はてなキーワード: 木村とは
木村友祐ってWikipedia見たら単行本化に恵まれない人なんだなぁって思った
「イサの氾濫」2011年すばる掲載で三島由紀夫賞候補とかになっても集英社から単行本化せず5年経って未來社という知名度低いところから出てる
参考文献の木村友祐「天空の絵描きたち」ってノンフィクションのドキュメンタリー本かと思ったら、普通の小説だったのね
小説を参考文献に小説書くってどうなのって感じだな(引用として面白くなってれば別だけど)
「美しい顔」問題とは審査員が全く逆の反応している意味もわかる
(ちなみに「美しい顔」(講談社)のことを訴えてたのは新潮社の本で、今回は「天空の絵描きたち」は文藝春秋で、古市の本が新潮社)
10日発売の『文藝春秋』に芥川賞の選評が載っていて、二回連続で落選した古市さんがいろいろ言われている。
候補作は単行本で出版されているが、まだ読んでない。だが、高学歴なのにビルの窓の清掃員をやってる主人公の話で、参考文献が詳細にあげられているらしいことは、なぜか知っている。
参考文献については、前回だったか、候補作の剽窃問題があって、その辺の対策らしいと噂されていた。
で、選評である。
まず山田詠美はこう書く。“(参考文献の)木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。
そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい”
“候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る”
続いて川上弘美。“結論からいいます。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのまま「百の夜は跳ねて」の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです”
“古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持にかける行為であると、わたしは思います”
吉田修一。“本作に対して、盗作とはまた別種のいやらしさを感じた”
“あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う。”
堀江敏幸。“他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか”(原文では「かっぱいでも」に傍点あり)
要するに、古市さん、文芸誌に掲載されたが出版されていない佳作を探してきて、うまいこと翻案して小説書いたようである。
いや、具体的にどの程度の参考具合なのは確かめてないので、なんとも言えないが、当代きっての作家先生方が、かなり憤っておられるようなので、相当なものなんだろう。
是非比較して見たいところだが、「参考文献」の方は、『文学界』2012年10月号、だそうなので、確かめるには、図書館でバックナンバーを出してもらうしかなさそう。
にしても、古市さん、お忙しそうなのに、純文学の文芸誌まで必死にあさって「参考文献」集める努力は大したもんだが。
まあ「情報集め」は嫌いじゃなさそうだしな。
まさかとは思うが、担当編集者がうまいこと見繕って選んだのを古市さんに読ませてるとか、そういうことじゃないよね?
島田雅彦曰く“ナルシスト的私語りが中心で、リアリティ構築に必要な細部も情報のパッチワークに終始しているのが気になった。”
どうやら評価したのは奥泉光だけで、“今回自分が一番押したのは、古市憲寿氏の「百の夜は跳ねて」だったが、選考会の場で評価する声はほとんど聞かれず、大分弱った”そうである。
“外にあるさまざまな言葉をコラージュして小説を作る作者の方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた”そうだ。
ここには、小説における“オリジナリティ”とは何か?という問いが含まれている。
ま、小説なんてそもそも「すでにある言葉」の組み合わせでしか書けないじゃん、というのはある。
で、ありもののコラージュでも新しいものが生まれればいいけど、山田詠美は「参考文献」の方が「はるかに面白い」って言ってるしなあ。
吉田修一は、「参考文献問題」以外にも手厳しくて、“凡庸で差別的な価値観の主人公を小説で書いてもいいのだが、作者もまた同じような価値観なのではないかと思えるふしもあり、とすれば、作家としては致命的ではないだろうか”なんて言っちゃってる。
これは、社会学者にして人気コメンテーター(タレント?)としての活動にも少なからず影響しそうな評価だと思うけど、ま、芥川賞の選評なんて、今時の世間に影響力なんかないのかな?
古市さんという人、本をちょっと読んだことがあるのと、時おりメディアでお見かけするだけで、どんな人か詳しくは知らない。
ただ、妙に芥川賞を取りたがっているらしいという噂は聞く。
なんでだろ?
“気鋭の若手社会学者”も“テレビで毒舌が人気の論客”も、実に空虚で脆弱な肩書きで在ることに、ご本人が一番気づいているということだろうか?
そこで、「学者として研究に力を入れる」ではなく、「いい感じの小説を見つけてきて、うまいこと翻案して芥川賞ねらう」って辺りが、実に薄っぺらいけど。
テレビで知名度得た人が芥川賞狙うって図式では、又吉直樹といつ成功例がある。
あの「火花」という作品が、そこまで傑作かどうかはともかく、この人は本当に、太宰治を筆頭に、文学というものが大好きで、おそらく文学に救われたという経験を持っていて、文学をリスペクトしていることが端々から伝わってくる。
あんまり文学とか語ってるのを聞いたり読んだりした印象がないのだが。
前回の選評では、「ナルシシズムが過ぎる」とか「自己肯定というより自己過信」とか、これまたかなり厳しい言葉が並んでいたと記憶する。
単なる自分語りの舞台として小説を選んでいるのだとしたら、ずいぶん旧い、日本文学における「私小説」偏重な文学観をうすっぺらくなぞっただけかもしれないが。
なんだろうなあ?
社会学者もコメンテーターも、ありものの言葉を組み合わせつつ、持ち前の地頭とセンスと要領でなんとなく現在地位を掴めちまったっぽいだけに、「小説? これくらいなら、ボクでもかけるじゃん」とか思っちゃったんじゃないかなあ、という疑いを禁じ得ない。
【追記】
えらくブクマついてる。文藝春秋なんて読んでないけど、中身は気になるって人は多いのかなあ、と思ったり。
「参考文献」の著者、木村友祐さんがtwitterで発言されておられるので、追記しておく。
本件、「古市さんが窓拭きに興味をもち、取材依頼があり、応じました。窓拭きの達人を紹介しました。古市さんはその取材をもとに書いてます。」そうだ。
お詫びしたい。
なお、「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、〝知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家〟ではありません」とのこと。
にしても、選考委員の先生方は、どの程度経緯をご存じの上で選評を書かれたのかは分からないけれど、えらく憤っておられるようで、なにがそんなに山田、川上、吉田各氏に火を着けたのか、検証してみたくはある。
この参議院選挙において、山本太郎氏が、いい意味でも、別の意味でも、「ともかく話題性!」で候補者を選んでいたということには、ほぼ異論はないはず。
そのブログの著者は、
とまず褒めるのだ。
まじ? そんなにスゴかったのか?
このブログは、読まないとだめだな。
その後、山本太郎氏にも、参議院にも、立候補にも、ほとんど関係がない自分の考えを披露する。主張タイムってやつだ。
それなら、大川隆法氏でも、公明党でも、衆議院でも、いいんじゃないか、と心で突っ込みつつ、続きを読む。
それは気になるところだ。
で山本太郎氏は、いろいろな理由を述べる。当然、褒めるわけです。
うほ?!
それは、断りづらい。折衝はうまくいったようだ。
そこで気になった文章に出くわす。
また、私は会議が非常に苦手で、教授会ですら辛いのに、「国会」などという会議だけでできているところで働けるか、疑問であったので、そのことも聞いてみた
まじか!?
24時間看護を必要とする方を擁立するつもりで(それは後に木村英子氏のことだとわかった)で、そういう方が働ける環境をれいわ新選組は用意するので、会議アレルギーも何とかする、とのことであった
まあいい。それよりも、
「0歳時の事故により、重度の身体障害を持つ。脳性麻痺とも診断され、移動手段の電動車椅子を操作する右手以外、体はほとんど動かない」(Wikipedia)という、木村英子さんを引き合いに出したよ!
こうしてすべての折衝が済んで、私が出馬することになったのは、6月25日であった。そして27日に記者会見することになった。選挙はもう目の前である
すんなり!!
主義主張が一緒じゃなきゃダメだとは言わないが、「あまりにも無節操」「単に国会議員になりたかったのか」と言われてももしかたないんじゃないか?
どひょ~ん!!
しかし、れいわ新選組は、「子どもを守る」という政治理念を勝手に私が掲げても構わないし、政策に反対だと言ってもいい、というわけである。しかも、選挙そのものも、私がどういう選挙をするか、勝手にしていい、ということであった
なるほど、「れいわ新選組」というのは、まことに自由な政党?なんだな。
これは、もはや、政党の態を成していない。なぜそうなるのかというと、一つの理由は、4月1日から、山本太郎氏事務所の少人数のスタッフが、突貫工事で政党を作ってみせるという、そもそも無理なことをやってのけている、という事情がある。確認団体としての資格を獲得するために十人の候補者を揃えねばならず、そのための膨大な書類手続と資金集めとに忙殺されており、綱領とか政策とか選挙のやり方とかに、構っていらないのである
うぎょ~~~。
さっきの「政党とは」の素晴らしい自説も、あんまり関係なかった!!
「構っていらない」(たぶん、「構っていられない」のこと)
だから、綱領とか政策とか、そもそもの選挙のやり方も、”構っていられない”のが「れいわ新選組」だったのだ!
この後に、現代の病理について自説を述べ、山本太郎氏を褒めるのである。
さらにいろいろな話の中で、公示日の第一声をどこでするかという話になり、山本太郎氏が
「まだ決まってないんです。話そこまで行ってないんですわ。ウチ、いっつもこんな感じで。」
という山本太郎氏に、著者は、
「それは素晴らしいですね。『孫子』の兵法に、「無形」という概念があるんです。それは「何も決めていない」という状態のことで、何をどうするか決めていなければ、敵は、どんな優れた司令官でも、どんな手練のスパイでも、こちらの意図を読み取ることはできない、と孫子は言っています。無形が一番強いんです。」
さっき「構っていられない」って言ったよね? それって孫子と関係あるの?
すると、この後に「日本中世史の大家であった網野善彦」が「無縁」という概念に到達したことを紹介。
「れいわ新選組」は、この無縁の原理を体現しており、山本太郎氏や私を含めた候補者は、無縁者の集まりであった。私は、これが、れいわ新選組の躍進の基本的な原動力であった、と考えている。
で、見事に締めくくられるのである。
れいわ新選組から重度の障害を持つ二人の候補者が当選したことは、先日あらためてクローズアップされたやまゆり園の事件に対する冷淡な反応などへの最大のカウンターとなった。
一部で熱狂的な支持を集めた山本の演説における主張の多くは、現状追認主義者に鼻で笑われるような理想論に聞こえるかもしれない。
しかし今回選挙で採用した戦術(特定枠という制度と自らの知名度を最大限利用することで組織力不足を補いつつ、知名度の低い舩後氏と木村氏を国会に送り込む)は、他のどの陣営よりも括弧付きの「政治」として徹底的にリアリズムに根ざした実効性のあるもの、即現実を変えられるものであり、そしてそのために利用された特定枠は合区で議席を失う自民党議員の救済のために作られた、近年稀に見るキングオブクソな制度であったということも特筆すべきだと思う。
天下布武を唱え、腹心であった飯島摂津守及び家臣団五人衆、すなわち中居弾正、木村内匠、稲垣五郎右衛門、香取金吾、草薙武蔵らの離反も、その強大な力により押し潰し、今や鳥を落とす勢いであった喜多川右府が、突如、京にて薨去されたとの噂が、日の本じゅうを駆け巡った。
ある者は流行病によるものと噂し、またある者は家臣による毒殺とも噂しあったが、果たしてその真相は、右府の生死も含めて杳として判らなかった。
マスメディアが十分に発達した現代とは違い、当時は、重大な事件は全て人々の口伝えに頼らざるをえない。戦国武将達は、不確かな状況の中で自らの去就を決めねばならず、その対応如何によって、ある家は栄え、ある家は滅びるといった悲喜劇が、絶えず繰り返されたのであった。
ところで、右府のもとには、二人の有力家臣がいた。木村内匠と滝沢左近である。
木村内匠については、飯島の乱において仲間の謀議を主君へ密告した功により取り立てられ、右府からの覚えもめでたく、非常に権勢を振るったことは、既に述べた。(https://anond.hatelabo.jp/20160119162624)
もう一人の重臣、滝沢左近は、元は一介の素浪人であったが、右府に仕官すると俄に頭角を現し、今や右府の最側近として大いに活躍していた。
さて、両者ともに、この悲報に接したのは、京から遠く離れた土地であった。
その時、木村内匠は、右府の命を受けて城攻めを行っていた。梅雨空の下、城の周囲に幾重にも堤を築き上げ、増水した川の水を中へ流し込む「水攻め」を行うこと約1ヶ月、もはや天守は湖の中の孤島と化していた。
「ってゆーかさぁ、もうそろそろ落ちるんじゃね?」
そんなある晩のこと、勝ち戦への楽観が広がりつつあった木村陣営に、突如、右府逝去の激震が走った。京からも離れていたため情報が錯綜し、いつしか町奉行である東山越前守により弑逆されたとの誤報にすり替わっていたのだった。
突然の悲報に接し、大声を上げて悲嘆する木村内匠に、その妻、静御前は冷徹な言葉を投げかけた。
「殿さま!今すぐ京へ引き返して、逆賊、越前守を討ち滅ぼし、御館様の無念を晴らすのです!」
「よく言うた。それでこそ我が妻よ!」
木村は電撃を受けたように飛び上がると、すぐさま敵方と講和を取りまとめ、全軍を京へ向けて引き返し始めた。
一方、滝沢左近は、遠く関東にてこの悲報に接した。ただし、右府の側近中の側近であったことが幸いし、在京の東山越前守から直接、正確な情報を書簡で受け取ることとなった。滝沢左近は、俄に活発化した敵勢と対峙しつつも、手堅く京へ軍勢を引き返した。
実際のところ、この時点では右府はまだ逝去してはいなかったが、今で言うところのクモ膜下出血により、ほぼ危篤状態であったらしいので、死へ向かいつつあったというのが真相であろう。だが、意識を失う直前、右府は「余の影武者を立てて、死を三年間、隠すように」との遺言を、側近の東山越前守へ伝えていたため、先のような虚実入り混じった噂話を生む結果となってしまったのだった。こうして、両者が接した情報の確度の違いが、やがて両家の命運を全く違うものにしてゆく。
まずは木村内匠であるが、弔い合戦のつもりで軍勢を摂津と山城の国境、山崎まで進めたところで、東山越前守の軍勢と対峙することとなった。
「やれ、賊軍ども、なにゆえ京へ攻め上った!御館様に楯突くものは、尽く成敗してくれる!」
木村内匠、答えて曰く、
「傍ら痛いわっ!お前こそ、御館様の亡き後、政を私しようとする賊軍であろう!」
「何をたわけたことを!ここに、御館様はおわすぞっ!」
銅鑼の合図とともに東山軍が左右に割れると、その間から見覚えのある輿が進み出てきた。そう、それは右府の豪奢な輿であった。
「やばっ!御館様!」
突然の状況に、木村軍は戦わずして敗走を始めた。更に間が悪いことに、関東より引き上げてきた滝沢軍が退路を断つ形になり、木村軍は徹底的に殲滅されることとなった。
ちなみに、東山越前守の機転によって引き出された輿であったが、その中には、既に意識のない主人が乗っていようとは、木村内匠は知る由もなかった。
こして敗退した木村内匠は、ひとり戦場より落ち延びると、ある禅寺でひっそりと出家して生き延びたという。一時は、かつて裏切った自分の主君であり、既に出家して名を改めていた飯島摂津守の元に、弟子として身を寄せていた時期もあったようであり、何とも皮肉な人生である。
でっかいショッピングモールに入ってるジムに行く。サンドバッグ叩いといてー。って言われた。異常に高い位置にあるサンドバッグを叩いてると、トレーナーの人に君は無理かもしれない。。。って言われた。どうやらラグビー専門の事務らしい。ラグビーをするには横にも縦にも小さすぎるとのことだ。そのジムのオーナーの外人で身長190近い女は俺をバカにしながら他のスタッフに、あいつ店に入ってきた瞬間おどおどして財布だして、くそだせえw と言ってきた。僕は心が折れて、もういいです。と言って店を後にした。ショッピングモールは暗かった。前にインド人ぼ老婆が歩いてた。インド人の老婆は俺を警戒してた。たまたま行く方向が同じなだけなのに不審者扱い。とうとう走り出して逃げて行ったので俺も走って追いかけた。階段を上ると地下鉄のホームだった。茨木行のホームでたまたまそこにいた女二人に「久しぶり!」って言ってナンパしたらなぜか向こうがおー久しぶりって言って俺の名前を言った。何で知ってるんだろうと怖くなった。そのまま二人と話しながら階段を上っていくと公園に出た。桜が咲いていて観光客もいっぱいいた。青い服を着た男30人のヤンキー集団が白い服を着た男30人のヤンキー集団と対峙してた。これから集団で喧嘩するようだ。その集団の横にはだんじりが置いてあった。喧嘩がはじまりお互いのチームが突っ込むとすんでのところで身を引いたりしてびびってた。結局殴り合うことはなくスクラムくんで押し合いしてた。くだらねえ。その様子を撮影してた野球少年の木村と一緒に見てた。木村は手にタトゥーがいっぱい入ってた。ミズノのタトゥーも入ってた。木村もヤンキーになってしまったのかな。喧嘩を見てるとその集団に押されて後ろにいた赤ちゃんの上に乗っかるような形で転んだ。赤ちゃんは泣いてめっちゃデブの赤ちゃんの母さんとチビのお父さんが俺と木村を睨みつけ、俺は怒られたくなかったから赤ちゃん大丈夫かなと心配してる様子を親に見せつけた。木村はなにもしなかったので、木村だけ怒られた。赤ちゃんは心配した俺になついた。めっちゃ謝ってたら彼女が俺の手を握ってくれた。やっぱりこいつは味方してくれるんやな。嬉しかった。その後解放された俺と彼女はまた地下のショッピングモールの階段を下って行った。俺は彼女の前ではかっこつけたいので、ショッピングモール楽しも!!と明るく振舞った。
「次は吉崎と木村だ!」ってなりそう。
もともとただの下請けにすぎないヤオヨロズが勝手にIPで商売し始めるって契約違反を犯したので問答無用で継続破棄になって
別の下請けに流しただけという話だろこんなの
契約に反したまま謝罪も何もしないままだったから関連会社の社員もブチ切れるよ
そもそもヤクザの話をすればヤオヨロズの親会社ジャストプロなんてバリバリの反社関わってるわけで
降板当時はヤオヨロズが自分の子飼いの声優を無理やりに押し込んでコンテンツを独占しようとしたので
本来の著作権者である吉崎とカドカワから難色を示されたから契約破棄になったともっぱらの噂だった
ただ売れなさそうな案件を好き勝手にやったら勝手に受けてしまったってだけで
この件に関して細谷氏含めて2の関係者が批判される要素はなにもない
人間が動物に迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります。
たしかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作の意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長のワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者に特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃんが人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメの物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。
俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者、イエイヌを追い詰めサーバルに撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマを普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者は初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNSに悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事がホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思います。ネットの考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。
俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています。けもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコしながら見ていました。確かに、ドラマとして登場人物の紆余曲折が一つのテーマに収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。
何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン
一話の最後でスケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思います。ホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます。
キュルルちゃんの立場から見て、イエイヌの価値観を尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇のトリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的な理由はないでしょう。
強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫があります。フレンズ型セルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。
けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放を宣言しています。けもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画風演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じます。しかし確かにセルリアンとの戦闘はけもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています。戦闘はけもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘はテンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思います。ホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります。
最終話の評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。
セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います。監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしかに結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任が制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?
キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程が曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。
けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアルな世界観でフレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうが、スッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思います。ケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。
ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばんちゃんの成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズが生存の理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマはどうでしょう。ケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんとサーバル・カラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善の余地は合ったかもしれませんね。
いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語の意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要なときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。
ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別に、マーケティングのミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。
絵柄が大きく変わっていることは初見でわかります。SNSで憤慨しているファンも監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファンが必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じものを要求した、そのように見ています。けもフレ2も最初からギスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態やジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。
(付録)
ギスギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。
面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。
別の場所のコメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレー・ハヤシライス・ビーフシチュー」くらいの印象です。
広い意味で調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまいます。
けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカやアシカにショーをさせ、イエイヌを人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります。
けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思います。イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。木村監督は仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉は謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが、騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的なエンタメの方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。
野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格の自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方のレベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。
ミドリがケムリクサ自体を回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。
いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います。考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイントに伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチな雰囲気に見えてしまいますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察しています。しかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています。
「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ、咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督のけもフレ1以後の作品の凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます。
ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾や意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなります。けもフレ2は、そういう作品ではないので、
これには異を唱えておきます。けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスをラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話で唐突にボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばんちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスのハンドルディスプレイにウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチはボスの形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督のお家芸だったはずですが、継いだ最初の仕事で再現できる手腕には舌を巻きます。
このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい。貴方ほどのレベルの視聴者にこの作品がメルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのときに制作はプライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。
あのシーン(引用者注・けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズ化セルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラの基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレ1ファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。
先に言っておくと、100%邪推。
けものフレンズ2に悪意があったかどうかという話をする前に確認が必要な3点がある。
1つは「誰の悪意か」もう1つは「誰に対する悪意か」そして最後に「悪意とはそもそも何なのか」だ。
順を追って考察していく。
まず「誰の」。
これはもっともわかりづらい。情報が少なすぎるからだ。内部の、それもかなり上流の意思決定を観測できる立場の人間でないと、これを多少なりとも正しく認識することは不可能だろう。
だが、一般論としてプロジェクトそのものに対して作家性を出せるほど最上流に近い立場がどこなのかはわかる。監督、プロデューサー、原作者、出資者だ。これは大雑把には後になるほど上流にいる、と考えて差し支えない。
じゃあ後の方が…と考えるのはまだ早い。上流に行けば行くほどプロジェクト全体の舵取りができる立場になるのは事実だが、それは個々の部分に手を出すことができないほど図体がでかい、という意味でもあるからだ。原作者にある権利は全てを無に帰すボタンを持っているというだけ、と平野耕太も言っている。
次に「誰に」
これは悪意の存在そのものを否定するのでもなければ論を待たず、「アニメ一期」だろう。ここに「一期のファン」を含める向きもないではないが、流石にそれは被害妄想、というよりは加害者存在妄想と言っていい。そこまでを悪意の射程に収める意味がない、というか入れなくてもそれくらいの被害は出せるからだ。
その上で、考慮に入れなければならないのは一期のさらに前…すなわちNEXON時代のけものフレンズだろう。言うまでもないがNEXONアプリのけものフレンズはなんだかんだであまり成功とは言えず、無料化からのサービス終了という結果になった。この経緯の悪あがき感、そして終了後に放送されるアニメというのを見ても関係者のデターミネイションはかなり強かったと言えるだろう。最初に立ち上げた時点での絵図自体がかなり大きかったというだけなのかもしれないが、だとしてもそれは原因であって否定要素にはならない。
ここで最後っ屁として出てきたアニメ一期が、まったく予想もしない形でとんでもないブレイクを起こした。この誤算はできれば立て直したい(夢物語)であろうプロジェクトにとっての嬉しい誤算かと思いきや、それを主軸にプロジェクト自体を立て直そうとしたら主軸にできなかった、という最悪の誤算が重なる。このたつきヤオヨロズ降板騒動に関しては詳細が全く不明瞭なので言及を避けるが、結果としてユーザーのほとんどの求心力を一手に引き受けるアニメ一期は外様に置かざるを得なくなってしまった。「悪意の矛先」はこのようにして発生した。
そしで最後、「悪意とは何か」
前段の締めで違和感を感じた人もいるだろう。ここでいう「悪意」というのは、「憎悪」「害意」よりはむしろ「恣意」に近い。法律用語の「悪意」であればさらに近いだろう。もちろん法的な話ではないのだが。
すなわち、「座組の上でけものフレンズのアニメ1期を埋葬する必要があった」これがプロジェクトの最上流においてなされた「悪意」の正体だと私は睨んでいる。この必要性の根拠は単純に言って、たつきの代わりは誰にもできないというただそれだけの話だ。たつきを外した穴を埋められるアニメ1期のようなものは(探したのかもしれないが)無かったので、別のもので蓋をしなければならなかったのである。
が、にもかかわらず「サーバルはプロジェクトのシンボルなので絶対に主役で出せ」「一期で得られたメリットは引き継げ」というおそらくは出資者レベルからの要望を取り入れざるを得なかったのだろう。特にサーバルに関する要求は確実にあったと断言できる。その結果として埋葬は生き埋めのリアルタイム実況中継となり、悪意は憎悪に化けた(ように見えた)のである。
そう見えたのはおそらく視聴者だけではない。末端の現場スタッフもそうだったのではないだろうか。セルリアンが絵から現れる実験をした時にハカセのセリフ(としか思えない口調)をかばんちゃんが言っていた、という事案があったが、これは収録が別録りになった時など、間をはかるためにその場にいる人が代わりに台詞を言うなどの手法をとることがあり、その際に発生した音声素材ではないかという説がある。これが実放送レベルで出てくるというのは、相当チェックがザルであったことがうかがわれる。つまりそのくらい現場のモチベーションは低かったのだろう。これを上流視点で見ると、「誰も言うことを聞かない」という表現になる。現場の混乱を理由に挙げる人もいるが、その現場の混乱の理由としては無理なスケジュールよりもこちらの方が大きかったのではないだろうか(というか、厳しいスケジュールが無理なスケジュールになった原因と呼ぶべきか)。
まとめると、けものフレンズ2で起きていたことの背景は「けものフレンズという企画の中核を巡るお家騒動」ということになる。あくまでもここで争っている主体はコンセプトであって、人が、つまり吉崎・たつき・木村・細谷がお家騒動をしていたわけではない。人間がそれをやっていたのはたつき降板以前の段階で、今話しているのはその後の話だからだ。悪意説と悪意否定説が入り乱れている理由も半分はここにあるだろう。「悪意」と呼ぶかどうかが怪しいラインなのだ。私はこれを「悪意」と呼ぶにふさわしいと思うが、そうではない人も多い。
なんていうか、イエイヌ回から最終話まで出てしまったから、どんどんと擁護の立場を守るための擁護になっていってるんだよな
・作品に悪意はない
悪意があった場合、まだしも製作者にテーマに沿った作品を仕上げる能力はあったことになるが
悪意をなくしてしまうと、一貫性のなさや、矛盾点など、ただの無能ってことになる
確かに、最終回までの演出から、無理やりテーマのようなものを導こうと思ったら、そうなる
だが待ってほしい、制作陣はこう言っているのだ
・基本的に、前のシリーズで自分が面白いと思ったところは全部残すようにしています
・普段アニメを見ない人が見ても面白と思えるような作品にしたいと、常に意識して作っています。
・僕自身、前のシリーズにリスペクトを捧げて作っていますので、「けものフレンズ」が好きだった人は面白いと感じてくれると思っています。
・いいところは引き継いでやっていますので、安心して見ていただけたら嬉しいです。
・日常を見ることで現代人が忘れてしまった優しさや純粋さ、どこか懐かしくほっこりするような思いを共有できたらと思います。
・そして、子供たちにも「けものフレンズ」を通して、動物に興味を持っていただき、幅広い方々に動物園に足を運んでもらえたら幸いです。
なんていうかさ、いわゆる「真フレ」と呼ばれる層がなんとか作品としての粗を誤魔化しつつ、自身の論を守ろうと喋るたびに、どんどんと制作陣をけなしているという
ある意味、アンチより酷い様相を呈してきているのだが、これじゃ木村監督も擁護者をブロックするはずだよ
制作陣に何があったか知らんけど、作品がクソであることはキチンと認めた上で、クソにならざるを得なかった干渉があったのだという方向で擁護しないと
何を守ってるんだかわからない感じになってきてるぞ