はてなキーワード: 本家とは
AdobeのLightroom CC(Classicでないほう)は使うべきではない。人生の時間を大切にしたいのであれば写真管理は別のアプリケーション、サービスを使うべきだ。以下はそれを実感した私の体験談である。
ことの始まりはLightroom CCの画像ファイルのローカルバックアップの場所を変更しようと思ったことである。写真データは古いDroboに置いていたが、さすがにUSB 2.0では遅く感じるようになったことと、ライブラリを複数のPCで管理したかったので、写真データをNASに移動させることにした。「ピクチャ」フォルダに置いていた”Lightroom CC”のフォルダをNASにコピーし、Lightroomの環境設定でNASのフォルダを「元画像の保存場所」に指定してLightroomを再起動。それほどたくさんの写真があるわけではない。枚数で言えば2万枚超、データサイズは90GByteほどである。私の目論見では、このまま放置しておけば数時間でクラウドとの同期が完了し、データの引っ越しは終わるはずであった。ところがこんな単純なことがうまくいかないのである。
同期にとにかく時間がかかる。「写真をチェック中」とのダイアログがでてカウンタが進んでいくが一秒に2〜3枚くらいづつしか進んでいかない。ときたま考え込んでカウンタが停止したまま数分経過することもある。あまりに長時間動かない時はさしもの私もしびれを切らしてLightroomを再起動させた。再起動させるとまたカウンタが進み始めるのである。そんなこんなを繰り返して7時間ほどかけてようやくチェックが完了。さあこれでクラウドとローカルの照合が終わり引っ越しは完了かと思いきやそうではなかった。次に「写真を移動中」とのダイアログが出てDroboからNASへの写真データのコピーが始まったのである。
は?
写真データははすでにNASにコピーしてあるだろ!「写真をチェック中」って一体何と何をチェックしていたんだよ?!クラウドとNASのデータをチェックしていたんじゃないのかよ!?なぜ古い場所から改めて写真をコピーしてくる必要があるんだ!?
最悪なのはこのコピーのプロセスも途中で止まるということである。途中でうんともすんとも言わなくなる。しかたないので「次の起動まで停止」のボタンで抜けてLightroomを再起動する。普通に考えれば次に起動した時はコピーの続きから再開すると思うだろう。さにあらず、Lightroom CCはまた一番最初のファイルの照合プロセスからやり直し始めるのである。なぜこんな仕様にしているのか理解できない。そしてコピーの途中でまた停止。再起動するとまた一番最初からやり直し。こんなの終わるわけがない。
私もとうとうこのやり方には見切りをつけて、Lightroom CCをアンインストールし、全ての設定データを消してクリーンインストールし直すことにした。
クラウドにはオリジナルの写真が全てアップロードされている。クリーンインストールしたLightroom CCを起動するとまずカタログデータをダウンロードする。そしてローカルバックアプとの照合を行い、ローカルにデータがなければクラウドからデータをダウンロードする。
クリーンインストールしたLightroom CCは古いライブラリからファイルをコピーしようとするような謎動作は行わないようだった。しかし今度もカタログデータのダウンロードで止まる。再起動するとまたダウンロードを始める。そして止まる。また再起動の繰り返し。
ようやく数時間かけてカタログデータをダウンロードし終わると今度はオリジナルデータのダウンロードである。ローカルにバックアップがすでに存在するのにまたクラウドから再ダウンロードするような無駄を私は望んでいない。しかしこれまでの格闘で私は疲れ切っており、もう勝手にしろという気分であった。そしてまたここでも頻繁に停止するのである。停止している時に右上のクラウドのアイコンを押すと、「ネットワークに接続できません」と表示されていることがある。ネットにはもちろん接続されている。何らかの事情でクラウドサーバとの接続が切れてしまい、接続を回復できなくなるのが停止の原因のようにも思われる。それがサーバ側の問題なのか、クライアントの問題なのかはわからない。わかるのはLightroom CCのフォトプランというサービスが、サーバもクライアントソフトウェアもひっくるめて極めて低品質なものであるということだけだ。
Lightroom CCのクラウド同期に問題が発生しているのは自分の環境だけではないようだった。
ネットではいくつかの対処法も見つけることができる。たとえばあるサイトでは同期停止の対処法としてLightroom library.lrlibraryの中にある”Managed Catalog”で始まるファイルを別の場所に移動してアプリケーションを再起動することを提案している。
https://lifehacking.jp/2018/04/lightroom-cc-spinning-wheel/
私もこれをやってみたが何の解決にもならなかった。今までの同期情報が消えてまた最初から同期プロセスが始まり、また停止しただけだった。
Adobe本家のサイトでは同期が止まった場合に写真にフラグを設定することで同期を再開するという対処法を提示している。
https://helpx.adobe.com/jp/lightroom-cc/kb/stuck-syncing.html
私はこれもやってみた。しかし何も起こらなかった。何度フラグを付け直そうが停止した同期プロセスが再開することはなかった。停止した同期プロセスを再開する方法はLightroom CCを一旦終了してまた再起動することだけだった。結局、ドモホルンリンクルを見つめる人のようにずっと同期の進行を監視して、止まったらLightroom CCを手動で再起動するという方法しか対処法はなかった。
はっきり言ってネットの情報は嘘ばかりである。一般ブロガーのサイトの情報があてにならないのはしょうがないが、Adobe公式のヘルプに堂々と嘘が書いてあるのは許しがたい。
これまで写真管理はiPhoto、Apertureを使ってきた。Appleが両ソフトウェアをサポートしなくなり移行先として選んだのがLightroom CCである。Appleへの依存率を下げたいという意図もあった。しかしとんだ見込み違いでLightroom CC/フォトプランはどうしようもなく低品質のプロダクト/サービスであった。たかがローカルバックアップの場所を変更するだけのことに大変な労力と時間を無駄につかわされた。
私はもうLightroom CCは捨てることにする。もともとRAW現像などするような写真趣味があるわけではなく、写真の管理とクラウドバックアップ、カジュアルなレタッチができればよいユーザであった。これからは写真管理とクラウドバックアップは写真appとiCloud+、レタッチはLuminar AIを使うことにする。
これを読まれた読者諸賢も貴重な人生の時間と労力を無駄にしたくないのであれば、Lightroom CC(そしてこんな品質の低いアプリケーションとサービスしか作れないAdobe)には金輪際関わらないことをお勧めする。
仮面ライダーは孤独に戦う等身大のヒーローだって?いつの話をしているんだい?たしかに今YouTubeで絶賛配信中の仮面ライダーBLACKなんかは確かに孤独に戦う等身大のヒーローだ。なんがしかの組織に属していたり多人数だったりする平成令和に比べると南光太郎はびっくりするほど一人で戦っている。彼が仮面ライダーだって知る人はほとんどいないし、南光太郎はあくまで仮面ライダーの友達で通してて、バックアップしてくれる組織もない。だが平成令和とくだっていくにつれて、孤独でもなければ「職業、仮面ライダー」みたいな仮面ライダーはゴロゴロ出てくる。当然私はこれら全部を書き明かすほど知識も文章力もあるわけじゃないが、コレコレ!コレだよ!っていう仮面ライダーをつらつらあげていこうと思う。
巨大化する仮面ライダーといえばJがあまりにも有名だが、個人的に好きなのはやはり「お前たちの平成って醜くないか?」でお馴染みの「仮面ライダージオウ Over Quartzer」だろう。
回を重ねるごとに昆虫ベースの改造人間からかけ離れていく仮面ライダー。毎年出てくる仮面ライダーは最早改造人間ですらなく改造人間設定はオマージュの対象となり、改造人間よりも怪人の方が強いライダー作品まで出てくる始末。年々ふざけていく見た目、毎年ガラリと変わる作風。あまりにもおふざけが過ぎる仮面ライダーのなかでもジオウはとくにふざけてた。なんだ!顔に!!「ライダー」って!!!2号は平仮名で「らいだー」って書いてあるぞ!ふざけているのか!と思って1年間見てたらもう顔に「ライダー」って書いてないと物足りなくなってしまった!
そんなジオウの劇場版、ISSAが演じる敵ボスは、そんな毎年毎年作風が変わりまくってデコボコな平成ライダーに一石を投じるべく仮面ライダージオウに戦いを挑む男である。それゆえの「お前たちの平成って醜くないか?」というパワーワードだ。彼も仮面ライダーに変身するが、仮面ライダーBLACKがベースの仮面ライダーバールクスに変身してジオウと戦う。平成の力を無効化する能力。忠臣だと思っていた男が実は敵方の人間だった衝撃の事実。囚われの身となったジオウを励ましにサプライズ出演する仮面ノリダー。憲武が!仮面ライダーの映画に!出てくるのだ!パロディライダーが本家の劇場版に出てくる!劇場で見た時、これはもう青天の霹靂であった。最後は巨大化して戦うISSAことバールクス。小渕の平成のパロディまでやってくれる!エピソードファイナルやパラダイスロストも名作だが、ジオウたちが巨大化したバールクスとどう戦うのか、是非とも見てほしい!
特定組織に属した仮面ライダーが増えていくのは先ほど書いたとおりだが、もはや書くことがいっぱいありすぎる!まず組織とは!というところから始めないといけないが、巨大組織との軋轢、という面でいうと、ショッカーから始まりゴルゴム、スマートブレイン、BOARD、ZECT、ユグドラシル、野座間製薬、果ては警察まで出てくる。
クウガに出てくる仮面ライダーは平成にしては珍しくたった一人である。どこの組織にも属さない。一応警察と協力して戦っているが、あくまで協力であり言ってしまえば業務委託のようなものだ。OPでも「英雄はただ一人でいい」と歌われているが、敵の暴力に暴力で対抗できる人間は自分一人だけでいいのだ。ある時、芝居の先生を敵に殺されたヒロイン(奈々がヒロインかどうかは民意に委ねる)に暴力の虚しさを説くクウガ。日夜暴力を振るっていることなどつゆ知らず「あんたの言ってることは綺麗事ばっかりやんか!」と言われ悲しい顔をするも「そうだよ、本当は綺麗事が良いんだもん。暴力でしか解決できないなんて悲しすぎるから!」と悲痛な返答をするクウガ。警察や世間からは「未確認生命体第4号」と呼ばれ他の怪人と同じく当初は射殺対象となるも、日々の戦いのなかで警察と協力して戦うようになっていく。少しずつ警察や世間の信頼を勝ち得ていく流れを、敵の暴力を暴力でしか解決出来ない最終バトルまでの悲哀を、是非とも見てほしい。
そのほかにも、所属している組織が1話でいきなり壊滅して、「オンドゥルルラギッタンディスカ」と叫ばざるを得ないなか、訳の分からないストーリーや勝手気ままに敵対して回る先輩ライダーなど、滑舌しかネタにすることのなかったのに、いざというときしか役に立たない男、肝心な時にしか役に立たない男、平成の善逸、強敵にしか勝てない男、などさまざまな異名を持つ男や、最終回の自己犠牲が後続のライダーの最終回に大きな影響を与えた男など、信じられる組織が初回で消滅してしまった男たちの生き様を、ぜひ見てほしい。
アギトのG3は未確認生命体第4号を模した警察のパワードスーツで、G3ユニットを巡って警察内部でずっと争いと諍いがあったのは見ての通りだ。なんなら最終回までずっと揉めてたからな、あいつら。イヤミなエリート刑事北條さんにずっと付け狙われるG3ユニット、あかつき号事件をネタにG3に変身するも敵前逃亡キャストオフでクビになり、めげずにギャバンみたいなシステムで対抗するもG3Xとの模擬戦でボコボコにされ、最終的にアギトは人類の敵認定されて怪人活動保護組織に成り下がりかける警察。これもぜひ見てほしい。
他にも555、剣、カブト、鎧武など、ベルトが組織の持ち物、ライダー対組織、という構図が年々強めになっていく。シンゴジラほどじゃないにしても組織描写は多いわけだ。賛否両論激しいゼロワンのお仕事五番勝負も会社対会社の争いで、あれも組織対組織の争いと言える。幹部同士の諍い、組織の中の揉め事、そういうの俊樹の十八番だな。組織描写が庵野の十八番なら、より面白いストーリーにしてくれることは期待できるだろう。
そんなわけで仮面ライダーのコンテンツはとても膨大なので私の知識と文章力では書ききれない。みなさん是非とも仮面ライダーの面白さをブコメなりトラバなりで語っていってほしいと思う。
電機業界で技術屋をしているんだけど、長期的に見て車の電動化が進むのは間違いないと思っている。
そのうえで気になるのは、技術の普及タイミングってそんなに正確に見切れるかなという事。
例えばうちの業界でいうと、有機ELの登場やフィーチャーフォンからスマートフォンへの移行という技術の切り替わりを経験している。
ディスプレイ技術としての有機ELは20年以上前から有望視されていたが、小型ディスプレイとして普及したのは2017年にiPhoneXで大々的に採用されてからである。
製品自体は2000年くらいから世に出ていた(初期型のFOMAに有機ELディスプレイが積まれてたのを覚えているだろうか?)から、かれこれ15年以上たっている。
普及までに長い時間を要しているわけだが、その間研究開発で先行していた企業はどうなったか?
NECはサムスン電子に技術を売り払って撤退、東北パイオニアは資金が続かず、アクティブマトリクス型の開発から撤退しニッチなパッシブマトリクス型の製造にとどまり、世界で初めて有機ELテレビを製造したSONYですら投資余力がなく製造部門を分社化。末裔たるJOLEDは売り上げ100億程度と小規模で事業としての利益は上がっていない。
スマートフォンにしたってそう。みんなタッチパネルで操作できる情報端末の研究開発をしていた。
本家Appleは90年代からNewtonを作っていたし、Sharpはザウルス、SONYはClieといった端末で試行錯誤していた。
みんな将来の方向性は読めていた。だけど、一般人が容易に使えるようになるための要素技術がかけていたからブレイクしなかった。
例えば、狙ったところを操作できるような、タッチパネルの進化。昔のタッチパネルって強く押さないと反応せず、操作しにくくなかっただろうか?あれは抵抗膜方式といわれる方式が使われていたからだが、それが静電気で反応する静電容量式が普及することで一気に操作性が上がった。
後はCPUの処理性能。過去のLinux搭載の携帯端末なんかは処理速度が遅く、ストレスがすごくなかっただろうか?
だけどiPhoneは最初からぬるぬる動いていた。そのレベルでストレスなく動かせるにはCPUの性能が上がる2010年代を待たなければいけなかった。
というように、いくつかの要素技術がそろって初めて、スマートフォンは一般に普及した。
つまり、新しい技術が普及するにはその前提となる要素技術がそろわないといけない。
だけどそのタイミングを読むのは容易じゃない。というか不可能だと思っておいた方がいい。
だから必ずしも将来的にEV100%になるとわかっていても、今全力でそっちに突っ込むのが正解とは限らない。
個人的には後発から巻き返すだけのエンジニアリソースと資金力のあるトヨタが、ガソリンエンジンの延命や水素の開発も含めて全方位戦略を敷いているのはすごく理にかなってると思う。
そういうわけで、変化の大きい電機業界の立場から過去を振り返ってみると、EVを強く押す人は前のめりすぎるかなという印象をうけるのだが、どうだろうか?
ツイステというゲーム、覚えているだろうか
アニプレが黒執事の作者をメイン絵師に据え、ヴィランに焦点を当てた女性向けアプリゲーム
最初こそ何十億円もの売上を叩きだし、テレビでも取り上げられ、連日学級会が開催されそれはもう盛り上がった。
私のTLでもめちゃくちゃ話題だったし、連日絵も小説もバンバン投稿され、pixivランキングがツイステで占拠されていた
その後、数々の不審点から某お空のRPGを越える署名が集まったのも実は一年以上前のことだ
で、今や億に届かない売上(Game-iとかいうガバガバサイトを参考にして言うことではないが、推定値であってもFGOを超えていたのに…)
止まらないキャラ格差(炎上不可避だろうけど、プロセカのユニット格差なんてこれに比べりゃマジで可愛いもんだと思うよ)
停滞しまくるメインシナリオに、初期勢には虚無でしかない長期間の復刻イベント&シナリオほぼゼロの虚無イベント(というか育成イベントとメインシナリオ配信や新規シナリオつきイベント配信を同時進行できん理由って何?)
サービス開始から一年半経ったのに、いまだにイベントSSRがゼロのキャラクターや、恒常SSRすら未実装のキャラクターがいる
そんな女性向けゲーム、他にある??あるならぜひコメントに残してほしい(いや本当にマジで)
時々「グッズ整理」と称して引退した人がキャラグッズを売りさばく様子だけが流れてくる
そして、最近見かけるのが「2次創作でしかツイステを知らん」ユーザーである
(こんな運営なんて滅んでサ終しちまえとは思っているが)課金どころかダウンロード数、アクティブ数にも貢献せず、曲解されたイメージだけのキャラを語る
正直滅んでほしい
ディズニーランドのハロウィーンでツイステの仮装OKになったことを喜んだり、騒いだりしてる奴らツイートの締めくくりに「でもゲームはやったことない」が高確率でくっついている
ふざけんな
ついには「ジャミルはアイドルオタ」「トレイは腹黒ヤクザ」「セベクはド天然キャラ」とかいう間違えまくったキャラ設定の二次創作も登場していて本気で頭を抱えてしまった
1ユーザーから見てもありえないクソ運営だと思うし、補填も謝罪もしないどころか認めすらしないし、バグやら重大な欠陥も未だに多いし、ゲームそのものも虚無過ぎてどの部分をメインに楽しめばいいのかわからない(根本的にUIすらゴミカスなのはよくないと思う)
お前が愛してるキャラクターは誰だ?そんなキャラクターは存在しねえんだよ!!!
正直公式が許可してるんだし、せめてYouTubeとかで上がってるシナリオやらキャラクターストーリーのまとめ動画見ろ
公式に金落とすやつがカッコいいとか、公式吸ってるやつの方がキャラ愛あるとか、そういうことじゃないんだよ
ツイステに関してだけは
クソみたいな調整で攻略がめっちゃ難しいボスキャラ戦やらなくても
虚無を回し続けてカード育成しなくても
公式を吸えるんだよ!!
お前らがやってんのはキャラクター陵辱だし、キャラクターに対する侮辱行為だぞ…
なんでそんなことができるん?全く理解できないし私の視界に入らなくても存在が迷惑なので今すぐ滅ぶか公式を吸え
でも「原作に問題があるから本家にはお金落とさないし作品内容も推しキャラのことも知る気ないけど愛してるよ!」って姿勢が害悪なんだよ…
あとこれは学級会じゃねえわ
ここは増田だ
悪の帝国 Oracle が Java を有償化し重税を課そうとしたその時、正義の勇者 Amazon が立ち上がり新しい Java 実装 Corretto を無償で広めて救ったのだ!
……という情弱が好きそうなデマがあるんだが、こんな陳腐なシナリオに喜んでいるようではインチキなテック系 YouTuber に食い物にされてしまうぞ☆
Oracle レジスタンスはいた。彼らは Oracle の中に潜んでいたんだ。
時は2005年に遡る。
Java を開発した 米 Sun Microsystems は赤字にあえいでいた。
2004年に Java 5 (目玉機能はジェネリクス) がリリースされてしばらくの頃だ。
この頃、ひとつのオープンソースプロジェクトが立ち上がる。名を Apache Harmony という。
開発は2005年5月に開始され、2006年10月には Apache 財団のトップレベルプロジェクトとなった。
Sun は多数の企業をまきこみ、いろんな企業に Java™ をライセンスしていた。
Java の実装は Sun が持っていたが、各社が独自に実装したり、Sun と契約してコード提供を受けたりしていた。
Java™ を名乗るためには Technology Compatibility Kit (TCK) という互換チェックをパスしなければならない。
初期の Java はオープンソースではなかった。誰もが自由にコードを参照し用いることができるものではなかったんだ。
これをオープンソース化しようという野心で始まったのが Apache Harmony プロジェクトだ。
Java の実装をいちから書き起こしオープンソースの代表的な Apache License Version 2 ライセンスで提供したのだ。
しかし、Sun は Apache2 ライセンスを良しとせず、Harmony に Technology Compatibility Kit (TCK) を受けさせなかった。
なるほど。彼らが Java をオープンソース化したレジスタンスだったわけか?
違う。話はそんなにシンプルではない。
2006年 Sun は Java をオープンソースにする意志があると発表した。
Sun は Java を リンク例外付きの GNU General Public License でオープンソース化することにした。
Harmony のライセンスは自由な改変を認めるものだった。
OpenJDK のライセンスは派生物を作ったなら、そのソースコードの公開義務がある、という点が大きな違いだった。
OpenJDK は出た当初はまだ Sun の JDK との非互換が多かった。しかしこれが現代まで続く OpenJDK の始まりだったのである。
2007年11月 GoogleがAndroidを発表した。 Android は Java 言語で開発することができる。
そのベースとなったのは Sun との火種くすぶる Apache Harmony だった。よりにもよって!
(後にGoogleが負けて賠償し、現在のAndroid は OpenJDK ベース)
その渦中、赤字に喘いでいた Sun はついに身売りを決断する。2009年のことである。
当初 IBM との交渉が報じられていたが金額で折り合わなかったようだ。
そこに颯爽とあらわれたのが Oracle である。 Oracle が Sun Microsystems を買収することになった。
しかし Oracle にはよくない噂がある。敵対買収してプロダクトを潰してしまうという黒い噂だ。
Sun の Java も Oracle に食い物にされてしまうんじゃないか、いわゆる 「悪のOracle」 のイメージはこの頃からのものだ。
しかし、 Sun はすでに Java をオープンソース化していた。 派生物もオープンソースにしなくてはならない OpenJDK で!
Oracle は Java を Sun 社ごと買ったが、 Java はすでに独り占めできるようなものではなかった。
Sun 本家の JDK を引き継いだ Oracle JDK と、OpenJDKがついに統合される。
Oracle がソースコードを OpenJDK に寄贈し、 Oracle JDK も OpenJDK ベースとなった。
ここに OpenJDK への移管は完全となり、Javaのオープン化は成就した。
それまでの OpenJDK は Oracle JDK との非互換が不安視されていたわけだが、Java11 からはその不安もなくなった。
こうして完全にオープン化された Java は、各サードパーティーからディストリビューションが出るようになった。
Java11 での Java のオープン化を経て、Javaはディストリビューション乱立時代へと突入する。
Amazon Corretto もそうした OpenJDK の派生ディストリビューションのひとつである。
OpenJDK の開発は今なお Oracle が主力となって牽引している。
Java を解放しようとしたレジスタンスは、赤字に喘いでいたSunの中にいた。
たとえ Sun が身売りをすることになろうとも、Java を邪悪な独裁者の手に渡さないように。
Sun が倒れてしまう前に Java はオープン化された。Javaの仕様策定は Java Community Process (JCP) にて行われる。
Javaの仕様策定は Oracle の独断で進めることはできない。 OpenJDK の開発も Oracle の独断ですることができない。
GNU General Public License でオープンソース化された Java は、派生物のライセンスもGPLが強制されソースコードを公開しなければならない。
そんな OpenJDK をリリースした、当時の Sun の中の人達こそがレジスタンスだったんだ。
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
今では、田舎で農業・林業やっている「本家」なんて上京した「分家」より貧乏だよ
それに、老親の介護だったり親の死後に残される田舎の不動産なんて負債にしかならないから、争いは争いでも負債の押し付け合いの争いだぞ
田舎には基本的に「本家」と「分家」と呼ばれるものがあって、田舎の一個共同体として存在していたわけなのだよな
大体本家と呼ばれるものが集まりや行事を主催して、金銭的な諸々や援助をしていたわけだけど
近年の個人主義によってそういった行事や集まりは意味がないという風潮が起き始めたわけだ。
そこで何が起きるかというと、昔行事等で「顔見知り」だった面々の次の世代で争いが発生する。
何故かと言えば「田舎」という曖昧な土地柄の場所で、「同じ苗字」という一点でつながっていた一つのグループがバラバラになり
当然「曖昧」にしていた事柄、口頭での土地の貸し借りやその他もろもろで戦いが生まれる。
その結果「金や権力」を持ってる奴が独り勝ちするが、負けた人間はその土地を去ることになり、一帯は他の全く関係の無い人間によって占拠されるようになる……という
最近盛り上がっているので、再掲しよう。
これは、過去2000年の歴史の中で顕在化した天皇家の跡継ぎ問題を解消し、来たる西暦4000年代に再び同じ問題を起こさない為の、新提案である。
よって、市中の女系男系論争とは別物であることは、最初に断っておく。
万世一系を証明するためには、客観的な遺伝情報が必須である。この時、父母の両方から由来する可能性があるものを追跡指標とする場合、何世代か経つと殆ど辿れなくなる。
そのため、生物学的に必ず片親からのみ受け継がれるものが良い。最良の追跡指標は母系のミトコンドリアであろう。 (※ 父系遺伝の研究も存在するが、完璧なものはまだ無いように思える)
天皇家 β は、現代科学を用いて皇統を国内外に客観的き証明しながら公正に代を積み重ねることに重点を置く。この観点から、母親経由で必ず継承されるミトコンドリアを指標とし、女系に切り替えることが最適であると思われる。
ミトコンドリアを指標にした女系継承には公証以外にも多くのメリットがある。それは昨今大きな話題となっている、皇族の結婚相手の問題である。
本家の血筋が途絶えても、ミトコンドリアを追跡することで、より正統な後継者を分家から機械的に選出することが出来るのである。
これは、過去の天皇家を振り返っても画期的である。揉め事が起きても、ミトコンドリアの遺伝情報を解析するだけで、瞬時に誰がより正当な後継者か、私情を挟まずに判断がつくのである。
父親が誰になろうと母系で継承されるミトコンドリアには影響しない安心感はさることながら、天皇家にどれだけ近い血筋か遠い血筋か、国民全体を量的に分布し可視化することが出来るのである。つまり、親族か否かという変動する離散的な属性から、普遍の連続的な国民の順位付けが可能になる。
これはただの提案であり、100年、200年後の時点では戯言に過ぎない、しかし2000年以上先の将来を見据えた唯一の解であることを認識する人が増えると、日本の未来と皇統は凡そ安泰であろう。