はてなキーワード: 自己中心的とは
【昨日見た夢】
私と娘が湖の岸辺にいたところ、いきなり娘が湖に落ちた。娘が落ちたのを見て、私も湖に飛び込んだ。
飛び込んだ瞬間「よかった」って思った。私は娘がピンチと時に、自分の命を顧みず、娘を助けようとすることができる母親なんだって思った。
湖に飛び込んだ後、水中で、湖なのに流れが早く、流されていった娘を捕まえることができなくて焦りはじめる。「私は子供を亡くした人間になるのか」って思いながら、夢から目が覚めた。
【夢の感想】
夢の中の出来事だけど、自分が娘を助ける行動がとれたことが良かったって思った。
4歳の娘は私のことが大好きでまとわりついてくるが、私はそんな娘を鬱陶しく思うことが多かったので、娘が湖に落ちても、「これでせいせいした」みたいに見殺しにするんじゃないか不安だったが、そんなことはなかった。
あと、娘が溺れて死にそうになっているのに、そのことを純粋に悲しむのではなく、「私は子供亡くした人間になっちゃうな」みたいな自分のことを考えているところが、自己中心的というか、私はそんな人間なんだな、と残念だった。
とりあえず、娘が湖に落ちたりしないように気をつけようと思う。
割と都会のランナーの人たちで傍若無人で自分さえよければいい、みたいな走り方の人結構いるから、ランナーの人はほぼ全員嫌な奴っていう印象がある。都市公園とかで、他の歩行者とか犬連れて散歩している人とかのことを省みず自分のコース取り優先して、汗とか唾とか飛ばしながらすり抜けていく人達。自己中心的なんだよなぁ
○ご飯
朝:なし。昼:玉ねぎ炒め。焼きそば。夜:だし豆腐納豆。ピーマンとシメジと玉ねぎのスープ。魚肉ソーセージ。ブルーベリーヨーグルト。間食:オーザック。豆菓子。ハチミツ味のポテチ。ばかうけ。(お菓子食べ過ぎ)
○調子
まあ休日だし許して欲しい。いや内臓に休日の概念はないし、許してくれないのだけれど。
・はじめに
陰気で友達が少ない女子高生のスバルと、その数少ない友人で正反対な陽気な性格のミスカの友情と断言しがたい歪な関係が、お人形さんの様と評される美少女転校生ルウの登場で変化していく様を楽しむノベルゲーム。
だけでなく、混沌が蔓延ってきて日常を侵略するホラー要素もあるのだけど、そちらは元ネタありきの展開が多くそういうものとしてふんわりとしか理解できる読んだので感想が特にないためこの一行以降はふれないことにする。
学校という閉じた人間関係と、思春期らしい自己の有りように悩む様とが、ある場面では丁寧に、別の場面では幻想的に描かれていて、この二点が文量の多くを占めている。
甘い恋愛的なイチャイチャする読んでいて楽しい気分になるシーンよりも、関係性に悩み他人を気遣うがあまり自傷的に自己言及を繰り返す辛くて悲しいエピソードが多め。
そんなこと一人で考えても答えは出ないし一生悩んだり楽観的になったりを繰り返すしかないよ、と大人になった今でこそ思うものの、自己と他者の関係性の有り様を悩む様は読んでていて共感する場面が多かった。
そんな辛い中でも食事のシーンは彼女達の悩みも何処へやらで舌鼓を打ってくれるので、夕飯の時間が待ち遠しくなったりもした。
陽気で友人が多く、テストの成績こそ悪いものの教師からの覚えもよく、容姿も可愛いと褒められ、前向きで良い子なミスカ。
しかし、スバルの方はミスカから向けられる好意を素直に受け止めない。
それどころか、些細な表現や物言いをどんどん悪意を膨らませてしまうスバルの生き方は苦しそうだった。
ミスカの一人称と、スバルの一人称を行き来することになるのだけれど、二人はすれ違い続ける。
ミスカは衒いがあるわけでなく、本当にただの根明で、楽しいことが好きなだけの普通の子。
ところがスバルはどこからでも悪意を見つけ、彼女の好意を受け取ろうとしない。
この関係値の噛み合わなさは読んでいて本当に辛かった。
ミスカが友情でなく恋愛としても惹かれていて、その理由もスバルの言う悪意のあるものでないにも関わらず、それが本当に一切伝わらない。
誕生日にケーキをご馳走するという、善意100しか考えられない行為ですら、スバルは穿ったものの見方をし、ミスカからの気持ちを真っ直ぐ受け止めない。
ペットボトルの回し飲みでミスカが間接キスにドキドキするも、スバルは喉が渇いたとしか思っていないシーンなんかは、もう読んでて可哀想だった。
空回りするミスカの好意が、物語的な意味でも何も前進させないのも読んでいてしんどかった。
献身的にスバルに尽くすミスカと、自分の内面世界のことでいっぱいなスバルのすれ違い。
スバルが素直になれば、開幕5分でハッピーエンドまっしぐらなぐらい、ミスカの好きは真っ直ぐで一貫してるのがもどかしい。
そして何よりスバルの素直な気持ちはミスカではなく、転校生のルウに向けられてしまう。
そんな端的に言ってしまうと性格が悪いスバルが、海外から転校してきたルウと交流することで変わっていく。
ルウは箸の使い方を知らず、麻婆豆腐や唐揚げやメロンパンを食べたことがない程に無垢な存在。
危うげというわけではなく思慮深いのだが、学校という枠組みからは大きく外れたような物言いもする。
そんな無垢さがスバルの悪意増幅センサーを回避するのか、ミスカからの好意を悪意に変換し距離を置こうとしていたのとは対象的に、ルウとはドンドン距離を詰める。
ミスカの好意が一方的なものだったのに対して、スバルの好意はルウに受け止められ、スバルとルウはドンドンと関係を深めていく。
ルウの方も、スバルのことを深く知りたい、会話したいと甘えるように距離を詰める。
手繋ぎデート、夕飯を一緒に作るなどの高校生らしいそれもあれば、添い寝や過激なスキンシップなどもあり、CERO Cとしてはそれなりに攻めたシーンも。
ルウとスバルがイチャイチャすればイチャイチャするほどに、ミスカは空回り続ける。
こうなっても客観的にはミスカはオカシイことをするわけではなく、ひたすらに良い子なのが可哀想さが増す。
ミスカは僕が先に好きになったのにと反転するでもなく、転校生の面倒を見れるスバルの成長を喜ぶ良い子なのだ。
ミスカからの好意は悪意に変換するのに、ルウからの好意はそのまま受け止めるのか。
ということは、スバルの精神世界を幻想的に描くシーンで抽象的に描かれる。
まだ人権の概念が無く子供を産むことだけが女性の価値であった時代を生きていたとある女性のエピソード、他人がおらず四季の移ろいをただ楽しむだけの世界などの、夢のエピソードと共にスバルの内面がゆっくりと掘り起こされていく。
一人で無限に牛乳と果実を食べ続ける生活が示唆するスバルの本音は、納得できるところもあったが、だからと言ってミスカの可哀想な空回りが救われるわけではない。
ここが本作の賛否別れる大きな箇所だろう。
スバルにはスバルなりの理由があるとはいえ、ミスカの気持ちはどうにもならないのは、正直僕はあまり好みではなかった。
あんなにも根っからスバルのことが好きで純粋にそのために良いことだけをして来たミスカが、フラれるとか、恋愛対象として見れないとかじゃなく、嫌われるのは、辛い。
ただこのミスカの好意の空回りの先が知りたい気持ちの牽引力は凄く、楽しいとか面白いではない、マイナス方面の感情で読ませる物語はよく出来ていた。
・さいごに
スバルを好きだけど見向きもされないミスカの空回りと、スバルとルウのイチャイチャという三角形の一辺が欠けた歪な関係に着目して感想を書いた。
ミスカの一人称ではスバルのことが大好きで一生懸命善意で良いことをする前向きさが、
ルウの無垢さに惚れていく展開は、辛いけど読み進める手が止まらなかった。
ミステリやコメディといったわかりやすいハッピーエンドが好きなので、好みとは大きく異なっていたが、終わってみるとコレはコレで好きな作品だった。
托卵をした場合
男性:本来よりも優れた遺伝子を持った子供を我が子として育てることができる。得意分野である金稼ぎを最も意義深い形で行える。
女性:本質的に優れた男性に抱かれ、その子を設けることが出来る。自分の気持ちに嘘をつく必要がない。
子供:本来であれば得られなかった優れた遺伝子を持って生まれることが出来る。
と全方位ヨシな結果が得られる。
男性は己の行いで勝手に不幸になり、女性と子供は経済的・精神的に被害を被る。
「男性は論理性が欠如していて衝動的であり、長期的な自他の幸福よりも目先の感情でしか物が考えられないから」
なのである。
さて、托卵を行うことで僕がこんなに傷つくんだぁ!という幼稚な叫び声の裏側に、
托卵が行われなかったことによって発生した不幸(チー牛の再生産や少子化)がどれだけあるだろう
托卵をした場合
男性:本来よりも優れた遺伝子を持った子供を我が子として育てることができる。得意分野である金稼ぎを最も意義深い形で行える。
女性:本質的に優れた男性に抱かれ、その子を設けることが出来る。自分の気持ちに嘘をつく必要がない。
子供:本来であれば得られなかった優れた遺伝子を持って生まれることが出来る。
と全方位ヨシな結果が得られる。
男性は己の行いで勝手に不幸になり、女性と子供は経済的・精神的に被害を被る。
「男性は論理性が欠如していて衝動的であり、長期的な自他の幸福よりも目先の感情でしか物が考えられないから」
なのである。
さて、托卵を行うことで僕がこんなに傷つくんだぁ!という幼稚な叫び声の裏側に、
托卵が行われなかったことによって発生した不幸(チー牛の再生産や少子化)がどれだけあるだろう
托卵をした場合
男性:本来よりも優れた遺伝子を持った子供を我が子として育てることができる。得意分野である金稼ぎを最も意義深い形で行える。
女性:本質的に優れた男性に抱かれ、その子を設けることが出来る。自分の気持ちに嘘をつく必要がない。
子供:本来であれば得られなかった優れた遺伝子を持って生まれることが出来る。
と全方位ヨシな結果が得られる。
男性は己の行いで勝手に不幸になり、女性と子供は経済的・精神的に被害を被る。
「男性は論理性が欠如していて衝動的であり、長期的な自他の幸福よりも目先の感情でしか物が考えられないから」
なのである。
さて、托卵を行うことで僕がこんなに傷つくんだぁ!という幼稚な叫び声の裏側に、
托卵が行われなかったことによって発生した不幸(チー牛の再生産や少子化)がどれだけあるだろう
この件に限らず、さも「自分は相手の気持ちに寄り添える人間です」というツラをして実のところ相手の立場になって考えることがまったくできていない、自分のことで頭がいっぱいの奴が多すぎるんだよな
まじで自他の区別がついてない
ゲテモノ料理を食べさせられる、バンジージャンプを飛ぶ、お化け屋敷を歩かされる、泥のプールに突き落とされる、電流の流れる椅子に座る、まあバラエティには色々あるわな
2.嫌だけどそれが仕事だしお金がもらえるから我慢してやります
3.本当はお金をもらっても無理だけど断り切れずにやってしまうかも
とまあさまざまなわけで
「俺(私)だったら金もらっても絶対に嫌だわwww」って「もし自分だったらどうするか」と想像してみるところまでは分かるよ
でもそこで芸能人がヤダ~なんて言いながら渋々ゲテモノ料理を食べた瞬間、
自分の身に置き換えてのめりこんで視聴するあまり「俺は嫌だって言ってたのに無理やり食べさせられた!!」「私は一般人だからギャラも出ないのにプライベートで無償でやらされた!!」っていう認識に脳みそが支配されて烈火のようにブチ切れてクレームを入れる
いやオマエがやらされたわけじゃないんだしあっちはそういう仕事で合意の上でやったことでそれで金もらってるんだから別にいいだろ
自分が嫌なことはみんなも嫌に違いない、私がやりたくないことは誰もやりたくないことじゃないといけないしやってはいけないとかあまりにも自己中心的すぎる
フェミニズムに染まってそうな女とかマッドマックスのフュリオサを持ち上げてたくせに女芸人が合意の上で丸坊主にしたことにすさまじい嫌悪感を示してるのって偏見にまみれてるのはどちらなんだ
丸坊主にされた女を守りたいんじゃなくて自分が思いやりがない差別主義者だから丸坊主の女の存在を許せなくてスタッフに八つ当たりしてるんだろ
プロの心理カウンセラーとして、私は「これはこうあるべきだ」と他人に主張する人の心理と対処法を次のようにお伝えします。
「これはこうあるべきだ」と主張する人と接する際は、以下の点に注意しましょう。
「これはこうあるべきだ」と主張する人は、様々な心理的な要因が考えられます。相手の立場を理解し、自分の意見を押し付けずに接することで、円滑なコミュニケーションを図ることができます。
少年のボブは悪ガキだった
ボブはもともとこうだったわけではない
ボブが4歳になるまでは、とても真っ直ぐな心をしていた
ところが、ボブの周りには悪魔のような人たちがいた
孫娘を虐待するどこかのおばあさん、ボブに暴力をふるう同い年の子供、悪意を植え付けるテレビ番組
誰かが「優しさは本当の強さだ」と言うと、ボブは泣き虫だった3歳のときの自分を思い出した
ボブはどんどん自己中心的になっていった
ボブが高校生になり、インターネットを使うようになると、知識を得るようになった
しかし深く考えず、鵜呑みにした。これが世界なのか、生きる意味はなんなのか、とボブは落ち込んだ
ボブは幼き頃の真っ直ぐさとは程遠い、萎れた植物のように曲がっていた
ボブは安直に、簡単に死ねるならどんなによいことかと思ったが、死というもののなんともいえぬ恐怖により、なんとか生きていた
ある日、ボブは偶然、花屋に寄ろうと思った
「こんにちは」
「やあ、君は近所のボブくんだね。何がほしいのかな」
「いや、何というわけでもないのですが、植物を育てたくて。実は人生に迷っていて、生きるとは何かについて、知りたいんです」
「そうか、そういうことなら...」
「これを育てるとよい」
それは小さくて黒い、見た目はつまらないものだった でもボブはその種に何かを感じた。ボブは聞いた
「これはなんという植物ですか」
「これは善の知識の種と言うんだ。善の知識が芽吹き、花咲き、実を結ぶ。」
「善の知識ですか?」
「そうだ。これは古からの秘伝の種だが、君が生きるのに迷うなら育てると良い。育った植物が君に生きる意味を教えてくれるかもしれない。何が育つかは君の心次第だ」
「ありがとうございます。代金を支払います」
「お代は結構だよ。君がよく下を向いて歩いているのを見ていたから、私も心配だったんだ。だからプレゼントだ。賢く育てると良い」
ボブは部屋に鉢を置き、種を植えた
ボブは種に話しかけた
善の知識について教えてほしいと願った
ボブは種に歌を歌った
善の実がなるようにと祈った
やがて種は芽を出し、茎と葉を伸ばした
ボブは驚いて、芽にありがとうと言った
でも種はまだ何も話さなかった
ボブは不満に思って、種に怒鳴った
どうして善の知識を教えてくれないのかと責めた
芽はこう答えた
「善の知識はただ教えられるものではない。探し、見つけ、学べ。考え、判断、行動してみせよ。試し、失敗し、成長するのを私に見せよ」
ボブは納得しなかった、芽に反論した
探すなんて面倒くさいと言った
考えるなんて難しいと言った
行動するなんて怖いと言った
試すなんて無駄だと言った
芽はこう言った
「君がそう思うなら、私は君に何も教えられない。君がそう言うなら、私は君に何も与えられない。君がそうするなら、私は君と何も分かち合えない。君がそうするなら、私は枯れてしまうだろう」
ボブは気づいた、芽が弱っていることに
ボブは慌てた、種が死んでしまうことにボブは泣いた、種が消えてしまうことに
しばらくして、ボブは決心した
この芽の成長と共に善の知識を探そう、この芽と自分が萎れないように、潜んでいた悪の闇に飲まれないように、新鮮な光を当てよう
種も植えなければ育たない
ある人間に「死にたさ」が上がってきたときに、それを打ち払う便利な思想を自分の人生経験から編み出したので、それを紹介したいと思う。
これは自分はリアルでたくさん言っているのだがなかなか言うべき機会も少なく、普及しないので増田にも書いておく。
いってみよう!
「仮に10億円あってもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
「死にたさ」が上がっているときは「そんな夢みたいな荒唐無稽な話を聞かせてくれるな」などと言い出す人が多いが、それはすなわち「それが叶うなら生きてもいい」という証である。
ほとんどの問題はこれに帰着する。金があっても死のうとする場合は衝動的なものか、金持ちの道楽のようなものである。
「もし10億円あるなら死なない」という答えになった場合、そこから「5億あったら死なないか?」「1億あったら死なないか?」「2000万あったら死なないか?」などのように逆算する。
ここでたとえば「200万あったら死なない」のような結論が出た場合、死にたさの答えは明らかである。金がないことが問題であり、その金を稼げないこと、どのようにして稼げばいいのかを知らないことが問題である。
金があるなら仕事を辞めることもできるし、一時的に1年休むだとか、転職活動をすることもできるし、広い家にも住めて生活にゆとりとハリが出て、喧嘩も減り、やりたいことにも挑戦できる。
以上によって、死にたさの問題は金に帰着した。あとは這いずり回って稼げばよい。守銭奴のように金を求めれば救われる。
生死の問題だと思っていた人に「あなたの問題は200万円の問題ですよ」と示したとき、衝撃を受けたその人の顔を見るのはなんとも痛快である。
「死にたい」という思考が出てきたとき、通常は「望んで死にたい!!!!!!!」という朗らかポジティブるんるん思考ではないはずだ。
「自分は生きることは全然余裕綽々なんだけれども、でも、自分は絶対に死ななきゃならないんだ!!!!!自分は死ぬために生まれてきたんだから!!!!!死にたい!!!!!!!!!今すぐに死にたい!!!!!!!高らかに!!!」
のような気分ではなく、たいていは「死にたい…………(絶望)」のような気分になっているものだ。
重要なことは「本当は生きたいのだけれど、なんかうまくいかなくてめちゃくちゃ苦しくてもう無理……せや!! 生きるよりも死ぬことの方がマシなのでは????」という消極的な選択をしているという事実を認識することである。
「叶うことなら、本当はハッピーにしあわせに生きていきたいのだ」という自分の心を解放すると、周りの環境から「お前はハッピーでいてはいけない」「苦しみに耐えればいつか幸せになれるよ」などと教化されて、いつしか「苦しむことこそが自分の幸せなのだ!」という信念が強固になってゆく。
冷静に考えてみると何かおかしくないだろうか。
「なぜこの俺様がこんなに我慢を強いられているのか???俺様をお前らは殺そうとしているのではないか。鞭を打てて、かつ虐げることができる生贄として、ギリギリ生かされているだけなのではないか?」などという外に向ける凶暴で凶悪な怒りが実はあるはずなのだ。
死にたいのではなく、「周りの環境からの抑圧によって殺されつつある」という自覚がただひたすらに重要である。
ただ弱い、ただ無力、ただザコなのである。弱いから死にたいという気持ちがあがってくる。無力だから虐げられる。ザコだから一方的に攻撃される。
「仮に健康的で体力があって自分が笑顔でるんるんでもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
そのような気分にはなれないかもしれない。いや、そのような気分に、なりたくないのである。
なぜならそのような気分になっていた場合、周りから不審な目を向けられるからだ。
「お前には人の心というものが無いのか」「悲しまなければならないときになぜお前は悲しんでいないのか?」「絶望すべきときに、なぜ絶望しない?」「お前は人間ではなく、化け物だ」と扱われることの甚大なる恐怖によって、お前の感情は規定されている。
さて、通常、肉体が健康的な状態になっているならば死のうという気持ちが起こることはない。
つまり死にたさがあがったとき、そのような肉体を保持していることに原因がある。これは運動・睡眠・食事などの、肉体的なもので解決する問題である。したがって頭でこねくり回しても無意味である。
つまり外に出れば良い。
また、外見によって人は態度を大幅に変える。病的な人間には人は苛烈に対応する。とてもか弱い歯向かってこないひよわな人間に、人は優しくなどしないものだ。一見味方のフリをして、本当は支配したい人間も寄ってくる。支配したいのに「あなたの味方ですよ」という顔をするからたちが悪い。
所詮、手のひらの上で転がされているだけなのだ。飛び立とうとしてみろ。奴らは足を引っ張り出す。いつまで籠の中の鳥の気分でいるつもりだ。お前はインコか。
人生は不公平なものであり、なかなか思うようにうまくいかないものだ。どんなに言葉を取り繕ったとて、自分より明らかに楽をしていい思いをしている人々が多くいる。
自分は苦しい思いをしていて、呪縛され、どうにもならない、人生とはそんなものだという無力感を持っている。
「こんなにやったのに」「こんなに頑張ったのに」「でも自分はだめな人間だ」「もうどうしようもない」という自責の念・罪悪感を持っている。
「だから自分など、苦しんだほうがよいのだ」というふうに考えているのだ。仏教的、儒教的、アジア的、日本的な価値観である。
これは苦しんでいるようでいて、実は楽をしており、快楽を得ている。「苦しめばおっけ〜!」という甘いスイーツに酔いしれているのだ。
お前は簡単に苦しんではならない。もっと、より、高度に苦しまなければならない。お前の苦しみなど苦しみではない。せいぜい最大でも1人分の苦しみだ。
より苦しめば楽になるのである。
にもかかわらず、楽になろうとすると恐怖が湧く。見えている苦しみ、どうせ人生はトータルでいうとこれぐらいの苦しみだろうという予測以上の苦しみを得ることに恐怖を感じているから、現状の苦しみで安定する。
「自分が苦しみさえすればいいんでしょ?」「自分が全部悪いんだよね」という攻撃性をうまく覆い隠して、悲劇のヒロインを演じている。男も女も変わらない。お前はシンデレラか。
より苦しむべきである。
この世に期待などするな。それでももし諦めたくないのであれば、自分がその希望になる他ない。お前が無条件に他者に愛を注げ。
お前が他者に愛を注ぐような利他で無私の心で、その一部を証明せよ。愛はお前が与えなければこの世に存在しない。
だいたい、他人も生きていて、他人もその人の人生で手一杯である。どうしてお前を救えようか。
死にたいなどと思っているうちは、お前は利己的で自己中心的でわがままなのである。死にたい人間に生を与えろ。誰かの希死念慮を打ち払え。
人の価値を金銭で考えるべきではないといううぶな考え方を抱いている人が多いが、人命は金と交換可能である。
建前上、人命は金に変えられない高価なものだとされている。もちろん、この精神自体は素晴らしいものだ。理想として、そうあるべきだ。
しかし、現実はそうなっていない。200万円が無いことで死にたさが湧いて、そして実際死んでしまうというのは、命の値段が200万円であるということだ。
金を誰かがくれるわけではない。なぜ俺が赤の他人の、しかも俺に攻撃を仕掛けてくるような精神性の持ち主に金をやらねばならないのか?
お前の人生だろう。俺の人生ではない。なぜ俺だけがお前を一方的に助けなければならない?お前だけが生きているのではない。
誰も無償で助けてはくれないのだ。お前が助けてくれとヘルプを出さなければ誰も助けることはできないし、ヘルプを出したからといって必ず助けてもらえるとは限らない。
自分で自分を助けるしかない。他人に縋るな。絶望が足りない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
世の中は不平等だ。それを改善しようとする動きもあるが、全然追いついていない。
なぜそれを待つのか。待って待って待って、待って耐えれば満足か?そんな日は来ない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
優しくがんばれがんばれと言われたらそれで満足か?それがお前の人生か?そいつはお前の人生に責任など持たないぞ。
まずは自分で自分を鼓舞しろ。なぜ他人に身をまかせるのか。「どうにかしてくれ」ではない。お前がお前でどうにかしろ。
お前は死にたいのではない。生きたいのだから生きればいい。努力してもしても無理だったんだろうが、まだまだ絶対的に足りないのである。全く足りない。やってないのだ。
俺がお前のことを何もわかってないことが憎いか?殺したいか?怒りがこみあげたか?万能薬でないことに絶望したか?
逆にお前は俺の何を知ってるんだ?
クソザコに生きる術を伝えてるんだ。お前の無知の範疇で理解した気になるな。ちゃんと全部読めてんのか?眺めてるだけでは何一つとして読めんぞ。これはそういう文章だ。ありがたく精読して頂戴しろカス。
(追記)予想以上に多くの人に見ていただいてびっくりしています。最後の方にコメントで寄せられていることについて一部回答と説明を追加しました。
【本文】
初めての投稿
30代男性
身長173cm
体重76kg
高専卒
工場勤務
拙い文章なので読みづらかったらごめんなさい。
増田は高専を卒業して適当に決めた地方の工場に就職した。一応大企業の工場なので給料はそこそこ良くて、交代勤務ということもあり比較的自由な時間が多い職場だった。学生時代は専ら夜型人間で毎日来る日も来る日も、メタルギアオンラインをやって夜ふかしして授業中にうとうとするような生活をしていた。いつも寝不足気味だけど少し寝れば動けたため自分はあまり寝なくても大丈夫な人間なんだと思っていた。就職してからもはじめのうちはそんな生活を続けていた。
三年目になって責任のある仕事を任され始めたときに、苦手な人が自分の上司になった。
その人はとにかく揚げ足をとったり重箱の隅を突くようなことを言うことで有名だった。増田は無事その上司からロックオンされてしまい、それから3年間は地獄のような生活だった。交代勤務による不規則な生活に加えて、上司からのストレスで眠たいのに寝れない状態が続いた。眠れないからゲームをする。更に眠れなくなる悪循環に陥っていたと思う。ゲームをやめろよって思うかもしれないけど、その時は日々のストレスの捌け口がゲームしかなかったから辞められなかった。
いよいよ夜勤明けでも寝られなくなってきたので、休みの日はマック2セットと酒をどか食いして気絶するように無理やり寝ていた。おかしくなる前の1ヶ月は、2日間徹夜は当たり前、3日間徹夜することもあった。
そんなある日2回連続で遅刻した。一回目はその日の記憶があまりない。あとから聞いたら、結構重要な仕事をとんでもなく雑にこなして周りに迷惑かけたうえに、時間になると次直に交代してすぐに消えたらしい。
二日目はっきり覚えている。職場からの電話で起きた。時間は朝10時。遅刻だ。しかも、なにやら頭の感覚がおかしい。とりあえず目を覚まそうと浴室にいき、シャワーを浴びる。シャワーから出たとき時計は10:40になっていた。体感5分ほどしか浴室にいなかったのに時間が経ちすぎている。浴室内での記憶がなくなっていた。とにかく会社に行こうと車に乗った。また記憶がなくなるのはヤバいと思ったのでしっかり目を見開いて信号の色を声に出して運転したが、最初の信号以降の記憶がなく気がついたら会社の制服を着てロッカールームにいた。仕事場に行き上司に一通り怒られたあと、夜勤明けの後輩と引き継ぎを行った。その後輩の日本語が何も聞き取れなかった。正確には、聞き取れてはいるんだけど意味を理解する前に記憶から消えていく感覚だった。これはちょっと面白かったのを覚えている。もう一つ、引継書に書いている文字が浮き上がって踊っていた。これはうつ病だったり統合失調症の症状で聞いたことがあったので、あ〜これかーって感じだった。認めたくなかったが、その光景を見て多分だめだなって思った。その後仕事で使う設計図見ても何も意味わからんし、そんな状態で仕事などできるわけもなく、上司にギブアップし頭の病院に行くことを伝えた。
診断は双極性障害。心当たりはあった。むしろ心当たりしかなかった。この3年間で貯金を含めて1000万くらい無駄遣いしていた。決まって散財するのは冬だ。車を買い替えること3回、友達に30〜50万あげたこともあった。趣味の道具で部屋は埋まっていた。これは躁状態によるものだったのだそうだ。
斯くして精神病院への通院と薬の服用が始まった。抗精神薬と睡眠薬を処方された。睡眠薬を発明した人はすごいと思う。あんなに寝られなかったのに飲んで15分で7時間寝ることが出来た。抗精神薬は正直よくわからなかったが今良くなってるから効いているのだろう。会社を休職すると辞めてしまいそうだったので、保健室通学みたいに会議室へ出勤して雑用をちょこちょこやるのを半年続けて、だいぶ頭がはっきりしてきた頃、友達に進められてやったマッチングアプリで出会った女の子と付き合うことになった。
これが本当に良かった。彼女のお陰で生活リズムは整い、部屋は片付き、風呂に入るようになった。やっと人間に戻れた気がした。
それからの回復は早かった。その後交代勤務には戻らなかったが日勤として仕事ができるようになり、その彼女と結婚した。子供はいないけど仲良く暮らしててあの頃を考えると、今は最高に幸せな日々を送っている。
まず1つはプライドがなくなった事。自分をよく見せようとか、理想の自分でなきゃいけないっていう強迫観念から開放された。いい意味でプライドを捨ててありのままの自分でいられるようになったと思う。
2つ目は人にやさしくできるようになったこと。増田は元々冷たい人間だと言われていたが、本当に辛いときに彼女や先輩、後輩にかなり救われ、今までの自分があまりに醜く自己中心的だったことを思い知った。同時に自分のような人間を救いたいと思うようになった。
久しぶりに会う友達からは同じ人間じゃないくらい変ったと言われる。
双極性障害を、経験して人間的には成長できたと思う。精神疾患も悪いことばかりじゃないと今は前向きに捉えている。
(追記)
結構批判とかくるかなと思ってビクビクしてましたが、思いの外暖かいコメント、励ましのコメントが多くて皆さんの優しさを感じました。
回答するコメント
読み返してみたら確かに「理解ある彼女」がすべてを解決してハッピーエンドになりました!って内容ですね。
実際、彼女のお陰で生活を立て直せたのでその認識で間違いはないです。
ただ後出しで申し訳ないですが、元々増田は、中学生の時以来彼女はおらず、女といるより一人で趣味を謳歌していたほうが楽しいじゃん、と思ってるタイプでした。コミュニケーションの取り方も自分の考えをまずバーっと喋ってあなたはどう思ってるの?みたいな、一般的な女性からすると苦手なタイプだったと思います。はっきりしているので男友達はそれなりにいましたが。
そんな性格でしたが、うつ状態に苦しみ、自信とプライドが地に落ちていく中で導き出した結論は「悩みの答えは自分の中にはない」ということでした。自分の理論ではうつ状態から抜け出せない事がわかったので、とにかく人の話を聞いて、その人が話す言葉の背景を想像して、色々な価値観を否定せずに、様々な可能性に目を向ける癖をつけました。
多分その結果、タイミングよく「理解ある彼女」と巡り会えたのだと思っています。
あと、嘘くさくなってしまうので入れませんでしたが、うつ状態真っ盛りのときに父親が交通事故でなくなったことも、心境の変化のポイントだったと思います。ただ色々重なって職場ではとんでもなく不幸なやつだと思われてました(笑)
これもたしかにそうですが、わざと鬱病という表現にしました。諸兄には不要だったかもしれないですが、双極性障害より鬱病って書いたほうがイメージしやすいかなと思ったためです。変更はしませんが、これで迷惑がかかってしまった人がいたら本当に申し訳ないです。ごめんなさい。
実は増田が苦しんだ3年間のうち最初の2年間だけその上司の下で働きました。ある時その上司の言動に限界を感じて所属長に直を変えてくれと懇願して移籍することができました。しかし1度起きた双極性障害の波はどんどん大きくなり3年目で破綻しました。その上司はステップアップして今も私と同じ職場で働いています。特に何のお咎めも無いですが、増田は上司を恨んでいません。その人はその人で家庭や仕事で問題を抱えていて苦しんでいるようなのでお互い出会ったタイミングが悪かったと思っています。間接的ではありますが、その上司がいなければ妻と出会えなかったと考えるとむしろ感謝しています。
最後に
これを見て増田と同じような症状や悩みがある方は勇気を出して病院に行ってみることも一つの解決方法だと思います。病院に行けば治るとは言いませんが、病名がついたことでホッとした自分がいました。仕事や人間関係がうまく行かないのは自分の能力が低いからだと自分を責め続けていましたが、病気のせいだとわかって少しだけ自分を許すことができました。だめな自分を許していく道のりの最初の足掛かりとなりました。死のうかと思うこともありましたが、今では生きててよかったと思えています。どうかあきらめないで自分を許す道を進んでください。
幼稚園から高校のころまで田舎に住んでいたが、少なくとも幼稚園入園から中学卒業までいじめを受けていたような気がする。
というのも、田舎だと幼稚園の人間関係が中学校、下手すれば高校ぐらいまで固定された状態だ。
そんな状態では一人をスケープゴートにし続けて集団の結束を図るということが行われる。実際にそのターゲットに自分が選ばれた。
だけど、どんなことをされたかを思い出そうとしても思い出せないというか、頭が強く締め付けられるような感覚になって思い出せない。そのうち動悸とか眩暈もしてくる。
ただ「怖いことがあった」「(親や教師の言うことに逆らうと/従っても)ひどいことになる」という感覚だけがこびりついている。
ついでに親や教師の言うことには服従していた。なぜなら教師の言うことに逆らうと恐ろしい目に合うからだ。だからといって従っても同年代から恐ろしい目に合うので世話がない。
高校まで大体そんな状態だった。大学進学の際、誰も来なさそうな遠い田舎にある無名の小さなFランク大学に進学を決めた。
推薦入試も「同級生に進路が知られて襲われるのではないか」という疑念がぬぐい切れず受験せず、センター試験利用一本という一番楽な方法で受験した。
あと、進学先が特定されないようにダミーでそこそこ名が知れたマンモス私大に合格したり、架空の大学の合格証書(今考えると有印公文書偽造でガチ犯罪)をこれ見よがしに机に置いたりと偽装工作を繰り返した。
しかし同じ学校に通っていた人間が同じ大学に進学してきた。その瞬間目の前が真っ暗になった。
同じ学校の人間が地元の連中を引き連れて自分のところに「お礼参り」に来てひどい目にあうのではないか。その恐怖が大学時代続き、半分息を殺しながら生活し続けた。
結局大学院進学の時にようやく地元の人間から完全に縁が切れた。とはいえ大学院に在籍していた時も「また地元に引き戻されていじめてきた連中におびえる生活をしなければいけないのではないか」という疑念もぬぐい切れなかった。
その恐怖のせいでM2後期のころには精神がボロボロになった。一応お情けで修士号は貰い、フニーターや雇われ研究員になったりもした。
しかし意識的か無意識か地元の人への恐怖心はぬぐい切れず、結局精神が完全にイカれてしまった。
最終的にうつ病だの○○病だのという診断は降り、色々書けないようなイリーガルなことをしながら小銭を稼いで食いつないできた。とはいえ別件でトラブルに巻き込まれたせいでなけなしの小銭も吹っ飛び無一文になった。
このあたりに関しては色々後ろ暗いこともあるので込み入ったことは書けないということは許してほしい。
両親は経済的理由から自分を実家に引き戻したがっている。ただ、地元に戻ったら同級生に襲われるのではないか?また酷い目に合うのではないかという恐怖はぬぐえない。
その恐怖から十数年間必死に逃げ続けてきたが、地元への強制送還というかたちで逃げる手段がなくなったなら恐怖のあまり精神が完全に無になってしまう。
実家のある地域の閉鎖性を鑑みた場合、どこかで地元の同級生にあう可能性は高い。そんなことになったらと考えただけで全身が凍り付きそうになる。
ついでに親にこのことを話しても「それはお前が劣った人間だからだ」と糾されるのがオチだ。そもそもいじめっぽいことをされていた時期ですら、学校を休むという選択肢はほぼなかった。
なぜなら学校を意味なく休めば長田百●子がやってきて「お前を施設に連行していじめ倒す!」みたいなことになりかねないからだ。実際自分が小中学生のころはそういう番組が頻繁に流れていた。
そういうさらに恐ろしい目に合わないためにも、親の期待する優等生を演じるしかなかった。だから親も本当は信じられないというか、自分にとっては恐怖の対象でしかない。そのほかに信じられる人間もいない。
一度認知行動療法を受けようとしたことがあったが、「自分のことについて考えよう」というテーマが出た途端頭が締め付けられるような感覚に襲われた。動機もした。
それは「お前が酷い目に遭っているのはお前が全部悪い!お前は劣等だから酷い目に遭って当然!」ということを眼前に提示されるからだからだ。
実際「自分がいかに卑劣で極悪な人間か」「自分はおぞましいことをしながら生を貪る自己中心的な外道だ!」「自分に比べたら凶悪犯罪者の○○なんて聖人君子」ということはずっと考えている。
逆に自分をほめることは「悪徳の栄えの一丁目」でしかないと思っているため、絶対にしないよう心掛けている。
もうぼろぼろなので「あと2年ぐらいでお迎えが来そうだ」とも薄々感じている。お迎えが来る前に自分の苦しさの正体がなんであるのか?ということを詳しく知りたい。
PTSDなんだろうかね?
余談
子供の声を聴いただけで動悸が止まらなくなったり、全身が硬直したりするのだが、これも学校での酷い経験があったからなんだろうかとふと。
2ヶ月近くに渡る長期帰省から戻ると、一人でいることが無性に寂しくなった。
三十余年生きてきて、これ程までに寂しくなったのは初めてかもしれない。
異性にまったく縁無く生きてきた。
モテるタイプではないという自覚があり、人とコミュニケーションを取るのが苦手でもあった為、今までは特段気にしていなかった。
「恋愛をしたことがない」という劣等感はあったものの、1人でいることは気楽だった。
今回、幾つかの用事が重なり、帰省して2ヶ月近く実家で過ごすこととなった。
久しぶりに両親や祖父母、兄弟や甥姪といった他人と頻繁に顔を合わせ、会話し、食事や遊びに出かけた2ヶ月だった。
家族中は悪くなく、まだ幼い甥姪も懐いてくれていて非常に可愛い。
普段取らない量のコミュニケーションに疲労を覚えたものの、楽しい時間だったと思う。
そうして1ヶ月過ごして用事を済ませた後、実家から住み慣れた自分の家へと戻り「実家も悪くなかったけど自分の家が一番リラックスできるな~」なんて思いながら一日経ったら、無性に寂しさがこみ上げてきた。
一緒に食事を取る人がいない。
今までは当たり前だったことに、寂しさを覚える。
1ヶ月家族と過ごしただけでメッキを剥がされた気分だ。
1人は気楽だの孤独に適正があるだの思っていたが、単純に感覚が鈍化し麻痺していただけなのかもしれないい。
恋愛だのはまったく分からないが、一緒に人生を歩む人を今からでも探した方が良いのかもしれないとまで思いだして来た。
普通の人?が恋人や家族を欲しがる/作りたがるのは、こういった気持ちからなのだろうか?
独りで生きている人は、こういった気持ちとどう折り合いを付けているのだろう。
正直、恋人だの結婚相手だのを探すのは面倒臭い。今まで何も行動をしてこなかったから、何から始めれば良いのかも分からず非常に億劫だ。
自分でも嫌になるくらい自己中心的なので相手に嫌な思いをさせるんじゃないかという恐怖もあるし、「寂しさを紛らわす手段として相手を探す」のも不誠実じゃないかと感じる。
少し経てばまた感覚が麻痺して気にならなくなるだろうし、というのもある。
どうなんだろう。これからも独りで生きていけるのだろうか。
この寂しさはそのうち紛れて気にならなくなるのだろうか。
さみしいなぁ。
ふとオタクのやっていることは幼児の頃から変わらないと思う。例えばアニメも漫画もゲームもみんな子供が好きなことだし、絵や漫画を描くのもクレヨンで自由帳に落書きしてる子供の延長線上だ。コスプレもプリキュアなりきりセットやライダー変身ベルトみたいなものだし、ネットでいくらでも作品を上げられる時代に即売会をやってるのだってお店屋さんごっこが楽しいからだろう。鉄オタや車オタもトミカ好きの子供だし、ぬい活とかしてるオタクもぬいぐるみはまさに子供が好きだ。
人によってはこの時点で無理と思う人もいると思う。
自分の場合はただの幼児趣味というだけならあまり引かない。例えば世間で結構叩かれてる鉄オタは個人的にそこまで嫌いじゃない。あと特撮好きの男オタクとか純粋に可愛い女の子を愛でてる女オタクとか。苦手なのは幼児趣味に性欲がプラスされた場合だ。
例えばプリキュアを見てる男オタクとか、美少女フィギュアやらドールを収集したり写真撮影してる男オタクとか、ぬい活で推し(男)を着飾らせたり男キャラのぬいぐるみ同士でイチャつかせて写真撮ってる女オタクとか、レジンやビーズでキャラやカプのイメージアクセ作ってる女オタクとか、イケメンキャラの男装コスプレしてる女オタクとか、逆に美少女キャラの女装コスプレやバ美肉してる男オタクとか、うわーってなる。あとウマ娘とかけものフレンズとか刀剣乱舞とか艦これとかアズレンとか萌え擬人化コンテンツは全部無理だ。子供は自己中心的であり、物体や現象も自分のように命のある生き物として扱うことで理解しやすくなるらしく、こういうのをアニミズム的思考というそうだ。萌え擬人化コンテンツもそれに近いもの+美少女やイケメンを眺めたいという性欲を感じる。あと女性声優やVTuberの高くてハキハキしたいわゆるアニメ声も、うたのおねいさんを彷彿させる。うたのおねいさんをエロ可愛くした感じ。引かない方で上げた特撮オタクとかもこれが特撮で二次創作してる腐女子とかだと引くし、女の子を愛でる女オタクもそれをイケメンキャラとくっつけてカプとして楽しんでたら引く。
人生ってつらく苦しいことばかりだよね?仏教ですでに生老病死、生きてるだけで四苦八苦と喝破されてるんだけど
子供を作るってことは大体の場合子供に労働を強いるってことで、労働は大体の場合苦役なんだから、出生ってのは大体の場合子供に苦役を強いるってことなんだよ
親ガチャ、三塁で生まれた、金のスプーン、各国似たような思考にたどり着いているけど、結局恵まれた出生をすることができたか否かで人生は決まるって話なんだよね。配られたカードで勝負するしかないのさ。実力も運のうち。ハーバード大学の教授ですらそう言ってる。
親ガチャに当たってれば、三塁で生まれていれば、金のスプーンを握って生まれていれば、運よく実力を手に入れれていれば、強いカードを配られていれば、苦役とは無縁の労働ができたのかもしれない。資産家の子供なら、労働すらそもそもしなくてよかったのかもしれない
まあ、この前提の上で、本来人間ってのは出生するべきではないのだが、子供に親ガチャが当たったと言わせられる自信があるのであれば、まあ産んでもいいんじゃない?っていう風に思ってるわけ
だから、世の親って言うのは、はたしてどういう根拠でそう思ったのかは不明だが、遺伝だのコネだの、確実に成功する教育方法がそいつの中で確立してるんだか何だか知らないが、全部含めて自分は子供に親ガチャ当たりだと言わせられる算段があるから産んでいるんだろうなって解釈をしているわけ
もしそうでないのであれば、つまり何も考えずに子供を産んでいるのであれば、そいつはクズ。カス。バカ。子供のことなんて一切何も考えていない自己中心的で家庭内暴力とか平気でしそうなガイジ
だって子供に苦役を強いてもなんとも思わないんだもんね?普通に家庭内暴力とかしそうじゃん。強いカードを渡さずに出生させるとかこれもうほぼほぼ児童虐待だよね?自分のガキに殺されればいいのに
ここまでの前提の上で、親ってのは子供に親ガチャ当たったと思わせないといけないってのは理解できたと思うが、それなのに何で3月に子供産んでんの?って話
3月に産まれた子供ってそれだけでハンデ背負わされてるってご存じないの?3月生まれは平均年収も低くて自殺率も高い。Jリーグのサッカー選手で早生まれの奴めっちゃ少ないの知らない?露骨に差が出てるけど
そら4月生まれと比べたら1年も違うんだからその違いは統計にも表れるわな。その差は年を取ればなくなるとか言うやつもいるけど、幼年期の自己肯定感の有無が人生に影響与えないとか思ってる人?つーか実際に統計に表れてるって言ってんじゃん
自分の子供に親ガチャに当たったと言わせないといけないのになんで初手でいきなり3月生まれとか言うハンデ背負わせてんの?しかも障害だのなんだのはコントロールできないけど(つーかどうせコントロールできないんだから産むなって話だが)、生まれ月って親側で調整できるよね?
7月生まれくらいを狙って、そこから前後2カ月くらい外れたとしても3月には生まれないよね、普通。何やってんの?頭に障害があるの?だったらお前の障害遺伝するんだろうししなくても糞みたいな環境で育てるしかないんだから最初から産む資格ねえよ。カス。
まあガイジには俺の言ってること理解できないだろうけどね。バカだから
だから、3月に子供産んだ親ってのは子供のことなんてなんも考えてませーんwっていう自己紹介でしかないんだよね。社会としてこういう児童虐待するようなカス親は許してはいけない
龍を継ぐ男の長岡龍星クン
理由は以下の通り