2013-03-23

子供達は流されていく

彼氏の姪が来た。子守りを任された。戸惑いつつ迎えた。母親である彼氏のお姉さんに何度か聞かされたのであろう、わたしの名前をしっかりと言ってくれたのはよかったが、やはりわたしでは力不足だったようだ。

子ども残酷、とは良くできた言葉であると思う。残酷という言葉は大人になってから理解するもので、そこに子どもが知覚できる要素は全くといっていいほど無いのだ。

塾講師をやっていたからわかる、子どもの遠慮のタイミング。それを久しぶりに見たように感じた。天真爛漫に振る舞う中にも、ちょっとした偽の笑顔がある。悲しいことに、自分子どもらしく振る舞うことで、大人は喜ぶんだという解釈根付いてしまっている子どもたちをわたしはたくさん見てきた。

ありがとうとごめんねを大切にしなさいと教育されるのは幼稚園小学校までで、小学校高学年~中学生になると、そこに責任やら理由が求められるようになる。ほとんどごめんねの場合だが、本来対人関係の中で大事なのは言葉であって、理由やら責任やらは二の次なのだ。例えば、自分のしたことが悪いとわかっていてもなかなかごめんねが言えない子がいる。わかっているだけでは何も相手に伝わらないということが、今の子どもたちにとって理解し難いことになってしまっている。

Twittermixiなどの大型SNSは、日々の気持ちを曝け出す場、あるいは活発な議論を展開する場として成長してきた。そこに今、ごめんねが言えない子どもたちをどんどん増やしていくエネルギー源がある。人間は逃げたがるものだ。苦しいことはなるべく避けたい。そんなとき役に立つのSNSだ。例えば、さっきしてしまった悪いことを「あ~申し訳ないな」という言葉にしてツイートしたとする。昔だったら口に出さなければ伝わらないことが、今ではこのひとことだけで完結してしまうのだ。もちろんここで言う完結とはマイナス意味言葉である。相手が見ていようがいまいが関係ない。呟くことで完結してしまうのだ。

幼稚園小学校で習ったごめんねやありがとうが使われなくなるコミュニティに、子どもたちは人生のある一時から急に放り投げられるのだ。そこで得てしまった感覚は一生消えない。正解が二転三転する世の中に、子どもたちは疑問を持つことも許されないまま流されていく。

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