はてなキーワード: 生演奏とは
キュレーターとは,現代美術の文脈において展覧会の企画・運営等を総合的に指揮する人のことである。どんな作品を取り扱うのか,どんなタイトルの展覧会にするのか,展示の順はどうするのか,ライティングは?解説は?チラシに掲載するキャッチフレーズは?等々。
今日のクラシックにおける自主企画の演奏会は,多くの場合「プレイヤーがやりたい演目をやる」ということになっている。もちろんそこにコンセプトやテーマがあったりする場合もあるのだが,美術作品とお客さんをキュレーターという専門家が架橋している美術市場と異なり,クラシック市場にはキュレーションを専門に勉強している人がいない。現状コンサートのマネジメントは演奏家がやっているわけだが,あまりに画一化しすぎているのではないか。クラシック音楽にも,お客さんと作品をキュレーションで架橋する発想があってもいいのではないか。そのあたりのことが気になってのツイートだった。
ということで,このnoteではこの件についてもう少しだけ深堀してみようと思う。久々の投稿ですが,お付き合いください。
目次
1.現状は相変わらず「上手い人一強」の世界
5.まとめ
1.現状は相変わらず「上手い人一強」の世界
繰り返しになるが,現状のクラシック系自主企画コンサートは「演奏家がやりたい演目を披露する場」として機能している。これ自体が悪いわけではないし,演奏家の独りよがりだと批判するつもりもない。もちろん演奏家は選曲やプログラムノートに苦心しているし,そこには確かに工夫の痕跡がある。
でもね,正直クラシックのコンサートの演目って似たり寄ったりじゃないですか。
コンサートに「一度も聞いたことのない楽曲」が含まれていることは稀だし,大体定番曲が並んでたまに新曲初演があるくらい。クラシックのサックスなんかはまさにそうだ。クラシック音楽が「過去の音楽を再現する」文化である以上,演目の重複は避けられない。まぁこれは仕方のないことではある。
ただそうすると,当然誰しもが「同じ曲を聴くなら上手い人の演奏聴きたいよね」と思うようになる。つまり,技術で劣る演奏家の演奏会に行く理由がなくなってしまうのである。
このnoteでも何度も言っていることだが,クラシック音楽は特に「文化的に醸成された良さや美しさの基準」が強烈に機能するジャンルで,「この人あんま上手くないけど個性的で好き!」とか「この若手は下手だけどトッププロにはない魅力があるなぁ」みたいな評価が生じにくい。また,特にクラシックサックスのように難しい近現代曲が必須のレパートリーになっているジャンルは,必須とされる技術レベルが結構高い。例えば音色がめちゃくちゃ魅力的だったとしても「指が回らない人は使えない」「スラップタンギングできない人はコンクールの一次予選の課題曲が吹けない」みたいな悲しい評価が下される。
結果的に,クラシック演奏家市場では「楽器の上手さ」が保障されているプレイヤーにしか人が集まらない状況が生まれやすいのである。これは,ブルーハーツと東京事変がどちらもCDになって成功できるポピュラー音楽とは事情が全く違う。ブルーハーツみたいなパンクロックって,演奏したり作曲したりするのに必要な西洋音楽的技術が結構低いんですよ。川谷絵音や東京事変やKing Gnuの曲とは複雑さが全然違うわけです。それでもブルーハーツとかモンゴル800とかが世間に認められてCDを出しているという事実は,「ポップスはクラシックに比べて多角的に評価されている」ということの証左だろう。個人的にはとても健全だと思う。一方のクラシック演奏家市場は,「楽器の上手さ」がほぼ唯一の評価の観点として強烈に幅を利かせているのである。
「プロの世界なんてそんなもんだよ」というかもしれない。でも,僕はこの「楽器の上手さというパラメーターが最強の世界」が気にくわないんですよね。
例えばこれが「クラシック演奏家育成」をテーマとするソーシャルゲームだったら,と思って考えてみてほしい。
このゲームでは,プレイヤーが最初のガチャで引いたキャラを「一流のクラシック演奏家」に育て上げることが目標とされている。当然キャラクターには「楽器の上手さ」というパラメーター以外にも「音楽史についての知識」とか「自身の活動への俯瞰的視座」とか「個性的な音色」とかのパラメータもあるわけで,キャラによっては「音楽史についての知識」が先天的に強い,みたいなやつもいる。当然プレイヤーもその辺をコツコツ育てたりするわけだ。なのに,「音大卒業」というチュートリアルイベント以降,ゲームで勝っているのは「楽器の上手さ」のパラメータに全振りしてキャラ育成をしたプレイヤーのみ。もっといろんな勝ち方があるとおもってたよ…最初のキャラガチャで「音楽史についての知識」が強いキャラを引いた人はどうしたらいいの…運営しっかりしてくれよ…
まともなゲームの運営なら「これだと勝ち筋がひとつしかないゲームになってしまうな。よし,他のパラメータを育成した人が勝てるようなイベントを投下するか!」などといった対応がなされるはずだ。しかし,このゲームにおいて運営がそのような神対応をすることはない。いつになったら修正はいるの?まだなの??もう勝てそうにないし…リセマラするかゲームやめるかどっちかだな…。
…まぁでも現実世界にはゲームの運営はいないし当然リセマラもできない。だれもゲームバランスの調整をしてくれないのだ。結果的に,「楽器の上手さ」が一定値を超えていない人は今後も仕事がないし,今仕事がある人でさえもそれを上回るパラメータをもった若手が現れた瞬間に仕事を取られる世界になっている。多様性とは程遠い市場が出来上がってしまっているのである。
そこで,「せめて僕の周りにいる音楽家には幸せになってほしい(そして一生楽しい飲み会に付き合ってほしい)」と考えている僕は,「演奏会のプログラミングやプログラムノート等に拘りまくってお客さんの聴取経験を素敵なものにデザインできれば,技術でトッププロに勝てない演奏家にもファンがつくのでは?これってつまりキュレーションでは?」と考えた。
「モナリザ」みたいな超有名絵画を目当てに美術館に行く場合を除き,僕たちは「特定の絵」を見にいくというより「その展覧会でデザインされている体験」に価値を感じて美術館に足を運ぶ。例えば僕は以前「ベルギー奇想展」という展覧会にいったのだが,一つ一つの絵のクオリティというよりも,複数の絵の鑑賞を通して得られたその展覧会全体の印象のようなものに興味を覚えた。「作品の価値」ではなく「作品群を総体として経験することの価値」に感動したのである。まさにキュレーションの賜物だったのだろう。
また,「ベルギー奇想展」というタイトルやチラシに載せられていたペストマスクみたいなデザインのキャラクターにも強烈に惹かれた。頻繁に美術館にいくタイプではない僕でさえ,「行ってみたい」と思えたのである。そして,この辺のこと全てを把握し,「美術館での体験」をデザインする人がキュレーターなのである(と僕は思っているんですがあってますかね。もしかしたら広報にはそこまでコミットしないキュレーターもいるのかもしれない)。
一方,クラシック音楽の演奏会はどうだろうか。そこに「体験のデザイン」という発想が見て取れる場合は少ない。もちろん選曲や曲順にこだわりが詰め込まれていることはわかっている。それでも,普段美術館に行かない僕に足を運ばせたような,「作品群を総体として経験することの価値」を際立たせるようなコンサートってなかなかないんじゃないかな。少なくとも,多くのプレイヤーは,「コンテンツは演奏(楽曲)のクオリティ,そのほかはあくまで付属品」だと考えているし,むしろ演奏のクオリティのみでガチンコ勝負することが美徳だとされている感さえある。でも先ほども指摘したように,この土俵で戦って勝てるのは「楽器の上手さ」というパラメータが抜きん出ている人だけだ。
キュレーターは自分で作品を作れない。その代わりに,個別の作品の羅列に「作品群を総体として経験することの価値」を付与する。演奏家も,キュレーターのように体験をデザインすることができれば,お客さんを呼べるのではないか,というのが冒頭で引用したツイートの意図だった。つまり,「楽器の上手さ」以外のパラメータを活かせる場はありますよ,ということだ。
具体的には,音楽史や楽曲分析に関わるパラメータを磨いてきた人は,それを用いてMCや曲目解説,選曲で魅せることができるだろう。その場合,チラシやSNS広報のあり方も抜本的に考え直さなければならない。このへんについては別途記事を書こうかな。とにかく,僕は「楽器の上手さ」のパラメータが高い上位5%の演奏家しか生き残れない現状を打破する手段として,キュレーションの発想を生かさない手はない,と考えている。
とはいっても,「そんなことできねーよ」という声も聞こえてきそうだ。キュレーションそれ自体を仕事にする人がいるんだから,「作品に対する俯瞰的視座をもって聴取体験をデザインする」とかめちゃくちゃ高度じゃん。自分たちは演奏家なんだよ,演奏以外やりたくねぇ!
…まぁもちろん気持ちはわかるんですが,今の僕が「楽器の上手さ」のパラメータで勝てない人にできるアドバイスは,①プレイヤー兼キュレーターになれ,もしくは②プレイヤー兼クリエイターになれ,くらいしか思いつかないのが現状だ。すいません。
クラシックの演奏家って特殊な立場なんですよね。CDやスピーカーがなかった昔のヨーロッパなら,演奏家はまさに一家に一台欲しい人材だったはずだ。演奏家がいないと音楽を聴くことすらできなかったのである。そのような時代背景とパトロンがいてこそ演奏家という仕事は成立していた。でも現代ではbluetoothスピーカーとAppleMusicがあればいくらでも自宅で音楽を聴けてしまう。馬車や人力車が自家用車にとって変わられたように,そして今後タクシー運転手が自動運転にとって変わられるように,中途半端な演奏家はオーディオ機器および音源の中の一流プレイヤーにとって変わられるだろう。個人的には,オーディオ機器や音楽サブスクリプションサービスの発達は,演奏家という職種に対する破壊的イノベーションだと思っている。
だからこそ,演奏家は「他者の作品の再現」以外の価値を作らなければならないのだ。
こういうと,「演奏家だって生演奏という価値を生み出している!!」という反論が聞こえてきそうだ。もちろんわかってます。僕はクラシック音楽愛好家なので,生演奏に魅力を感じています。でも「生演奏は素晴らしいのでサブスクで聴かずに演奏会に来てください!」という売り方をしたとしても,多くの人は,「わざわざホールまでいって中の上くらいの生演奏を聴くより,自宅のスピーカーでトッププロの演奏を聴く方が楽だよな…」と考えるのではないだろうか。コンサートホールまで往復2時間かかるし,演奏会って夜ご飯の時間に丸かぶりだし,拍手するタイミングとかマナーとかよくわからないし…だったら家で聞けばいいや,「楽器の上手さ」ならこのCDの中の人の方が上でしょ?…これが一般人の残酷な本音のような気がする。だからこそ,「作品群の連続体験をデザインする」というキュレーターとしてのスキルを磨いてはどうか,という提案をしているというわけだ。
また,オリジナル作品を作れる演奏家も強いと思う。むしろこっちの方がわかりやすく価値を提示でき,周りと差別化できるような気もする。「他者の作品の再現」や「生演奏」以外の価値を生み出す上で手っ取り早いのは作品を作ってしまうことだ。もちろん,他の作曲専業の人々と張り合うような作品を作るのは難しいしむしろ得策ではないので,毎回演奏するアンコースピースだけ作るとか,曲間に即興演奏を入れるとか,そんなことから始めてもいいかもしれない。
ちなみに,「自分の作品を持った方がいい」と言っているクラシックサックス演奏家出身の僕自身が作品を作っていないのはなんか説得力がないと思ったので,最近気が向いた時に曲を作っています。
以前は声優推しだったが、推しの引退や新たな推しの担当しているコンテンツに飽きてしまい、じわじわと声優オタク界から離れてしまった。
流れ着いた先はここ数年話題となっているVTuber業界。あえて個人名は出さないが歌に惹かれたり、話に惹かれたり、ゲームスキルに惹かれたり……
私は運よく現地のチケットが当たり、さらに発券してみるとステージの間近の座席に座ることができた。
私は声優推しの頃からライブに行く人物であったが、今回初めてVTuberのライブに参戦することになった。
元々配信等で歌唱力に定評のあった人物であり、当日の生歌にとても期待をしていたし、不安もしていなかった。
メタい話にはなるが、VTuberがステージ上にどのように表れるのか、バンドメンバーや観客とどのようにコミュニケーションを取っていくか……等々、技術的な演出面もとても興味があった。
当日は歌こそ主眼ではあったものの、上記の技術的な面も垣間見ようと思いながら現地に向かった。
そしていざ本番、ステージ上の高画質・大型スクリーン上には圧倒的な歌唱力を披露する推しの姿があった。
まさに圧巻の歌唱力であり、生歌と生演奏、声が出せないとはいえ盛り上がった会場の雰囲気も相まり、この世界の全てに感謝したくなるほどの感動を覚えることができた。
本番も終わり、終演放送も入り、いざ会場を後にしようという頃には、「VTuber?まぁ軽く推してる感じかなぁ~」という気持ちは「○○さん最高、私の最推しですわ」という強い”推し”の気持ちに変わっていた。
その後当日参加していた他のVTuberを含め、複数の感想配信を聞いていく上で、この気持ちにある考えが混じってきてしまう。
私は「VTuberというキャラクター」を推しているのか?それとも「VTuberを演じる中の人」を推しているのか?
という考えである。
VTuberには「担当声優」や「中の人」というのは基本的に存在しないし、無いものは公表されない(一部例外アリ)。
おおよそその存在を醸し出すことはあれど、明言はされないものである。
しかし私が元々いた声優オタ界隈は、基本的に”キャラクター”を演じている”声優”、つまり”中の人”を推している界隈であった。
声優さんが演じるキャラクター自体が好きなこともあったが、根本には”推し声優”そのものを推す心があった。
そのため演者の名前は公表されるし、お渡し会等のリアルイベントも頻繁に開催されていた。
この「中の人」を意識し「中の人そのもの」を推す界隈にいたこともあり、私は上記の考えに至ってしまった。
また、私の専門は情報工学であり、「VTuber」という存在を形作る技術はほぼすべて頭の中に入っている。
つまり、どのようなスタッフが、どのように協力をして、どのようなソフト・ハードを用いて、どのような行動を取ればVTuberとなるのか、ということがおおよそ分かってしまうのである。
かくいう私も自らソフトウェアを自作しており(未出未完)、VTuberになってみようかな?と考える程度には、「中の人」について理解をしている。
表立って話すことは滅多になくなった「中の人」論であるが、「完全な無」から「声が出て動きもできるキャラクター」を生成する技術が無い現代では、「キャラクター」には確実に「演者」が存在する。
明日になって唐突に技術的特異点にでも到達しない限り、「中の人」は切っても切れない存在である。
また、大きな事務所に所属しているVTuberは、だいたいの人物は以前に生配信・動画投稿を行っていた人物である。要するにVTuberになる前に活動していた「前世」が存在する。
「中の人」はバーチャルでない前世から輪廻転生し、VTuberになっているのである。
ここまで話しておいて、「いや!推しの○○ちゃんは中の人とか前世とかないから! ○○ちゃんは今画面上にいる○○ちゃんだけだから!!」という純粋強火オタクはいるだろうか。
正直、様々なコンテンツを疑ったり背景を考えることなく、ストレートに受け取れる人物を、私は尊敬するし、もはやそうなりたいレベルである。
しかしそのように受け取るには、私は様々なことを知りすぎてしまったのである。
知ってしまった以上後戻りすることはできず、VTuberを推すときには、常に”前世”のことについて考えてしまう。
配信画面の向こう側、配信用スマホの向こう側には、私たち視聴者と何も変わらない、血の通った人間がいることを想像してしまう。
あの歌声を持つ推しは、前世で振るわなかったからここにいるのだろうか。
前世で振るわなかったのに今更話題になって、悲しんだりはしないのだろうか。
VTuberで売れても自分の顔や名前は一切売れないことに辛さはないだろうか。
その答えを得ることは一切できないと分かりながら、活動の裏にある悲しみを想像してしまっている自分がいる。
知れたところで何かできる行動はないのだろうが。
推しに対して辛さを抱えるならば、推さなければいい話だという意見もあるだろう。
しかしオタクというものは、一度推し始めたら生半可な辛さでは推しの炎は消えないのである。
それが中の人を推していようが、バーチャルなキャラクターを推していようが、表面上の”推し方”には、恐らく変わりはないのである。
私の不安や思いとは裏腹に、今日も推しは生配信をし、コメ欄の皆と笑いあっている。
恐らく中と外どちらを推しているか、という問いに答えは出ないだろう。
新型コロナも落ち着いてきたが、今までみたいなライブハウスやコンサートホール、アリーナ等での公演はほぼ不可能になってきた
演劇はずっと黙っていれば出来るかもしれないが、一人でもマスクしない陽性者が居たら危険度MAX
コンサートはクラシック以外はまず無理。オルスタとか正気の沙汰じゃない。実際ライブハウスで即クラスター発生しているしね
おそらく配信とかに移っていくんだが、正直生演奏じゃないコンサートを金払って見たいか?自分は嫌だ
ぶっちゃけライブ・ビューイングも嫌い。コンサートの料金より安いけど、豆粒程度でも本人が見れる現地とは違って結局は映像。映画館の音響なんでまだマシだけど一体感は感じられない
多分映画館でのライブ・ビューイングも無理になって自宅のPCでだろうけど、そうなると自宅環境に影響される。防音室ある?最低限サウンドバーとかある?イヤホンはいくらの?あとディスプレイのサイズは?
最悪スマホの画面とBluetoothイヤホンで数千円払ってライブ見るとかバカバカしい。カラオケのシアタールームとか一人で入って見るのが最適解か?
自分もグループ1つと個人数人を追っかけているけど、そんな感じのライブ形態になったら見ないわ。古いかもしれないけどライブは生で見るもの。場所は問わない(最前命みたいなオタクはそれこそコロナ諸々病気持ってそうだし)
だからWEB配信でライブやったり、会場等対策してビニール越しでマスクしたショッパイ雰囲気とそれに伴う高騰したチケ代でライブするくらいなら、FCとは別にクラファンでもやって延命して新型コロナ気にしなくて大丈夫になったらライブして欲しい
なんか『なんとかしてライブしないと!』ってアーティストが多すぎ。ファンは最高のライブを求めてて、無理くり開催して消化不良のライブとかやんなくていいわ。そんなの求めているの最前に行きたがる汚い太った病気持ちのオタクくらいだよ
anond:20200315214945 さんに便乗して…
あんまり知ってるバンドいないからランキング形式って感じでもないんだけど、アルゼンチンのバンドもいいぞ スペイン語圏のバンド色々聴いてみた中で国として一番好みに合う ロキノン系ぽい?というか…
「奴は機械化警官を殺した」みたいな名前のバンド(映画ロボコップの台詞からとってるらしい) 「水中、それは苦しい」みたいなノリを感じる
奇をてらったバンド名からしてキノコヘアの若者みたいなやつがやってんのかと思いきや熊みたいなオッサンがボーカルなのが面白いところ
https://m.youtube.com/watch?v=FKuiJoT7GVM
いなくなった犬を探してるんだ、犬なしじゃやってけないよ、どこにいるんだい…というような内容(かわいそう)
Busco a mi perro perdido…オッオッオッオッ-っていう出だしがかなりいい
https://m.youtube.com/watch?v=x8NxfAml-a4
エキセントリックな感じの「君」と幽霊屋敷に行って帰ってくるという謎の歌詞
基本同じメロディの繰り返しだから盛り上がりはあんまりないけど、だからこそ鼻歌とかにいい
https://m.youtube.com/watch?v=O7LqP7tmQjU
直訳で「僕の次の動き」 この曲からハマったので一番思い入れがある
たぶんゾンビクライシスを描いていて、そんな中ライフルを持って自分ちの屋上に出た主人公が「さあ次の動きをやるぞ」つったところで終わる 戦うのか自殺するのかわからないところがクールでいい
映像は生演奏版だけどサビの高音が苦しそうなのが逆にすごくいいんだよなあ
https://m.youtube.com/watch?v=1xp4abUwzWw
失恋ソング 振られちゃって完全に気力がなくなってもう家から出たくない、音楽すら聴く元気がない!って歌詞
このライブ版のボーカルさんがすごい可愛いんだよな 歌は正直あんまうまくはないけど、だからこその良さがある
「君のものがいくつかわたしの部屋に散らばってて、どうしていいかわかんないや」って歌い出しが切ない
https://m.youtube.com/watch?v=HFmAwKDaoV0
公式でフルアルバムをあげてる(アルバム名が「チンポ舐めろ」で酷い)んだけどこれの二曲目が好き
拗らせた高校生くらいの男が自分に興味を示さない女の子を一方的になじってる感じの歌詞 ただ曲っていうより歌詞とか雰囲気を楽しむ系のバンドな気もするからスペイン語の素養がないとアレかも
https://m.youtube.com/watch?v=4GTRPMrSYFM
たぶんチリの歌をアルゼンチン人の青年がカバーしてYouTubeにあげてるやつ
アマチュアなんだけど俺はなんなら原曲越えしてると思う 迫力がある 最初の方に「この曲実は前にも上げてたんだけど自分で聴いてみたらマジで酷かったから消した、誰も聴いてなくてよかったよ、でも本当に酷かった、恥ずかしい…」って言っててかわいい
曲名は「シアン(化化合物)」 社会への不満みたいなのを歌ってる内容で、「僕はツバなんて吐くようなやつらのいる学校の出じゃないけど、最近はこのうんざりするような世界に唾を吐くようになった」って歌詞が結構好き 出身の良さを出してくるな
座席は三等車より上って言ってもフカフカのソファではなくて椅子なんでしょ
高速バスは最近一人一部屋っていう一等車らしい作りになってるけど
列車の一等車ってあんまり座席が凄く悦に入れるようなゆったりベッド気分じゃないと思うのね。
せいぜい毛布が備え付けてあるとかその辺だと思う
食事も飛行機のエコノミークラスにビジネスクラスのお酒飲み放題位じゃないの?
一等車なのに一等車分のお金の他に食事代が掛かる、そんな無粋なツアーが組まれてるのをパンフレットでよく見るんだけど
ビジネスクラスですら食事代込みでワイン飲み放題、一蘭食べ放題なのに列車ってそういうのないよね
ステーキも心持ち食べれたらええかな?位の微量しかなくてそれがオシャレなのかと
そしてその車内で調理された訳じゃなくて外部から持ち込まれたものを温めただけなんじゃないか
中には100万円くらい積んだスイートコースといって一等車に更に倍額お金をかけたら葉加瀬太郎が目の前で生演奏してくれる特別な寝台列車もあるんだけど
一般的な一等車ってそれほど凄い訳じゃないんだよね
久々にシンデレラのライブを見たんですが差が激しすぎて笑ってしまった
大橋彩香 60
ソロ無かったのでこの値が適正かは諸説
藍原ことみ 59
本当は60↑上げたいけど今回ちょっと調子出てなくなかったか?
五十嵐裕美 46
お前本当に古参なのか?
大空直美 52
飴島では一番上手いんじゃない
大坪由佳 49
SmileY inc.のこと俺はまだ忘れてないぞ
髙野麻美 49
狂狂の2番サビ前毎回泣いてるけどあれは加点にも減点にもならない
立花理香 52
なんでソロデビューしたのか分からんけど今回のメンツではマシな方
中島由貴 59
これ一番諸説ありそうだけどどんだけ少なめに見積っても53以上は硬い
藤本彩花 51
福原綾香 51
青木志貴 42
バベルなかったら40切ってた
飯田友子 50
この人あまり歌上手いと思わない 下手とも思わないけど
小市眞琴 54
この人嫌いなんだけどそれはそれとしてパフォーマンスは高水準だよね
洲崎綾 59
っぱ場数がものを言うでしょ
鈴木みのり 64
高橋花林 67
今期最強だったけどこの人にこんな点数上げるなら大橋彩香ももう少し上げても良かったかもしれない
田辺留依 55
歌上手いの知ってるけど印象に残ってない
長島光那 47
原田彩楓 48
まあ下手なんだけどあまり下手さを感じさせない下手さ まあ下手なんだけど
松井恵理子 54
下手ではないけど実はそんな騒ぐほど上手でもない
パーソナルな部分でパフォーマンス上げてるけど
原紗友里 50
金子有希 49
ソロがあったらもう少し下がってた
鈴木絵理 52
可愛いよね
高田憂希 51
相当練習したんだろうなあってのはわかった
のぐちゆり 55
色眼鏡かかってるかも
深川芹亜 50
ソロをよこせ
松嵜麗 51
杜野まこ 57
安野希世乃 65
全曲のオリメンにこいつ入れようぜ
山下七海 52
すっぼんぽんのせいで数値が著しく下がってしまった
山本希望 49
佳村はるか 43
あれ音響のせい?
和氣あず未 50
本当に何も言及することがない
花谷麻妃 56
新人に歌唱力で負けるやつ多すぎるのどうなんだ?(この人本業歌手だけど)
生田輝 55
これはガチで
おわりです
ダンスはみんな高水準だからまあ歌下手は許すか…って思いたかったけどなまじ上手い奴そこそこいたのが可哀想だったよね
大阪もやりたいなあ
ちょうどお盆休みの始め、田舎で友人の結婚式に出てきた。良い式だった。荘厳な結婚式場、楽団の生演奏、多くの友人、親族、職場の上司。スピーチ、豪華な料理。
友人の結婚式にでたのは初めてではないが、今回は、泣けた。
私は田舎を出て、借金をしながら、大学院でアカハラに耐えながら、2年留年の末やっと博士を取り、愛する人を見つけ、一緒になろうと思い、そしてバカな行動で失った矢先であった。
私がわけのわからん細胞を相手にしている時に、地元に残った彼女らは他人と、その家族と一から信頼関係を築き、新しい命を育もうとすらしている。
あの式の中心にいる私も、隣にいる人も、祝ってくれる沢山の友人も、今の自分には想像できない。そんな資格はない。相手の気持ちもわからず、ただ通り一辺倒の親切らしいことしか私はできなかった。これまであまりにも人間の心を見ようとしていなかった。
今自分にあるのは、研究だけである。研究への情熱は、いつまであるだろうか。それを失った時、なに私に残るものはあるだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/W3m
昨今のサイトを見るにはとても不便で、操作性も何もかも非効率だけども、ブラウジングがとても新鮮なものになるよ
CDが売れなくなっている昨今、EP、LPとかレコードは好調らしい。
なんかそんな記事を見た中に、
「もはや音楽を聴くことに娯楽的意味がなくなってしまい、CDセールスが衰退、アーティストが音楽のみで身を立てることが困難になっている中で、
ライブに行き生演奏を目で体で聴くことで原初的感動を受ける人や、繊細なアナログメディアで音楽を享受する”儀式的行為”により、新しい価値を見出している人がいるため」
というようなことが書いてあって、なるほどなあと思った。
効率を無視した献身的行為、ある種の狂信とも言うべき自慰的な活動こそが、拡散してしまいがちなアイデンティティを収斂するための一助になっていると考えているので、
それが音楽であれ、ピュアオーディオであれ、ルリ儀式、筋トレ、政権批判、ガチャ課金、なんにでも没頭できるものが見つかるということはとても喜ばしいと思う。(誰かに迷惑をかけなければ)
音楽ほど歴史が長くないが、Webブラウザも年々大きく変動している最中で、研究者のツールだったものが大衆向けに整備され、一般化されるコンテンツに合わせてWWWの利用も複雑化している。
SNSと高度に連携したスマホファーストの無味乾燥に大量消費されるコンテンツを見ていると、WWWを見るという行為を愛で、儀式的行為に価値を見出しても良いように思う。
「インターネットを介したコミュニケーションでは情報が多すぎる、たくさん情報を受け渡しすると疲弊する。
情報量を極限まで削ることで、原初的な伝わったことが嬉しいという気持ちを得られる。
ここからw3mで適当にWebブラウジングをするのが習慣になった。
原理主義というならLineModeBrowserとかLynxとかを選ぶべきなのだろうが、
日本発というアニミズム的発想(とドキュメントの多さ)からW3mを選んだ。
何よりも、w3mは「WWW-wo-Miru」の略だというと、上にあげた「WWWを見る」という行為に儀式的意味を持たせるためには必要な要素だと思われた。
最近だとBrow.shという画像も何とかテキストで表示してやろうという意欲的なものもあるんだけども、これは端末の解像度に依存が大きいため断念。
というか画像も必要であれば普通のブラウザ環境も使うという腥っぷり。
twitterは、twtermを使ってこれも余計なTLチェックが不要となった。
というような落書きを、適当なEC2インスタンス上のw3mから書いている。
EC2にtmux + w3m + twterm という環境をほぼ放置してあり、コマンド一発でほぼ同じ環境を無料AWSを乗り継いで利用できるようにしてある。
はてブをテキストベースで閲覧する方法を探している。それがあれば、より原初的感動を持ってクソのようなコメントを投げ合えるパラダイスが待っていることは自明である。
まず定量化できないものだから簡単に比較できないし、私はこの言葉が嫌い。
私は子供のころ、ピアノとクラシックバレエと乗馬、フルートと書道を習っていた。
教育熱心な親だ。
ピアノは大嫌いだった。先生が異常に厳しいのだ。最初はみんなでおなじ曲を弾いていたけど、私が少し弾けるようになると、先生は母親を呼び出して、個人レッスンを勧めた。
私が褒められたと感じた母は、嬉しそうにそれを快諾した。
最初は楽しかったピアノがどんどん苦痛になってきた。家での練習もさぼり気味になり、そうするとレッスンにどんどん行けなくなる。
運指、とか、フットペダルをどう踏むかとか、スラーがどうとか、楽典がどうとか(まあ、楽典は面白かったけど)、そういうのが私は本当に苦手だった。聴いた音楽をなんとなく弾くことは人より得意だったけど、それだけ。
「どうしてちゃんとやらないの?」と先生に何度も聞かれた。そのたびに答えられなかった。
「才能があるかもしれないのに!」と先生は言った。それを聞いた母も同じようなことを言った。
私には姉がいて、同じ習いごとをしていたが、確かに姉に比べると少しだけ私の方がなにごとも得意だった。
でも、それは才能があるということとは関係ないと、子供ながらに思っていた。
姉は、ひたむきに努力できる人だった。思い通りに弾けない時、怒った母が「もうやめなさい!こんなこと!」と言ってピアノ教本を窓から放り投げた時も、
庭から泥だらけになった教本を拾ってきて、泣きながら「ママ、私頑張るから、やらせてください」と言っていた。
これが才能でなくてなんだというのだろうか。私は姉がうらやましかった。
捨てられても、泣いても、縋りつけるくらい執着の持てることが私にはなかったから。
クラシックバレエ。これは結構好きだった。ピアノは生演奏で、ジュニアクラスの先生は優しくて、バレエの日は姉と一緒に髪をお団子にして手をつないでバスに乗った。
小学校高学年になり、そろそろ中学受験のためにバレエを辞めるという話をしたとき、先生が母に意外なことを言った。
「この子はバレエに向いています。辞めさせるのは勿体ないです」
そんなこと、先生からも一度も聞いたことがなかった。母は少し悩んでいるようだった。
中学受験とバレエの両立は、できなくもなかった。ただ、バレエというのはなかなか厄介なもので、休むと取り戻すのがすごーく大変なのだ。
「あんたがやりたいなら、両方やってみなさい」と母は言った。
もう暗くなったバレエスタジオで、いつもニコニコの先生が真面目な目で私を見ていた。
やれない、と私は家に帰ってから母に伝えた。
「そうよね、あんたに才能があるとは思えないし。それに努力もできないでしょ」と母は言った。
その時すでにピアノ教室を不登校気味になっていた私に、その言葉はストレートにぐさっときた。
乗馬は、私が最も才能がある習い事だったと思うし、私がいちばん好きな習い事でもあった。もともと動物が好きで、通うのが楽しみで仕方なかった。
早く上のクラスに行きたくて、先生の言うことを真面目に聞いて、雨の日も、寒い日も通っていた。
大した怪我ではなかったけど、それを機に兄弟全員が乗馬クラブを辞めさせられた。
私は泣いて泣いて懇願した。こんなに何かをお願いしたことはないんじゃないかというくらい。
私は馬から落ちたりしないから、落ちても怪我しないから、怪我しても勉強はするから、と、土下座もしたけど、「危ないから」の一言で全部なしになってしまった。
まあ、仕方ない。決めるのは親だ。
さて、長々と書いたのには理由がある。
相変わらずやりたいことも見つからず、器用貧乏な私に、ちょっとしたチャンスが舞い込んできた。
「とってもやりたい!」というほどのことではない。
「へえ、できたら楽しそうだな」くらいの感覚だが、興味はあった。
その話を持ち掛けてくれたのは、綺麗な女の人で、もともとその業界にいた人だった。
淡々と話を聞く私を、その人はじっと見ていた。
「やりたいってことでいいの?」、と聞かれ、
「そうですね、やってみたいです」と私は答えた。
その女の人はため息をついた。怒っているんだなと思った。
「あのね、やってみたいとかじゃないの。本当にやりたいのかどうかを聞いてるの」
出た、と私は思った。久々だなこの感じ。
「私はね、あなたが本気でやりたいと思うなら応援するし、なれると思う。才能があると思うから」と、その人は言って、すごく綺麗な目で私をじっと見ていた。
「でもね、才能だけじゃダメなの。努力しないと。本人がやる気ないのにお膳立てはできないの。」
「それはわかります」
「全然わかってない。この仕事はね、やりたいっていう人がたくさんたくさんいるの。努力して努力して、ほんの一握りの人が成功するのよ。今みたいにノホホンとしたまんまじゃダメなの。頑張れるでしょ?本当にやりたいのなら」
そこではい!と即答できるほど私はできた人間ではない。好きな映画である「花とアリス」をなんとなく思い浮かべながら、曖昧な笑みを浮かべて、ひたすらこの「努力と才能の嵐」が過ぎ去るのを待った。
結局、私がどうしたいのかは自分で決めなければいけない、と言われた。
私は迷っている。なんで才能があると思われたのかも正直わからないし、そんなにすぐやりたいと思えるようになる自信もない。
普通に大学を卒業して、就職するんだろうなと思っていたが、就職したくないなら、そっちの道に行くのもいいだろう。
でもきっとその世界では、みんながああいう目をしているんだろうな。
やりたくて選んだ道なんだからって、すぐ言われるんだろうな。
努力家の姉は、夢を叶え、ものすごく狭き門をくぐりぬけ、やりたい仕事をしている。
ピアノはたまに弾く。お遊びのようなものだけど、好きな曲を弾いていると落ち着く。
バレエは、大学に入ってから再開した。もちろん本格的にではないけど、姿勢がいいと褒められることはある。
やってきたことはたぶん無駄ではなかったけど、でも結局、努力する才能は得られなかった。
私はきっとあの綺麗な女の人に、「できません」と言うだろう。
私は甘ったれた子供だから、すぐに弱音を吐いてしまうし、それを許してほしいと思ってしまうのだ。
才能があるとかないとか、そういうのはたぶん他人が決めることではない。
本人がそう思えない限り、才能は「ない」のだ。
甘えと言われても、何と言われても、あんなこわい目に晒されて生きていくことは、私にはできない。
好きなアーティストのファン界隈では演奏を味わえない奴は人非人みたいな扱いなので言い出しにくいが
音楽を聴いてもどんな演奏技法が使われているかとか、演者が誰でどのような思いで演奏していたかなどに興味持てない。
もう少し正確にいうなら、バイオリンとかフルートとか個々の楽器の「音色」は好きだし、
でもそこで満足してもっと突っ込んで味わおうという気分にはなぜかなれない。
最近はボーカルだとどんなテクニックや発声で歌ったかに興味を持てるようになったが
自分の脳内で重要位置を占めているのは作曲・編曲>>>>>(超えられない壁)>>>>ボーカル>>>楽器という感じ。
観光列車に乗るやで
レストラン席でバイオリンとピアノの生演奏聴ききながらコース料理食べたり
謎の書斎があったりするやで
https://www.the-royalexpress.jp/design/
https://news.mynavi.jp/article/20170715-a174/
新幹線は寝るやで
おばさんの話でつまんないかもしれないけど。
そこでけっこうお客様に食事のお誘いを受けることがあって本当はダメなんだけど課長が目をつぶってくれる雰囲気で暗黙の了解でお誘いを受けていた。
ある経理のおじさんはとてもグルメな方で一人では行きにくい店だからと鉄板焼き金沢料理ロシア料理すき焼き銀座のカウンターのお寿司屋さん帝国ホテルの最上階のビュッフェなどなどいろいろ高いものをごちそうしてくれた。
もうひとりの経理のおじさんは音楽が好きで銀座のピアノ弾き語りのバーやシャンソンバー。あとはドイツ料理屋さんのビール祭り生演奏でみんなで踊るとか。
銀座はハシゴして遅くなることが多かったからタクシー代もらって帰るのが恒例だった。
ある社長さんは窓口3人を別荘に招待してくれて一泊二日でおもてなしいただいたり。
思えば携帯電話もメールもなかった時代に待ち合わせとか取り付けるのも一苦労だし会えるかどうか賭けだしよく一度もトラブルにならずに会えていたなと思うよ。
まぁサラッと読むと体の関係は?とか思われるんだろうけどどの方もとても紳士でそんな気配もなかった。
まずなんといっても金曜日の20時台で30年続く大長寿番組だ。(ミュージックフェアのほうがはるかに長寿だけどあちらは若干の懐メロ感もあるので別枠とする、時間帯も夕方だし)
はるか昔には夜のヒットスタジオ、ベストテン、トップテン、などの人気音楽番組歌番組があったのに、時代の流れとともにそれらはあっさりと終わっていった。音楽番組は深い時間帯の物になり細々とやっているのが現状だと思う。
そんな中でMステは30年続いてるのだ。小沢健二が久しぶりにMステに出た時、「30年前から、今もまだこのような音楽番組があってくれたことが嬉しいです」みたいな事を言っていた。
続けられる理由はいくつか考えられる。ひとつはジャニーズ枠があること。毎週必ずなんらかのジャニーズグループが出るのでこれはもう約束事になってる。お披露目としての意味も出るのでジャニーズとMステの関係はなにかしらの太いパイプになってるはずだ。それとよくわからない街中インタビューやダンスを推しまくる最近の企画傾向、これらはやはり若者に見てもらう番組でありたいという意思だろう。音楽番組は油断するとすぐに懐メロ番組になってしまう。続けるにはなんらかの若返りをはからないといけないのだ。
それらが番組を続けさせるための努力だとしたら、音楽番組としての使命というのもMステは捨てていないと思う。海外アーティストを呼ぶ、バンドには生演奏をさせる、セットも手を抜かない、これからという売り出し中のアーティストを積極的に出す、こういった特徴に音楽番組としてのポリシーを感じる。
確かに昔に比べれば謎のランキングやダンス企画が増えた。これはもう時代として仕方ない。だってオリコンランキングとかやってもアニソンとかが上位で出演者はどんなリアクションすればいいかわからないだろう。
俺はもう、Mステがあってくれるだけでありがたい。最近だとあいみょんみたいな新人をちゃんとフューチャーしてくれたり、チャットモンチーの最期の出演をフォローしてくれたり、そういうのが、金曜20時に流れてくれる事がほんとにありがたい。
かつての音楽番組の華やかさみたいなもの、スタジオできれいなセットを組んでたくさんのカメラワークで見せてくれる、これを今も高いレベルで見せてくれるMステは本当に頑張ってると思う。ジャニーズ全然いいよ、ダンスもいいよ、素晴らしいアーティスト達が輝ける舞台を用意してくれる、紅白ほどじゃないが贔屓のアーティストが出た時に「緊張します」と言ってるのを聞いて一緒にハラハラしちゃう。そういうMステが生き残ってくれてることが本当に嬉しい。
自分はバンド系の音楽が好きなのでカラオケはバンド系の曲しか歌えないんだけど、
高速ギターとかベースソロとかドラムだけが心地よく鳴り響いている時間とか演奏技術の披露とか。
結構、聞いてる時はそこで乗ったり、ライブとかだと一番盛り上がる部分じゃないですか。
でも、カラオケって今は生演奏もあるけどほとんど生演奏じゃないじゃん?
だから、生演奏じゃないのにその演奏技術の披露みたいなのも多分カラオケ音源作る人はなんとかがんばって再現はしてくれているのはわかるけども、なーんにもないわけよ。
それどころか、曲をあまり知らない子にとって仲間が歌ってるわけでもないのにその時間何を愉しめばいいかわからないじゃん。
これがBUMPならまだいいんだよ。オゥイェイエイ!アハーン!とか言ってくれてるから歌詞には表示されなくてもそれを再現すればいいんだけど。
でも、完全にボーカルが黙って演奏しだしちゃう曲とか無駄に間奏長いし歌ってる時はどう振る舞っていいかわからなくなるし、歌われてる時はだいたい歌ってる人は水分補給してるわけだけど、自分はどういう配役に徹しればいいかわからない。
バンド演奏だとすっごく重要な部分なのでバンド側も間奏の演奏技術披露はバシバシやるべきだと思うんだけど、それがカラオケになった時、虚無の時間が訪れるのでいい感じに短くしてほしい。
生演奏の店を探したらいい