はてなキーワード: 生演奏とは
■はじめに
気づかないうちに宗教団体Sの信徒になっていたので退会しました。
ネット見てたらそう珍しいことではない(Sにとっては常套手段)だけど個人的には初めてだったし、
知恵袋とかで自分と同様の状況にある方からの質問を見かけたりもしたので、せっかくなので書いておこうといった程度の忘備録です。
若干のフェイクも含めてぼかしつつ書いていますが、困っている人がいたとして
検索に多少でも引っかかることが出来ればとも思い、いくつかの固有名詞は生かしました。
増田の作法をよく知らないので、馴染まないところがあったらごめんなさい。
■宗教団体Sを知る
遠方に住んでいる友人から連絡があった。
私が転職したことを友達伝いに知って数年振りに連絡をくれた。嬉しかった。
近況報告をする中で、通っているという宗教団体Sについて熱く教えてくれた。
電話で何十分と教義を語る友人の熱意には驚いたが、私は宗教全般にそこそこ興味があったので、
その時点でSという団体名すら知らなったものの、友人の話をフンフンと聞いていた。
■友人と会う
しばらくして、友人が私の暮らす地方に遊びに来るという。
たまには日常を離れたいだろうし、そうした先に私の暮らす場所を選んでくれたのが嬉しかった。ここは良いところなのだ。
友人がこちらに滞在している間、ちょうどSで盛大に護摩を焚く行事があるので、
ぜひ当地にある分院に立ち寄って参加したいという。
■集会に参加する
久しぶりに対面した友人と施設に向かう。
清潔感のある施設の中に入るやいなや、教団の建物や教祖一家の写真、彫像が各所にあり、友人がいろいろ解説してくれる。
集会ができるようなスペースに通された。祭壇などがある空間にスクリーンがかかっている。……スクリーン?
結局、護摩とは本拠地で焚くもので、そこから離れた当地ではネット中継を見守るということだった。
複数(ドローン含め10台はあるか)のカメラが効果的に切り替わって飽きさせない。
世界各国から本拠地へと集まった何人もの信徒の名前のテロップが即座に入る。
離れたところにいるらしい合唱隊やオーケストラの生演奏も映る。
厳かに登場した教祖の姿に、故人である始祖の過去の映像が重なる。始祖の生前のスピーチも流れる。
大きなスクリーンに投影された映像は常に高精細で、乱れることが一切ない。
中継でありながらも綿密かつ予定調和的に作りこまれた映像にどことなく「ゆく年くる年」感を覚えながら、
音楽隊はどんなメンバーで構成されているのか(職員?一般の信徒?)とか、ボンヤリ考えながら、
厳粛にこなされる儀式の数々を相席食堂の千鳥の気持ちで見守っていた。
■お浄めを受ける
Sについてネットで軽く予習していたがこれについてはよく分からなかったので尋ねると、
短冊形の用紙にお願いする内容を記入する。
お浄めが結局何なのかよくわからなかったけれど、一つのお願いを500円で聞き入れてくれるというなら、
お賽銭や社会科見学のお礼のつもりで浄化してもらおう。ついでに知人の商売繁盛の祈願もしておこう。
友人も短冊形の用紙に色々書き込んでいた。
寺社で御祈祷を受ける時も同じような内容を書くので、こんなもんだろう。
友人の名前やSでの所属情報などを書く欄もあったのでそこは友人に記入をお願いした。
カウンターで用紙を渡し、お浄め、商売繫盛の祈願代として1000円を払う。それとは別に1400円かかるという。
ん?聞いていなかったけれど、お金を払うカウンターで突っかかるのも嫌なのでとりあえず払っておいた。
対応してくれた職員さんは気のいい人でお菓子をくれた。今はこの地域に勤務しているが全世界に転勤があるらしい。大変だ。
施設に入ったときに「お帰りなさい」と言われたのも、そういうアットホームな雰囲気づくりに一役買っているのだろうか。
■帰宅する
帰宅後、控えの用紙を改めて見てみる。
「精進願い」と書かれたその控えを見ると、追加で払った1400円の内訳が「登録費」と年度末までの「会費」だということが分かった。
え、私、登録されてる?会費、払ってる?つまり信徒になったんか??ここで初めて気づいたのだ。
友人に連絡を取って確認してみると「この用紙を提出したことであなたは信徒になった。説明足りてなくてごめんね、退会はいつでもできる」とのこと。
本人確認もなく、押印もなく、教団の教義やルールの説明も、意思表示の機会もないままに、どうやら私は信徒にカウントされる存在になっていたらしい。
私は「こうした大事なことは、まず家族との話し合いが必要」「自分のスタンスとは合わない」とそれとなく退会の意思を伝えるも、
友人からの返事は要約すると「あなたの気持ちは分かった。けれど、ここは様々な考えの人を受け入れるから大丈夫」と。
……もう何を言っても通じないと思うから、説得や議論はやめて、ほとぼりが冷めてから退会しようと決意した。
自分一人で解決しても良かったが、万一後から家庭内トラブルが勃発しても嫌なので家族に顛末を話すと「ちょっとそれはどうかと思う、賛同できない」と。そりゃそうだ。
しばらくしてから友人に退会すると伝えたところ、すぐに退会に必要な手続きを教えてくれた。
■退会する
先日お菓子をくれた気のいい職員が居たらちょっと気まずいので、その人と会いませんようにと思いながら向かった。
施設に入ると、数名の信徒が談笑していた。こちらをちらりとも見ず、挨拶もせずといった感じで、こんなもんかと思った。
平日の昼間という時間帯のせいかもしれないが、初めて行った日のように「お帰りなさい」と言ってくれる人もいなかった。
前回友人が精進届けを取ったのと同じ棚から退会届を出し、書けるところだけ書いた(ID、部会名などは空欄。氏名や住所のみ)。
望みも空しく対応してくれたのはあの気のいい職員だったので、なんかごめんよ、と内心思いつつ提出すると、
職員は退会届に受領印を押し、「はい、大丈夫ですよ~」と控えを渡してくれた。
こんなもんかと思った。施設に入ってから出るまで5分と掛からなかった。
■あとがき
結果、入会もあっけなければ、退会も超あっけなくできた。
信徒や職員にとって、こうした形で入会・退会する人の存在は珍しくもないのかもしれない。もう少し引き留められるものかと覚悟していたのに。
新興宗教では珍しく信徒が増えているというS。個々の宗教的バックボーンを否定しない(他宗教の行事参加OKなど)教義で
信徒を増やしているのかと思っていたけれど、こりゃ増えますな。
それにしても、入会させた人数で信徒としてのランクも上がっていくらしいのに、すぐ退会してもノーカンにはならないのだろうか?
入会~退会の渦中にいた時は正常性バイアスが働いて
「友人だって騙そうと思って私を入会させた訳ではないのだ」と信じていたけれど、
時間が経った今、友人の態度は誠実なものではなかったと思うようになった。
施設に行く前に「こんな田舎で護摩が直接見れるのは楽しみ」と言った私に
「友人がわざわざ私の居住地に来る(当地はお互いの出身地ではないので、私以外に知人も居ない)」、
「私の運転で観光地をまわる予定」という中で「お寺に行きたい」と言われたら断りにくく。
友人には「退会届け出したよ」との事後報告もしていないし、
「退会届け出したんだね」との連絡も来ていない(知らないはずもないと思うんだけど)。
今後、よほどのことが無い限り、私から連絡を取ることはないと思う。
入会~退会の間の約半月、Sからの連絡(郵送物、電話、集会への参加呼びかけなど)が
一切無かったことにはほっとした。もしかすると、もうしばらく経っていればIDカード等が届いたのかもしれない。
ネット情報によると、退会届けを出さずともフェードアウトしてSに関与しないことは可能だが、
導き親(今回のケースでは友人)が自分の費用も年度ごとに払うのであれば会員は継続されるらしい。
もし私のように意思とは関係なく入会してしまった人は、モヤモヤするくらいなら退会届けを出しても良いかもしれない。拍子抜けするくらいあっさり退会できる。
ただ、導き親と頻繁に会う仲だったり、悩みを抱えていたりしたら私も退会を躊躇ったかもしれない。
でも、なーにがお救け、導き親じゃ。救けてくれとも導いてくれとも頼んでなんかないんじゃ。
先日Vtuberの配信ライブを見た。特に隠す意味もないので言ってしまうが、星街すいせい×TAKU INOUEのユニットMidnight Grand Orchestraの1stライブ「Overture」だ。
大変満足した。
このご時勢もあり無観客ライブだったんだけど、そもそもヴァーチャル空間のライブに人間の演者も合成で参加してるみたいなスタイルだったので無観客/有観客とかいうのがそもそも当てはまらないのかもしれない。
で、ライブ配信の視聴者のコメントも演者には伝わらない(と思う。スタジオのモニタにコメント映っていたのかもしれないが、少なくとも反応は無かった)もんだから、
生演奏で一発撮りっていうのは価値があるのかもしれないけど、実際一発撮りしてたのかは証明しようがない。
むしろ一発撮りよりも、何テイクも重ねて編集して、最高のライブ映像を演出したほうがいいのかもしれない。
重ねて言うけどライブ自体には大変満足した。ので全然文句をいうつもりはない。
レトロゲームのリメイクは、FFピクセルリマスターで一つの完成を見たと思う。
「これでいいんだよ、これで」という、肩肘を貼らないリメイク。
オールドゲーマーが満足しつつ、新規ユーザーの敷居も低い方法が採られるようになったと感じる。
具体的には、
・背景は美麗グラで書き直す。
・音楽には生演奏でカネをかける。可能ならオリジナル作曲家に参画してもらう。
・フルボイス化。
・システムは、不評だったところだけを直す。追加要素は最小限。
と、リメイクビジネスの到達点とも呼べるようなレベルに達していると感じる。
Steamにも打って出たことで、海外ユーザーはじめ多くのユーザボイスを聴けたことが功を奏したのかもしれない。
今後はスクエニのリメイクビジネスが経営の教科書に載ることになるだろう。
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20220804-213187/
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
それは「音を外すな」である。
それくらいホルンは、音が外れやすい楽器として世界的に有名なのだ。
それも「プルッ」という耳障りな音とともに、全音とか半音とか平気で外す。しかもしょっちゅう外す。
これは学校の吹奏楽部出身のアマチュアだけでなく、プロでさえ高頻度で外すため、純粋なクラシックのCDなど、OKテイクの継ぎ接ぎで作られるのが当たり前。
生演奏でホルンソロとか来た日には、他の演奏者はもちろん指揮者も観客も、揃って「外すなよ…」と神仏に祈ることになる。
というか「祈らせる」という意味では神父や坊さん以上に「良い仕事」してるので、これには神様も仏様もニッコリ?知らんけど。
ついには「世界一難しい金管楽器」としてギネス登録され、更にホルンで音を外すこと=「キークス」という名詞が用意されてしまった。
ではなぜホルンはそんなに音が外れやすいのか?可能な限り端的に言うと
「低い音が得意な楽器で、非常に高い音を常に吹かされているから」
ということになる。
もう少し詳しく言うなら
「ヘ音記号の音域が得意な楽器で、いつもト音記号の音域を吹いてます」
と書けばわかるだろうか。
つまり、ホルンの美点である「甘く柔らかい音」は「低音楽器で超高音を吹く」という無茶振りによって成り立っていると、こういうわけなのだ!
なので「管の長さを短くして音を当てやすくする」のは、音色的な意味であまり良い解決法じゃなかったり。
これはフルートを半分の長さにしたピッコロが、フルートと同じ音なのに全く違う音色に聞こえることと、ほぼ一緒の理由と言っていい。
とはいえ、プロでも音を外しまくる楽器なんて、これもう普通に楽器の欠陥じゃね?と思うわけ。
実際、上に書いた事情を知ってもなお、ホルンで音を外されるのは非常に不愉快だし。
なので、そろそろ現代のハイテクとやらで「管を短くする」以外の解決法を発明してほしいのだが、一向にそんな気配はない。
困ったもんだ。
おまけ
「世界一難しい」とか書くと必ず「尺八はどんくらい難しいの?」などと愚にもつかない事を訊いてくるアホがいるけど、
「世界的に無名な日本の民族楽器なんて、誰も難易度とか問題にしません。尺八を吹く虚無僧が世界中の街角で当たり前になってから、もう一度おいで下さい」
で終わりなんで、そこんとこよろしく。
おまけ2
更にフルートが取り立てて難しい楽器とされていないどころか、本邦ではアマチュアのフルート奏者が多数存在することを踏まえれば、自ずと難易度は把握できるわけで。
オリンピック開会式から時間が経ち、ネットでは批判の声も見られるようになってきた。
中でも話題になった各国選手団入場時でのゲーム音楽に対し、「使い方が雑」「ゲームへのリスペクトがない」といった意見かあったが、これに反論したい。
まずはNHKのサイトで開会式のフル動画が掲載されているので、見ていないで批判する人は見てほしい。
動画を見たら分かると思うのだが、あの場面での主役は、これまで血のにじむような努力をし、この日を待ちわび、各国の特色を出すようなオシャレをして、笑顔で手を振りながら入場する選手たちにほかならない。
勘違いしないでほしい。決して主役はゲームなんかじゃないのだ。
無観客で、拍手や声援は一部の関係者だけ。そんな中を、ゲーム音楽が音楽だけの力で選手たちを称え、迎え、勇気づけ、盛り上げたのだ。
ゲームを盛り上げてくれた素晴らしい音楽を、オリンピックの開会式でも使って盛り上げたい。これのどこにリスペクトがないというのだろう。
「ゲームに関連した演出をしろ」っていう意見もあったが、一体それは何をするというのだろう。曲に合わせたコスプレやキャラを出せばよかったのだろうか?
少なくとも選手団入場時にゲーム関係の装飾を加えたとしたら、それは主役がボケてしまうのではないか。
既存の音源ばかりで、生演奏でもなく専用のアレンジではないという意見も見た。しかし、選手入場は2時間近く続いており現実的ではない。
そういうのは、ゲーム音楽が“主役”になる単独のコンサートでたっぷりとやるべきなのだ。
東京オリンピック開会式でのゲーム音楽は、脇役に徹しつつも、存在感を示し、少ないコストで最高の仕事をした。
時は90年代。小室ブームまっただ中、オリコンランキングや音楽番組がクラスの話題として幅を効かせていた。
CDショップではゲームサントラは奥の隅の方にひっそりと置かれ、流通量も少なく、まさにマニア向けの商品だった。
「好きな音楽は何?」なんて問いに「ゲーム音楽」なんて言ったら鼻で笑われる。そんな時代だった。
たまにリリースされるアレンジバージョンだったり、メディアがCD-ROM媒体に変わることで、生演奏が取り入れられるようになっても、
まだミュージシャンからは音楽と思われていなかったり、馬鹿にされて悔しい思いをした、なんてクリエイターインタビューを目にしたこともあった。
インターネットが発達し、ニコニコ動画あたりでゲーム音楽を身近に楽しむようになってきたぐらいから、風向きが変わってきたように思う。
オーケストラのコンサートも多く開かれるようになってきた。聴きに来る人、そして音楽家が「ゲーム音楽が好き」という人が増えていった。
そして今回の開会式で、20曲近くの曲が入場BGMとして採用された。
安易だ、なんて批判的な意見もあると思うが、開会式を見た多くのゲームクリエイター、特に作曲者自身が、心から喜びの書き込みをしているのが全てだと思う。
ドラクエ最近やらなくなったけど、今日の映像見てやっぱり俺の思うドラクエとはもう違うなってなったのでしばらく引退する
まずさ、すぎやんはもう引退させようよ。枯れちゃってるじゃん、完全に。これは9ではっきりと感じ取れたし、スクエニもそう思ってるはずなんだけどさ。
そこで後継者育成を放置した(させてきた)スクエニが全部悪い。反省してほしい。
よく「堀井、鳥山、すぎやまの3人誰かが欠けたらもうドラクエじゃない」なんてガキの反論があるんだけど。
すぎやんは枯れてるじゃん、完全に。使いまわしじゃん、音楽。
堀井の方針はよくわからないじゃん。もうシナリオも書いてないだろうし。
この三人を抜きにしてドラクエを成立させることがスクエニの企業としての使命だと思うんだけど、小銭稼ぎで忙しいのか知らんけど刹那に生きてるのかな、この会社。
いや、これね、グラは良いんです。UIもたぶん悪くないんですよ。ドラクエだから。情けない手抜き移植するぐらいなら思い切ったリメイクは大歓迎。
ぶっちゃけると私がドラクエをしばらく引退しようと思っている理由の8割が音楽のやる気のなさ。
まさかあのムービーで東京都交響楽団の演奏流すなんて言わないよね。まさかね。
都響には悪いんだけど、あのグラでフルオケはない。ゲームにフィットしてない。
SFCの6をプレイした人ならよく分かってくれると思うんだけど、あのグラでフルオケ流されても困るじゃん?そういう感じ。
グラにはそれにあった音楽が当てられるべきで、そこを手抜きされそうな不安がある。
というか制作側が音楽で手抜いてるよね。「生演奏!」ってスゴそうなこと言ってるけど、実は手抜きの手法なんだよアレ。上手い手抜きの仕方だから文句は少ないけどさ。
とにかくグラが良い。あのグラなら4のリメイクも映える。ただし、ゲームって五感で楽しむ総合芸術なので、他の要素で台無しにされる可能性が大いにあり、そこだけが本当に不安。
12はよく分からん。はいはいって言いたくなるムービーとよく分からんボイスだけ見せられてもね。
==================以下 追記============================
いくつかのブコメに返信。
いってらっしゃい。ドラクエに限った話じゃないが、音楽は生が一番。CDとかMP3とかFLACとかに拘るよりも大事なところ。
ohchidani 個人的には、ドラクエはオープンワールド化するのが一番いいと以前から思ってて、ドラクエビルダーズでその可能性を示してくれた事はオールドファンとして涙が出るぐらい嬉しかった。ドラクエ、やるじゃんと。
それめっちゃ分かる。私はビルダーズ路線は当初否定的だったんだけど、実際プレイしてみて脱帽した。
これ近い例としてゼルダBotwがあるんだけど、こういう上手いリライトというか、既存の「らしさ」に寄り添ってなお昇華する作品は進歩的でありながらも過去との連続性を残せていていいもの。
KAN3 11はドラクエシリーズの集大成で、エンディングはドラクエシリーズ第一部完!って感じだったから12は色々と変えてくると思う。
ダークであるとか大人向けであるとかいう声明はあったわけだけど、それがすなわち成功に結びつくかっていうのとはちょっと違うよね。
例えば仮面ライダーアマゾンズっていう作品があったんだけど、あれ「今の平成ライダーじゃ表現できない過激なものも取り入れた」っていうことで楽しみにしていたんだけど、
実際視聴してみたら「いや、方向性はわかるけどそれ初期平成ライダーもやってなかったよね?というか仮面ライダーじゃなくても良くない?」みたいな感想になって。
確かにあの表現で仮面ライダーを見るのは新鮮だったけど、ファンが求めてた表現ってああいうのだったの?みたいな。
個人的にはもっとドロドロした感じなのかなあと。良くも悪くもスプラッシュだよね、アマゾンズは。その場の興奮優位で、後世まで語られるような持続性に欠けるな、と。
こういう視聴体験があるので、ダークすなわち手放し称賛というほどでもないんだよね。
これからFFと差別化していくにあたってドラクエには克服していく課題が多いし、その模索としては評価できる。
luege_traum 既に移植作では2Dにフルオケやってるので、むしろここまでリッチな2Dになるなら合ってると感じるけどな。つーか最近やらなくなってるなら既に引退してるじゃん。こういうのも引退詐欺というのだろうか。
carl_s リメイクDQ4の不満点の一つが『海図を広げて』(船の曲)にイントロ追加されて曲本体部分に到達するのに40秒くらい必要になっちゃった点(4章終盤の演出も変更)なので、「ゲームにフィット」の不満はちょっとわかる。
あれはヒドかった。ちょうどあの頃からフルオケ垂れ流しとゲーム音楽の境界が曖昧になってきたかなと。
補足しておくと、フルオケが悪いわけではなく、あくまで「フルオケならお前ら満足だろ?(垂れ流し)」みたいなやり口がクソだって話ね。
もちろんこれを解決するには相応のコストかかるから、判断として垂れ流しにしたい気持ちはよく分かる。
枯れてんだよ、残念ながらな。
人は老いる。老いては枯れる。この当たり前から目を逸らさずに、お前もやりたいことあるんなら若いうちにやっときな。若くないなら受け入れろ。
klaps ぱふぱふとか寒すぎるんで本当に辞めてほしい
あれが寒いのは、「ぱふぱふかと思った?残念!実は違いました~、いかがでしたか?」みたいなのを面白いと思って実装してしまうのが寒いのであって本当のぱふぱふは温かいぞ(真顔)
c_shiika 12の発売と同時に復帰しそう
できればしたい
知ってるけど、彼にドラクエの後継が勤まるかはよくわからない。ドラクエの音楽にはドラクエらしさである以前に「すぎやん節」と呼ばれるすぎやんの「様式」があるの。
ただ場面場面に合わせた曲が作れれば良いわけじゃない。
言っちゃ悪いけど、オケなら「ドラクエっぽい」とか思われちゃうなら、作曲家のネームバリューに拘る理由もなく、そこらへんの音大出た新卒に曲書かせりゃいいと思うよ。(一定のクオリティさえ保証できていれば誰でもいいって意味ね)
そういう個人の「様式」を他の作曲家が模倣できたとしても、それを馴染ませずに放置させてきたことに不満があるの。
すぎやんって割とクセの強い、個性の隠せない作曲家で、そういうところが余人を持って代えがたいところがあったの。
だからこそ後継者は誰でもいいわけではなく、次に繋ぐ襲名披露をしなければならなかった。
他にやり方があったとしても、ここまで放置したスクエニは自身の企業価値とIPの価値を損ねている。
lady_joker 私はドラクエほとんどやってないのだが「ドラクエ11 名曲」で検索するといい曲がヒットし、これを名曲だと評価するコメントも山ほどあるからすぎやまさんが枯れたというのは増田の勘違いだろう
33件で山ほどのコメントって言って良いのかは知らんが、枯れたっていうのはそういう話じゃないんだよ。
巻き込んでないし。自分から巻き込まれてきておきながらこういうバカバカしいブコメつけるバカを見るにつけ匿名って素晴らしいなって思うわ。
はあ?おばけなめくじみたいな人生送ってるお前に言われたくはないわw
このブコメに無料星つけるおばけなめくじフォロワーのidやばwえ、おばけなめくじのワナビーだったりする?w
こういうおばけなめくじのこうげきみたいなコメントが人気になっちゃうあたりがはてブのオワコンっぷりを物語ってるよね。
ちなみに「留保の可能性残してる」んじゃなくて現に留保してるんですよ。活動休止って言えば納得するか?そう書かないと納得できないか?可能性の話ですらありませんね。人の話も読み取れないのにクソダサコメント。ダッサ。鳥肌立つわ。
後継作品が気に入れば再開するし気に入らなければ再開しない。
そういう話にダサいダサくないとかいう基準を持ち出すところが最高にダサい。メンツ重視なくせにリアルでは職場にも家庭にも居場所のない趣味に生きる()中年男性みたい。