はてなキーワード: 常套手段とは
増田の論文がどんなものか分からんので、ここから読める情報だけから所感を
「やろうと思えば誰でもできたこと」
「ただひたすら頑張りました、ってだけだよね?」
とおっしゃるばかり。
ここが気になる
泥臭い作業を頑張ったということだけど、増田の論文の潜在的な読者として気になったのは、それは増田が初めて考えたやり方を
やったのか、それとも既存研究でも常套手段のものか、とか、別分野の既存研究で既にそういうやり方は考えられていたが増田の
この辺は、研究の内容を明かさずとも書けたことと思うし、増田がその辺を整理しているとしたら当然書いているだろうと思ったので、
言及されていないのが気になった
研究発表で、こういうことが明らかにされることで、聴衆は初めて、増田の取り組んだ問題が何なのかを理解する
逆に言うと、この辺が明確に説明されないと、増田のやったことは理解されない
増田が初めてやった手法なら、その点はガンガン押したほうが良い
そうでなくとも、増田が今までにない結果を出したことは明らか(なんだよね?)なのだから、何故今までそういうことがされていなかった
のか、と、どうして増田の手法がそれほど効果的だったのかということを、プレゼンを聞く側としては説明して欲しい
企業に就職を決めたということで、頑張って欲しいと思うが、企業の世界でも学術の世界でも大切に思われそうなこととして、
提案手法が「どの程度使えるか」を理論として明らかにする、ということはあると思う
技術を実際に使う段階で、どのくらい投資すればどのくらいのリターンを得られるかということを確約出来、さらに納得させられる
かということが、企業にとって決してどうでも良いことではない、というのは、
数学的に性能の証明されている手法の性能評価を数値的にもやってみせ、上層部を説得することが企業内では必要であると社会人博士が
言っていたことで学んだ
あと、ブコメで特許の話が出ているが、これはまずは大学のサポートがあるかは調べておこう
当方は大学を出てからそれなりに経ってしまっているので分からんのだが、研究機関によっては特許の話はサポートが大分進んでいるので、
昨今のマスコミ批判において、頻繁に取沙汰される問題の一つに「報道しない自由」がある。
この語は「報道の自由」に引っかけた単語であるが、要するに「メディアは自分たちの主義・主張にとって都合の悪いことは報道しない」というものである。最近の例では、加計学園の獣医学部新設をめぐる一連の報道の中で、マスメディアは前川前文部科学省事務次官の国会発言ばかり取り上げ、加戸前愛媛県知事の発言はごく短い時間しか取り上げないか、あるいは存在すらしなかったかのように無視したことが問題視された。「放送法順守を求める視聴者の会」がテレビ報道の在り方について新聞に意見広告を出した他、主に右派系のネットメディアでも頻繁に取り上げられていた。同様の批判は安保法制や共謀罪に関する報道でも行われた他、日常の事象においても「犯罪報道において犯人が報道関係者だったら追及が甘い」など、「報道しない自由」の事例は枚挙に暇がない。
この問題に対しては「マスメディアは自分たちの都合の悪いことを隠蔽せずに報道しろ」という旨の批判がなされることがあるが、私はそれは不可能だと思う。何故なら、媒体を問わず、偏向しないメディアなど存在しないからである。
ある事象において報道がなされる際、メディアが割ける報道資源には限りがある。テレビであれば一つの番組の中で数十秒~数十分。特番を組んだとしてもせいぜい2時間程度だろう。新聞であれば紙面の数%~全面、マックスでも広告欄を除いた全ページである。イラク戦争開戦の際に、新聞がほぼ紙面の全てをイラク戦争に割いていたのは、非常に印象的であった。
一方で、報道の元となる一次ソースは、膨大な量となる。行政機関が発行する資料では、少ない物でもA4で1枚、多い物なら数百枚にものぼる。これらの内容を、テレビや新聞で一字一句逃さず報道するのは不可能であろう。ネットであれば可能かもしれないが、そんなに大量の情報に全て目を通す人はそう多くはない。これが事件報道になれば、事件の経緯、加害者の背景、被害者の背景、関係者の証言、その他諸々…「事件に関わる全ての情報」を挙げていけば、際限が無くなってしまう。
そもそも全ての人が一次ソースを参照するのであれば、報道など不要である。一次ソースをかいつまんで分かりやすく説明したり、内容を解説して理解しやすくすることが、報道に求められることであろう。それがいわゆる「編集」と呼ばれる作業である。
そして、編集の過程において、どう頑張っても排除される情報というのは生じるものである。その事象にあまり関係のない情報、専門的過ぎたり限定的過ぎたりするために掲載しない方が理解しやすくなる情報などは、むしろ省いた方が視聴しやすくなる。また、編者の意見に会わない情報は、意識的か無意識的かに関わらず、省かれてしまうこともあるだろう。すなわち、一次ソースをそのまま掲載しない限り、テレビだろうが新聞だろうがネットだろうが偏向は必ず生じるものなのである。掲示板の書き込みを編集した「まとめサイト」などはその典型例で、記事の主旨とは異なる書込みは省かれるし、管理人の主義主張に反する書き込みも、もしかしたら排除されているかもしれない。いくらメディアが「公平公正」を標榜していたとしても、それを100%成し遂げることは、到底不可能なのである。
だから私は「報道しない自由」自体は全てのメディアが持っているものだと思うし、それ自体を批判することは的外れであると考えている。その批判は容易にブーメランになり得るからである。テレビにおいては放送法第4条を根拠に公平性を求められるケースもあるが、放送法自体問題が山積みの法律であるため、早急な改正が必要と言える(テレビ局の人間が「倫理規範だからセーフ!」とか言ってる時点で機能してない)。
では、マスメディアの持つ本当の問題点とは何か。当たり前すぎて今更語るまでもないことかもしれないが、今一度整理したみたい。
ネットとの比較という意味で、最も顕著なのはこの点だろう。テレビ、新聞などの既存メディアは、発信者と受信者が固定されており、受信者が発信者に対して同じ立場で発言することができない。テレビは総務省の許可が無ければそもそも放送できないし、新聞なら発行すること自体は誰でも可能かもしれないが、一般人が大手メディアと同じ量の情報を発信するのは、現実的ではない。
一方でネット上は、基本的に誰でも平等に発言することができる。もちろん、発言の影響力は立場によって異なるが、例えばツイッター上で批判されたら同じくツイッター上で反論することも可能だし、ブログの意見に対して別のブログを自分で立ち上げて反論することも可能である。グーグルなどのポータルサイトやSNSの運営会社が強い影響力を持つことは否めないが、利用者はそれらのサービスが気に入らなければ、容易に他のサービスに切り替えられる。また、例えば国が法律によってネット上の情報発信を規制したとしても、法の及ばない海外のサーバーを利用することだってできる。ネット上には絶対的な情報発信の強者は存在しないのだ。
これは利用者にとって、単一方向メディアにはない大きな利点である。今までは情報発信はマスメディアが独占していたが、現在では個人が自由に発信者になれるのである。その一方で憶測や捏造に基づいた情報を発信すれば、簡単に批判を受けてしまうというリスクも負っている。これまで独占的な情報発信者としてその恩恵を最大限に受けて来た既存メディアにとっては、到底受け入れがたいことだろう。だが残念ながら、どんなに望んでも時代が遡ることはない。
いわゆる「記者クラブ」に関しての問題点である。マスメディアの記者のほとんどは業界団体で作る「記者クラブ」という組織に属している。記者クラブには、行政組織や大企業の記者会見に優先して参加でき、クラブに属さないフリーランスの記者などはそもそも会見に参加すらできないことが多い。すなわち、日本ではマスメディアによって、ジャーナリストに対する言論弾圧が行われているのである。
また、記者クラブの中で、異なる報道機関の記者同士が取材した内容を互いに確認し合っているという問題も指摘されている。取材メモの内容を他の記者と「答え合わせ」し、内容に漏れや間違いがないかを確認しているという。これは関係者が著書などにおいて発言した内容であるため、事実か否かを確認する術を私は落ち合わせていないが、もし事実であるとすれば、報道機関としていかがなものかと思う。扱うのが情報だという点を除けば、他業種における「談合」と何ら変わりない。
記者クラブの存在を別にするとしても、報道内容が画一的であるという点は批判されるべきだろう。特にテレビ報道においてその傾向は顕著で、芸能人のスキャンダル、政治問題、相撲界の不祥事、どの事象においても、全てのチャンネルにおいて、まるでコピー&ペーストのように同じ論調でしか報じていない。ワイドショーだけならまだしも、ニュースにおいても同様である。そして、同業他社であるマスコミ各社の不祥事については、どの報道機関も一斉に口を閉ざすのである。これではマスコミ同士の相互チェックは全く機能せず、業界全体が腐敗してしまう。
さらに、冒頭に挙げた前川氏にまつわる報道では、読売新聞が「前川氏が未成年が働いている出会い系バーに出入りしていた」ことを報じ、他のマスメディアから一斉に批判がなされた。全く意味不明である。読売新聞は報道の自由に基づいて報じただけであるし、元文科省の役人が、任期中に児童買春を行っていた疑いがあるのだとすれば、報道すべき大問題であろう。マスメディア各社の中で前川氏に関する報道姿勢について合意がなされており、それを読売が「抜け駆け」したことに対して怒っているのであろうことは、想像に難くない。前川氏自身は(苦しい言い訳をしながらも)出会い系バーに出入りしたいたこと自体は認めており、読売の報道内容は事実であった。事実を報道したことに対して批判をするのであれば、日本のマスメディア各社は報道機関として終わっているとしか言いようがない。
もはや誰がありがたがっているかよくわからない年中行事の一つとして、自由国民社という一出版社が数人の選考委員会を集めて勝手に決めている「新語・流行語大賞」というものがある。最近では野球業界以外では全く流行っていない言葉や、日本に対するヘイトスピーチに当たる言葉を流行語として選び、物議を醸している同賞だが、先日発表された2017年の流行語のトップテンの中に「フェイクニュース」という言葉が選ばれた。その定義は、新語・流行語大賞のホームページを引用すれば、「ネット上でいかにもニュース然として流布される嘘やでっち上げ。」だそうだ。
このように、マスメディアがネット批判を行う際の常套手段として、「ネット上には嘘や質の低い情報が多く含まれている」という主張がある。「それに対して新聞やテレビは、社内で十分に内容を確認・検証しているから、正しい情報である」と言いたい訳であるが、ちゃんちゃらおかしいとしか言いようがない。
ネット上の情報に嘘が多いというのは事実であるし、そんなことは普段ネットを利用している人であれば十分承知の上である。一部の情報弱者が、良く調べもせずにその情報を鵜呑みにしたり、タイトルだけ見て記事の内容を読まずに早合点したりして、騙されている訳である。ネットを使っていれば関連する情報をその場ですぐに参照することは容易だし、先述した通り間違った内容であれば他者が指摘することも容易である。
対して新聞やテレビは、偏向や捏造があっても、個人が指摘して正すことはできない。サンゴ・グリコ・アジトや、椿事件、慰安婦問題などは、捏造が明るみに出たため、謝罪、訂正した例であるが、間違いを指摘されても訂正・謝罪していない例もいくらでも存在する。そもそも先に挙げた「フェイクニュース」という単語自体、元々トランプ大統領が言い出した言葉で、「テレビなどの既存メディアの捏造」を指す言葉であるが、マスメディアはこれを「ネット発の捏造・誤報」という意味に「捏造」しようとしているのである。
近年、「若者のテレビ・新聞離れ」を憂う声がメディアから上がっているが、若者に原因があるのではなく、自分たちに原因があることを理解しているのだろうか。メディアにとっての商品は「情報」である。その商品の品質が低ければ、顧客が離れるのは当たり前だ。提供する料理がマズい店は、客足が遠のくのと同じである。これまでは情報そのものが大手メディアにより独占されていたが、現在はネットの出現によってその独占状態も瓦解してしまった。既存メディアがいくら「ネット情報は玉石混淆だ!」と叫んでも、石しか扱っていない既存メディアは一笑に付されて終わりである。
徒然と書き殴ってしまったが、ひとまずここまでにしたい。他にも、視聴者が直接の顧客ではないこととか、テレビ局が国民の資源である電波を独占していることとか、新聞社が企業買収から守られていることとか、メディア自体が権力化していることとか、いろいろと問題はあるが、ともかく「既存メディアがネットよりも優れている」というのはまやかしでしかない。「ネットの情報ばかりでは偏る」という意見もあるが、それはテレビや新聞でも同じことである。メディアの媒体問わず、一つの報道だけを鵜呑みにせずに、様々な情報を加味して判断すべきなのだ。要は個人のメディアリテラシーの問題でしかないのである。
また、単一のメディアの情報だけを信じてしまう人の特徴として、「自分で判断することを放棄している」という点が挙げられる。そういう人ほど誤報・捏造報道があった時に、「騙された!」と叫ぶのである。もちろん、捏造したり、ちゃんと確認をせずに報道したりするメディアは悪であり、糾弾されなければならない。しかし本来は、何が事実で何が嘘かは、情報の受け手個人個人が、自分の責任において判断しなければならない。それができない人間が「情報弱者」と呼ばれるのである。
メディアはその媒体を問わずに「報道しない自由」を有している。だからこそ受け手は偏向・誤報・捏造に踊らされないように、一人一人がメディアリテラシーを身に着けることが重要なのではないだろうか。
・ミミミちゃんは悪魔
ウソ泣きに決まってるだろ。自分が可愛いと知ってる女の常套手段だ。
これでほぼ全員味方に出来るからな。
・店長は有能
そのへんも全部わかってて激昂したりせず諭してくれるタイプ。できる。
・元増田
たぶん、体育会系では「どなって怒りたいところを我慢して指導するという形で怒ってる」のを、「おお、そうだったのか教えてくれてありがとうニコッ!」という形で返しているのがすれ違いだろう。知らないことを教えてもらっているのだから、ありがとうというのは、向こうがまだ教えているつもりで接しているであろう間(研修中とか)ならある程度有効だが、それを過ぎると「聞いてない」になる。
呪いはある。恨みつらみはそれを買うような真似をするとやはり蓄積されていくし、結果、呪われたからとしかいいようのない不幸な目にあうということはある。
ところが、「憎まれっ子世にはばかる」という言葉もまたある。あれだけ人をないがしろにしているわりに天罰や呪いにあうことなく長生きしている人。
たまに図々しすぎてクチを開けたままになるような言動や行動をとる人がいる。こういうときに人は唖然としてその人への感情が追いつかない。また、恫喝をし続けることによって思考を奪うというのも常套手段だ。
こうすると、人はうらむことを忘れてしまう。
これが憎まれっ子世にはばかる理由ではないかと仮定する。
この場合の対策法はタイトルにある。だから、無法や野放図な行動や言動をしている人に対してきちんと心のなかで「死ね」と恨みを積んでおくことが大事だなと思った次第だ。
これからネットでトンチキなことを書いている人にも丁寧に「死ね」と思うことにする。それを直接コメントしないように気はつける。
10/22の東浩紀「棄権してないよ。それはフェイクニュースだよ。」
10/22のおれ「は?」
はい、合計0点のデマツイートお疲れ様でした。お帰りください。
せめて画像1枚目と3枚目だけを恣意的に抜き出して並べたら草生やして笑えたんだが、
それはあくまで「別に矛盾してないけど恣意的に編集すると矛盾してるように見えて面白いね」っていうブラックな笑いであってな。
上記のツイートは完全に東を貶めるためだけに悪意ある編集をしてるから全然笑えないよ。
140字に収めるために無理な要約をしたとかそういう言い訳が一切効かないレベルでしょ。
補足しとくと、このツイート主neupon08は根っからのアンチ東で、いつも東の発言を叩きやすい形に都合よく解釈して叩いてるような人間なのよ。
これはこのエントリの1行目に書こうか迷って、先入観を与えるとよくないと思ったからこの段落で書くことにしたんだけど。
だいたいこういったアンチ東クラスタの奴らは、東の発言から一見反対のことを言ってるようなものを二つ三つ拾ってTogetterとかモーメントに並べて、
「矛盾してる~!一貫性がない~!」とか指摘したつもりになって身内で寄り集まって東をバカにしてる害悪クラスタなんで、今回のも「出たよ奴らの常套手段が」って感じなんだよね。
(あ、俺は東信者じゃなくてアンチデマ活動の一貫としてアンチアンチ東活動をしてる者なんでそこんとこよろしく)
でさー、いくら過去発言がアレな東だからといって、ゲハブログと同等の恣意的な編集でできてる劣悪なまとめに乗っかるのはダメでしょ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/neupon08/status/922061303522267136
いや、俺もこのツイート主のアイコン見て、「はいはい、いつもの偏向まとめアンチさんね。話半分だな」と思わなければ騙されてたかもしれないけどさ。
まともなコメントがid:interferobserver id:type-100 id:redra22 くらいしかいないじゃん。
id:yas-mal id:zeroset も東の主張自体は理解して、その主張苦しくない?おかしくない?って言ってるからまっとうな批判だよ。
デマツイートを鵜呑みにした批判してるid:sbedit1234 id:toronei とかは反省してどうぞ。
東浩紀は、みんな棄権しろ!と煽ったんではなく、アホらしくて棄権したいくらいやわ!と思ってる層を可視化しようとしただけだ。それが絶対的に正しいと主張したわけでもない。自分と同じように思ってる人は他にもいるのでは?と募っただけ。僕は投票したけれど、あれに何の問題があったのかわからん。
いま言ったように、それはキャンペーン前のツイート。捏造もいい加減にしてくれ。
誤読のトラブルをなんでも読者の読解力不足のせいにするのはよくないけど、上の例に関しては東は悪くないし絡んでる奴が時系列と文脈を読めないアホなだけなんだよなあ……。
しかも誤解を与えてスマソって言ってるし→https://twitter.com/hazuma/status/909810605778800640 (まあこの後同様の誤解が何百何千と広まってさすがにキレるんだけど)
棄権を政治への無関心とか与党への白紙委任とか言って切り捨てず、そもそも選択肢がない状況についてまともに考えようという主張それ自体が、棄権を呼びかける危険な行為とか言われるんだから、ほんとうんざりだよ。ぼくが棄権するかしないかなんてどうでもいいんだ。
ここが(東にとって)本質的な部分なんだから批判するならここにすればいいのに(事実してる人はいる)、
棄権するしないとか言った言わないとかしょーもないところにツッコミ入れることばかりが炎上的に盛り上がっていく。
俺自身はあの署名そのものにはサインもしてないし、東の言うような選挙おかしいと思ってる人の可視化っていう意義はあるのかもしれないけど、現実的な効果とかはないんじゃねーの?と思う。
でもあの署名関連での東への批判は誤読が多すぎてさすがに東が気の毒だな、と思っていたところに最初に引用したデマツイートですよ。
昔のことに愚痴を言うのはあまりよくないことだ、と言われてきた。過ぎたことに拘って何になるのか、とも言われた。
幼少期、私はあまり言葉が上手くなかった。人並みには喋っていたと思うのだが、自分の怒りの理由や不快感の根源をうまく大人の言葉で説明することができなかったのだ。
とても歯がゆかった。自分が感じている『何がどう、と説明できるわけではないがとにかく嫌だ』という感覚を、ただのわがままのように受け取られることが耐えがたい苦痛だった。
今の自分が遡ってそれらを言語化するなら例えば「どうして自分がやりたいと言ったわけでもない楽しくもない習い事に無理やり連れていかれなければならないのか」という訴えである。
「文句があるなら口で言え」と拳骨を食らわされながら育った。「お前は万年反抗期だから」と厄介者扱いもされた。
だが私の記憶をどれほど掘り返しても『親からきちんと言葉を尽くして説明された』記憶は驚くほど少ない。最近の記憶まで検索範囲を広げてみても、結果は同じことだ。
「それは理屈が通ってない」と私がいくら主張したところで、「お前より三十年以上長く生きてるんだから親の方が世の中の事をよくわかってるんだ」という亀の甲より年の劫理論で聞く耳を持たない。
或いは偉い学者先生が言ってることだから正しい。彼らの主張は大抵の場合対人論証を含んでいて、要するに『子供の言うことだから正しくない』と思っていることはよくわかった。
だがどれだけ言葉を尽くして説明しても無駄だった。言い争いの結果は始まる前から決まっていて、彼らにとって私の言い分は最初から「ただの言い訳」であるとか「口答え」であるとか、そんな風にしか思われていなかった。
黙って言うことを聞く以外の選択肢はそもそも存在しておらず、激しい言葉を選ぶなら『対等な、意思ある人間として扱われた覚えは一度もない』ことになる。
何か議論が行き詰まると必ず「誰の金で生活してると思ってるんだ」という一言に辿り着く。
「何か言いたいことがあるなら自分でちゃんと稼いでから言え」というのが親としての彼らの主張であって、それは当時の私にとっては本当にどうしようもない事柄であったので、一切の交渉が不可能であることを思い知るだけだった。
大学に行きたくなかった。本当は専門学校なり美大なりに行って、何かを表現する技術を身につけたかった。
けれど、彼らにとってそれは「逃げ」であって、「お前は落ちこぼれたから受験から逃げたいだけだ」と決めつけられていたし、大学に行かないなら家を追い出す、とも言われた。
これは彼らの常套手段である。経済的な支えが皆無である子供を相手に「意に沿わないことをするなら経済的支援を打ち切る」と脅しをかけるのは二択とすら言えない。
高校生にもなればなんとかバイト、という手段が発生するが、それ以下の子供に対して「稼ぎがないこと」を理由に発言権を事実上ないものとするのは些か横柄であると言わざるを得ない。
小学生の頃には既に明言されていた指標なので、「(稼ぎのない)お前の言うことには何の価値もない」と言ったも同然である。
付言すれば、私の成績が悪化したことに対して「やる気がないなら勉強したいけどお金がない他の子供に投資する」という脅迫めいた発破を常に繰り返した。
彼らにとっては「よく勉強する口答えも贅沢もしないいい子」でなければ出来損ないだったのだろう。はっきり言って苦痛だった。
常に親との致命的な価値観の違いを感じていた。
確かに金銭的なことや現実的な事柄というのは疎かにしてはならない。義務は果たさねばならない。ルールは守らねばならない。
けれど、人にはそれぞれ価値観がある。自分が何を大事だと思うのかは自分にしか決められないことだ。
誰かにとって「金になるかどうか」が一番大事であることは否定しない。けれど、私はそこに重きを置かない。それだけのことだと思う。
「子供の為を思わない親はいない」なんて言葉は何の慰めにもならない。「自分の思う『子供にとって一番いい』状態以外は全て問題である」という態度を取り続ける人間を、どう受け止めれば良いのだろう。
例えば対等な友人関係に於いて「お前の為を思って言ってるんだから、お前は俺の言う通りにすればいいんだ」などと言われて納得するだろうか。
対等でなくても良い。会社の上下関係に於いて「お前は新人なんだから口答えしないで黙って働け」などと言われて納得するだろうか。恐らく十数年前ならそれが普通だったのだろうと思う。でも今そんなことを言えば間違いなく『パワハラ』である。
家庭、というのは自由選択が事実上不可能な人間関係である。特に子供にとっては、経済的、社会的要因から必然的にその拘束を受ける。
親が叶えられなかった夢を叶える為、代理戦争を戦わされる子供もいる。
家庭内不和をどうにか修復する為、極端にいい子で居続けたり、問題児として集中砲火される役を引き受ける子もいる。
選べない環境の為に、選べる自分の振る舞いや考え方を変質させていく。
自分の意思を持つことを悪いことだ、逸脱だ、とされ続けながら、ひっそりと生き延びている。或いは死にそびれている。
精神的に問題があり、大学に行きこそしたが「普通の人が当たり前のようにできる卒業すらままならない」人間だったので私は晴れて役立たずの称号を授かった。
彼らが私を見下しているように、私もまた彼らを見下している。
「いい大人で稼ぎもあるくせに子育て一つまともにできないような人間の言うことを聞く必要がありますか?」
喉元まで出かかる言葉をどうにかして飲み込んでいる。
なんてのは嫌という程言われ続けている。カウンセリングでもそう。自己啓発本の類でもそう。宗教絡みも大抵は、そう。
なんてのも聞き飽きた。選べなかった人生のことをあれこれ言うよりは手持ちのカードを切るしかないという諦めを持てと、そういう話なんだろう。
ある意味で、私はもう私のことについては諦めがついていると言っても良い。
今更どうにもならないことを嘆く必要はないし、それが何かの助けになるとも思わない。
ただこうして文句を言いたいだけのこともある。
昔の私が言えなかったことを、代わりに言わなければならない、と思うこともある。
そうして多分、「今まさに昔の私と同じ状態にいる」誰かの目に留まることを、ほんの少しだけ期待しているし、あわよくば「昔の私を作ろうとしている」誰かの親になるべき人の目に留まってほしいとも思っている。
確たる主張があるわけではないが、「それは我慢するべきことなのか」「我慢させるのが当然なのか」を一度冷静に考えて貰えれば何よりだと思う。
認知度は上がったとして、それって本当に業績に結びつくんだろうか?
自分の場合、物を買うときの選択は、コスパである程度絞った後はブランド信頼度やデザインで比較検討で決める。
今の時代、例えば石鹸一つとっても、質も値段も大差ないものが大量にあって、どれを買うか決めるのに時間も労力もかかる。比較検討する候補が多ければ多いほど大変になる。
そこで、牛乳石鹸の存在だけ最初から無視できたら、消費者としては迷う要素がひとつ無くなる分、楽になるんだよね。
炎上すると確かに記憶には残るけど、それって「買い物の選択肢から外すための判断材料」になるだけで、買う動機には全くならない、というのが個人的な感想。
でも、牛乳石鹸がサントリーがインテグレートが、超絶ムカついたのかって聞かれたら別にそうでもない気がする。(そもそも狙った炎上商法なのかそうでないのかは推測しかできないので議論しない)
どちらかというと炎上商法という売り方が嫌いだから、それに加担したくない、広告の常套手段にさせたくないという気持ちの方が強い。
謝罪があったならまだしも、「話題になるのが大事」とかいう開き直りは特に大嫌い。(宮城県のとか)
という感じで炎上した商品の非売は続けるけど、一番悪いのは広告代理店なんだろうとは思う。
その道のプロが、メーカーのブランドイメージまで貶めてまで短期的な話題作りするのってどうなんだろうな。炎上を狙うのって一部の層をわざと不快させて喧嘩売ってるわけで、消費者同士は争うし、やっぱり手法としては汚いと言わざるを得ない。
私は、人の気持ちをネガティブ方向に刺激しない、正攻法でモノを売る企業が報われてほしい。問題提起とか社会風刺がしたいなら、別のフィールドでやってほしい。
その日、友人のウサクに誘われて、俺は何らかの会場に足を運んだ。
市長が何か大事な発表をするらしいので、見ておくべきだろうとのことだ。
「お集まりの皆さん、社会に生きる我々にとって重要な事柄であり、何度も取り沙汰されているにも関わらず、未だ解決されていない問題が何かお分かりでしょうか」
常套手段だなと、ウサクはニヤつきながら俺に耳打ちする。
ウサクが何をそんなに面白がっているのか、俺にはよく分からなかった。
市長のこれまでの“実績”を知っている住人たちからすれば、「これは碌なことにならない」という予感が真っ先に出てきたからだろう。
この町の市長は普段はまともな人なのだが、精力あふれる政治屋の血が流れていた。
その血が騒ぐのか、突発的に崇高な志が暴発してしまうことがある。
しかも大抵それが頭でっかちな内容なので、住人たちはウンザリしていたのだ。
そんな住人たちの警戒心を知らないのか、或いは知らないフリをしているのか、調子を崩さず市長はスピーチを続ける。
「我々は差別はいけないことだと分かっていながら、時に過ちを犯してしまいます。なぜか? それは『差別』という概念に知見が足りないからではないでしょうか」
一見それっぽいことを言っているように感じるが、ウサク曰く「それっぽいことを言っているときこそ、むしろ警戒すべき」らしい。
「我々は差別がどのようなもので、どのような問題を孕んでいるのか理解を深められていないのです。なので、ここに一つの政策を打ち出すことを宣言します。テーマは『超絶平等』です!」
ウサクの警戒心を的中させるように、何だか胡散臭いテーマを打ち出してきた。
なんで『超』とかつけるんだ……。
その後も市長は色々と何か語っているが、完全に興味の失せた俺はその場から離れることにした。
「おや、帰るのか。市長の話は?」
「興味ない」
「おいおい、まるで他人事だな」
「この手のは大局的に見ればそれなりの影響があるのかもしれないが、往々にして俺たち個々人が実感するような代物じゃない」
実際、あの市長が時々やる政策は大した成果を上げられたタメしがない。
大衆に向けた「仕事やってますよアピール」という側面が強く、俺たちの認識も概ね同じだった。
「うぅむ、貴様のその無関心ぶりはどうかと思うが、主張をあながち否定しきれないのが悲しいところだ」
マツリゴトが大好きなウサクですらこの反応である。
どうせ大したことない、俺も他の人たちもそう思っていたはずだ。
だがそれから程なくして、今回の政策は一味違っていたことを俺たちは身をもって知ることになる。
まずこういったファン数が多い作品だとどうしても頭のおかしいファンが出始める。すでにその兆候もある。そういった一部のファンを面白おかしく取り上げ「これだから○○のファンは」と作品の本質の外から叩くのは常套手段。
けもフレのメディアミックスが進めば自ずと失敗する物も現れるだろう。まず発表からリリースまで早すぎる感のあるゲーム。ゲーム内容がどんな物になるのか今の時点では分からないが、アニメと同レベルの楽しさが期待されているのは間違いない。
しかし期待したより思ったほどでなければ恰好の餌食にされるだろう。初期FGOや今話題のシノアリスみたいなことにならなければいいが。
さすがに原発やネトウヨにまで絡めた叩きは笑って見逃せるが、叩きが過激化すれば頭のおかしいアンチとファンの間でどうでもいい論争も起こるだろう。それで得するアフィブログはさらに煽る。
私は共謀罪に反対なのだが、まずそもそも何で共謀罪を立法したいんだ?という所から戻って考えてみた。
政府側の説明としては、「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」(2003年国会で承認、未批准)が
「この条約は,国際組織犯罪対策上,共謀罪などの犯罪化(注)を条約加入の条件としています。」http://www.moj.go.jp/houan1/houan_houan23.html
だが、この表現は簡略化しすぎである。条約本文の該当箇所にはこう書かれている。
1締約国は、故意に行われた次の行為を犯罪とするため、必要な立法その他の措置をとる。
(a)次の一方又は双方の行為(犯罪行為の未遂又は既遂に係る犯罪とは別個の犯罪とする。)
(i)金銭的利益その他の物質的利益を得ることに直接又は間接に関連する目的のため重大な犯罪を行うことを一又は二以上の者と合意することであって、国内法上求められるときは、その合意の参加者の一人による当該合意の内容を推進するための行為を伴い又は組織的な犯罪集団が関与するもの
(ii)組織的な犯罪集団の目的及び一般的な犯罪活動又は特定の犯罪を行う意図を認識しながら、次の活動に積極的に参加する個人の行為
b組織的な犯罪集団のその他の活動(当該個人が、自己の参加が当該犯罪集団の目的の達成に寄与することを知っているときに限る。)
上記にでている(i)が共謀罪、(ii)が参加罪と言われているものである。
ここでよく見て欲しい!(i)と(ii)は条約を締約する国がどちらを違法化するのか選んで良いのだ!(どちらとも選ぶというのも可能ではあります)
法務省は「参加罪を選択しなかった理由」http://www.moj.go.jp/keiji1/keiji_keiji35-5.html
という文章を公開しているが、どうも共謀罪ありきとしか読めない。
共謀罪を廃案にして参加罪を作る、これが対案だ。
(略)
最後に、三点目といたしまして、小林参考人に伺いたいと思います。
国際組織犯罪防止条約関連で、組織犯罪対策法の共謀罪については私は強く反対をする立場なんでございますが、暴力団対策法の今回の特定抗争指定暴力団などはむしろ参加罪を検討すべきではないかと考えておるんでございますが、先生の御所見を伺いたいと思います。
以上でございます。
(略)
それから、共謀罪につきましては、あれはもうふざけた話で、法学的には、何か酒場のカウンターであいつ気に入らないのでやっちまおうかと言っただけで捕まっちゃうわけでありまして、いや、本当に、冗談みたいな話だけど、本当そういうわけで、やっぱり法学的には共謀罪などというのはあり得ない話で、実際に人間の行動に出たときに打つという意味では、参加罪というお考えは誠にもっともだと思います。
以上です。
○江田(憲)委員 全く間違いですね。これは、犯罪を罰するという罪刑法定主義、厳格にそこは範囲を決める。そういう議論もされているからこういう犯罪も入れていいだろうと、何でそんな拡張的に解釈するんですか。安倍総理ですら、これは本当に必要なのかと御下問があれば、ここのところは、そんな議論があったところで条約履行義務はないんですよ。
そこで、これはよくやる常套手段、テロ等準備罪ですか、テロがメーンじゃない条約なのに、わざわざテロを出せば国民が納得するだろうと。だから、メーンは等なんですよ。ここはまさにテロ以外のところの大宗をつかまえる条約なので等なんだ、等が一番重要なんです。それを等にくくっているという。これは本当に、昨年の集団的自衛権を一部認める法案を平和安全法制と称して突き進んだのと同じ手法ですから、もうこういう国民を欺くやり方はやめましょう。
そこで、私は、条文とか国連が正式に出している文書で論じたい。そんな、いろいろ議論した何だかんだは関係ないですよ、外交の中では。そういう意味で、このパネルの下を見て、これは立法ガイドという国連の、全部でこれだけある、私も読みました、英文を。立法ガイド、ここに驚くべきことが書いてあるんですよ。それを読みますよ。
この条約というのは、共謀罪は合意罪と犯罪集団の参加罪、この二つなんですね、どちらかをやればいいと書いてあるんですよ。御承知のように、合意罪は英米法体系、参加罪は大陸法体系なんですね。ただ、それのいずれにも属さないような国もあるから、こう書いてあるんですよ、どちらの概念も導入することなく、組織的犯罪集団への実効的な措置が、アロー、許容されると書いてあるんですよ。
○小熊委員
そこで、この条約締結の義務は、共謀罪もしくは参加罪のどちらかを処罰すべきというところが規定してあって、あえて共謀罪の方を選択した理由についてお伺いをいたします。
「いなり寿司」とか「巻き寿司」みたいな、一口で食べれて、かつ、どれから食べるか? みたいな選択肢が少ない、
気楽に食べられる食べ物だ。
ちなみに、常にいなり寿司を全部食べてから、巻き寿司を食べている。
これは、仕事で精神がすり減るのに、ご飯を食べることを考えることに脳みそを使いたくないから、こうしている。
僕にとって、朝決まった時間に起きて、スーツを着て、電車に乗って、パソコンの前に座る、という仕事以前の作業でも、ひーこらいう程度には疲れてしまう。
そんなわけで、ただでさえも疲れているのに、ご飯を食べることにエネルギーをあまり使いたくないので、普段はこうしている。
というより、仕事のエンジンをご飯を食べることで落としたくない感じかな。
超面白い本を読んでるときに、ご飯食べるのを忘れてしまう現象を、あえて自分から作り出しつつ、最低限のエネルギーは補充する感じ。
ところが、仕事でミスをして、気分を切り替えたいとき、そういうときはこういう簡単な食べ物はよくないことに気づいた。
仕事モードのままご飯を食べるのは、普段はいいんだけど、一旦昼休みに少しでも自分の中で仕事モードの出来事をリセットしたいときは、こういう食べ物はよくない。
なら何がいいのか?
いろんなお店でいろんな刺身定食があるだろうけど、今僕が通っている職場の近所の居酒屋さんのランチでは、
「ご飯」
「漬物」
「味噌汁(魚のアラが入ってる)」
「刺身7種盛り」
こんな感じのセットなんだけど、これがもう、非常に気持ちをリセットできる。
まず、考えるのがご飯のバランスだ。
最終的には、卵かけご飯でしめたいが、ここはご飯を多めに食べておいて、超濃厚卵かけご飯としたい。
しかし、当然ながらご飯が少なすぎてもよくないので、絶妙のバランスをとらないといけない。
さて、なにから手をつけるべきか。
口を湿らせたいから味噌汁先行というのは常套手段だが、この味噌汁は魚のアラが入っているため、小骨に気をつけないといけない、初手からこの気遣いは億劫だ
なので、口を湿らせる目的はカウンターにおいてあるセルフの温かいお茶ですませよう。
さあ、刺身の7種盛りだ。
今日は、
イカ
カンパチ?
タイ?
それぞれが2切れづつ。
こんな感じだ。
念のため言っておくが、僕は生まれた時から日本で育ってまだ海外に行ったことがない程度には日本人なのにもかかわらず、
タコが野菜でなく魚介類だと知ってまだ数年しか経ってない程度の、食べ物音痴なのでこれらが、本当にタイやマグロかどうなのかはわからないぞ!
この7種の打順……
これは非常に難しいが……
食べる!
このバランス感覚を楽しみたいがために、僕は醤油にとかさないのです。
味がどうのとじゃないんですよ。
でも、ご飯をかっこみたい気持ちにつながるよう、ばくばくと勢い良く。
食べる!
食べる!
食べる!
もうこうなると、僕の気持ちは、刺身を美味しく食べることだけに熱中しています。
いつのまにか、理屈でなく、体が自然と自分の望む量のわさび、自分の望む順番で、
おかずをたいらげていくことができるのです。
刺身が三分一ほど片付いたら、魚のアラが入ったお味噌汁を飲む。
最初は、小骨に気をつけないと。
とか思っていたくせに、今ではそんなこまっしゃくれた理屈はどこへやら、自然とお箸で骨を避けて、身もきちんとほじって食べれているのです。
そして最後に、程よく残したご飯に卵と醤油をかけて、卵かけご飯で締める。
さっきまでの憂鬱なお仕事での失敗した落ち込みはどこへやらなのです!
最近、仕事で失敗すること自体はよくないんだけど、それを引きずったり落ち込んだりするのって意味ないな、と思い始めたんですよね。
それまではPCゲーやらコンシューマメインで、怪盗ロワイヤルだとかデレマスだとかのソシャゲに○万つっこんだとか○十万突っ込んだとかとか聞いてとんでもないキチガイが世間には一杯いるんだなぁと半ば自由に使えるお金の多さに嫉妬し、半ば馬鹿にもしていた。
紆余曲折あってそのソシャゲは引退した。そのソシャゲがきっかけでフォローしたツイッターのフォロワはまだそのソシャゲをやっていたり、他のソシャゲをやってガチャSSをTLに流したりしている。
引退して暫くはそれもウザくは感じなかったのだが、近頃無性にイライラしてソシャゲ以外につながりのない人のフォローを全部解除してしまった。
ジャニーズに興味ないのにジャニーズアイドルについてのツイートばかりされるとウンザリ
サッカーに興味ないのにJリーグのツイートばかりされてもウンザリ
すごく当たり前の事である。
ソシャゲ引退してからもひきずっていた何かを捨てられてものすごくスッキリしたので、健全な生活をおくれそうだ。
以下、ソシャゲをやってた時の心境の変化。
ロンチと同時に始めたソシャゲは若干競争要素はあるものの、まぁ大体はソロでポチポチするゲームで、複垢使ったり時間つぎ込めば無課金でもそれなりについて行けるものだった。昨今のソシャゲの常套手段で、無料石を貯めればたまーにガチャも回せて最高レアのガチャキャラも手に入る。
最初はどうやれば効率よく(ガチャ以外で)強くなれるかもあまり分かっておらず、すぐにスタミナが尽きるので拘束時間もたいした事なかった。イベントのたびにキャラが配布され、少しずつ戦力が整っていくのがたのしかった。ゲーム内で知り合った人たちをTwitterでフォローしまくったりして、ガチャ更新のたびにその人たちが最高レアのSSをあげるのをTLで見て羨ましく思っていた。
最初の1年は本当に楽しかった。絵も音楽も良くて、システムはまぁ不満点だらけだったけども。ガチャ更新のたびに盛り上がるTL、それにおめでとうとか死ね!とかリプ飛ばして。丁度艦これもその時期で、武蔵取るくらいまではプレイして、ソシャゲ・ブラゲもなかなか楽しいなと思うようになった。
だが、アップデートは次第にプレイ回数・時間を要求する方向へ加速度的に突き進み、場合によっては(勿論アイテムが不要ならやらないでいいが)日に数時間以上のプレイを強いられる場面が増えてきた。何をやるにもまず何の危険もないミッションを馬鹿みたいな回数こなさないといけない。
ソシャゲをやってる人なら分かるだろうが、ソシャゲは基本薄いコンテンツを周回させてコンテンツの引き伸ばしを計る。それなりに緊張感のある周回ならまだやっていても面白みがあるのだが、強くなれば強くなるほどただのポチポチ作業になり、面白みも何もなくなっていく。
こういった面白みのない作業でモチベーションをガンガン削られてきたところで、期間限定ガチャにて全てのキャラを過去にする能力を持ったキャラが実装される。デザイナーは「使い方は是非研究してみてください」などとふざけたことを言うのだが研究するも何も使い方は明白で小学生でも3秒で分かる。
勿論そのキャラを活かすにはその他の条件も満たさなければならないのだが、全てのキャラを
過去にするレベルの強さを「研究してください」と出されて、「あぁ、運営って(悪い意味で)馬鹿なんだなぁ」と気づいたところで引退する決心ができた。
気がついたら最初は好きだった絵もありがちなアニメ絵に近くなり、好きだったテイストが薄くなってのっぺりした魅力が感じられないものになっていた。
辞めてから考えると、使いたい一つのアビリティのために期待値数万円のガチャを引かないとやりたい事がやれない金満ゲームだったなぁと今更思うのであった。FF5でたとえれば、「にとうりゅう」と「みだれうち」を覚えるのに合わせて10万円かかりますと言われてるようなものでやっぱりキチガイじみてる。
全てを過去にするキャラの実装前からもう辞めたいと半年以上思っていたが、ズルズルと続けてしまった理由はツイッターなどでの繋がりが理由の9割以上を占める。皆も続けているし、せっかく仲良くなった人との共通点がなくなるのももったいないと感じた。基本ネット越しの付き合いしかない(リアルでソシャゲやってるとか言えない)のにこれだから、小中学生でもやりたくないけどやめられない人はかなり多いのではないかと。