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2020-11-04

二次元イケメンってなんで軍服みたいな衣装着てるか着物の2択なん

anond:20201104001020

こういう理屈だけで本質見てない性欲バカブルマセーラー服スク水看護師ミニスカついでにスチュワーデス制服あたりに

クソダサな意味づけをしてしまって

まともな女性向け服飾市場から撤退させたのだが

種族的記憶にないのかね

落ち着いてほしい。ブルマーは体操着として発明されたもので普及期にもう不評の声があった。セーラー服は元が軍服だったかセーラー襟のバリエーションカジュアルブランドにもいろいろある。スクール水着は実は競泳水着規格化したもの実質的差異が色くらいしかない。性的意味づけは確かにあったけれど、女性向け服飾市場から撤退させた」という説には根拠がないと思う。もし仮に性的意味けが大人の女性の服でさえ受け付けないほど強力なものだったとしたら、少女制服に使い続けることはできないはずだ。スチュワーデス制服についてはこれはスーツ一種なので服飾市場にないなんて言うのは脳死バカ。そんなことはなく本質を解っているというのならそれを説明してほしいよ。理屈他人思考を共有するためには必要な道具だと思うんです。

2020-09-30

安倍とか○本会議がアホだと思う理由の一つに、

戦後アメリカ押し付けられた憲法教育日本を駄目にした」

という考えがあると思うのだが、

その崇高な戦前?の教育とやらで育った大人子供達を特攻機に乗せて本土決戦をしようとしたわけなんですが、

木更津高台にある寺から子供を乗せた桜花を射出しようと計画していたが、その前に無条件降伏して本当に良かった

安倍界隈はオカルト神道大好きな反知性主義者のアホが揃った感じで非常によろしくない。

北方領土も献上しようとか菅もアホだったのかと。

第二次大戦で負けた理由精神でも道徳観でも宗教観でもない、

くだらない人種差別をしていたナチスはあるユダヤ人発明した核兵器に負けたわけです。

アメリカ豊富物資や食料、医療技術にも負けたわけです。

次の戦争に勝つためには、その反省を活かすべきであり、それは精神論ではなく、より理系戦略戦術になるのは明白です。

兵士ヒューマンな面も人間工学的な視点必要になる。

例えば、軍服一つをとっても、着ていて違和感がある、不快感ちょっとでもある、というだけで士気は低下するものです。

となれば、兵士にとって着心地が良く、しかしながらコスト面も抑えられている軍服、兵装の開発が求められるわけです。

日本は今になっても、そういう考え方ではなく、黙って制服を着ろ、というような頭ごなしな考え方が根強くある。

本会議だの神道だののような考え方では次の戦争は必ず負けます

戦争で負ける日本を作ろうとしている、親学だのは寧ろ売国奴の考えです。

日本意図的に弱体化させようという陰謀すら感じる。

そもそも安倍靖国に参拝したことを誇らしげにツイートしているが、ロシア北方領土提供し、アメリカにもペコペコ頭を下げる、

トレードというか駆け引きを知らない、

そんな体たらく人物過去英霊だのに何を報告する意味があるのでしょうか。

神仏にうつつを抜かす前に、国土強靭化する必要がある、

そのためには、よりロジック理系的で効果的な政策が求められるはずです。

その点で河野さんは今の所よくやっている。

非常に期待できる。

北方領土担当でもあるし、自衛隊方面もよくやっていた。唯一の良心に思える。

省庁でも外務省は昔からよくやってると思う。

イランのような国とも根強く交渉し、交流してきたことで、石油安定的供給できている。

そういう点でも日本アメリカとは違うのです。

兵士は一流だが、上は二流三流なことが多いのですから日本やればできる子なはずです。

少なくとも自分はそう思うのです。

から、何らかのシステムアーキテクトでも、白人の考え方や企業サービス鵜呑みにせず、

柔軟に受け入れつつも、独自の考えや規格を打ち出しても良いはずです。

すぐに欧州世界日本仕様は規格にならなかった、規格化競争に勝てなかった、という話になりがちですが、

それを言うなら、中国パクリだけでなく、並行して独自技術や規格でエコシステムを作ってもいるのです。

中国には感心したり呆れたり色々ありますが、国がでかいこともあるのでしょう、

そのエコシステムが十分に回るだけのマンパワー豊富にある。

それに、日本中国の数倍の速度で目まぐるしく流行というか、変改してグルグル回ってるものもある。

人としてそんなにスペックも変わらないはずだし、日本に優れた人材大勢いるわけで、

同じようなことやもっと優れたことができるはずだし、ポテンシャルはあるはずなわけです。

若い世代は今の老人や大人のことは忘れて、できればちゃんとした戦争のできる国にしてほしいと願います

2020-09-26

銃社会じゃなくてよかった

ちょっと前にトルコ旅行しに行った時、情勢が緊迫してたからかその辺にでかい銃持った軍服のニイちゃんがたくさんいた

すげー怖かった

国の人なんだろうしそりゃいきなり撃ってくるはずはないんだが、人間いつ気が触れて乱射したくなるかわからない

それに俺はみすぼらしいし挙動不審なのでテロリストかなんかに間違えられて撃たれる可能性もなくはない

あの筒の先端をこっちに向けて引き金を引かれたらそれだけでほぼ死が確定するのか、と思うとかなり身がひきしまった

日本、そうそう長銃もった人がいないから良い

警官だって滅多に撃たないって言うし、剥き身で拳銃持ってるのなんて見たことない

銃が遠いってのはかなりありがたいことだと思う

街中で破裂音がしてもビビる必要がない 

海外で後ろから破裂音がしたときとか相当ビビったもんな いま腹見たら真っ赤に染まってて、なんじゃこりゃあ〜って言いながら死ぬハメになるのでは?なんて思った記憶

日本だと車の音とか風船とかだろうとまず思えるので安心感が違う

マジで銃社会じゃなくてよかったし、軍人が銃もってウロウロしてる社会じゃなくてよかった

2020-09-21

フェミニズムによる作品改変

とか割とどうでもいいと思っているけど、ガンダムリメイクした時には謎のピンク色の軍服は変えてほしい。クソダサいので。

2020-09-20

anond:20200919212538

シェイクスピアの『ヴェニスの商人』における

シャイロックの描き方の変遷って知っとお?

17世紀に書かれた原典のまんまだと

そらもう典型的な「強欲・非常なユダヤ人商人」そのまんまっすよ

ここまでテンプレ的な悪徳商人がおるんか? と

テンプレ的すぎてひねりのなさで拍子抜けするような

そこから100年、200年、300年、400年……

各国の演劇関係者多種多様アレンジをしてきましたよ

なんか苦悩する悲劇の悪役にしたり

単純にユダヤ人差別的じゃポリコレ的に糾弾されるからという問題で済まず

まりテンプレ的すぎて現在の目ではしらけてしまうので

ひねりを加えようと工夫してきたということであろう

同じような話はあちこちにあって

かちかち山や桃太郎みたいな日本の昔話は元々は残酷だったとかエロかったとか

時代状況によって改変された話は腐るほどある

戦時中に書かれた桃太郎なんざ軍服着て東南アジア白人退治に行くんだぜw

つか日本じゃ古代の時点ですでに

古事記の内容でヤバい部分は日本書紀では削除したり

都合良く話の書き換えをやってる

3000年前のエーゲ海文字も知らない庶民が語り伝えてた

”真の原典”のギリシア神話を聞いてみたいとは思うけど

それはどうせ、どう頑張っても無理なんだよなあ

ま、1000年前、2000年から、世の中ずっとそういうもんなんじゃないの

(以上いっさいポリコレを支持してない)

2020-09-03

半年間(ほぼ)ベッドメイク筋トレだけしてた

「私、増田阿野太郎は!恥ずかしながら!戻ってまいりました!」

暗い気持ちを誤魔化すために、久しぶりにあった両親の前で冗談めかしてそう答えた。つもりだった。

わずかな沈黙のあとで父親が「随分怖い喋り方になったな」と半笑いで応えてくれた。

母が怯えた目をしていたことに気づいた。

この半年の間に、人間から、遠ざかっていたのだ。

この物語フィクションである

嘘が多い。

私、増田阿野太郎が某実力組織への就職を決めたのは、大学を出て無職になった次の秋だった。

惰性で続けていた就活にもバイトにも嫌気がさしていた頃で、親の態度も少しずつ冷たくなっていた。

そんな頃に高校時代の友人に同窓会で勧められた。

曰く「パチンコばかりしている人間だらけの気楽な所だ」

曰く「お前は背も高いし意外と筋肉もあるから向いてる」

曰く「デスクワークもある」

なんとなくで、就職先を決めた。

試験はあっさり突破した。

簡単すぎて不安だった。

そして、気づけば私は税金で寝食を得る身になった。


蛆虫未満の朝は早い

総員起こしの前に歯磨きや洗面を済ませる。

着替えを用意し、寝ている間にズレたベッドシーツをベッド下に潜って引っ張りなおす。

そうして、何事もなかったかのようにベッドに戻り、ずっと寝ていましたよというオーラを漂わせつつ喇叭を待つ。

朝の体操点呼により貴重な血税を一斉にドブに捨てたあとは、朝の掃除である

上官の靴を磨かせていだくことの喜びを噛み締め、靴墨をこれでもかと塗りたくる。

そうして塗りたくられた靴墨がそこかしかに染み付いた床を必死に擦るのも、下々の者達の公務である

食事はかっ込むためのものであり、味は誰にも分からない。

二度目の点呼国旗への敬礼、朝の挨拶、行進、大事大事公務時間

まだ朝方なれど、既にどれ程の血税青空の下へ消えたのか。

勿論ゼロである

その分残業をすればいいのだから

特別公務員ザンギョーサセホーダイプランに加入している。

それを有効活用しないのは国損である

蛆虫が羽ばたく権利を得るために求められる最大のモノ、それはベッドメイク

1日はベッドメイクに始まりベッドメイクに終わる。

人生と同じだ。

ベッドで産まれベッドで死ぬ

もしも明日、訓練中に死んだとして、親が死に目に会いに来ても恥ずかしくないベッドメイクを。

シーツ三角折は乱さないように、

白い雪化粧は翻さないように、

たった一つのシワが、国民からの信頼を失墜させる。

武器を持つ兵隊に求められるもの、一糸乱れぬ斉一さ。

それをシーツに込められぬものが銃を持てば国民不安になろう。

国民を信頼させろ。

敵国に威勢を見せよ。

それがベッドメイクに現れる。

完璧なベッドメイクをする軍隊を前に、その絶対の統率を前に攻め込もうとするものがあるだろうか?

否!

絶対の統率!

目の輝き!

輝く靴!

アイロンの効いた軍服

輝くバッジ

銃弾よりも強きピカールの光が国家を守る!


無理だった。

血税がドブへと消える世界に私の心は耐えられなかった。

「なぜこんな安定した仕事を辞める?」

「定年後も自衛隊員という立派な経歴でガードマンでもバス運転手でもよりどりみどりだぞ?」

国民の役に立ちたいという気持ちは嘘だったのか?」

役に立ちたいから、こんな所にいたくねえんだ!

その言葉は流石に飲み込んだ。

半年間、税金無駄飯を食ったという意識が頭の中を渦巻いた。

もう疲れた


今、増田阿野太郎がなにをしているのかは、私も知らない

2020-08-23

anond:20200823193723

そうはならんやろ

感想文は感想と言いながら正解が存在するから

 

戦争反対感想文はウケるけど

戦闘機カッケー軍服カッケーの作文はウケないでしょ

あらゆる社会問題においてそう

 

もちろん、世の中のお約束は知っておいた方が生きやすくはなると思うけど、

わかった上で反発するのが小学生中学生だと思う(お約束クソ喰らえ)

  

ただ、世の中にはわかった上で「無視をする」「反発する」じゃなくて

「素で理解が出来ない人」もいるので

そういう人向けになら読書感想文ごっこを出来る場があってもいいね道徳お約束指導のために

 

社会で生きる・過ちを繰り返さないために必要道徳を教えることは親の役目だと思うけど

親にそれが期待できないからそういう結果になるのだろうし

2020-08-22

オタクをやめたくて4年間努力してみたけどだめだった

高校の頃までオタクだったが、大学デビューのためにオタクをやめた。

オタク以外のコミュニティー所属してみたかった。


いや、いきなり漫画アニメpixiv同人も全て封印するのは無理だったので、漫画も今まで好きだったものは読んでいいが新規開拓はしない、グッズ・同人誌は買わない。

pixivは見るだけで投稿絶対しない、ぐらいの緩さから入った。

オタク的な感性矯正するために、流行りの歌を聞き、それまで好きだったアニソンボカロ曲などは今まで好きだったもの以外は一切聴かないことに決めた。

聴いていいのは家の中だけ、カラオケでも必ず流行歌を入れる。

アニメを見るのはやめ、代わりにバラエティーと音楽番組月9を視聴する。(バラエティ禁止の家庭で育ったのでバラエティーを見る感性が備わっておらず本当に苦痛だった)

芸能人名前を暗記し、着る服や化粧品の選定は全て友人と恋人店員感性に任せ一切私の趣味を挟まない。

赤文字雑誌を最低でも3か月に一度は購入し熟読する。

オタク以外と仲良くすることに努め、今まで仲良くしてきたオタクの友人の前以外ではオタクであることを隠す。オタクとしてオタク積極的に仲良くするのは避ける。

二次元しか愛せないとか言わずに付き合えそうな男がいたら付き合って好きになる努力をする。

オタク以外の人間から何か新しい趣味を紹介されたらとりあえず挑戦する。オタク以外の趣味を見つけるためだ。このルールのせいで全く興味のない恋愛映画を相当数見たし、変な場所へも旅行に行った。興味もないスポーツ試合を見に行ったりもした。クソまずいハーブティーを出すカフェを巡ったり、信じてもいない占いを信じる努力をしてみたり、お菓子作ってみたり、料理に凝ってみたり、色々やった気がする。


で、そうやって全力を上げて努力すればオタクをやめられるものだと楽観的に考えていたが無理だった。

おしゃれもメイクも要領は良くなったが、全く楽しいとは思えない。

私が好きな服は真っ黒のロングコートとか、ドイツの村娘みたいな民族衣装とか、純白の軍服とか、とりあえずZARAには売ってない。

流行りのドラマ恋愛映画より全然pixivを見てる方が幸せだ。

三次元の男よりずっとずっと二次元の男の方にドキドキする。二次元相手ならいくらでも濡れるのに三次元の男とはローションがないとセックスできないしちっともときめかない。人間としては尊敬できるがそれだけだ。

キャンプ旅行に行くよりオタクカラオケする方が楽しい

オタク的な感性はちっとも矯正されなかった。


よって現在は開き直ってオタクをやっている。

めちゃくちゃ楽しい


まあ、現世に未練はあるので、これは推しイメソンから流行歌を一通り聞いてイメソンっぽい曲を探したり、推し投影できそうな映画を見たり、聖地巡礼を兼ねた旅行に行ったり、推しが出ているという妄想をしながらバラエティーを見たり、なんとかオタク趣味一般的エンターテインメントを関連付けて摂取することで、周りの人間との会話に困らない努力はしているが、オタクをやめるのは無理だった。

いったん努力はしてみたので、もう私はオタクしょうがないんだなと自分を許せたのは大きなメリットだったが、感性努力で何とかなるものではないという絶望感を背負ってしまったのは少し悲しい。

2020-08-09

日本政府国民を守らない…「原爆は怖くない」ウソだらけの安全神話

8月8日付 防空総本部 談話より

次の諸点に注意すれば被害を最小限度に止められるから各人は実行しなければならぬ。

待避壕に蓋がない場合は、毛布や布団をかぶって待避せよ

・火傷を防ぐため、手足を露出しない服装にせよ

家屋からの出火を防ぐため、台所などの火の用心をせよ

8月9日付 防空総本部 談話より

軍服程度の衣類を着用すれば、火傷の心配はない

・防空頭巾手袋を着用すれば、手足を完全に火傷から保護できる

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8月11日付「新型爆弾への心得」より

破壊された建物から火を発することがあるから初期防火せよ

・火傷を防ぐためには、白い下着類が有効である

・この爆弾の火傷には、油類を塗るか、塩水で湿布すればよい

https://news.yahoo.co.jp/articles/5a2d1d79e46cd925f9f9117600c789b4269a9c57

PCR検査したら医療崩壊するが抜けている

anond:20200807103933

ここ最近漫画家って全員がネトウヨで、平和主義者の漫画家なんてどこにもない

個人暴力規制する癖に、軍服を着ていたら人を殺すのが国を守る義務だとか言って擁護する

表現規制漫画家主人公に殴られて負傷した人が病院リハビリする場面を描いていないんだから自民党支持者でネトウヨだろう

2020-07-29

安倍土下座像に対する日本の抗議は当然

なんか頓珍漢なブコメが多いので。

韓国日本の「要求」に従う必要はない

当たり前なんだが、理解できていない人が多い様子。

日本銅像不快感を示し、撤去要求たからといって、韓国政府がそれに従う必要は全くない。

たとえば、もし日本他国政府要求に従わなければならないとしたら、今頃、尖閣中国領で、日本の歴史教科書は嘘だらけで、靖国神社は閉鎖されており、日本は毎年韓国賠償金を払っているだろう。

日本が「撤去要求」するというのは「不快感の表明」と同じくらいの意味しかないし、韓国に対して何の強制力もない。

もし、日本要求韓国に対する強制力を持つと想定しているなら、それは全くの過去の話だ。

今や日本韓国は対等な国であり、日本要求には強制力はない。

したがって、日本が「撤去要求」することが、韓国内の表現の自由を損ねるなんてことはありえない。

表現の自由」と「外交」のバランス韓国国内の政治問題

から韓国国内で表現の自由保証したければ、韓国政府日本要求には従わず銅像撤去しなければいいだけだ。

ただし、韓国内の表現の自由の結果として生じる外交上の問題については、当然、韓国政府責任を負うことになる(間違っても日本政府ではない。あくま日本政府自国首相侮辱されている立場であり、表現の自由韓国社会制度の話である)。

韓国政府は、具体的には、「表現の自由を優先する国であるため、銅像撤去しない」とした上で、侮辱については日本謝罪すれば良い。

もしくは、外交上の些細な問題として、謝罪せずに放置しても良い。

銅像の黙認はヘイトの黙認

首相土下座をさせる」というのは、首相に対する(あるいは日本人全体に対する)明らかなヘイトである

もしこれが「首相顔写真に✕マークをつける」「首相軍服を着せて軍国主義揶揄する」くらいの内容なら、ヘイトとは言えない だろう。

なぜなら、前者(土下座)は「個人尊厳侵害」を意図しており、後者は「政治的な主張・怒りの表現であるからだ。後者表現の自由範疇だ。

言い換えれば、土下座」という表現は、表現の自由で守られるような「慰安婦問題に対する怒りの表現である」とは考えにい。少なからず「安倍首相または日本全般に対する侮蔑、見下し、嫌悪表現ヘイトである」と考えるべきである

日本政府としてこの表現を黙認するというのは、ヘイト表現人権侵害の黙認に他ならない。

ヘイトされた当事者から黙っている」というのは、国際社会では「大人対応」とは見なされない。「日本政府ヘイトを黙認した」というメッセージけが伝わる。「相手北朝鮮であれ中国であれ東南アジアであれ、日本政府韓国民間人によるヘイト容認する」というメッセージしかならない。

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ということでブクマカの皆様には、そろそろいい加減に「韓国はもはや日本と対等の国である」という認識を持ってもらいたい。自国首相に対する侮辱に抗議するというのは、ごく普通外交プロセスである。むしろ、「韓国表現の自由配慮しろ」なんて言っている人は何様目線なんだろうと感じるし、時代錯誤感覚で、「途上国」「弱い国」である韓国を見下す差別意識漏れ出ているようすらに感じる。

2020-07-05

シャケの産地

スーパーマーケットロシア産の鮭を見ると軍服を着た厳しい男が思い浮かび、

アラスカ産の鮭を見ると入れ墨を入れた屈強な男が思い浮かぶ

この鮭は漢だ。荒波を乗り越えて幾多の危険を顧みず川へと戻る。

まあ産卵はメスだけど。

その点チリ産はいまいちイメージがわかない。

北海道産も鄙びていて、のびのび育っている感じがする。

なにかこう、銃槍が残っている感じの、ストーリーある鮭がいい。

会議でもストーリーが求められてる。つまり鮭は会議必要だ。

しろ鮭で会議をすべきだ。いや、鮭が会議とすら言える。

まり鮭は会議だ。この事実はシャケられない。

2020-06-25

ハーケンクロイツ何が悪いのか

ナチス式敬礼ナチス軍服何が悪いのか

悪いのはナチスが実行した差別大量虐殺だろ

そもそも、実行したのがナチスだろうがなんだろうが、差別虐殺は悪いんだよ

差別虐殺は悪だ」と正々堂々と主張すればいい

その主張さえあれば、ハーケンクロイツ脊髄反射的に非難することは何の意味も持たない

2020-05-30

昭和育ちのおっさん日の丸過剰反応する理由

近所で、軍服みたいな服着て街宣車に乗ったヤクザみたいなおっさんが、よく日の丸振り回してたせいで、「怖い旗」のイメージが先行してしまうから子供の頃植え付けられたイメージはなかなか消えない。

なお、地域性なのか、学校ではそれほど「日本は悪い国です」とは教わらなかった。

っていうか、小中学校とも教師がいいかげんだったので、明治くらいで大分時間がなくなって、第2次大戦あたりはちょろっとしかやった記憶がない。平成元年高校生になったけど世界史選択だし。

2020-05-19

本間場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった

名誉を重んじる人物だったら

 

「「先手を打って処罰すれば刑が軽くなるのではないか」(いわゆる『一事不再理』の発想)と考え、本間陸軍中将としての礼遇を停止した」

 

こんなもん受け入れないだろう

正当性がある軍務だと主張して堂々としているだろうし

軍人として名誉を重んじる人物自分に非がある扱いなど受け入れるわけもない

anond:20200519122136

40なったら50まで生きたいといい

50なったら60

60なったら70という

 

戦犯裁判

バターン半島の陥落後、1942年8月参謀本部附となり[2]、内地へ戻る。「日本ニュース」第115号にて、「本間将軍帰還」の肉声・映像が残っている。同月、予備役編入され、以後は軍務に就くことなく、フィリピン協会理事長を務めて終戦を迎えた[2]。予備役編入理由は、バターン攻略不手際とがめられたものとされる。終戦後、「バターン死の行進の関係者処罰されるのでは」という話を陸軍が聞きつけ、「先手を打って処罰すれば刑が軽くなるのではないか」(いわゆる『一事不再理』の発想)と考え、本間陸軍中将としての礼遇を停止した。しかし、結局マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者戦犯)として召喚された。本間は前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への非人行為本間責任ではなく、部下の責任であった。しかし、結果的責任をとることとなり、有罪判決下り本間死刑と決まった。有罪判決が下ると本間弁護団アメリカ連邦最高裁判所人身保護令を求めたが、6対2の判決却下された。

処刑は、1946年昭和21年4月3日0時53分、ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間の口より総攻撃命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校囚人服で絞首刑に処せられたのに対し、本間場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった(同じくマニラ軍事裁判死刑判決が下された山下奉文場合は、囚人服を着せられたままの絞首刑であった)。58歳没。

 

anond:20200519114951

そうなんだ

俺も三等空佐軍服があれば議員に片っ端から国民の敵だとメガホンで怒鳴って回るのに

2020-03-03

15日間の死闘医療陣の疲労限界に…交代者の防護服がなく、待機もする人も

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/35910.html

 「15日連続で勤務を続け、今、疲れて何がなんだかわかりません。若い看護師らが気の毒で、できれば追加勤務をさせないようにしていますが…家に帰って横になった瞬間、爆睡ですからね」

 2日、大邱(テグ)のある選別診療所で働く看護師のキム・ジュヒョンさん(仮名・48)は「問い合わせの電話殺到し、なかなか電話がつながらず、直接訪ねてきたり、病床不足で入院できない患者さんを見るのが残念でならない」としながら、このように述べた。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応で目が回るほど忙しく、大変な現場で働いているが、いつも超緊張状態を維持しなければならないせいか、「事態収束したら疲労で倒れるかもしれない」と話した。

 先月18日、新天地大邱教会で始まった「スーパースプレッディング」事件で、大邱慶尚北道地域にCOVID-19の感染者が急増してから2週間近く経ち、同地域医療陣の疲労限界に達している。新天地大邱教会信者の全数調査を進める選別診療所はもちろん、一般病棟に比べて業務量が2倍の隔離病棟で勤務する看護士たちも、医療陣1人が担当しなければならない患者数が大幅に増え、倒れる寸前だと訴える。

 感染者90人以上が入院した大邱カトリック大学病院隔離病棟で勤務する看護士ユン・ジュヨンさん(仮名33)は1日午後病院に出勤し、夜の12時頃に勤務を終えるまで、食事をとる時間以外は座ることすらできなかった。先月26日、COVID-19感染者の入院のため、病床100床を追加で設けたことで、隔離病棟看護士1人に任せられる患者数は6人から10人に増えた。彼女感染予防のため「歩くだけで汗だくになる」レベルDの全身防護服を着用し、保護者と看病人の代わりに患者食事をはじめ、高齢患者オムツ替えまで行っている。ユンさんは「レベルDを着ると、動きづらく、普段より仕事効率も落ちるのに、不安がる患者さんたちが頻繁にナースコールを押す。一部の保護者患者との接触を最小化した回診方式に不満を抱いて、暴言を吐くこともある」とし、「疲れた同僚たちが『疲れて動けない』『もう限界だ』と訴えるが、自分が辞めると残っている同僚たちがさらに大変だから、どうすることもできない状況」だと打ち明けた。

 医療装備まで枯渇していく状況で、医療陣はさらに追い込まれている。ユンさんは「休憩を取ってまた病棟に入る時は、新しい防護服に着替えなければならないが、レベルD不足で、なかなか病室から出られない」とし、「交代勤務者が着る防護服がなく、他の病院から送られるまで待たされる場合もある」と伝えた。

 医療陣の厳しい状況を踏まえ、韓国政府は遅ればせながら支援対策を打ち出している。キム・ガンリプ中央災難安全対策本部(中対本)第1総括調整官は2日、「医療陣の肉体的・精神疲労度が高いため、追加の医療関係者を確保し、現場医療陣の十分な休憩時間保障する案を探す」と話した。

 政府国家感染病専門病院指定された国軍大邱病院に、軍の医療関係者を中心に医師看護士111人を追加で投入することにした。国防部はまた、今年新規任用予定の公衆保健医(入隊対象者軍服務の代わりに公衆保健業務従事する医師)750人の4週間の軍事訓練を延期し、5日から現場に送る方針だ。これに加え、野戦部隊を除いた病院医療関係者327人も、COVID-19の対応に投入することにした。

 保健当局大韓看護協会などと共に大邱慶尚北道医療現場で働く医療陣を募集している。大韓看護協会大邱・慶北行きを希望した看護士が1日で510人と集計されるなど、これまで同地域で勤務する意向を示した看護士は合わせて約1300人に達するという。大邱医師会は現在医師約300人が大邱慶尚北道地域でCOVID-19感染者のための医療ボランティア活動を行っていると発表した。このうち、大邱・慶北以外の地域から来た人たちは10%程度だという。

やはり日本韓国を見習うべきだと思う。

からでも希望者の全数検査に方針転換すべきではないだろうか。

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-07

裏地チェックのズボンってどこのブランド由来なんだ?

所謂ダサい服・オタク服って呼ばれてる服の意匠は大抵元ネタがあるんだよね

ダサい服として認定される10年くらい前には高級服ブランドが取り入れてオサレ人が愛用してたの

英字新聞柄のシャツ

  →ジョン・ガリアーノ

・黒いピチピチのジャケット

スキニージーンズ

  →ディオール・オム

・脛丈のスラックス

  →トム・ブラウン

インナーダウン

軍服ライナー型のジャケット

  →エンジニアドガメンツ(多分)

てな感じで、大抵の服は辿れば元ネタが見つかるんだよね

でも裏地チェックのズボンだけは元ネタが全くわからない

アレ何なん? オタクが考えたオタク独自のお洒落デザインなの?

2020-01-01

anond:20191231190824

学生服はどちらにも対応できる。

実は、軍服もどちらにも対応できる。

2019-12-11

軍服女子イラストゲーム広告がいたるところに出てくるが、やってる人がどこにもいない

謎…

2019-11-19

anond:20191119010534

そして男とは、欧米企業服従して生きる奴隷生物なのである

ドンドルフ・ナウマン日本国紙幣製造発注

マルコーニの無線機を買い

エリコンの戦闘機銃のライセンスを買い

コーツシンガーミシン軍服をつくってもらい

ドイツイギリス法律をつくってもらい

未来永劫に独立することもない

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