はてなキーワード: 徹夜とは
変更前
9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。おれは孤独だった。
そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。
1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。
2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。はじめての出向も経験した。それまでは市単位の活動だったが、県内各地の青年会議所と一緒に委員会を作って活動するのだ。遠方まで出かけ、はじめて行く町で真面目に会議をし、そのあと楽しく飲んで仲良くなった。自分自身が拡張されるようで、嬉しくなった。
3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。隣県で開催されるフォーラム、京都での会議、横浜でのカンファレンスなどに参加した。たまに動員に協力させられる憲法や領土問題などのセミナーや、いろんな署名活動のお願いなども、積極的とは言えなかったが協力した。
5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。全国あちこちで開催される会議に毎回参加した。横断幕バナーを持つためだけにヨーロッパにも行った。会社は何とか軌道に乗っていたし、自分の勉強にもなると説得されて役目を承諾した。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。
6年目。ブロック (都道府県レベルの組織) の役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。
7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。なにしろ、国民的な憲法議論を喚起するという大切な事業を遂行するのだ。何度も壁にぶつかったが、委員長や常任理事のアドバイスもあって乗り越えた。素晴らしい先輩達に恵まれたと感じ、あの人達のようになりたいと思った。
8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。
こいつは何を言ってるんだ。
バカなのか?
おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。
少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?
そしてすうっと冷静になり目が覚めた。
おれは友達が欲しかった。それと、しぶしぶ継いだ会社だったが、なんとか頑張ろうと思って、その役に立つと思って勉強しようと思った。そんな中、せっかく誘われたことだし、青年会議所がどんなものか分からないけどやれるだけやってみようと思って、やってくる機会にチャレンジしていた。そしたらいつの間にか、おれは青年会議所が命じたままに憲法改正や領土領海問題を他人に説き、偉い偉い役員様が海外でスピーチする時のガラガラの席を埋めるためだけに自腹でニューヨークやオランダに行く人間になっていた。そして家族と会社が不幸になっていた。
それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。
青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。ごめん。病院のベッドに横たわる母に謝ると、彼女はテレビから目を離さずにこう言った。
変更後
Facebookメッセンジャーで脅されたので、全文晒して真っ向勝負しようかと思いましたが、戦っても1円にもならないので削除します。コメくれた人、読んでくれた人、すいません。
偉大なる元増田様
https://anond.hatelabo.jp/20180306002045(削除済)
https://megalodon.jp/2018-0306-0620-50/https://anond.hatelabo.jp:443/20180306002045
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9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。おれは孤独だった。
そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。
1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。
2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。はじめての出向も経験した。それまでは市単位の活動だったが、県内各地の青年会議所と一緒に委員会を作って活動するのだ。遠方まで出かけ、はじめて行く町で真面目に会議をし、そのあと楽しく飲んで仲良くなった。自分自身が拡張されるようで、嬉しくなった。
3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。隣県で開催されるフォーラム、京都での会議、横浜でのカンファレンスなどに参加した。たまに動員に協力させられる憲法や領土問題などのセミナーや、いろんな署名活動のお願いなども、積極的とは言えなかったが協力した。
5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。全国あちこちで開催される会議に毎回参加した。横断幕バナーを持つためだけにヨーロッパにも行った。会社は何とか軌道に乗っていたし、自分の勉強にもなると説得されて役目を承諾した。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。
6年目。ブロック (都道府県レベルの組織) の役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。
7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。なにしろ、国民的な憲法議論を喚起するという大切な事業を遂行するのだ。何度も壁にぶつかったが、委員長や常任理事のアドバイスもあって乗り越えた。素晴らしい先輩達に恵まれたと感じ、あの人達のようになりたいと思った。
8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。
こいつは何を言ってるんだ。
バカなのか?
おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。
少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?
そしてすうっと冷静になり目が覚めた。
おれは友達が欲しかった。それと、しぶしぶ継いだ会社だったが、なんとか頑張ろうと思って、その役に立つと思って勉強しようと思った。そんな中、せっかく誘われたことだし、青年会議所がどんなものか分からないけどやれるだけやってみようと思って、やってくる機会にチャレンジしていた。そしたらいつの間にか、おれは青年会議所が命じたままに憲法改正や領土領海問題を他人に説き、偉い偉い役員様が海外でスピーチする時のガラガラの席を埋めるためだけに自腹でニューヨークやオランダに行く人間になっていた。そして家族と会社が不幸になっていた。
それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。
青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。ごめん。病院のベッドに横たわる母に謝ると、彼女はテレビから目を離さずにこう言った。
突然だが私は面倒くさがりだ。
その代わりに、しこたま寝る。
水はたくさん飲む。
寝ている間はおなかが空かない。
性欲は、睡眠欲と食欲が満たされないと湧かないので、もう無視。
はっきり言って性欲は、栄養不足と睡眠不足が重なると消えるので、そんなに重要じゃない気がする。
三大欲求とは、もちろん
食欲
睡眠欲
性欲
のことだ。
排泄欲を入れて四大欲求にしてもいい。
この中で一番強いのは、個人的には
「睡眠欲」だと思う。
砂漠など特殊な環境にいたら、食欲というか水分補給欲の方が生死に関わるかもしれないが、一応は日本で生活していることを前提にする。
不足したら一番、健康に害があるのは、性欲や食欲よりも、睡眠欲だと思う。
排泄欲も拮抗しそうだが、おねしょという現象があることを考えれば、排泄欲はいつか終わると思う。
性欲は子孫残すのには必要だが、個体が生きるにはさほど重要じゃない。
無ければ死ぬということにはならない。
体の限界がきたら、
少し食べて
遊ぶ
という感じにしたい。
ただ、一日一食は、体によくなさそうな上に、栄養が足りないので貧血になる。
歯磨きの必要がなくなれば、楽なのに。
食事が面倒くさい。
みんなは、三大欲求の、どれが一番大切なんだろう。
三大になっているのは日本だけだったとさっき知りました。
それにしても、なんとなくむかし誰からか聞いて
食欲、性欲、睡眠欲だと思っていましたが
誰が言い出した話なのか、訊かれてみると知らない。
一体、誰が?
詳しく調べたら、色んなところで欲求の定義の話はされているようで
掘り下げると、哲学とか宗教とか医学など、いろいろ関わってくるみたいですね。
ざっくりと私は、自分が重い不眠症で、死ぬほど苦しんだ経験から
「生きていくにはまず寝れないとつらいよなー」
ぐらいしか考えていなかったので、奥が深いです。
やなせたかし氏は、自身の戦争体験で、食糧不足にひどく悩まされてから
「飢えは何よりもつらい」と考えて、アンパンマンを描き始めたと、どこかで聞いたことがあるので、経験則にもかなり欲求は左右されそうですね。
91年生まれと言うとゆとり教育の影響を色濃く受けた世代らしい。
テレビでは毎日のようにゆとり世代の出来が悪い、円周率は3!若者の〇〇離れ!とやっていた。
あまり頭の出来は良い方じゃない子供時代だったので、当然周りからはヤンヤヤンヤ言われた。
ムカついたので絶対に良い結果を出すと子供心ながらずっと思っていたし、今のままだと生きていけないかもしれない、っていう危機感は子供の頃からずっと持っていた。要領が悪かったってのもあるだろうが、子供の頃にあんまり遊んだ記憶が無い。
その後一浪こそしたがそれなりに難しいレベルの大学に入り、大学院まで進んだ。
幸いにも大学には真面目な人が比較的多く、毎日しっかり自分の専門を勉強できたように思う。
実習が多い学科だったからというのもあるが、座学中心の学校を出た人よりかは割といろいろ出来るだろうという自負はある。座学の理論をしっかり学んだかといえばまあ、若干怪しいところはあるが...
就活では自分の専門をしっかりと伝えて、それなりの規模の会社のある部署に、今年の4月に新卒としてはおよそ10年ぶりの人材ということで入れた。
ここまではまあ順調だった。
ところが会社に入っていろいろ雲行きが怪しくなってきた。
初対面のおじさんたちから「ゆとり世代だから」という決めつけから全てが始まるのだ。
もちろん「ゆとり世代」という言い回しは、おじさんも気にしているのか今の所聞いた覚えは無い。
ただだれも、今目の前にいる自分よりも若い人間を相手に会話をしてないのだ。
おじさんの頭の中にあるステレオタイプだったり、おじさんの若かりし頃に向けて会話しているのだ。
(あなたたちもやったでしょうって言われても、雀荘で徹マンとかやったこと無いぞ....徹夜で課題ならたくさんしたけど...自己紹介乙です〜って感じ。)
あなたは私の一体何を知っているんだ。
私が25,6年の人生をどう過ごしてきたかなぜ知った気になって語っているんだ。
何をあなたは知ってるんだ。
いつもそう思いながらも適当に相槌を打っていた。
まあおじさんの昔の苦労話を聞くぐらいだったらまだよかった。
が研修が終わって、自分の部署に赴任してからいろいろまずいことが起き始めた。
どんどん自分の考えたことを出してどんどん行動してくれ!と言われて入社したのでまあ自分の考えるようにやっていた。
大学で学んできたように、渡された仕事を効率的に進めていった。
ところがおじさんたちの表情は明らかに嫌がっていた。
新しいことを生み出すんじゃなくて、自分たちの思い出話の方に興味を持っているようだった。
かつての夢の焼き直しみたいなアイデアばっかり見せられた。
答えの無い問題にぶつかった時、それでも手を動かして試して考えてみるってことをおじさんたちは出来なかった。
答えの無い問題を考える能力に関してはゆとり世代のほうがあるように思う。
ただおじさんたちの嫌な顔を見る限りは若いのは黙ってろっていう空気をなんとなく感じてしまう。
まだ心が折れるような状況では無いけど、この先もこのままなのかと考えるとしんどい。
会社の偉い人たちが「どんどん行動してくれ」って言っていたのは、おじさんたちがこうだからなのかもしれない。
が、その会社の偉い人たちと話してても「わけえのは黙ってろ」っていう空気を出しているように感じた。
結局上の世代は私たちにステレオタイプ通りの「ゆとり世代」であって欲しかったんだろうな。
上の世代が逃げ切るまでの間のサンドバックとして存在して欲しかったのだろう。
自分で考えられない、積極性の無い、学の無い自分たちよりもさらに学の無い存在としての「ゆとり世代」であって欲しかったのだろう。
頑張ってもだめ、頑張らなくてもダメ、どうあがいてものけ者扱いされてきた。
いろんなことを我慢して生きるために専門性を身につけてきたはずなのに、なんだこれ。
「昔から若者はそう言われてきた」って言われても、「ゆとり教育を受けてきた」っていう根拠(笑)がおじさんたちの頭の中にある限り、私たちが適切な評価を受けること、適切なコミュニケーションが取れることは無いような気がしてならない。
私はもうダメかもしれない。
その時はてっきり仕事を裁量できると思っていたけれど、それに反して止まる事なく舞い込んでくる仕事
体力が人並みになくて限界が来ないようにこっそり仕事量を調節していたが、とうとうバレてしまい詰め込まれた
バレてしまったというのも、周りが徹夜している中で自分の仕事だけ終わらせて帰っただけだったのだけど…
役職の位が高くなるにつれて残業量が増えるので昇進なんて絶対したくないと思うような会社だったなあ
その当時に心身を壊して、まともな職に就けなくなった。
一番の原因は自分の未熟さにある。
何かと仕事で失敗ばかりしていた。不眠を訴えてみたが「でも2時間眠れているなら眠れているんやな」で終わった。
徹夜する日も多いことを言いだす勇気もなかった。職場の周囲の声が気になって会社のトイレに不自然に行くことも頻繁だった。
首を吊るとか飛び降りるとか自殺のことばかり考えだしていたが、自分の性格を改造したらいいのかもと自己改造の本なども買ってみたりした。
ある日、女性社員から呼び出しを受けた。会議室に行くとプロジェクトのメンバーが二十人以上並んでいる。
欠席したということらしい。そんな会議しらない。
上司から資料はどうしたと責められる。知らないというと「メールで知らせただろ。10分で作ってこい」と皆の前で怒鳴られる。
デスクに戻りあわてて10分で不完全な資料を作り会議室で配る。
でもその時メールをチェックすると会議も資料のメールもなかった。
どうやら連絡用のメーリングリストが作られていて自分が登録されていなかったということだ。
会議には参加してなかったが自分の机の隣にいる指導役の先輩に聞くと「ああ、そんなメールあったなあ」と答えが返ってきた。
そんなメーリングリストが作られていたことに気づかないほど自分のうつ病の症状が重かったのか元々まぬけなのかわからない。
ただ管理職なのに連絡網が機能してるか把握してないのもどうなのか?という反論する勇気もなかった。
そんな出来事が繰り返されたあげく上司に呼び出され「異動願いを書くように」と言われた。
異動願いの理由は上司の言う通りに文章を書いた。何を書いたのか自分でも記憶にない。
自分は技術職に向いてないと言われた。自分もそうだと思う。でも異動先も同じ職種だった。
上司は「〇〇の技術から逃れたと思ったらまた〇〇の仕事か、そんな殺生なあといった感じやな」と笑った。その時はさすがに殺意を覚えた。
最後の復職可の診断書を持って人事へ行ったが人事部長からは「君は適応障害だと思う」で復職を受け付けてもらえなかった。
うつ病と医者に診断されていたのだが、当時雅子様の「適応障害」という目新しい言葉が流行っていたから「人事部長の診断」だったのだろう。
再就職してもすぐ休んでしまい布団から出られなくなり退職を繰り返す。
精神障害者手帳を取りひきこもり無職の生活を続けるようになってしまった。
ドアノブで首を吊って生き残ってしまったこともある。自殺って自分の意志関係なく自動的に体が動くこともあるんだと初めて知った。
死ねるのならともかく後遺症が残らず良かった。自殺をほのめかす身内がいたらLANケーブルやひも類は隠しておくことをおすすめする。
同じ業種の大企業はつぶれたり粉飾決算したり台湾の会社の傘下になったり色々だが、自分がいた会社はその社長の元それなりに順調のようだ。
創業者のつけた漢字の会社名をカタカナというかアルファベットにしたのもあの人らしい。
大規模なリストラや工場をつぶすとか当然やってるがそれは他の会社も同じだ。
元上司は才能もあったしコミュニケーション能力も優れていたし親分肌だったしそれなりに出世するとは思っていたがあそこまでになるとはなあ。
すごい人だなあ。
うつ病がひどい時は殺してやりたいと思っていたがそんな勇気なんかあるはずがない。
ただ今でも悪夢には出てくるようで真夜中にうなされるたびに嫁に起こされている。
うつ病だろうとなんだろうと自分なりに地道に生きていくしかない。
未熟なら少しでも成長するように一歩一歩なんとかするしかない。
あの会社であの上司の下で働いていた経験に意味は何かあるのだろうが、今の自分にはまだわからない。
どんなことにも意味はあると思いたいがそれでも辛い経験だった。
長くなってすみません。
長文。
25のときにプロジェクトがおおこけしてから、課長にパワハラを受けながらのプロジェクトが続いた。終電、タクシー、徹夜を繰り返す毎日。若さと馬鹿さは紙一重。当時は身体など気にせず、心がおもむくまでの天才プログラミングが毎日続いているなどと勘違いしていた。
最終的にそのプロジェクトは、新卒がぶらぶら入ってきて、自分は「あいつらのほうがおまえよりも生産性高いし、まじでいままで何やってんだよ」と罵倒され続け、心がくじけてしまった。最終的には、どうでもいいテスター業務なんぞやらされ(実装屋としてはそのころからテスターは大っ嫌いな仕事)をやらされて、もう気持ちが参ってしまった。
その時まで、いろんな組み込みをしてきた。SCSIとか、USBとか、画像処理とか、JPEGとか、MPEGとか。会社で勉強して、組み込んで、間違えて、直して、テストして、OK/NG見て。心がNGラインの曲線を描きながら、父に殺せ、母に殺せ、と実家暮らしが災いした。死ななくてよかった。(そこから数か月工場に通ったが、朝が早すぎて体力的に持たなくなってしまった。同時にパワハラからのうつが、どんどんとひどくなり、結局持たなかった。(その後パワハラ上司は窓際に追いやられたらしい。)
会社を辞めてから、なぜかコピーライターになりたくなってしまった。そして実際に2つの会社を経験し、泣きながらやめることになる。
一つ目の会社は、有給がなかった。コピーライター養成講座に通いながらハローワークで見つけた求人で、「有給ないんですか」って言ったら「んなもんねーよ」と、確かに誰も文句ひとつ言わずに、有給なし、ボーナスはデザイナーのみ(デザイン事務所だったから)、うつは隠して働かないとで、結局、夜は全く帰れず病気が辛くなり辞めてしまった。
それからもう一社で働いたが、Macの起動音を聞くと辛くなるほど追い詰められ、結局退社。(それ以降、Macでどや顔している人たちにはちょっと嫌な気持ちを抱く)
さあ、じゃあ、自分は売り物があるんだ、結局プログラミングしかないじゃないか、とJava屋さんに転向。この時の身売りが結局今までを何とか結び付けた。
月の残業は20時間程度、終わった後の主な業務は飲み会っていう天国に(一回終電もあったけど、すげえ怒られた記憶もあったけど、一回土曜日出勤してピクニック気分で派遣さんがお弁当作ってきてくれたけど、ほんとにいい思い出しかねえ)。
3年ほどプログラマをしてから、ライターに転向したり、自分にとって屈辱的なテスターに転向したりなどしつつも、幸せな生活を保っていられたのが崩れたのは会社の上場。それによって何もかもぐちゃぐちゃになった。社内政治が生まれ、嫁をとった自分には再び苦しい現実が続き、「あの野郎、ぶっ殺してやる!」という罵声が飛び、結局従い、残る人は残る人、辞める人は辞める人といった選別が行われ、結局辞めざるを得なくなった自分は、何のあてもなく千切れる糸を眺めていた。
そのころ、地震があった。テレビから逃げられず、結局3か月休んだ。フラグは立ちまくった。
その後、何とか働かしてくれる取説の会社があった。まじめに働いててもそもそもの英語力のなさで各方面に迷惑をかけた。
迷惑をかけながら、結局自分は障碍者ではないのか、という疑念がわいた。それをあまり検証せず、もう現状の仕事を続けていくのは無理と感じた。
でも割と給料暮れるし、そこそこ幸せ。いつかは正社員か。などぼやきながら働いている。
落ちて行っているのか、どうなのか分からないけど、誰の参考にもならないけど、生きるって、こういうのもあるんだよっていうのを増田ってみました。
乱文失礼します。
男子フィギュアスケート日本代表選手の皆様、おめでとうございます。私も氷上の踊りを見るのは大好きなのです。心から祝福させて下さい。
でも私は世間に対してちょっと気に食わないことがあります。「羽生選手も宇野選手もゲームやアニメが好き」「宇野選手はガチゲーマー、携帯ゲームでは課金も」という報道です。どこか、まとめサイトかニュースサイトだったと思うのですが、はっきり覚えてなくてごめんなさい。
私は宇野選手が「ゲーマー」「ガチゲーマー」と読んで心が踊りました。私も生粋のゲーム好きでしたから。
しかし宇野選手が遊んでいるゲームとして挙げられたのは「ベイングローリー」「シャドウバース」「荒野行動」と言ったスマホゲーム。私はこれらを見てちょっと落胆してしまいました。その記事に「携帯ゲーム『では』」と書いてあっただけにスマホゲームしか紹介されていなかったのもえ〜っ…てなります。
まず「ベイングローリー」はMOBAと呼ばれるジャンルの戦略シミュレーションゲームアプリで、競技性の高さが人気のいいゲームなのですがスマートフォン向けということで少しだけカジュアルな作りになっています。というのも元々MOBAはパソコン発のジャンルであり、基本的に画面の小さなスマホでパソコンゲームのフォロワータイトルを開発しようにも少しずつ要素をオミットすることが必要なのです。実際ベイングローリーは人気PCゲーム「LOL」「DOTA2」に似ている面もあり、どうせ「ガチ」ならPCゲームを挙げて欲しかったです。ベイングローリーは確かに良いゲームですが、スマートフォン向けのゲームで「ガチ」などとまるでコアゲーマーであるかのように報道されるのには疑問符が付きます。まあ「もっと本格的なゲームが、素晴らしいものがあるから注目してほしい」という感情的なものからでた言葉に過ぎませんが。
また「荒野行動」。これは2017年に空前絶後の大ヒットを記録したPC/TVゲーム「PUBG」のフォロワーです。「PUBG」は「100人で撃ち合い、残った一人が優勝」という、ゲームとしては本当に面白いルールの銃撃戦ゲームなのですが、中国のスマホアプリ「荒野行動」はこれをパクったものです。ゲーム性はもちろんのことグラフィックやインターフェースまで酷似している完璧な丸パクリゲームなのですが、スマホゲーマーには馴染みの薄い銃撃戦ゲームということ、スペックの低い端末でも動作するということ、そもそもスマホゲームプレイヤーはPCゲームなど知らないということなどが重なりこちらも日本で大ヒット。「荒野行動」は今一番流行っているアプリの1つなのではないでしょうか。
私も「荒野行動」を遊んでみたのですが、やはり「PUBG」のパクリだけあって面白いです。
ただPUBGは実写映画顔負けのグラフィックだったのに対して荒野行動はハリボテ感満載の「これ10年は前のゲームだよね…」という…
またスマホゲームということで指で画面が隠れて没入感や競技性、操作性は低くなっているし、やはり「荒野行動」は「本格!ガチ!」と騒がれるのは違うかな…と思いました。それに中国の十八番、パクリですよ。なのに擁護する日本人が多くいるのは驚きです。中国版ドラえもんなどは叩くのに、「荒野行動」は自分がやっているから叩かないのですね。都合が良すぎる。
いや、確かに宇野選手はゲーマーです。全然良いんですよ。ゲームを遊ばない方やスマホゲームしかしない方もたくさんいらっしゃるのは承知です。
ただスマホの(簡易的な)ゲームを遊んでいて硬派だ本格だ言われると、私の思う「本当のゲーム」、また「本当のゲームファン」が蔑ろにされている気がしてなりません。「ゲームといえばアプリ!」な時代になってきているのも分かります。アプリゲームもとても楽しいです。ただ、もっと素晴らしく、もっと文化的で、もっとたのしい、PCゲームを知ってほしい。「ニーアオートマタ」を知ってほしい。「風ノ旅ビト」を知ってほしい。「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」を知ってほしい。
他の記事には負けず嫌い・ゲーム好きの象徴としてか「大乱闘スマッシュブラザーズ」や「モンスターハンター」関連のお話も載っていました。知らない人向けの記事っぽかったのですが、これらは100万本以上を売り上げる、かなりメジャーな、小学生も遊ぶようなゲームです。
ツイッター民「フィギュアスケート選手がモンハン好きのゲーマー!オタク歓喜だろ!」
いや…そうなのか?もし仮にあなたが「モンハン」「スマブラ」をやっているだけでドヤ顔して「ゲームオタク」を名乗るのであれば、今すぐにでも飛んでいって様々なゲームを買ってあげたいです。
もう1つ。宇野選手の「課金は強くなるための手段」と言う発言が話題になり、私含めスマホゲーム課金者はちょっと嬉しい気分になっていますね。ただそこには何があるのか?「携帯ゲームには課金も」とあたかも携帯ゲームに課金するのが特殊であるかのような見出しもありました。
アプリストアやSNSへの書き込みを見ていると「たかがゲームに1000円も払うか!w」「課金してないから○千円のアプリは高いよ、無料にして…」という意見が驚くほど多くあります。これはゲームを遊ぶ立場として、たとえ無課金だとしても書き込むべきことなのでしょうか?ましてや、開発者の目にも触れるであろうアプリストアレビュー欄に。
娯楽を享受するには基本的に生産者がいます。テレビやウェブサイトではそれを広告の形で、遊園地ならば入園料の形で、無料ゲームならば課金の形で。
ゲームというものは開発者が汗水垂らして徹夜で限られた時間とお金のなかプランニングし、プログラムを書き、音楽を作り、絵やアニメを描き、3Dグラフィックを作り、インターフェースを調整し、デバッグし、プロモーションし、…
たとえスマホゲームであれ開発者たちの魂がこもった作品であることは確かなのです。そしてそれを娯楽としてプレイヤーが享受しています。
それに対して「課金!?」と言うような書き方はアレやなあと思いました。
…また、正直「たかがゲーム」「無料にしてくれ」などは無礼極まりないと思います。
宇野選手の発言はある意味正しいです。そしてそれが我々課金者を盛り上げてくれています。ただの楽しい話です。
ただそれによってこれまでスマホゲームユーザーの多くが貫いてきた課金はしないという姿勢は少し目立ったと思ったのです。そのような考えの人には、ちょっと考えを改めてほしい。
無課金でもいい、楽しんでいるならいい。でもみんなを楽しませようと思って作ったものを「たかがゲーム」「無料にしろ」はやめてくれ。
この気持ち悪いオタクを装って書いた文章が何かの手違いで人に読まれ、フィギュアスケート選手やゲーム及びゲームファンのイメージダウンに繋がりませんように。
働いたことがないのか?
男性と同じに責任を負って働き、大きなプロジェクトを完遂するには
私は今まではジェンダーに逃げず、第一線で仕事することをポリシーとしてきた。
そんな自分がこんなことになって考え方が変わることになって、
世の中のジェンダーの話題がなんとなく、ああそうなんだなあと感じるようになった。
自分でも少し残念さを感じてるところもある。
それは徹夜続き勤務というあなたの勤務形態が問題だったんじゃない?
別に普通に妊娠しても無理せずに働けている人はいるのに、今の日本で全員が専業主婦になったら社会にとっても家計にとっても困るでしょ
とりあえずn=1で決めつけるのはやめなよ
妊婦になってわかったが、
妊婦になる前は休日出勤、徹夜勤務上等でやっていても、妊娠したら無理。
私は徹夜明けの日、急に出血して救急車で運ばれ入院することになった。
病院で仕事しようとしたら、1ヶ月は様子見でベッドから起き上がることも許されない。。
てーか、会社に急な迷惑かけるリスクもないし外に行って働きなよ。
自分が妊娠してこんな風になって、リスクと体調不良大量に抱えたら
女は妊娠する予定がある場合は専業主婦が合理的な判断だって思った。
迷惑をかける範囲が限定できるという意味で専業主婦いいじゃない。
そろそろ締めようと思うけど
もし夫が専業主夫だったら産むまでの約一年、どうやって暮らしていくんだろ。
私も男性が専業主夫でも良い派だったので夫はまだポスドクやってる。。
こういうわけで、今は専業主夫には賛成出来なくなったわ。
とても細やかな文章ありがとうございます!
> 「二徹でも三徹でもして」ってのは別段徹夜をしろとかそういう意味じゃなくて、スタートアップにフルコミットする覚悟とか決意みたいなものを指してるんだと思うよ。
どちらかというと、決意を試すって話なだけなのかもしれないですね。
労働とか仕事っていう言葉は多義的で、日常で使う場合「上司(なりマネージャなりワークフローを設計したサイド)に割り当てられた作業をこなす」っていう意味が多いでしょ。
そういう理解をした場合、スタートアップってのは労働でも仕事でもないんだよ。もっと全方面的な総合戦であって「振られた仕事を順次こなす」じゃたどり着けない領域にある。だから上記理解(労働=指定作業の実行)の延長線上でやると失敗する。
もちろん、世間で言うスタートアップに上記の労働的発想で挑んで成功する(したつもりになる)人間ってのは存在する。スタートアップ企業に参加してサーバいじってプログラム書きました、みたいな。でもその人は、「労働的な意味でスタートアップした企業にある時期参加した」だけであって、「スタートアップの非労働的な側面」に参加したわけじゃない。
時代は変わるので、たとえば「余暇で作ったスマホアプリがおもったより受けたんで200万円で企業に売りました」みたいな事例も、スタートアップと言えば言えるのかもしれんけれど、先人がスタートアップっていう言葉を無前提で使う場合には、やはり銀行やら投資家からの借金やチームの生活の面倒みたいな範囲も想定に入れて使う言葉なんじゃないかな。そういう規模のチームを運営する場合参加者全員が作業下請け的労働者じゃ、やっぱり困るわけだ。誰かが「作業以外の全部」をやらなきゃならない。
その「非労働的側面」をリーダーシップとか表現しても悪くはないんだけど、これまた語感の問題があって、そう表現するとおそらく今までに存在したスタートアップのいろんな教訓を取りこぼす。「二徹でも三徹でもして」ってのは別段徹夜をしろとかそういう意味じゃなくて、スタートアップにフルコミットする覚悟とか決意みたいなものを指してるんだと思うよ。それはやはり、必要なんだよ。
もちろん、いろんなスタートアップをあちこちフラフラしたり、二股かけたりして、運良くその「覚悟」がある勇者がリーダーやってるプロジェクトに乗っかり、「これでオレもスタートアップの経験積みました!」とはいえるんだけど、それを「スタートアップにコミット」っていうのもおそらく違うんじゃねえかな、ってのが感想。
おっすオラアラサー。
前半までは「徹夜出来るとか普通じゃね?ゆーてワシ大学の頃徹マンしてから講義6時間ぶっ通しで聞いてたけど、英語の授業と昼休みだけその後普通に家帰って徹夜でレポート書けてたで?」とか考えてたんですよ。
でもね。
28ぐらいから急にキツくなってきた。
目の当たりなんかボヤーっとして一日中吊り目になるし、タイプミス増えるしでさんざん。
そんで30になっていよいよ無理になった。
土日に寝溜めするのも無理になった。
それを考えると若いやつって強いわ。
年取ると1月に1人が出来る作業は1人月に決まってるだろバカヤローせいぜい1.4ぐらいまでが限度じゃボケェって仕事の仕方しか出来ない。
中高年の転職が厳しいのも納得だよ。
やたら計算が早くて算数が得意な奴、誰よりも漢字を知っている奴、国と首都を全部言える奴、作文を書くのがとてつもなく上手い奴、喋るのが得意で説得力が物凄い奴、とにかくいろんな子がいた。勉学において突出した何かを持っている子が、私の友達には多くいた。
かく言う私もどちらかといえばそちら側で、特別な何かがあったわけではないが勉強だけはできた。一応。この広いネットの海からすれば井の中の蛙でしかないけれども。
グレたといっても夜露死苦とか書いた短ランを着るようなアレではなくて、教師に反抗したり徹夜でゲームしたり、その程度。
その結果(一概に100%そのせいと言い切るのも危険だけれど)、学年でもトップクラスの学力と能力を誇った彼らは、高校受験の際にいわゆる地区トップ校には行けなかった。では誰がトップ校に行ったのか。
答えは「優等生」だ。
優等生がトップ校に行くこと自体は何も不自然なことではない。問題なのは、幼少期から突出した能力を持っていた子達(変人とも言う)が軒並み途中でドロップアウトしていったことだ。
実はこれ、学年が上がるごとに変人の成績が下がって優等生の成績が上がっているのだ。少なくとも私の観測範囲では。
これは私の体験談だが、「終わった人から帰っていいよ」タイプの課題が出た際にとにかく早く帰りたくて全力でそれを終わらせて一番に提出した。すると教師は、早すぎる、本当にちゃんとやったのか、と怒った。ちょっと理不尽すぎて書いてて腹が立ってきた。
他にも、演習問題が終わったからと宿題の範囲をやっていたら宿題は家でやるものだと怒られたりもした。一理あるが、ならば演習が終わったらただ黒板を見つめていろとでも言うのだろうか。
……私が怒られすぎなだけな気もしてきたがまあいい、続ける。
こんな感じで、特に小学生時代は「周りと足並みを揃えること」を強要された訳だ。
他の子と違うことをしてはいけない。他の子と同じことをしなければならない。他の子より早く終わってはいけない。他の子より上手く出来てはいけない。最早これは呪詛だ。今でも私から離れない強迫観念。
特に私が小学生の時はまだゆとり教育の時代だったから、競うことは良しとされていなかった。みんな同じが平和だとされていた。みんな同じでなければ平和でない、と言い換えてもいい。
そういった価値観だったから、出る杭は打たれた。突出した能力がある子達は皆そうだった。彼らは頭がよく切れたが、それも教師の癇に障ったのかもしれない。出る杭たちは打たれて打たれて、その多くは折られてしまった。周りに好かれることが得意な優等生たちは折られずに済んだ。その結果が前述した「変人がドロップアウトし優等生がトップ校に行った」ということだ。
私自身も当時は出る杭だった。例に漏れずドロップアウトした。教師や同級生からの同調圧力に耐えられなかった。今でも出る杭になるのが怖くて何も出来ずにいる。
あのまま伸びていたらとんでもなく凄い奴になっていただろうなという子もいた。本当に勿体無い。
どうして出る杭がここまで執拗に打たれなければいけないのか。生徒の能力を平らにならそうとして、折角の能力を削ぎ落としてしまってはいないか。心を折ってしまってはいないか。先生に好かれ、周りの生徒に好かれることがいい生徒の唯一絶対の条件になってはいないか。多少模範から外れていても、秀でた能力をせめて認めてあげることはできないのか。
折れた心は元には戻らない。騙し騙しやってはきたが、義務教育を終えた頃から小学校の後遺症が目立つようになった。何がやばいかって受験がとてつもなく苦しい。出る杭は打たれる、終いには折られると刷り込まれた頭でどうやって受験しろと?
勉強なんか出来なければよかった。
30代中盤に差し掛かり、運動不足な肉体は10代20代の貯金を使い果たし
普通の食事をしていても代謝より摂取カロリーが上回り始めるようになる。
酒が強い自負があったけれど、20代と同量の酒を飲むと翌日きつくなった。
年始に今年の計画や見通しを立てたりしても「やりたいこと」より「やめといた方が人生にとって有益なこと」が先に出てくるようになってきた。
20代の頃より、はるかにエコな考え方ができるようになったものだと驚く。
金も時間も全部周りの人や今後のことに全額ベットしてきた人間としては、急に守りに回った保守的な考えになったのかなと気づく。
その頃は立場や経済力がついても、ずっと全額ベットして行くものだと思っていた。
10代20代はいろんなことがあって、必死こいて頑張ってきた自負はあるし、
その積み重ねで今の地位や結果が出ているのだろうと思うのだけれど、
いろんな事を諦められなかったし、もがいてばかりいて無駄が多かったことも事実だと思う。
徹夜してと仕事を頑張ったり、いろんなストレスをいたずらに酒で埋め合わせたり
今考えればそんなコストかけなくてもできたんだろうなと思う。
それでも、その頃に得たものは尊いし、大切な宝物だと思いたいのは過去の美化になってしまうのだろうか。
孔子曰く不惑になるのは40だというが、不惑になるというのは実はロスを削って行った結果、
やれることが限られて行くから惑わなくなるのかなとも思ってしまう。
変化し、改善し続けることを是とし、ひたむきにやってきた10〜20代。
その頃見えていた、大人たちに対して「変化しないのはおかしい」くらいのことを思って
ひたすらにハングリーにやってた。その人たちの年齢に近づきつつある今、見え方が変わってきた。
残りの時間をカウントしてみても、20代の頃ほど体力も時間もない。
体力の維持への工夫のために、いたずらに筋肥大させるために、ジムで体作るというより、
軽負荷で毎日続けられるようなジョギングや散歩を選ぶようになった。
ゆったり寝るために瞑想することも増えた。
情熱ややる気の定義自体も変化してきたっていう事なんだろうか。
なんとなくモヤモヤする日々の原因はこの辺の10代20代の頃の不器用な感覚のままの自分と、
売り上げを追求するより、販管費をさげて、利益率をあげるような考え方自体間違いじゃないと思うし、
合理的だとは思うけれど、いろんなものの先が見えてしまった事にどこか寂しく諦めににた感情が込み上げてくる。
それとも、こう考える原因は、今まで10年以上息をつく間も無く必死に頑張ってきて
ふと息切れして止まってるような状況だから仕方がないのだろうか。
自分が遮二無二頑張ってたことも効率化という名目で、一つずつ諦める決断をして行く。
今の状況がつまらないわけじゃない。
何故買ったか、今はもう思い出せない。進級してから鬼のように増やされた課題に生存本能が危機感を示したのかもしれない。はたまたバイトで降り注ぐ理不尽が積もりに積もって性欲に変換されたのかもしれない。だが、それは過去のことだ。
徹夜明けのテンションや、祭りの前の胸の高鳴りに似た不思議な高揚感が私を包んでいたのは覚えている。
Amaz○nを見て、それなりの値段の電動オナホを買い、ペへ○ローションを買い、ついでにアップルタイザーも買った。もちろん偽装を兼ねた買い物だ。
私は恥ずかしながら今まで自分で性欲を処理するときは"己の力"で処理していたので、そういった道具を使うのは初めてのことであった。
ド○キでTE○GAを買おうと悩んだこともあった、近所のレンタルビデオ店のエッチなUFOキャッチャーに勝負を挑みかけたこともあった、だが、その度に私は醜い欲望を退け勝ってきた。そう、今までは。
ブツが届くまでの数日間、毎日がワクワクの連続だった、家に帰れば不在者通知が無いか確認し、また明日を夢見て眠る。久しぶりに毎日『早く明日にならないかなぁ』と思っていた……。
そして、━━━━━届いた。
相当重い、これが"電動オナホ"か、そう思いながら開けたら中には大量のアップルタイザー。
私は泣いた、マジ泣きした。
そのあとすぐ配達されて満面の笑みに戻った。
段ボール箱を開け、包装を破り、ペへ○ローションを投げ、ついにたどり着いた。
個包装を破り、外箱を開け、プチプチに包まれたソレを手に取る。
………………美しい。
ウィンウィンウィンウィンウィーン‼
「いつでもかかってこい」私はそう言われてる気がした。
次にローションを開封した。正直いきなり愚息に塗りたくるのは怖かったので一旦手に取り確認をした。
冷たい……っ!
そう、数多もの異性達を暖かく繋いでるペへ○でも出した瞬間はただの液体。しかも今は真冬、当たり前だ。
このまま使ってもいいが愚息が寒がる可能性があると踏んだ私はこう考えた。
「使い終わったメープルシロップの容器に入れてレンジで温めればちょうどいい感じになるのでは?」
正直自分で自分を褒め称えた。世が世ならノーベル平和賞を取ってもおかしくはないだろう。
早速準備に取りかかった。容器をくまなく洗い、ローションを入れ、レンジに入れる。スイッチ、オン。
容器が変形しない程度に温め、ローションを手のひらに出し温度確認。
…………熱ッィ!!!こんなん愚息に塗りたくったら死ぬ!!!!
たった数十秒の加熱で男の勲章を燃やせるレベルまで熱くなった凶器に怯えながら冷ました。
体感で50℃くらいに下がったことを確認して、電動オナホを動かしながら注入。なんとなく動かしながらの方が全体にまとわりつく気がした。
念のため指で確認してみると……すごい!本物だ!!
実際の女性器や口と比べるとやや温めだが、プレイ中に温度が下がることを考えたら完璧と言っても差し支えは無かった。
調整も整い、準備の最中に流していたAVも挿入直前、愚息も闘いの時を今か今かと待ち望んでいる。全てが最高潮に達していた。
映像とシンクロするように電動オナホの口に愚息を添え、少しずつ、少しずつ入れていく。
ローションのかかりが甘い部分が引っ掛かり少し痛い、だが初々しい感じが出てたまらない。
そうか、私は今こいつの初めてを貰ったのか。オナホ童貞を捧げ、オナホ処女を捧げられた、相思相愛と言っても過言はないはずだ。
奥に流れ込んだローションを愚息で掻き分けるように慎重に、慎重に進んでいく。大小の柔らかいイボイボが優しく包み込んでくれた。わざとらしいイボイボが今は心地よい。
全部は入りきらないがある程度侵入できた、そろそろ電源を入れよう。
スイッチ、オン。
あああああああああああ!!!!ヤバいヤバいヤバい!!!なにこれなにこれなにこれ!!!強い強い!!!いやほんと待って止まって!!!!アッ…………
あっけなく果てた。
電源を入れた瞬間、オナホは回転に回転を重ね右へ左への狂喜乱舞、イボイボは大小合わさり止まることを知らない快楽の波へと強制連行する凶悪な精液絞り器具へと変貌した。
あまりの変貌ぶりに私は某バドミントン漫画の作画を思い出した。
しばらく放心状態だったがまだやることがある、そう、後片付けである。
まずは愚息とデモンスレイヤーの洗浄、愚息はまだ良い、問題はコイツだ。
一説によると温水で流すと体液がこびりついて大変よろしくないらしい。なので分解した後、冷水で洗浄。ついでに愚息も冷水で洗浄。
浴室乾燥を使い水分をある程度飛ばしたら組み立てて封印。ローションを入れた容器もついでに同じ場所に封印、冷蔵庫に入れるには汚すぎた。