はてなキーワード: まだ子とは
高橋ジョージは叩かれてるのしか見てねえぞ、と言うブコメが多いけど、
普段芸能ニュースに大して興味がない自分でも、最近の高橋ジョージの扱いがそういう方向である事は知ってるよ。
適当にぐぐってもこういうのが出て来る。
http://dailynewsonline.jp/article/1239804/?page=all
http://news.livedoor.com/article/detail/12280330/
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/191976
しかし
付き合っていく中で、過去の交際人数について問いただす三船の質問が日に日にエスカレートしていったようで、当初は「3人?」「30人?」などと三船から聞かれ、気を使って回答しなかった高橋に対して追及は止まらず、最終的には「どうせ1000人くらいと付き合ってたんでしょ?」とまで言われたのだという。
に対して
って、そりゃ16歳で結婚してる訳で、16歳が子供なのは当たり前だろうに。
結婚した女は途端に「成熟した大人であるべき」とされる、ってのもあるよなあ、と思った。
そしたら、税金めっちゃ引かれて、手取りは大したことないんです。
で、よく給与明細見たら、控除、とか書いてあるんです。
もうね・・・
ってどうでもいいけど、この記事見ましたか?釣りもいいところだろ。
いまどき年収1000万円に夢を抱いているアホンダラは極少数だろうが、現実をお知らせしたいね。
一応、俺は、30歳、年収1400万、妻の年収500万位。都内の賃貸暮らし(港区とかじゃないよ。)。
http://news.livedoor.com/article/detail/12609382/
いちお、ポイントは次の2点。
28歳のときに転職して、年俸制で年収1000万になったけど(=ボーナス別)、手取りは50~60万円程度。
しかも調子に乗って車を買ったら、駐車場代月4万プラス諸々で、しんどかった(結局、あまり乗らないし売った。)。
貯金は出来るが、ザブザブ使える金が余る感じではなかったっす。
それは、年収1400になった今も同じ。
フェラーリとかは絶対買えない。ポルシェなら買えることは買える。
ちなみに職場には、年収2000万クラス、3000万クラスも居る。
好きな時にタクシー乗るし、旅行も年に何度も行くのは、3000万クラスのおっちゃん。
高い飯(ランチで2万とか)も御馳走してくれる。
このクラスになると、節税の為に、会社作ったり、不動産投資始めたりする。
で、新卒数年の年収600~700万円の時と変わったか?と聞かれると、あまり変わってないな。
ま、結婚して(まだ子供なし)世帯年収は2000万円に近付いたけれど、貯金もして、自分の将来のための勉強への投資もしていると、豊かです、って感じはしない。
自分が「戦争はいやだなあ……」と漠然と思う気持ちの根底が、この二人の体験を聞いたことによって、
戦争が人の人生を強烈に歪めるということを肌で感じたことによるものっぽいので、ちゃんと覚えているうちに一度書き出しておきたいと思う。
(1)
一人目は離れて暮らす祖母で、確か終戦時10歳かもう少し上か、その辺りだったと思う。
祖母は満州から引き揚げてきたそうだが、祖母の父が警察?か何かの職に就いていたらしく現地で一時投獄されていたそうだ。
警戒されにくい子供の祖母が差し入れとして羊羹を持っていくのだが、その羊羹の中に毎回カミソリの刃を忍ばせていたという。
そのカミソリが何用なのかは教えてもらえなかった。
祖母が住んでいた町は、ある日やってきたロシア兵に制圧されたそうなのだが、
「女だけの家があると知れると、夜になるとロシア人が数人で来て、朝になると帰るのよ」
「お菓子で子供を釣ろうとしていたけれど、近所のお姉ちゃんやおばさんに何をしているか知っていたから、私は一度も受け取らなかったわ」
「日本に帰るために街から逃げる直前に、遂にロシア人が私たちの家にも来たのよ。でも、お母さんは病気だったでしょう?妹はまだ5歳でしょう?」
俺がまだ子供だったからか、それ以上の事は語られなかったが、祖母は今もロシアが大嫌いだ。
しかしそれ以上に天皇を「コイツが余計なことを始めたせいであんな目に」と毛嫌いしているようで、今でも酒が入るとすぐに「天皇家は早く滅びろ!」と喚きたてる。
同時に、幼少時に現地の子たちと一緒に遊んでいた影響らしいが、中国・韓国への親近感が非常に強いようで、
成長後バリバリの左翼になって共産党に入党し、国交が本格的に再開する前から限定的な市民交流として招かれて中国に渡ったりもしていたらしい。
最終的には自分が人生で最も重視するもの=活動のために動きやすくなろうと、子(俺の母ら)を残して祖父と離婚したというから筋金入りだ。
ちなみに、祖母が漬けたキムチはめっっっちゃ美味い、そして市販品がサラダに感じるくらい辛い。ポイントはアミ(エビ)を入れることらしい。
(2)
祖母から話を聞く以前、誰かから初めてきちんと戦争体験を聞いたのは、
ノストラダムスで世間が盛り上がっていた小学生の頃、「戦争体験者を探して話を聞きに行ってインタビュー記事をまとめる」という宿題が出た時だった。
大抵の子が自分の家のばーちゃんあたりから「この学校の校庭で芋作ってた」的な話を聞いてきた中、
先述の祖母が遠方住まいだったので身近に戦争を体験した人がいなかった俺は、近くに住んでいた清さんという90歳越えの元兵士の爺様に話を聞きに行った。
清さんから聞いた話の中で一番印象に残っているのは、
「戦争の時、大陸にも行ったけど、捕まえた女の人の股に一升瓶がどこまで入るかって遊びをやって、途中で女の人が死んでしまっても笑っているような連中をたくさん見た。」
という随分エグい話だ。
まだ女性の体の仕組みもよくわかってなかった時分だけれど、淡々とした話を聞くだけでとにかくゾワゾワと怖くて、その時感じた嫌悪感は今も強烈に覚えている。
「あーいうことをやるのは陸軍ばっかりだ、陸軍はロクでもないのが混じってる。」
その後清さんは、太平洋戦争中に南方(東南アジア?)の島で滑走路の脇にいたところ、
戦闘機に機銃で近くを撃たれたか、すぐ近くに爆弾か砲弾が着弾したかで左手の指を数本持っていかれて、氷川丸という病院船で日本に帰ってきたそうだ。
当時の俺は、一番印象深かった話は少々ショックが強すぎたのか一旦記憶にフタをしていたようで、
清さんが途中途中で妙に楽しそうに話してくれた、上官に木の棒でぶん殴られる話とか、南の島で現地の人と仲良くなって食べ物を分けてもらった話とか、
魚雷を回避するための航法とか、合図のラッパの話とか、氷川丸(生き残って今も展示されているらしい)の話とかを中心に無難にまとめて提出した気がする。
「私は運よく五体満足で帰ってこられた」(指ぐらいは清さん的にはノーカンらしい)「ただ運がよかっただけだ」と繰り返し言っていた清さん。
隣を歩いていた仲間が一瞬後にミンチになって自分は"たまたま"生き残ったり、
手足がもげて臓物をまき散らしながら殺してくれと懇願する仲間を拳銃で介錯したりしながら、
明日は自分もどうなるかわからないという地獄を繰り返し繰り返し味わいながらも、自分たちの行い・戦いが正しいものだと信じてそれを頼りに耐えていたのに、
帰ってきて戦争が終わったら「あれは全部間違いでした」と言われても、頭ではわかっても、
どうしても自分のしてきたことや仲間の死の存在が大きすぎて、90歳を超えてもまだ心で受け入れられない、と仰っていた。
戦争はよくない、あんな思いをこれからの若者たちにさせてはいけない、ということを強い口調で語る一方で、
「天皇陛下万歳」と唱えると、先ほどまでパーキンソン病で若干フルフルしつつ話してくれていた温和そうなおじいちゃんが、別人のように背筋がピンと伸びて腕を振り上げよく通る声を出す様子や、
軍歌やラッパの音の入ったテープを何本も持っていて、今でも毎日聞いてしまうのだと言っていた清さんの様子を今になって思い返すと、
会った瞬間から大はしゃぎ。
「魔材JDンゴ!?!?!?」って感じで絡みまくった。
JDはJDで、「広いおうちですね~。どんなセレブ住んでるんだろーって思ってたんですがあ」
俺の家はマンションの1室なので、別に大したことは無いが、JDがビビる。
「いちおーそうですねー」
「可愛いんゴ!!!絶対同級生に居たら話かけられないんご!!!!」
「え~?話かければよかったのにねー」
一緒に筋トレとかしてたアメフトとかラグビーの人たちは悪羅悪羅系でモテてたんだけどね……」
「私はエグザイルとか苦手かなあ」
「ジャニーズやろ?」
「ンゴ……」
どうやらノーチャンスみたいだ。綾野剛ってイケメン枠じゃなかったんだね。
おふとぅ~んに入る。JDさんの骨盤が浮いている。痩せすぎやんな。
「そうだよ」
「触り方がそれっぽい~。お医者さんってもっと高級風俗とか行くと思ってた」
「んゴ……」
「ンゴォ~ンゴォ~」と喘ぐしかできないアラサーおじさんの僕。
JDさんが、僕の息子さんを握る。(^ω^)ペロペロお~!!(^ω^)ペロペロお~!
「イケメンがキスする時しか許されない美人JDさんの唇がキモブサチビのチンチンにキスしてるんゴ!!!とんでもないんゴ!!!!」
「そんなことないよー」(^ω^)ペロペロJDがのたまう。
JDさんの手を取る。
「ユーハブアペーンゴ」と言って、僕の息子を握らせる
「何?玉がいいの?」
「そうンゴ!」
「玉咥えてほしいんご!」玉をくわえるJDさん
「念じてほしいんゴ!『お姉ちゃんが妊娠してあげるからね~、ちゃんと可愛く産んであげるからね~、ママのおなかの中においで~』って念じて欲しいんゴ!!!」
JDは含み笑いしながらも、目を閉じて念を送っているのか、(´~`)モグモグとくわえる。
「逆の玉もお願いんご!じゃないとかわいそうんゴ!『お姉ちゃんバッカリずるい!』って言ってるんご」
(´~`)モグモグと逆の玉も咥えるJDさん。
チューチューとマンマンを舐めながら、じーっとJDさんの顔を見る。
「なんだか、赤ちゃんみたい~」
「頭なでなでしてほしいナリ」
よしよしヾ(・ω・`)と頭をなでてくれるJDさん。
俺はバブミを感じる。
「それじゃあ近親相姦じゃん?w」
「え~wこの格好で~wいいけどさーw」
「ずっと好きだったんゴ!付き合ってほしいんゴ!デートとかしたいんゴ!!!!」
「え~じゃあ~私もずっと好きだった~。あwだったとかいっちゃった」
「嬉しいんごー」
「え~この後デートの話とかするんじゃないのー?w」
「原宿とか行きたいんゴ!!!んあ~こんなカワイイ娘、同級生絶対手が出なかったんゴ~青春取り戻してるんゴ~」
「手だせばできたのにね」
「絶対無理ンゴ~……君に似てるかわいい女の子と話できたの、大学卒業旅行で初めてだったんゴ」
「え~なんて話したの?」
「『増田君は普段何してるの?』に対して、『囲碁センターとか行くンゴ、まだ子供で将来有望そうな子に勝って、その子がプロになった時に他人に自慢するために、子供狩りしてるんゴ00』とか言ってたくらい……」
「なんか渋いwwwwwwwww」
「ンゴ……69したいンゴ」
69したときに、指を入れようとすると。
「ダメだよ、(-。-;)濡れてないと入らないの」
「ンゴ……じゃあもういいんゴ……」
「お前、しゃぶれよマジで」
「なんか、口調変わって怖い……」
「濡れないって言われて傷ついたンゴ!!!!」
「そ、そうじゃなくて、ナカナカ濡れないの私……」
いきなり不機嫌になり、オラつきだす僕。
「てか、交渉しないの?15でいいよ?」
「てか、1でもいいよ」
「いらないんゴ。お口で妊娠させるンゴ。僕の子供妊娠してもらうんゴ!!!!」
「決断早いなあwwwwwww」
腰がビクビクとなる。
「ンゴ~!!!!!ンゴンゴ!!!!ン~ンゴ!!!!ン~ンゴ!!!!!ンゴ!!!!」
どぴゅどぴゅと出ている。
「モットもっとしゃぶるんご!!!まだまだ出るんゴ!!!出るんゴ!!!」
と思ったら、JDさんが口をはずす。
「もう出たよ」
「分かんないなぁ」
「そりゃそうでしょw」
「どうする、シャワー」
「浴びるんゴ……」
サイトに載ってない。
「あ~私顔写真載せてないんだよね」
「次に指名できないんゴ?もう会えないんゴ?僕は君のこと好きンゴ!!!!」
「ちゃんと、前当たった子なんだけどーで会えるよ」
絶対嘘だ。
後味悪い感じで終わった。
先日、50歳独身男性の紹介話があった。
信頼する方の紹介で、有能で稼ぎもよく優しい方だと言う。お酒は少し過ぎるがいい奴だから誰か紹介してあげて欲しいそうだ。
考えた結果、年齢的にも釣り合いの良さそうな知り合いの女性へ紹介することにした。
見た目は地味なものの(無頓着というか)とてもよい方で、いつもお世話になっているので彼女には幸せになって欲しいと願っている。
5年程前に知り合って以降、彼氏はいないものの結婚願望はあるようでいい人がいたら紹介してね、と言われている。
以前、孤独に迎えるかもしれない老後について経済的なことも含めて不安をこぼしていたこともあり、よい話なのではと思った。
しかし、結果は会う前にNO。
と言われてはっとした。
2人の年齢から考えると10歳の年齢差はちょっと離れてるかな、くらいで世間ではそうおかしくないとは思う。
でも…そうだよなぁ、と思った。
20代の私が今、10歳上の男性を紹介されたら、やはり年上すぎると感じてしまうと思う。歳を重ねたからと言って皆がそこを変えられるわけではない。
とはいえ、男性が年齢が上がるほどに年下の女性を希望する傾向があるのは事実だし、40歳前後の男性なら希望すればまだまだ子供も望めるだろう。
こうやってミスマッチは広がっていくのだなぁ、と考え込んでしまった。
最後に、私の中に「この年齢ならこれくらいの条件でいい感じだよね!」みたいな思い込みがあったことに気付いて反省した。
ごめんなさい。
おわり。
http://anond.hatelabo.jp/20161222124531
35歳・子無し既婚
ここ最近の円安のせいで額面が大きくなって自分の実感とのギャップが多少アリ。
月収 75万円
国民年金 -3.2万円(2人分)
光熱費 -1万円
食費 -10万円
遊興費 -3万
残り 18.5万
香港の所得税は年収にたいして200万分程度の控除と累進課税によって年収300~400くらいまではタダみたいな額(月1万とか)になる。上限が15%なので高給取りほど得なのだが、自分の年収だと上限の少し手前くらいの税率になるので一番コスパの悪い部類に入る。
香港にも年金があり、自分が納めた額と同じ額を会社からも積立てくれるのだが、2.3万程度が上限で日本ほどの手厚さはないので、帰国時のことも考えて日本の国民年金に任意加入。海外にいる間は厚生年金には入れないのでなにか資産運用を考え中。
健康保険は正社員であれば会社が負担するのが普通のようだが、公立の病院であれば1回1000円程度で診察からちょっとした手術まで可能(ただし待たされる)
家賃は狭めの1LDK(10畳+5畳+キッチン+バス・トイレ)で24万。
子供ができたら2LDKに移る必要があるが、そうなると家賃30万オーバーは必至。
香港は狭いので郊外は安くなるというのがそんなにないのが辛い。
ローカル食堂なら1食600円~1000円、和食や洋食の大衆店なら1食1200円~2500円くらい。ただしこのランクの店は味が微妙でコスパ悪いので普段は自炊かローカル食堂にして、記念日などに臨時別予算で2人で15000~20000円くらいかけて本物の寿司などを食べるようにしている。
Tシャツ・ポロシャツ・デニム・チノパン・ジャケットが各数着あれば1年過ごせる。無印最高。
「まとめ」
子供の学費などは詳しくないが節約するなどすれば今の収入でも1人は育てられるかなと思っている。
海外にいて思うのはやはり日本は健康保険と失業保険の制度はいいなぁと。
規約など一通り読みましたが、暗黙のルール等に違反していたらごめんなさい。
手足の打撲で済んだのは運が良かったのか悪かったのか。
陰口や無視は日常茶飯事だったが、いじめがあったわけではない。
ただ息苦しかった。世知辛かった。
理由があったわけでもない。
同じ服を着た知らない人がたくさんいる。それが何故か怖いと思った。
意見が合わないと白い目で見られ、無理に合わせても白い目で見られる。
息苦しかった。
もちろん友達はいたが、ごく少数で、その友達とも次第に話さなくなっていった。
「あなたが生きていることが恥ずかしい」
「私を馬鹿にしている」
それじゃあ制服を着るだけなら、と思って着てみた。
手足が震えた。震えているせいでうまくホックがとめられない。
無理にホックを留めたがすぐに頭が痛くなり、過呼吸を起こした。
対処法は知っていたので、咄嗟にキッチンまで這って行き、ビニール袋でなんとか息をした。
ああ、私は病気だと思われていたのかと、その時初めて知った。
もう少しカウンセリングに近いものを想像していたが、実際はいくつか問診を受け、シートを記入しただけだった。
その時医師に言われた。
今でも忘れない。
一度たりとも学校を面倒に思ったことはなかった。
毎日きちんと行けたらこんなところに連れていかれるはずがない。
知っているような口を聞かないでくれと思った。
二度と心療内科には行かなくなり、学校も夕方にたまに行くだけになった。
そのうち2年になった。成績は死んでいた。
3年になった。気づけば受験生だった。
成績も出席日数も明らかに足りない。
この時期は受験生みんなが慌てるが、私は何もしなかった。
1年の教科書の問題を解いてみたりしたが、まったくわからなかった。
学校に行かなかったことは後悔していないけれど、提出物とテストを受けなかったのは後悔した。
結局定時制に行くことにした。夜間ならなんとかなるかもしれないと思った。
受験寸前になって必死に勉強し、問題集もだいたい解けるようになった。
「私は子供の気持ちを理解しているけれど、子供は私の気持ちを分かってくれないんです」
あまり覚えていないが、そんなようなことが書いてあった。
自分のことで精一杯だから不登校になるのに、親の気持ちなんて分かるわけない。
けれど子供ながらに悩んで、考えて、出した答えが登校拒否だったら?
親が無理に行かせる理由がどこにあるのか。
無理に学校に通わせられ、疲れ果てて卒業式直後に自殺した先輩を知っている。
死に対する恐怖に、心の疲労が勝ってしまった結果だと、私は思う。
誤魔化すことはできても、消費はなかなかできない。
スタンプカードがいっぱいになったら私もきっと自殺していただろう。
遺書は公開されなかったが、同じ境遇でなくてもとても苦しんでいたのは想像できる。
まとまらなくてごめんなさい。
不登校や登校拒否をするみんなが生きやすい世界になりますように。
追記 12/1
たくさんの反応ありがとうございます。
誰かに聞いてもらいたくて書いたのですが、こんなにたくさんの意見を頂けるとは思いませんでした。
ひとつひとつの言葉が暖かくて、読んでる最中涙が止まりませんでした。
私の周囲に不登校を受け入れ、理解してくれる方が少なかったので、こんなにも受け入れてくれる方がいたんだと感動しました。
定時制に向けて受験勉強していますが、通信制高校に勧めてくれる意見が多々あり、少し考えてみようと思います。
それだけでなく大学に行ったほうがいいとのコメントも頂き、真剣に考えるきっかけになりました。
この文章を読んでくれた方の中にも、同じ年代の方がいるのではないかと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20161118112714 をよんで
「いつになったら女性は家から解放されるんだ」というタイトルからして煽ってるようにしかみえない
「男性も家のことをやる時代にしよう」というたいとるにしてはどうだろうか?
本文中も「は?」などと人を小馬鹿にしたような書き方しかできないのだろう
本気で持論を展開するならば論理的に書くべきだろう
この世界の片隅に を見てしまった今、シンゴジラや君の名は。ではしゃいでいた自分に戻れる気はしない。
何なんだろうな…この映画…。
あれよりよかったというか、あれもよかったんだよ?でも同じくらい良いとは言えない…。言えないんだ。
何故比べるかと言うと、シンゴジラや君の名は。は「フィクションの災害」を打ち出しているのに対し、この映画は「現実の被害」を打ち出してきたからなんじゃないか?と思う。
この世界の片隅に っていう映画は、自分の中にあったなにかの価値観を確実に崩したし…多分この映画は今だけじゃなくて10年後も年に1回くらいは見られてる映画になったんじゃないかなって。
多分この映画は火垂るの墓と打って変るだろうし、今後の日本の戦争史に対する向き合い方も変えてくる。
戦後71年、たくさんの人が死んで、そして生きてきたから自分たちが居る。
この映画にはその重みが詰まってるような気がして、数日前に観たのに上手く感想に出来なかった。
一度だけ戦争について話してくれたことがある。でも、もっといろんな話を聞きたかった。聞けばよかった。
やっと、教えてもらえた気がした。
比べて一方をコケ落とすような大人気ない幼稚な馬鹿のせいで、容易に比較することができなくなってしまった。(大体、シンゴジラファンと君の名は。ファンの抗争に巻き込まれているだけであるが)
ただもしかしたら「この世界の片隅に」と最初に比べるべきは「火垂るの墓」なのかもしれない。
表裏一体とも言えるこの二つの作品が、描きたかったこと、込めた思いの違い、そんなことを劇場の片隅で鑑賞した後ずっと考えている。
ギザギザが私の家にやってきて3ヶ月になる。
初めのうちは、私もギザギザも互いに警戒してろくに近づきもしなかったが、慣れると早いものだ。
最近は、私が仕事から帰ってくると玄関へ出てきて尻尾を振ってくれるようになった。
私も出迎えてくれるのが嬉しいので、思いっきり抱きしめることにしている。
ギザギザの尻尾は文字通りギザギザしているので、抱きしめると少し痛いのが玉に瑕であるが。
私が帰宅してから最初にやることは、ギザギザにご飯を食べさせることだ。
ギザギザは何でも食べる。人間が食べるものはもちろんのこと、ビニール袋やチラシやダンボールでも食べてしまう。
皿を落として割った時に、破片をペロリと平らげてしまったのには驚いたが、それでも平気な顔で「もっとちょうだい」とねだってきたこともあった。
今日のご飯は、会社から持ち帰ってきた、シュレッダーにかけられた紙の束と、スーパーで買ってきた猫の缶詰だ。もちろん缶詰本体も大好物である。
ギザギザが、そのギザギザした大きな口を広げてご飯を食べる姿は見ていて気持ちがいい。
ギザギザはまだ子供らしく、どんどん成長している。家に来た時はチワワくらいの大きさだったが、今は柴犬くらいはあるかもしれない。
どこまで大きくなるのかはわからないが、あの食べっぷりを見るに、まだまだ成長するに違いない。
最近、寒くなってきたので、ギザギザと一緒に寝るようになった。
ギザギザの毛は少しチクチクするが、一緒に寝るととても暖かい。
そして、朝はギザギザが起こしてくれる。といってもご飯が欲しいから私を起こすだけなのだが。
出勤時には玄関まで来て、少し寂しそうに私を見送ってくれる。そして私は、今日はどんなギザギザした食べ物でギザギザを喜ばせようかと考える。
ギザギザが家に来てから、毎日が楽しくて充実していると感じている。
不登校とか、登校拒否というと、「学校がいやなんだな」「いじめとかがあるんだろう」と思われるかもしれないが、わたしの場合はそんなことはなかった。記憶にあるかぎりいじめられた経験はなく、仲のいい友達もいて、勉強も好きだったし、先生は完ぺきではなかったけれどやさしかった。
当時わたしの家では、父母が険悪で、まだ子どもだったわたしもふたりのあいだのことにかなり気をもんでいた。
学校から家に帰る途中、「家でお母さんが泣いてないかな」「落ち込んで死にたいって言ったらどうしよう」「また変な宗教みたいなのにお金をつかうのかなあ」と考えていた。
家に帰ってからは、「お父さんは今日、機嫌よく帰ってきてくれるかなあ」「またけんかになったらどうしよう」「怒ってたらどうしよう」と考えていた。
まわりの友達に、そんなことを悩んでいるような子はいなかった。いたとしてもわたしのように隠していたからわからなかった。毎日毎日、「帰ったらお母さんが自殺していたらどうしよう」、「帰って来たお父さんに殴られるかもしれない」と悩んでいることなんてだれにどういえばいいのかわからなかった。というか、家のなかのことを、だれかに相談するという発想じたいがなかったかもしれない。
だから、そんな悩みを抱えてないふつうの子たちに混ざって、ふつうの子のふりをして、なんの心配ごともありませんよ、という顔で、楽しく小学生、中学生をやろうとしていた。楽しいこともたくさんあった。学校でも、家でも。
ふつうの子ですよ、なんの心配ごともないですよ、なんて嘘だったからだ。友達も先生もやさしい。でもわたしは嘘をついていて、嘘を演じることにも、嘘をついていることじたいにも苦しさを感じるようになっていった。
学校は楽しい。でも苦しい。学校に行ったところで、どうせ家に帰ってこなきゃいけなくなる。だったら家にずっといたほうがまし。
そういう感じの思考回路だった…と思う。たぶん。
両親はわたしがどうして学校に行きたがらなくなったのか理解できなかったと思う。もしかしたらしようとしなかったのかも。ふたりにとっては学校に行くことは当然すべき義務であって、なぜとかどうしてとか考えるところではなかったのかもしれない。
とにかく、両親は、わたしをどうにか学校へ行かせようとした。父親はかなり強硬。母親は表面上わたしを理解しているような、気遣っているようなことを言うけど、正直者だからわたしほど嘘がうまくなくて、わたしを、というかわたしの状態をだいぶ鬱陶しく思っていることがビンビンに伝わってきた。というか、わたしが不登校であるということに母親が追い詰められている感があった。
で、どうにかこうにか、中一? 中二? くらいまでは行ったり行かなかったりをくりかえしていたけれども、ある朝、制服に着替えて、それでも気分が悪いとか学校に行きたくないとかごねているわたしを、父親が殴った。
わたしが逃げると、追いかけてきて、もう一発殴り、「殴らなきゃわからないやつだ」「絶対に学校に行け」と言って出勤していった。
そしてその日だか、そのつぎの日だかに、顔の腫れがひかないまま、みんな見て見ぬふりをしてくれないかな~などと願いつつ、教室に入った。
みんなやさしかったので、見て見ぬふりなどせず、女子も男子も関係なく、わたしのところへ来てくれて、「大丈夫!?」「どうしたの?」「保健室に行ったほうがいいんじゃない?」と口々に気づかってくれた。その友達に対し、「大丈夫だよ」「転んだ」「消毒はしてある」と返事している途中でどうしてもこらえられずに泣き出してしまって、そのあとをどうやり過ごしたのかさっぱり記憶にない。
いまだに唇にはそのときの傷が残っている。見た目にはわからないのだけど、さわると傷口の痕跡がわかるような感じで、ときどき、否応なく当時のことを思いださせてくれる。
わたしは勉強が好きで、けっこう成績もよかったので、もし不登校になることなくふつうに進級し、ふつうに進学していたら、けっこうまともな人生を歩めたのじゃないかな、とたまに思うことがある。
あのときがんばっていれば、いい高校に入り、いい大学に行って、みたいなことを思うこともある。小学生のころからやりなおしたいとか。
ただ、そう思うのは漠然と昔を思い出しているときだけで、当時のことを詳細に思いだすと、そんなのは無理だと理解する。
精いっぱいやったわけでもなかったし、最善を尽くしたわけでもないし、もっとできることが、もっといい方法があったかもしれない。
でも、もういちど繰り返したいと思えない日々をちゃんと生き抜いたんだからいいじゃないか、と考えて、いまを生きようと思っている、という、覚え書き。
1999 年っていうのは、ぼくの興味はロックからテクノに移っていた頃。J-POP なんてのにはまったく興味持てなかったけど、居間でミュージックステーション映ってて、「うっさいなー」とか思いながらごはん食べてた。
次の出番は、宇多田ヒカルっていう子。あー、"Automatic" の子ね。タモさんとのトークもそこそこにステージへ。曲名は "First Love" 作詞作曲:ともに宇多田ヒカル、だって。ふーん、初恋の歌ね。まあ、十代の子が書くポエムにありがちwでもよく言えばピュアな題材だねww
ふむ、バラード。
ハッ…!なんだこの歌い出しは…っ?! いきなりキス描写!つーか、なんだその妙に大人びた味表現!!演歌か?!?! R&B 風情がやりたかったんじゃないのか。ビックリした!
あしたの今頃には あなたはどこにいるんだろう
わわっ。突然、あしたの話になった。そして「どこかわからない」とこの歌世界の空間も一気に広げてきた。かつ、どこか「わからない」喪失状態…ッ!この宙吊り感は、あれだ…恋だ。恋の歌だわこれ。この不安とワクワク感。恋だ。
だれを思っているんだ
えっ…?!まさか、失恋?! 早い!展開早い!でもしかたない!それが first love の宿命だからッ…!ていうかなんだこの小娘、まだ子供のはずじゃ?!?!失恋のことを完全に表現している。
ダハー
やべー!!!!ここでサビかっ!すごい…なんだこれは。おれもうこの子から1秒たりとも外すことができなくなってる。
明らかにこの歌のサビだ。だけどこれ、歌謡曲のサビじゃねえ。この一段まったりとしたというかハズした感じ… R&B 的と言ってよいかわからないが、このテンポとリズムと…歌唱力。そしてこの子の落ち着きはなんなんだ。そんなことよりも、メチャクチャ綺麗なメロディーだ。わわ、だめだもうこの子に夢中だ。なんだこの才能は。歌詞とかもはや、よくわからなくなってきた。
いまはまだ悲しいラブソング/あたらしい歌、歌えるまで
ああ…おれはずっと、この子があしたを不安にしていることについてばかり考えていた。ところがだ。この子は自分で気持ちを改めて未来のことを語り出した。なんて強いのだ。そして正しい。悲しさに溺れていてはいけないんだ。宙吊りにされてまさかその直後で学ばせられるとは。許してくれ、この子この子いって申し訳なかった。
…そしてこのあと2番がつづき、コーラス(サビ)のリフレインという構成である。いまさらながらリフレインの素晴らしさを改めて感じ取った。感動である。そして、うしろからすすり泣く声が聞こえたから見てみると、いま俺が目撃した凄まじい音楽を同じように聞いていた母親が箸を置き、もう目を真っ赤にして泣き崩れていた。このとき、母親もかつては少女だったのかもしれないと初めて思った。
サザンオールスターズがデビューした年にはまだ生まれてないから知らないけど、ベストテンで初めて「いとしのエリー」流れたときもこんな感動だったのかな?なんて想像をする。そしてこの感動からかれこれ 17 年経って世の中も変わったけど、さすがにこんな「衝撃」と呼んでしかるべき才能にはなかなかお目にかかれないよなって思ったのは Keep Tryin' のビデオ見てたら町あかりを思い出したからで、才能の種類としてもたぶん同類なのに町あかりは「衝撃」とは表現できない。
http://anond.hatelabo.jp/20161003174722
>病院側からADHDかも?言ってくれなかったの?的なコメントへの返信
心療内科にはいろんな人が来る。「もしかしてこの病気じゃないですか?」って聞いて怒る人とかいるらしい。
逆に「あなたは病気じゃないです。ただ落ち込んでるだけです」とか言うと怒る人もいるらしい。
だからADHD以外の薬を処方してもらってる時はどんな病名で薬が出てたのか知らない。教えてくれなかった。
病名を教えたり提案したりはかなり慎重にやらないといけないみたい。
私は主に「ヒステリー」で相談してたからすぐにADHDに結びつかなかったんだろうなって思う。ヒステリーの原因って色々あるし。
「鬱っぽくて家事ができていません」とは伝えていたけど「小さい頃から片付けられないんです」とか言ってなかったし。
「鬱っぽくて家事ができていませんけどヒスはマシになりました」って伝えてたから改善に向かってると思われてたんだろうな。
前のデパス飲んでる夫の増田にも「女性ホルモンが原因」的なトラバがあったしそう思われてたのかな。とか、
ADHDって診断するためにはちょっとお値段高めな検査やきつめの薬も必要になるし安易に薦められないのかな?とか思ったり。
心や脳の病気って目に見えないから慎重になっちゃうんだと思う。患者と医者と2人で可能性について話し合って手段を探っていく的な。
例えばPTSDとかだったら怖い事件にあったって事実を患者が話してなかったらPTSDですねって言えないと思うんだ。
だから私の申告不足だった、ていう私の落ち度が大きいと思う。
洗いざらい話すって結構難しい。どこからが病気でどこまでが性格で片付けていいものなのかわからない。
だからパンフレット見た時に「そうかーこれ病気かー」って思った。
最初っから旦那とか親とか一緒に生活してる人連れてった方がいいのかもね。
別の病院に通ってた時「あなたは統合失調症かも」って言われてすごいショック受けたこともあるから、「予想外な病名言われてショック」な気持ちもわからんではない。
疑われたのは「夜中にカラオケの音が聞こえてきて眠れない。けど旦那はうるさくても眠れる人だから眠れてます」って言ったのがきっかけだった。
家1、2個分ぐらい離れたラウンジ?スナック?が防音設備ないくせにカラオケ始めてすごかったの。ハウリングの音が聞こえてきたぐらい。
でも医者からしたら旦那は寝れてるし他の住人は何も言ってないみたいだし「そのカラオケの音と言うのはあなたの妄想ではないでしょうか」的なね。
それ言われた時わんわん泣いたよ。私の言ってること信じてくれない!って。
その時も旦那を連れてって「統合失調症じゃない裏付け」を取ってもらった。
「カラオケの音は確かに聞こえてますよ。オレはうるさくても明るくても寝れますんで気にしてませんが妻が気になるっていうのは理解できます」って。
医者から謝罪されたよ。やっと信じてもらえて嬉しくてわんわん泣いた。先生も大変なんだなって思った。
で、その時は本当にカラオケの音がヤバかったから診断書出してもらって警察に行って「カラオケの音で健康被害が出てます、何とかして」ってお願いした。
その時は警察も動いてくれて、店に注意してくれたり、周りの違法駐車取り締まってくれたりして治安良くなって嬉しかった。
ADHDの症状チェックしたら「音に過敏」てのもあったからそれもADHDの兆候だったんだろうなーって今となっては思う。
その後はその医者が慎重になりすぎちゃって薬の処方箋出すぐらいしかしてくれなくなったから病院変えた。
家事ゼロ鬱生活時代にずっとベッドの中でスマホとタブレットいじって病気については色々調べたけど、ネットの情報って雑だよね。何もわからなかった。
確信してからすぐに検査予約して1ヶ月待ち、検査してから結果出るまで半月待ち、検査結果出た翌日に旦那を病院に連れてって診断確定だった。
ミスが多いとか、優先順位決められないとか、何しか生活に困っているけど何したらいいのかわからないって人も試しに心療内科の近くにある処方箋薬局に行ってみるといいよ。
「すみません、病気のパンフレット見せてください」って言って入ってったら見せてくれると思うよ。
今日も朝からコンサータ飲んでスッキリ目覚めて、旦那がほってった朝ごはん食べた後の片付けから始まり植木の世話とか洗濯とか色々やって今に至る。
私の体調と旦那の残業具合によっては旦那帰宅時に薬がほぼ切れてることがたまにあるんだけど、それでもヒスったりはしなくなった。
「ごめん、薬切れてる上に昼間動き過ぎてもう動けない」って伝えるとそういう時は旦那がご飯作ってくれる。
薬の副作用で日中食欲が激下がりであんまり食べられてない私の分も作ってくれる。
夜中に食べるとデブるって言うけど「デブってもいいから元気になれ」ってたくさん作ってくれる。
そりゃああの鬱時代の女の捨てっぷりを見てたら今さらデブになるぐらいなんだ?って思うよね。
小さい頃すごいデブな時期があってその時いじめられてて、コンサータ飲む前は食事することすら怖かった。
デブになる上に食べた分のお金がなくなるんだ、って思うときちんと食事をするのが怖くって、カップめんとかばっかり食べてた。
お金が少ししか減らない分、マシ。ってね。で、海外製の危なそうなダイエット薬とか飲んでた。だから個人輸入のことちょっと知ってた。
ダイエット薬でお金かけてる分まともな食事しようよって今となったら思うけど、本当に優先順位がわかってなかったんだ。
旦那疲れてるのに作ってくれてありがたいな(何かしてもらって申し訳ないって思わなくなった)って思って「いただきます」って言って食べる。
前はいただきますもおかえりも言えなかったからそれが言えることだけでも本当に嬉しいんだ。旦那も嬉しそう。
それでもまだ旦那と一緒には起きれない。旦那はそれでいいよって言ってくれてるけど、朝起きて一緒に私が作ったご飯食べて慌てて準備する旦那を見送って、ってやりたいなぁ。
だから次の目標がそれ。一気にやって破綻したら旦那に申し訳ないし私も辛いから少しずつ頑張っていこうと思ってる。
まだ子供いないんだけど、ちゃんと生活できるようになったら子ども欲しいなーと思う反面、遺伝しちゃったらどうしようとか考える。
そもそも薬飲みながら子作りってできるのかなーとか。
兄妹がいるんだけどそいつが無自覚のサイコパス(寄生型)っぽいし、何かうちの一族の血ってやばい遺伝あるんじゃないかなって思うと産むの怖い。
結婚して2年。
私が早く結婚したいと伝えても、もう少し待って、と言われ続けた。
私は早く欲しいけど、夫はまだ自信がないと言って、ほぼセックスレスの状態。
すこし前に都内の狭いアパートから郊外のいくらか広いマンションへ引っ越してきた。
私は自分たちの家を建てたかったけど、夫がまだ早いよ、と言うので、とりあえずの間の住まい。
夫は服とか靴とかが好きで、そこまで高くはないけど、2万円のスニーカーとか3万円のパンツとかを毎月のように買う。
私も服とか靴とかが好きでよく夫と一緒に買い物に行くけど、最近は自分のものはユニクロで済ませている。
結婚してから働きやすい会社に転職して自分のお給料が減ったし、部屋が広くなったのでダイニングテーブルも欲しいから。
昨日、いつかは欲しいと思っているブランドの珍しい色のビンテージのダイニングテーブルがお店に入荷していた。
ちょっと高いかな、でもこれを逃したら同じものは見つからないかもしれないし、と不安なような興奮するような気持ちで、夫に買ってもいいか聞いてみた。
それは高すぎるよ、この間これにしようかって言ってた6万円のやつじゃだめなの?、と言われた。
私が他の自分のものを節約して、2人の生活のために17万円のテーブルを買うのは、なぜだめなんだろう。
もしかしたら、もっと強く欲しいと伝えれば、買っていいって言ってくれるかもしれない。
5年経ったらちゃんとプロポーズしてくれたように、そのうち子供作ろうって言ってくれるだろうし、たぶんいつかは家も建ててくれると思う。
夫は真面目で働き者で、
(セックスレスでも)私のことをちゃんと好きでいてくれるのが分かるし
私は夫が大好きで、結婚してこれからもずっと一緒にいられることが本当に嬉しいし
夫との生活のためなら、残業して帰宅してから夕飯を作るのも、朝少し早く起きてお弁当を作るのも、自分の好きなものを少しずつ我慢して貯金に回すのも、頑張れる。
無事に保育園落ちた。
育休延長させてもらいます。
これでまだ子どもとべったり一緒にいられる!
働かなくてもお金がもらえる!
育休手当万歳!
ひと昔前だったら、産後まもなく仕事復帰しないといけなかったけど、
育休手当がもらえるおかげで働かずして貯蓄ができて、とても助かっています。
児童手当だって、今の制度のままいけば中学卒業までに約200万円もらえる。
子育て中の女性がみんな、働きたいから保育園増やせ!日本死ね!と思っていると思ったら大間違い。
ただそれだけ。
って声を大にして訴えているのは、一部のキャリア女性だけであって、
育休延長期間が終わっても保育園に入れなかったら、今の会社は辞めざるを得ないけど仕方ない。
もしそうなったら辞めて夫や親に子どもを預けられる日だけパートでもしようと思う。
夫が激務だったり育児に協力的じゃなかったり、預かってくれる親がいなかったり、今の会社を辞めたくなかったり辞められなかったり、人それぞれ事情はあるだろうけど、
働きたいのも働きたくないのも働けるのも働けないのも預かってくれる家族がいるのもいないのも今の会社を辞められないのもぜんぶ自分の都合。
児童手当も上げなくて良いよ。
保育園なんか減らしたって良いよ。
一つだけ言わせてもらうと、
男が稼げる世の中にしてください。
金があれば子供産むって人がたくさんいるんだから取り敢えず男の給料上げてください。
女性が活躍できる社会を…って言うけど、男性の育児参加を…って言うけど、
そんなに女を扱き使わないでください。
男性の育休なんてとんでもない。
男は働いてお金を稼いできてください。
誰も養っていない人はお金なんて要らないでしょう。
そのぶん扶養控除額を増やすとか、結婚して家庭を持つと収入が増えるように、家庭を持つ男への支援制度をもっともっと作ってください。
働く女性応援!とかそんなの要らないから、女性が働かなくても良いように働く男性を応援してやってください。
保育園受かったら、我が子を他人に預けて毎日長時間働かなければならない、それがあと何年続くんだろう。
幼い我が子を他人に預けてひたすら働いて、落ち着いた頃には、我が子は何歳になっているだろう?
子どもと過ごせる限られた時間を奪われてまで自分のキャリアを守ることが幸せだとは思えない。
豊かな社会なんじゃないだろうか?
まだ子供居ないけど必死で子作りの方向に向かっている。そのために就活も望む形で終わらせた。暫定的な相手もいる。
子供が居ないと人生に目的が見いだせない僕は、子供至上主義だ、悪しき風習だと増田は言う。
しかし逆に子供至上主義じゃなかった時代って、有史以来あったのか?と疑問。
子供を持たないで死んだ人というのは歴史上でも珍しい方なわけで、
それが早死するわけでもなく生き続け、過半数を超えるなんていうのは
これまでの歴史にあり得なかった完全にイレギュラーな状況で、どうなるのか全くリファレンスがない。
子供が居ないまま人生を進んでいく人ってかなり最先端な時代のパイオニアなんだけど、度胸有るな、と思う。
リファレンスがないからこそ、そのほうが社会は良くなるかもしれない、とも言えるんだけど
金曜日に、ホッテントリに↓の記事が上がってて、読んだ人は多いと思う。
4ヶ月で大学を中退し起業します。レールに沿ったつまらない人生はもう嫌だ。
http://www.ishidanohanashi.com/entry/2016/09/15/193000
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.ishidanohanashi.com/entry/2016/09/15/193000
40年前ならヒッピー、30年前なら新興宗教、20年前ならマルチ商法、10年前ならバックパッカーやってたような層が2016年にやるのがブログで起業なんだろな
「おかしなセミナーにハマった息子が起業するとか言って大学を辞めてしまいました」 そろそろ被害者の会が結成されそうな予感(ワクワク)
おいおい。楽な方に楽な方に流されてるだけじゃん。挑戦でも何でもない。ただの逃避だ。あと書いてる事が全てポエムでしかない事に気付いてるんだろうか。
煽りブロガーにいいように洗脳されてるように見えて、個人的にはモヤモヤするなあ。皆似たようなこと言って同じようなことやってるから区別がつかない。
意識高い高いし過ぎて、胡散臭い人脈にハマってしまったようだな。なぜ起業と中退がワンセットなのか、学生のまま起業すれば良いじゃ無いか・・・
まあ俺も、この人が成功しそうには思えないし、痛々しいなぁって思うよ。
レールに乗りたくないっていうけど、名前もきいたことない大学に入ってる時点でこいつはまずレールに乗れてないからな。
それに、「挫折」体験とかいうのが高校の部活の話で萎えた。しかも何が挫折なのかよくわからんし。企業の就職面接における自己PRで「サークル」の話をしても、じつは採用担当には全くウケないわけだけど(とはいえサークルとバイトぐらいしかネタがない学生が大半なんだけど)、多くの大学生は世間を知らなくて、その話題が社会人にとっていかにつまらんかを想像できてない。そこへきて高校の部活かよ、と・・・。
他にも言ってることがいちいち、凡庸そのものなわけ。ブログカレッジ()界隈の定番クオリティって感じ。
それでブコメで叩かれるのはよくわかるんだ。
でもよく考えたら、俺だって18歳の頃は似たような感じで迷走してたわ。
高校はけっこう偏差値が高かったんだけど、大学いくのダルかったから、卒業後は微妙なIT系の専門学校にいって時間つぶしてた。
IT系っつっても、俺は起業とかはまったく目指してなくて(今みたいにWebサービスとかスマホゲームのベンチャーみたいなわかりやすいモデルもなかったし)、言うのも恥ずかしいんだけど、漠然とゲーム関係のクリエイターのようなものか、つながりが変なんだけど作家みたいなものを目指してた。今は自分でもバカだなって思うし、むしろ意味分かんないぐらいなんだけど、とにかくそんな感じだった。
でも大した努力はしてなかったね。要は、面倒なことから逃げてただけ。そして努力から逃げるための言い訳として、「他のやつと同じように無難に大学行って就職するなんてダサい」みたいな妙な美学が自分のなかにあったんだよね。
その時のマインドは、けっこう↑のやつと似てるかもww
まあ似てないかも知れないけど、安易に↑のやつをバカにできない程度には痛々しい若者だった。
違うところがあるとすれば、もともと勉強はできるほうだったことと、周囲に埋もれるタイプではなかったことかなぁ。
ただそれも俺の場合は悪い方に出てたね。タチが悪いと自分でも思うんだけど、それなりに偏差値の高い高校を出てるから、心のどこかで専門学校の周りのやつらを見下してるところがあった。地元の専門学校だったから、俺の高校名を聞くとだいたいみんな知ってて、「えっ、その学校からなんでここに?」みたいなことを言われる状態。しょうもないけど、ちょっと数学っぽい話になったときとか、難しい漢字が出てきたときとか、俺しか分かる奴がいないみたいな場面がたまにある感じ。
そうすると自分がなんとなく、選ばれた人間みたいな感覚を持ってしまうんだよね。しかも、もともと小さい頃から「あいつは変わってる」みたいに言われることが多くて、要は個性的な少年だったこともあり、「俺はとにかく、何かで成功するはず」みたいなイメージを持っていた。
高校の同級生は、旧帝〜駅弁ぐらいまで幅はあったけど、まあふつうに大学に行ってて、たまに集まると俺は何をしてるんだという話になるわけだけど、「変な道に進んでるけど、俺はこれでいいんだ」みたいなことを語ってた気がする。
しかしその学校に入ってしばらく経つと、自分には特に目立った才能がないことがだんだんわかってきたのと、「努力から逃げているだけ」ってことにも気付いてきて、焦りを感じ始めたな。あの頃は苦しかった。同じ学校の、バカにしてた同級生がなんかのコンテストに入賞したというのを知ったり、同じくバカにしてた先輩がけっこういい会社に就職したと聞いたり。
それで俺の場合は、↑のブロガーのように起業とかをするのではなく、色々考えた結果、レールに乗り直す方向に行きました。
学校は中退して、受験勉強して大学に行くことに。さすがに私学に行くのは親に悪いと思って、実家から通える国立に行ったんだけど、専門学校の入学金とか授業料ってけっこう高かったから、親のスネはかなりかじった感がある。
↑のブロガーは大学がつまらんと言ってるけど、俺の想像ではそれは偏差値の低いところに楽して入ったからであって、ほんとは大学ってけっこう凄いところなんだよね。いろんな専門の人がいるし、教授の中にはその分野では世界的に有名な人とかもいるわけ。
それに勉強って、やり始める前はダルいんだけど、やってみるとどんどん視界が広がってきて、あれも知りたいこれも知りたいってなるんだよね。
「レールに乗る」とかいうけど、一回乗ったら終わりじゃなくて、案外「乗り換え」のタイミングが何度もあるんだよ。そして大学に入った後のレールって、1番線から3番線みたいな狭い範囲じゃなくって、100本、1000本って単位であるから、ほんと自由だし、自分自身の工夫や努力やリスクテイクが試される世界だと思う。
さっき偏差値が低い大学をバカにしたけど、偏差値が低いところでもある程度以上まじめにやれば、似たようなもんだと思うわ。
それで俺は結局、親のスネをさらにかじる方向、つまり大学院にも行くことにした。修士で就職するかどうかは迷ったけど、結局博士課程まで出て、今はそこそこの大企業で材料系の研究職についてます。博士課程ぐらいまでいくと、レールに乗っても電車は勝手に動いてはくれないというか、レールが途中で切れているような世界だから、もはやレールに乗るとか乗らないとかいう概念はどうでもよくなって、努力するしかない。
就職したときもさ、そりゃ起業する人に比べれば安全な選択肢だったかもしれんけど、レールに乗ったまま楽に進んできたとか、レールに沿って決められた行き先に流されるように辿りついたという感覚はなかったなぁ。そして今も今後もけっこう競争があるから、気を緩められない。
振り返ると、高校卒業時に「レールに乗りたくない」と思って大学受験を回避し、これはまずいと思って「レールに乗りなおそう」と大学に行き、行ってみたら「レールが多すぎてカオス」な状態を経験し、しかも自分で選んだレールを少し進んでみたら「レールに乗ってても電車が進まない」、そして「レールが途中で切れている」みたいな世界に至って、ぜんぜん安易ではないところに来てしまったわけです。
なんていうかさ、冒頭のブログ主がいうような「レールに沿ったつまらない人生」って、どこにあるんだよって感じがするわ。
冒頭のブログとそのブコメを読んで、俺がまずブログ主に言いたいと思ったのは、「レールに沿った人生」ってそんなわかりやすいものはどこにもねーよってこと。
このブログ主は、大学に行って企業や役所に就職する人たちを「レールに沿ったつまらない人生」とか言ってバカにしてるかもしれんけど、それは視野が狭い。大学に行って就職するのって、そんな単純なものではなくて、いろいろな自由や不安や試練があるものなんだよ。俺は研究職だけど、事務職でも営業職でも、付き合いのある範囲で聞いてると、同じように自由や多様性があるように思える。
それでブコメの人たちに言いたいのは、「べつに18歳ぐらいなら血迷っててもいいでしょ」ってこと。俺は↑のブログ主が、起業で成功するとは思えんよ。まぁよく知らない人だから、ひょっとしたら成功するかもしれんけど、直観的にいえばこいつはダメだろう。
だけどまだ18歳だぜ。このぐらいの年齢で多少血迷ったことを考えるのはむしろ健全なことだと思うし、俺みたいに後からレールに乗り直す道だってあるんだよ。社会人になってから大学や大学院に行く人だってけっこういるでしょ。
ブログ主を叩いてる人たちだって、多かれ少なかれ若い頃に迷走してるんじゃないかと思うし、むしろ迷走した経験のないやつの人生なんて厚みが足りないとすら思うよ俺は(半分は自己正当化だけど)。
双方に言えるのは、キャリアって今の日本でもけっこう多様なんだということをあまり認識してないってことかな。それを認識してたら、こんなブログを書くことも、こんなブログに過剰反応することもないはずだ。
(追記)
あと↑のブログへのブコメを見てて気になったのは、「好きにすればいいけど、親に頼るなよ」とかいうコメがチラホラあったことかな。
べつに、頼れるなら親に頼ったっていいでしょ。経済力があるなら。
それに、外野がいくら「親に頼るな」「自己責任」なんて言ったって、親はなんだかんだで、子どものサポートは最大限したいと思うもんだと思うよ。
俺はまだ子どもが小さいけど、こいつが大きくなって血迷った選択肢に走ったら、「おいおい落ち着け」と一応は言うものの、心のどこかで、「俺の財布が尽きるまではセーフティネットになってやろう」って考えると思う。
俺は自分の親のスネをかじりまくっていて、けっこう負担をかけたと思うけど、どっちかというと親は息子の成長ぶりに満足げに見える。だから俺はその恩を、親に返すというよりは、むしろ自分の子どものわがままを聞いてやるという形で返していきたいと思う。
気づいたら総合トップにいて、本エントリへもブクマがたくさんついていた。まとめると、
というのが主な反応。なるほど。
彼のブログの続きをみると、一応、Webサービスの開発に挑戦しているみたいなので、「起業」という名の「アフィブログと有料サロン」みたいなビジネスモデルに走らないことを祈る。
新卒で入社して、結婚して、産育休とって復帰して、昇任目指して頑張ってる、夫が全国転勤で、そろそろ子供の手が離れるくらいの年齢の先輩がいない。
中途で産育休明けの人はいる。でも夫の転勤ないから、配偶者同行制度使わないだろうな。それにまだ子供小さい。
中途で子供の手が離れた人はいる。でも出産子育て期間は専業主婦だった。夫も転勤なさそう。
妻は地域限定社員で夫は全国転勤で、配偶者同行制度使って同居して、産育休とって子育てしおえる人ってさ、いないよね。
ロールモデルがいないんだよね。
ていうか上に書いたこと、出来る気がしない。
いずれ同行制度も間に合わない転勤が夫に来るだろうし、詰むな。
とか
同行制度使いたいとか産育休とって復帰したいとか言ってると昇任難しいんだろうな。
とか思うと、将来悲観的になって、いま頑張っても水の泡になるんだな、と思うと
仕事やるのつまんない。
あーあ。