はてなキーワード: ガッチリとは
思ったより幸せなのでつらつら書いていく
自分ははっきり言って男運が悪い、というよりは今考えれば自分が好きなタイプの男の地雷率がめちゃくちゃ高かったんだなと思う
バツはついてないけど歴代彼氏全員に殴られたし、借金もされて未だに帰ってきてない金額は多分ウン十万ぐらいはある
この状況でいよいよ結婚しねえとなーって思ってた頃に5個上の先輩に身の上を相談したところこう言われた
「私もそうだったけどどうもうちらの好きになるタイプの人間は結婚したらダメなやつばっかりっぽいんだよね」
衝撃だった
実際、先輩の好みも私と似てて筋肉質でガッチリしてて身長高くて、サーフィンとかそういうのが好きそうな(あくまでもそうなで別にサーフィンが好きじゃなくてもよい)男で、そういうのと付き合って酷い目(バツイチ子持ち)にあって
最終的にそれでも許容してくれる先輩曰く冴えないおっさんと結婚して2人産んでそれなりに暮らしてる
そして元結婚相手や付き合ってた男の話になって、写真を見せたら
「誰か回り止めてくれる人いなかったの?多分普通の男の人がいたら絶対一旦止めると思うけどこの人」
と言われたそうだ
先輩の旦那曰く「こんなん危ないって一目でわかるじゃない」と
先輩もそんなこと初めて言われたらしく、人は見かけで判断できないじゃんと反論もしたみたいなんだけど
「実際それはそうだし自分も誇れる顔じゃないけど世の中には確率ってものがあるじゃない」
と言われて返す言葉がなくなったらしい
そして両親や旦那の回りの人間にも聞き込みしてどうも見えてる地雷を自分含めて皆で踏みにいってたっぽいことが判明して物凄く落ち込んだんだと
両親にも「お前の手前黙ってはいたが」という前置きで多分離婚するだろうなと思っていたと言われたそう
そんな話をしてくれた上で先輩から一度生理的嫌悪感を抱かないレベルで好みが真逆の人間と付き合ってみたら?と言われた
ならまあやってみるかと、色々探してとりあえずなんとかセックスできそうな男を捕まえた。
その人が今の旦那。
チビで結婚したときから頭薄い、姿勢悪いし趣味はパソコンでずっと何かやってる(今旦那を理解した上で思い返すと多分ネットゲームやってた)
香水の1つも持ってない服も私服買うのめんどいからってずっとワイシャツ着ててヨレヨレ(後から聞いたが仕事着がしょぼくなったら私服用に回していたらしい)
酒も飲まない煙草も吸わない
ぶっちゃけ相手が一切女慣れしてなかったから同棲までは一瞬だった、
最初は正直イライラした、声掛けないと向こうからなんも言ってこないし
ただでもまあ殴らないしトータルで考えると全然良くてずるずる同棲してそのままデキ婚
今に至る
とっちらかった文章になっちゃったけど結婚してからは旦那の論理的な考え方は凄い勉強になったしPCも教えてもらえたし
そのおかげで増田も見れるようになったしトータルで見て良い結婚だったのかなと思う
はっきり言って10年経過した今でも2週に1回はこいつつまんないなーと感じるけど結婚するにおいてつまるつまらないはあまり重要じゃないなというのを後輩や友達の結婚の失敗見て再認識してる
新米をいただいたので、
また粥にして頂こうかしらと思っていて私が以前研究熱心に研究するときは研究していたお粥研究のことを思い出したの。
どこにもメモしてなくて
なんたるちゃー!って思って過去の私の自分の過去の遠いそう言うほど遠くもない増田を探してみたら
そのベースの基本の分量とかが書いてあって、
メモだけにこれで揉めないわね!
1回ちゃんとしたレシィピをここに記しておくわ。
ここは水1ガロンとか65535合とかってボケたりするとあとでまた私自身が困るから
1回は真面目にレシィピ基本技を書いて記しておくことをここに表明し、
具や顆粒だしは何か好きな物を適当にそして適宜に加えたら良いので、
そこは細かく書かないところが私の良いところよ。
だってみんなにお粥レシィピのアレンジの伸び代を研究して欲しいじゃない!
と言うことで、
私は過去の私のお粥研究の基本ベースの研究であるレシィピを発掘したのよ。
レシィピは忘れてしまっていたけれど
そう!
「手軽さと簡単さと食べ応え強さ」ね!
早速私は思い出して発掘したお粥の基本レシィピをよそに
昨日は昨日で小鍋で作る秋の美味しい祭典!
そう!
お手軽小鍋で野菜鍋!
鶏肉に野菜をパンパンにお鍋に盛って火を通せばカサが減るから小鍋にしっかり収まる感じね。
それにお米1合にお水は適当にその時に残ったルーシーのスープの出汁で作る
雑炊とおじやの境界線って違いって何なのかしら?って私はよく分かっていないけれど
そっと普通に沸々ふつふつと煮るのが「雑炊」って聞いたような気がしないでもないような
槇原敬之さんのもう恋なんてしないよなんて絶対に言わないよ方式で
まあこの際どちらでもいいけど、
そう言ったもの
いわばそう言った類いのもの飯のシーメーの締めってところよね。
小鍋のお鍋の美味しいルーシーのスープの出汁で作ったお粥が最後玉子で閉じて仕上げて美味しくいただいたのよね。
さすがに1合だと量が多くなるから
いっぺんには食べられないぐらいが小鍋マックスさ加減を増しつつ、
半分だけ食べて今朝に残りいただいた
これまた完全に飯のシーメーがルーシーのスープをガッチリ吸って美味しさに磨きがかかる
そしてまた、
遭難したときに救助されて温かいものを!って提供されるときに毛布に包まりながら食べると言えば決まって温かいスープに決まっているやつ!
首から小鍋をぶら下げて熱々の鍋を持って行って遭難した人に食べさせるやつ!
あの太田プロの伝統芸能のほっぺに熱々のおでんとくっつけるやつのダチョウ倶楽部さんよりはるかに前にやっていた片岡鶴太郎さんの伝統芸能のやつはそれが元ネタらしいわよ。
へーなるほど!って思うほど
まあそんな捜索活動でセントバーナード犬が遭難者に温かいものを食べさせて元気付けさせるあの熱々の小鍋のお粥こそがアルプス粥の本場なのかも知れないわ。
そうなると
山の数え方を1山2山って言うんじゃなくて
1座2座って数えるぐらい
お相撲さんの力士の一山本力士が勝つごとにその場所で名前が変わる2勝したら二山本になる方式と一緒よね。
じゃあさ
ベテラン3人バンドグループのメンバーのジアルフィーの数え方は
ザとジと発音することの違いがあるってアル中の人が言っていたわ!
アル中って言ってもジアルフィーのファンの人たちの呼ばれ方だからアルコール中毒の方のアル中ではなく
魚民が居酒屋の魚民ではない方の魚民と一緒の方式みたいなのよね。
南アルプス市の中学校はみな略したらアル中!ってなるぐらい語弊があるわよね。
まあ私はそんな本場アルプス粥に思いを馳せながら食べる朝の美味しく仕上がった粥が美味しかったことにラッパーがだいたい感謝するものは両親なのと相場が決まっているのと同じぐらいお粥の美味しさに感謝する山脈に向かってヤッホー!って叫ぶのよ。
アルプス岳にね!
うふふ。
今日書いたその昨日の作って仕上がった小鍋の鍋の美味しいルーシのスープの出汁でキメたお粥よ!
パンパンに美味しいスープのルーシーを吸ったお米が美味しいわよ。
レンジの上に置いてあったのを出動させたわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
理事長経験者で、不動産管理業務経験者はこう考える のエントリを書いた増田だけど、ブコメでマンション管理士を初めて知ったという人が多く、実は不動産業界はいろいろな資格があるので、ちょっと紹介したい。
不動産の値段を見積もる「鑑定評価」を独占業務とする資格。不動産の売買をする際の基礎資料とする場合はもちろん、国や地方自治体が毎年やってる地価公示、地価調査(固定資産税の課税や土地収用などの金額の根拠となる)、裁判所の競売の際の鑑定評価などを請け負ったりする。
試験の難易度も非常に高く、不動産系の資格の中ではトップクラスのもの。
建物の設計だけでなく、(施工の)監理、調査、劣化診断、コンサルタントなど、建物にまつわる高度な技術を発揮する仕事をしている。
この試験も非常に難しく、資格専門学校でガッチリ勉強しないとまず取れない。
不動産(土地建物)の登記というのは、「表題部」と「権利部」に分かれている。「表題部」というのは、その土地建物がどこに所在していて、何平米あって、建物ならばどんな構造で、土地ならばどんな地目なのか、といったことが書かれている。「権利部」というのは、その土地を〇〇さんから××さんに売りましたとか、銀行に抵当権設定しましたなんてことが書いてある。
土地家屋調査士はこの「表題部」の専門家で、新しく建物を建てたときに、表題部登記を代行するなどの仕事をしている。実際に、土地家屋調査士と会うことが多いのは、隣地との境界画定の際。土地を売買するときは、その土地の隣地との境界をはっきりさせたいので、測量して隣地の人のハンコをもらって証拠を残すのが境界画定の仕事。
ちなみに「権利部」の専門家は、司法書士。だから、土地建物の売買のときに司法書士が出てきて権利部の登記を行う。
通称マン管。この資格の特徴は独占業務が無いこと。いわゆる名称独占。分譲マンションの管理組合に対してコンサルやるのが主な仕事。大規模修繕や規約改正、最近創設されたマンション適正評価管理制度の取得で頑張ってる人を見かける。
下記の管理業務主任者の試験に受かってると、試験の一部免除がある。
不動産の資格と言えばこれが一番有名。いわゆる宅建士。事業者(法人、個人事業主など)が役所に申請して宅建業の免許を受ける場合に、各事務所に5人に1人以上の割合で設置することが義務付けられている。
また、不動産の売買や賃貸の際の重要事項説明をする仕事が独占業務としてある。賃貸を借りたことのある人は、契約の際に資格者証を見せられて説明されたことがあるはず。
(公財)不動産流通推進センターが主催している資格。不動産流通推進センターは不動産屋の団体の総元締めみたいなところ。宅建士の上位資格みたいな位置づけで最近作られた。
不動産マイスターと同様に不動産流通推進センターが主催。これも、宅建士、一級建築士、土地家屋調査士の資格をすでに持っている人に向けて、より上位の能力を示すみたいな位置づけらしい。
一級があるなら二級がある。規模の小さい建物が設計できる資格。
通称セコカン。いわゆる現場監督の資格。建築士とともに建物を作る。土木、電気、解体など分野ごとに分かれている。
測量を独占業務とする資格。試験だけではなく、大学のカリキュラム+実務経験で取れる。
マンションの管理会社において、管理対象30件に対して1人以上の割合で設置する義務がある。また、管理組合との契約で重要事項説明をするなどの独占業務がある。
増田は持ってる人を見たことが無い。一軒家を建てられる程度の資格。
測量士の指示に従って測量の作業を行う資格。これも、大学や高専のカリキュラムだけで取れる。土地家屋調査士の試験一部免除目的に取ってもいい。
実は、宅建士は、不動産の取引に関わる資格で、管理の資格ではない。はっきり言えば、不動産屋が大家からアパートの管理を受託する仕事は、今まで全く法的規制の対象になっていなかった。
そこで、最近新たに法律が作られて、200戸以上の管理をしている事業者は、事務所に1人業務管理者を設置する義務を負うことになった。
自分のやった自分に何を齎してくれるかが見えてないと人はやる気になんてなれない。
そこに何の利益もないし、下手にキラキラして「いい1日だった。きっと社員も元気になっただろうし今度から毎月やろう」となったら大変だからだよ。
頑張った結果自分に不利益が返ってくるリスクがあると人間は頑張れなくなる。
仕事のやる気が一番なくなるのは徹夜して何とか滑り込ませた納期に対して「ダメ元だったけど間に合ってよかったです。次からもこの納期で行けそうですね」って言われること。
ジャニーは頑張れば頑張るほど知名度が伸びて若い子が入ってくるし、社内における自分の影響力が強まれば「黙って掘られてろよ」という圧はより強くなってレイプもしやすい。
頑張って働くことが、自分の人生に潤いをもたらすことに確信を持てれば、世界と自分が歯車でガッチリ噛み合って凄い力が出せる。
もしも「権力があるからって未成年レイプはアウトですよ。キスや握手も辞めた方がいいです」なんて言われたらジャニーはここまで結果は出せなかっただろう。
アイドル事務所は畳んでホストクラブかなんかの経営に力を注いだか、普通のオッサンとして枯れていったかのどっちかだと思う。
未成年をレイプすることに燃えるジャニーの執念がジャニーズをここまで大きくしたのなら、ジャニーズ事務所がレイプのことから逃げるのはやっぱ無理なんだよ。
不正会計をしていたことが会社を大きくしていたとか、政治家に裏金を握らせて工場誘致を無理やり成立させたことで会社が食えてたとか、そういうのと同じなんだ。
会社経営と切り離せない形で行われていた不正義に対しての始末は、やっていた人間が消えたら終わりではなく、会社全部で責任を取る必要がある。
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
③思いつきで設定を増やさない
④起承転結を「1~2話毎」「5~10話程度の一塊」「各章毎」「各キャラ1人ずつ」でそれぞれつける
漫画の作り方やコマ割りの仕方は真似っ子でも結構できちゃうけど、物語の構造そのものを作る技術が身についてないように思う。
まず意識して欲しいのは「この漫画がもし100話続くとしてどんな話にしたいのか」という道を最初に組み立てること。
「人権問題について扱うけど最初は軽めに段々重くしていく」とか「100話あってもシリアスなんて一回も挟まずひたすらナンセンスギャグで笑かし続けたる」とかの大筋が見えてくるだろう。
そしたら次はそのテーマの重さに合わせて世界観を作り込んでいく。
テーマが軽いのに世界観をみっちり作り込んでも読者はついていけないし、重たいテーマを扱っておきながらフニャフニャの設定を毎回書き足していくようでは読者が呆れて去っていく。
たとえばトマトイプーのリコピンなんかは100話も続いているけど未だにキュートピアが実際にどういうものなのか良くわからないし、設定が毎回好き放題に増えていくが、そのフニャフニャっぷりがあの漫画と噛み合っている。
もしもガッチリキッチリ杓子定規に設定を練り込まれてしまったら、読者の中からあの世界が持つ妙なリアリティの無さが失われてしまうだろう。
連載が長くなればギャグ漫画でもドンドン設定が増えてしまうが、そこで世界観を作り込みすぎ定期的にスクラップ・アンド・ビルドしていくのか、固まってきた設定に合わせてシリアスへと転換するのか、それを最初に決めておかないと途中で作品が空中分解してしまう。
最初に方針を決めておけば、序盤は読者から見れば何でもありの世界観に見せつつギャグをやり、中盤からは散りばめた設定を繋げていくことで世界にリアリティを持たせつつテーマをシリアスにしていくという流れもスムーズに行える。
まず100話連載できたらどうするのかを考えて欲しいと言ったが、実際には多くの漫画が20話程度で打ち切られてしまう。
そもそも「100話読み切れば面白いんです!」と言われても、相手がベテランだろうと読者はついていかない。
ひとまずは毎回ちゃんと盛り上げて欲しいし、山場の波は10話ぐらいの単位で用意して欲しい。
起承転結を作る時に、最も大きな塊、章ごとの塊、章を更に区切った塊、数話単位の塊と段階的にしていくのは絶対に必要だ。
そのためには物語の流れを作者がちゃんとコントロールする意識が必要になる。
「キャラクターが勝手に動いちゃいました」と大御所が口にすることはあるが、それでも大筋は決まった上でキャラクターの動きに逆らわないのであって、キャラクターの判断に全てを任せて鵜飼のように構えているわけではない。
場当たり的にならないように各物語をゴールから逆算しつつマイルストーンを決めて動かしていかなければいけない。
作者の脳内で作っている時はゴールが既に見えているので「最高のゴールに向かうための経過」としてどんなシーンも映ってしまうが、読者の側にその盛り上がり画は存在しないことを把握しよう。
物語をコントロールするに辺り気をつけなければいけないのは「設定を一度増やしたら戻せない」ということだ。
なぜそこを意識する必要があるかと言うと、「設定同士は相互に干渉しあうので慎重に配置しなければいけない」からである。
一度「このキャラクターには兄弟がいます」と設定したのにあとになってから「一人っ子でした」と設定を変更することは出来ない。
同じようなことをやっているように見える作品は、実際には作者の中で「一見兄弟がいるように見えるが、本当は一人っ子である」という設定が決まっていて、そこに合わせて読者にミスディレクションを仕掛けているのだ。
新人漫画家の作品は次々に設定を増やしてしまってから相互干渉に苦しめられ、無数の矛盾を解消しきれないまま勢いで誤魔化しきれずに作者が潰れてしまうパターンが多く見られる。
作品を作る時に最初に全部の設定を決めてしまうのは現実的ではないが、設定を増やす時に「これがあとになってから問題になることはないだろうか」と振り返る癖はつけた方がいい。
また、物語を描いていると絵やその後の繋がりばかり優先して「差別と黒人が大嫌いなキャラクター」のような単品で矛盾した設定が出てきてしまうこともある。
フィクションを作るということはどのようなデタラメでも描こうとしまえば描けてしまうため、その整合性は自分で取るという意識が必要だ。
先程の例でも「自分に客観性のないクズなので差別と黒人が大嫌いなキャラクター」という設定なら成立する。
漫画を描く上で重要なのは「読者が納得するかどうかが最優先」という意識だ。
読者が納得すればどんな設定も描写もセーフになるし、読者への説得力作りが足りなければ作者の自己満足で終わることも多々ある。
気をつけて欲しいのは「どんなに作品に好意的であっても、無理のある説明をすれば一発で読者は冷める」ということを忘れないことだ。
マジシャンは自分から種明かしをするまで自分には超能力があるのではないかと思わせられなければいけない。
計画外のタイミングで観客の魔法を解くことがないように最新の注意を払うのはエンタメの基本だ。
最近ジャンプラで新人に説教しても速攻でアンチ認定されて消されてしまう。
近頃は読者のメンタルも弱っているのか「僕の好きなものに文句をつけるなんてきっと悪い奴なんだ!」という感じですぐに癇癪をおこすようだ。
やれやれ。
そうやって甘やかしても漫画家は育たないぞ。
小さい頃から水泳を習ってたせいか、め〜〜〜〜っちゃくちゃいかり肩のガンダム女になってしまった。
せめて高身長だったらまだよかったが、150センチ未満のチビガリなのに肩幅だけはガッチリしてるもんだから服のサイズもM以上しかしっくりこない。常にサイズ感ダボダボで体のバランスもおかしいし何着てもシルエットがダサくてほんとにしんどい。
上半身と下半身でサイズが違うから別売りでないセットアップや袖ありタイプのワンピースとかが着れないのも派手につらい。
あとこの時期はお祭りが多くて浴衣も着たいのだけど、マッッッジで1ミリも似合わなくて笑える。胸は小さいのになー。くそー。
ときどき撫で肩の友人に羨ましいと伝えると「リュックやショルダーバッグが持てない」とか言われるけど、ぶっちゃけそれくらいしか撫で肩のデメリットなくね?
あー肩削りたい。女性らしい骨格になりたい。
狩り(食料調達)も育児もメスがやり、オスはメスにとって繁殖用に必要な単なる精子製造機といってよい。
しかもチンコの先から精子をぴゅぴゅっと出す以外役立たずの穀潰しなのだから、健康で頑強な1頭がいれば十分だ。
選ばれし種オスは一見ハーレムを築いているように見えるが、老いて力衰えれば若いオスにその場を奪われ、
これはニホンザルでも似たようなものであり、チンパンジーやボノボではもう少しオスがコミュニティに混じってくるが、
コミュニティの運営者はやはりメスで、オスは子育てに参加するでも、メスのために食料調達を担うわけでもない。
しかしそれでは、オスは常に精子奴隷の地位を争い合い、弱オスは子孫を残せぬまま独りで自分のために食料を探し、
食って糞して死んでいくだけだ。
だがそんな中で知恵のあるオスが、一人より二人、二人より三人で協力すれば生存確率が上がり、
屈強な1頭の種オスを倒して、精子奴隷の地位をシェアできると考えたのかもしれない。
しかしメスコミュニティにとって精子をチンコの先からぴゅぴゅっと出す以外脳のない穀潰しのオスは何匹もいらない。
そこで知恵のあるオスが、「姉さんたち、オレたちが狩りして食料調達してくるから、子育てに専念してくれていいぜ。
その代わり、これからもずっとオレたちに精子をぴゅぴゅっとさせてくれ。」と頼んでコミュニティに残ったのだろう。
そういった複数のオスたちによる共存共栄戦略がサルを人間へと進化させたと考えられないだろうか。
その結果、世界中の殆どの文明で、男が外で働き、女が家事や育児を担う性的分業が生まれたのだろう。
それはやがてコミュニティの運営者としての地位を女から男へと移行させ、男が支配する社会がスタンダードとなった。
人類社会はコミュニティの共栄のため、様々な支配体制やコミュニティの拡大を繰り返し、
その過程でいわゆる理系男子たちが道具や技術を発展させ、生活環境を改善、効率化させてきた。
特に近代以降、産業革命と資本主義経済により、技術進化と経済利益追求がガッチリと噛み合って、
社会は急速に発展した。当然家事の効率化も金になると判断した男たちは様々な家電機器を生み出し進化させた。
その結果、洗濯板でゴシゴシ体力と時間を浪費していた女たちはボタン一つで洗濯ができるようになり、
炊飯器、電子レンジ、ガスコンロで簡単調理、掃除もホウキとチリトリから掃除機やルンバに替わって時短され、
余った時間で男と同等の社会活動が可能となった。女性を解放したのは経済利益を追求した男たちなのだ。
また、こういった家事の効率化は、結果として男も仕事と両立して簡単にこなせるようにした。
もはや家事を男女で分業する必要性は全くなくなってしまったのである。
子育ても、もともと哺乳類としてはメスたちがコミュニティで担っており、母親一人でやらなければならないものじゃなかった。
現代人間社会では保育園や学校といったシステムで、社会が子育ての多くの部分を担うようになっている。
会社の産休・育休といった仕組みを工夫し、仕事を効率よくシェアできる環境作りをしていけば、
チンコの先から精子をピュピュっと出す以外役立たずの穀潰しだった精子奴隷のオスたちが、
生き残り戦略として知恵を使って共存共栄社会を築く人間へと進化し、メスが運営者のコミュニティから
男中心社会へと逆転させた。しかし更なる社会の効率化と技術進化、そして経済利益の追求によって
女たちを時間的拘束から解放し、再び社会の運営者として参入する道を開いたのである。
もはや男女の社会的平等は必然的結果で、繁殖活動は個々に納得する男女がつがいとなるのが当然の成り行きだ。
社会としては変わらず共存共栄のために、平等な男女が生きやすく子育てしやすいシステムと技術の進化に
知恵を絞ることになるのだろう。
元増田のように、今更女コミュニティを作って男を精子奴隷として争わせるのは、人類史を一からやり直すに等しく、効率が悪すぎる。
夫が痩せたい痩せたい言いながら太ることばっかしてる。(171cm80kgガッチリ体型)
私は165cm54kg。痩せてはない。
【追記】
週3くらいで家でHIITトレーニングまたはフィットボクシング20分+自重筋トレ10分程してるんだけど、やっぱ器具には敵わなくて。
バーベル使ったヒップスラストとスクワットしたくてジム行ってる感じ。
【追記終了】
私が週1回、移動時間含めたった2時間夫に子供(2歳と4歳)を見てもらって筋トレ行くのを阻止しようとする。
子供おいてくの?かわいそう、とか言って。
仕事終わって18時に家に帰ってくる。
妻の私が子供たちを21時に寝かしつける。
私が家事をする横でMO(ギャザリングのオンライン版)やってる。
朝は7時半に起きてる。
大体カードショップ行って大会出てる。その後スタバ行って期間限定フラペチーノ飲んで帰ってくる。
ここ3年くらい、仲良くなった人に私と夫が同い年だと言うと本気で驚かれるようになってきた。
嘘でしょ、どう見ても奥さん年下でしょ?と。
それが蓄積されてじわじわショックを受けているらしい。
いや診断済みか自称かってだいぶ違うので当たり前ですね
ワイは5chスレというかメンタル板が合わなかった理由は下記かなぁ
増田でも 発達=働けない もしくは 低所得 ってなりがちよな
『いや、別に平均以上取れるでしょ』に突っかかって来る自称発達の主婦ブクマカもいる
Twitterやメンタルヘルス板を見ても自分と同じくらい重たい症状の人見ないし
どう見ても自分よりも症状が軽そうなのに働けないとか言っていて『???』ってなるし、
(普通に平均以上は稼げる)
いや馴れ合いしてるだけやん・・・・でもこの極端な弱さも含めて精神疾患なのか?って思ってたら
ヤバ過ぎる家庭環境 や 1年くらい風呂入れないとかの激重いの見て、そういう重た過ぎる話がキツ過ぎて増田来たこと思い出したり、
あとこれかなぁ。考えなしで薬を飲む人が多すぎること。ワイは現在は服用していない。頓服はお守りで持ってるが
ワイなんか処方されそうな薬を事前に副作用とかガッチリ英語で調べたうえで医師にその場で質問するが?
何度でも繰り返すがどうして何も考えず薬を飲めるんだ?
メーカーによってここはかなり差がある。具体的な名前は出せないが、プラスチックパーツ類が弱いメーカー、ケーブル類が弱いメーカーなど、製品・メーカーによって個性がある。
ただ多くの場合、メーカーの保証は1年~5年。そして注目すべきは清掃業者による清掃時の破損保証は購入後10年のケースが多い。つまり10年以上経ったエアコンは、プロの清掃業者であっても壊すリスクがあるという事だ。以前、お掃除依頼のポータルサイトのエアコン清掃部門で優秀賞を受賞した業者に話をきいたが、10年以上のエアコンも当然丁寧に清掃するから壊すリスクは抑える努力はするが、それでも100件に1~2程度は「分解時に割れたかな」と思うケースや、既に破損しているのをクリーニング時に発見する事例は免れないそうだ。優秀な業者でもこうである事は覚えておくべきだろう。
特にプラスチック部品は経年劣化でどうしても壊れやすくなる。プラスチックの柔軟性が落ちて、少しの衝撃で割れてしまう。
なお、交換用パーツの在庫については各メーカー千差万別で在庫状況によるが、製造終了後5年を目安にすると良いだろう。特にパナソニックは大変長くサポートしており、20年前の商品でも交換用部品は未だに入手可能なケースがある。またフィルターや脱臭フィルターなどは中華製メーカーが互換品を出していたりする。
アルミフィンについては、交換用パーツはそこまで長く市場に出回らない。ただ、確かにアルミフィンは曲がりやすいが、ちょっとの折れ程度なら修復も簡単である。そもそも冷却用フィンは人が触れられる部分は表面だけである。少し歪んだ所で、冷却性能は落ちない。地震や火事などで全部がゴリゴリに曲がっているなら話は別だが。
分解させやすい=外れやすいとなるから、普段の使用時に外れない程度にしっかり固定しなきゃダメなんだけど大丈夫?
エアコンは前述の通り、お客様に安易に分解されたくない事を前提として設計されているが、実は分解可能で清掃しやすい構造に作ること自体は簡単である。
電気基板以外の部品はシンプルな構造のためだ。だが、触れられたくないのでガッチリとネジ止めされており、そのネジ位置も適度に隠されている。
だがまあ正直、DIY好きの人なら、今のエアコンでも清掃くらい簡単にできる。電動ドライバーと、高圧洗浄機は必要ではあるが。完全分解となると話は別だが、外装を取り外して表面上の汚れを洗い流す程度なら、難しくはない。むしろ難しいのは、水が飛び散る対策のための室内養生のほうが10倍くらいむずかしい。清掃のプロと素人で実力差がでるのは、養生だ。
エアコン清掃業自体が、ここ数年で爆発的に業者が新規参入している。なぜなら習得が容易だからだ。そのぐらいには、エアコンの分解清掃は今でも簡単である。
まとめると、現在のエアコンはメーカー視点では安全性の為に分解フレンドリーにはしたくない。よって分解フレンドリーに開発する余地・アイデアはあるといえる。でもDIY出来るくらいの人なら今でも簡単にバラして掃除できるくらいのモノではある。という微妙な状況が2023年の家庭用エアコンである。
でも世の中って結局はなんだかんだでプロレスみたいなものでは?と最近思い始めている。
いやガチ勝負の格闘技とかスポーツとかあるでしょ?とか言う人もいるかもしれないけど、
彼らがプロフェッショナルであるがゆえに素人には一切気づかれずに八百長している可能性だってあるのだ。
魔術師のまるでタネシカケがわからないマジックを観ているようなものだ。たとえ「絶対にタネシカケがある」と思っていても誰もそのタネシカケの内容がわからないわけだ。
たとえば、
・国会で与党と野党が論戦を繰り広げているけど、実際はすべてのことが前もって決まっていて国会は単なるショーなのではないか
・警察が反社会的勢力と対決していても、実際は反社会的勢力とガッチリ結びついていて、ある程度利益が巨悪に流れたところで下っ端が逮捕される「手打ち」を行っているのではないか
・学歴社会で受験戦争を勝ち抜き一流大学を出た方が人生成功する話をみんなが信じて乗っかっているだけで、実は学歴はカネ次第でどうにもなるのではないか
・大人気VTuberは人気が出てカネがあるからリスナーを買っているだけなのではないか
Zガンダム Ver.ka
今回どれだけ生産したんだろうってくらいみんなに行き届いていてパチ組みレビューをたくさん見ることができて嬉しい
作ってる人たちは模型ライターでもないしメーカー宣材写真でもない状態だからこう見たら意外とけっこうダサいなとかそう見ると構造がよくわかるなとか雑誌とかで見せる写真は嘘じゃ無いけどちゃんと見せたく無い部分を見せないように繊細にアングルとか決めてんだなってのがわかる
今回もブンドドするのはなかなか難しそうだな
ロック機構も各部にあるとのことだけど飛行体系のガッチリ度もけっこう微妙
素立ち(カトキ立ち)はさすがにかっこいいけどポーズつけるとやっぱり微妙
その前のZZ Ver.kaも変形後はプラプラでどうしようもなかったもんな