はてなキーワード: 著作とは
タイトル通り。
サッカーに夢中でまったくニュースに気づかず、さっき知ったばかりで混乱している。
2chのほっこり書き込みの選別が好きだった。まとめサイトの一種であるにもかかわらず、淡々とした掲載方式に読みやすさと好感を覚えていた。
ちょっとそれは、ダメでは?って角度もあったけどまっすぐに持論を展開する姿勢が好きだった。
年に1回あるかないかの、猫先生写真の差し込みも楽しみにしていた。
著作も買って読んだ。
そしてセミナーにも参加した。
長年ブログを楽しませていただいているお礼に、ささやかなお土産を渡したら
それがほんの一ヶ月前のことだ。
信じられない。どういうことなんだよ。
ここ数年他界した祖母や親戚は、病気や老衰で一年以上前から覚悟できていたから受け止められる死だった。
ここのところLineではお疲れの様子が伺えたけど、元気だったんだよ。
今日はマイケルジャクソンの命日で朝からちょっと憂鬱な気分でもあったのだ。
そこに畳み掛けるような出来事で、友達でもないのに、一緒に仕事したことすらないのに、
氏の命が奪われたことが悲しくて仕方ない。
帰ってきてよお願いだ…
沖縄で生まれ沖縄で育ち、沖縄で働いている純ウチナーンチュである身として、一度は教養としてみておくか、と思い、宜野湾市民会館で上演された、沖縄お笑い米軍基地14を見に行った。
沖縄のローカルラジオ、テレビではひっぱりだこで、県内に知らない人は(たぶん)いない芸人さん、小波津正光さんことまーちゃんさんが座長として企画・脚本・演出を行っているコントショーが、この「お笑い米軍基地」である。
今回で14回目を数えるこの公演は、沖縄では非常に人気が高く、私が見に行く旨を人に話す度「あい!いいはず~感想聞かせてね~」という反応はあれど「なにそれ?」という人は誰もいなかった。実際、1200人キャパの会場はほぼ席が埋まり、私が行った公演以外にもあと何回か沖縄県内各地で上演されるということである。そもそも毎年上演し、今回で14回を数える辺り、企画側の熱量とそれを受け止めるだけの県民の人気があるんだなあと感じる。
コンセプトは「基地を笑え!」。沖縄県の面積の内およそ10パーセント以上を占めており、沖縄県について語られるときに必ず問題の一つとして触れられる米軍基地だが、ぶっちゃけ県民の(主に若者の)大半は「反対運動とかが激しいのってあれでしょ、本土から来た人とか政治団体とかそういう人たちなんじゃない?…わかんないけど…まあなんか窓とかヘリとか飛行機とか色々落ちてるし、戦闘機はうるさいからまあ、なくなるならもちろんそのほうがいいけど、わざわざ座り込みとか行くのは違うかな~左翼とか右翼とかよくわかんないし…」などと言う人がほとんどである。(あくまで私の体感ではあるが)
若者の政治参加の主体意識が足りない!と言われてしまうとほんとその通りではあるのだけど、恥ずかしながら私もそういったその他大勢のひとりである。正直基地がどうとか言う前に、政治してる人たちは生活に密着した問題からどうにかしてくれ、と思う。子どもの貧困とか。いや、その辺とも繋がってたりするから根深いのか?よくわかっていない。
山積みになっている沖縄県の問題のど真ん中にドンと居座り続けている「基地問題」。そこをどう笑いに落とし込むのか。前評判は良すぎるほど良かった。期待半分不安半分で会場に足を踏み入れた。
そして観終わった感想だが、「100点!最高!面白かった!」とは正直まったく思えなかった。
なお、細かい内容は「SNSには書かないでください」というアナウンスがあったので割愛する。
まず、全体を通して(「米軍基地」という「沖縄県民にしかわからないあるある」を扱っている以上、前提がそうなので当たり前ではあるのだが)めっちゃくちゃ内輪ノリがすごい。
そこがハマると面白いのかもしれないけど、沖縄県は究極の「ムラ社会」の文化なので、各地域の文化の隔絶もすごい。なので県民でも「いや、わかんねーし…」が結構多く、ハマらないとむしろ見続けるのが非常にしんどくなる。最後辺りには完全に「業界の内輪ネタなんだな」とわかるものだけでひとネタ作られているものもあり、関係者席らしきところからは爆笑すら聞こえたが、業界人でもローカルテレビ大好きマンでも何でもない私は正直置いてけぼりだった。
沖縄県にはM-1グランプリならぬ「O-1グランプリ」という番組がある。お正月時期に放送される、名前の通り沖縄の芸人の1番を決めるという番組だ。そのネタを見てもらえばわかるが、沖縄の芸人は「沖縄らしさ」を前面に出したコント・漫才、つまり「内輪のあるあるネタ」を組み込んだものを作ることが圧倒的に多く、またレースにおいてもそのほうが有利である。その番組にはもちろん今回の「お笑い米軍基地」に参加しているFEC(沖縄にある芸能事務所「演芸集団FEC」)の芸人さんも数多く出場しているので、その流れを汲んでいるのも当然といえば当然である。
そして、気になったのは「お笑いだから」「俺たちはバカだから」という言葉を盾にした、差別やいろんな権利の侵害の嵐だった。もちろんすべては洒落であり、まじめに取り合うほうがアホであるというのはわかるのだけど、正直現代の「ボーダーレス」な風潮からは相当遅れた認識があるんだなということは感じた。
私個人として特に興味があって学んだこともある界隈の問題だったのもあって、過剰反応してしまったところはあるが「いや、ダメでしょ…」と引いてしまうような描写・演出が非常に多かった。
違和感の何よりの原因は、前説で座長が「所詮俺たち三流芸人の言うことなのだから怒ったりしないで聞き流してほしい」という旨の発言をしていたことだったと思う。
私たちは無意識に差別をしてしまうものだし、気づかずにだれかを傷つけてしまうのは仕方のないことではあるが「差別?いやいやネタだから。何マジになってんの?」という言い訳を用意してしまうのは、ちょっと違うなあと感じた。この公演に誇りをもってやっているのなら「差別的な表現かもしれないが、より伝わると思って選択した」と言い切ってほしいな、と思った。イジりとイジメの境界線はあいまいだが、「強者や権力を笑うのがお笑い」だというならば、自分たちが本当に強者としての力を持っていないか?というのも常に問い続けてほしい。
また、全体を通して「左」より「右」を笑うことが多かった、というのも違和感のひとつとしてあった。どっちも滑稽な部分はあるのだからもう少し両方を笑ってくれたらよかったのかな、と思う。あと「右」を揶揄するネタの時に、笑いどころでもなく盛り上がりどころでもないセリフで「よくいった」というようなかけ声や拍手があがっていたのは驚いた。どちらでもないフラットな状態で見に来たつもりなのに、いつの間にか政権批判団体の集会に参加させられていた、みたいな気まずさがあった。怖い。
以上のように全体的に右寄りかつ品がなく沖縄県民の県民性の悪い部分を煮詰めたような「内輪に甘い」感が強く、正直全体を通して「また行きたい!」とは全く一ミリも思わなかった。私は特にスクールカースト下層だったタイプの人間なので、沖縄の芸能界に蔓延する「スクールカースト上層部っぽいノリ」(ウェイ感とでも言うのか)にはついていけなかった。この辺はたぶん好みの問題なのだろうと思う。
ただ、ここまでゲロカスに批判してきたが、この公演を見たあと、文句を言いながらも私は「じゃあ右や左のそれぞれの主張ってどうだったけ?」「ほんとうにこの芸人さんたちが言っていたことは正しいのか?」「自分は偏っていないのか?」ということをいつの間にか考えていた。
まーちゃんさんの著作を図書館で借り、基地問題についてネットで自主的に調べ、右翼と左翼についても少し勉強した。
そうして、ハッと、こうして主体的に考えているこの行為自体が、この公演のねらいである「基地について、何かひっかかりを感じて考えてほしい」というところにばっちりハマってしまっていることに気が付いた。
なるほど、ならば。この公演は私にとって意味があったのだなと納得できた。してやられてしまったな、と思った。チケット代2000円もったいねえことしたわ、だったのが、安いじゃん、になった。
エンディングで歌われたFECの社歌の中に「とにかくやることを大事にしている」というような歌詞があった。沖縄県民は先ほども言った通り「内輪に甘い」。そして変化を嫌う。そんな中で新しいこと、前に進むようなことをするのは、本当に難しいことだと思う。勇気がいることだと思う。「まじめ」をバカにする風潮のある沖縄で、「まじめ」にバカをやるというのも、ほんとは難しかったんじゃないかなと思う。その勇気に敬意を表して、私はこの感想を書こうと筆をとった。「とにかくやる」そしてやることで誰かを動かす、それはほんとうにすごいことだ。と、何もできない私は思った。
でも、個人的におもしろくなかったのは事実なので、沖縄の芸人さん各位にはマジでもっとがんばってほしい。笑いどころを説明してしまう癖があって全体的に冗長だと思う。言葉選びが雑。オチやツッコミのワードが説明的で長すぎる。「金の斧銀の斧」のいさお名護支部さんのくだりと、タイワンオオカブトの幼虫のくだりは勢いがあって好きだった。
企業がトップページに使う画像がフリー素材って事あるのかなぁ。
https://irodori2u.co.jp/20170921-ikk00256/
「電車での乗客の表情も旅行者にとっては”日本の印象”になるんだ……」と気づかせてくれた親友の韓国人の何気ない質問
https://this.kiji.is/369737558743188577
47リポーターズ地方新聞社や共同通信の記者らによる署名入りコラム。 地方創生に絡む問題を多く取り上げ、新聞記事とは違った切り口で提供します。
どっちも「同じ写真」使ってるけどどちらにも画像の著作表示がない。フリー画像なんだろうか。
調べたら
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%97%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%99%A9
http://b.hatena.ne.jp/entry/p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20180320/1521541181
呼ばれた気がしたので出現しました。
例によってなんの躊躇もなくクソ長いです。
現在もインターネットのどこかにおりまして、しまりんとなでしこのどっちの寝袋の空気を吸って過呼吸で死ぬか悩んでいる毎日です。吸って吸って吸って死にそうでも吸う。だいたいキャンプしてるときはお風呂入らないで寝袋に入るわけじゃないですか。そりゃ寝袋のなかはけっこう大変なことになってますよ。なでしことしまりん、どっちが強いかな、なでしこのほうが寝汗とか多そうだな♡とか考えるじゃないですか。あと斉藤さんはしまりんのことが好きすぎて大変だと思います。どうでもいいんですけど、消滅したはずのアカウントでいまでも増田だけログインできるのこれなんなんすかね。
まあ7年だっけ? 8年だっけ? よくわかんないですけど、それくらい経ったいまでもはてな村の話題が出るとお呼びがかかるくらいなので、俺も村の内部にいた人間ではあるのでしょう。なにしろ奇譚にも取り上げられたくらいなので。あれめっちゃ喜んで「ほらこれ俺、俺だから。伝説だから俺。まじで」とかうちの奥さまに報告に行ったら「トイレ行きたいんだけど。あとで聞くから」って言われてそのまま無視された。
というのも、俺、自分が村民扱いされてたなーっていう感じがほとんどないんですよね。理由ははっきりしてて、ブコメにほとんど目を通さないことと(批判されると死ぬ生物なので)、ふっかけられた議論をスルーすること、あと村内部のもめごとみたいなのにほとんど興味を持たないことです。いや、いちおうはがんばってみたんですよ。なんかこう村っぽい話題には積極的に首突っ込んでみようとか、馴れ合ってみようとか。てゆうか俺はもともと強度の馴れ合い体質で、おともだち以外は興味ないタイプの人なんですけども。なんか村に入れてくれよぅみたいな日記も書いた気すんぞ。
俺のことを知ってる人はけっこう多いと思うんですけど、相互に認識してると「俺が思ってる」人となるとぐっと数は減って、シロクマせんせーと加野瀬さん、あと有村さんは微妙かなーというところ。村民に当たるかと認識されるてかどうかはよくわかんないですけど、まなめさん(ご結婚おめでとうございます)(遅い)もか。や、当時はほかにもいたと思うんですけど、俺リアルでもわりと人間覚えられない人で、集まり的なものに参加すると、うちの奥さまが俺のかわりに記憶装置やってるくらいのもんなんすよ。シロクマせんせは会ったこともないですけど、勝手におともだちだと思っています。最新の著作のKindle化はどうにかなんないんですか。俺もう紙の本増やしたくないです。……と恒例のことをつぶやきつつ念のためアマゾン見に行ったらKindle化されてたのでいま買いました。すぐ読みます。
で思うんですけど、結局「俺が参加できなかった」っていうそのポイントを押さえてた人が「村民」だったと思うんですよね。はてな村ってツイッターのクラスタなんかと違って、コアとなる集会場みたいなのないじゃないですか。いや、あったとしても俺が知らなかっただけかもしんないですけど。じゃあなにがそうだったのかというと、はてダだったりはてなブログだったりブコメだったりの、無数の小さな円の重なりみたいなもので、その円の密度が濃い場所にいた人が「村民」だと思うんすよね。ムラ的な話題、たとえばもめごとだとか、そのときはてなで話題になってることだとか、そういうのが出現したときに「だいたいそこにいつもいる人」みたいな感じだったんじゃないかなーと。
はてな村がなつかしいかというと、その当時俺が知っていた人たちは、いまもなんらかのかたちでネットの比較的目立つ場所にいるので、あんまそういう感じはないですね。その気になれば連絡はとれるだろうし。
俺がブログやめたあと、インターネットは大きく様変わりしました。様変わり自体はまあ、時代は変化していくのがあたりまえなので、そういうもんなんだろうなーくらいにしか思ってないんですけど、ただはてな村みたいなコミュニティみたいなものは、もう出現しないんだろうなあっていう感じはありますね。SNSがこんだけ普及して、だれもがなんらかの「発言する」チャンネルを持ってる。
俺が知ってる限りでのはてな村の住民って、基本的には「自分でなんか発信する」ための手段を持ってた人たちばっかりなんですよ。あるいは「そういうことをしないと自分が維持できない」人たち。こう言うと「自分はブコメしかしない」って言い出す人かならず出てきますけど、そういう人たちでも原則としてなんらかの知的な訓練はなされてる人が多いので、その気になれば「人に読ませるための文章」を書ける人が多かったはずなんです。そもそも2010年の段階ですら、いまよりはインターネットは狭かった。
「みんな」がインターネットに参加できるっていうことは、それはもう文字どおり「みんな」なんで、発信する力を持っていない人が多数派なわけです。発信しないことが悪いことだって言ってるわけじゃないですよ。単純に比率の問題です。
まあそんなふうに思ってるので、はてな村みたいに「発信する人たち」の集団がある程度の影響力を持ちうる状況って、そうそう来ないんじゃないかなーと。
まあそんなことを考えておる昨今です。
あと、刀使ノ巫女すっげー不評ですけど、意外におもしろいんで見たほうがいいですよ。咀嚼音のエントリ見てからゆるキャン見るとき脳内にノイズ発生してすごい困ってるんですけど、カトゆーさんとんでもないものバズらせてくれましたね……。俺のいる辺境まで届いちゃったじゃないですか。それとあと「こねこねこねこ」の体験版がものすごい異次元だったので、興味のある方はやってください。
以上です。お騒がせしました。
※追記
知らんわけないでしょK-Onoさん。
ある弱小アフィブロガーが、「炎上上等」というタイトルで持論を展開する記事を書いているのを見た。
タイトルに「炎上上等」と付けているが、記事の中で書かれている持論は相当に日和っている上に具体性の無い物だった。
タイトルに「炎上上等」と付ける事で記事の読者を増やしたかったのだろう。
最近、このブロガーに限らずだが、"炎上"という物を勘違いしている人が時々見受けられる。
「炎上すれば注目を浴びる→注目を浴びれば宣伝になる」と、意図的に炎上を起こそうとしている人も居る。
だが、「"炎上"とはそういう物ではないんじゃないか?」と思ったので今回記事にした。
ここからは私的見解となるが、私はこれまで様々な炎上を見て来て、炎上には共通して必要な物が有ると感じる。
少し前の話だが、こんな出来事が有った。
著作(ライトノベル)のカバーイラストがポルノ認定され広告を禁止された件についてTwitter日本支社に行ってきた話 - Togetter
あるライトノベルの作者がプロモーション...つまり、宣伝のためにTwitterに広告料を支払っていたのだが、
宣伝ツイートの内容が不適切であると判断され、広告から除外されたという物だ。
これについて、この作者はTwitterの日本支社に異議を申し立てに行った。
そして、この異議申し立てに行った事が話題となった。
こういうのこそ正しく「炎上」だろう。
では、炎上には何が必要なのか、それをこの件を例に示してみよう。
第一に、「多数の人間が共通して憤る対象となる存在」が必要だ。この案件で言えば「Twitter社」がそれになる。
次に、その憤る対象に対して実際に異議申し立てや抗議を行いに行く存在。異議申し立てや抗議に行く存在がいる事で、
その出来事が現実に起こっている事なのだという「リアルさ」が見ている側に増す。
そして、「リアルさ」が増す事により見ている人達に「一体感」が生まれる。
後は、実際に異議申し立てや抗議に行っている様子を実況ツイートする等で生で見ている感じ、つまり「ライブ感」を皆に与えれば良い。
炎上は起こそうと思って起こせる物ではない。
炎上を起こすには「多数の人間が共通して憤る対象」と「その対象の存在が現実の物であるというリアルさ」
「リアルな物を見ているという一体感」と「それが現在進行形で起こっているライブ感」を見る側に与えなければならない。
机の上やパソコンの前に座って文字を打っているだけでは炎上は起こせないものなのだという事を、その弱小アフィブロガーには学んで欲しい物だと思った。
映画以前は、単に悪趣味で頭おかしいおっさんと思われてたと思う。
それが、映画のスタイリッシュな映像と音楽と奇跡のような場面で編集された結果、ものすごいクラスチェンジ。
自分も含め、映画を観たのが、彼に対する共感だったり応援のきっかけだったのだろうと思う。
学園祭に呼ばれたり、メディアに出たり。昨年は泡沫候補を取り上げた著作が賞を取ったという。
渋谷でセンスのないパフォーマンスをしている彼の何に励まされていたのだろう。
著書は今になって思えば自己顕示と自慢話ばかりであった。
政策も支持したいと思えるようなものはなかった。一度も投票したことない。
政治活動家である人間に共感はするが投票したくないとは大変おかしなことであるのだが、
おかしさに気づかなかった。
モテについても語ってた気がする。
スマイルセラピーってコミュニケーション能力の向上するんじゃなかったの。
それで相手の同意を得られぬセックスをして口止めに3000万円提示したのか。
ダサすぎてキモい。
ライトノベル作家の如月さんが自身の著作のカバーイラストがポルノに該当するとして、広告料金を払い込んだのに、Twitterに広告を非掲載にされ、その対応についてTwitterジャパンにクレームを入れた件が話題になっています。しかし、この件はよく考えてみれば、単なる言いがかりだということがわかります。
如月さんは、クレジットカードで広告料金が引き落とされているのに、広告が非掲載にされている事について立腹していますが、Twitterの広告課金システムは、クリックやリツイートなどの反応があった場合にのみ課金するクリック課金システムです。
広告掲載のポリシーに反する報告は停止されてしまいますが、ポリシーチェックチームが報告をチェックするまでに時間があるので、それまでの期間は広告が掲載され、広告が掲載されていた期間に関するクリックが課金されているのです。要するに、如月さんの広告が停止するまでにあったクリックについて課金されているだけですので、Twitterの請求は正当です。
もちろん、お金を振り込んだのに、広告に使わなかった分のお金は後で引き戻すことができます。(当たり前ですね)
如月さんは、クレジットカードの引き落とし履歴をスクリーンショットし、まるでバナー広告の支払いのようにすでにまとまった料金を先払いしているのに広告だけが停止されているとミスリードしていますが、これはおかしい。
Twitterはクリックリツイートなどの反応があった分についてクリック課金をしているわけです。ですから、まるでお金を払ったのにTwitterに理不尽に広告が停止されているとミスリードするのはアンフェアではないでしょうか。
あるいは、クリック課金だと言うことをよく理解せずにクレームをつけているようにしか思いません。
問題になったカバーイラストが来るのかどうか、これは明確な定義が難しいかもしれません。そこでTwitter者のポルノに関する要件を見てみましょう。Twitterは広告掲載のポリシーとして、成人向けの画像を含む広告の掲載を禁止しています。その要件として、以下のようなものがあります。
画像、動画、または文章の中における完全または部分的な裸体、および性的コンテンツ
問題になったカバーイラストは、女性の乳首の存在感が薄いシャツの下からあらわになっており、部分的なら裸体や性的なコンテンツとして扱われても仕方がないものだと思います。そもそも、国がポルノを規制する問題とは全く別でして、要するに自分のメディアにどういう広告を掲載するかしないかはその会社が決めていくものなので、気に入らなければ、別の媒体を使うしかないのではないでしょうか。
国がポルノ的な表現を拡大解釈して、表現を否定するのには慎重でなくてはいけませんが、自社のメディアに表示する画像や動画を取捨選択するのは広告を運用する会社のポリシーが優先されるべきものだと考えます。
ということで、まとめると、Twitterが請求した料金は広告が停止になるまでに発生したクリックに基づく料金なので、正当な請求です。
また、ポルノの判断についてですが、女性の乳首の存在感があらわになっている写真にはポルノ的な要素がありますし、ポルノかどうかを判断するのはTwitterのポリシーチームです。Twitterには自社のメディアにのせる広告を選別する権利があります。
もしかしたら数年前に決着のついてる話かもしれないが森田真生の話をする。
一応どういう人か簡単に説明しておく。Wikipediaや本人のHPによれば「独立研究者」という肩書で
大学等の研究機関に属さずに数学をテーマとした研究をしている在野の研究者。
著作もいくつかあり、中でも「数学する身体」という本は小林秀雄賞をとっているらしい。
また「数学の演奏会」なるイベントを定期的に開いているとのこと。
僕はこの人の著作を読んだこともないし、「数学の演奏会」に行ったこともないので正直あまり知らない。
ただ僕が簡単にアクセスできるこの人の情報から判断するにこの人は胡散臭い。
多分この人が話題になったのは結構前の事だと思うが、今更書くのは僕が注意を向けたのが最近の事だからだ。
前々から書店に陳列される著作を通じて存在は知っていたが読んだことは無かった。
本の見た目からして一般向けの啓蒙書という感じなのでスルーしていた。
しかし最近知り合いがこの人の名を挙げたので気になって調べてみたら思ったよりも浅薄で、
数学の専門知識の無い人をおかしな方向に誘導しているように見えたので、注意喚起の意味を込めてこの文章を書くことにした。
森田の問題点は単純で「数学の知識があまり無いのに、まるで数学を知っているかのように語っている」というのに尽きる。
これだけだと説得力もないし、内容も不明瞭なので森田に数学の知識があまり無いと判断する根拠を記す。
何をもって知識が無いと判断するかは難しいところだが大きく、森田の語る内容が表層的という点からそう判断した。
森田はTEDで講演している。是非見てほしい。(他にもいくつかYouTubeに森田の動画があがっている。)
↓森田のTEDでの講演
https://www.youtube.com/watch?v=Hx6ZNEWydCU
浅すぎないだろうか。この内容を話すのに数学の専門知識が必要な部分は一つもない。
一貫して根拠のないフワッとした話ばかりで最終的には岡潔を引いて「数学とは自分の内面に出会うことだ」などと言うが、
次のフィールズメダリストのVillaniによるTEDでの講演を見てほしい。
https://www.ted.com/talks/cedric_villani_what_s_so_sexy_about_math?language=ja
この講演は本当に凄い。専門的なバックグラウンドをもつ話を一般人向けの話にうまく落とし込んでいる。
Villaniが例外的に上手い部分はあるとはいえ、一般人向けにある程度深い数学の話をするのが不可能ではないことが分かる。
森田が誰にでもできる程度の講演しかしないのはその程度の知識しかないからだと思っている。
森田は研究者というが論文は特に書いていないため、知識の程度はわからない。
検索で引っかかる唯一の森田による大学数学レベルの記述は「哲学者のための圏論入門」というタイトルのpdfだが、
内容としては圏論を哲学系の人に紹介するものなので、その目的からしても当然のことだが入門的内容のまとめに過ぎず、
ここから知識の程度を測るのは難しい。これをあえて書いたのはこのpdfの存在が森田の知識の証左になると考える人がいるかもしれないため。
これくらいは数学科卒なら大抵書ける。
また森田の話に出てくる数学者はグロタンディーク、岡潔、マクレーン、チューリング、ウィッテン、グロモフ等といった
超ビッグネームばかりでしかも分野もばらけているというのも不思議だ。
何らかの研究対象があればその分野で一流の研究者の名前が挙がっていいはずだと思うのだが。
他にも本人のTwitterなどを多少見たが、特定の分野に対する造詣は感じられないし、一般啓蒙書的な数学的理解を超えるものは見られない。
森田に知識がない分には一向に構わないが、無い知識で数学を語らないでほしい。
数学を語るのが数学者だけの特権と言うつもりは全くないが、専門知識を語るのは難しいことだということを強調したい。
数学書を理解するのは一定の訓練で出来るようになるが、その内容をテキストから離れた自分の文脈に組み込んで話すのはずっと難しい。
しかしそれが出来なくては一般人のレベルに専門知識を落とし込むことは出来ない。森田はこのレベルには達していない。
数学について語るのではなく、自身の数学観について語るのは構わないが、それならばビッグネームの名前を借りるべきでは無く、
徹頭徹尾自分の言葉で語るべきだろう。権威の名を出して森田の数学観を語れば、一般人にはそれが独自見解と気づくのは難しいのではないか。
まず最初に、これは端的に言えば”お前が言うな”論を展開しているだけである。
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自分はTwitterで萌え萌え(死語)絵師のフォローが9割の人間で、いつものようにTwitterのTLを巡回していると”淫夢ネタ”を使っている同人作家やイラストレーターがポツポツ見られる。
昨今の日本のインターネット文化において真夏の夜の淫夢は最早お笑いコンテンツとして確立しており、中学生くらいからおっさんまで幅広く笑いのネタにしていて、実際自分も、そして周りの友人もネタにしている。
突然だが、ここ最近こんな話題が挙がった、”同人誌の違法DL&UPをやめろ”
うん実に正しい、少なくとも法律と倫理の面からしたら同人誌の違法DLは完全にアウト(同人誌自体がグレーなのは後ほど)、それを指摘するのは至極当然である。
同人作家は同人誌やそれ以外の同人グッズ等を売った結果に得られた金で食いつないでいる人も多い、違法DL&UPは本来作品を買った際に作家に入る金が作家に入らなくなり、作家が食っていくことができなくなる犯罪である。
違法DLがやっと指摘されたのかと、正直まだネットにこんな良心を持った人間がいるのかと感心していた、それを真夏の夜の淫夢を見て笑っている作家が指摘するまでは。
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ここいらで真夏の夜の淫夢、略称”淫夢”がどういうものなのかの考えを見ていこう。
一行で説明できる規模ではないが要するに”ゲイビデオに対して罵倒暴言を吐いて遊んだりゲイビデオ男優の音声や画像で音楽や動画を作って遊ぶコンテンツである”
現にACCEED(ゲイビデオ会社)がニコニコ動画等での淫夢の違法UPについて警告している。
http://animeseiyu.hatenablog.jp/entry/2017/05/23/172823
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話を戻そう、そんな差別主義&違法視聴丸出しのコンテンツを見てる作家が、何故同人誌の違法DLを指摘できる?
他人の畑から作物を盗んだ挙句唾を吐く盗人が逆に、自分の畑から作物が盗まれたら「盗みをやめろ!犯罪者!」と言っているようなものである。
実に自己中心的で都合が良い、自分の作品は保護するがゲイビデオは気持ち悪いし笑っていい風潮があるから保護しなくていいと。
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まず公式に権利者側が出すガイドラインの中で二次創作しているならそれに違法性はない。
しかし二次創作の同人誌は普通に著作権侵害であるが、一応二次的著作物になり著作法上保護される。
しかし何故黙認されているのか?それは双方にとって利益が生じるからである。
ほとんどの二次創作物は作者の許可を得てはいませんが、ファン活動の一環として黙認されています。
作者としても、自分の漫画のキャラクターイラストをネットに公開されたところで何の損害もありません。
むしろファン同士の交流を盛んにして作品を盛り上げてもらいたいと思っているのではないでしょうか。
引用 http://chosakuken-kouza.com/kihon/nijitekichosakubutu.html
著作権は親告罪(権利者が訴えなければ有罪にならない)ので星の数ほどある同人誌を裁くのは不可能に近いしまず利点がない。
おまけに勝訴しても貰える金は雀の涙ほどで百害あって一理無しがほとんどの現状である。
またその作品が重なる二次創作によって有名になれば作品の知名度=売上 に繋がるのである。
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しかしゲイビデオにそれはない、違法アップロードされて有名になっても、ゲイビデオなんて買うモノ好きな人間はおよそ居ないしそもそも原典が違法で公開されている、さらに男優に対しての誹謗中傷等も考えても見て欲しい、〇〇社のゲイビデオに出たら一生ネットの晒し者として自分が「汚い」「気持ち悪い」と悪目立ちする末路を。
よって持ちつ持たれつつの関係すら成立しておらず、何もゲイビデオを違法視聴して良い大義名分にはならない。
それなのにも関わらず自分の作品が普段誹謗中傷して遊んでいるゲイビデオと同じように違法アップロードされたら鬼の首を取ったように違法UP&DLに憤る。
https://twitter.com/shinkai35/status/945771033696509952 へのリプライです。書くところが無いので、ここに書きます。この話は全てフィクションで、実在の人物や組織には一切関係ありません。
その日、文筆家しんかいはPCから出るピピピ・・・と言う異音で目を覚ました。翌日が休日である事に安心しきって、ついついツイッターでリツイートされてきたポストモダニストの著作がいかにおかしい話であるかを語っていたはずなのだが、顔にキーボードの模様をつける結果となっている。実感は沸かないが寄る年瀬には勝てない。相対主義が何を主張しようが、ヒトにはその限界がある。そんな事を思いながら、テレビのスイッチを入れようとしたとき、しんかいは異変に気づいた。
部屋に置いてあるそれは、平面的で画面が大きな液晶テレビではなく、画面は小さいが奥行きのある立方体、昔懐かしいブラウン管のもので、ダイアル式のスイッチでチャンネルを選択するそれだ。電源のオン/オフに金属のトグルスイッチがついており、もしかしたら産まれてから実際に目にしたテレビの中でもっとも古いものかも知れない。背面から出て壁につながっているテレビ線のコードは同軸ケーブルではなく、平たいプラスチックの両端に二本の細い線があるものだ。もう平成も終わろうとしているのに昭和過ぎる。が、昭和であってもテレビの裏の埃は変わらない。くしゃみが出てきた。
パチンと電源を入れる。ヴォンと音を立てた後、数秒の間を置いて粗い絵が映し出された。4Kや8Kのテレビの宣伝をみるたびに、もう走査線の本数を向上させてもと思うが、いやおう無しにでもその重要性を認識せざるを得ない絵だ。北朝鮮のテレビよりひどい。2017年12月27日、朝7時のニュースが始まった。アナウンサーの「おはようございます」は、普段通りの番組だが、他は普段通りとは言い難いものであった。見慣れたコンピュータ・グラフィックスの今日の見出しが、アナウンサーの横の黒板に置き換えられている。ボードですらない。何より、国家放送第一と言っている。
しんかいはチャンネルを回してみた。チャンネルはかくんと90度づつ回転し、四つしかチャンネルが無いことがわかる。ぐるっと一回転させる。四つあるチャンネルのうち、一つは白黒の画素が激しく入れ替わるノイズが流れていたが、三つは使われていた。国家放送第二、国家放送第三、ノイズ、最初の国家放送第一。どうやら、国家放送しかないようだ。第二はこの時間帯なのに正しい文学について解説し、第三は老人が正しい体操を実践している。しんかいは、この時点でテレビの登場人物全員が、カーキ色の上着を着ており、一列に並んだ大きめのボタンをきっちり留めていることに気づいた。
チャンネルを国家放送第一に戻す。国民服のようなものを着たアナウンサーが読み上げるのは交通事故や気象情報と言うところは、公共放送のニュース番組と同じだ。しかし、一つ一つについて解説を丁寧に与えていく。しばらく唖然としながら番組を見つめ、思わず「何だ?」とツイートした。ニュースに解説があるだけであったら、驚かなかったかも知れない。しかし、先々月の災害の被災者の感情を、微分可能多様体と言う単語を持ち出して説明しようとしている。そう、ポストモダンだ。ポストモダンについては日本有数の知識を有すると自認しているが、寒気についてのポストモダン的解釈は初めて聞く。
はっきり認識はできているが、全く理解ができない状況。自らの視覚や聴覚を信じることができない。思わず、「テレビがポストモダンになっている」となっているとツイッターに書き込む。「え、愛知だけでは?」「柄谷行人が死んだりでもした?」「ポストモダンに“なる”はおかしいだろう」とリプライが返って来る。誰もこのポモな国家放送を観てはいないようだ。ブラウザーでポータルサイトのニュースを見ても、特段、テレビ放送に関するものはない。ツイッターやフェイスブックの検索でも、しんかいと同じものを見ている人はいないようだ。
このブラウン管のテレビだけが、ポモな国家放送を流しているのであろうか。アンテナ線は壁につながっているが、これはモックなのであろうか。手の込んだ悪戯としか考えられない状況ではあるのだが、手の込みすぎたところが気になった。目の疲れを感じる。気づくと一時間は国家放送を観ているのだが、同じ内容が繰り返し放送されているわけではない。チャンネルは三つ。ブラウン管のテレビも昭和風ではあるが、チャンネルのスイッチは特製だ。粗雑な出来とは言え、かなりの労力だ。現実とも夢とも断言できない。
しんかいは電器店にいって、他のテレビを観ることに決めた。冷静に考えればテレビを摩り替えられたとしか思えないわけで、窃盗で警察に届出を行なうべきだが、この国家放送が持つリアリティがそれを躊躇わせた。無理な体勢で寝てしまったので二度寝の誘惑もあるが、“ブラウン”管からの一つの連想が心をざわめかしていた。ブラウン管の発明者はフェルディナントだが、ポストモダン思想の批判者にも有名なブラウン、ジェームズ・ロバート・ブラウンがいる。
著作「なぜ科学を語ってすれ違うのか」でブラウンは、国家などの社会的構築物が必然ではなく、人々の考えの偶発的な結果によるものと考えると、社会が人々の考えを統制しだしてファシスト国家に陥る危険性を指摘していた。また、ポストモダンの科学的方法への懐疑は、科学の進展を阻害し、技術的進歩を阻害する事になる。つまり、ブラウン管に映し出される世界は徹頭徹尾、ポストモダンに支配された世界と言える。
ポモの危険性を指摘してきたしんかいにとっては悪夢としか言いようが無いのだが、しんかいは心踊っている自分を自覚していた。日常からにじみ出る不穏な世界の兆候。アニメでは親しんだ別世界がそこにある。「けものフレンズ」は好物だ。このときしんかいは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』の結核の話をすっかり忘却していた。ポストモダン思想に支配された世界であれば、繁華街の電器店がいかに危険な場所であるかは、最もしんかいが理解しているはずであるのにである。
テレビに見入っていたので気づかなかったが、家を出る前に、アパートの部屋が狭くなっている事に気づいた。振り返れば玄関が見える狭さなので迷子にはならないが、間取りも見覚えが無い。六畳一間と台所、バス・トイレ付きではあるが、便器は和式である。昨夜、帰宅する家を間違えたのであろうか。しんかいは映画「パトレイバー the Movie」の帆場のアパートでしか、似たような物件を見たことが無い。
机の上のPCの下には、書きかけの原稿用紙が散らばっていた。題は「科学のためのポストモダン思想からの脱却」とある。見覚えのある字ではあるが、自分のものを含めて久しく手書きの文字を読んでいないので、誰のものかは思い出せない。大判の封筒も置いてある。宛名は、自分であった。送り主は「鈴木幸子」とある。中はゲラ刷りで、赤が入っていた。出先で原稿を読もうと封筒を手に取る。
ポストが大きい金属製の重い扉をあけると、アパートの外側の廊下に出た。二階だ。表札は確かに自分の名前が書かれている。鍵がないので施錠できないがやむを得ない。ところでここは一体どこなのか。スマートホンを出して地図アプリで位置検索をかける。すぐに「こんな所でスマホが使えるわけが・・・」と思うが、現在位置はあっさり示された。GPSの電波は届いている。インターネットも使えた。自分の場所が異世界なのか、そうでないのか、明らかになってきた状況を元にしても判断が出来ない。
かなりの資力が必要になるが、古いアパートの部屋に自分を押し込む事は可能だ。しかし、衛星測位システムの電波までは防ぐ事ができなかったのであろう。聖戦士ダンバイン以来、主人公が異世界に飛ばされる娯楽作品に親しんできたしんかいは、密かに期待した状況が否定されて落胆する。まだ十分な確信が持てないが、これは壮大な仕掛けの悪戯だ。街の中心部に向かえばはっきりするであろう。しんかいは、金属の音を響かせながら階段を降りていった。
5分後、しんかいは自分が異世界にいる事を確信した。悪戯とすれば、神の仕業であろう。スマホの地図アプリの位置情報は機能していたが、道路の舗装が汚く、空気が汚れていて、高いビルが無いので空が見上げやすい。そして、旅行先でしか見たことが無い路面電車が走っていた。しんかいの知る名古屋市には市電が無い。しかし、ベージュと赤と緑のカラーリングの路面電車が走っている。地図アプリの位置情報は、間違いなく名古屋だ。
道を歩く人々の服装は、男性は国家放送局のアナウンサーが着ていた国民服、女性はもんぺ姿である。しんかいは人々が自分を凝視するのが気になって仕方が無かった。しんかいの格好はPコートにチノパンである。この世界では明らかに浮いている。この恥ずかしさをツイートして紛らわせたい衝動に駆られたが、文章だけでは何を書いても気がおかしくなったと思われるであろう。国民服ともんぺ女性と市電が映った写真を撮って、「ここはどこ?」とつけてアップロードをした。「戦時中の名古屋市」とリプライがつく。
戦時中なのであろうか。朝のニュースではそのような事は一切言っていなかったし、テレビは戦後で、カラー化は高度成長期の最中だ。昭和40年代ぐらいが相場に思える。状況を把握するために、一日中テレビを観ていた方が良かったかも知れない。古くて小さな家電店が目に付く。中に入ると、期待通りテレビが置いてあり、放送を見ることが出来た。店主は商売っ気の無い老人で、都合が良いことに客に関心がないようであった。テレビの出演者は全員、国民服ともんぺであり、ドラマですらそうであった。アパートの部屋のテレビだけがおかしいと言うのは否定された。
しばらくテレビに見入っていたが、空腹を感じてきた。何かを食べたいと思うが、この世界で食事をとる方法が思いつかない。飲食店はあるようだが、市電で使われている硬貨は見かけないものだった。この世界で使える金を持ち合わせていない。このままでは行き倒れ、帰宅をしても孤独死になってしまう。途方に暮れたところで、家電店に若い痩せた男が入ってきた。肌が白い。「単一の電池を・・・」と言ったところで、ゴホゴホと口を押さえて倒れこむ。指の隙間から見える、鮮血。小説の中でしか知らないが、即座に結核と言う単語が思いつく。店主は男の様子を気にせず、「ろうがいかい。向かいの店のホメオパシーが効くよ」と電池を出してくる。これは、不味い。
しんかいは、危機を感じて慌てて電器店の外に出た。ドンと人とぶつかる。「ごらぁ、前を見て歩け!」と旭日章のついた帽子をかぶってサーベルをつけたおっさん、明らかに警官に怒鳴られる。反射的に「すいません」と謝るが、警官はしんかいを上から下まで舐めるように見ると、「おまいさん、なんちゅー格好をしている。ちょっと署まで来い。三日はぶち込んでやる」と言い出した。その瞬間、中で物が落ちて割れる音がした。「お客さん、ちょっと、しっかり」と言う店主の声がする。警官はそちらが気になったのか、店の中に入った。
しんかいは、その隙を見逃さず走り出した。一瞬「逮捕されれば食事は出るかも知れない」とも思ったが、この体制国家的な異世界では逮捕されれば拷問を受ける可能性もある。どこにも行く宛てが無いと言うわけでもない。持って来た封筒の裏側には、住所が書いてあった。何者かは分からないが、「鈴木幸子」を頼る事にしよう。少なくとも、この世界のしんかいを知っている人物である事は確かだ。
はあちゅうに関しては今までも童貞いじりは非難はされても止めなかったという経緯がある。
言い訳だらけだったりするしね。
彼女は『他人への共感』や自省みたいな能力がない。基本的に自分を売る、自分のみ感じたことが彼女の世界という所がある(最新の著作もそんなテーマ)
だから彼女の童貞いじりをやめさせるには『彼女の中で「自分の要素」をいじられるのはこんなに辛いんだ』という事を彼女自身の中で感じるしかない、と思ってる。
彼女の中の世界ではネガティブな要素に対しても愛があれば大丈夫みたいなので行き遅れって言い続けたいと思うよ。
(いや、はあちゅうさんの行き遅れていく姿を見ると愛が止まらないですよ、まぁあれだけ一部男性へのDISを繰り返してたら男性観点で結婚なんて考えられない、というのは当たり前ではある。が、それでもやめられない、そして行き詰まりつつある状況で次のキャリアを作ろうとする姿。傾きを変えると様々な色を見せてくれる万華鏡のような精神性は素敵です!このままスクスクと行き遅れて頂いて新しい地平を切り開いていただきたく)