はてなキーワード: 自然淘汰とは
東洋経済オンラインで、大卒の生涯未婚率が低くて、高卒が高いという記事を読んだ。
(ちなみにこれは男性の場合で、女性は大卒の方が未婚率が高いんだけど、それは別問題なのでまたの機会に)
ロジックは以下。
※あくまで統計的な比較で、大卒でドロップアウトする人もいるし、高卒でも年収高い人もいるけど、総論で。
親が高収入→大学に進学させる余裕・家庭背景あり→大卒→年収が高い→結婚→子供が生まれる→以下、裕福スパイラル
親が低収入→大学に進学させる余裕なし(そもそも大学ってなに?)→高卒→年収が低い→未婚→御家断絶
そこで気づいちゃったんです。
「高卒とかどうでもいいんで、大卒だけ結婚して子供産んでくれればOK!」
と考えてるんじゃないかと。
学歴的に優秀な日本人だけ残ればいい。進化上の自然淘汰。高卒のような学歴の低い人は将来残らなくていいですよ、と。
みんなもそれでいいと、腹の底では思ってる?
「水曜日のダウンタウン」をみて涙がでた…バラエティー番組を放送休止に追い込む「過剰コンプラ」を憂う
はてブでも注目のこの記事、一番良いことを言ってる部分は後半の「BPOがギャーギャー言わんでも、時代にそぐわない笑いは自然淘汰されるわ(意訳)」って部分だと思う。
結局のところ、クレーマー連中の根底にあるのは「世の中の馬鹿どもに任せたら俗悪コンテンツが栄えてしまう!」という選民思想? 特権意識? とにかく世間に対する見下しと侮蔑の感情なんだよ。
そうでなければ自然淘汰を信じることができるし、だからわざわざ元記事で言うところのBPOみたいな「効率よく圧力をかけるための構造」を利用する必要はない。
「世の中バカばっか」みたいな普通の人間なら中学生か、遅くても高校生までには卒業する思想に良い歳してハマってしまった人間がコンテンツクレーマーになる。
タイトル通り暗い出来事について書きますが、なるべく悲しい感情は書きません。
もちろん悲しかったけど、流産手術について知りたい人が欲しい情報はそれじゃないと思うので。
今回の出来事で、流産、流産手術についてって本当にネットで調べるしか体験談を知ることが出来ないんだな、と思ったので、その一つとして書き残したいと思います。
稽留流産された方が、手術について不安を抱いているならば、それが少しでも和らぐといいな、という想いで書いています。
とは言いつつ、自分の心の整理のためです。
人に気軽に語れるようなことじゃないし、面と向かって話したら泣いちゃうかもしれないから、文章として今の自分についてだけ書き残しておきます。
普段推し語りとかばっか書いてるから、テンションが難しいです。
誰のことを傷つけるつもりもないし、私も傷つきたくないので、そっとしてくれると嬉しいです。
翌週クリニックへ行って、胎嚢確認。
妊娠週数(6w0d)と比べると少し小さい気がするけど、排卵が遅れた可能性もあるし、ちゃんとした位置にあるから、とりあえずこのまま大きくなるのを待ちましょう、とのこと。
とりあえず変なことは起こってなかったので安心。
この時はずっと胃がムカムカしていて、吐くほどじゃないけど吐きそうな不快感が続いてた。
特に食後3時間後には胃が一気にクゥーーッと締め付けられて血の気が引きそうになるので、慌ててゼリーとか豆腐とかを口にして耐えた。
翌週(7w1d)、もう一度クリニックへ。
先週と比べるとちゃんと成長しており、丸い卵黄嚢と小さい胎芽が確認できて、アップにするとピコピコ心拍が動いていた。
やはり週数よりは小さめだけど先週よりちゃんと大きくなってるので安心した。
まだこの状態だと「胎児」とは呼べないから、また来週、成長してもっと心拍も確認できたら母子手帳もらいましょう、と言われた。
その後の体調は相変わらず軽めのつわり、少しのお腹の張り、便秘。
動けないほどの不調はなかったので、平日は通常通り働いて、休日も短時間なら友人と外食もできた。
出血も全然なくて、軽めだけどつわりもあったから、順調に育っているとばかり思ってた。
10日後(8w3d)、3回目のクリニック。
卵黄嚢は見えてるけど、繋がってるはずの胎芽などが全然大きくなってない。
何度も何度も、色んな角度からたくさん探してもらったけど、そういう問題じゃないってことはすぐ分かったし、最終的に「先週から10日経っててこの状態だと、完全に心拍は止まってるね…稽留流産です」と言われた。
その後、診察室で今後についてお話。
まず、この時期の流産は母体の影響とかではなく、染色体異常なことが主な原因で、自然淘汰のことだから自分を責めないでほしい、と言ってもらったので、それ信じることに決めた。
すぐ手術、とは言われず、1週間は自然排出を待つことになった。
初期の大きさだから、もし自然に流れて出血しても、母体に影響が出るほどのものじゃないはずなので、手術しないで済むならそっちのがいいとのこと。1週間過ぎても出てこなかったら手術を考えよう、と。
確かに私の場合、職場と自宅も近いし、仕事は座りっぱなしの業務なので、仕事中に出血があってもそこまで大事にはならないで済む。すぐ帰って休むことも出来るから、そう言われたのかもしれない。
普通に手術も自然排出もどっちも怖かったから、どっちの可能性も残しつつ、様子見としての時間をもらえるのはありがたかった。
今のところおりものに血が混じることもないし、自然排出もすぐには起こらないだろうな、と思っていたので、どっちになってもいいように、割と落ち着いて考えることが出来た。
中で成長は止まっているのに、身体の不調は全然変わらず、未だに胃のムカムカも、朝の貧血っぽさも、空腹時の胃の急速締め付けも健在。
それに加えて、いつ出血が始まるのかという不安もあったので、とにかく落ち着かない気持ち。
調べると急に大量出血するわけではなく、通常の生理のように少量の血やおりものに血が混じるような段階を経て出てくるみたい。
だから何もないってことは、まだ大丈夫なはず、と思いつつやっぱ不安。
念のため、替えの下着、ショーツ型ナプキン、夜用ナプキンを、大きめのタオルにくるんで鞄に入れて持ち歩いてた。(結構デカいけど、ちょっと安心)
ただ、出てくる気配もないのに不安な日々がずっと続くのもしんどいので、気持ち的にはもう手術を受けたくなってる。
調べたら通ってるクリニックでは「手動式真空吸引法」という手術をやっていて、いま日本で行われている中では、1番痛みも少なくて、母体への負担も少ない方法なことがわかった。
妊娠してクリニックを選ぶ時、普通は「流産時、どんな手法で中絶手術をしているか」なんて見ないだろうけど、まだ普及がそんなに進んでいないというこの手法を取り入れてるクリニックを、たまたま選んだ数週間前の自分に感謝した。
結局あっという間に1週間経った。
とりあえずクリニックに相談の電話をして、今の状態を伝えると「まだ自然排出を待ってもいいけど、どうしたい?」と聞いてくれたので、「なるべく早く手術したいです!」と伝えたら、翌々日に予約を取ってくれたので、すぐ家族に迎えを頼む連絡をした。
とにかく終わりが見えてホッとした。
事前にクリニックへ行って改めて膣内の確認と、手術の説明、同意書の受け取りなどをして、最後に採血をされた。
局所麻酔で回復も早いはずだから、手術の2時間前までは飲食OK。食欲なかったら食べなくてもいいけど、脱水症状になったら困るから、ちゃんと飲んでおいて、とのことでした。
言われた通り、朝ご飯を軽めに食べて、9時までは温かい飲み物を飲んだ。
10時にクリニックに到着。
落ち着く薬を1錠飲んで、待合室でゆっくりしてるとちょっとウトウトしてくる。効いてるっぽい。
1回目の流産だし、初期だから調べたところで得られる情報は少ないだろうから、特に検査しなくていいです、と答えました。
11時に「もうすぐですよー」と看護師さんに声をかけられて、最後にトイレへ行く。
いつもの診察台にいつもの体勢で脚を開き、内診後に入口を開く器具を入れる。
こじ開けられる鈍い痛みがあるけど、全然耐えられる。
たぶんこのタイミングで麻酔の注射をされるけど、特にチクッともせずに終わったので、こじ開けられる感覚のが強いのかも。
それからは色々器具を中に入れてる感覚とか、中を器具が動いてる感覚があるけど、総じて痛みとかは全然ない。
違和感だけで「おぉ……うう…」ってなる感じ。
先生に「じゃあ今から吸い出しますね」と言われて、お腹の中をジュッと吸引する音と感覚が来る。これも痛くはない。
何度か繰り返して、一度中をエコーでチェック。
「ごめん、もう一回やるね〜」と言われ、もう2回くらい吸い出す。
やはり外されると気が緩んで楽になるし、痛かったのかもって感じた。
楽にはなったけど、一気に強めの生理痛が来て、先生にも「子宮収縮が始まってると思うけど、それ以外の痛みはある?」と聞かれたので、「生理痛は来てるけど、それ以外はないです。」と答えた。
生理のように血がダラダラ出てきているので、色々拭かれて終了。
待合室に戻ったのが11時半過ぎ。
とりあえず出血が始まっているので夜用ナプキンを装着して横になる。
ずっと下半身丸出しだったのと、生理痛の感じでかなり寒く感じて、持ってきたカイロをお腹に貼ってじっとしてた。
看護師さんが薬を持ってきてくれて、子宮収縮剤と抗生物質、痛み止めと胃薬を貰って、その場で飲む。
また少しウトウトして、12時過ぎにはだいぶ楽になったのでお会計。
今朝まであった吐き気が一気になくなって感動。
生理痛はあるけど、正直ホッとしてるから、手術を受けて本当に良かった。
食欲も戻った気がするので嬉しい。
今後もまだ様子見で通うし、生理もしばらく続くのかな〜と思うとちょっと憂鬱だけど、生理痛は慣れてる痛みなので全然耐えられそう。
無事に終わって良かったーーーーーー!!
シンプルに分かりやすく書くつもりが、結局ダラダラ長くなってしまいました。
言いたかったのは、不安だった初めての流産手術はそんなに痛くもなかったです。
この方法だからなのか、自分の状態か、先生の腕か、分かりませんが、検索しまくっていた自分には「歯医者より楽だよ」って伝えてあげたいです。
ハゲをバカにする強い思念は、社会性を司る前頭葉の血流の変化にそのウィルスによる体内状況が変わり、結果的に頭皮に影響し、ハゲる。絶対にハゲる。絶対に。
また、20代後半〜30代にかけて、この呪いに感染しているかどうかが判明するが、そのウィルスは感染するのである。
馬鹿にしないのであれば、ハゲないし、ハゲに優しい人には影響しない。しかし子どもや女性にもウィルスは感染する。
もしハゲの治療をするのであればAGA治療をする前に、ハゲの呪いの確認が必要なのだ。
ハゲを馬鹿にしたやつは、その治療をしようとする場合、ハゲを馬鹿にしたことを懺悔し、解呪しなければならない。
懺悔し、ハゲ解呪をしたとしても、AGA治療が必要な場合もあるかもしれない。
しかし、AGA治療中にでもハゲを馬鹿にしていたとしたらまた呪われる。
AGA治療中に、またハゲを馬鹿にしたことを懺悔するのである。
つまり「自分がハゲなのにも関わらずハゲを馬鹿にし、しかしその自分がハゲを治療しようとする」という矛盾を抱えることになる。
そんな矛盾を抱えるやつはモテない。ハゲの解呪治療にお金もかかる。つまり、ハゲを馬鹿にする、そんな野郎は自然淘汰されていくのである。
アニオタの大嘘にアニメは世界的に認められている。でもアニメーターは貧困でこのままだと国益に損失だから保護しろという主張
これを20年以上近くアニオタは言ってきてるがまったくの欺瞞だね
アニオタはアニメーターが貧困なのは製作費を電通なんやらが中抜きしているからだという大嘘を言ってきた。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1706/18/news001.html
しかしこの記事にある通りそれはまったくの大嘘であるというのが数年前にバレている。
君の名は。がヒットだの鬼滅がヒットだの呪術廻戦がヒットしているのになんでアニメーターが報われないのはなぜだみたいな疑問を呈しいるが
その答えは記事にも書かれてる通り10本つくって9本外れで1本のヒットで他の赤字をカバーしているからという単純な話だった。
要は出版不況と同じでアニメ会社が増え過ぎてアニメをつくり過ぎた結果が今の悲惨な現状なわけでありアニメ業界の自業自得であるわけだ
それをアニオタは完全スルーして中抜きされてるだの不当だと騒いでいるわけだ。
挙句、アニメーターを国で保護しなきゃ国益に損なうだの中国に乗っ取られるだの騒いでいる。
結論から言うとアニメに税金を1円たりとも使う必要はない 中国に乗っ取られるのならくれてやればいい。
そもそもアニメやアニメーターを助けたければ円盤を買えばいいことそれが一番
ところがネットに蹂躙跋扈しているアニオタはソシャゲや薄い本に金は出すけど円盤にまでに金を出していない
結局のところは自分らの懐は痛めたくないけどアニメはみたいので税金で支援お願いしまーすって言ってるわけだ
もちろんこんなふざけた主張に耳を貸す必要はない税金を1円足りも使う必要もない
そもそもこんな現状を招いたのはアニメーターの自業自得だし、やつらとリアルで会う機会もあったけどアニメのことしか知らないような世間知らずが多い
こんな連中が上行けばそれはダメになるってのがよくわかる。
一般社会のメーカー会社が物だけつくってればいいなんてのはとっくに過去の話で広告やマーケティング、販売販路の確保、営業etc それぞれをきちんとこなしていかなければ成り立たないのは常識のことなのに
アニメ業界はただTV局の言うままに製作したり、漫画原作のアニメ化してきただけ こんなことしてれば時代についていけず苦しくなるのは当然なんだよ
発達障害には適職はあるんだけど、グレーゾーンや知的障害、低IQはごめん、ないかも。
人間って頭の良さでここまで発展してきたから、人間なのに頭が悪いのは鳥でいうとこの飛べない状態だからその時点で自然淘汰されて当然だし生き残れないんだよ。
ただ発達障害においては一つのステータスが定型発達より優れる場合があるから、そのタイプの人間なら道がある。
通常の考え方をせず、更にこだわりが病的に強くないと頂点に立てない。
発達障害のグレーゾーンはどっちつかずの中途半端だから一番になれるほどのこだわりももてないし、かといって普通に暮らせるほどステータスが高いわけでもない。
このタイプが学生時代のバイト先に一人いたけど本当に仕事できなくて尻拭いさせられて無理だったし、下の子には偉そうに接して先輩にはヘコヘコするから嫌いだった。
低IQは怒られることが多すぎて保身を一番に優先するからそのせいで問題が悪化し周りが迷惑する。
平和な職場にそいつが一人現れただけで優しくて良い人から消耗し潰れていき、いい先輩が疲れ切って最終的に鬱になってしまった。
グレーゾーンの人もそのことに悩み一生懸命生きてるのはわかる。ただ一番やばいのは「自分は普通だと思ってるやつ」であって、悩んでるような人ではない。
発達障害でも、多少賢ければそれをカバーすることができる。これは全員にいえるけど、客観視して自分と人との違いに気づくことができる人は伸びる。
ということで、発達障害には適職はある。
具体的には
ADHDが強いタイプは、音楽、デザイン、イラスト、漫画、小説、企画や脚本、ゼロから何かを生み出すことに優れている。
ASDが強いタイプは物や数字やルール、すでに決まっている物に強い。なのでルールの中でやる物に対しては優れている。
特性の混ざり具合によっては最悪になる場合がある。(ADHDの「見通しの甘さと不注意」、ASDの「完璧主義」が強い場合、考えてた通りにことが進まず途中で投げ出し結局何もなし得ない人間になる)
適職はあるが特性の出方による。
メンヘラはとてもか弱い生き物です。
メンヘラは一人では生きていけない寄生虫なので寄生先がなければ死んでしまいます。
彼女らは理解のある彼くんがいるから漫画がかけるしブログも書けるし、子供も作れて、ツイッターに愚痴を書きながらも伸び伸びと生きることができるのです。
一方理解のある彼くんに寄生できなかったメンヘラは、若いうちは風俗、年老いたら死にます。
ブスのメンヘラは自然淘汰されます。今存在していても遺伝子を残すことはできません。彼女が末代です。
故にメンヘラは顔が良くなければ生き残ることができず、この交配を繰り返すことにより年々メンヘラの顔の良さは上がっていると推測されます。
どんなに顔が可愛くても理解のない彼くんとつがいになった場合、憎しみあってメンヘラが悪化し、結果的に死んでしまいます。
なのでメンヘラは、庇護欲が強く辛抱強く、それなりに金を稼ぐかもしくは実家が太い理解のある彼くんを見つけ出すことができるのです。
このメンヘラ特有の嗅覚は、一般家庭に育った人間には備わっていません。
メンヘラは幼少期から毒親の顔色を伺いながら神経を研ぎ澄まし育ったので危険察知能力が高いのです。
ここで親のご機嫌をとれないような子供はその場で親に殺されてしまいます。
これもまた自然淘汰です。
ちなみにホストにハマるメンヘラは嗅覚の鈍い今後淘汰されるであろうメンヘラです。
懸命に子孫を残すべく、ホストとの認知されない子供を産み育て、自分と同じ道を歩ませます。
【はじめに】
俺は高卒(偏差値30)で頭が悪いので物覚えも悪いし忍耐力もない。顔もブサイクだし身長も160しかないし、人が言ってることも理解しづらいし、人に言いたいことも上手くまとめられない。たぶん弱者男性の中でも最底辺にいる。再来月で30歳になる。
今はデータ入力の派遣社員をしていて、このプロジェクトが終わったら無職になる。生きることが地獄のように辛くて人生が詰んでいる俺だが、他人を恨まずインセルにも傾倒せずにここまで来れたのは、自分が感じる幸福のハードルを最低限おろすことができたことに由来すると考える。三十路になる前に幸福のハードルを最低限に下ろす秘訣を棚卸ししておく。
【食事は一日一食にする】
朝と昼は食事を取らず水だけで過ごしている。空腹は意外と慣れるもので、会食恐怖を患い始めた高校時代から今に至るまで晩飯一食の生活を送ってきたので、かれこれ15年近く経った。その間体を壊したことはない。同世代の連中が腹が出てくる中、健康診断の数値も良好だ。BMIも18を前後している。空腹は最高の調味料と言うが、俺は夜に白米を口にするだけで多幸感に襲われる。脳から高揚感と幸福物質が分泌されてるのがわかる。毎日3食流し込むのはただの餌だが、1食に絞ることで体が震えるほどの上手さの食事を毎日味わえるのだ。俺たちのような弱者男性は自分の世界の中で自己完結した幸福を見出さなければならない。何故なら他者との交わりは惨めな気持ちになることが経験上あまりにも多すぎたからだ。野菜は一晩で350gとること。
【運動をする】
体を動かしていないと、人間は気持ちが塞ぎこむし意欲も低下してくる。気分が塞ぎこむと、ただでさえ低い一日の行動リソースが縮小し、さらに気分が塞ぎ込むという負のループに陥る。有酸素運動をするの脳細胞のシナプスの結びつきを強めるBDNFが分泌されるので、体動かすにしても何からやればいいのかわからない人はジョギングがおすすめ。俺は運動音痴で階段登るだけで息切れする雑魚だったが30分以内に5KM走りきれるようになった。運動習慣がなかった頃に比べて陰鬱とした気分になることが明らかに減ったので今も続いている。
まず最初に、俺はオナ禁を3年続けた経験があるが、イケメンになったりモテるようにかる巷のオナ禁効果はあれは嘘だ。俺が生き証人だ。そして種の保存として性欲があるのは仕方がない。自分の性欲は素直に受け入れるべきだ。その上でオナ禁とエロ禁をする。理由は何個かあって、オナニーをすると意欲がひどく低下する。朝抜いたらその日は何もしたくなくなる事が多かったので、オナ禁してから一日の行動可能ターン数が増えるようになった。あとはエロ禁することによって、オナ禁の成功率と条件反射で女性の服の上から膨らむ胸の膨らみに視線がいかなくなった。長期オナ禁をすると性欲が減退してくるので、リアル女性を視姦しなくなったのはどれの効果なのかはハッキリとはしていない。胸を見る視線というのは女性は比較的敏感だそうなので、波風建てずに生きたい弱者男性の必須スキルである。
オナ禁には生殖能力が衰えるデメリットがあるが、弱者男性に限って言えばはそもそも自然淘汰されるべき遺伝子なので、デメリットにはならない。予定調和なのだ。
ムラムラとしたらその性エネルギーを運動にぶつけるといい。ナポレオンヒルが提唱している性欲昇華法という昔からある手法だ。
俺たちに必要なのは画面の向こうの手に届かない女の裸体ではなく、手の届く範囲の小さな幸せなのだ。
甘いものは好きか?俺は好きだ。コーヒーも好きだ。しかし、一人で甘いものをバクバク食べれる環境は幸せすぎて、一人の世界で満足してしまう。すると、他人との関わりが辛い俺たちは、一人の世界に充足していると、もっともっと他人との折り合いがつかなくなってくる。そこで、誰かと一緒に飲み食いするときだけ、甘いものとカフェインは取ろう。そうすると、他人といる時に幸せを感じることが出来る脳の回路が形成される上に、他人と関われるきっかけになる。職場の人と自分のためにお菓子を用意して配って他愛もない話をしながら食べよう。その時だけコーヒーを飲んでもいい。俺はこうやって他人と静かに無理なく関わる方法を模索していった。それでも一人でいることが一番の安らぎなのはかわらないが、仕事でやらかした時に笑って許してもらえることが多くなった。そしてカフェインに頼らないで済む体質になると頭痛頻度が少なくなったので、頭痛持ちは一考の価値あり。
【何も欲さず周りの人を許容し感謝しながら生きる】
人に与えない者はいずれ人から何も貰えなくなる。 欲しがるばかりの奴は結局何も持ってないのと同じ。 自分では何も生み出せないから。 独りで死ぬのは惨めだな。
俺たちは一人で死ぬことになる。しかし、死ぬなら欲しがる生き方をして惨めに死ぬより、生み出せる生き方をしながら静かに死のう。
俺たちは低い能力や不遇な容姿により、さんざん嫌な思いをしてきた。これから先も嫌な思いをすることがたくさんある。しかしその中でも、俺達のことを人として別け隔てなく扱ってくれる人がいる。老若男女問わず多からず居るそういう人たちに、心の底から感謝し、一人の人間として敬おう。感謝の心は忘れないようにしよう。そういう感謝や敬いの心が欠けた場合、距離感がバグりつきまといやストーカー化する困ったちゃんに変貌する弱者男性が観測される。俺たちはそうならず、一人で生きる覚悟を決めよう。それが俺たちにとっての最善の道だ。自分に対して良くしてくれる女性がいても、女性の好意に対してのみ感謝するべきで、間違っても女性に対して淡い期待は辞めよう。そういったストイックさが信用に繋がることがあり、社会生活が少しだけ楽になったりする。
【おわりに】
生きてても良い事が全くなかったので、俺はこうやって自分が幸せに感じる方法を生み出していった。お互い辛いことばかりかもしれないけど、誰かに傷つけられてもせめて自分だけは他人を傷つけないようにお互い生きていきましょう。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい
https://note.com/fromdusktildawn/n/n0781ea1ca467
なる記事を読んで少し思うところがあったので、メモしておこうと思う。
大学時代、もう10年以上前になるが、幼児教育で修士号を取得し、保育園で働くという異彩を放つ友人と二人で酒を飲んだことがある。
なんの話をしていたか忘れたが、その際、その友人が「なぜ人を殺してはいけないのか、子供たちに説明ができないじゃないか。」と言ったことを覚えている。
とかく人は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、道徳だとか、哲学だとかに答えを求めがちだが、少し現実をみて、「人を殺しても良い世界」を想像してみたらどうだろうか。
罪なくそのようなことが許される世界であったなら、私は家の扉の外には出ないし、家族も作らないだろう。
自分に少しでも不都合であったり、不愉快である人間は、殺してしまえば全て問題が解決してしまう。
そんな世界に一歩でも足を踏み出すと、いつもふとしたことで殺されるリスクがあるからだ。
そう、「人を殺してはいけない」は社会、いや、主観的な判断では”SOCIETY”が最も意味としては近いと感じる、を成立させるのに”必要条件”なのだ。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書によると、人類発展の大きな理由の一つがこの”SOCIETY”の形成だったと書いている。
とかく利口と言われるチンパンジーにおいても、そのグループ構成は多くて100頭程度。他の動物も同程度だろう。グループ間のコミュニケーションネットワークも限られている。
一方、人類は国家でいうと10億人規模のコミュティ形成。会社においても数万規模のコミュニティが形成でき、そのネットワークはチンパンジーのようなアフリカの一地域限定ではなく、世界中、いや、宇宙にまで広がっている。
言わずもがな、コミュニティはコミュニケーションによって成立し、相互の信頼も必要となってくる。「嘘をつかない」、「話や言語が通じる」、「互いの利益を考える」等、信頼を獲得するのに必要な条件は多くあるが、最低条件が「私を殺さない」ではないだろうか。
だから、もし「なぜ人を殺してはいけないのか。」と人に聞かれることがあれば、私は即座に、「社会が成立しなくなるからだよ。」と答えるだろう。
ついで聞かれる質問はおそらく「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」であったり、「死刑はいいの?」とかだろう。
結論から言うと、私は「社会に必要ない人と判断された人」=「死刑となった人」と考えている。
「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」と言う問いに対しては、「そうだろう。だが、殺していい人は厳密に決める必要がある。」と考える。
誰もが主観で「社会に必要ない人だから殺そう」と実行していては、客観的にみて誤った判断による殺人が発生し、やはりコミュニティ形成に問題が発生する。
ルールが必要だ。人間のコミュニティはその規模が大きくなるにつれ、約束事から掟、そして法律とルールを形成していった。
「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」という判断をするのが、日本で言うところの刑法なのだろう。
もっとグループが小さい、例えば国家形成前のTRIBEであったり、VILLAGE規模であれば、殺人については知見者(長老とか?)の判断により、その殺人の是非が決められただろう。だがそれは各々がお互いをよく知っているような小規模集団だから成立していたものであって、国家規模の、知らない人間が大多数のグループでは成立しない。
そう考えると自然と「人を殺してはいけない」ことがわかってくる。
一部、「特権階級は人を殺しても良い」という社会。例えば現状のタリバン政権等が挙げられるが、いずれも後進国であり、そのルールによって、社会の発展を妨げ、結果、国の発展が滞っている。
「人を殺してはいけない」はSOCIETY(家族、親戚、集団、会社、社会、政府、国等)の発展には基本的に必要不可欠な、最低限の決まりごとなのだ。
友人に対しては、酒を飲みながら、上記のようなことを滔々と語った記憶がある(無論、その頃ユヴァル・ノア・ハラリは本を書いていなかっただろうが)。その時の友人の反応をあまり覚えていないが、この答えに対する反論はなかったと記憶している。
あの友人は今、子供の人格形成に大きな影響をもたらすであろう、幼稚園教育に力を注いでいると思う。
どんな教育をしているのか、今度聞いてみよう。
足りない頭でつらつらと書いた本投稿に、いろいろとコメントを書いてくれた人たちにまずはお礼と感謝を。
まず、最初に。小生、正直哲学は全然履修していないし、もうちょっと言うとニーチェなんててんで興味がない。
最初にニーチェの記事を引用したのは「なぜ人を殺してはいけないのか」というテーマを聞いて本稿に書いた友人との問答を思い出したためである(友人はニーチェとか好きそうだけど)。
哲学は…なんというか主観的なんだよね。「まあ、そう言う解釈もあるよね」で終わってしまいそうな問答がいつも並べられている印象。
コメントとかで気になった内容については以下に私見を書いていく。
まず、”社会”より”SOCIETY”が感覚的に近く感じた理由は
一方で
”社会”はもっと大多数の人間で構成されるイメージがあるから。とっても主観的だから、以下は”社会”でまとめる。
君が住んでいる家、来ている服、食べている食べ物は全て”社会”の産物である。
「社会を必要としない人」なんてものが存在するのであれば、どこか孤島で、自給自足で孤独に生きる人になるだろうから、自然と殺人は発生しないかも。
哲学を語っていたわけではなく、社会の必然性を語っていたつもり。
そこに権力が集中している場所(権限が大きい?)はあるかもしれないけれど、それも社会の構成要素の一つ。
だから、「社会を維持するために社会の権力に逆らってはいけない」とか、強制されて行うものではなく自発的に「社会を維持するために人を殺してはいけない」と考えるべきではないかと思う。
また、社会を維持したり、大きくすることは、その社会を存続させることに必要不可欠なことで、いわゆる生物が子孫を残すことと同様なのではないだろうか。
「なぜ人が殺し合わないように進化・発展してきたか」と「なぜ人を殺してはいけないか」は別の話ではないような。
「人が殺しあわないように進化・発展してきた」(すくなくとも自然淘汰されない程度に)からこそ、現在の社会があり、その社会の維持のために「人を殺してはいけない」というルールが維持されていると考えている。
「なぜ社会を成立させなくてはいけないのか」は別に当為の話ではないと思う。
「社会を成立させ続ける」という社会目的があって、初めて社会は存続してる。それがなくては社会は成立し続けない。だから「社会を成立させ続ける」は我々人間が営みを続ける上で、必要条件なのかと。
そう考えると、「人を殺してはいけない」は社会存続のための必須ミームなのかもしれない。
「人を殺してはいけない」という基本概念は「社会の維持」にとっては必須であり、いうなれば、生きる上で必須の事項なんじゃないかな?
ここまで書いて、ふと、確かに死にたい人間や、破滅を望む人間には「人を殺してはいけない」なんて概念は通用しないと感じちゃった。
そういう人は社会性の欠如から考えると、普通の人より、もっと野蛮で野生的…?、粗野な人種なのかな。
分配分配うるせーよ
酒が街の酒屋でしか買えなかった時代からイオンやコンビニで買えるようになって30年以上?たつ。昔は本当に不便だったんだよ。規制緩和して街の酒屋はほとんど潰れたんだけど、その基本思想は、弱きものは死ね、という自然淘汰の考え。
昔のガバガバのセーフティネットでも酒屋のおっちゃんたちは、どうにか生きてるし、今なんかもっと手厚いんだからそうは死なない。
そうやって社会を最適化してきたのが日本。変化するにはいつだって痛みが必要。痛みを癒すのは社会保障。でも、チャレンジする気を削がない程度の補償じゃないと共産主義みたく自主的に死んでいく人が出るから今がちょうどいい。
人類は小規模で、ほぼ自給自足し、互いに敵対する部族で進化してきたので、好意の追跡の必要性を減らし、これまで検討してきた他の人類の富の移転制度を可能にするために、収集品を使用することは、人類の種の期間のほとんどにおいて、物々交換の規模の問題よりもはるかに重要であった。実際、収集品は互恵的利他主義の仕組みを根本的に改善し、他の種にはない方法で人間が協力することを可能にした。他の種では、記憶の信頼性が低いために互恵的利他主義は大きく制限されている。他の種には、大きな脳を持ち、自分で家を建て、道具を作って使うものもいる。しかし、互恵的利他主義の仕組みをこれほどまでに改善した種は他にない。その証拠に、この新しい開発は紀元前4万年には成熟していた。
メンガーはこの最初の貨幣を「中間商品」と呼び、本稿では収集品と呼んでいる。刃物のように他の用途にも使える道具は、収集品としても使える。しかし、富の移転を伴う制度が価値を持つようになると、収集品はその収集性のためだけに製造されるようになる。その性質とは何か。ある商品が価値ある収集品として選ばれるためには、収集品としての価値が低い製品と比較して、少なくとも次のような望ましい性質を持っていなければならない:
1. 偶発的な損失や盗難からより安全であること。歴史上ほとんどの場合、これは持ち運びが可能で隠しやすいことを意味していた。
2. 価値を偽造することが難しい。これらの重要な部分は、以下に説明する理由から、偽造できないほど高価であり、それゆえに価値があると考えられる製品である。
3. この価値は、単純な観察や測定によって、より正確に近似していた。これらの観測は、より信頼性の高い完全性を持ちながら、より低コストであっただろう。
世界中の人間は、これらの特性をよりよく満たすアイテムを集めたいという強い動機を持っている。この動機の中には、おそらく遺伝的に進化した本能が含まれている。このような物は、(特に優れた明確かつ近接した理由ではなく)集めることを純粋に楽しむために集められ、そのような楽しみは人類の文化においてほぼ普遍的である。直近の動機の1つは装飾である。アリゾナ大学の考古学者であるメアリー・C・スタイナー博士によると、"装飾は現代人の採集者の間では普遍的なものである "という。進化心理学者にとって、このように、自然淘汰という観点からの最終的な説明はつくが、快楽以外の近親的な根拠がない行動は、遺伝的に進化した快楽が行動の動機になっているという有力な候補になる。例えば、このエッセイの推論が正しければ、希少品や美術品、特に宝石を集めるという人間の本能がそうである。
(2)については、もう少し説明が必要である。コストが高いという理由で商品を生産することは、一見すると非常に無駄なことのように思える。しかし、永遠にコストのかからない商品は、有益な富の移転を可能にすることで、繰り返し価値を高めていく。取引が可能になったり、コストが低くなったりするたびに、コストはより多く回収される。最初は全くの無駄であったコストは、多くの取引で償却されていく。貴金属の貨幣価値は、この原理に基づいている。また、収集品は、希少性が高いほど、また、その希少性が偽造できないほど、価値が高くなる。また、芸術品のように、証明可能な技術や独自の人間の労働力が製品に加えられている場合にも適用される。
我々は、この3つの要素を兼ね備えた製品を発見したり、作ったりしたことはない。アートや収集品(この言葉は現代文化で使われている意味ではなく、この論文で使われている技術的な意味で)は、(2)を最適化するが、(1)や(3)は最適化しない。一般的なビーズは(1)を満たしているが、(2)や(3)は満たしていない。宝石は、最初は最も美しく、あまり一般的ではない貝殻で作られるが、最終的には多くの文化において貴金属で作られるため、3つの特性をよりよく満たすことができる。偶然ではないが、貴金属の宝飾品は鎖や指輪のような細い形をしていることが多く、無作為に選んだ場所で安価に鑑定することができた。貨幣はさらに改良されたもので、小さな標準的な重さと商標を鑑定の代わりにすることで、貴金属を使った小さな取引のコストを大幅に削減した。貨幣は、収集品の進化のほんの一歩に過ぎない。
旧石器人が作っていたモバイルアート(小さな置物など)も、この特徴によくマッチしている。実際、旧石器人が作ったものの中で、実用性がなく、(1)〜(3)の特徴を備えていないものはほとんどない。
ホモ・サピエンスには、役に立たない、あるいは少なくとも使用されていない火打石の不可解な例がたくさんある。我々はクロヴィス族の使えない火打ち石について述べた。Culiffeは、ヨーロッパの中石器時代に発見された数百個の火打ち石について述べているが、これらの火打ち石は丁寧に作られたものであるが、顕微鏡写真の分析により、切断には使われなかったことが明らかになっている。
フリントは、宝石のような特殊な目的を持った収集品に先立つ、最初の収集品である可能性が高いのである。確かに、最初の火打石のコレクターは、刃物としての実用性を求めて作られたはずだ。富の伝達手段としてのフリントの付加価値は、本稿で紹介する制度を開花させるための偶然の副次的効果であった。このような制度は、特殊な目的の収集品を製造する動機となったであろう。最初は切削工具として実際に使用する必要のないフリントであり、その後、ホモ・サピエンス・サピエンスが開発した他の様々な種類の収集品である。
新石器時代、中近東やヨーロッパの多くの地域では、一部のジュエリーが標準化され、美しさよりも標準的なサイズやアセイ性が重視されるようになった。商業地域では、このような宝石の量が伝統的な宝石の量を大きく上回ることもあった。これは宝飾品と貨幣の中間的な段階であり、収集品の一部が貨幣的な形態をとるようになったのである。紀元前700年頃、リディアンの王たちは前述のようにコインを発行し始めた。標準的な重さの貴金属は、市場で、賃金労働者が、あるいは徴税者が、ランダムに選ばれた場所でコイル状のワイヤーを切断する代わりに、商標、すなわち造幣局のブランドを信頼して「評価」することができるようになったのである。
収集品の属性が、貴金属やコイン、そしてほとんどの非現金通貨を支えてきた準備商品と共通しているのは偶然ではない。本来の貨幣は、これらの特性を、人類の先史時代のほとんど全ての時期に使用されていた収集品よりも純粋な形で実現したものである。
20世紀の新機軸は、政府による不換紙幣の発行である。(「フィアット」とは、それまでの金や銀をベースにした通貨のように、基軸商品に裏付けられていないことを意味する。) 不換紙幣は、交換手段としては一般的に優れているが、価値の保存手段としては非常に劣ることが証明されている。インフレで多くの「たくわえ」が破壊された。前述の収集品に共通する希少品やユニークなアート作品の市場が、前世紀にルネッサンスを迎えたのは偶然ではない。我々の最も進んだハイテク市場の一つであるeBayは、これらの原始的な経済性を持つ物を中心にしている。進化の過程で重要な役割を果たしていた頃に比べて、我々の富に占める収集品の割合が減ったとしても、収集品の市場はかつてないほど大きくなっている。収集品は、我々の本能的な欲求を満たすと同時に、安全な価値の貯蔵庫としての古代の役割を果たしている。
一方的なものも相互的なものも、自発的なものも強制的なものも、多くの種類の富の移転には取引コストがかかる。自発的な取引では、双方が利益を得る。真に無償の贈り物は、通常、親族の利他主義の行為である。このような取引は、何かを作るという物理的な行為と同様に、一方または両方の当事者に価値を生み出す。貢物は勝者の利益になり、損害賠償の判決は被害者の利益になるだけでなく、さらなる暴力を防ぐことができる。遺産相続は、人間が次世代の親族に財産を渡す最初の動物となった。これらの家宝は、商品の取引の担保や代金、飢えをしのぐための食料、あるいは結婚の際の花嫁代金などに使われた。このような移転を行うためのコスト(取引コスト)が十分に低いかどうかは別問題である。このような取引を初めて可能にしたのが、収集品である。
ほとんどの動物が非親族との遅延互恵的な協力関係を築けないという「囚人のジレンマ」を解決するために、収集品は我々の大きな脳と言語を増強したのである。それは、どの人が何をしたかというエラーと、その行為によって生じた価値や損害を評価する際のエラーである。一族(部族のサブセットを形成する、小さくてすぐに地元に帰れる親族グループ、または大家族)の中では、我々の大きな脳はこれらの誤差を最小限に抑えることができたので、世間の評判と強制的な制裁が、相手が将来協力したり欠陥を犯したりする能力によって提供される限定的な動機に取って代わり、遅延した互恵関係の主な執行者となったのである。ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスもホモ・サピエンス・サピエンスも、同じように脳のサイズが大きかったので、地元の一族の全員が、他の地元の一族の全員の好意を把握していた可能性が高い。小さなローカルな親族グループの中では、収集品を取引に使うことは最小限だったかもしれない。部族間では、好意の追跡と収集品の両方が使用された。部族間では、評判に代わって収集品が完全に互恵関係の執行者となったが、暴力は依然として権利の執行に大きな役割を果たしていたし、高い取引コストのためにほとんどの種類の取引ができなかった。
一般的な富の貯蔵と富の移転手段として有用であるためには、収集品は、少なくとも1つの制度に組み込まれ、発見や製造のコストが複数の取引で償却されるような閉ループのサイクルを持つ必要があった。さらに、収集品は、単なる美しい装飾品ではない。身につけられる安心感、隠したり埋めたりするためのコンパクトさ、変えられない高価さなど、一定の機能性を持っていなければならない。そして、その高価さは、現代のコレクターが収集品を鑑定するのと同じように、譲渡を受けた人が確認できるものでなければならなかった。
本稿で示した理論は、これらの文化で交換される「貴重品」にこれらの特徴があるかどうか(あるいはないかどうか)を調べ、これらの貴重品が移動するサイクルから得られる経済的利益を調べ、(現代を含む)さまざまな文化でこれらの特徴を持つ物に対する嗜好を観察することによって、検証することができる。
前例のない協力の技術により、人類は地球上で最も恐ろしい捕食者となっていた。彼らは移り変わる気候に適応したが、一方で、アメリカ、ヨーロッパ、アジアでは、狩猟や気候の変化によって、何十もの大きな群れの獲物が絶滅に追い込まれたのである。現在、地球上のほとんどの大型動物は投射物を恐れているが、これはたった1種の捕食者に適応したものである。また、狩猟よりも採集を中心とした文化も大きな恩恵を受けた。ホモ・サピエンス・サピエンスは、骨が弱くなり、脳の大きさが変わらないにもかかわらず、地球上のより多くの地域に、ネアンデルタール人の10倍以上の人口密度で住むことができた。この増加の多くは、効果的な富の移転と言語によって可能になった社会制度、すなわち貿易、結婚、相続、貢ぎ物、担保、そして復讐のサイクルを弱めるために損害を評価する能力に起因していると考えられる。
原始時代の貨幣は、我々が知っているような現代の貨幣ではなかった。現代のお金の機能の一部を担っていたが、その形は家宝や宝石などの収集品であった。これらの使用は非常に古くから行われており、収集品を探求し、収集し、作り、展示し、鑑定し、大切に保管し、売買するという欲求は人間の普遍的なものであり、ある意味では本能的なものである。このような人間の欲望の集合体を「収集本能」と呼ぶことにする。多くの古代人は、貝や歯などの原材料を探したり、収集品を製造したりすることにかなりの時間を費やしていたし、多くの現代人は、趣味としてこれらの活動にかなりの資源を費やしている。その結果、具体的な実用性とは異なる、初めての確実な価値の具現化、そして今日の貨幣の先駆けとなったのである。