はてなキーワード: 卑下とは
立憲民主党へのネガキャンが酷い。フォロワーを買っただとか、RTが鍵垢だとか、そういうデマの恐ろしいところは「そうでない」と言い切ることが難しいこと、一旦拡散してしまったら検証しても信じこむ人がいること、やったもの勝ちであること、特に罰則がないことなどだ。
それにしても、なぜこのようなデマが流布されるのだろうか。まずデマを広める人の心理を考えてみよう。彼らは一体どんな動機でデマを広めるのだろうか。それは悪意からである。証明は簡単だ。
悪意がなければ、2chなどの掲示板にいきなり投稿したりはせず、連絡を取ってり、質問サービスなどで聞いてみたりして検証しようとするだろう。なぜならもしも違っていたら大変だからだ。しかし、悪意のある人間は違う。彼らにとってそれらのデマが真実か否かは関係がないのである。彼らに取ってデマを見つけ出すことは「立憲民主党を貶める」という目的のための手段である。ではなぜ彼らが立憲民主党を貶めたいのか?政策が気に入らない?候補者が嫌い?違う。そういう純政治的な問題ではないのだ。彼らはただ単に自分の虚栄心を満たしたいだけなのだ。これは森友学園の籠池氏やアメリカ大統領選挙でトランプを応援し、フェイクニュースを撒き散らしたとされる"Poor White"層と重なる。彼らは自分自身に満足していない。自分に自信が持てない。自分が周囲から認められていないと感じている。そんな人間が取る行動はどこでも同じなのである。まずは自分が所属している組織、例えば人種,国籍,階級, etc...に縋り付く。白人は黒人より優れている、だから自分もあいつらより優れているのだ、だとか日本人だから中国人、韓国人よりも優れているなどと考えてしまう。だがそういう意識は日々の生活の中では中々満たされない。だから彼らは自尊心を満たすために黒人や韓国人、中国人などの悪い所を積極的に探し出してそれを広めようとする。目的が真実の検証と報道である本来のマスメディアと違い、自尊心を満たすことだけが目的の連中だから、それが真実かなどとは毛一本足りとも考えない。要は信じたいから信じてしまうのだ。そうやって自分に自信がない人が一定数に達すると、今度は彼らを利用して金儲けしようとする人々が現れる。彼らは恣意的なタイトルで巧みに人々の正義感や不信感に浸け入り、どんどんとそれらの考え方「だけが」正しいと信じこませ、誘導する。例えば政策にしても、どの政策が正しいかどうかは結局のところ議論して突き合わせてみなければ分からない。どんなやり方にも長所があれば短所もある。相手がなぜそう考えるのか、よく話し合い、互いに納得できる結論を出す場が議会である。だというのに、自民党やネット右翼、オルタナ右翼は「自分たちは絶対だ。だから自分たちは正しいし、他のやつらは間違っている」という考え方になってしまっている。なぜ議論するのか、なぜ反対するのかを理解することすら拒んでいるのだ。そしてそうやって反対する人々に対して「非国民」だとか、「国賊」だとか「反日」だとか呼んで、自分たちの所属している組織から弾き出す。そして彼らを自分たちが卑下している人々と同一視し、排除しなければならないと考える。そうした積極的な排除行動の裏にはどれだけ他人を貶めても自分自身には結局のところいつまで経っても満足なんてできやしないという事実がある。だから今度は人を下げるのではなく、自分を上げようとする。間違った方法で。彼らは自分の地位が低いことを他者の陰謀だと考え、そういった人々を排除すれば自分はもっと他人から認められるのだ、もっと地位が上がるのだと考えてしまう。有名なところではユダヤの陰謀や在日韓国人の陰謀、といったものがある。ユダヤ陰謀論が決してユダヤ人が優れていないという設定ではないことが、黒人差別などと一線を画す。むしろ彼らが自分よりも優れていることを認めた後にそれを無視し、彼らが如何に悪辣非道かといったことにこだわる。相手が悪ならば排除は正当化できるし、自分の不遇も正当化できる。
立憲民主党、それに過去の民主党、民進党へのネガキャンは主にこの2つが原因である。ではこれらをどうすれば良いのか、それは民主主義、立憲主義、人権などについてしっかりと学校や家庭で教えている他はない。もっとも自民党政権でそれは望めないであるが。
https://anond.hatelabo.jp/20171008232016
趣味には逃げられた。友達は居ない。やることはあるが気がついたら時間が過ぎてやれてない。上っ面だけの目標はあるが、本当の目標は適当なキリギリス生活をなるだけ長く維持すること。
日々生きてると消耗品の補充は必要なので近所のホームセンターに行くと家族連れやカップルが目に付く。
カップルがいちゃいちゃしていたり普通にしていたりいがみ合っていたり、家族連れが子供とわいわいしていたり子供を野放しにしていたりガミガミやり合っていたりするのを見て、ほほえましくは思うもののどうしても自分の人生に関わり合いのあることに思えない。
「真っ当な人達のこと」みたいなイメージで自分を卑下しているんだけど、思い悩む時期も過ぎ、とうの昔に諦めた。
過去に異性にどうしようもなく好きになり、好意を伝えて付き合うことになったけど、結局長続きしなかった。
あれほど好きだったはずのその人と会うことが付き合うとなったその瞬間から負担に感じ始めた。
連絡する手段はいくらでもあったのにこちらから連絡する事は少なかった。
結局相手に「これ以上無理」と意思表示され「わかった」と反応して終わった。
誰にでもは無いかも知れないけど、そんなに珍しくない失敗だろうし、反省して次に向かえば良かったのかも知れないが、そこで自分は「自分は薄情だから人の時間を無駄にしないためにも他人と深く付き合うのは止めよう」と思ってしまった。
でも今は職場以外で誰とも関わり合いを持たなくても生きて行けてしまう世の中だ。
職場の人間関係を業務時間外まで引きずって無理矢理コミュニケーションするのは悪と断じられる時代だし、
趣味とまで行かなくても暇潰しはゴマンとあるし、ある程度の稼ぎさえあれば衣食住にも性処理にも困らない。
でも時間が経てば立つほど、孤独にどっぷり浸かってしまい脱出に時間がかかるようになっていく。
人と再び関わり合うには長いリハビリが必要だが、そんなリハビリに付き合ってもらえるような余裕のある人なんか居ない。
他人の家族やカップルを見てへこむって事は自分の中にまだ人とコミュニケーションしたいって欲求があるって事だと思う。
引きこもりを選択した俺には何が正解かはわからないけど、俺みたいになるのはほっといてもなれるんだから、それ以外の道を模索する猶予がまだあるんじゃないか?
まぁ、最悪失敗しても独居老人になって孤独死するのは自分なんだし自業自得じゃん?
なら、心が動くうちは足掻いてみた方が良いよ、というのが足掻くことから逃げた俺の意見。
他人からの好意に鈍感というよりは、牽制といったほうが正確だとおもう。ニュアンス的に。
一言で言い表せないような、玉虫色で、微妙な位置にある感情なので、自分の表現力ではそれを言い表すには足りてないとは思う。
今までの人生で自尊感情が育ってこなかった、成功体験が乏しかったため、ちょっとした「どうせ俺なんて」がデフォになっている。
自尊、謙遜、卑下、謙虚、職務能力の自己評価、犯罪に対し過剰に警戒する社会、非モテとして迫害されてきた高校大学、そういうった社会的・個人的・人生経験的なミクロとマクロが入り混じった結果、そうなっている。
(いや職務能力自体はそれなりに高いと自他共に評価されてるんですけどね(イキリ))
それらが入り混じった結果、「中の下」くらいの自意識になっている。
仮に自分が誰かに好意を抱かれたとしても、それを正確に把握することはできないだろう。この犯罪に対する高度警戒社会だ。犯罪者になりたくない。冤罪をふっかけてきているのかも知れない。自分自身にも犯罪に対する警戒はある。
恋愛市場から降りる人たちの理由に「犯罪に巻き込まれたくない」「犯罪者にされたくないし、犯罪を犯してしまいたくない」といったのも、潜在的に大きいんじゃないかと思っている。
増田のように自分を卑下し過ぎる必要は無いが、男オタク特有の過剰なネット弁慶ぶりが女性声優へのセクハラ誹謗中傷や、コミケエロ紙袋やエロゲTシャツなどの猥褻グッズ類を堂々と公衆の面前でひけらかす迷惑行動にも繋がってるので、羨むこたーない。
彼らの脳内では「常識と非常識」「多数派と少数派」が逆転してて単に自分達がネットでは多数派だと妄想してる状態だから、本質的には増田と同じように他人の目を気にする小心者である事には変わりないんだよ。
厄介男オタクのあれは「誰がなんと言おうと堂々と己をさらけ出す心意気(笑)」ではなく、ネット多数派状態に物を言わせた集団心理の暴走で大概が人間として終了して手遅れ状態。
「キモいと思われても1人でもそれを貫く信念」というカッコいいものではなく、ネットは男オタクのもので、ネットでは自分達が絶対的なマジョリティだと思い込んでるからやってるの。
たまに一般人が正論で迷惑がっても、ツイートスクショして晒して男オタク仲間同士で凸して攻撃してアカウント削除に追い込んで楽しむ陰湿極まりない集団もいるからね。(例:野獣の日で暴れた淫夢厨)
増田の気持ちはわからんでもないんだが、「あれは人としてまずいから表に出すべきでない」という感覚を完全に失ってしまったらオタクとしてはいよいよ終了なので、増田は自分の自制心を肯定しつつバランスを模索して欲しい。
堂々とというか……後ろめたくなさそうというか……俺(たち)はオタクだぞー!と出せてるのは何でなんですかね。
そりゃあ普通のリア充に比べれば肩身が狭いだろうし、更に個々人ではオタクであることをひた隠したり卑下してる人もいるけど、それでも男オタ全体のノリには、女オタの「自分たちは罪深くみっともない存在……」みたいのとは違うものを感じる。
いや、男オタも自分たちをキモくてみっともないと捉えたりしがちではあれど、それをむしろ自分たちでネタにして面白がれたり、それどころか周囲にアピールできちゃってるように見える。
「こんなキモいこと出来ちゃう俺らwwww」みたいな楽しみ方。(多分この言い方は十年くらい前のオタク構文だろうけど今はどう言うのかわからない)
そんでその楽しみ方を、身内以外に見られそうなところでもできちゃう、
オタ芸とか痛車とか、オタク系のグッズを普段使いするとかもその一種だろう。
もちろんオタ芸や痛車をするのが全てのオタクではなく、むしろ男オタの中でもああいうのは白い目で見てる方が多いのは分かる。
でもあのレベルになると叩く人でも、ネットで己のオタ性を生き生きと出せていたりする。エロ垢でも鍵垢じゃないのが普通だったり。
正直、かなり羨ましい。
ああいうのは一種の露出や露悪の快楽みたいなもんで、周囲にとってよろしくないという話もわかるのだけど……実行はともかく攻め攻めで楽しめる精神性は、羨ましい。
精々が知り合い数人に見えるところでだけ自分のキモさを出せる、というのじゃあ息苦しい。
私も、私有地だけでなく公道でもオタクアクセルをベタ踏みしたい。
あるいは、「公道なのでオタクアクセルを踏まない……踏まないでおいてやるが……それは踏めないというわけではなくその気になれば私はいつでもベタ踏みできる、その能力と自信がある……だが今はそうしないでおいてやる、運がよかったなパンピーども……」みたいな精神的主導権を持ちたい。
10/04/19:32追記
自分たちがマジョリティであるという感覚を笠にきて暴走してるだけだという指摘があり、確かにそういう感じもあるのだけど、それが一概にダメというよりも、むしろそれこそが羨ましい。
マジョリティであるとか、ホームグラウンドであるみたいな感覚をどうやって身に着けられたんですか。実人数で言えば男オタも女オタもそんな変わらないだろうに。
ここんとこネタにされ馬鹿にされてるイキリオタクってまさに笠にきてるスタイルだと思うけど、ああのネタで想定されてるイキリオタクっておおむね男性だと思うんですよね。
イキってるのははたから見たり成長後に見たらイタいかもだけど、当事者にとっては楽しそうだし、イキりたい。イキれるようでありたい。
あと社会性の差を指摘してるコメントもあって、これも私の感覚にしっくりくる。
オタ婚活で男オタの方がヤバい人が集まりがちって話題とかにもそれを感じるし。
ただこれについても、素養がないのに無理して「化粧」して社会性を糊塗してるよりも、「社会性? 知ったこっちゃねーよフヒヒ」って言えちゃう方が羨ましい。
PPPのゴリ押しは慣れたら平気になったけど、カバンちゃんが急にネガティブな事言い出すシーンだけは違和感が拭えない。
ジャパリパークで色んなフレンズを見てきたはずのカバンちゃんが自分を指して『見るからに駄目』なんて言うとは思えないんだよなあ。
サンドスターによって唐突にフレンズになる事を否定するならそれは他のフレンズも否定することになるだろ。
それって間接的に『フレンズって何のために生まれたのか意味分かんないよねー(キモーイ』とカバンちゃんが言ったことになるだろ。
そうじゃないだろ。
今まで旅してきて色んなフレンズが生きてることそれ自体の素晴らしさを感じたカバンちゃんが今更そんな事言い出すはずないだろ。
それに『見守ってくれて』も違うだろ。
一緒に旅をしてきたんだろ。
最初は見守ってたのかも知れないけど途中からはそうじゃないだろ。
一緒にいるのが楽しかったんだろお互いに。
それをなんで対等だと捉えられないんだよ。
そこまできてまだウジウジと自分が下だと思ってるのか。
もっと周りが見えるようになっただろあの旅で。
それなのにどうして、最後にそんな弱気になって自分を卑下するんだ。
木登り出来るようになって自信付けたんじゃないのか。
旅の間に何度もバージョンアップされたはずの自己効力感をなんで急に失った。
お客さんじゃなくなって、パークの皆と対等になったはずだろ。
それなのにどうして最後にそんな悲しいことを言う……。
やっぱ気に食わない。
『自己肯定感の低いゆとり世代さとり世代どもにシンパシーを持たせて神アニメ感マシマシだぜーwwww』とでも思ってそうな所も気に食わないけど、
何よりも最後の最後でカバンちゃんが旅の中で積み上げてきた物が突然なくなって、1話前半のウジウジしてただけの子に戻ってしまったような所が気に食わない。
そこだけが残念だ。
およそ6年前、家族との共用パソコンではない、自分用のインターネットに接続できるデバイスを持ってから、私は少しずつ闇に侵されていった。中学生という思春期の真っ只中、なんとなく好きな子がいたり、部活の同級生の高身長さわやかスポーツ万能モテモテイケメンと一緒にいたりするうちに、というよりはそんなことは大して関係なく、中学校のあの雰囲気の中で生活しているうちに自然に「モテたい」という思いが芽生えた。いつでも自分の部屋でインターネットにアクセスできるようになった私は、モテるためにはどうすればいいかということをインターネットで検索するようになった。いろんなサイトを見ていくうちに、たしか横山建という名前の、恋愛商材やらセミナーやらを扱っている男のサイトに出会った。彼の無料メルマガに登録したり、ほかの恋愛商材を扱っている人のサイトを見たりして、とにかく無料で手に入るものはどんどん手に入れていった。中学生からしたら素晴らしい情報を見つけたという感じであった。そしてとうとう商材をお金を出して買うことにし、個人ではなく恋愛商材を扱っているその界隈では割と有名な会社から25000円という大金を出して買った。中身は調べればその辺に転がっているような情報しかなく、とても後悔したのを覚えている。もしこれを見ている学生がいたら、ぜひとも恋愛商材なんぞ買わないようにして頂きたい。恋愛商材のサイトを見ていると、まるで自分はとんでもない無知で、この商材を買わなければ自分はこの貴重な情報を一生知らず、つらい人生を歩むというような考えに陥りがちだが、全くそんなことはないし、そもそも恋愛商材なんていうものは基本ゴミで、たとえうまくいったとしても幸せにはなれないと思う。最近の恋愛工学などと一緒で、ある種ホスト的なモテ方しか結局はできないのではないかと思う。つまり、自尊心が低い女性をだますことでの付き合いしかできないというような気がする。
恋愛商材の非モテを卑下し、恋愛のない人生を強く否定する世界と触れたことで、私は少しずつ、モテなければ恋愛をしてもいけないし、好かれなければ自分の人生を歩んでもいけないというような思い込みが形成されていった。
人は自分の幸せのために生きていいし、自分に都合のいいように生きていいし、自由に生きていいし、自分の心を大事にして生きていいし、したいようにしていいということである。
それがすべての前提なのだ。
相手のことを考えるということも、その結果自分が幸せになり、心地いいコミュニケーションが取れるからそうするのであり、好かれなきゃ生きちゃいけないからそうしなければいけないのではない。
モテるためにすること、いい男でいることも、その結果(好きな人が幸せになったり、いい恋愛ができることで)自分が幸せになれるからするのであり、完璧な男でなければ恋愛はできないし、恋愛ができない男は自分の人生を歩んではいけないからそうしなければいけないのではない。恋愛をしたくないのであればしなくてもいいのだ。
こんなことはほとんどの人にとって当たり前であるし、いろんなことを端折っているので無意味な文章かもしれないが、なんとなく書き留めておく。
昔から、勝手に顔だけで近しさのような何とも言い難い感情を抱いてた人らが、こんなに普通の顔だったっけか、と新聞のインタビュー写真二度見してしまうようなことがここ最近立て続けにあった。
平野氏、別に島田雅彦みたいなんではないけど穏やかでとっつきやすそうな丸顔になってたし、世耕氏はどことなしすっきりしてオタク感薄れてるし、ケラ氏はアク強いカエルのイメージが優しそうなおっさんに後退トランスフォームしてた。
ベニントン訃報から久しぶりに洋楽ニュースをスクロールしてたら気のいい兄ちゃんといった風情の黒髪、誰これ?うおっピート・ウェンツぅ?フォールアウトボーイの。ゴスって絶対顔面にコンプあるよなー、デブの方はよく見りゃイケメンだもんなと失礼にも思っていた10数年前から遠くここまできて、近所の三十路の善人感をスナップされたその笑顔をしばしぼんやりと眺めてしまった(その後引っ張り出して聴いた、シュガー、ウィーアー…)。
イケメン見てあーあ!と思う怒りのないまぜになったやっかみと同様に、才能も努力もあまりに及ばないであろうこの人らに、顔面は同じようなもんなのに!という嫉妬感じてたのだろうか?いやむしろハラハラしていたんだと思う、この顔を出して、非難されないだろうかという、それこそ自分の強迫的容姿コンプの内面を勝手に投影した思いで。メディアで顔見るたびちょっとドキっとしてたもんな。
そして非難されてほしいという、再矯正か自罰みたいな気持ちもあったんだと思うわ、今にして思えば。誰も彼をも自分の中で基準を容姿だけにおいて、知らず可・不可に選り分けていたんだな。
容姿ディスが日常の親の下でだいぶん強迫観念的に自分を卑下してて、無駄に卑下してるのは分かってたけど、周りの反応見るにそれが不当なものとも思えず、鏡の前、電車の窓に映る姿でいつまでもうだうだ己の顔を眺めていた10代、20代だった。髭と眼鏡と髪型で誤魔化し隠して防御して、今じゃいつの間にか気付けば鏡を見るのは顔洗う時と歯磨く時ぐらいに減っていった。ヒゲ可の職場でよかった。
もし今自分が高校生なら年中マスクしてる自信がある。ガエル・ガルシア・ベルナルの顔に生まれたかったと今でもふと思う。
宇多丸氏の映画評論が下品で、本人ごと嫌いなタイプだったんだが、CSのミニ番組で、10代の自分について、不細工で運痴で冴えない俺は映画館に座ってこの暗闇にこのまま溶けていきたかったという回想独白してたの聞いたとたん急激に好感度が上がったし(だが評論は好かんまま)、変態仮面の人、誰だっけ、鈴木亮平か、俺は顔で勝負するタイプじゃないんだと若いころ悩んだ末に悟ったとインタビューで語ってたり(いやいや明らか男前っしょとは思うが)、こう自信ありげな人が容姿について自覚してる過去を吐露してるの見ると誰であっても切なくなってしまう。
年取るとみなよい顔になるということもあるのか?人前に出ることが多いから顔がキリッとしてくるのか?写真に写るからには美しく撮るためのお膳立てにたけた様々な人が周りにいるのか?いろいろ謎。
社会的成功も、人を魅了する才能の生んだ果実の数も、美しい伴侶(世耕氏は知らん)も自分にはないが、単に彼らも自分も同じ分だけ年をとって、努力の多寡はあるかもしれないが足掻きはして、美醜より他に考えないといかんこと山のようにあって、人生でいろんな人間の顔を見てきて、皆よい顔に見えるようなここに立っているのか?まあこんなことたらたら書いてる時点で自分はコンプ吹っ切れてはないんだが、10数年前の、今よりずっとずっと悩んでたことと、他人を無闇に顔だけでジャッジしてたことを思い出して、なんかしんみりしたので書いた。いや違うな、「思い出す」ほどには離れてたのかと思って、そこにしんみりしたんだ。
この人らの仕事も性格も知らずに顔面だけうんぬんするなとか、この人らは別に不細工ではないでしょとか、偏見内面化を上乗せしたルッキズムの極みとか、能力があれば顔は関係ないなら能力ない不細工はどうやって尊厳保ってんだよとか思われるかもしらんが、それでも持ってる自分なりの自尊心とコンプとの長い葛藤というか、言及するために挙げてしまった、許してくれ
興味本位でA関係の繋がり方がないか探したらあっさり見つけられた
そこでやり取りされている話を見る限り
一般以上の顔面と金と脈があれば簡単につながれそうだなと思った
別の場所で延々やりとりしてる人たちが急に虚しい人たちだなと思えた
身内を叩いて新規を叩いて自分がいちばんと思ってるみたいだけど
本当に近くに行きたい人はとっくに繋がって楽しんでいるんだなって気付かされた
Aと業界は違うけど自分の周りにもとある人と仲良くなりたいって思っている人がいる
平均以下の顔面と金と脈な自分がなんでそのとある人と仲良くなれているのかわからない
きっと向こうが気が合うなと思ってくれたんだろうなと思う
なにもしないのに口だけ開けてほしがってても意味ないよなあ
不幸をこじらせてる人は面倒くさい。
私もかなり不幸なほうだとは思うけど
少なくとも『不幸オーラ』みたいなのは出さないようにしている。
こじらせてる人は、いつもそれを全開にしてるのだ。
それでいて、話を聞こうと歩み寄ると
厨二病ってのとよく似ている。
ということに自分で気付いていない。
「自分が偉いとでも思ってるんでしょ?私のこと下に見てるくせに」
苦しい。
ただひたすらに苦しい。悔しい。
先の見えない真っ暗な迷路に迷い込んでいて
昔の私がそうだった。
泣いて泣いてひたすら恨んで妬んで。
ある日ふと考えた。
周りが誰も私のことを認めてくれないのに
ただ一人の味方を、自分で殺してどうするの?
今ここにいるのは、偶然だけじゃなくて
選んだ道の積み重ね。
大人なんだから、自分の意志はほとんど自分で決めてきたはずだ。
選んだ道は多くが失敗だったと認めよう。
でも私が私の味方にならなくて、一体他の誰がなるの?
そうやって少しずつ客観的に見られるようになって
だから、分かるんだ。
不幸をこじらせてる人の気持ちが。
そして、少し楽になる方法はあるって気付いてほしいんだ。
ところで、どうやって改行するのかな?
都内の大学卒業し就職して、大分経った。さえないので未だに独身だ。
ふと地元を見ると、昔、一緒にいたような連中が、みな幸せそうに見える。
結婚して子供も中学生くらい。家庭はなんというか、いわゆるマイルドヤンキーみたいな感じのようだ。
なかなか羨ましい。
しかしもう少し聞いてみると、幸せそうに見える連中が、目に見える形で地元に残っているだけで、
あんまり良い境遇じゃない人はやはり、住まいを移したり、地元にいてもあまり目立たないような暮らしぶりらしい。
たまたま帰省中に中学時代学級委員長だったクラスメートとコンビニの駐車場でバッタリ。
その大学の近くでIT関連企業に進んだが、激務に体を壊し退職。
きちんとしたクラス会はまだ先だけど、地元に残った連中に声をかけていて、
気が向かないけど、人柄のいい彼の気持ちもむげにできず出席を約束した。
チェーンの居酒屋に着くと、幹事の彼と自分以外に、女子3人、男子6人。
近況報告や、同級生の消息だのよもやま話だので、まあまあ盛り上がる。
女子は皆子供がいて、高校生を育ててる人もいた。三人とも落ち着きがあって、お母さんしてるし、素敵な感じも残ってる。
男子は地元高卒組4人が幹事をよそに仕切りたがり、幅を利かせたがる感じ。彼らはときおり連絡し合ってるという。
自分と幹事の委員長以外のその他二人の男子は、大卒の地方公務員。高卒組の仕切りになんとなく任せている。
そういえば、その高卒組は昔からよく群れて集まり、幅を利かせ、裏で密議し、
それでいて表立って責任をもったりはやらないし、できない連中だった。
酔いが回ると高卒四人組は、自分の低学歴を卑下し、大卒組をうらやみ、なぜか責め始める。
その話が進むにつれ、その内一人が仕事で大卒に負けてるわけじゃない、大学なんていかなくてよかったと言い始める。
女子が、でも自分の子が勉強出来たらうれしいでしょう、と言うと吠えてた高卒男子が、うん、塾に行かせてる、と可愛い。
人柄が悪いわけじゃないけど、高卒組の考えや世界の狭さを感じてしまった。
上方婚というやつか、女子は自分よりスペックの高い男を捕まえるのだろうか。
絵を描くのが好きだった。
技術がなくても、ついったーの反応が身内だけでも、イベントでどうじんしが10冊しか売れなくても、好きなものを好きだと表現することが好きだった。
以前からゲームのSSを加工したり小説を書いたりして自分の創作を表現していたけれど、やっぱり絵も描けるようになりたい、と思い立ったようだ。
二児の親であるその人は、その日から家事育児の隙間時間を見つけては絵の練習をし、描いたものを毎日必ず一枚以上はついったーにアップし続けた。
絵を学ぼうというその前向きな姿勢と日々少しずつ上達していく様に誰もが感動し、フォロワーも日に日に増えていき、本人もたくさんの人に見てもらい褒められるのが嬉しいようで、その日から絵を一枚も上げなかった日はなかった。
もちろんプロからすればまだまだだけど、描き始めてから今までの過程を見届けてきた自分も他のフォロワーさんも、その人の画力の向上ぶりには驚かされている。
ネットや書物でたくさんの技法を学びながら実践し、自分なりに昇華して、着実に表現する力を身につけている。
そして、どんな時も後ろ向きな発言をしない。
子供を叱ったりした日があっても、それがあったということだけをつぶやき、絶対に愚痴は零さない。
「嫌なことがあったけど、フォロワーさんの絵で癒された!」とつぶやいたりはするけれど、絶対に「何がどう辛い」みたいな話はしない。
うまく描けなくて落ち込むことがあっても、「楽しく描ければそれが一番!」と、絶対に自分を否定しない。
そんな人柄も他人を惹きつけて、今やプロの絵師とすら相互で繋がっているほど。
そして、それが日を追うごとに、嫉妬と劣等感と嫌悪感に変わっていった。
自分とその人との違いは明確だった。
「今すぐ上手くなりたい」か、「1年後にはきっと今より上手くなってるはず」。
何を描いてもすぐに気に入らなくなるし、どんな技法書を読んでも身につかなかった。そもそも勉強する気がなかったのだから当然だけど。
けれど、この人は最初から自分に技術がないことを認めているから、とても強い。
今は下手だけど、ずっと学んで描き続ければきっと上手くなると信じ、決して他人との差を卑下することなく、描くことそのものを楽しんでいる。
自分はそんな風には考えられない。
すぐに他人との差を卑下して、超えられない壁ばかりを見上げてはそこに留まっている。
そんな自分も嫌だった。
けれど、もっと嫌だったのは、どこまでも前向きで愚痴も零さずひたすら好きなことを表現しようとする姿勢で他人を惹きつける、その人。
私とは何もかもが正反対すぎて、いつしかつぶやきを読むだけでイライラするようになってしまった。
そしてある日、「公共の場だから愚痴を言わない」的なつぶやきを見て、ああ、やはりこの人とは生きている世界が違うのだ、と気付いた。
自分はリアルで他人に愚痴をこぼすことができない。物理的にそういう話ができる人間がいないのではなく、言えない。
数分熟考し、脳内で言葉のパズルを組み立ててから口にしないと、思ったことを話せない。
そうして出てきた言葉でも、相手が嫌な思いをするのではないかと考えると、口に出せない。だから言わない。
だからついったーで誰に言うでもなくぶちまけているだけで、別に誰かに拾ってほしいわけではない。そうでもしなければ精神が保てないのだ。
王様の耳はロバの耳的な感覚なので気が済んだらすぐ削除するし、差別的な表現は絶対に使わない。
その人にそういうことを否定する意図が一切ないのは知っているが、否定された気分にならなかったかといえば嘘になる。
私はついったーのアカウントを削除し、ぴくしぶのアカウントに上げたイラストも非公開にした。
もうすっかり自信が持てなくなってしまった。ペンを持つことも億劫になってしまった。
これ以上公共の場で荒れる自分を見られたくないし、その人には私のことなど気にせず楽しく絵を描き続けてほしいし、何より私がその人のことや絵を見ていたくなかった。
その人との関係に溝ができることは避けたかったので、その人だけをブロックすることはしなかった。
自分が消えれば(周囲にとっては)すべて解決するのだから、それでいいじゃないか。
そして1週間ほど経った今、ここでこれを書いているわけだが。
別に誰に共感されたいわけでもない。ただネットの片隅に書き留めておきたかった。
ショートカットで活発で誰にでも優しくて。
そんな生徒会長が好きだった。
俺みたいな人にも優しくしてくれた。明るく喋ってくれた。
好きになった。
でも告白はしなかった。
俺は生徒会長の様な人間とは絶対に付き合えないし、そもそも友達にすらなれないと分かっていたから。
これは卑下ではない。
昔と変わらず明るく輝いていた。子供の写真も見せてもらった。とてもかわいい。
私は心の奥底から彼女が幸せな人生を歩んでいることに幸せを感じた。
全く冴えない。
しかしそれは自分のせいなので、そのことで特に落ち込むことはしない。
溜息と一緒に満員電車に乗り、最寄り駅のスーパーでビールと半額の刺身を買って帰る。
そしてメイドインアビスを見る。
2、3話今日帰ったら見る!
「子供がいない理由は難病だからです」ってさ、難病患者の女性に対する偏見を高めるだけだからやめてくれる?
私もあなたと同年代(1983年生まれ)で、しかも同じ指定難病の患者ですけど、日常生活になんの問題もない軽症者が子供を産めないなんて聞いたことないですよ。
簡単に「難病だから子供産めない」なんて言わないでほしいです。
たとえば、膠原病で適齢期の女性で、催奇形性のある免疫抑制剤とか飲んでても、みんな主治医の先生や自分の病勢と相談しながら必死で妊娠出産子育てをしています。
なかには妊娠出産すると症状が悪化(フレア・アップ)する可能性があると言われてる病気もありますが、みんながみんな悪化するわけじゃないし、あくまでそういうリスクがあるというだけで、妊娠出産が禁忌なわけではないです。
大昔は妊娠出産が禁忌って言われてたこともあるようですが、増田さんと私は同年代なのでその可能性は低いでしょう。
今後は、子供を産まなかった理由に難病を持ち出すのはやめてくださいね。
あなたの書き方だと「難病=子供産めない=負け犬」と言わんばかりで、自己卑下のつもりなのかもしれないけど、同じ難病患者としては大変不愉快です。
今日、応援している声優さんがお誕生日を迎えられたので、初めてTwitterでリプを飛ばしてみた。
できるだけ目立たないよう、当たり障りのない言葉を選ぶのに一生懸命になっていたら30文字程度なのに10分もかかってしまった。
けど、送れた。緊張した。
沢山のリプが来ているから、きっと埋もれてしまうだろう。表示数の上限とかに引っかかって見れないかもしれない。
けど、それでいいと思う。
それでいい、という事にしたい。
私は、その声優さんに関してはライトなファンでいたいと考えているからだ。
私がその声優さんのファンになってから、まだ1年も経っていない。
中高生の頃はアニメをよく見ていたけれど、2次元は随分とご無沙汰だった。
ジャンルはぼかすが、お笑い・舞台・アイドル・バンドなどの「ステージを観に行く」系のものだと思ってほしい。
元々高校生の頃からそのジャンルのファンではあったのだが、大学生の頃にとある人に興味を持ち、その人を目当てに見に行く回数が増えていった。
Aの規模は決して大きくない。
「若手」とか「マイナー」とか「インディーズ」とか、そんな感じだと思ってほしい。
aさんと出会うまでは同じジャンルでももっと規模の大きなところに通っていた私は、Aでカルチャーショックを受けることになる。
距離の近さだ。
小さな会場だと、一番後ろでも表情がわかる。目が合う。
Twitterでリプを送ると反応が返ってくることがある。
そしてそういう事を繰り返していくうちに、相手に自分を覚えてもらえる。
自分の存在が相手に影響を与えているということがあんなに嬉しいとは知らなかった。
そして、そういった体験は私をどんどんaさんに夢中にさせていくことになった。
当時を振り返って、私がaさんという「沼」の深みにはまってしまった原因はなんだったんだろう?と最近考えることがあったのだけれど、決定打(致命傷というべきか)を与えたのは「チケット」かもしれない。
私は、チケットを取るのが上手かった。
なのでいつ買っても良いのだが、同じ席種のチケットでも優劣があるのは良く知られている事だと思う。
座席が決まっているものでも整理番号入場で自由席でも、基本的には先着順で良いチケットは無くなっていく。
そしてそれは運の要素ももちろんあるのだが、先着順で先頭になるテクニックというものが存在する。
決して特別なことではないのだが、私はそれをするのがどうも一般的な人よりは上手かったらしい。
Aの公演に通い始めてしばらくして、初めてチケットの発売日にチケ発をしたら最前列でみれるチケットが取れた。
本当に特別な事はしていないので驚くと共に、私は不安に襲われる。
どんなジャンルでもそうだと思うのだけれど、最前列は熱心なファン、「強火」なファンが多いものである。
そんなファンの中に、まだにわかな私が入っていっていいものなのだろうか。
いじわるをされたりしないだろうか。
遮るもののない視界。
手を伸ばせば届きそうな距離。
やっべちょうたのしい。
こうして私は、だんだんと公演を見に行く回数が増え、「前方で見ること」にこだわるようにもなっていったのだった。
それから1~2ヵ月経つ頃には、一般的に「追っかけ」というレベルになっていた。
公演には9割方行っていたし、その大半は前方数列以内で見ていた。
地方の公演にも行くようになった。
出待ちも毎回するようになった。
そうするうちに、aさんもAに所属する他の演者も私の事を覚えてくれて、お互い軽口を叩ける位の関係性になっていった。
そうなるともうやめられない。
結果として私は、1年間に70~80公演、イベントも含めると100回近く、それくらいのペースでaさんに会いに行くようになった。
どんなに時間や体力や懐が厳しくても、会いに行くことをやめられなかった。
1~3年目は大学生だったので、公演がない日は隙間なくバイトのシフトを入れ、単位を落とさない程度に授業に出ていた。
キャリーバッグを持ってバイトに行き、終わり次第夜行バスに乗って地方公演に行ったり、
地方公演に行った後空港で徹夜して、始発の飛行機で戻りそのまま大荷物で大学に行ったりとなかなかアグレッシブだったと思う。
しかし、結局就職先が決まらずにフリーターをしながら資格の勉強をする道を選ぶことになる。
名前が書ければ入れるような大学ではなかったことと、その年の就活事情が「氷河期よりひどい」と言われるレベルだったことを一応言い訳させてほしい……首都圏で大卒初任給額面15万(残業代出ない)の求人を蹴ったのは間違いではないと思うんだ……。勿論私が追っかけにかまけて就活を真面目にしていなかったことが一番の原因なのだけれど。
何となく察していらっしゃるかと思うが、フリーターになったことで追っかけはとてもしやすくなった。
よく働いた。そして給料は全てaさんのために。
2年後にようやく就職するまで、私は大学生の時以上に追っかけに精を出すことになってしまったのであった。
なお、資格は3ヶ月で諦めている。費用は全て自分持ちだったので勿体ないことをした。どうせならその費用を追っかけに使えばよかったと未だに思っている。
aさんの追っかけをしていたのは正味5年間くらいだと思うのだけれど、その内4年間くらいはずっと「強火」だったんじゃないだろうか。
さっき、「公演には9割方行っていたし、その大半は前方数列以内で見ていた。」と書いたが、前方数列以内では基本的に満足せず、最前列をいつも狙っていた。
理由は色々ある。
誰よりも近くで見たかったし、他のファンが目に入るのが嫌だった。
それに、最前列にいると「誰よりも近くにいる」という優越感も出てくる。
中にはAの他のファンと結託してチケットを取っている人たちもいたから、その戦争に打ち勝ち最前列を勝ち取るのは大変だったし、自力で良いチケットを取って最前列でみれたはいいものの、他のファンから嫌がらせを受けて楽しめなかったりもした。
それでも、私はaさんを近くでみたかったし、元来勝ち気で負けず嫌いな性格なので嫌がらせなんぞに屈する訳もない。
むしろ火がついてより一層チケット取りに力を入れることになる。
テクニックで取れる先着順のチケットも、万全を期すために代行業者に頼んだりした。
手売りのチケットで順番がランダムになっていた時は30枚、50枚、100枚と良席が出るまで買い続けた。(流石に毎回は出来ないが。)
余ったチケットは定価か定価以下で譲りに出していたけど、譲り先が決まらなくて手元に結局残ってしまったことも少なくない。
今でも実家を掃除するともぎられていないチケットの束が出てきたりするのはそのせいだ。
私が100枚買ってもチケットが完売しないような状態だったから、きっとAにとっては良いお客さんだったろう。
おかげでAの演者たちから、私はそれなりに気に入られていたと感じている。
まあ、客だから悪く扱われないのは当たり前なのだけれど、他の「強火」のファンの中には割と問題児もいたりしたので「相対的に」ということだと思ってもらえればいい。
その問題児についても沢山書きたいことがあるのだが(なんせ面白い話が沢山あるのだ)、長い話になるため、まだ本題にも辿り着けていない今回は自重したい。
「詐欺」と「下肢静脈瘤」と「亀によく似ている」いうキーワードだけ置いておくのでもし増田でいつかそんな記事を見かけたらその時は宜しくお願いします。
話を戻す。
私はaさんから、他のaさんファンと比較して1番良い扱いを受けていたと思う。
「相対的に見てまとも」
「他のファンと揉めない」
「毎回来てくれる」
「チケットを沢山買ってくれる」
これなら気に入られるのは当たり前なんだけれども。
当時の私も、その事は理解していた。
やめてしまえば、今の「特別扱い」は無くなるとわかっていたからである。
私はそのポジションを守るために必死だったから、やってみて評判が良かったことは続けるようになってしまった。
チケットは、もう良いチケットを確保していてもまだ沢山残っていたら追加で買った。
差し入れは、たまにaさんだけではなく他のAの人にもさり気なく配って他の演者達からの評価も下げないように気をつけた。
出待ちで自分が話す時間が無くなっても、他のaさんのファンの子を「話しに行っておいで」と送り出した。
全部、最初は打算なくやっていたこと。
たまたま、友人を誘う予定ができたから追加でチケットを買っただけ。
たまたま、お礼をしたいことがあったから他の人にも差し入れを渡しただけ。
私が他のaさんファンから嫌がらせを受けたことがあったから、私はaさんファンに優しくしてaさんファンを増やしたかっただけ。
でも、それに「ありがとう」と言われてしまうと、やめるのが怖くなり自分をどんどん追い詰めていくようになる。
それでも、自分が特別だと思っていたし、自分が好きでやっている事だから何も気にならなかった。
けれど、
例えば、自分がどうしても譲れないと思っていた公演で最前列を取れなかった時。
例えば、自分はされたことのないファンサービスを他の人にしているのを見た時。
例えば、相手の機嫌が悪くて冷たくされた時。
_______辛かった。苦しかった。しんどかった。
Aの、aさんの熱心なファンが増えていくほど、そういう事は増えていった。
違うか。
私が、そういう事を前より気にするようになってしまっただけだ。
(だってAの客は5年間で殆ど増えなかったんだもの)(新顔が増えるのと同じくらい前からのファンが離れていったから)
自分が強火になればなるほど、その火力は沢山の利益をもたらしたけど、それと同時に私の精神は焼け爛れていった。
幸いにも、5年間の間にAの他の演者のファンで、私と同じようなスタンスで応援している信頼できる仲間ができて、その子達と相談したり協力しあっていたから孤独ではなかった。
これが辛いと愚痴を零せば「わかる、私もね……」と話をしてくれ、お互い慰め合い励ましあって。
1人でないことがどれだけ心強かったことか!
けれど、aさんはAで一番人気で一番ファンに問題児が多くて一番気分屋だったから、他のみんなより私は苦労することが多かった。
事実はどうあれ、少なくとも私はそう思っていたので、その結果
「みんなはいいよね、私なんか……」
と思う事も一度や二度ではなかった。
その頃にはもう、お金を稼ぐ時間とaさんに会いに行く時間以外はなくなっていったし、稼いだお金はいくらつぎ込んでも足りなかったから、友人からの誘いも断ることばかり。
元々私は多趣味で他にやりたいことも沢山あったけどそんな余裕はどこにもなくて、私の世界はどんどん狭くなっていく。
そしてそうなればなるほど、「私にはaさんしかいない」という盲信は強くなる一方……
「舞台の上のaさんをこれからもずっと見ていたい、応援していたい」
そう思って走り始めたはずだった。
それだけならそんなに苦しい道では無かったかもしれない。
けれど、道の途中で美味しい果物を見つけてしまって、気が付けばそれを探さずにはいられなくなってしまった。
道端に落ちていたりたまたま貰えたりすることもあったけれど、いざ探し求めるとその果物は高い木の上や険しい崖の上にあった。
手の届く所にあるものだけでは我慢できなくて、傷だらけになりながらそれを取りに行った。
同じaさんのファンを妬み、仲間を羨み、時にaさん本人すら呪い、正解も終わりもない「特別扱い」を求めて自分を追い詰めていった。
そんな日々の終わりは、意外とあっけないもので。
他のファンに、私が取った最前列の一番いい場所を理不尽に横取りされたというだけのことだったんだけど、そこで「あ、もういいや」となってしまった。
普段ならそれくらいのことで折れたりめげたりしないのにあの日はなんだったんだろう。
まあ、そんなこんなで私は頑張るのをやめた訳です。
徐々に公演に行く回数も減らして、就職をすることにした。
完全にファンをやめた訳ではなかったけれど、頑張らないというだけでとても気持ちは楽になった。
そうなると公演ものんびりと楽しめるようになる。
どういう訳だか、頑張っていた時のような興奮と感動を味わうことはなくなってしまったのだけれど、穏やかな気持ちでaさんを見られることは悪くなかった、と思う。
特別扱いは無くなるだろうと思っていたけれど、意外なことにそんな事はなかった。
たまに公演に顔を出せばいつもファンサービスをくれたし、たまに話す機会があっても今まで通り。
「そんな事をしても、もう前のようには頑張らないよ」
と言ったことがある。
しかし、そんなつもりはないと返ってきた。
それも含めて営業かもしれないが、私の5年間は一応何かしらの成果を出したのかも知れなかった。
そんなこんなで数ヶ月が過ぎた頃、aさんは突然Aをやめた。そのジャンルからいなくなり、普通の人になった。
最後の公演を観に行くことはなんとなくしなかった。その必要はないと思った。
そういえばその時、aさん宛にメッセージを集めたいとaさんファンの子に言われたけれど、それは断ったのを覚えている。断った理由は忘れてしまったけれど。
こうして、私とaさんの5年間は終わった。
随分と長い昔話になってしまったが、最初の話に戻ろう。
去年、友人に勧められて見たアニメで好きになったキャラクターの声を担当していたのがその人だった。
その当時、中の人に興味がなかったので、本来であればそこで終わる話だったのかもしれない。
なのだが、そのアニメがきっかけで2次元に出戻り、色々なアニメを見たりアプリゲーをするようになって、その声優さんのキャラに惹かれることが多いことに気付いた。
あまりにもその人が声を当てている子ばかり好きになるものだから、その人の他の出演作を見てみたくなった。
その人本人にも興味が出た。
そんな感じでなんとなくその声優さんを気にかけるようになって、やがて
と思うようになる。
出演作を追えば追うほど、ラジオやなんかで人となりを知れば知るほど、その人を応援したい気持ちは増していって、
ついに自分がその声優さんのファンだと認めざるを得なくなった。
(そう、なんとここまで全て前置きなのである)
けれど、もう私はどんなジャンルであれ「強火」にはなりたくないのだ。
aさんを追いかけていた頃より歳をとってしまった今の私には、あの頃のような体力も行動力もない。
嫌な思いをしてもその人に会いに行くために全力を尽くすという気概もない。
更に、もし今その声優さんをあの頃の私の温度で追いかけようとした場合、時間も費用も体力もあの頃とは比べ物にならないだろう。
300人キャパの会場が埋まらなかったAと、売れっ子の若手声優さんでは色々な規模が違いすぎる。
イベントのチケットを取ろうとしたってあの頃のようにほいほい最前列が取れるわけもないし、そもそもチケット自体激戦で取れないことだってある。
リプを返してもらえたり、出待ちやなんかで直接話す機会が沢山あったaさんとは違うのだ。
この先その声優さんのファンをやってて、果たして直接話せる機会なんて来るんだろうか。
理解しているのだが。
では、どうやってファンをしたらいいのだろう。
ファンであると自覚してから、最初に興味を持ったのは声優イベントだった。
元々「見に行く」ジャンルにいたせいだろうか、直接本人が見れるイベントに行きたくてたまらなくなったのである。
正直悩んだ。
イベントに行く=ガチ勢、というような印象があったし、aさんを追いかけていた頃の悪い癖が出そうで嫌だった。
間違いなく、行けば深入りするきっかけになってしまいそうだと思った。
けれど、誘惑にはめっぽう弱い私なので、結局、とあるイベントに行ってしまった。
悩んだが、行ってよかったと思っている。後悔はしていない。
「うわーーー生きて動いて喋ってるーーーキャーー」
というクソみたいな感想しか出てこなかったが、実際に生で喋っているその人を見れて嬉しかったし、話し方や表情の動きを見ているだけで本当に楽しかった。
その人の服装、持ち物、連れと来ていればその関係性と会話の内容、
どの程度必死なファンなのか、人間性はどうか、マナー違反をしていないか、ファンサービスをされているか……など。
つまりは、
「あっ、今あの人わかりやすくファンサされた。最前列にいるし言動からして熱心なファンのようだし、もしかしたらあの声優さんから認知されている常連のファンなのかもしれない。やだなー、あの人さっき友達割り込ませてたじゃん、そんな人がファンサ受けるなんて……」
Aを見に行っていた当時は、
見ない顔があれば観察して、誰のファンなのか、aさんに認知されているのか、どの程度の頻度で来ているのか、最前列を狙うようなファンだろうか、迷惑行為をしたりするような人ではないだろうか……
と、毎回そんな感じで他のファンを観察していた。
観察する理由は色々だが、「知らない人がいるのが嫌」ということにまとめられる。
aさんのことはなんでも知りたくて、それは「どんなファンがいるか、そのファンにどんな対応をしているか」という点についても同様だったのである。
そして、観察対象と自分を比較して不安になったり安心したりするのが常であった。
その癖は対象がかわっても治らなかったようで、私はその日、他のファンを観察しては一喜一憂していた。
その声優さんのファン層やファンサの仕方を知りたい、という好奇心だけならよかった。
けれど、自分よりも熱心で、沢山その人に会いに行っていて、更に自分より前列で見ている相手がいると勝手に妬み、勝手に自分を卑下して、勝手に傷ついてしまう。
「好き」という感情を他人と比較することも自分の定規で他人のものまで測るのも、無意味で無様で失礼なことだ。
またマウンティングゴリラになってクソの役にも立たない優越感を味わいたいのかもしれない。マウンティングする力なんてもうないのに。
こういう気持ちを打ち明けられて、相談できる同じ趣味の仲間がいたら、と思う時がある。
けれど、同じ人のファンとは表面上の付き合いしかできる気がしないし、例えば違う声優さんのファンだったとしても、過去の私は違う人のファンにまで嫉妬をしてしまっている。
そもそも、こんな面倒臭くて考え方が危ない人間であることを受け入れてくれる人がどこにいるんだろう。
なので、声優ファンの友人を作るのがとても怖い。
先日、同じ声優さんのファンの方からTwitterで声をかけられ相互フォローになったが、とても窮屈な気持ちになっている。
私の不用意な発言でその人を傷つけてしまうかもしれない。嫌な思いをさせたくない。
私のこんな澱んだ感情は隠し通さねばならないと思い、息が詰まる。
もうひとつ厄介なのが、Aを追いかけていた頃に培った技術がどうもこのジャンルでも多少有用らしいこと。
最近は二回連続イベントで最前列を取ることができたし(これは指定席や抽選ではないやつ)、ちょっと取りにくいチケットも普通に取れた。
まあ、よくこんなものを捨てずに取っておいたもんだと、
黒歴史の出土品の発掘を楽しんでいたら
「偽善のススメ」
もともと俺が鼻炎持ちで授業中に大きな音で鼻をかんだのがキッカケだった。
「俺は〜」「俺なら〜」という話し方はしない。
相手のことをとにかく聞こう。
2.褒める。とにかく褒める。
すごいと、とにかく言おう。すごいと言われて嫌な奴はいない。
とにかくすごい。すごいと言おう。
話してきてくれた人には、全力で感謝するふりをしよう。
4.優しい人を演じよう。
誰かが物を落としたら、率先して拾う。
落ち込んでる人がいたら励ます。
女子にはとにかく優しく接する。重いものを持っていたら、持つなど。
6.絶対に好きにならない。
女子に優しくしても、決して惚れない。
万が一にも惚れられたら友達と言い続ける。
7.悪口を言わない。
悪口を誰かが言い始めたら、できるだけその場を離れる。
8.親友は作らない。
全員とそれなりに仲良くなる事を目指す。
情けない人間は好かれない。
自分がクラスで1番勉強ができれば、人を褒めた時に喜んでもらえる。
できない人から褒められても人は嬉しくない。
11.誘いは断らない
誘われたら、できるかぎり参加する。
数人参加することが見えたら、俺も行くよ。というような自然な感じで。
12.汚いに気をつける
鼻をかむ音、くちゃくちゃ食べる音。
鼻をほじったり、トイレで大きい方をしたり。
「汚い」行動はしない。どうしてもしないといけない時は隠れてする。
13.見た目に気をつける
汚物にならないように気を使う。
などなど。最後の「ススメ」は59番まであった。
俺は中1の春休みにこれを何回も読んで、泣いて、
新しい項目を書いてを繰り返していた。
もう二度とイジメられたくなかった。
半年もしないうちに気づけば人気者になり、上位グループに入っていた。
同時に学校にいる自分は「偽善の自分」ではないかと思い始めた。
光が濃くなればなるほど、闇は深くなる。
本当の自分が見えなくなり「偽善のススメ」にのっとられていく。
偽善を止める事はできなかった。
すっかり忘れていたが、たぶん今も偽善のススメをやっている。
今の俺は本当の俺なのか、偽善のススメを演じる俺なのか。
偽善のススメにしたがって生きること。