大きな物語があれば、日常の小さな物語も何らかの意味を帯びてくるという、物語としてのありがちな構造が、人々に「大きな物語」を懇願させてしまっている。
つまり、ネットやら社会活動やらの大騒ぎは、物語(個別の物語でなく、物語という存在の全般だ)が扇動しているものだと言って良い。
日常のつまらない行動に意味を帯びさせるために、何らかの大きな行動に加わるというのは、物語による扇動効果でしかないのだと、いつ誰が気づくのだろうか。
そして、昔の物語は、そういった大きな行動はいつか破綻をきたすことを結末としてちゃんと提示していた。
現代の物語は、大きな物語と小さな物語という構造は維持しつつも、大きな物語の破綻が結末として描かれていない。
人々の、大きな物語に対する幻想を打ち砕かせていない。ただ、扇動するだけだ。
だから、現代の人々は大きな物語に耽溺し、その中で色々な過ちを犯し続けている。
つまり、インターネットやらに見られる大きな物語同士の抗争は、物語の構造改革によって抑制できるのではないか。
大きな物語を扇動した上で、その悲惨な結末を如実に感じさせる、そういった純粋な文学を描けば、抗争は治まるのではないか。
ある妄想を精緻に実現した上で、その論理の中で徹底的にダメ出しを行う、言うなら「行きて帰りし物語」的な構造の文学が求められているのではないのか。
相対主義者ってこういうこといい始めるよね 物語を相対化し始める
倫理学的な相対主義は「人によって答え変わるやろ」くらい雑なやつを指すものだと思ってたけど、一般的な相対主義はこういうやつなのか
元増は物語を内容を見ずに同列で相対的に扱ってるからね
世界観がしっかりしてれば、個別の描写はテキトーでも何とかなるみたいな傾向はあるのかもな。 それが、人々に日常の怠惰を許容する構造ってことか?