はてなキーワード: オリジナリティとは
今よりも若くてエネルギーに満ち溢れていた工学部に通う大学生のとき、かわいい女の子のイラストが描きたくて練習してた。
嘘、能書きばかり調べていて全然絵をかかなかった。ワコムのペンタブ買ったのに。
自分自身が思う最高のシチュエーションで最高のキャラクターを描きたいと思っていたんだけど、デッサンがクソ過ぎてダメだった。
当初の予定としては10年後、立派な趣味としてオカズの完全自給自足を目指していた。
結局絵を描くことは辞めてしまった。
いま、いろいろあって駆け出し研究者としてひっそりと生きている。
かつてイラストの能書きで学んだことが研究者としての論文書きにちょっと生きている。
研究室の学生に雑談として話すわけにもいかないので、ここに吐き出してメモしておく。
論文も同じ。とにかく書くこと。こんなの出したら恥ずかしいとか、まだ表に出せないと思っていたらネタが腐る。
あと、書くことにブランクを空けるとリハビリに3倍の時間がかかるので毎日少しでいいので続けるほうがいい。
書けば書くほど書きたくなるし、書けるようになるゾ。
論文もイラストも師匠と決めた人の作品を見ながら習作を作っていくといつも新たな発見がある。
こんなときはこんな言い回しするのか、とかふむふむなるほどと思いながら書くのが楽しくなる。
尊敬するお師匠様(指導教員ではない)の論文はときどき模写したりする。
この言い回しカッコいいな、惚れ惚れするな僕の論文でも使おうとなる。
論理が破綻して「文章のデッサン狂ってるな」というのが何となくわかってくる。
そして、文章の「アタリ」がうまく決まればさらさらと書いていくと破綻しない文章が書ける。
ごくまれに全国大会の1ページ論文を文頭の「はじめに」から初めて参考文献まで一気に書ききるときがあって、それがすごく快感。
プロのイラストレーターが眼からペンでいきなり描き始めてササッと迷いなく描き上げるってきっとこんな感じなんだろうなと思う。
論文ってアイデアは奇抜であってもよいけど、書き方は厳密に「アカデミックの文法」に従わないとトンデモなものになってしまうので、萌絵の文法に従ったイラストに似てるなと思う。
キャラクターって既存の記号の積み重ねだよね。そこに隠し味としてオリジナリティがあると光る。
イラストレーターにとってのイラスト、同人作家にとっての同人誌は研究者にとっての論文と同じなのかもしれないと思う。
Youtuber、ゲーム実況者、Vtuber、あとその他色々で
3人以上で何かする配信みたいなのが人気だ
何で人気かとか、バーターにすることで箱推しにしてもらう戦略だとか、そういうのは分かるんだけど
どうしても苦手だ
簡単に言えば疎外感を覚える
テレビ番組は絶対に視聴者を無視しない構成になってる、劇場型って言うんだろうか?
そこらへん非常にうまく作られている
これらも感情移入する登場人物が居るか、そもそも主眼となるものがゲームそのものだったりするので問題ない
大変多くのコンテンツが有る中で
唯一と言っていいくらい、3人以上のコラボ配信が視聴者を向いていない
予想なんだけど、この構成は腐女子が一番適正あると思う(自分が空気になりたいみたいに言ってる人)
もちろん男性でもこれらのコンテンツに適正がある人はそこそこ居るようだ
同時に自分みたいに苦手な人もいるのかもしれない
4人コラボ配信の方が1人コラボより視聴率低いみたいなことがたまに見られるので
俺の方が上手く書ける気がする、という思いつきでいきなりそこまで書いてしまった増田おそるべし。しかもすっごく評価されてるーーー眩しーーー!
眩しすぎて私浄化されて消えそう。
消える前に、私も今年は沢山小説を書いた(二次創作、オリジナル)ので、少ないけど知見を書いとこ。
なお、私が書いたのは今年前半期に女性オタクにとても流行ったアニメの二次創作と、ボーイズラブでオリジナルのSFもの(といってもあまり現実離れしていない日常系)
あんまりピンとこないと思うんだけど、少数精鋭超トップクラスの企業って
そういう人間関係って高校と大学でどれだけ明るく愛想よくしたか
信用できる友人を見極めてその人達に尽くしたか、助けてもらえたか
っていうのがそのまま出るから
任天堂のような企業(仲間と組んで頑張る場所)には余計呼ばれなくなるよ
あと縁というのもあるので
もしストレートで入れなくても任天堂に入りたいんだよね!っていいながら
自分にしかできないオリジナリティをもち、世界中の最新技術を必死に追って、周りの人に親切にしていると
任天堂に繋がりのある人が「こいつは情熱もあるし人としても信用できる」って紹介してくれる可能性がグンとあがる
「人に誇れる人生」の一環としてtwitterやinstagramをちゃんとやってるとさらに確率はあがる
コンセプトアートつくろうとか
キャラデザしてもらうとか
いわゆる「目立つ」「花形の」「1人だけでいい」「作品ごとに変えたい」ものって
あんまりピンとこないと思うんだけど、少数精鋭超トップクラスの企業って
そういう人間関係って高校と大学でどれだけ明るく愛想よくしたか
信用できる友人を見極めてその人達に尽くしたか、助けてもらえたか
っていうのがそのまま出るから
任天堂のような企業(仲間と組んで頑張る場所)には余計呼ばれなくなるよ
あと縁というのもあるので
もしストレートで入れなくても任天堂に入りたいんだよね!っていいながら
自分にしかできないオリジナリティをもち、世界中の最新技術を必死に追って、周りの人に親切にしていると
任天堂に繋がりのある人が「こいつは情熱もあるし人としても信用できる」って紹介してくれる可能性がグンとあがる
「人に誇れる人生」の一環としてtwitterやinstagramをちゃんとやってるとさらに確率はあがる
コンセプトアートつくろうとか
キャラデザしてもらうとか
いわゆる「目立つ」「花形の」「1人だけでいい」「作品ごとに変えたい」ものって
バチェラージャパンs3の冒頭にバチェラーが用意した、プロポーズのための指輪が出てきます
デザインはダイヤとルビーが向かい合わせになるデザインですが、これはルビーとダイヤのいいところをそれぞれ無視したデザインと考えます
どこが悪いかは以下の通り
・ダイヤモンドはもともと光の屈折率が高く、様々な方面から光が入りやすいデザインにする必要があるが、ダイヤの真下にルビーを配置しているため下から光が入りづらい
・ルビーなどのいわゆるカラーストーンは、色を楽しむのが醍醐味であるが、横からしか見えない+横から見た場合も石を留めるおおきな爪(石枠)が邪魔をしているのでルビーが見えづらい
・この2つの石を上下に留めたため、リングの厚さが極端に厚くなるので人によってはつけ心地を嫌う
素人目に見てもこれだけデメリットがあるので、プロが見たらもっと難点つけられるはず…
だから、きっとこのデザインを出したときに普通のデザイナーならかなり強く止めるはずだが、それでもこれがいいと将来のお嫁さんの好みなどを無視して自身のオリジナリティに心酔した指輪のオーダーを強行したのだろうと予測します。
イタリアンってのは、そもそもリストランテであっても、客を受け入れる、ある程度のカジュアルさがほしいよ。
そんなものを要求したからには、客を楽しませる絶対の自信がほしい。
お高くとまってそうな店では、ワインのセレクトをスタッフに任せてみる。
客をうならせるようなペアリングと説明が聞けなければ看板倒れだ。
そんな俺は、最近、スペインのガストロノミーが最先端をいっていると感じる。
驚くほど自由だ。そして美味い!考え抜かれて組み立てられた料理のはずが、なぜか味わう者の心を自由にしていく。
タパスとかピンチョスとか小皿料理のバル文化と溶け合う、あの食文化、面白い。
ワインの世界もだ。これまで勝ち得たステータスにあぐらをかいてしまって、先に進むことがなければ終わりだ。
スペインのみならず、南アフリカとか次々に素晴らしいワインが世に現れているなかで
コンビニ店に並んでるチリのテーブルワインの味が安っぽいかといえばそうでもないぞ。
イタリアンも、前菜→パスタ→メインみたいな既成概念、捨てちまえ。
純粋に客と向き合え。
シチリア、プーリア、サルデーニャ、ピエモンテなど。。特定の地域に思い入れのないレストランは面白みがない。
・分断>そっちこそ分断
など
(非対称、矮小化など)(もちろん一般的な語ではあるが、リベラルの側で格差を論じる時によく使われた表現だった)
これは、概念というものや中傷的なものを扱う知能がないというよりも、それに興味を持っていない、持つ必要がないからではないか。
すなわち彼らの目的はあくまで目の前の相手を打ち負かし人気を得ることであり、自分達や目的を表現しようということに興味がないのかもしれない。
ついでにもう一つ。
・察し、察する
・普通
・それこそ~と同じ
・~と一緒
・まだ~なんて言ってるのか
・知ってた、知ってる
このように、具体的なことに言及するのを避けながら、自分が上であるかのように振る舞うことが多い。
嫌いなら嫌いと言えばいいのだが、周りの空気感があたかも自分と同じであるのが当たり前かのような発言をするところに特徴がある。
あるいはソースを上げることもあるのだが、自分の経験など、第三者が確認しようもない伝聞にて強い結論を結び付けがちである。
恐らく人と違うのが怖い一方、誰かを貶めたい気持ちがあるのでそうなるのだと思う。
言い尽くされている事だが、彼らはなぜか朝日新聞などの信憑性は疑うが保守速報や痛いニュースは疑わず真面目にコメントしてたりする。
これはブクマで人気のように見えるブクマカにも見られる特性なので注意してみてみると面白いかも知れない。
余談だが「切り取り」という表現をよく使うのも似たような理由からではないか。
そう言っておけばソースの信憑性に疑いを付けられる一方、どこが切り取りなのかを証明する手間は省けるからだ。
とはいえこれは左右問わない話ではある