はてなキーワード: 経典とは
海外ファンタジーはなかなか翻訳されることがなく、翻訳されてもシリーズが途中で止まることも多い(マラザンみたいにね)。
ということで必然的に原書で読むことになるんだけど、同好の士の参考になればと思い、近年読んだものも評価をまとめた。
ファンタジーに限らず、出版社からちゃんと出版されるものと自費出版とがあって、近年は自費出版ものも質が大変向上している(とはいえ玉石混交)。ざっくり言うと、自費出版の大半はライトノベルのような内容とクオリティ。
アポカリプスものが大流行したSF界のような大きな傾向がファンタジーにあるかというと、ちょっとよくわからない。エピックファンタジーよりもダークなものが売れているように思う。
てことで近年読んだ本の中からいくつか紹介。あくまでも個人的な趣味です。
(後半疲れたので作品紹介は適当になった。これは一部でまだ大量にあるので時間があれば)
最of高。ダークが好きなら迷わず読め!!
Rukaという主人公はここ10年で読んだ小説の登場人物でトップクラスに好き。
「Ruka, called a demon at birth, is a genius. Born malformed and ugly into the snow-covered wasteland of the Ascom, he was spared from death by his mother's love. Now he is an outcast, consumed with hate for those who've wronged him. But to take his vengeance, he must first survive. 」
母の教えに従いRukaは自分が殺した相手の墓を心の中に作り埋めてあげる。そのうち、心の中の墓場に幽霊が出てきて……
ダークでグロテスクなラヴクラフトを思わせる独特の世界観。とても良い。
「One hundred years ago Nall's Engine was fired on the enemies of the Republic, and in its wake it left a blackened and scarred landscape known as The Misery. Beyond The Misery, a wasteland of corruption and dark magic, reside the even darker entities known as The Deep Kings. They want nothing more than to destroy the Republic, the realm of men」
「誰かが俺たちがくることを忠告しやがった。信者たちは空の部屋と違法の経典をいくつか残して姿をくらました。食べかけの皿、開きっぱなしの箪笥の引き出し。持てるものだけ持ってThe Miseryに逃げ込んだ。制服を着てたころ司令官が言ってたな。The Miseryに好き好んでいくのは追い詰められてヤケクソになってるか馬鹿野郎か欲に駆られた奴だけだって。あいつらはそれだけヤケクソになってるんだ。俺は10人くらいの馬鹿で欲深い男たちを集めて奴らを始末しに出かけた。」
武侠/ドラゴンボール/RPGの影響感じさせるシリーズ。とても好き。
madraというエネルギーを使えるものだけが様々な武力や能力を向上させることができる世界で、madraの適性がない少年Lindonは「空」と書かれたバッヂを胸に下げている。
ある日、天上人に命を救われた彼は、未来を見せてもらうが、そこで見たのはなんとかmadraを使えようになり幸せに生きる自分の姿だった。しかし、同時に村が神獣に破壊される運命であることも知ってしまう。村を救うために、死に物狂いの特訓が始まる。
・Founders 三部作(未完結):魔力をベースに構築されたスチームパンク世界。
「You've got to be careful when you're chasing a murderer through Bulikov, for the world is not as it should be in that city. When the gods were destroyed and all worship of them banned by the Polis, reality folded; now stairs lead to nowhere, alleyways have become portals to the past, and criminals disappear into thin air.」
ゴミを漁って生活しているRachelが、馬鹿でかい熊の化け物Mord(空も飛べたりする)の毛にくっついていた変わった生き物を発見してBorneと名付ける。Borneはすくすくと成長していき……
これまたダークな作品。
魔力を持ってると殺されてしまう世界で生まれた少年の話。ありがちだけどよくできてる。
「押しよせる帝国軍. 迎え撃つは空に浮かぶ要塞―― 女帝ラシーンが帝位に就いてから七年。以来マラザン帝国は多くの自由都市に侵攻し、大陸をまたぎ、海を越えて版図を拡大してきた。そして侵攻作戦がジェナバキス大陸に及んだ今、若き貴族将校パランは、秘められた魔道の力を知ることになる……空中要塞や異種属との攻防、兵士たちの野望と葛藤、そして渦巻く神々の思惑――猛り狂う運命の波濤を荘厳かつ凄惨に描き、現代最高との呼び声も高いファンタジイ群像劇」らしいよ。
少しだけ翻訳されてたけど、原書は完結済み。キャラクタードリブンではなく世界観を見せていくやつなので、合わない人には全く合わない。あと一巻が読みにくいので、そこを過ぎれば、なんとか行けるかな。
ちなみに、8巻まで読んで今は休憩中。
賛否あると思うけど、4巻の「House of Chains」までは読んで欲しい。
シリーズ名の通り、次々と登場人物が死ぬ。しかし、死んだ人物が普通に活躍したりもするので、その辺が後半になると弱い感じがしてくるところか。
「A nobleman from an infamous family, imperial legionary officer, fighter and a right proper bastard of a man… Captain Ben Stiger finds himself reassigned from a crack legion to the rebellion simmering in the South. Placed in command of a truly terrible company, the 85th Imperial Foot, he is unknowingly sent on a suicide mission to resupply an isolated outpost, the garrison of Vrell.」
割とたまによくあるんだけど、ローマ帝国風とファンタジー要素を合わせたやつ。
結構読ませる。
「The king's scholar, the magus, believes he knows the site of an ancient treasure. To attain it for his king, he needs a skillful thief, and he selects Gen from the king's prison. The magus is interested only in the thief's abilities. 」
「When Caldan’s parents are brutally slain, he is raised by monks and taught the arcane mysteries of sorcery.」既視感のある設定!
絶対に読まない方が良い。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、袈裟どころか経典も木魚もハゲも憎い
何かの界隈で悪いことしたやつがいたら、外から見たら全員キチガイに見える
それが当たり前の感情だろうがよ
だから俺からしたらゲーセンのガンダムゲー好きも鉄オタも型月好きも東方好きもラ!好きもアイマス好きもバンドリ好きもウマ好きも右翼も左翼もヴィーガンもフェミニストも弱者男性も全員キチガイであり、それが好きな時点でキチガイのお仲間
どれだけマトモなのがマトモアピールしようが、そこに属してる時点でキチガイ、自浄しない時点でみんなキチガイ
マトモであること示すならマトモなやつがキチガイなやつ全員殺すか界隈から消すかしろよ、それでも俺は見方を改めねえがな
もっかい言う、嫌いなやつからしたらそれ好きなだけでキチガイです
攻撃対象です
そのつもりで
なんかとりあえず出家を優先してみましたって次元でもなさそうなんだよな。
ブッダはなぜ女嫌いになったのかって本の説明文がなかなか酷い。
ブッダとは「悟った人」の意味だが、その悟りへの歩みは、生後間もない息子に「ラーフラ(=邪魔者)」と名付け、妻子を置き去りにして出奔することから始まった。「人とかかわるな、交わるな」と説いたブッダは、「女の究極目標は相手を縛り支配すること」と断じ、女の出家に最後まで難色を示し続けた。ようやく尼僧を許可した後も、女の存在が仏法を駄目にすると愚痴って弟子を悩ませる。この徹底した女性への警戒心、恐怖感はどこからきたのか。原始仏教経典を精緻に読み込むことで見えた、生みの母、育ての母、妻との愛に苦悩する、知られざるブッダの姿。
いやいや、そうは言うけどさ。
みてよこれ。
https://silkhat.yoshimoto.co.jp/projects/1769
西野をダシにすることで1800万円集めてんのよ?
しかもリターン見てよ、ほとんど元手かかってないのばっかりよ?
全額、今回の「オンライン公演」の制作費と、オフブロードウェイミュージカル『Poupelle of Chimney Town』の本公演制作費に充てさせていただきます。
って言ってるけど何パーセントが制作費に行くかわかったもんじゃないわ。
でもプペルのミュージカルの製作費にあてます!応援のため!って言ったらこれだけお金を出す人間がゴロゴロいるのよ。
その10分の1でもおこぼれ預かれれば同じ西野オンラインサロンに属してる情弱たちから180万円を集められるわけよ?
私はその1800万円集めたセトちゃんなる人物と顔見知りでちょっと応援してもらえるところまで頑張ったのよ。
私はセトちゃんのプロジェクトに私は何度も何度もお金を払ったわ。
そうやってようやくセトちゃんにかまってもらえる立場を手に入れたのよ。
ここまで彼に取り入るために私がいままでどれだけ苦労してきたと思ってるの。
私は西野オンラインサロンの情弱を糧にして、今まで西野サロンにつぎ込んだ分のお金は取り戻すしこれからも西野オンラインサロンを使ってのし上がって見せるんだ!
シルクハットっていうサービスは吉本が運営しているクラファンのサービスなのね。
クラファンって手数料が10%から15%って言われてるわけだけれど。
だから、西野様は頻繁にここを使うことで吉本様を潤わせてるわけ。
西野様ですら吉本様からバックアップを受けるために吉本様にこれだけ捧げてるの。
私が凄い人からバックアップ受けるために西野様やセトちゃんに多めに支払うのは当然のことでしょ!
どれだけ世間からバカにされてもかまわない。おっしゃる通りと認めてもいいわ。
なんならオンラインサロン生からも冷ややかな目で見られてきたんだからいまさらそんなもの屁でもないわ。
でもね。
何も行動しないただの受け身なオンラインサロン生がいる限り私はオンラインサロンの中では上位なんだ。
そして、オンラインサロン生から薄く広く搾取することで、私も勝ち組になるんだ。
私は西野様に貢献したという実績を積んで、これからもっとでかいクラファンを成功させるんだ。
セトちゃんと同じような立場になって、もっともっと美味しい汁を吸わせてもらうんだ!
……そうなる、はずだったのに!
Twitterの連中に!嫌な形で!晒上げられて。
まずいまずいまずいまずい。
あいつら、ネットで暇つぶししてるだけのくせに、私の邪魔をするなんて!絶対許せない!
でも今は何とかこの場をしのがないと。
このままじゃ今まで耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで
好きでもない西野様やセトちゃんに尽くしてきたのが全部無駄になってしまう!
バカな信者のふりをして西野様の経典をうのみにしてるアピールをしなきゃ!
何が何でもこんなところで見捨てられてたまるか!
お願い、死なないで私の信用貯金!
信用はまだ残ってる。ここを耐えれば、Twitter民に勝てるんだから!
私の渾身のnoteをくらえうおおおおおおおおお!
一見、多くの若い男が経験する「女遊び」の延長のように見えて、独自の生態系が面白かったので記録。
一言にナンパと言っても、目的や方法によって、いくつかのタイプがある。
複数に属していいたり、タイプが違っても気が合えば合流したりするので、うっすらと別れている感じ。
彼らの多くはTwitterアカウントを持っていて、地域や属性ごとにクラスターという集団を作っている。
(コロナが流行る前にTwitterでライトにこの言葉を使っていたのは、ナンパ界隈とSHARPくらいだと思っている。)
なぜ集団を作るかというと、ひとりでやるのが辛いからである。ナンパというとチャラチャラしている遊び人みたいなイメージがあるが、実は大手企業のサラリーマンや公務員など、真面目な人が多い。彼らは暑い日も寒い日もひとりで街に出て、自分の目的のために淡々と声をかける。楽しいことなんてない。道で知らない人に声をかけるということ自体、かなり精神負荷が高いし、シカトされたり舌打ちされたりして、気持ちが滅入ってしまう。だから合流する。同士と話して、お互いに励まし合う。
俺もよく合流したが、何人かで集まり、「最近はどうですか?」「お互いがんばりましょう!」と近況報告をしたり、励まし合ったりして、その後また散り散りになって街に消えていく。会話だけ聞いていると、まるで休日に趣味の山登りに来たおじさんが、すれ違いざまにする会話みたいだった。
ソロナンパを楽しむには、高確率で成果が出せなければならない。多くの人にとって、辛い、厳しいことが多い。だから、合流で書いたみたいに、スキルアップ・自己啓発として山登りのようにやってる人が多い。1on1で相手の心に深く入り込む技術が求められる。慣れれば一番成果が出やすい。(複数人の場合、女の子は自分の気持ちより、友達の目を気にするため)。
グループナンパは歓楽街やクラブの近くでグループに対して声をかける(コンビが多い)。とにかくノリと勢いと容姿が大切で、楽しそうな雰囲気を作り出し、そのままホテルに持ち帰ったり、自宅に呼び込んだりする。結果、4Pやクルクル(相手を交換して2回セックスする)をして、非日常的な体験ができる。パス即(即したあと別の人にパスして即)なんかもよく聞く。もちろん女の子も同意のもと。自己啓発的な要素よりも遊び要素が多く、楽しい。
→パス即の5連続とかも聞いたことがあるから、その女の子は同じ日に5人の男に抱かれていることに…、そういう女の子はノリノリで来るらしい。
今一度、お付き合いいただければと思います。
まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わず、ブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからからに渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。
「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」
「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」
とコメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います。
お祖父様の生前のご希望・ご親族のわだかまり・元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。
一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります。
たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。
しかし同時に、私が一方的にご親族を非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。
元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗の教義や宗旨そのものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております。
身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体と言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。
今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。
ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。
そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないかと検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。
また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います。
お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。
合掌
お釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、
と仰せになりました。
お釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実 = 悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。
100人いれば100通りのものの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事をねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。
信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。
信じてくださった方には、
とお伝えしたく思います。
法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。
どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。
という言葉を遺しておられます。理想的とはいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法は平等に一切に施されるべきなのです。
これは浄土真宗の三大経典のひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子の阿難(あなん)に対して、
と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております。
我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています。
さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。
たとえば、もしもあなたが、
「世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」
と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?
「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)」
「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね」
と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?
我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。
世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門の尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通の人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗の僧侶なのです。
という言葉で表され、また
と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。
であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。
ありがとうございます。しかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。
もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間と人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議な現象は、なぜ起きたのでしょうか。
今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり、私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。
すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています。
私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています。
と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対の事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき、今日まで生かされております。この歓喜と慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます。
真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります。南無阿弥陀仏。
件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。
「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」
と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。
結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏。
現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います。
準備ができ次第、こちらの投稿に言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。
最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれるきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます。
河口慧海のチベット旅行記がKindleで無料だったので読んでいたら、
ふと慧海の言動や思想が非常に失礼とは思いつつも若干拗らせた同人女ぽく、ついつい同人女の感情を思い出してしまい、
そして連鎖的に、あの話ほとんど仏教エピソードでも似た感じあるんじゃないか、などと思い至ってしまった。
初めての訳経地獄
素晴らしき過疎宗派
空海が悟った日
原作(釈迦)じゃないのに神扱いされて解釈が準公式みたいに崇められまくってるのマジで無理というご意見もなども空海なら満たしてる気がする。
他には仏教でもないけどシー◯派(ム子孫原理主義)と敵対しているスン◯派のサ◯イド(ム子孫)ほど複雑な心境の方々はおるまい、と思ってしまう(厳格なム◯リムの方には怒られてしまいそうだが……)
去年
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
を書いた増田です。
去年は散々な一年でしたね。
私も、去年は個人的にも色々と散々な年だったんですが、そんな中でも「年始には半分釣りでタイトルつけたけど、ほんとに人生変わったかも」と思うところがありました。
まぁ正確には、変わってきたかも、、、?ですが。
以下つらつらと書いていますが、まとめると
「100分で名著とは別のジャンルで、去年実感した「知識がつながって読めるようになる」が再現できた」
それでいて、
それによって、去年一年で少し世界が広がったと思いますし、それでいつつ、本業で必要な知識の深化も出来たと思っています。
これが何故出来たかと言うと、一昨年本業と関係ない本を100冊読むという行為をしたメタ効果じゃないかな、と思うわけです。
以下詳細。
いきなり自分語りスイマセン。
去年もちらっと書きましたが、私は趣味の一つとして持久系スポーツをやっています。
レベルとしては社会人アマチュアでは上位1-2%くらいには入っていましたので、まぁまぁ本気の趣味です。でした。
が、一昨年(2019)の末に足をボキッとやりまして、都合4ヶ月ぐらい走れませんでした。
長い時間をかけて鍛えてきたものが為す術なく失われるのを見ているだけという喪失感は中々きつくて、だいぶメンタルやられました。
の上、御存知の通りコロナで夏以降の大会も全て中止、日常復帰後の練習モチベーションも上がらず正直一年で別人レベルまで体力落ちたと思います。
健全な肉体に健全な魂が宿る、あれは「だったらいいな」という話らしいですが、少なくとも肉体が「健全でなくなるカーブ」を描いているときには魂も降下カーブを描きますね。
振り返るとマジで生活全般にやる気の出ずやっとメンタルが上向いてきたのが晩秋ごろ、という一年でしたが、唯一分量を維持ないし増加させられた生産的アクションが読書でした。
結構これに精神的に救われていた部分もあると思います(クソみたいな1日だったが一応本は読めた。。。と言う感じ)。
春頃はもう死にたいとか思った瞬間もあった気がしますが、今は寝たきりになっても少なくとも本は読めるな、という心持ちでいます。
気持ちがどんだけ落ち込んでいても、ベッドの中でできる生産的活動がある安心感があるという感じです。
100分で名著解説本で掴んだペースを維持したかったのもあり、読書の方向性を広げる方向として去年はNHK出版のテキストを中心に選びました。
本の物理的サイズ、厚さ、章毎の分量等々が似ていたからです。(これは今まで読んでいた場所、時間、等々がそのまま続けられるということです。)
あと、NHKが好む文化人というのは大体決まっているので、百分で名著シリーズで知っている人が著者だったりして安心感あります。
結果読んだ数(下記しますが、28冊)が物語っていますが、良かったです。
NHKは番組内容とか受信料であれやこれや言われることもありますが、教育系のコンテンツは極めて良質だと思います。
前置きが長くなりましたが、特に読んでよかったのが宗教の時間シリーズです。
最初の7-8冊程度は、これは求めているレベルを超えている、九分九厘内容忘れるなと思いながら読んでいましたが、
これも何冊か読んでいうちに「知識がつながって」読めるようになってきました。
この年になっても、何かを身につける、学ぶことができる。それは読書による独学だけでもある程度可能である、ということは個人的に心強いメタ経験になっています。
逆に言うと最初の数冊はほぼわからないままなので、数年後また一気に読み返したいですね。
去年は、自発的にはまず読まないであろう本も、読んでみたいと思っていました。
そのための方法として、友人におすすめの本を聞くという方法を取りました。
また、一週間以内くらいには実際に読んで感想を伝えて内容についてやりとりするというマイルールを作りました。
これによって狙い通り、新しい関心フックが幾つか作れましたが、想定外の効果としてある程度親しくなった人とさらに距離を縮める手段としてかなり有効だったように思います。
一昨年以前の私だったら、それが有効だと知っていても負荷が大きかったでしょうが今なら別に無理せずやれる、むしろ楽しい、というところがポイントです。
今のところ猛烈につまらないものを紹介してきた人がいないのもありますが。。
何かについて知りたいと考えた時、ネットで検索するという初動は変わりませんが、さらに知りたいことがあるor体系化したいor記憶への定着率を挙げたい時、本を読むというアクションが自然に追加されました。
また、読書をするにあたって、ちょっとした障害になっていた事が怖くなくりました。例えば下記のように。
・中断:面白そうな本を見つけたらそっちを読み出してしまう。中断してもまた一週間もしたら読めるのだから。もし中身忘れていたら都度振り返ればいいのだから。とシンプルに考えられるようになりました。自由です。
・積読:いま読めなくても恐れることはない、そのうち読めると素直に考えられるようになりました。流石にそろそろ消化に一年ぐらいは掛かりそうなくらい本が積まれていますが、現在のところ三年後の自分を信じられます。
・読書履歴・読書キュー汚染:穏やかでない単語を使いました。これは要するに「話題になっているけど、こんな俗っぽい本を読む時間を~もっと重要な本が~」とか考えなくなったということです。気になったら読みます。
これらって結局全部やらない言い訳だと思うんですが、単純に読書に対する心理的ハードルを下げて読書量で解決するというパワープレイ(一昨年の私比)が可能になりました。
一昨年解説本を100冊読んだのは運動部一年生がやるような練習のための練習だと書きましたが、あれはそんなに外してないなと今でも思います。
百分で名著シリーズ:12冊(2021年1月分の「資本論」も、もう読みました)
で、個人的に出色なのは教養系の読書がたっぷりできたことより、仕事の本がたくさん読めたことです。
去年までは年間7-8冊ほど読んでるかな?という感じでした。
ところが、今年は読書に占める仕事本の割合は減ったにも関わらず、倍以上読めました。
本を読むという行為自体がスムースになったと言うか、「仕事の本は(趣味・教養の本より)重要である」という心の中の序列がどうでも良くなり、いつかは読めるのだから、になった効果だと思います。
はてなあたりで使われがちな「文化資本」「分断」あたりの用語の社会学的なバックボーンについて理解できました。
はてブ見てると「社会学者って、、、」と思うシーンも多いですが、必要な学問だと捉えなおすいい機会になりました。
面白くない話として社会を伝えて分析するのが社会学、という分類はなるほどと思いました。
逆に言えば、美しい弱者、貧者のストーリーなんかばっかり見ている人は社会学者とは言えないのだなと。こういう人はてブあたりでよく見る気もしますが。。。
年末だったのもあり、久しぶりに放送の方も全て見たのですが、やっぱりできたら放送も見るべきですね。
解説本の著者の言いたいことが、スルスル入ってきます。それと、伊集院光さんやっぱすごいなと。ああいうレスポンス返せる人間になりたい。
能楽師の安田登氏解説の古典説明本です。下記する「史記」でもそうですが、
漢字の成り立ちに纏わる深い知識(今ある漢字が成立した年代には開きがある)から独特な解釈をされています。
これが真実なのかはわかりませんが非常に興味深く、この著者の著書をあたったり、この視点で更に歴史を追ってみたいなと思わせてくれる本でした。
安田登氏の能舞台も見てみたいと思ったのですが、昨今の状況では難しいですよね、、、今年あたり何処かで見に行けるといいな。
タイトルのとおり、経典や歴史的事件ではなく残っている手紙から親鸞聖人の人物に迫ろうという趣旨の本です。
上記したとおり「何冊か読んだ効果」が大きいのでしょうが、これ読んで、はじめて浄土真宗わかった気分になりました。
ちなみにうちは曹洞宗なんですが、曹洞宗はいまのところわかったと思う瞬間がないです、、、
観無量寿経をベースに、浄土系の教えが中国~日本で花開いていった過程を追った本です。
私が読んだ中では最も単独で理解しやすく、去年おすすめした「集中講義・大乗仏教」と合わせて読むとより日本仏教の流れが理解できるかなと思いました。
宗教の時間は多くが前後編の2冊構成なのですが、1冊構成なのも読み返しやすくて良いです。
著者の釈徹宗さんには、もっといろんなお経の解説書を書いて欲しい、、、!!
単純に、日々の話題の元ネタとして興味深くまた著者が「面白い人」であると感じてとても読みやすかった。
独立した章立てで分割した読書もしやすく、何方にもおすすめできる本だと思います。
子供向けに実施された19世紀の科学講義を書籍化したもので、科学レクチャーの傑作と言われているそうです。
当時はプロジェクター等も無いため図があまりなく、正直、本として読んだだけでは当時の雰囲気を十分に味わうことは出来ないかと思ったのですが、
ファラデーという当代最高の学者がが全力をもって子供たちに科学の楽しさを伝えようとしていることはとても良くわかりました。
去年は西欧文明というか西欧社会の限界的なものが色々見えた年かなとも思うのですが、ソロモンの指輪もそうですが、こういった本を著した方々が繋いできたものはやっぱり尊いなと思います。
100分で名著の解説本を読んでから、絶対に読もうと思っていた原典の一つ。
下記の、薩摩焼窯元めぐりと合わせて水俣に行く前に読みました。
内容については私が今更感想をいうのもあれなんですが、「読む前と後で違う自分になっているような気がする」読書体験ができる数少ない本の一冊と思います。
あとがきにある通り、書かれていることは読んだ印象より遥かに創作の比率が高い、ということを差っ引いてもこれは日本人全員が読んだほうがいいんじゃないかと。
恥ずかしながら初・司馬遼太郎でした。焼き物が好きで窯元めぐりも趣味なもので、薩摩焼の里をめぐる前にと思って読んだんですが、面白かったです。
声に出して読みたい日本語というか、何でしょう、文章がうまいと言うより文章の響きが格好いいというか、流石昭和の大作家ですね。一気に好きな作家リストに載りました。
今、ちょっと重めのものもと思って坂の上の雲もちょっとずつ読んでいます。
タイトルの付け方も最高にうまいですよね、、頭にのこるというか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/77739
みんな大好き初詣も、おみくじ、占い、お盆、クリスマス、バレンタイン、ジューンブライドもみんなスピリチュアルでしょ?スピリチュアル嫌いな人がどうやって折り合いをつけているのか知りたいくらいだよ。
なんとなく、好き嫌いを追記しました。結果結構好きな人になってしまった。
基本的には行かない。好きな人・会いたい友人などに誘われたら行くかも。
嫌い。
話のネタにはなるので友人といて100円ならガチャガチャ感覚で引くかも。
友人と楽しめる場合は好き。
嫌い。ただし占い自体に金を払っているわけではないもの(テレビや雑誌の一コーナーなど)には興味はないが嫌悪感もない。
親族で集まるなどの予定があれば参列はする。親族がいなければ日付もわからないだろう。
休みがあるという点では好き?
チョコレートを食べる日。
スピリチュアルなの?迷信的な意味?知らないしそもそも関係ないので特になし。
そういえば、友人などで「ジューンブライドだから6月にしました」って例を聞いたことがないな。そんなに根強くない?
好きでも嫌いでもないが、ジューンブライドという概念がなければ6月のガチャが花嫁衣装になることもなかったとしたらあってよかった。
基本的に、スピリチュアルに金を払うことに嫌悪感があるので、金がかからなければわりとどうでもいい。クリスマスやバレンタインは食品に金を払っているのであって、神などに向けてお布施をしているわけではない。
あと、「否定すると世間的にやばい」ものは公言しないようにしている。
多分そういう意味じゃないと思うんだけど、「金を払うと願いを叶えてくれる」というのが「神」という言葉に対してあさましくて嫌い。
「並ぶ」「儀礼的なことをやる(手合わせる秒数とかわかんなくて居心地が悪い)」のも好きじゃないなと思った。
存在は信じていないが、単語・定義としては理解できる。賽銭の項目で書いたが、自分自身「神」という単語に神聖性を感じているので自分にもスピリチュアリズムがあるような気がする。
フィクションの概念としての神は好き。現実に存在するとされるならそれは嫌い。
まだ未経験だが、やりたくないし、多分やらないと思う。
嫌い。呪いの手紙みたいな、悪いことで人を縛るのはやめようよ。
家族のをやる機会があればもちろんやる。でも自分のときはやらないでほしいなあ…世間的に難しいだろうか。
個人的に、葬式的なものには何も思わないけど、坊主が嫌い。坊主を呼ばずにやりたい。
見えるとか言い出す人とは距離を置く。他人にそんな話するメンタリティ含めて。
嫌い。
フィクションならなんとも思わないが、実録と銘打っているものは嫌い。
関わらないようにしている。海外には住めなさそう。
勧誘で訪問されたとき、断るときに心が痛いのでなくなってほしいなあと思う。
あと、キリスト教や仏教などそのものの教義や経典にはわりと興味がある。
関わらなければ自分にはあまり関係がないので好きでも嫌いでもない。
関わらないようにしている。
関わらないようにしていても往々にして向こうから接近してくることがあるので、どちらかといえば嫌い。
ほか、何かあったかな?
予定もないしあんまり知らないんだけど、家建てる前になんかやる儀式?も建てる人間が金払うんだとしたらま~~~~じで嫌だなあ。
「死んだお母さんが悲しむよ」という方便的な説得(しかも実際それで立ち直ってしまった人とか)とか、「お米には88の神様がいて~」「バチが当たるよ」みたいに子供を諭すことについてはどう思うのか気になる
実際立ち直れてしまった人にはよかったねとしか思わないが、自分が言われたら嫌だ。生死に関わらず勝手に他者を代弁するなと思う。
お米のやつ、聞いたことがなくて、ピンとこない。教養がないって言われそう。
おそらく、自分を育てた親もこういうのに関心がなくてあまり言ってこなかったんじゃないだろうか。
結婚式の例に漏れず予定はないけど、自分が育てる立場なら子供を諭すときは具体的な理由を明示したい。難しいんだろうけど。
どうでもいい再追記
「〇〇はスピリチュアルじゃない」系のコメントがめちゃくちゃあるけど、発端は最初に引用したブコメを受けてのものなので知らん。