大きな物語があれば、日常の小さな物語も何らかの意味を帯びてくるという、物語としてのありがちな構造が、人々に「大きな物語」を懇願させてしまっている。 つまり、ネットやら社...
世界観がしっかりしてれば、個別の描写はテキトーでも何とかなるみたいな傾向はあるのかもな。 それが、人々に日常の怠惰を許容する構造ってことか?
相対主義者ってこういうこといい始めるよね 物語を相対化し始める
倫理学的な相対主義は「人によって答え変わるやろ」くらい雑なやつを指すものだと思ってたけど、一般的な相対主義はこういうやつなのか
元増は物語を内容を見ずに同列で相対的に扱ってるからね