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2019-04-11

けもフレにそんなに興味ある訳じゃないけど・・・

けもフレ2の関係者がよってたかってケムリクサの監督関係者ツイッターで叩きリプライしたり嫌味な反応したりするのはやっぱやり過ぎだと思う・・・

子供じゃないんだからさ。

anond:20190410235334

作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法機能するわけですよね。

作品全体が好評価場合でも、「提示だけして居心地を悪く」せず、普通にテーマとして物語に組み込んで完成させたほうが、よほど影響が強くなるかと。

わざわざ提示だけして居心地を悪くする必要はないです。

この件については反証する方法があります制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動確認できたなら、作品善意を載せた可能性を否定できるでしょう。

商業作品として製作・発表されたもの商業目的じゃないと主張する場合商業目的じゃないと主張する側が証明をする必要があるでしょう。別に反証する必要特にないです。

「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。

仮にそういうことなら、それを描く必要があるんですよ。

皆さん言ってらっしゃるセルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。

仮に、ビーストセルリアンのいた場所勝手についてきたというのなら、キュルルの決断・行動としてのドラマは無いですね。セルリアンがいる場所と知っててビーストを連れてきたのなら、それは、けしかけたのと同じです。いずれにせよ、それが示される必要があります

データを取ってはいないでしょう?... いえ、ご経験理由としているのはわかります

ええ、データとして客観的に立証したことではないので、私の意見として受け取っていただければ。とはいえ、「初見面白さがわからないものを何度も見返す人が少数派」というのは、視聴率やらソシャゲ離脱ポイントやらでデータは取られてると思いますよ。

ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。

わざわざキュルルちゃんに悪印象をつけるのは、悪手である、というのは、先に書いた通りです。

たとえばケムリクサで、わかば水槽転送されたり、橋のヌシに出くわしたり、多くのイベントは偶然じゃないですか。

いわゆるご都合ですね。ご都合を全く消すことはできなくても、気にならない範囲まで減らしたり、理由をつけたりすることはできます。それが脚本の腕ですね。

http://irodorich.com/archives/6780

わかばが、あそこにいた原因としては、こういう説があります。湖の水を根こそぎ吸い込んだのなら、種が出てくるのは必然でしょう。

いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味リソースが潤沢にあれば、と申しました。

まぁそうですね。フィクションでない作品を目指したのでなくて、単に技量問題でしょう。ただドラマからご都合を排除するのは悪いことじゃないのですが、排除しようとした結果、ドラマが消化不良になったら、それは本末転倒というものです。制作者は「多少のご都合で盛り上がるよりも、ご都合をできる限り排除して、特に盛り上がらないドラマを作りたかった」のか、というと、私はそうでないと思います

売り言葉に買い言葉になってしまますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。

けも1ラストフレンズセリフは、これまでのエピソードを想起させる形で、それぞれのフレンズが、それぞれの得意技を生かして戦うというもので、非常に高質でした。「交流」ということが、言葉を直接交わしてる会話を指すなら、少ないですね。ただ、けもフレ2の「交流」に私は意味や盛り上がりを特に感じませんでした。

オオミミギツネさんのシーンはそれに該当していますが、ギャグ的な魅せ方で俺は流されてしまいました。初見では。

「オオミミギツネさんのシーン」だけだと、ちょっとどこかわかりませんでした。ともあれ、のほほんとした交流シーンをやりたいなら、危機最中にやらなくてもよいでしょう。

最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思いますジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...

フレンズに対する態度に大きな変化があるなら、変化した理由必要になりますよね。その理由は、「元々フレンズが好きだったことを思い出した」でも良いのですが、それならば、どういう理由過程で思い出したか、が必要になる。

微妙に変わってはいるというなら、「微妙だけどしっかり変化してる」ことを印象づけ、やっぱり、その理由過程を描く必要があります

厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。

ミステリというのは謎が提示されて、その謎について事態が進展して、新たな手がかりが出たり、真相と思われるものが二転、三転するなどして、最後に謎が解けて(あるいは解ける以外の形で解消され)終わるわけです。けもフレ2の場合、冒頭の謎が、特にそのまま触れられず進展しないままずっと進みます最後カットで一応謎は解けますが、それは冒頭の時点で予測できた推理確認されただけです。それではミステリとしてはダメです。

2019-04-10

anond:20190410223420

提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます

作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法機能するわけですよね。

商業性を捨てた善意を追求している、という過程は、かなり蓋然性が低い、とはいえるかと。

この件については反証する方法があります制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動確認できたなら、作品善意を載せた可能性を否定できるでしょう。

危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか

「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。皆さん言ってらっしゃるセルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。

全体の平均を取ると、「初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります

データを取ってはいないでしょう?... いえ、ご経験理由としているのはわかります

視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動問題があったと判断しているでしょう。

ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。

ドラマ的にすると、各イベントの発生を偶然に頼るというのは、どういうことでしょうか?

たとえばケムリクサで、わかば水槽転送されたり、橋のヌシに出くわしたり、多くのイベントは偶然じゃないですか。フィクションなので気にならないわけですが、キュルルちゃんの「大好きだー」を必然的にするイベントを追加してもその発生は偶然によるものになるのでは。イベントを廃した結果、自分で振り絞っているような描写になって脱フィクション化がなされた。いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味リソースが潤沢にあれば、と申しました。

量より質ですね。

売り言葉に買い言葉になってしまますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。

そんな状況で、のほほんとしてると、セルリアンの存在危険自体茶番に見えてしまって

オオミミギツネさんのシーンはそれに該当していますが、ギャグ的な魅せ方で俺は流されてしまいました。初見では。

エンタメ否定した純文を作りたかったわけではないと私は思います

意見尊重します。覚悟たかどうかも今後のスタッフの様子からおそらく判断できるでしょう。

最初からフレンズに親切ですし、特に自分フレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分フレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。

最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思いますジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...

キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身フレンズだろうという話ですか?

厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。

anond:20190410122042

ケムリクサは言うほど良いとは思えない

けものフレンズ2はたつきがいないし価値がない

みんなが褒めてるから買うというケムリクサ

みんなが叩いてるから貶すというけものフレンズ

オタク意思はなくなった

流されるだけの存在

anond:20190409151933

物語を使って視聴者特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。

物語に過大な期待をしすぎです。どんな集団にも過激な人はいるし、けもフレファン集団でも同じです。けもフレを見た過激な人が急に全員優しくなるようなことがあったら、それはもはや洗脳です。

からといって、テーマに絡めることを諦めて、中途半端エピソードにしておけば「人間が歪めた動物について考え」るかというと、そういうものではありません。

おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃん人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。

キュルルちゃん人類の罪を贖罪するプロットを書いたつもりはないのですが、ともあれ、やりたいことが「人間が歪めた動物について視聴者を考えさせること」なら、それにそってテーマを展開してプロットを作れば良いかと。テーマに絡めることを諦めても、その点は改善しません。

俺は、ビーストは死んでないと思います

最終的に死んでるか死んでないかは、別に、どうでもいいんですよ。問題はキュルルが、「自分が呼んだビーストの無事を確かめもせず、喜んでる薄情極まりないキャラ」として描かれていることです。

キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。

「キュルルが身の危険を顧みずにビーストを説得してわかった」みたいなシーンが別になく、暴れるビーストが、素直に船に乗って(?)キュルルについてきたのか、さっぱり分からないので、特に盛り上がりません。

それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。

ビースト側の考えや動機意志が全く見えないので、ビースト感情移入しようがなく、大暴れが気持ちよくもないし、死んでも、さほど悲しくもないです。

一話の最後スケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思いますホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます

なるほど、ありがとうございます

俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています

それは一つの楽しみ方ですし、尊重しますが、たいていの人は初見感想判断します。初見面白いと思ったからこそ、見返して伏線を捜すわけで、つまらない作品を、わざわざ見直し伏線を捜したりする人は少数派です。

もし制作者がネット考察班を動かしたいのなら「初見でわかる範囲面白い」と感じさせる必要がありますけもフレ2は、それに失敗しているのです。

キュルルちゃん立場から見て、イエイヌ価値観尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇トリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的理由はないでしょう。

仮にキュルルが、悲劇トリガーではあっても、本人に無責任・悪意はなく、年相応と理解されるのであれば、そんなキャラクターが海に落ちても、爽快感は生みませんので、それはそれで作劇として失敗です。

海に落とすことで爽快感を引き出したいのなら、キュルルが酷いやつと感じられる必要があります(そして主人公が酷いやつと思われたら、作品への好感度が下がります)。

しかし確かにセルリアンとの戦闘けもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています戦闘けもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘テンションを抑えたということです。

クライマックス戦闘を、わざわざテンション抑えて緊張感が高まらないようにして退屈に仕上げたら、それは「優しい世界」ではなくて「盛り上がりにかけたつまらない作品」です。意図的ものではなく、制作側の技術リソースが足りなかっただけでしょう。

セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。

わざわざ似せようとしなくても自然と似るであろうというのは、その通りです。その上で、1,2で共通する「フレンズ軍団セルリアン」シーンである以上、視聴者共通性を捜します。そういうシーンであることを踏まえる必要があるのです。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。

伏線的な設定が明らかにならないことで現実的な厳しさを描いた作品」は「伏線処理に失敗した、いいかげんな脚本」と区別がつかないんですよ。

別にビーストイエイヌが救われなくても、キュルルがおうちを見つけられなくても、いいんですが、このままだと単に「破綻した脚本」にしか見えないんですよ。伏線をきちんと解消してもビターエンドはできます

いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要ときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。

それについてはお任せします。私は「優しい世界」という用語特に興味がないので、これ以上は控えます

絵柄が大きく変わっていることは初見でわかりますSNSで憤慨しているファン監督交代騒動は耳にしていたはずです。

私は絵柄は前作を踏襲したもので、さほど大きくは変わってないと思います。少なくとも、ギスギスさを予感させる変化ではないですね。キービジュアルも仲良しフレンズで、交代した監督も「 前シリーズリスペクトし、面白いと思ったところは全部入れてます」と言っている。

総じて、ギスギス、ダークを予感させるものでは全くないです。

けもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います

段階を追って開示するのではなくて、一番最初から「今回のけもフレ2は、前回と違うぜ、ギスギスだぜ」ってやらないといけないんですよ。途中からスギスしたらかえって混乱します。

スパイスの効いた辛旨なカレーで有名になったお店が、【店長スタッフが変わって】、でも看板はそのままだった。それでも気になってお店に入ってみたら、全然違う甘々な、しかも不味いカレーを出された

辛旨カレーだった店が、看板そのままで甘口カレーを出したら来た客は混乱しますわな。店主が替わったのは知ってても、店の名前が変わってなくて、特に告知がなければ、同じような味を期待するでしょう。カレーの味を変えるのはいいんですが、辛口カレーの中でバリエーションが変化した、とかではなく、甘口カレーハヤシライスビーフシチューなりに変えるなら、看板に大きく「甘口カレーetcの店になりました」と書いておくべきでしょう。それは、客がどうすべきであったか、悪質な客がいたかどうか、とは全く別の話です。

2019-04-09

anond:20190409045845

人間動物迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります

しかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長ワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃん人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメ物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。

俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者イエイヌを追い詰めサーバル撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマ普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNS悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事ホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思いますネット考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。

俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめていますけもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコながら見ていました。確かにドラマとして登場人物紆余曲折が一つのテーマ収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。

何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン

一話の最後スケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思いますホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます

キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります

キュルルちゃん立場から見て、イエイヌ価値観尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇トリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的理由はないでしょう。

強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫がありますフレンズセルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。

けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放宣言していますけもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じますしかし確かにセルリアンとの戦闘けもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています戦闘けもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘テンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思いますホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります

最終話評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。

セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしか結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?

キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアル世界観フレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうがスッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思いますケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。

ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばちゃん成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズ生存理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマどうでしょうケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんサーバルカラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善余地は合ったかもしれませんね。

批評として使うなら、定義必要になるでしょう。

いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要ときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。

スギスを狙ったのなら、作品の出来とは別にマーケティングミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。

絵柄が大きく変わっていることは初見でわかりますSNSで憤慨しているファン監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファン必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じもの要求した、そのように見ていますけもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。

付録

スギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。

面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。

別の場所コメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレーハヤシライスビーフシチュー」くらいの印象です。

anond:20190409051431

自分から油注ぎに行くのすごくない?

2019-04-08

anond:20190408180028

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思いますしかけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキ選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカアシカイエイヌでそこまで不快になるということ自体製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。

ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない

これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘ときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃タイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます

私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っていますけもフレ2でのキュルルちゃん葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーン舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えていますけもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品継承されましたが、休日リピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。

話が前後して申し訳ないのですが、作劇論について…

ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない

なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます

「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。事実上その選択しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。

増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかたかも(実はプロの人なの?)。

最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思いますお話の上でキャラクターが何らかのミス悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります

キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的カジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術進歩してきたのではないですか。

anond:20190408152438

けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。

おうち探しの結論が「大好きなフレンズと一緒のここがおうち」であるなら、「人間フレンズにひどいことした」は、避けて通れないかと。

イルカアシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える

元々の話は、人間動物ねじ曲げてしまたことの悲劇、罪悪感、グロテスクサが表現されてるか、でしたよね。それらは一つの責任の取り方かもしれませんが、そうしたニュアンスは、存在しないかと。リョコウバトの場合、「君の家族は全員死んだけど他にも仲間はいるよ。殺したの俺の仲間だけど」というのが「責任」かと言われると、ちょっと。もちろん、絶滅動物に対して人間が償うべきなのか、どう償うのかは、大きなテーマであり、けもフレ2内の1エピソードとして処理するのは限りなく無理です。しかし、だったら最初からリョコウバトを出さなければ良いかと思うわけです。そのあたりが深く考えてないという話です。

余談ですが「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

イエイヌ不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います

キュルルが、イエイヌ孤独、寂しさを理解しつつも、「飼い主の責任」のために去って行く、と、取れる描写があればよかったですね。また飼い主の責任の話を強調するなら、イエイヌが「ヒトなら誰でもよい」と言ってしまってるのがダメでしょう。イヌは「ヒトなら誰でもよい」生き物ではないわけで、そっちのほうが誤解が大きいし、「イヌは人なら誰でもいいんだから、他の人に、あげればいいじゃん」という無責任に繋がりかねません。

私なら、最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。

何歳くらいを対象に考えてるのかわかりませんが、「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからないと思います

サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。

あの時、サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、「同じ系統のパワー」に見えるんですよね。一期の野生解放と同じものか、ちょっと混乱する。

内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。

念のために確認しますが、私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います。一つの作品で、画面に映ったこと全部に完璧説明をつけようとすると、かえって面白くなくなるので。それを理解した上で「すべてに筋を通すべく没頭」するのは一つの楽しみ方ですが、作品単体にそれを要求する必要はない。わからないことがあることを含めて楽しめば良いかと。もちろん、楽しめないほど大きな矛盾があれば別ですが、私はそれは感じませんでした。

他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合意識しなくてはならなくて、キャラクターかぶらないようにしなければならない。ヘラジカプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテル位置時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。

続編作品のほうが様々な制約があり、オリジナル新作ほど融通が利かないのはその通りだと思います現場の方々は整合性を取ろうとしたのだと思いますけもフレ2で、派手でない部分で、筋、整合性を通してる部分があるのも、もちろんだと思います

その上で、重要な部分で、フウチョウが出てきたりするあたりはファンタジーであるなと。「記憶ケムリクサが不自然に発動したこと」にご都合性がないとは言いませんが、「幻想だか現実だかもよくわからないフウチョウコンビが、どこにでも現れて説教する」は、後者のほうがファンタジー度が高いでしょう。

キュルルちゃん出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要がありますベタなのは、それによってセルリアンを倒す助けになるとかですね。そうでなくても構いませんが、そういうのが必要です。けもフレ1で、かばちゃんミライフレンズ化だったというのは、「セルリアンに食べられたかばんちゃんが復活した理由」というドラマと結びついてるから意味があるわけです。

ワカバ場合ワカバリン関係性、ケムリクサの赤い霧の世界がなぜ生まれたか姉妹達とはなんだったのか、という、キャラ動機起源世界の成り立ちが解かれて、それが最終決戦の盛り上がりに繋がるところに意味があるわけです。ワカバが、宇宙人なのか、天使なのかの細部は、想像に任せるで良いのです。

牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空から俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。

合理性があろうがあるまいが、1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃん誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界概念スピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思いますけもフレ1でも博士サーバル図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウ能力表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズ酷使して、かばちゃんを、りょうり要員として使役しています視聴者全面的エンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います

そして「”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしま」うこと自体簡単かもしれませんが、その結果、出来上がった作品面白くなるか、評価されるかというと、それはまた別問題ですよね。「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。

不備について、いくつかは、これまでにも書いたと思います。この記事だと、イエイヌ周りとか、キュルルちゃんの「おうち」「正体」周りですね。

細かな不備はさておき、大きく重要なのは、おっしゃっていた「視聴者視点では行動が横暴に見える。」という点が、印象に残る点だと思います。作り手の意図として「視聴者に対して、キュルルを横暴に見せたい」と思っていたわけではないでしょう。だとするのなら、意図に対して演出脚本が失敗しているわけです。

初見ではわからいかもしれないが、よく考えるとわかる」部分があるのは作品に深みを増しますが、それは細部にやる話で、ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない、というのが普通の作劇かと。

anond:20190408014023

広い意味調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまます

けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカアシカにショーをさせ、イエイヌ人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります

けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思いますイルカアシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌ不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います木村監督仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的エンタメ方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。

「野生解放と言わずに野生解放で急に強くなる」は、わかりやすさ優先ではなく、むしろ、わかりにくくなっています

野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方レベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。

ミドリケムリクサ自体回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。

いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイント伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチ雰囲気に見えてしまますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察していますしかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています

「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督けもフレ1以後の作品凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます

ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなりますけもフレ2は、そういう作品ではないので、

これには異を唱えておきますけもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合意識しなくてはならなくて、キャラクターかぶらないようにしなければならない。ヘラジカプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテル位置時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話唐突ボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスハンドルディスプレイウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチボス形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督お家芸だったはずですが、継いだ最初仕事再現できる手腕には舌を巻きます

このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃん出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい貴方ほどのレベル視聴者にこの作品メルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのとき制作プライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。

あのシーン(引用者注けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズセルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。

牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空から俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。

「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラ基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います

それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃん誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界概念スピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思いますけもフレ1でも博士サーバル図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウ能力表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズ酷使して、かばちゃんを、りょうり要員として使役しています視聴者全面的エンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない

その上で、けもフレ2の設定や伏線に不備がない、とまでは私は言えません。

一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。

たつき監督が激務になってる理由

全体的に省エネっぽい作風なのに、何で激務になるか

けもフレ1期の時に、フレンズの会とか結構フォローしてわかったけど

彼は結構「作り直し」をやる

けもフレの時も1話の時点でぶっ壊し・やり直しをしたらしい

ケムリクサはわからないが、あのクオリティの高さはそういうアジャイル型・バージョンアップ型の作り方に支えられている

 

こういうのは一般的な作り方では無理だ、と当の監督も言っていたと思ったが

似たような事をしているところはあると思う、例えば宮崎駿

 

面白いものに対して全力が出せる環境」と「死ぬまで全力を出してしまう人」によってヒット作というのは生まれがちである

それを否定するのはアイデンティティを奪うようなものから個人的にはどうかと思う

 

とは言え、例えばピクサーのようにまともな労働環境クオリティを出している現場もあるので

これはむしろたつき監督だけではなく業界全体の課題ではあると思う

ただ「死ぬまで全力を出してしまう人」にそこら編の改革ができるのかと考えたら疑問だ

できれば周りの人間がそこを頑張るべきなのかもしれない

 

宮崎駿に関しては、そこら編の業務改善最後まで上手くいかなかったように思える

1人の凄腕の親方が居て、それを支持する者が食らいついていく構図

でもそちらの方が多い

クオリティを維持しながら、ワークライフバランスを確保するのは至難の業

肯定はしないが、否定安易にできるものではないだろう

 

___

 

ちなみに、このアジャイル型・バージョンアップ型の流行は、IT業界ゲーム業界にはワークライフバランスの確保をむしろ容易にした

アニメ業界ではこれは逆に激務化する

リリースが1回しかいからだ

難しい話だ

バージョンアップするアニメがあってもいいと思うんだけどね、その流れはまだ出ないね

anond:20190407225535

まり関心を持ったことのないポイントなので、勉強になります僭越ながら、グロテスクさが感じられうる示唆的なシーンが、人物の行動の結果などに繋がって作品としてのテーマになるまで昇華されていなかったとしても、芸術的意味はありうるのでは、と考えています。例示していただいたアイデアのように正面からこれをテーマに据えてしまうと、作品自体目的が”説教”になってしまうので避けたが、示唆したいことは確かにあった、という可能性です。別の方の増田引用します。

芸術というものは非常に幅広い概念であり、故に、善し悪しを語るのは、非常に難しくなります。話が拡散しすぎてもしょうがないので、ここでは、いわゆる一般的エンタメ(これ自体もかなり広い概念ですが)の方法論に沿った評価します。

あるモチーフをメインテーマに直接繋げると説教臭くなる場合は確かにあります。メインテーマ一本調子にならないように「Aの正しさ」を中心に描きつつ、「A以外の正しさ」にも軽く触れるといった構成はよくありますね。ただ、その場合でも広い意味調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまます

けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカアシカにショーをさせ、イエイヌ人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります

私は、それを「深く考えないで出した」と考えますが、「示唆したいものがあったが描ききれなかった」と考えることもできるでしょう。意図はわかりませんね。

それを仰るなら、けもフレ1の黒いセルリアンとの戦闘でも多くのフレンズは野生解放していないです。

「さぁとっとと野生解放するのです」「我々の群れとしての強さを見せるのです」からの、闇に光る数々の目、は名シーンであったと思います。あれを見ると、「ここが正念なのだから、野生解放できるフレンズは全員した」という流れが伝わるかと。

それはそうと、あのシーンを、フレンズセルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。

ところで「野生解放を言わない」ということには、けもフレ制作陣の明確な狙いがあると思いますけもフレ2では他にも「ちほー」や「フレンズ」といったタームがほとんど言われません。推測ですが、これは一般受けを狙うために途中から入ったりぼーっと観てる視聴者キッズが引っかからないように配慮したものだと思われます。逆に明確に説明するようになったものもありますキャラクター性格です。「私、体が丈夫なだけじゃなくて記憶力もいいので」「私は用心深いから」… などなど、けもフレ2ではキャラクター自分性格自己申告します。作劇技術的な難度という点ではこのような表現はおそらくレベルが低く、エレガントでもないのでしょう。しかしそれが直ちに作品として悪い、ということにはならないでしょう。解りやすいというメリットは確実にあります。あざといくらいハッキリ言うので、おそらくここを起点に自分でも動物性質を調べてほしい、という願いも込められているのかもしれません。

全体としてキッズ向けのノリで、わかりやすくする意図はあったかもしれません。それはそれで一つの方向性ですよね。ただ「野生解放と言わずに野生解放で急に強くなる」は、わかりやすさ優先ではなく、むしろ、わかりにくくなっています子供なのだから、そのへんの脈絡を気にしない……と仮に制作者が思っているとしたら、それはそれで、子供馬鹿にした話です。子供向けにわかやすくするというのは、そういうことではないでしょう。

ケムリクサ周りは、まだまだ見返して伏線を捜しているので、勘違いしてる点もあるかもしれないことを先に述べて起きます

おっしゃる点、それぞれについて、説明はできると思います。例えば、ミドリケムリクサ自体回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。あるいは、ワカバが苗床になった時に、ミドリに赤に対する抵抗力を与えたのかもしれません。リンの中に、リリの記憶漏れていることは、わかばロックを解除して、そのまま開けっぱなしの状態だったのかもしれません。光については、木を倒して、残った全部の力を、わかば治療に使った描写に思えました。

このへん、贔屓の引き倒しというか、脚本ミスの部分を無理矢理、好意的に見てるものは混じっているかもしれません。好意的に見れば、けもフレ2の矛盾点とおぼしき部分も説明をつけることができるとは思います

ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなりますけもフレ2は、そういう作品ではないので、その点は一緒にできないなと。

しかし「優しい世界」では全然ないでしょうということは主張しておきます(でもりつ姉はオアシス)。

ケムリクサは、けものフレンズ1に比べて全体的にダークなわけで、それを「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラ基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います

設定や伏線において、けもフレ2に不備があるように思えるのは錯覚で、実態作品の狙いと得意な表現範囲の違い「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」、で済むレベルなのではと考えているのです。

作品の狙い、得意な表現分野の違いにすぎない点が、1との比較で、不当に欠点とされてる部分は多いと思います。その一端は、一連の記事で書いています

その上で、けもフレ2の設定や伏線に不備がない、とまでは私は言えません。もちろん、どんな作品にも瑕疵はあるわけで、減点法だけで評価するのも、考え物です。どこを重視するかの違いかもしれません。

2019-04-07

anond:20190407175202

一般的な作劇として、不愉快イベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品テーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。...

まり関心を持ったことのないポイントなので、勉強になります僭越ながら、グロテスクさが感じられうる示唆的なシーンが、人物の行動の結果などに繋がって作品としてのテーマになるまで昇華されていなかったとしても、芸術的意味はありうるのでは、と考えています。例示していただいたアイデアのように正面からこれをテーマに据えてしまうと、作品自体目的が”説教”になってしまうので避けたが、示唆したいことは確かにあった、という可能性です。別の方の増田引用します。

動物園から人と動物関係についてあくまで人は管理者であって友達ではないという指摘があった。人の都合で檻に閉じ込めている現実から目を背けるべきではないとのこと。学習研究、人の活動によって個体数が減らされてしまった種の保存など、人が人のために他の種を管理しているのだから、あまり動物と人が対等に取り扱うことは教育上望ましくない。2期では是非そういった視点も踏まえ、動物同士がフレンズでありヒトは違うという体でお願いしたい。

"けもフレ2の脚本オーダー"への返信

動物園から制作陣への要求… もちろん、そのような体で書かれた冗談しょうが、こういう視点制作側にあったのかもしれません。

野生解放といえよ、とか、他のフレンズは野生解放しないのか、とかは、内面世界問題ではなく、脚本の不備の問題です

それを仰るなら、けもフレ1の黒いセルリアンとの戦闘でも多くのフレンズは野生解放していないです。ところで「野生解放を言わない」ということには、けもフレ制作陣の明確な狙いがあると思いますけもフレ2では他にも「ちほー」や「フレンズ」といったタームがほとんど言われません。推測ですが、これは一般受けを狙うために途中から入ったりぼーっと観てる視聴者キッズが引っかからないように配慮したものだと思われます。逆に明確に説明するようになったものもありますキャラクター性格です。「私、体が丈夫なだけじゃなくて記憶力もいいので」「私は用心深いから」… などなど、けもフレ2ではキャラクター自分性格自己申告します。作劇技術的な難度という点ではこのような表現はおそらくレベルが低く、エレガントでもないのでしょう。しかしそれが直ちに作品として悪い、ということにはならないでしょう。解りやすいというメリットは確実にあります。あざといくらいハッキリ言うので、おそらくここを起点に自分でも動物性質を調べてほしい、という願いも込められているのかもしれません。

ケムリクサに置いて、内面世界シンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。

そうでしょうか。最終話の赤い木との戦いで、りんの本体の葉から水がなくなって戻ろうというときに、ミドリの核の枝と桃ちゃん継承しました。枝を肘につけてパワーアップして復帰しますが、しかミドリの枝にケムリクサを修復する機能があったのでしょうか。ミドリの葉は状態を治す・保つ事ができますわかばの腹に空いた穴や、りんの欠けた手足を補ったことはありますが、ケムリクサそのものを治したことはないです。もしケムリクサをも治せるなら、赤い木に指して倒せるのと矛盾してしまうと思います。かといって桃ちゃん自分を分裂させたという可能性もありません。桃ちゃんは、(姉妹では)りなだけが使える葉だからです。また同じく最終戦で、りんは、りり最後記憶を取り戻しますが、あのとき記憶ケムリクサが突然発動したのはなぜでしょう。直前に二回わかばが開いていますが、二度ともロック解除が必要でそれは、りくにさえできない、わかばけが可能手続きだったはずです。りんは最終戦終了後キャッチした、わかばとともに船のそこに落ちますが、そこで突然ミドリの光の柱が伸びて二人の怪我を修復します。でもミドリは葉も枝も戦闘で使い切ったのでは。リアリティラインが低い… 内面の高まりがなし崩しに外面に出てしまう。お話を頂いて頭に浮かんだのはむしろこのシーンでした。ケムリクサを万能の舞台装置、あらゆる話の粗を吸収するスポンジと捉えるなら、けもフレ2のセルリウムサンドスターをスポンジにすれば全て解決では。

悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいない

「優しい世界」の解釈が俺らふたりの間で異なっているように思いますけもフレ1で、カバ新参かばちゃんに「パークの掟」を諭しつつも、去りゆく二人に何度も声をかけて心配しているさまを示す。ツチノコは地下迷路で口の悪い闖入者を疎んじつつも、(諦めた体で)二人に協力して出口を探すわけです。最後には絶滅していなかったヒトへの安心気持ちを口にする。サーバルかばちゃんを、「かばちゃんは…したかったんだよね?」のように道中何度もフォローを入れる。このような誰かを深いレベルで思いやる描写があちこちにあり、一方で人物間の衝突はあっても形骸化した、表面的なものしかなかった。全面的留保余地なく安心できる世界観がけもフレ1の「優しい世界」としてみんなに愛された、そう考えていますしかケムリクサではもう最初からわかばは異物扱い、いつでも落とせる、落としてやろうのような脅迫的な発言が毎回あるわけです。もちろんおっしゃる通りそこには合理性があるんですが、しかし、りくさん、あなた最後散り際にまで「こんなやつのどこがいいんだ」的なdisりをくれる必要はあったのか、あれ実はあなたも好きだったんで吹っ切るために強がったんですよね、などと視聴者の俺は解釈していますが、しかし「優しい世界」では全然ないでしょうということは主張しておきます(でもりつ姉はオアシス)。

「悪意を持って作られた創作」と言われるものは、悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらいものなわけです。

設定や伏線において、けもフレ2に不備があるように思えるのは錯覚で、実態作品の狙いと得意な表現範囲の違い「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」、で済むレベルなのではと考えているのです。むしろ楽しむことを妨げる、エゴイズムという意味での悪意は、視聴者の俺らの側にあるのではないでしょうか。拝読した記事には総論としては同意で、いわゆる「ハンロンの剃刀」は強力なのですが、作品を論評するとき必要環境安心して自分意見を言える状況、とは現状はかなり食い違っているように思います。この空気の中での分析は、かなり注意深く精査しなければ容易に流されて最悪のケースでは誰かの筆を折らせる結果になりかねない、そう思って眉に唾をつけ考察しています

例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。

ううむ、言われると、けもフレ1のサーバルコツメカワウソプレーリードッグはみんな似てはいものの、ごくごく微妙キャラが違っており、おそらくセリフに落としても区別がついてしまうでしょうね。制作陣の構成についても明るくないですが、この功績は吉崎観音さんの成果?

いまさらケムリクサを見てる

ちなみに、けものフレンズ1話リタイアしてしまった。

最初に書くことではない気がするけど。

1話目でどれだけ視聴者を取り込めるか」って昨今のアニメではかなり重要視されているのに、ケムリクサには1話目に大きな山場があったようには思えない。

敢えてそうしたのかは分からないけど、確かにこの方がリアリティがある。

謎設定でリアリティを追求するのは構わなくて、視聴者目線でそのリアルを見る役が登場すれば問題ない、ということで、わかば視聴者の代わりをさせるんだろうけど、くどくない?語彙力なさすぎじゃない?精神年齢低いわりに冷静な判断力ありすぎじゃない?という疑問が湧いた。そういうアニメじゃないのかな。

いま3話目なので、設定の謎が解き明かされるところに面白さがあると信じて見続けてみる。

anond:20190407105941

当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思いますイルカアシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います

このへんは、主観的な話にならざるを得ませんが、個人的にはイルカアシカエピソードに、自覚的グロテスクさは感じませんでした。リョコウバトのエピソード絶滅悲劇意識してるのは確かですが、そこがどこにも繋がっていません。

一般的な作劇として、不愉快イベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品テーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか、あるいは、キュルルの態度のほうが正しく、かばんさん的な人とフレンズ区別しない態度が偽善であることが示される、とかですね。

けもフレ2では、そういうテーマ性は見当たりませんでした。やろうとしてまとめきれなかった可能性もありますが、個人的には、そこまで深く考えていなかったようにも思えます。「シリアスエピソードを置くことで、作品に深みがでる」くらいのノリで置いて、それ以上は考えていないように思えたのです。

しかサーバルカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思います

あれが野生解放なら、筋は通りますね。野生解放といえよ、とか、他のフレンズは野生解放しないのか、とかは、内面世界問題ではなく、脚本の不備の問題ですから

しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。

リアリティラインの高低に関わらず、作劇のセオリーとして、クライマックスでは、内面世界が強くシンクロします。

主人公絶望と、強大なセルリアンの登場、友情パワーの高まりと、主人公の復活、セルリアンの撃退、などです。

この時、けもフレ1は、内面世界を繋ぐ筋、理屈を、うまく作っていました。

けもフレ2は、そのへんがあまり機能しておらず、内面の高まりが、なし崩しに外面に出てしまったと考えます

これは、脚本の不備と捉えることもできますが、けもフレ2単体で見た場合、そこまで気にならない。ただ、けもフレ1と比べると、目立ってしまう、というわけです。

最初に、「ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的リアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる」と書いた感じです。

ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えていますケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。

ケムリクサに置いて、内面世界シンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。また生存が厳しいという意味では優しくないですが、悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいないわけです。

思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というもの過去あったのでしょうか。

人間創作には色々な気持ちを込めるので、「あいつに負けたくない」「あいつの作品が、ここがダメなのを暴いてやる!」といった対抗心を作品に入れ込む場合はあると思います。そういうのは悪意と呼べなくはないでしょう。そうした悪意を高いレベル昇華して、優れた作品になることはいくらでもあります。逆に言うと「悪意を持って作られた創作」と言われるものは、悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらいものなわけです。普通、そういうのは商業では、否定されます。なので、おっしゃるとおり、「商業メリット以前に、悪意を想定する」のは常軌を逸した話であると思います

ただ商業メリットの話をしていくと、けもフレ2に関して「それ商業的に悪手じゃないの?」と考えられる部分は、作劇に限らず色々あるわけなので、それを正当化する理由として悪意を置くのは、あながち否定できない。なので、そうした悪意なしでも、けもフレ2という作品が生まれることは説明できる、という記事を書いたつもりです。その上で、もちろん、みんなちょっと落ち着いたらとは私も思います

そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットからたつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。

難しいと思います。単に優しくするだけでなく、優しくした上で、キャラを立てないといけないわけです。

例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。

anond:20190407054347

当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思いますイルカアシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います

リアリティラインが低い

これは誤読していました。単にご都合主義的ということではなく、内面世界の反映を問題としているのですね。しかサーバルカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思いますカラカルが「本気だすわよ」といってサーバルが”野生解放”をする。”野生解放”はけもフレ1でセルリアンハンターらが行っていますが、「最初から野生解放で行くぞ」の言い方から察するに、疲れる・コントロールできないなど常時その状態はいられない事情があると考えられます戦闘も終盤で2対2になったので解放したというのは筋の通る展開ではないでしょうか。他方、フウチョウについてはおっしゃるとおりで、異論はありません。加えて最後でのかばちゃん告白も、いままでサーバルとの関係が積み重なっているようには見えないので、強い思いが伝わりあの反応を引き出した、という見方をするしかなく、貴方の論に叶うものでしょう。しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えていますケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。

思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というもの過去あったのでしょうか。いえ差別的ヘイト創作はもちろんありますが、それは攻撃するターゲットが他にいるケースであって、今回は視聴者キャラクター攻撃する意図を疑われているわけでしょう。商業メリット以前に、悪意を想定する時点でもう、どこか常軌を逸しているように思えます。俺は実は監督交代の顛末に明るくなくてツイッターのTLにもその関連は流れてこないのですが、一連の感想ブログなどを追っていくなかで、俺にはなにか見えていないエネルギーがあるのではと思うようになりました。一般視聴者の間で凄まじい義憤が渦巻いていて、極めて高い同調圧力が生み出されていて、それが感想批評論理さえ捻じ曲げている。ナイーブな仮説ですが、そんな疑念を持っています

たつき監督の作劇は、たつき監督技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます

よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術必要になります

この論点は目ウロコでした。そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットからたつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。けもフレ1ではサーバルかばちゃんの表情を覗き込むシーンが多かったように思いますけもフレ2になってキャラクターの造形は表情豊かになりましたが、キュルルちゃん探偵二人が誘拐した騒動で、キャラクターを体ごと大きく動くのが難しかったのでしょう、ギクシャクした感じが出てしまっていました。たつき監督しかできない演出は確かにあったと感じています。作劇においてもそれがあって、避けるために得意な方向性に変えた(結果、戻った)という説は納得できそうです。(追記たつき監督の「素直なキャラだけで面白いドラマ」を作る作劇技術、というトピックはとてもおもしろそうです。優しい世界説はメジャーですが、けもフレ1の作劇技術解説した記事は見たことがありません。いつか語ってくれないかな〜〜という図々しいオネダリ

2019-04-06

ケムリクサはなぜ失敗したのか

五等分の花嫁面白すぎたからか?

2019-04-05

けものフレンズ2批判に対する雑感

 けものフレンズ2への批判に対して少々思うところがあったのでちょっと書き連ねたい。

 筆者はこれのためにわざわざはてなID取得をしたユーザーでまた平時は長文を書くようなことはしないため読みづらい文章になると思う。またこれに限らず多量の予防線を張っているのでその点も踏まえて許容できるのであればお付き合いいただきたい。

 まず、筆者のスタンスけものフレンズ2放送前の思考等について記しておきたい。

 実はこんな長文を書いておいてなんなのだが私はけものフレンズ2は未見である(厳密には1話のみ視聴)。これは私がアニメを見る体力が落ちているためであり、正直見アニメの本数がかなり減ってきていてけものフレンズ2も1話の時点ではそれほど惹かれなかったというのが大きい。似たような理由で未視聴に終わっているアニメは他にもある(五等分の花嫁とか)。したがって見ていない理由として今巻き起こっている大批判攻勢とはほぼ関係がないことを留め置いて欲しい(ただ、もしけものフレンズ2の評判が良いというのが伝聞として伝わっていたなら見ていた可能性はある)。

 けものフレンズ1期については楽しく視聴させていただいた。自分としては大絶賛とまでは行かないが間違いなく良い作品だと思った。ただ、2期の制作が発表された時は正直あまりいい顔をしなかった。というのも私は「1期の内容が良かったからと言って安易に2期を求めるべきではない」という思想を持っており、特に物語がきれいに完結している場合はこのあとに何付け加えるんだ、蛇足になりはしないか?と思ってしまタイプである

 次いで、たつき監督が2期の監督でないことが発表された時、「これは2期で何をやるか本当にわからなくなったな」と思った。というのも元々けものフレンズ2が1期の継承をやるものだという風には絶対視していなかったし、仮に1期の内容を継承したとしても確実に面白くなるとも思っていなかったからで、たつき監督降板はこの考えに拍車をかけるものであったからだ。この時点での私は継承しろ変革にしろ面白作品ができることを純粋に祈っていた。

 ちなみに、よく聞く「他の人々がたつき監督の功績を奪って自分たちのものにした」という批判?に対しては、我々は当事者ではないし話し合いのテーブルにいたわけでもないので実際にどういう事情があったか推し量れない。従ってこれは仮にそういう可能性があるにしても邪推である基本的に信じるべきではないと考えている。同様に「たつき監督搾取されていた」という言説もたつき監督がどういう契約形態を取っていたのか不明であるという理由否定的である

 要するに何が言いたいかというと、けものフレンズ2を批判する人々と私とは思想的前提条件等に大きな隔たりがあると思う。仮に今からけものフレンズ2を見ても批判者の人々ほど不愉快な気分にはならないだろう。精々不可解な場面に首を傾げたりしかめっ面をする程度ではないかと推測している。

 さて、いよいよ放送が始まったわけだが1話のみを見た感想は「まだよくわからないな」だった。まあ当然だ。強いて言うならキュルルはかばちゃんよりも頼りなさそうだな、と思ったくらいである。それからしばらくは先に述べた理由けものフレンズ2の視聴はしていなかったのだが話数が進むにつれ否定的な言説もちょいちょい見かけてはいた。が、ツイッターで同時に考察をする人もRTによる又聞きではあるが見かけていた。

 やはり、一番大きなパンデミックが起きたのは9話であろう。爆発的に批判が増えた。私は暇つぶしテリトリーとしてソシャゲを別とするとツイッターニコニコ動画を主に利用しているのだが、特にニコニコ動画で見かけた作中のキャラあるいは製作者を吊し上げ、叩きのめさんとするタイトルサムネイル動画は大きなストレスを与えた。これらの動画を開くことはしなかったことは言うまでもない。しか無視しても目に入るというのはとても精神衛生に悪かった。ツイッターでも口汚く罵るツイートが目につくようになる。漏れてくる情報からキュルルが不可解で”不愉快”な行動を取ったことはわかったが、かと言ってこれらを許容できることはなかった。所謂盤外戦の話も流れてきたが私はひどく粘着されて否定的言葉を浴びせられ続けられたらそれは人間壊れるだろうな。と思った。作品の出来や公人であることを以て発言を許すべきでないという意見も見たが許されない部分はあるにせよ人間として不自然な反応ではないと思っている。自分が同じ立場なら酷く陰鬱な気分になることは相違ない。

 ニコニコにはオリジナルキャラを作った動画も出てきて人気を集めていたが、非常に嫌な気分になった。うまく説明できないが制作陣がどういう意図けもフレ2を作っているかからないにせよ、それを冒涜する行為だと感じた。アレは呪いだ。間違っても高潔ものなんかじゃない。少なくとも私にとっては。

 しばらくしてケムリグサ11話が放映されその出来に最終話が出る前に今すぐそれまでの話を見るべきだ、という趣旨ツイートが相当数流れてきたが(ケムリグサも未視聴だった)私は見る気になれなかった。そのツイートの中にはけもフレ2を散々にこき下ろした人間も混じっていたから。私はどの口でそんな事を言うのかと思った。感情に任せて作品を殴りつけるような行為をする人間が勧めるような作品を見たくなかった。ケムリグサが良い作品だとしてもそれを礼賛する人間の一部の行為によってケムリグサにも泥がかかったように見えた。

 そしてけものフレンズ2最終話が放映され、ニコニコ放送アンケートが酷い結果を叩き出し、また様々なレッテルを貼られた。曰く「榊遊矢に勝った」だの「けもフレ1を抹殺した」だの。見るに堪えなかった。物見遊山のつもりで批判ツイート連続してRTしたユーザーがいてフォローを外したりした。その一方でけもフレ2に対する別視点から批評も見た。タイムラインに流れてきたのを読んだだけなのでURLは覚えていはいないし、仮に貼って批評を書いた方に迷惑をかけてはいけないと思うので参照元差し控えるが、それによると「元々アプリからアニメ1期の時点で断絶は発生していた」という論評もあったし、「はじめからけもフレ2は1期を踏襲するつもりはなく、ヒトとケモノ関係について1期と明確に差別化し新たな形を提示しようという意図があった。うまくいっていないにせよ私はこのタイプ作品が好きなので評価したい」という批評もあった。あまりの叩かれ様に婉曲的に苦言を呈する人もいた。直接的に苦言を呈した人もいた。炎上した。炎上した人を見てどうして火の中に飛び込むような真似をするのかと言った人がいた。ねとらぼ記事中立的で良い記事だと思ったがそれにすら文句をつけている人がいて救えないと思った。

…もううんざりだ。私は一連の騒動辟易している。情報収集のためのツイッターストレスが流れてくる。暇つぶしのための動画サイト巡回に気を使う。私は嵐が過ぎるのをじっと待つより他ない。


ここまで言っても「制作陣を援護するような利敵記事だ。聞くに値しない」などと言われるであろうことが容易に想像できて嫌になる。

anond:20190405122223

けもフレ1期の監督が「カドカワにやめさせられた」と受け取れるような思わせぶりなツイートをする。

1期の信者が「悪のカドカワとかわいそうな監督」という陰謀論的な構図を作り上げて各地で破壊活動を繰り返す。

1期の監督オリジナルアニメケムリクサ」と、けものフレンズ2期の放送時期が被る。

1期信者にはもちろん「ケムリクサ」のほうが好みに合うし、けもフレ2期は「1期と違う」という理由だけで叩かれる。

1期の信者が2期のスタッフ罵声誹謗中傷を浴びせ続ける。

2期のスタッフ反論するようになると、それを拡散して「スタッフが殊勝ではないから叩かれるのは当然」という空気をつくる。

1期信者でない視聴者も、絶え間なく流れてくる「悪意のある解釈」「水に落ちた犬を叩く空気」に感化されて、2期の欠点を過大に受け取るようになる。

けもフレ未履修で眺めるアニメ2期まわりのあれこれ

けものフレンズアニメ1期、2期ともに未視聴。
その上で見える情報を拾うと、アニメ2期に関してはこんな感じに見えている。

まず「アニメ1期の存在」をとりあえず横に置いておいた場合アニメ2期自体評価としては、下記のように見える。

ここに「アニメ1期の存在」を関連させてくると

さらに「アニメの外側」を絡めてくると

という感じに見える。
なんとなく「アニメ1期の存在」のあたりまでは「評価の芳しくないアニメ2期」としてはありそうなレベルなのだけれども、「アニメの外側」の諍いが目に見える形で行われたことで、そもそも視聴者がいい感情を持って視聴していないところからまり、そこに求めていないアニメを出されて (そしてその横に求めるアニメがあって) 大騒ぎ、という感じ?

正直ケムリクサはBLAME好きによる二次創作という範囲から超えていないと思うの

けもフレ2もケムリクサも今後見るつもりは一切ない

理由けもフレ2アンチ言動があまりにも酷すぎるから

制作者側や面白いと言ってる人にも対して口汚く罵ってて見るに堪えない。

彼らにとっては「正当な批判」だろうけど外野自分にとってはただの悪口ネットリンチしか見えない。

あん人達を見たらけもフレ2アンチに対する心証は最悪だし反感贔屓でけもフレ2を擁護したくなる。

けもフレ2とケムリクサを見ても逆張りして「なんだ案外面白いじゃん」「過激派けもフレ2アンチが絶賛してるアニメから面白くない」と思って正当な評価が出来る自信がない。

暴走したけもフレ2アンチ言動に惑わされずフラット気持ちで見れればいいんだけど自分はそこまで出来た人間じゃないよ…

2019-04-04

anond:20190404075941

生憎、そんな迂遠な話をできる器量も機微もない。

友人がケムリクサを吹かしていた時、「喫煙者マナーは最低限守れよ」なんてつまらないことを言う人間からな、私は。

神になったたつき幸福怪物

たつき監督一部の人達にとって本物の神になったんだと思う。

彼の作品や行動からは"人の望んだものを提出する能力"が高いということが見て取れる

たつき信じろ」と言われたとおりに期待は裏切らない、助かって欲しいと思えばそのキャラは助かるし、続きがほしいと願えば供給される

まり自動需要に答える幸福装置的な人物なのである

ここから作品の内容の話になるが、

たつき監督作品("けものフレンズ1期"と"ケムリクサ")に出てくる"仲間"キャラクターは

・お互いに望んだ通りの行動をして、

・それに必要能力を都合よく備えていて、

・それでいて責任感を全く感じさせない

そして作品に出てくる"敵"は

個人の悩みや状況的な困難

・戦いの相手意思疎通のできない怪物のみ

・"思想の違う他人"と理不尽戦闘になることがない(争いはあっても話し合いなどで解決できる)

これらを徹底することによってたつき監督作品からストレスとなる人同士の戦いを出来る限り排除している

から彼の作品は心地よく見ることができるのだろう

彼の作った世界には安心が満ちている、そしてファンとして彼の国にいるうちは幸福を感じられる

もちろんここまではなんの問題もない、彼はただひたすらファンの期待に答えているだけなのだから

しかし彼の国は、国民(ファン)にとっては紛れもなくユートピアだが、そこに入らない(入れない)者にとってはディストピアとして映る

"幸福国民幸福をもたらす神に仇なす者を許さない"、あまり幸福であるがゆえに、幸福を守るためにはどこまでも凶暴になれる

同調しないもの異端者として否定されるし、不快存在フレンズではないと排除される

たつき監督降板したあと、続編として制作された"けものフレンズ2"

この作品内には、1期ではありえなかった"友達にならないという展開"(つまりキャラクター同士の不協和)が存在するとして話題になっている

1期と2期は別の作品であり、1期になかったものが2に存在しても何もおかしくはない。どういう展開だろうとそれは演出だと言えるのだが

1期のファンは、これを1期に対する挑発破壊行為として認識している、つまり宣戦布告だと言っているのである

ネット上で行われているけものフレンズ2の監督スタッフ肯定的視聴者に対する罵詈雑言を見た人もいるだろう

人との争いが存在しない幸福の国の国民にとって、国外の外敵は"人ではない怪物"なのである

そしてこの私的制裁に神本人は直接関与も言及もしない、

一言たつき監督が「2期に迷惑をかけるのはやめてください」といえば騒動は収まるだろうし

仮に「ざまあみろ」とでも言ってしまえば彼の国の安心崩壊する

何も言わないことによって、その国民は、外敵を永遠に攻撃することで幸福を得る立派な怪物になったのだ

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