理性があればわかってくれるよね? まあ実質的にリンクしている分野があるのは理解したけれど、他分野においてもリンクしている、あるいはリンクさせるべきだという主張はまったくもって理解に苦しむ。
そして、社会学においては、偉い先生が書いた査読もされない招待論文が価値があるとみなされる構造に問題があると言っている。当初から査読の有無は問題視されていない、論文のクオリティを担保する仕組みについて社会学での在り方が、社会学者内でも文科省でも疑問視されている事を指摘されている。
偉い先生が書いた良い査読なし論文には、そのへんの若手が書いた微妙な出来の査読論文よりも価値がある、という話なので。そしてもちろん近年は査読重視にシフトしている、という話もさんざんなされているわな。同じ社会学でも世代とか環境によって「格」の考え方には差があるわけで、1人の学者の放言に基づいて構造を云々してしまうのは到底科学的な態度とはいえない。まして、社会学に限定するのではなく、「文系」というより広いくくりでの議論をしようとするならば。要するにきちんとリサーチしろと言っている。ろくに対象について調べずに的外れなこと言ってんじゃねーよバーカ、って言えばわかりやすい?
お気持ち表明学問とは違って、理工学は先行研究との間の比較実験をして、実験結果について先行研究との比較を解析的に行う。先行研究との比較には、同様の実験を再度行う場合や、同じシステムを構築しなおす手間を含む。時には、予算も時間も考えられない程かかる。
先行研究との比較ねえ。まず文系といっても色々あるので一概に言えないわけだが、たとえば歴史学なら先行研究で引用されている史料はチェックするよな。文学なら、まあ文学といっても多種多彩だけど、刊本が容易に手に入る小説の内容についての分析なら手元か図書館に同じ本があるはずなんだから再検証は容易にできる。のでみんなやってるはず。逆に文化人類学なんかはフィールドワークのデータに依拠する以上原理的に完全な再現が不可能だけれど、そこは天文現象についての研究と同じだと思ってもらえれば。一回性の振る舞いを膨大に集めて理論を構築していくという意味で。社会学も、フィールドワークに基づいたやつなら文化人類学と同様だし、統計に基づいているなら統計に基づいた議論ができるよな。法学は、まあ、条文が目の前にあって、それをどう解釈すべきか、あるいは個別の事件がまずあって、そこに条文をどう当てはめるべきか、という議論だから、再現性とかあんまり関係ないと思う。とまあこんなふうに、分野によって「再検証」のあり方というのは実に多種多様なのね。理系とひとくくりにされてはいても、工学と天文学と生物学と理論物理学と数学じゃあ「再検証」のあり方は違うっしょ? 理工系がスタンダードな研究のあり方、ということではまるでないわけで、そうなんですか理工系ではそうなんですね勉強になります、以上のことは言えない。
逆を言えば、文系の場合は、査読の有無にかかわらずただ読むだけでいいという事だろう。論文の良しあしに関わらず、ゴミの山に埋もれるのは空しいな。そして競争もない。
ただ読むだけでいいというのが何のことなのかはわからないけれど、普通に競争はある。考古学なら新しい遺物が発見されたとか、歴史学なら新史料を見つけたとか、そういうマテリアルな新規性もあるし、独創的な理論や解釈を提唱したという意味での新規性もあるわな。そして同じ事象を研究するにしても出来のいい研究と悪い研究とでは当然与えられる評価も異なってくるし、違う事象について研究していても同じディシプリンの中にいる以上出来の良し悪しというのはわかってしまうわけで(だから被引用数を重視する文化が存在しない。たとえどれだけナチス研究の方がそのへんの小国研究より注目されていようと、出来の悪いナチス研究と良く出来た小国研究なら後者の方に価値があるから)。
幼少期(小学校の低学年頃)に脳に疾患が見つかって、以来十年近く投薬治療をしていた。
また、高校の頃からずっと鬱を患っていた。頭の中が鉛のようになって自由に動けなくなる。生活の上でそういうことが多々あった。
ADHDも併発している。破壊的な過集中を経て朝まで眠れないことが多かった。
バイトのシフトにはちゃんと遅刻せずに行く程度の社会性はあったけれど、やはりと言うべきかミスが多く、恐らく責任者も俺のことを発達障害者として認識していたみたいで、指示を出す時も俺にだけ妙に細かい明確な指示を出してくれたりした。それはそれでありがたかったのだけれど、時々ヒスを起こされることとなった。自分が主原因になっていることは分かっていたから、どちらかと言えば申し訳ない気持ちの方が強かったけれど。
現役で地方の駅弁大学に入学して、卒業が近くなってからは資格試験講座に通っていた。で、途中から引き篭もるようになる。
一応何とか大学は卒業できたけれど、定職に就くことはできなかった。
自分は、根本的に人生はディシプリンというか一種の訓練期間だという固定観念を持っていて、それと同時に、より効率的に自身を訓練できる人間がより優れた人間なのだという価値観を持っていた。だからと言うべきか、高校時代は朝5時に起きてジョギングを繰り返していた。恐らくその頃が、自分の学力のピークになっていたと思う。
確か当時の全国模試の総合偏差値は70を超えていたはずである。
でも、そういう訓練が破綻を来たすのは思っていたよりも早かった。
何年も日課にしていたジョギングが、高校生活半ばに突如として億劫になったのが始まりで、それ以来上手く眠ることができなくなったのだ。
その頃から学力の減退も生じていて、自分で自分がコントロールできない感覚に苛まれるようになっていた。志望校のランクを一つ落として、何とか国立の大学に合格することはできたものの、今にして思えばあれが自分の人生の最盛期だったのではないかと思う。
大学に入ってからは、過密的な訓練期間と白痴のように生活が崩壊する期間を繰り返すようになった。訓練期間には、暇があればジョギングに出かけ、膨大な量の学術書に当たった。また、複数の語学習得を目指し大学のゼミを幾つも掛け持ちしていた。そして、大抵はそのような訓練期間は三ヶ月と持たずに破綻し、再び自分をコントロールできずロクに睡眠も取れない白痴のような生活が始まるのだった。
俺はそうやって訓練期間が破綻する度に、自分の計画の建て方や訓練の方法に恐らくは問題があるのだと考えていた。実際、その考えにはある程度事実に沿う部分もあって、当時の俺はその自分が打ち立てた訓練方法の細部を限りなく修正し続ける作業に集中することとなった。そして、その細部を修正したトレーニング理論に基づく何ヶ月かの訓練タームを集中的に実施し、そしてその訓練タームの後には、訓練タームよりも更に長い破滅的な破綻の期間を迎えるということを繰り返していた。そのような生活は大学を卒業してからも戻らず、そんな具合に二十代の半ばを迎えた。
何かが間違っていることには気付いていたけれど、何が間違っているのかはもはや分からなかった。考えつく限りの細部には工夫を凝らしてきたつもりで、主に食事における栄養バランスの調整には念入りという以上に念入りになった。卵、バナナ、木綿豆腐、牛乳、納豆、青魚、葉野菜。こういうものをバランスよく摂るようにしていた。でも、自分が自分をコントロールしているという感覚はついぞ訪れることはなく、相変わらず愚にもつかない趣味に熱中しては朝を迎え、疲弊しきった精神でバイト先に行き、そして週末は48時間家に引き篭もって過ごすことも多くなっていた。
いわば、この辺りが人生の暗黒期だったと言えるだろう。むしろ、そう言わずして何と呼べるのだろうか? もし他に呼び方があるとすれば誰か教えておくれ。
さて。
いわゆる躁鬱の躁期に入っただけの可能性も有ると言えば有るのだが、しかし実証的に体系的に改善を目指した結果として、根本的に自己をコントロールしているという感覚が数年ぶりに戻ってきたので、そこに関してはある種の信頼を置いている。
原因というべき原因については既に見当がついていて、つまりそれは脳に対する血流の低下である。身体におけるありとあらゆる不調や、自身のコントロールを掌握できていない感覚は殆どの場合、血流の低下に基づいているのである。ADHDや鬱の改善に血流を効率よく増やす有酸素運動が有効であることはとっくに知られていることで、つまり結局は脳の血流の有無が自己コントロール能力の有無へと繋がっているということなのだ。これを改善する為の様々な手段を講じ続けてきた結果、その中で極めて有効なもののみが残ったので、それらについて以下に紹介していきたい。
シンプルながら散歩はADHDや鬱の克服に大変役立つ行為である。普段自転車や原付で移動する距離を、例えば自転車や原付を手で押しながら移動することで、とにかく歩く歩数を増やすことに集中した。iPhoneのヘルスメーターも一応活用しており、実際に散歩した分の歩数が如実に数値として現れることにはかなりモチベーションを刺激されることとなった。
腰の尾てい骨の下に柔らかいタオルを敷いた上での足の上げ下げなど、身体を横にして安定した状態にした上での筋トレは圧倒的に脳への血流を増やすことができる。これで週末の鬱傾向が随分と改善している。なお俺は心肺能力に二十代の半ばからかなり不安を抱えるようになったため、そこまで負荷を掛ける筋トレは実施していないが、自分の体調と相談しながら負荷を増やしていくことが肝要であるようだ。
ドストエフスキーや夏目漱石などといった純文学が望ましい。これらを読む際に脳に鋭い拒否感(としか呼びようのない感覚)が走る人間ほど、読書はうってつけの鬱・ADHDの改善法となると俺は思っている。大抵の場合、活字を読んだ際に訪れる決定的な拒否感は、脳に対する血流が急激に増えることに由来しているのである。そのように活字に対する拒否感が生じる際にはそっと目を閉じて、左前頭葉辺りに意識を集中してみると、はっきりと自分の脳への血流が増大している様子を感じることができると思う。特に、血流を増やす為には身体を横たえた状態でいることが望ましいのだけど、当然屋外や座った状態での読書も随分と効果を発揮する筈である。また、外国語の読解などもこの読書のカテゴリーに加えておく。
基本的に鬱の人間は、日々変化に欠ける生活を送っている場合が多い。
同じパターンというか、悪い意味で安定しきった生活を送っていることが多いのである。
すると行動の多様性や、積極的な行動への意志が驚くほど抜け落ちていくという事態に遭遇した鬱持ち・ADHD持ちの人間は非常に多いのではなかろうか。というわけで俺はどちらかと言えば趣味としては読書や文章を書くことに取り組むことが多く、空間的に物事を把握しそれを描写する絵などにはあまり集中力を払わないことが多かったのだけれど、これがどうやらいけなかったらしい。最近は、漫画のイラストを模写したりだとか、積極的に絵を描く時間を生活の中に設けるようにしている。ファミレスやハンバーガーショップなどに行った時にサッと手帳を取り出して、軽く文章やそれに付する絵を描いたりすることも日課となっている。
ここで言いたいのは、必ずしも絵を描くことが鬱やADHDの改善に役立つといったことではなく、同じ行動パターンや同じ行動に固執することが如何に脳に悪影響であるかということなのである。なので俺は最近は文章を書き、絵を描き、詰将棋を解き、読書をし、と、とにかくやる事を一つに限定せずコロコロと変えることを意識して生活するようにしているのだ。
鬱持ち・ADHD持ちにありがちな、思考の切り替えや行動の切り替えが上手くいかない人間には、是非絵やその他普段行うことのない趣味を増やすことをオススメする。
上で書いた通り、卵や牛乳、青魚といったナチュラルフードが脳のパフォーマンスに影響することは学術的に証明されて久しい(と俺は思っている)。これはもう殆ど記述する必要性がない事実だが、しかし敢えてここに記述するからには、そこには当然ながらそれなりの理由がある。
つまり、俺のような鬱・ADHDの併発した人間には、料理を行う際にとある事柄が圧倒的なハードルとして持ち掛かってくるということなのである。つまりそれは、そう、料理の煩雑さや億劫さである。
基本的に鬱傾向やADHD傾向を持った人間はありとあらゆる行動に億劫さを感じるもので、よほどその行動に高い利益や見返りが見込めない限りは、その行動を行いたくないと思うものなのである。そういった面から言って、料理は味よりも栄養価と手間の少なさを重視するように俺は心がけている。準備や片付けの手間をできるだけ減らすために、単に塩焼きにしたり茹でるだけだとか、できるだけ工程の少ない料理(というか殆ど調理)で済ませられるようにしている。
脳に一定以上の煩雑さや負担を押し付けないことが、ADHDや鬱改善の要点である。時にはサボることも非常に重要だ。
追記。瞑想は効果あると思う。瞑想時に、個人的には脳への血流が如実に感じられることが多く、恐らく脳に対してかなりポジティブな効果が起こっていると思われる。
読書の後など、脳に負荷を掛けた際にその情報の整理や休憩の為に、短めのカジュアルな瞑想を行うことがある。これもまたオススメ。
など
こんなところだろうか。
思い出し次第追記を行いたいと思う。
今年に入って、文学小説の脳に対する効能が非常に大きいことに気付けたのは重要な発見だったと思う。読書の際に襲ってくる倦厭感がむしろ血流の増大と関わっていることに気付けたのは、自分としては非常に大きな発見だったと思っている。というわけで、かなり重篤な症状持ちの人間としては、以上のような改善法を進める次第である。
上では書かなかったが、俺は重篤なインターネット依存症持ちでもある。
しかしその依存症もこの数ヶ月で劇的に改善した。俺という人間は、言うまでもなく長所よりは短所や欠点の方が随分多く付きまとう人間であるからには、そんな人間にすら効果がある対処法は、恐らく全人類的に効果のある対処法となっていること請け合いである。
是非とも、皆さんにも実行してもらいたい。
自身の病癖を繰り返すようで悪いが、やはり疑いなく、「よい訓練こそが、よい人生」なのだ。
それでは。
妻と夫の、互いへの思いやり。普段からしっかりと相手を慮っていれば問題は起こらない。
相手の感情の機微を互いに充分に把握し、そしてその場にふさわしいふるまいで相手に自分の意を伝えなくてはならない。
さらに言うなら、結婚するのであれば当然そうした問題は出来するわけで、事前にそういう事態に対して充分に予習しシミュレートしていなければならない。
そもそも、家庭生活においては金銭的余裕や、会社の福利厚生がモノを言うことがある。
だから立派な企業に就職したり、堅調な個人事業主にならなければならない。
そのために、良い大学に入ったり専門技術を学んだりして勤勉に努めなくてはならないのは当然だ折る。
そして困ったときに夫婦間だけで問題解決を図るだけでなく、両親親戚、あるいは町内会や会社の同僚や同業者、趣味であう人々など人的ネットワークをしっかりと構築しなくてはならない。
理想を言えばきりがないが、お前らの言いたいことはこういうことだろう。私もそう思う。
個々人がしっかり多種多様なディシプリンを積んで有能でなくてはならないのだ。
その割にはのんびりと生きられる社会を、とか、逃げたっていいじゃん、とか言う意見もよく見かけるが、まー折り合いが難しい。ネットでは個々の事象に対して理想を言いやすいが、実はその個々の事象は裏側では綱引きをしている。あるいはシーソーの両端にある。
なんだか書いててどう着地していいかわからないんだけれど、色んな出来事があって相手に不満があったり、あるいは自分の至らない点を自覚したりしても、それは仕方がないことだ。
ディシプリンを積むのはもちろんだけれど、それでダメだったときはちょっと相手を許したり、あるいは自分の至らない点をま、仕方ないかと許したり。
甘えではないんだけれど寛恕の精神というか。
恵まれた時代に生きているから、何もかもがうまくいくような幻想を抱きがちだ。
それに実際上手くいっている人も目に入りがちだ。
でもそうじゃない。
何日か前にもブログで書いていた人がいた。日本の慣習のなかのあるものにデメリットを感じて、「いらない」と思うものを挙げる内容だったと思う。
時代の移り変わりの中で、不必要とされたり、変更が必要な因習は確かにあると思う。
例のブログはそこまで至らず、自分が思う「いらない」ものをただ列挙するにとどまっている。だから中学生みたいな印象を受ける。
挙げた因習について、
①何故、今不要なのか? 不要たる社会的要因は何か(例えば年賀状は、インターネットで連絡が密になったために書簡による賀礼の重要性が低下したため、だとか)。
②あるいは、なぜ不要とも思える慣習が存続しているのか。慣習のメリットは。
③廃した場合どういう影響があるか。
④現実的に廃止するにはどういうアクションが必要か。期間やコストは。
というような要素を検討して、実現可能か論じないと意味がない。
そこまで妥当な思考を出来ないと、あの文章をブログにする意味がない。中学生でも、あるいはだいたいの大人でもふと思うことだからだ。
そこから突っ込んで、何が今の社会で必要で、何が不必要かまで考えなくてはならない。繰り返すがそこまで考えなくてはならない。あの文章を書くならば。
その思考をせずに、文章をネットに開陳して恥ずかしくないのだろうか。
色々ある、一見すると不要とも思える因習にも、何か意外なメリットがあったりする。
あるいは、廃することが妥当な因習でも、取り除くことが現今の社会では難しいものもある。
そういうところを吟味したブログを読みたいのに。一般人が書いているのだからそこまで求めなくても、と思う人もいるかもしれないけれど。
でも、ふだん働いたり学んだりするなかで、誰しもそういう知見って得られるのではないかと思うのだ。
ただ駄目なところを挙げるんじゃない、そこから思考することは誰もが出来ることだと思うんだ。というか今の社会では、思考力はかなり重要だと思う。
一般人だって自分の仕事や学業から考え、立論することが大切だ。
うちは教授が方針たくさん学外から取ってた。俺は学部は東大の工で修士は新領域に行ったんだけど、新領域ってまあ名前の通り新領域なことをやるのが本義なのね。本郷の○○学部でやっていけなかった先生が流れてくる場所じゃいけないんだよ。それ○○学部でできるじゃん、って研究ばっかりな中で尖った研究してたのは外部から入ってきた人たちだった。研究室内でも議論するときにはとてもいい刺激になった。修士くらいってまだまだディシプリン身につけなきゃいけないレベルなことが多くって、やっぱその意味で粗削りすぎるだろって感じになったことは自分の研究についても反省するところだけど、まあその分学んだことも多かったよ。
まさに君が問題を指摘している「研究テーマだけは壮大ですが、その実質は…」というやつだね。要はバランスだと思ってる。分散が大きい中で、良いバランスや相互作用を出すように配分したら、そういう例が出てきて当然だし、その担い手が「ロンダ」っぽい人に偏るのは必然だね。構造的欠陥ってやつだ。
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ある夜、喫煙所で ―君が言うロンダ組は喫煙率もやったら高いんだよね― ひと悶着あったんだ。あんたみたいな人が、そのままそういう内容を本人たちに向かって口にしたわけよ。結局、みんな適当にスルーしたけど。場を離れた後、学部東大出身の先輩がブチ切れてて。「あんなクソみたいなやつらの言葉に耳貸す必要ないわよ!」ってね。他大出身の後輩の中には、萎縮しちゃった人もいたので、迷惑ーって思ったね。
「多様なバックグラウンドを持った学生による、革新的で斬新な分野の研究」という理想の実現はそう簡単じゃない。せっかく賢いなら、その「ロンダ」に対する視線の代わりにもう少し建設的なことをお願いしたい。もし、入ってきた人間が、その研究室に関わりのあることで君が学ぶべきところが全くないとしたら、そもそも十分に研究の議論をするような雰囲気を作れていないとかそういうことを疑って改善すべきで、その研究科の入試が極端に杜撰だとか、君が perfect human だとか仮説立てるのはセンスが悪いと思うよ。もちろん雰囲気とか機会とかの問題は教員の問題も大きいのだろうけれど。
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ロンダがしやすいと言われている場所ってのは、教員たちが既存のディシプリンで一次元的に測れる能力以外の部分をなるべく推し量って、政府流行用語つかえば「イノベーティブ」な研究教育を志向して体制組んでるんだよ。それがロンダと揶揄されるのは、その試みが十分に成功していないという問題でもあるんだろうけれど、少なくとも既存のディシプリンに浸かった上にそれに反省がなさそうな君(「学部の継続で修士に進み」というあたりを自信たっぷりに言ってるあたり)が批判しているのを見ると、君みたいな学生を取ったことの方が間違いだと思う。それは君が無能だという意味ではなく、相性の問題で。別にディシプリンしっかり身に着けているに越したことはないけれど、「多様なバックグラウンドを持った学生による、革新的で斬新な分野の研究」を目指すのに一緒にやっていける学生を取るべきだから。もちろん、冒頭で少し漏らしたように「本郷の○○学部でやっていけなかった先生が流れてくる場所」という側面もあるし、現実はそう単純じゃないけどね。境界めいたことをしてきた大物の先生たちに飲み会でどういう道筋をたどってきたか聞いてみるのも面白いよ、いろんな転換をモノにしてきている先生が多い。
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元増田に批判的な書き方になったけど、学際領域が抱えるあるある問題で、ちょっとその点に関する研究教育の在り方が進歩しなさすぎだよね。もう少し研究室間とかで良い相互作用を起こすための知見とかが共有されるべきだとか、研究科としての改善は必要だと思う。元増田も関係しそうな読者もロンダと言われている人たちへのマウンティングではなく、学際領域での研究教育の問題として捉えなおして考えて欲しい。
来春、息子の小学校就学を控え、地元の公立校に足を運んだ。一人授業参観である。
授業を見てどうなるというわけでもないが、全く知らない場所に愚息をホイっとやるのは快いものではない。
職員兼来訪者用玄関で受付を済ませ、1年生の授業を参観した。
おそろしく退屈であった。
教師は教科書に書いてあることをそのまま板書し、教科書に書いてあることをそのまま読み上げる。
子供たちはおとなしく座っていたが、私の集中力はすぐに切れてしまった。
算数の授業では、持参したノートPCでYouTubeを観ていた。私が。
ネットに転がっている解説動画の方が授業より分かりやすいのだ。
ほんの少し検索しただけで、授業よりはるかにマシな動画が見つかる。
通信教育、有料サービスならもっと多くの、高品質な""授業""を受けられるだろう。
授業の質が低いこと、Google先生の方が優秀なことくらい、子供でも理解できる。ネタは割れているのだ。
学校が終わったあと、青いバックを背負って塾に通う子ならなおさらだろう。
バカバカしくなって、親に良心的登校拒否を宣言する子供が8割くらい存在してもいいはずである。
しかし私が見た子供たちは実におとなしかった。席を立つ子、大声でおしゃべりする子はいない。
日本の学校制度は軍隊をモデルにして作られたが、授業で得られるものはまさにディシプリンしかない。
ひょっとしたら、子供たちは規律を身体に叩き込んでいることを自覚しているのかもしれない。学校のデタラメさもググれば分かる。
さて、どうしたものか。
私学? 同じでしょ。
地方の、あるトップの公立高校にいた僕は、ドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公よろしく病んでいた。周りの同級生達は、とりあえず旧帝大、医学部、ってノリだけで生きている連中だった。教師は学歴の崇高さをアジることしかしない。全く、憎いほどに均一的、よく出来た社会と成員。「ディシプリン?あぁ、discipline? シス単第何章だっけ?」ってね。僕だけは違った。僕は彼らにはない、「教養」を持っていた。文学作品はおそらくその学校の誰よりも読み込んでいただろうし、人文学、社会学の古典もなるだけ消化使用としていた。古典芸術に思いを馳せながら、少女漫画や古いアニメ作品は必ず手の届くところに置いておく。つまり僕は「崇高な」悩める17才だった。ま、それだって、今からしたら、ばからしいことでしかない。周囲との何となく縮められない距離感に対する幼稚な当てつけだったんだ。周りの愛すべき同級生達、教師も、それぞれの現実を生きようと必死だったのだから。僕は虚しい観念論者だった。
反省しているようで、まだ相変らずだけれど。