はてなキーワード: 描写とは
を見て買って、今日読み終えた。小並感を簡潔に述べる。ネタバレ注意
侵入鞘とかSWDとかの描写が良い。「これ映像化されたらどうなるんだろう」というワクワクがあった。(アニメ化されてるの知らんかった)
光学迷彩チックな装備とかSFではお馴染みなのかもしれないけど攻殻機動隊っぽいなという感じ
主人公の影が薄い。というか、葛藤の描写に興味が湧かなくてダルかった。それ以外はテンポ良く話が進んで読みやすかった
ウィリアムズの最期に納得がいっていない。どうせならコイツが内通者であって欲しかった。その方がスッキリするし。
肝心の「虐殺の文法」にどうにも説得力を感じられなくて、なんだかなぁと残念だった。
30代後半から、射精後に気持ち悪くなることが多くなって、今じゃ数時間は気だるい。
若い時はよくサックスレスの描写にある「疲れてるんだ」ってシーンが理解できなかった。
考えると、これは個人差があるのかも。
世界観が暗めの方が好きかも
◆好きな漫画
ベルセルク(世界観では一番好き。先生亡くなった時マジで落ち込んだ)
新九郎奔る(時代考証とかキャラ設定とかさすがベテランって感じで好き)
◆好きなゲーム
タクティクスオウガ(これのせいで民族紛争とか宗教とかの歴史に興味出た)
FFT(粗はあるけど「家畜に神などいない!」ってセリフに衝撃受けた)
今、興味あるのはサイバーパンク2077なんだけど買っても後悔しないかな?
【追記】
デーモンズソウル1(ストーリーあるの?これ・・・って思った)
スカイリム(序盤でピンと来なくて終了)
PS4版ゴッドオブウォー(世界観は好きなんだけど親子の会話がなんかいまいちなのと武器強化とかスキルとか多すぎて面倒に感じてしまった・・・)
SEKIRO(下手すぎ&死にすぎて無理)
ウィッチャー3(世界観はいいと思ったけど操作方法ムズ!ってなった)
Ghost of Tsushima(仁の人格を好きになれず・・・頭かて~なぁ!おい!ってなった)
書いた後自分でも考えてみたけど、好きなシーンがガッツとガンビーノのやり取りとかそれをキャスカに告白するシーン、アーサーが雨の到来と薬草探しながら自分の子供のこと話してるシーンとか
エドとアルがキメラになってしまった女の子に気づいたりその後も都度都度思い返すシーンとか、
クライブがジョシュアを殺した相手を探してたのに・・・みたいな主人公のトラウマ描写だったり、それを克服(昇華?)していくストーリーが好きなのかもしれん
『ズッコケ山賊修業中』の別れの部分と、『うわさのズッコケ株式会社』の商売の仕組みの説明だけ妙に覚えている
地味に街の地図の部分が好きだった
徒歩と自転車で行ける生活範囲から始まるリアリティが小学生には自分にも起こりえるかも感があったからだと思う
90年代後期はホラーブームがあり、児童書でも恐怖をあおるものが多かった中、
ホラーの怪物たる吸血鬼と友達になる展開に面食らった覚えがある
そのため、味付けや内容の異なる『花子さん」を小学生時代は過剰摂取していたと思う
子供向けホラー作品の中で、子供自身が怪奇現象と戦うのが目新しかった気がする
ぬ~べ~とか霊能力者の大人でなくても、呪符や巻物や数珠みたいなアイテムを使って小学生が怪奇現象に立ち向かえるんだ!と夢中になって読んだ
大学のときに、腐女子の先輩に「地獄堂霊界通信と言えばミッタンだろうが!」と言われ、子供に振り回される元ヤン警官に目をつけるとはこの人早熟だったんだろうなと思ったのを覚えている
■リング
車の移動図書館が小学校高学年ごろに地元ではじまり、今まで図書室になかったライトノベルや大人向け娯楽小説などに触れることとなった
何となく借りたら、精子を媒介として増殖する零体という概念が怖すぎて、2日間くらい寝れなかった
初めて触れたアンチヒーローでかつ、ファンタジー的な世界観のパロディ的な作品
これと魔法陣グルグルやドラゴンクエストの四コマ漫画などで、ファンタジーはパロデイして遊ぶものだと意識づけられすぎた
そのせいで、中学生のときに指輪物語を読んで、みんなこんな濃厚な世界観を知ったうえでパロディしていたんだと自分の無知に若干の反省をした
この作品の生でクールであればクールであるほど格好いいし、弱い能力であればあるほど格好いいと思うようになってしまった
ペパーミントの「大衆に売るためのコツはちょっとだけ不味く作ることだよ」みたいな台詞がいまだに印象に残っている
中学生のときに実家の近くに古本屋ができて、100円で買って読み漁った
怪奇現象や登場人物だけでなく、文章での細部描写自体が怖いことがあると知った
スタンド・バイ・ミーの死体に集まるカブトムシという描写が怖かった
当時としてはかなり珍しい、容姿の欠点とみなされがちな個性を美点としてとらえる自然で温かな描写のお陰で、思春期に容姿コンプをほぼ抱かなかったと言っても過言ではない
復刊は絵師選びに失敗して勿体なかった
中学生の頃から、はてな、なろう、Twitter、個人ブログ、note、某ゲームのファンサイトなどを渡り歩いて、エッセイからファンタジー小説に至るまで思いつく限りほとんどのジャンルの文章を書いてきた。主戦場を匿名はてなとXにして、小説を紡ぐことよりも自分の考えを言語化することのほうが増えたという違いはあるが、今でもこうして文章を書いている。
このような過去から察せられる通り、自分は文章を書くことが好きだ。ただ、好きかどうかと得意かどうかは別だというのは世の常で、好きではあるのだがいつも途中で投げ出してしまう。長編小説には幾度となくトライしてきたが、結局一本も書ききることはできなかった。短編小説やはてなダイアリーなどの比較的短い文章であっても、さらに言えば140文字制限があって小学生の作文用紙の半分以下しか書けないXの投稿であっても、ブラウザの戻るボタンを押して、途中まで書いた文章を、途中まで書いたという事実ごと消し飛ばしたことが多々ある。
最後まで書ききれないということに自分はある種のコンプレックスを感じる。「あいつ途中で辞めたな」とか思われたくないからやめるときはサービスのアカウントごと消すこともあるし、リアルでの知り合いにははじめから絶対に見せない。
このコンプレックスを解消するのはとても簡単で、ただ単にとりあえず最後まで書けばいいのである。こんな性分であっても、繰り返すようだが自分は文章を書くのが好きなので小説家になるための本みたいなのを読んで自分の本が八重洲ブックセンターの目立つ棚に置いてあるイメージを膨らませたりもしていた。その本を執筆したプロの小説家先生も「はじめはとにかく一作品書いてみよう」と仰っているのである。その本によれば、最後まで書くというのはストーリーの矛盾やほころびには完全に目を瞑り、書きたかったラストまでを勢いで書き通して「めでたしめでたし」で締めくくるということだった。文章を書いている中で一番迷い、投げ出したくなるポイントはストーリーの構成がしっかりしていて、論理的に妥当であるかどうかを黙考するところであるのでそれを無視していいのなら時間と道具さえあれば誰だってできる。
しかし、この誰にでもできそうなことが思ったようにできないのである。「難しいことはいったん無視していいよ」とどんなに高名な先生が仰ったところで、ほかならぬ自分自身がそれを許さないのである。とりあえず最後まで書く、ということが三日坊主の自己嫌悪を解く鍵であって、その上で作品を主観的、客観的に分析する初めの一歩であることは理解しているが、それよりも今目の前にあるプロットに悩むのである。
このような事実について考えてみたが、結局文章を書くということは必然的に苦しみを伴うのだと思う。小説を書く場合でも、自分の意見を表明する場合でも、脳内にある自分のアイデアはパソコンのディスプレイ上に映っているときにはすでに元の形を残していない。言語化ができなくて自分の脳内と外の世界の間にある壁を越えられないアイデアがあるし、脳内からうまく取り出した言葉の塊を読むに堪える文章にするためにつなぎが必要になる。要するに、自分の脳内にあるものと自分が書いたものの間には共通項もあるが、脳内にしかないもの、書いたものにしかないものも無視できない量存在するのだ。しかも、文章化には自分が現時点でもっているありあわせの知識しか使えない。ところで『もしもピアノが弾けたなら』という西田敏行の名曲があるが、この曲の中では「もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にしてきみに伝えることだろう」から「だけどぼくにはピアノがない きみと夢みることもない」と続く。文章を書くのも同様で伝えたい思いがあっても、それを媒介する道具がなければ伝えることができない。それは当然の事実ではあるがとても辛いことである。ありあわせの知識、というのは青を表すのに群青、藍、瑠璃色、スカイブルーなどがあるみたいな表現するための単語としての知識だけでなく、物語に転機が訪れるのを天気の移り変わりに描写する、賛否両論あることについて自分の意見を述べるときにはたしかに~と言われているが私は~と思うという議論の流れにする、みたいな文章の書き方の知識も含まれる。
そうすると言いたいことを言語化するとその瞬間、自分がもともと言いたかったことと一般常識が混濁するのだ。言語化するまでは、よしこれを文章にしてみんなに教えてあげよう、と思っていることが明確な仕切りをもって脳内にあるが、文章にする段階でありあわせの知識という不純物が入り、ボーダーラインが薄れていく。これは辛いことであるだけでなく、不気味なことでもある。自分の言いたいことを言っていたはずが、自分は普段そんなこと考えないけど、知ってはいるような言葉が混ざっている。自分の書いた文章を読むと離人症のような恐怖に襲われる。この恐怖を避ける方法は3つしかない。1つ目は自分が書いたものを100%他人のものであると断じてしまうことである。中学生の頃の日記が掘り起こされたときに、「あれは黒歴史だ。」と言うのは暗に今の自分はそんなこと考えないし、そんなこと言わないと表明しているのであり、過去の自分と現在の自分の間を壁で分断することで自己防衛を試みている。2つ目は繰り返し考えていた自分の文章をまるごと消すという方法である。つい最近書いたものを見て、あれを書いたころの自分と今の自分は違う、と断言するのは無理があるので怖いものを見えなくするのは当然の反応だ。文章を途中で投げ出さないためには一番手っ取り早い恐怖の取り除き方を乗り越えて恐怖と向き合う必要がある。そのうえで自分自身と目の前の文章の間に壁を作らない方法で折り合う必要がある。つまり、3つ目の方法は文章を100%自分のものにすることである。もちろん、自分が書いた文章とにらめっこするだけでは、ただ嫌気がさしてさらなる自己嫌悪に陥るだけであるし、バックスペースを押してすべてを無に帰すまでの時間を延ばすに過ぎない。まず自分が書いた文章を読んだときに感じる恥ずかしさやもどかしさを我慢する必要がある。そのうえで文章を丁寧に精査して、自分の意見と異なるものに関して、別のありあわせの知識と置き換えるか、反芻することによって自分の意見の中に吸収する。それを繰り返していくことでいつか自分の脳内と文章が一致する。
根本的に言葉というのは他者と、お互いの内面を交換するためのメディアであるから自分の意見が初めから脳内に整然とした文章で存在していることはあり得ない。そう考えると文章化というのはなにか義務のような行いで、自分の意見は言語化せずに完全な状態のまま保っておくのが良いように感じるが、恐怖に向き合って自分の考えを文章にすることに意義はあると思う。先ほど文章を100%自分のものにする方法の最後で、自分の意見と異なるものを反芻して吸収すると言った。これによって自分の意見を言語化するあいだに自分の意見をより大きくすることができるのだ。だから文章を書くことは苦しいが、何度失敗してもやめられないのだろう。
数年前、美大を卒業していることもあり興味を持って一巻だけ読んだ。
しかし結果的に私の美大藝大コンプレックスがうずうずしてしまい、それ以上読み進みたいと思えなかった。
私は幼少期から絵を描くことが好きだった。
最初はテストプリントの裏に落書き、少女漫画に出てくる女の子の絵をよく描いていて漫画家になりたいと思っていた。
中学に入ってからは雑誌に載っている海外の景色を絵の具を使って模写するのが好きで休みの日は部屋にこもって絵を描いていた。
高校は美術科に進学したいと考えていたが美術教師の勧めで普通科の高校に進学した。
高校時代はひたすらボケーっと過ごし、絵も授業以外ではあんまり描いていなかった。
美術の授業の自由制作では何をつくりたいかわからず何週間も悩んだ末に、紙粘土をただ丸めたものを出したのを覚えている。
あっという間に大学受験の時期になった。
高校では全く勉強をしない人間になっていたため今更勉強はしたくない、でも大学には行きたい。
絵を描くのが好きだったし、進学後も興味を持って勉強できるなら美術かな?ということで高3の5月くらいに予備校に行き始めた。
木炭を使うのは初めてだし、美術の授業以外でデッサンをするのも初めてだったので全然描けなかった。
そこからデッサンや油絵、クロッキーをひたすらこなしたが…藝大、多摩美、武蔵美全て落ち、浪人した。
浪人時代は都内大手の予備校に変えて、楽しい浪人時代を過ごした。
ひたすら課題に向かうだけの毎日、気の合うクラスメイト、たまに息抜きに都会の街に繰り出す。そんなの楽しいに決まってる。
当時の私は今思えば、自分の表現したいものがよくわかっておらず、おもろい(と自分が思う)絵、ショッキングな絵をひたすら描いていた。
それでも人生の中で初めてレベルで悔しくて、藝大の二次試験前なのに講師にお願いして多摩美に入学するか、浪人してまた芸大を受けるか涙を堪えながら相談しに行った。
多摩美に入学して新たな出会いや刺激を受けて、また藝大を受験してもいいのでは、という助言で多摩美に入学することに決めた。
私はなんとなく予備校時代と同じようにおもろいと思う絵を描いたと思う。
講評会でみんなの作品と自分の作品を見比べたとき、私の絵は全然おもろくなかった。
気付いてしまった。私は自分自身が何を表現したいのか、わからなかったのだ。
大学1年生の時にもう一回だけ藝大を受験したがやはり一次にすら通らなかった。
講評会前に慌てて制作を始めて、中途半端な出来のものを提出。自分でも思い入れが一切ないインスタントな作品。
だって自分が表現したいものがわからない、つくりたい・描きたいものが何かわからないから。
かといってサークルを熱心にやるわけでもなく、友達も少なく、ただ単位を取るためだけに大学に行ってひたすらバイト。
そんな自分が就活などうまくいくはずもなく、なんとか卒業してその後フリーター。
最終的に就職はできたが、卒業してから時間が経つにつれて後悔が押し寄せるようになった。
「美大ってことは絵が上手いんでしょ?私は全然絵とか描けなくて〜」
「才能があるんだね!」
初めて会った人からそう言われるたびに、「美大卒」という肩書きだけで実力も美術への熱意も伴っていない自分を恥じた。
せっかく親にお金を払ってもらったのに、受験に受かったのに、私は自分の表現したいことがわからなかった。
描写力を上げる努力もできない、制作に熱中して、思い入れのある作品を生み出すこともできない。
卒業後も制作を続ける人たちをSNSで見て、私はなんでみんなみたいにすごい作品を作れないんだろうといつも虚しい気持ちになる。
絵を描くのが好きだったはずなのに、本当に絵を描くことが好きなら仕事以外の時間に描けばいいのに。
結局「絵を描く才能」なんていうものはなくて、「何か一つのことを継続する才能」のある人たちなんじゃないかと私は思う。
私は絵を描くことは好きだが、努力して継続することはできなかった。
だから「ブルーピリオド」の中で制作にひたむきに向かう登場人物を見て、自分はこうなれなかったということを改めて実感して苦しくなってしまうのだと思う。
私は現在、転職して小さな会社で絵を描いたりデザインしたりする仕事をしている。
お金をもらっているから一生懸命やらなきゃいけないし、与えられた条件の中でどう表現するかを考えなきゃいけない。
私にはきっと、自由が向いてなかったのだ。
その事に気付いてから少しだけ楽になった。
私はブルーピリオドにもハチミツとクローバーにも登場するような人物ではなく、凡人だ。
凡な自分を受け入れ、大学時代に何もできなかった分、少しでも学んだことを生かしてお金を稼ぐ。
人から、すごいね、良いねと言われるような仕事を頑張っていくしかない。
いくら後悔しても、もう大学時代のように自由な時間は戻ってこない。
大人になってから押し寄せる後悔に対しては、今の自分を受け入れ、今までの自分の行いをどう正解にしていくか、辻褄を合わせていくしかないのだと思う。
元増田の意見について、フィクションだからとかいうのはいいんだけどさ。
ブクマの中で当時は普通だったからって反応があるんだけど、それは指摘としてむしろおかしいよ。
再婚における子供の鬱屈なんて、むしろ昔の方がよくある話でさ。
ぐれた理由や家出した理由、早く家を出たかった理由は再婚でしたなんて、当時の現実においても、フィクションにおいてもよくある話だったよ。
あんなの現代から見た、あの当時の先進的な風を装った描写そのものだよ。
それがよくないって話じゃない。むしろいいよと思っているけど、あれがご都合的なのはドラマとしても今の価値観からしても、当然すぎるほどの指摘なんだよ。
同様に、合法国で経験したことがある。このエントリの描写の正確さと丁寧さは、本当に驚き。よくここまで言語化できるなと。日本では非合法だから、当然ながら大麻体験に関する日本語での情報はかなり限られている。「キマる」「ぶりぶり」とかそういう粗い形容が関の山。自分の体験が、他者の体験と同じなのか違うのか比較したいと思い、英語で調べてみるとそれなり出てくる。しかし、日本語に比べたら解像度はどうしても格段に下がる。そんなときにこのエントリを見つけて膝を打った。筆者の言語化能力に、ただひたすら嫉妬と感嘆です。いつかどこかで会えたら話してみたい。「マトモな議論」がもっと世の中で活発に交わされるようになればいいですね。
主と妻の論点が異なってるし、どっちもそこそこ正当なことを言ってるから、主と妻がお互いどの領域でなにを言いたいのか冷静に整理しないと先に進めなさそう
妻の主張
①息子がチー牛かもしれん
②子育てのやり方を見直すべきでは?
主の主張
①(嫁に対して)チー牛とかいう差別的ネットスラングを(特に家族に)使う人間になるな。
②息子がチー牛の特徴に当てはまっていたとして、それのなにが悪い?
って感じで、議題が噛み合ってる箇所が②しかないし、
その②も簡単に論じれるような話題じゃないから、もっと慎重に論点を切り分けながら個別に意見のすり合わせをしていく必要があると思う
以下それぞれに対する俺の感想
まず主①の主張、これは賛同できる
チー牛とかいうかなり差別的なネットスラングをあろうことが子どもに対して向ける妻の精神性はかなり「それはやばくないか?」と思わざるを得ない
そして妻①の主張、「息子がチー牛かも?」これはまあ判断できる要素が書かれてないからなんとも言えないが、主が否定してる描写も無いしそこそこ当てはまっているのでは?と感じた
で、主妻それぞれの②の主張、まとめると
「チー牛っぽい特徴を持っているかもしれない息子に対して今後どうアプローチするべきか?」に対しては、
「息子がチー牛でなにが悪い?」という主の意見はわかる、わかりはするんだが、
一旦冷静になって、「悪い」のニュアンスを分けて考えるべきだと思う
チー牛っぽい特徴を持っていることは人格的に、もしくは社会的に、「悪」なのか?というと、これはもちろんそんなわけがない。そういう意味で、主の意見通り「息子がチー牛なのはなにも悪くない」。善悪の概念では、悪ではない。
が、チー牛っぽい特徴を持っていることが、今後何か不利益に働くか?と言われると、これは「だいぶ不利益に働く」と言わざるを得ない。良不良の意味では、不良。
そういう意味で、「なにか対策を打つべきなのでは?」という妻側の意見の方に賛同する。
そうだな、「学歴差別は不当」と「低学歴は苦労する」は両立するのに似てるな。
主は「生理的に無理」とか「キモい」とかそういう言葉を即物的だと言って一笑に付してるけど、
人間は理屈や正しさよりもかなり感情や第一印象や先入観で動きがちで、なんならたとえ理性的であろうと心がけている人でもなんだかんだ生理的感覚に引っ張られるものなので、
「生理的に無理」「キモい」と感じられてしまうような人間に対する世の中からの扱いはかなり悪くなってしまう
これが不当な差別だっていうのはわかる、わかるんだが、人種差別とかと違って、本能に根差したものとして指摘すればなくなるわけじゃないんだよ ある程度根拠のある差別と言ってもいい
学歴差別を無くしたからといって、学力方面での高学歴と低学歴の差がなくなるわけじゃないのと同じ
妻がいう通り、チー牛という言葉がそういう「感じ」を上手く言い表しているんだよね
昔は「ネクラ」とか「オタク」という言葉にその「感じ」が含まれてたけど、「オタク」がもっと価値中立な言葉に浄化されたから、代替としてチー牛という言葉が生まれただけ
チー牛という言葉を無くしても、その「感じ」がなくなるわけではない
妻はなんというか、チー牛というスラングがそこまで差別的な言葉だっていう認識が薄いんだろうね
だからもちろんチー牛という言葉を使うこと自体は咎めたほうがいい
ただその「感じ」があること、その「感じ」に世の中から差別的な目が常に向けられていることとは別に議論した方がいい
じゃあどうすりゃええねん、と言われると、
そうだな、そうだな……
ただなんとなくは、「父性」が鍵のような気がしている。
母親が過干渉で父親が無関心気味の家庭が「そう」なりがちというのは各所で言われがちで、
やっぱり教育家庭における「男らしさ」の不足が原因の一端なんじゃないかな?とは思う
男らしいとか女らしいとかそういうのはジェンダー平等に反してるだろ、と言いたいのはわかるが
なんだかんだ現代でも男は男らしい方が得するんだよな
男女平等を主張してる女たち自身が男らしい男を嗜好するし、男同士であってもそうだから、
男女平等、ジェンダーバイアスの解消というのはお題目としては立派であっても現実に即してはいないんだな
優しさとか誠実さとか生真面目さは世の中を渡っていくにあたってそこまで大きなプラスになる「見た目」ではないんだよな
これらを持つこと自体を否定してるわけじゃなくて、もちろん大事なものなんだけど、無害性のアピールにしかならないから、
必要な時に(時として他者のために)他者に対して強く出られる能力、責任を引き受けたりする能力、リーダーシップやイニシアチブを取る能力と見かけ上相反してるから、やっぱりなにかしらそういう芯の強さを育む機会が必要だと思う 無害性オンリーでは人間的評価だと下の上止まりになってしまう おそらく中の下にもいけない
運動部に入れろとかそういう感じに近いけど、部活を強要するわけにもいかないし、親にできることってどれぐらいなんだろうな……
まとめると、
•「チー牛」はその「感じ」を端的に表していることばではあるが、かなり差別的なので息子に向けるのはやめたほうがいいと伝える
•息子がチー牛的素質を持っていること自体は、すこしなんらかのアプローチを考えた方がいい
って意見かな。
主と妻の論点が異なってるし、どっちもそこそこ正当なことを言ってるから、主と妻がお互いどの領域でなにを言いたいのか冷静に整理しないと先に進めなさそう
妻の主張
①息子がチー牛かもしれん
②子育てのやり方を見直すべきでは?
主の主張
①(嫁に対して)チー牛とかいう差別的ネットスラングを(特に家族に)使う人間になるな。
②息子がチー牛の特徴に当てはまっていたとして、それのなにが悪い?
って感じで、議題が噛み合ってる箇所が②しかないし、
その②も簡単に論じれるような話題じゃないから、もっと慎重に論点を切り分けながら個別に意見のすり合わせをしていく必要があると思う
以下それぞれに対する俺の感想
まず主①の主張、これは賛同できる
チー牛とかいうかなり差別的なネットスラングをあろうことが子どもに対して向ける妻の精神性はかなり「それはやばくないか?」と思わざるを得ない
そして妻①の主張、「息子がチー牛かも?」これはまあ判断できる要素が書かれてないからなんとも言えないが、主が否定してる描写も無いしそこそこ当てはまっているのでは?と感じた
で、主妻それぞれの②の主張、まとめると
「チー牛っぽい特徴を持っているかもしれない息子に対して今後どうアプローチするべきか?」に対しては、
「息子がチー牛でなにが悪い?」という主の意見はわかる、わかりはするんだが、
一旦冷静になって、「悪い」のニュアンスを分けて考えるべきだと思う
チー牛っぽい特徴を持っていることは人格的に、もしくは社会的に、「悪」なのか?というと、これはもちろんそんなわけがない。そういう意味で、主の意見通り「息子がチー牛なのはなにも悪くない」。善悪の概念では、悪ではない。
が、チー牛っぽい特徴を持っていることが、今後何か不利益に働くか?と言われると、これは「だいぶ不利益に働く」と言わざるを得ない。良不良の意味では、不良。
そういう意味で、「なにか対策を打つべきなのでは?」という妻側の意見の方に賛同する。
そうだな、「学歴差別は不当」と「低学歴は苦労する」は両立するのに似てるな。
主は「生理的に無理」とか「キモい」とかそういう言葉を即物的だと言って一笑に付してるけど、
人間は理屈や正しさよりもかなり感情や第一印象や先入観で動きがちで、なんならたとえ理性的であろうと心がけている人でもなんだかんだ生理的感覚に引っ張られるものなので、
「生理的に無理」「キモい」と感じられてしまうような人間に対する世の中からの扱いはかなり悪くなってしまう
これが不当な差別だっていうのはわかる、わかるんだが、人種差別とかと違って、本能に根差したものとして指摘すればなくなるわけじゃないんだよ ある程度根拠のある差別と言ってもいい
学歴差別を無くしたからといって、学力方面での高学歴と低学歴の差がなくなるわけじゃないのと同じ
妻がいう通り、チー牛という言葉がそういう「感じ」を上手く言い表しているんだよね
昔は「ネクラ」とか「オタク」という言葉にその「感じ」が含まれてたけど、「オタク」がもっと価値中立な言葉に浄化されたから、代替としてチー牛という言葉が生まれただけ
チー牛という言葉を無くしても、その「感じ」がなくなるわけではない
妻はなんというか、チー牛というスラングがそこまで差別的な言葉だっていう認識が薄いんだろうね
だからもちろんチー牛という言葉を使うこと自体は咎めたほうがいい
ただその「感じ」があること、その「感じ」に世の中から差別的な目が常に向けられていることとは別に議論した方がいい
じゃあどうすりゃええねん、と言われると、
そうだな、そうだな……
ただなんとなくは、「父性」が鍵のような気がしている。
母親が過干渉で父親が無関心気味の家庭が「そう」なりがちというのは各所で言われがちで、
やっぱり教育家庭における「男らしさ」の不足が原因の一端なんじゃないかな?とは思う
男らしいとか女らしいとかそういうのはジェンダー平等に反してるだろ、と言いたいのはわかるが
なんだかんだ現代でも男は男らしい方が得するんだよな
男女平等を主張してる女たち自身が男らしい男を嗜好するし、男同士であってもそうだから、
男女平等、ジェンダーバイアスの解消というのはお題目としては立派であっても現実に即してはいないんだな
優しさとか誠実さとか生真面目さは世の中を渡っていくにあたってそこまで大きなプラスになる「見た目」ではないんだよな
これらを持つこと自体を否定してるわけじゃなくて、もちろん大事なものなんだけど、無害性のアピールにしかならないから、
必要な時に(時として他者のために)他者に対して強く出られる能力、責任を引き受けたりする能力、リーダーシップやイニシアチブを取る能力と見かけ上相反してるから、やっぱりなにかしらそういう芯の強さを育む機会が必要だと思う 無害性オンリーでは人間的評価だと下の上止まりになってしまう おそらく中の下にもいけない
運動部に入れろとかそういう感じに近いけど、部活を強要するわけにもいかないし、親にできることってどれぐらいなんだろうな……
まとめると、
•「チー牛」はその「感じ」を端的に表していることばではあるが、かなり差別的なので息子に向けるのはやめたほうがいいと伝える
•息子がチー牛的素質を持っていること自体は、すこしなんらかのアプローチを考えた方がいい
って意見かな。
最初に謝るけど、笑っちゃった
ごめんね
今回のコメントの中で、群を抜くレベルの意味のわからなさ、語彙力も論理性もない感情だけの言葉
無理に反論しようとして何にも思い浮かばず、代わりに感情の動きをそのまま書いたんだろう
にっちもさっちもいかなくて、袋小路で天に唾してる様子が見て取れる
割と嫌いじゃない
そろそろ夏アニメも折り返し地点なので自分が今見てるアニメ覚え書き。順不同。今シーズンより前からやってたのも含まれる。
配信オンリーは見てない。あとテレビ埼玉、CBCテレビなど一部地域でしか放送していないアニメも見てないです。
アニメはこうやってボーッとたくさん見てるけど詳しくはないです。アニメ制作会社とか声優とかはよく分からんので間違ってること書いてたらごめんなさい
今期も面白いのが多い。オリンピックも見てたら忙しすぎる。書ききれないので続きは次( anond:20240808000958 )に書いてます。
世界各地のヒーローが活躍する。主人公は日本の女の子ヒーロー、タイトル通りシャイな性格。なぜか1期を見てないのだけれど2期からでも楽しくみてる。後で1期も見ようと思う。小手先で生きてはなりません。心で生きるのです。→最後まで見た。全12回(第13話〜第24話)。
家事をやってくれるロボット(家電扱い)と疑似恋愛・・擬似夫婦生活を送る話。相手がロボットというのが特殊だけれど、いい温度の日常アニメだと思う。→最後まで見た。全12話。すげー面白かった。マモルのテンションの高さ好き。ATRIもそうだが、今期は家族としてのロボットとの向き合い方について考えさせられる時間が多かった。いやそんなの去年「AIの遺電子」でやったでしょ?と言われればそうなんだけど、あっちは割とシリアス濃くて考える準備をして見てたのよね。こちらはコメディで楽しく見てたら急に真剣にならなくちゃいけなくて、そういうのが逆に(?)リアルな空気だったかもしれない。
特にないです
アーリャさん、主人公がロシア語分からないと思ってボソッとロシア語でデレるけど、実は主人公ロシア語分かるんです。内緒だけどね。と、視聴者がニヤニヤしながら見るやつ。まさかライバルっぽく登場した幼馴染同級生の女の子が主人公の実妹だとは。ロシア語監修はウジーニン・エフゲーニー氏。前から思ってたけど、アニメって "生徒会" の発音を統一しないよね。EDが毎回カバーソング。こういうの好きです。6話のEDはカバーというよりコラボかも。生徒会での活動がマシマシになってきてからはあまり好きではない。→最後まで見た。全12話。終業式での生徒会役員あいさつで終わったので「え、中途半端じゃね」と思ったらSeason2決定。よかった。最後のEDはカバーではなくオリジナルだった。
両親の再婚で同級生が兄妹になったとここまではよくあるやつなのだが。ずっとシリアス。親のことがあり異性に期待ができなくなった二人だが・・・・。日常で感じたこと、起こったことにに対し多様な考え方、可能性で語り深堀をすることから「暗い」「面倒臭い」「説教くさい」「哲学的」といった思いをネガティブに抱く視聴者がいるかもね。原作者がXで長文解説してるけど読んでない。人選びそうな感じだけれど私は好きよ。お父さんのセリフがいちいち古くて笑える「感動した!(小泉純一郎)」「幸せだなぁ(加山雄三)」妹、綾瀬沙季は箸は右利きだけどペンは左というのは珍しい(3話や6話など) 第5話の劇中劇「蒼い夜の隙間」普通に見たいんですけど。10話で少しOPが変わる→最後まで見た。全12話。クセのある純愛劇だった。BGMは今期アニメの中で一番好きかも。すごく丁寧に感情を言語化するし、割とキーパーソンな藤波夏帆が終盤に出るので時間足りないんじゃないかと思った。"すりあわせ" とか言葉の勉強にはなった(言葉自体ではないよ)。面白かったですよ。
猫が経営するラーメン店が舞台のお話。それを支える常連さんや周囲の人が迷惑客からお店を助けるスカッとジャパン的な話もたまにある。接客一番 味二番。かわいいだけじゃなくてラーメンも凄く美味しそうなのよね。私にしては珍しく原作を読んでる作品。これ見ると心温まる。あと放送時間帯が卑怯だよ、ラーメン食べたくなるよ。→最後まで見た。全12話。泣くアニメじゃないのに最後泣きながら見てた。おじちゃん年だから涙もろいのよ。もうずっと見てたい、思ったより好きだったんだなぁ。2期期待しとります。
めちゃくちゃ強いのに「自分の能力は皆さんと比べてまだまだ・・」と自己評価低めの主人公とその強さに圧倒される周囲のキャラクターと、どこかズレてるアンジャッシュ・ディスコミュニケーション。戦闘だけじゃなくて会話、コミュニケーションまでパリイするの好き。物理攻撃だろうと魔法だろうと猛毒だろうと種族の壁だろうがパリイする、パリイオリンピック開催中。→最後まで見た。全12話。面白かったが、、戦闘以外にもパリイする意外性に慣れてきてからは展開に予想ができるようになったのがね。回を追うごとのワクワク感は私の中では新米オッサンと反比例してた。
男子校の映画部を舞台とした恋愛物語、BLです。回によって焦点(フォーカス)をあてるキャラクタが変わっていくのか。1〜4話は映画部カメラ担当と、そのルームメイト高身長イケメンの話。5話から7話は部長とナマイキ後輩の話。8話からはまた別の組み合わせ。割といけそうな気がする 私は男だけどBLでもギヴンとか作品として好きなのはある。OPとED好き。→最後まで見た。全12話。どいつもこいつも二人きりになったらすぐイチャイチャするなw そんなグッとくる内容ではなかった。12話でよく3組カップルやったなと思ったくらいかな。
1期で終わったものかと思ってた。最終話に子供出てたし。あれはIFなのか。と思いながら1期の最終話を見返したら最後に「2期決定」って出てたわ。女の子5人とハーレム状態だったのが10人とハーレム状態になる話。倍だぞ倍。祖母たちの店を継ぐというストーリーなので祖母の話が出てくる。特に秋水(あみ)の祖母の話に関しては私にも私のことが分からなくなった100歳を超えた祖母がいるので、ぁぁ、最近もお盆で田舎に帰って会ったなぁ、やはり私のことは分からないまま・・・と自分と重ねて見ていた。・・・が、すぐにそれをぶち壊すほどの下ネタがやってくるのがすごい。→最後まで見た。全12話。これで終われないでしょ、3期を待つ
学校では女装、かわいいものが大好き。母には内緒。家では母の望むよう男らしくする。誰にでも誰かに言えない悩みがある。息苦しさの中でも理解のある友人と楽しく遊ぶ様子が癒しだわ。「魔法少女マジカルデストロイヤーズ」の言葉を借りると『好きなものを好きなだけ好きと言おう』隠しきれない表に出る悩みを持つ人、話せない隠れた悩みをもつ人。何が本当の気持ちで誰が救ってくれる?→最後まで見た。全12話。あー好きですね。すごく好きですね。最後は見ていて泣きながら拍手してましたね。この世界が上手くいっているのは全て"まこと"のお父さんのお陰な気もしますね。出来過ぎでしょ、このお父さん。ありがとうだよ。
リアルな女性より2次元の女性を愛す漫研部長が主人公。新入生として現れたコスプレ(しかもエッチな恰好)好きな女の子と幼馴染で現役人気モデルの女の子とのドタバタコメディ。ラッキースケベなこともたまにある。先輩はおとこのこと同じく、好きなものを好きと通すその姿は美しい。7話で実はガチヲタで元コスプレイヤーの先生が顧問になるのだけど、先生と主人公との掛け合いが面白い。話変わるが左利きの箸や物書きは見ることがあるが、左でマウスはアニメで初めて見たかも(現実ではたまに見る)。校長先生いいなぁ→秋も引き続き
OPを聴いて串田アキラも年だなーと思ったが、これは何歳であろうとオッサンであろうと応援するアニメっぽいのでよしとしよう。3話で自分の強さに自覚したがどうなるか・・・と思ったけど4話で実質0話の話。今の時代はリカレントやリスキリングで再出発する人も多いので、いいテーマではないでしょうか。EDの「夢を見るには遅いなんて心無い誰かの声に―」という歌詞も作品にあってていい。「アンジェリカとの試合が来年じゃなくてよかったな」9話の粋な戦い方めっちゃ好き。→最後まで見た。全12話。実は1話見た時には期待してなかったんだけどすごいよかった。続き作ってくれないかなー
海外で人気出そうねって思ったけどあのスーサイド・スクワッドが元なのね。ハーレイ・クインの破天荒さとかわいさで見てたけれど継続は厳しいかも。と見てたけど7話で目が覚めた。OPは布袋寅泰。EDは私も好きです。→最後まで見た。10話で終わりなんだね。続きがありそうに終わったが、さてさて2期はあるのだろうか。
距離縮まるの早くない?っていうかその過程の描写少なくない?原作は4コマ漫画なの?って思うくらいサクサク次の話へ進み続ける。これ付き合ってるでしょ、っていうかこれもう付き合って(略)ニヤニヤが止まらない。→最後まで見た。全12話。すげーよかった。最後拍手したわ。なんだろう、私の場合ちょろいんで、"面白い"基準ではどの作品も面白いになるんだけど、これは満足感が凄く高かった。上手くまとまってるし、映画にもできそう
動きすごいっすね。アクションが凄くてかわいいショタということで第七王子難民もこれにはニッコリなのではないでしょうか。鎌倉STYLE!!ちょいちょいメタフィクション入れてきたり、鎌倉時代にはない現代の何かに置き換えて説明してくれるのが面白い。演出が多彩で見てて飽きない。すごいねこれ。→最後まで見た。全12話。面白かったというか凄かった。
偉人の名言を使ったコントアニメ。前半アニメパートと後半には実写ドキュメンタリーパートがある。シリーズ構成はハライチ岩井。アニメパートの脚本はハライチ岩井、ザ・ギース尾関、相席スタート山添、空気階段かたまり、しずるのKAƵMA、マヂラブ野田など、芸人がやってる。アニメパートはそんなにアニメアニメしてなくてFlashアニメみたいな感じ。まあ、絵より音声の方がメインな気もするので。→最後まで見た。全12回。面白かった。たまにでいいんだけどこういうのいいな。アニメだけじゃなくてドキュメンタリー(超電導会議)も、あれこれ意見の出し合いをしたり、セリフや表現方法を直前で変えたり、ドキュメンタリーなんだけどバラエティっぽく編集されてたので楽しく見れた。
ぽっちゃりエッチな15分アニメ。放送/配信局によっては規制の度合いや、放送の尺が違う「ぽてぽて ver.」や「めちゃぽてぽて ver.」があるらしい。OPの音もお太りになっているのか、音割れがすごい→最後まで見た。全12話。いつもどおりの話でそのまま終了。15分verだとダイエットの参考にはならないですねw
ダンジョンを運営する側になった主人公がダンジョンの仕組みを学びながら共に運営するモンスターたちと共同居住しつつ行方不明の親父を探す。可愛い顔してやることエグイ→最後まで見た。全12話。ベルはかわいいというか怖い。あと衣装デザインが簡素でアニメ化する際には楽だったろうなと思った。
会議ばかりで "会議アニメ" と不満がある人もいると思いますが、私は事件は会議室でも起こる派なので何の苦も無く楽しく見てます。あと今回からのOPがももクロですが、これもアリ派です。っていうかこの作品にはバトルよりも繁栄への国づくりに期待しているので今期がむしろ好き。などと見ていたら恋戦争勃発となった。65.5話「閑話:ルミナスメモリーズ」は地上波では放送ないのでご注意ください。今回は過去に登場した色んなキャラクタが登場してまさに祭りですね。66話では私の好きなヨウムとミュウランのセットが出てきたのでニコニコしながら見てました。さて武闘大会が始まるがラッキーマン的勇者がどうなるか→最後まで見た。相変わらず面白いな。第4期も待ってます。最後(72話)に『この番組は、2024年9月5日(木)に完成したものです。』とテロップが出たのはベルヤード男爵役の山本格が出てたからなのであろう。
12話、13話の答え合わせは痺れましたね。これでこの夏のシーズンも視聴決定となったのは私だけではないんじゃないでしょうか。だけれどオリンピックの影響があり15話の放送がかなり遅れたのが残念だった。今回の黄金の烏編は前回と少し毛色が違う様子。真の金烏とは何か、山内の外側にはなにが→最後まで見た。20話で終わっちまった。色々分かってきたけど話数的に物足りない感じ。続きやってくださいお願いします
原作は読んでない。実写映画は見た。面白かった。原作ファンの一部からは不評との声も聞くが、私は好きですね。クスクス笑いながら見てる。
あかねこ、おしのこ、しかのこ。奇抜で面白いという前評判だったけど、まぁ確かにうーん。でも、このノリがダメな人もいるだろうなー。提供で「にしたん」があるのが毎回笑う。ニコニコと相性が良さそうだったけど放送開始時にニコニコが落ちてたね。→最後まで見た。全12話。最後の方は見てても全然笑ってない自分に気がついた。ネタは豊富なんだけど私にはハマらなかった。
0話クソ助かる。私は昭和時代の1期以来見てなかったので話がわかるか?楽しめるか?と心配だったけど予想以上に楽しめてるわ。→最後まで見た。全12回(0話〜11話)。今更面白く感じるのかね、とか思ってたけどテンポもよくてホントに思ったより楽しめた。続きSeason2は来年1月。
魔法至上主義の世界なんだけどまともに魔法が使えない落ちこぼれ主人公が剣で成り上がる話ですかね。すげー動く。映像は見入るけどストーリーは今のところ楽しいとは思ってない。実はEDがちょくちょく変わってる。→最後まで見た。全12話。ハリーポッター+ダンまちといった印象。まぁ「ダンまち」は仕方がないのだが。どちらも面白い作品なので当然面白いし、アニメーションはすごかったね。続き待ってます。
クラス全員が異世界へ召喚され能力鑑定したら自分は最弱だったよくあるやつ。馬鹿にされたスキルで強くなって皆を見返してやるもんね。主人公が使えるスキル、パラライズからのポイズンが100%決まると分かったので、FF6のバニッシュ→デスみたいに楽々攻略できちまう。→最後まで見た。全13話(1話〜12話+総集編)。正直1話を見てこれはないなと思ってたけど面白かった。何がそうさせたんだろう。一気にレベルアップが気持ちよかったのかな、パラライズからの追加属性魔法での敵の仕留め方が斬新だった?気持ちよかった?ポイズンで倒すのは分かるんだけどバーサクやダークで倒せるのは公式サイトを見ても分からなかった。でも続編もやってほしいと思う
過労死して異世界転生。転生先では前世の記憶を活かしてドライヤーと同じ働きをする魔導具を作ったりする。前世の記憶がどれくらい残ってるのかは分からん。朧気な気もする。原作と違って幼少期の話からスタートする。優秀が故に身近な人間に裏切られるのは、今ちょうど再放送をしてる「シュガーアップル・フェアリーテイル」を思い出す。2話で影の付け方が気になった。1度気になるとすごい気になる。なんだあれは。余計なお世話だろうけど「もったいないなあ」と思った。→最後まで見た。全12話。キャラデザ好きだったし面白かっただけに残念だったなー。原作ファンはどんな感じで見てたんだろう。ダンスシーンはコミック(MFブックス)の10巻表紙のやつですね。
書ききれないので続きは次( anond:20240808000958 )に書いてます
・作品としては正直よくない部類に入ると思う。別に戦隊ヒーローに限らず、特定の題材を取り扱う際はリスペクトがなければいけないし、否定的に描写するとしても題材に対する理解は深くなければならない。それらがないと、何がやりたいか分からないし、読者にどう感じてほしいか曖昧な、中途半端な作品になる。そもそも作者の漫画に対する熱量を作品から感じない。
・ピンクの扱いについて、「この世界ではそういう設定というだけだろう」という意見があるが、ふつう、創作するときは世の中に存在する共通認識をうまく活用するものだと思う。そこがちぐはぐだと共感を得られず、読者はどう楽しめばいいかわからない。オリジナル設定を使うとしても今の状態では説明不足で、読者が無理やり咀嚼しないと呑み込めない状態になっている。
・1話で判断するのは早いという意見もあるが、描き手としてはここをしくじった時点で読者は加速度的に離れていくだけなので、そんなこと言ってもしょうがないと思う。そのうちアンチも興味をなくすだろうから、最後は理解のあるやさしい少数のマンガ読みだけが残り、ゆるやかに終了する未来が見える。
・全体的にストレスしか感じない。読んでいて気持ちよさがない。物語の引きが弱くて(この先どんな燃料を投下するかという邪な好奇心以外で)興味が続かない。主人公やその周りのキャラクターに対してもあんまり共感できず、とくべつ好きになれない。話題性的に一応2話も見ようかな…という人は多くいるだろうけど、大体の人間は3話でふるいにかけられるのでは。
・二次創作で評価を得ていた同人作家らしい。そういう作家にありがちなのが、「既存のキャラクターを動かすのは得意だけど、自分でキャラクターを作り出せない」ということ。そして、元の評価はクオリティの高いプロの作ったキャラクターありきであるということ。実際に活動している人はわかってくれると思うけど、二次創作と一次創作では使っている脳みその部分が明確に違う。二次創作で評価されて商業デビューした作家がパッとしない感じになるというのはよくあることなので、この作者もそのパターンだと思う。