はてなキーワード: オリジナリティとは
要は当人にとってコンプレックスになってたり、無駄に追い打ちかけて笑ってるやつ。
当たり前のように存在してて、今も多少トーンは抑え気味だったりTPOをわきまえる風潮出てきたけど存在してる。
あれって、結局、優位に立つ、下には下が居るというのを共有するって感じで自尊心保つのとか、ストレス発散するのに最適なツールで笑いと繋がったのが最悪だったと思ってる。
他人に向けるか自分に向けるかで自虐ネタも似たようなジャンルだと思う。
小学校時代過ごした街は、元々畑だったのが駅が出来て、先祖代々住んでる土地持ちと、公営の団地の家族と、結構高いマンションやら畑つぶして立てた分譲住宅に移り住んできた家族とでごちゃ混ぜになってた。
当然のようにいじめもあったし、いじめとは違って、無視したりいじめ続けたりするほどではないけど、最底辺の友達としていじられたおしてるキャラも居た。
ヤンキーの元みたいな暴力的な奴もいたし、20人の男子が、上位集団(ポジティブでハイスペックなやつか明るい暴力的なやつ)、中位集団(人付き合いの上手いお坊ちゃまやスペックそこそこの中流家庭の子)、下位集団(それ以外の中でも友達付き合いが可能なレベルの人間、顔が不細工だったり、頭悪かったり、家が貧乏だったり、運動できなかったり色々問題は抱えてる)、ほとんど誰とも絡まないやつ数人、いじめられっこ、みたいに分かれてた。
上位中位はそれなりに仲良く、中位と下位も時には一緒に遊んだりするんだが、上位と下位となると明らかに接し方が変わってくる、お前らよりも上だってのを隠すつもりもない。
もちろん中位は下位をある程度は見下してるんだけど、まだ距離が近い分上位に対する時ほど卑屈にならずに済む。そう、小生は下位グループに属していた。
下位グループは今でいう陰キャっぽいやつらが、でも俺たちそれなりに楽しんでるんだぜって仲間内だけで支え合ってるツイッター民みたいなもんだから、そんで関西人だったから自然と、面白さが評価基準になっていく。下位の中でも上位をキープするために、上位や中位とうまく付き合うために。その他諸々の理由で。
そんときに、もっとも容易に笑いっぽいなにかを得られるのは、いじり、不謹慎ネタだった。不謹慎に関しては中学ぐらいから流行りだしたか。
さて、そもそもはいじりや不謹慎のお手本としてテレビでそういうお笑いをやってるのが悪く、どんどん排除されてってるが、じゃあその穴は誰が埋めてくれるんだろう。
今の小学生もお笑い好きだったりコロコロ読んだりはしてるだろうけど、小学生にとってオリジナルネタを開発するのはハードルが高い。
テレビのモノマネになってしまう。いじりや不謹慎の便利なところは学校の先生モノマネと一緒で、洗練されたフォーマットを身内で置き換えることでさも自分が作り出したネタとして披露できるところにある。
当時はそういう目の付け所、いじり要素を発見したり(モノマネでいう先生の口癖とか特徴的な動きとかか)、新たに街で発見したおかしなおじさん、地元にはまだまだ沢山出没しているが、そういう明らかに地域の大人たちからもはみ出している存在にあだ名をつけたりする能力を磨き合っていた。
いじりもはじめは容姿や能力から親の仕事とか家のにおいとか、まあ陰湿だし、なにも褒められたことではないのだけれども、新たな要素を発見しては飽きるまでいじるという行為。
完全無欠によろしくないことなんだけれど、そういった行為を通して、空気を読んだり、人との距離を測ったりという経験値も明らかに積まれてただろう。
そして、ネタが受け入れられたことや他者より優位に立ってるという思い込みを通じて、精神的な平穏を保っていられた。
勉強も運動もできず、家が裕福でなく、ルックスにも恵まれていない、でもクラスの一員としてはみ出さずに居場所を作るにはそういう能力が必須だった。
そしてそういう子供が成長した今、場末の飲み屋ではいまだにいじって笑いを取るおっさん、不謹慎ネタをぶっこむおっさんが多数生息している。
もちろん、社会に出て、限度をわきまえたり、相手を選んだり、笑いに変える(付き合いでのお愛想も含め)能力は多少成長している。
が、そもそもオリジナリティなど皆無で、他人のフォーマットをアレンジする以上の能力がないので、それ以外のネタとしてはせいぜい漫画のセリフを引用ぐらいしか引き出しは増えていない。
現時点でのおっさんは、それ以外の武器を持ち合わせていないのだ。
そして、それ以外のコミュニケーションで己の居場所を作ることができなくなっているのだ。
なんとか己の自尊心を見たそうと軽はずみな発言などしようものならマウンティングおじさんと呼ばれてしまう。
そして人をいじることしかできないおっさんや、不謹慎なネタを平気で口にするおっさんは若者から煙たがられるようになってしまった。
狭い範囲の観測で恐縮だが、50代以上は過度ないじり世代、それ以下は不謹慎ネタの比率が高いと思う。
年配にいじりが多いのは、年上なのをいいことに十数年、あるいはそれ以上の期間、いじりネタ一本で生きてきてしまった上の弊害でもあろう。
そして、今の40代はひょっとすると年下が増えて、いじりのダークサイドに堕ちてしまうのかもしれない。
あと30代は自虐が多い。
20代は引用ネタが多いような気がするし、そこそこ自虐も使う。もちろんそういう傾向が見えることもあるってだけで、きっぱり割り切れるものでもない。
とにかく、40代の小生からしても50代のいじりは見てて辛いものがあるし、なんなら年下から我々も同じように思われているのだろう。
時代が変わってしまったんだから、新しい能力を手に入れて適応すべきだが、今更困難だ。
それでも、いじりと不謹慎は排除すべきだとも思う。人を貶めることで結局自分に跳ね返ってくるからとか綺麗ごとを言いたいわけではない。
単に、それが時代に合わなくなり、取り残されたおっさんが集う呑み屋以外に居場所がなくなってしまうからだ。
もちろんこのまま同様の人種だけが集まってなれ合って終わりを迎えることも簡単だ。
10日発売の『文藝春秋』に芥川賞の選評が載っていて、二回連続で落選した古市さんがいろいろ言われている。
候補作は単行本で出版されているが、まだ読んでない。だが、高学歴なのにビルの窓の清掃員をやってる主人公の話で、参考文献が詳細にあげられているらしいことは、なぜか知っている。
参考文献については、前回だったか、候補作の剽窃問題があって、その辺の対策らしいと噂されていた。
で、選評である。
まず山田詠美はこう書く。“(参考文献の)木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。
そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい”
“候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る”
続いて川上弘美。“結論からいいます。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのまま「百の夜は跳ねて」の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです”
“古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持にかける行為であると、わたしは思います”
吉田修一。“本作に対して、盗作とはまた別種のいやらしさを感じた”
“あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う。”
堀江敏幸。“他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか”(原文では「かっぱいでも」に傍点あり)
要するに、古市さん、文芸誌に掲載されたが出版されていない佳作を探してきて、うまいこと翻案して小説書いたようである。
いや、具体的にどの程度の参考具合なのは確かめてないので、なんとも言えないが、当代きっての作家先生方が、かなり憤っておられるようなので、相当なものなんだろう。
是非比較して見たいところだが、「参考文献」の方は、『文学界』2012年10月号、だそうなので、確かめるには、図書館でバックナンバーを出してもらうしかなさそう。
にしても、古市さん、お忙しそうなのに、純文学の文芸誌まで必死にあさって「参考文献」集める努力は大したもんだが。
まあ「情報集め」は嫌いじゃなさそうだしな。
まさかとは思うが、担当編集者がうまいこと見繕って選んだのを古市さんに読ませてるとか、そういうことじゃないよね?
島田雅彦曰く“ナルシスト的私語りが中心で、リアリティ構築に必要な細部も情報のパッチワークに終始しているのが気になった。”
どうやら評価したのは奥泉光だけで、“今回自分が一番押したのは、古市憲寿氏の「百の夜は跳ねて」だったが、選考会の場で評価する声はほとんど聞かれず、大分弱った”そうである。
“外にあるさまざまな言葉をコラージュして小説を作る作者の方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた”そうだ。
ここには、小説における“オリジナリティ”とは何か?という問いが含まれている。
ま、小説なんてそもそも「すでにある言葉」の組み合わせでしか書けないじゃん、というのはある。
で、ありもののコラージュでも新しいものが生まれればいいけど、山田詠美は「参考文献」の方が「はるかに面白い」って言ってるしなあ。
吉田修一は、「参考文献問題」以外にも手厳しくて、“凡庸で差別的な価値観の主人公を小説で書いてもいいのだが、作者もまた同じような価値観なのではないかと思えるふしもあり、とすれば、作家としては致命的ではないだろうか”なんて言っちゃってる。
これは、社会学者にして人気コメンテーター(タレント?)としての活動にも少なからず影響しそうな評価だと思うけど、ま、芥川賞の選評なんて、今時の世間に影響力なんかないのかな?
古市さんという人、本をちょっと読んだことがあるのと、時おりメディアでお見かけするだけで、どんな人か詳しくは知らない。
ただ、妙に芥川賞を取りたがっているらしいという噂は聞く。
なんでだろ?
“気鋭の若手社会学者”も“テレビで毒舌が人気の論客”も、実に空虚で脆弱な肩書きで在ることに、ご本人が一番気づいているということだろうか?
そこで、「学者として研究に力を入れる」ではなく、「いい感じの小説を見つけてきて、うまいこと翻案して芥川賞ねらう」って辺りが、実に薄っぺらいけど。
テレビで知名度得た人が芥川賞狙うって図式では、又吉直樹といつ成功例がある。
あの「火花」という作品が、そこまで傑作かどうかはともかく、この人は本当に、太宰治を筆頭に、文学というものが大好きで、おそらく文学に救われたという経験を持っていて、文学をリスペクトしていることが端々から伝わってくる。
あんまり文学とか語ってるのを聞いたり読んだりした印象がないのだが。
前回の選評では、「ナルシシズムが過ぎる」とか「自己肯定というより自己過信」とか、これまたかなり厳しい言葉が並んでいたと記憶する。
単なる自分語りの舞台として小説を選んでいるのだとしたら、ずいぶん旧い、日本文学における「私小説」偏重な文学観をうすっぺらくなぞっただけかもしれないが。
なんだろうなあ?
社会学者もコメンテーターも、ありものの言葉を組み合わせつつ、持ち前の地頭とセンスと要領でなんとなく現在地位を掴めちまったっぽいだけに、「小説? これくらいなら、ボクでもかけるじゃん」とか思っちゃったんじゃないかなあ、という疑いを禁じ得ない。
【追記】
えらくブクマついてる。文藝春秋なんて読んでないけど、中身は気になるって人は多いのかなあ、と思ったり。
「参考文献」の著者、木村友祐さんがtwitterで発言されておられるので、追記しておく。
本件、「古市さんが窓拭きに興味をもち、取材依頼があり、応じました。窓拭きの達人を紹介しました。古市さんはその取材をもとに書いてます。」そうだ。
お詫びしたい。
なお、「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、〝知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家〟ではありません」とのこと。
にしても、選考委員の先生方は、どの程度経緯をご存じの上で選評を書かれたのかは分からないけれど、えらく憤っておられるようで、なにがそんなに山田、川上、吉田各氏に火を着けたのか、検証してみたくはある。
過去の類型やモチーフの上にオリジナリティがあるんじゃん、古の時代だって動物や自然にモチーフを見出して作品を作ってるわけ。
そこまでさかのぼってオリジナリティが無いって言うのであれば、キリスト教的な「全ては神によって創造され、人間の作る作品も神の作品である」って考え方と一緒。
今の物語のお約束とか基本構造はシェイクスピアの頃からあんまり変わらんし、どっかで見た筋、どっかで見たキャラ、どっかで見た劇伴とかになるのは仕方ないと思う。
でもドラゴンボールや進撃の巨人とかワンピースにオリジナリティが無いか?
オリジナリティに中指立ててってのが至言って言えちゃうのはどうなの。
魂こもったオリジナルにこそ価値があるよ、映画でもアニメでも一流のクリエイターはオリジナル作って、二流以下がリブートやら続編やら作ってるでしょ。
悪く言えば、あなたは充分「気持ち悪い」。だが、それは見方によっては称賛だ。ちょっと真似できないような奇妙な内実をもち、それに何の疑問も持たずにその通り振る舞い、20年以上生きてきた。いま、改めてそれが「異常だ」と名指され驚いている。その体験と事実は、充分にオリジナリティに溢れていて、特異だ。そして、自己の特異さ(つまり気持ち悪さ)に気付いているという意味で、あなたは充分ほかの人より一歩抜きん出ている。
そもそも私たちはみな大体において「気持ち悪い/特異な」存在だ。もしあなたの自己認識が「私は普通だ」であったとしても、何から何まで普通だとしたらそれ自体が充分「気持ち悪い/特異」なことだ。何かを目指し「たい」ならあなたは今後とも何かを目指す「べき」だ。なぜなら「それがあなた」であり、あなたの「したいコト」だからだ。「そこまで強烈に誰かを真似したい『というあなたのオブセッション/オリジナリティ』」をあなたが追究するのは、他の人が自己のあるべき姿を追い求めるのと全く同じだ。ただ、気をつけなくてはいけないのは、それが無条件で受け容れられることではないかもしれない=「気持ち悪い」ことである、という自己認識を失わないようにすることだ。バレたら破綻するような行為で自己を追究していると、常に破綻のリスクに怯えたり、今回のような破綻を引き起こしたりする。なんと危険なことか。あなたは、自己のもつその特異性を発揮できる仕事を目指すべきなのだ。
たとえば芸能人のマネージャー、宗教家の腹心、政治家秘書……etc。配下に対して自己を崇拝しコピーのように理解することを求めつつ、かつ「絶対に自分を追い越すことをしない」人材を求める世界は数多くある。あなたはそういう世界、存在に大きな適性をもっているわけだ。これは皮肉ではないよ。おめでとう。
「日本人の手で1から憲法を作る」ことが目的化してる界隈の空気には乗れないんだよね。
作ったのがアメリカだろうが日本だろうが、いいものはいいし悪いものは悪い。修正が必要なところだけ修正していけばいい。
「1から作る」ことが目的化しているから、変えなくていいと満場一致でみんな思ってるところまでわざわざアホみたいなオリジナリティを出そうとするんでしょ? この数十年で強固に解釈を定めた一語一句を「敢えて変える」ことが何を意味するのか、その重大さをまるで理解してない。「言ってることは大体同じだからいいじゃん。やっぱり日本人が1から考えた言葉じゃないとねw」程度の思いつきで法の支配をメチャクチャにされたらたまったもんじゃない。
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
ただただ面倒くさいオタク女の愚痴をめちゃくちゃ長々と書いてるだけ。
登場人物全員性格悪さが全面的に出てる回なので人の闇がしんどい人は読まないでね、疲れるだけだよ。
+++
TwitterやPixivには「こう言う設定の世界観でキャラや話を創作してね」って色んな人がそのルールに従って絵を書いたり小説を書いたりする「世界観共有企画」ってのがいっぱい存在すんのよ。
その内の1つの企画にフォロワーのDさんが参加してキャラを作ってたんだけど、私の知らないとある女がDのキャラとカップリング(以下CP)を組みたいって言ったらしいの。
企画内でお互い自分の考えたキャラでCPを組むことを「うちよそ」って言うんだけど、そういう色んな人が参加する企画ではうちよそ組むのが定番ムーブなのね。
でもDは「声をかけてきた女とうちよそを組むのは嫌だ」って言ってたんよ。
その時にそういった企画に興味がありつつなかなか機会がなくて触れることのなかった私が「え〜そんなん私がDの相手になる子作りたいわ〜」って言ったの。
Dの作ったキャラを可愛いと思っていたし、納得の行かないCP組まされるのも可愛そうだなって思ったから。
んじゃDも「作って!」って喜んで言ってくれたし私もルンルンでどんなビジュアルが良い?とかお話しながら決めたのね。
それで割と円満(だと私は思っていたけど今となっては分からん)にCP組んでお互いそのキャラの絵を描いたりしてた訳よ。
+++
ところで人間誰しも地雷というものがあって「どうしても受け入れられない」とか「理解に苦しむ」ってこと1つはあると思うんだけど、創作に対して私はそれがめちゃくちゃ多いんよ。
描いてもらった絵にそういったことがあったら素直に喜べないし社交辞令するか、それだけはやめて貰っていいですか、って言うしかなくなるんよな。
いわゆる「解釈違い」って奴。
それがDともちょこちょこ起こるようになって、でもまぁその都度修正していけばいいし、まだ始まって数週間、最初やからお互い手探りでこんな感じよなって思ってた。
私がめちゃくちゃ地雷原だから踏み抜かれたら嫌だし、相手にもそんな気持ちにさせたくないから「違うことあったら言って」って何回も言った。
描くときも下書き見せてオッケーもらってから描くようにしてた。
+++
そんな感じで色々描いてたんよね。
Dは毎回何かしら感想くれるけどそれの6割ぐらいが「〇〇みたい」って感想やねんよな。
それ褒めてる?みたいな。
最初に話し合いしながらキャラの名前決めるときもそうやったんやけど「『幸一郎』って名前にしよっかな〜」って言ったときのリアクションが「なんか議員にいてそう。選挙カーで『〇〇幸一郎をよろしくお願いいたします』みたいな」
は?
もうシンプルに「は?」やろ。
じゃぁやめる、って言って変えました。
いや何が気に食わんねんって思う人もいるかもしれんけど、何かを1から作り出すときに「〇〇に似てる」系は本当にご法度なんですよ。
言うた人にその気はなくても「パクリ」を指摘されてるかのように思えるし、私は「オリジナリティがないね(笑)」と言われてるのと同意だと思ってます。
みたいな話がキャラ作る時点であってだいぶモヤついてはいたけど「まぁこいつアホやし褒める言葉をあんましらんのやろな」と思うようにしたんです。
そして後日上げた絵にDのキャラのセリフに「〇〇じゃないの!?」って言葉を書いたんです。
それを見たDの反応が「オカマっぽい」
でして。
あ、これ気に食わんこと濁して伝えてるな。
と思って。
いやそんな細かい標準語知らんがな、とかオカマは「〇〇じゃないのよ!」って言うんじゃないのとかいっぱい考えたんですよ。
シワのないツンツルテンの脳みそフル稼働させて、職場のおばちゃんに「あんた眉間のシワどうしたんや」と言われながら。
まぁ考えたところで解決しなかったので本人に直接言いました。
「〇〇みたいっていうの止めてほしい」「Dが何が嫌やったか分からんかったしもっと『ここがこうで嫌やった』みたいに具体的に教えて」って。
いや面倒くさいなこの女!って今自分でも思った。
でもお互い納得して色々描きたかったんや…。
そこは反省してます、私1人が突っ走って楽しかっただけなんだろうなって。
誠に申し訳ございません。
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そんな感じでお互いにモヤモヤしてたんやと思う。
私も何か作りたいと思ってたから「じゃぁ缶バッジ作る」ってなったの。
元々Dと知り合ったのジャンルで、グッズ作成楽しいぞ〜ここの印刷所おすすめだぞ〜って教えたらドンハマりしたのよ。
んでグッズ作る人はよく分かるやろうけど、大体2パターンおるって私は考えてるんやけど。
「描いた絵が形になるのが楽しくてグッズ作るタイプ」と、「このグッズならではのものを作りたいんやってこだわるタイプ」の2パターン。
Dは完全に前者で、私は完全に後者。
まさに量をとるか質をとるか。
って言ったら「お前自分のこと可愛がりすぎやろ失せろブタ」って意見が聞こえてくるけど、流石に私かて一生懸命描いた絵にどうこう言ったりはせん。
ただDの場合丁寧に描こうとすればできる技量があるのにそれをしないで作るってのが相容れんかった。
でも別に作るんはうちそよ相手のDやし私が金出す訳でもないから「おぉええやん」って言ったの。
その何日後かに線画の絵も見せてもらって夏仕様で可愛くてアガってたの。
線画がもう少し綺麗だったらなぁとは思ったけど。
でもまぁそこは身内の贔屓目で見て「可愛い」って言ったよ。
多分そん時やったかな。
Dと仲良しのフォロワーにNがいるんだけど、その人が私とDのCPを描いてくれるって聞いて。
絵下手な人じゃなかったから素直に喜んだ。
その後「アクキーも作るって!」って聞いて「マジか」って言った。
この「マジか」は自CPがグッズ化する嬉しさと、私その人のことお前の話でしか聞いたことないんですけどっていう困惑の「マジか」。
過去に「Nと1回通話したいわ」って言ったことがあったんやけど、その時の返事が「多分無理だと思う(笑)」やってんけど今思い返してもマジで意味不やし、え?何?じゃぁ一生関わらないでいただけますこと?うちよそ描くってこっちに関わりあるんやが?ってなるやんそりゃ。
んでもDはNのこと大好きやしDのアクキーも線画の段階で見せてくれたし流石に私も監修すると思ってたの。
まぁしなかったんですけど。
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また別の日の通話で初っ端に「Nのアクキーの絵見る?届いたときに見たい?」って言われて。
もう入稿してんの?的な。
「今見たい」って言ってもらった絵が、まぁこれが、本当に、汚い言葉を使わせていただきますが
挙げ句「30分ぐらいで描いてた〜」とか「本人手直ししたがってるけど〜」とか「(私のキャラが)初期設定の絵と直近の絵と違うじゃんどっちが正しいんだよとか言ってた」って言われて。
っつーかじゃぁ描かなくていいーーーーーーーーわ!!!!!!!勝手に描いといて何だテメー!?!!???
ってすげー腹立って、Dも「機嫌悪い?」って言われたけど今思えばその質問もおかしくないか……。
君は仲の良い友達だろうけど赤の他人になんでそこまで言われなきゃならないんですかね…。
って感じですーっと冷めてって。
通話終わってから、この日に一緒にグッズの写真あげようねって決めた日から逆算して、明日に終わらせたらなんとか間に合うなって思ったんだけど、もうデザインは考えてたのにペンが動かなくなって。
Dの中でも私なりに頑張って描いた缶バッチより、私は頼んでもないし知らない人だけどNが私の文句言いながら30分で描いたアクキーの方がいいんだろうなって考えたらボロボロ泣いた。
四捨五入で三十路になる良い年した女がパソコン画面見ながらボロ泣き。
情けなくなって布団入って寝た。
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って寝れるわけない。
夜ほどいらんことボコボコ考えてもてもう心の中のポエマー大暴れ。
・フォロワーも何回かトラブってたけど創作マジで無神経な女多いね くっそ腹立つわ
・学がねえのはまだいいけど思考力は備え持ってくれや
・私が何日も考えて描いたやつと30分で描いたやつとか並ぶんでしょ?アホくさ
今見たら面白いぐらい荒んでんなこいつ。
とまぁそんな感じでツイートしてたら創作メインのフォロワーが反応して。
私が企画で腹立ててるのを「版権出身の女が創作界隈で苦しんでるなぁ」ぐらいの気持ちで楽しんでる女なんやけど、もはや見世物の私と貴族Aよ。
いつもは腹立てて暴れてるだけが今回は混乱状態に陥ってて「どうすれば?」ってなってることにちまっと反応してくれたので、上記のことを掻い摘んでダイレクトメッセージでAに相談しました。
「第三者のFA(ファンアート)が真っ先にグッズになるって理解で良い?理解したくないですけど」
ここでやっとこさ「やっぱおかしいんだ」って混乱が解けた。
し、もっかいついでに泣いた。
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タイトルにある通り私は初めてのうちそよで、Dは今まで何組かやってるし私が先輩に合わせなきゃな〜ぐらいの気持ちがどこかにあったのかもしれん。
あと文句言いまくってるから私も多少は我慢せなあかんってのはずっと思ってた。
前々から妥協せなうちよそなんて出来んってAにも言われてたし例え解釈違いを描かれてもいちいち文句言うてたらキリないしうざいやろからどうしても、ってとこだけにしてた。
そこで今回の赤の他人アクキー事件で第三者に「おかしいよ」って言ってもらえてほんまにスッキリしたし、嬉しかった。
「自創作はオナニーですけどうちよそはセックスに近いので急によその人間連れてこられて3P強要されても困惑しかない」ってAは言っててこの例え分かりやすいなぁって思った。
性癖なんて人それぞれだから3Pで興奮する人もいれば嫌悪感を抱く人もいる。
だからって嫌悪感を抱く人に3P強要しちゃ駄目だし、逆に興奮する人にわざわざそんなん無理!って言って良い理由もないわけだ。
どっちの立場にしろ相手の気持を蔑ろにしちゃ駄目なのは当たり前だけど。
だから私も妥協ができないなら最初から簡単に踏み入るべきじゃなかった。
最後にAは「お疲れ様 他人と関わる創作はしんどいこと多いけど それでも良い方向に行くこと祈ってるよ」と言ってくれたのでありがとうと感謝を告げて、明日の夜にまたDと話をしようと思った。
あと缶バッジは諦めてまた今度ゆっくり時間を設けてなにかグッズを作ろうと思い、Dにチャットで「缶バッチ間に合わんからつくるのやめるわ!」とだけ言って、Dに対するこれからの不安とAに対する感謝を胸に複雑な気持ちのままその日は寝落ちした。
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次の日の夕方ぐらいに、Aが理解を示してくれたのが多少の自信になって、語彙力0の女の感情を分かって欲しいと思って一連の流れをまとめるついでに、(Dと繋がってない垢で)ツイートした。
それ見ながら考えてDにチャットを送ったんよ。
「Dからしたら仲のいい絵のうまいフォロワーが自CP描いてくれた!って認識だろうけど
私からしたら相互でもないし通話もしたことない得体のしれないタダの他人なのにキャラシと違うとか30分で描いたってマウント取る割に線はみ出しまくってる上、手直ししたいとか言ってたって聞いたら「何様?」って感じじゃん、私からその人に頼んだわけでもないのにさ
めんどくせえとかくそとかDとかそっちが思うのは勝手だし実際私はめんどくせえ女だし
でも何に対して怒ってるとかわかんないなら取り敢えずごめんって言って終わらするんじゃなくて、(共感は無理でも)理解はしてほしかった
暗黙の了解とか常識とか見えないものを別れっていうのも難しい話だけどさ
め、面倒くさ……。
何この女めんどくっっさ。
割と落ち着いてつもりやったけど普通に面倒くさいなコイツ……。
でもまぁ取り敢えず返信待ちですよ。
その間に私より賢いフォロワーが、私が「あの〜…あれよ…」としか言えない気持ちをきちんと文字にしてくれた天才アンド最高のメッセージ見てほしい。
言葉を借りて私が書くよりそのまま載せた方が分かりやすいのでいくつか抜粋しました。
T「よそさまの子をアクキーにするのにそもそも30分なんかで描かないわ…自分の子でも友人の子でもないNの立場なら特に慎重になるべき。自分の子でも初期設定から変わるのは普通のことだしなぁ…。」
S「ツイーヨ読んだけどお疲れ……創作界隈よくわからんけど描きながら文句言うような人に自分のキャラ描いてほしくないね…(そしてそれを伝えるべきではない………)」
O「例のやつ読んだんだけど、二人とも相当やばいね…最後のメッセージ(上記のクソだるメッセージ)以降って返事きてる?もし謝られても何言われても今後関わんない方がいい気がするよ〜。基本が話通じない感じの人ってその時はそれなりに反省してるっぽい雰囲気出すけどす〜ぐ同じこと繰り返すから…」
みんなめっちゃ言うやん。
でも人の意見聞いてうんうんって納得してだいぶ気持ちの整理がついて、夜Twitter見た時に気付いた。
D!!垢消しやがった!!
おま…!それ一番の悪手…!
折角半分に曲がったけど持ち直しかけてた気持ちがそこで完全にポッキリ2つに折れて。
もうここで終わりやなって思った。
そりゃDiscordとかSkypeとか連絡手段はあるけどさ、そこまでして必死になって描き続けたいかって聞かれてもうんって、スッと言葉が出てこん。
チャットの返信は来てた。
「言われなきゃわかんなくてごめんね」
とだけ。
誰だってそうやろ。
私が言ってほしかったんはそうじゃない。
何も分からんのに謝って終わらそうとせんといてほしい、って文章も、多分Dは読んでないんやと思う。
読んでたら、そんな一文だけ返ってくることなかったはずやろ。
もうだいぶ嫌われてたんやなぁって感じた。
面倒くさくてごめんな。
他人にうちよそ描かれるのが嫌なわけじゃない、むしろめっちゃ嬉しい。
でも今回のグッズの件に関しては私の立場はどうなるんって、思ってもたんや。
Dもさ、多分サプライズのつもりでNのアクキーを用意してくれとったんやろとは思うねん。
でも私からしたら別にそんなことせんでも、Dのアクキーだけで十分やったんよ。
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うちそよで問題があってCP解消なんてのは日常茶飯事で、な〜に被害者ヅラぶっこいてんだそういうとこが面倒くせえんだよというご意見には完全に同意するんだけどこの日記はこんなことがあったんだよっていう呟きみたいなもんなので昼ドラ感覚で流し見してね。
CP解消したあとお気に入りだからと使いまわしたり、組んでいたCPの歴史を一切なかったことにしてまた新しいCPを組む人とかもいるんだけど、今回はDのキャラのために作ったっていうこともあって、Dのキャラを描くたびにDを思い出してしまう私じゃ、もう私のキャラを描くこともないと思う。
Dのキャラと一緒にいるところが好きだったし、DのキャラとだからCPが組めたキャラだった。
ウサクは渋いというか、俺たちから見るとビミョーなものをよく食べていた。
パッケージのデザインが一世代前みたいな、俺たちが第一印象で候補から外すような、子供ウケの悪い駄菓子だ。
「その『ミソッカス』って駄菓子、よく食えるな。明らかに不味そうじゃん」
「食べてみなくては分からん」
「なんで、そんなの食べるんだ? 好きなのか?」
「店に並んでいる以上、何らかの需要があるはずだ。企業の陰謀か、或いは食べた者を中毒にさせる成分が入っているのかもしれぬ」
「で、実際に口に入れてみて、『ミソッカス』はどうだった?」
「名は体をあらわすというが……まさにその通りらしい」
「というか、店のオバチャンに聞けば、売ってる理由が分かるんじゃないか?」
「むぅ、一理あるな。店主、つかぬことを伺うが、この『ミソッカス』はなぜ売っている?」
「……なるほど」
カン先輩は直情的だった。
「くそっ、ハズレや。なあオバチャン、当たりだけ抜いたりしてへんやろな?」
「そんなこと出切るわけないだろ」
とにかく「当たればもう一個は断然お得」という理由で、当たりつきの駄菓子をよく食べる。
一度だけ当たったことがあるらしく、その時の快感が忘れられないらしい。
また当たりが出るのではと、その菓子がそこまで好きでもないのに買い続けた。
「これもハズレ!?」
「ほんまに当たり入っとんのか?」
「あ、『当たりが出たのでもう一個』きた」
「あ~! タイナイ、お前なんやねん。ワイの方が買っとんのにぃ!」
カン先輩の熱中ぶりは凄まじく、特にタイナイが一発で当ててしまった時の拗ね方は酷かった。
「タイナイぃ! ワイの持ってる未開封のと、その“当たり”と書かれた蓋を交換や!」
「いや……というか意味ないだろ」
その日を境にカン先輩は当たりつきの菓子を買うことはなくなり、俺たちの間では“あの菓子”の名前を呼んではいけないほどタブーとなった。
カン先輩は刹那的な欲求に忠実なタイプだけど、それはこの頃から変わっていない。
そんな風に、俺たちは自由オヤツの時間を様々な工夫で楽しんだ。
「ミルせんにパチキャン、更にのびーるグミ! これで『パチグミサンド』の完成!」
複数の駄菓子を組み合わせて、新たな菓子を作るのも一時期流行った。
「着物ガムに、金チョコ、更におっちゃんイカを入れる! これぞワイの完全オリジナル『KKO団子』や!」
「確かにオリジナリティはありますけど、それ本当に食べるんですか?」
ただ食べ合わせは良くないことが多く、複数買った菓子を一つにまとめて食べると勿体無く感じてすぐに廃れたが。
「あ~……金チョコの甘味とおっちゃんイカの酸味が絡み合い、それを着物ガムが口の中で留め続ける……まあ、失敗に限りなく近い成功やな」
「それを成功とは呼ばないのでは?」