はてなキーワード: 研究対象とは
ストリートファイターってのは研究対象にしちゃいけない決まりとかあるん?
みなさんは「ウナギ」と聞いてどんなことを思い浮かべるでしょうか。蒲焼などの料理、「うなぎのぼり」といった慣用句、「掴みどころがない」といったイメージなど様々あると思います。最近では「おはよウナギ」なんて言葉も流行りました。
しかし、生き物としてのウナギの生態系は謎に満ちあふれています。川や近海で捕れたり、近年では養殖も盛んになったりしていますが、どこで生まれ、どのようにして日本にやってくるのかがわかっていませんでした。
しかし、塚本さんを始めとする調査チームが始めてウナギの天然受精卵の採取に成功しました。今回は長い間見つからなかったウナギの卵が発見されるまでの壮大な物語を話していただきました。
ウナギは孵化までおそらく1日半、仔魚になるまで半年、合わせて約1年を海水中で過ごし、あとは淡水で生活するそうです。ウナギを図鑑で調べてみると、ほとんどが淡水魚の図鑑に載っていて、海水魚図鑑には載っていないのはこのためだと塚本さんは話します。
では、ウナギはどこで産卵しているのか。これが最大の謎でした。調べ初めは本州近海でしたが、それが沖縄の南、台湾沖、フィリピン近海とだんだんと推定場所が南下していきました。中でもフィリピンではウナギの変態前であるレプトケファルスが見つかるなど期待が高まりましたが、しかし卵は見つかりません。
そこでウナギを捕って調べてみると、あることがわかりました。冬だと思われていた産卵時期が、実は夏だったのです。ウナギは「耳石」を見ればいつその個体が生まれたかがわかるそうです。塚本さんはこれが調査成功の一因だと語ります。
調査対象は、西マリアナ海嶺の南端部に移ります。東西に伸びている塩分フロントと海嶺との交差地点です。塩分フロントとは、異なる塩分濃度の境界のことです。この地点はスコールが多発するため、急に塩分が薄くなる場所があるそうです。調査チームは、ウナギがサケのように海の"ニオイ"を幼い頃に刷り込まれることで産卵するためにこの場所戻ってくるのではないかという仮説を立てました。
そして2009年、4回目の網でついに受精卵が見つかりました。最初は深海の底にあると考えられていましたが、実際は深海の淵の浅いところ(海抜160m程度)にピンポイントに網をかけて見つかったそうです。卵は1日半で孵るのですが、幸運にも孵化直前の56mmの卵が採れました。
ここから親ウナギの行動や産卵の流れなどが明らかになってきました。あるホルモンの分泌をきっかけに、川にいるウナギが昼夜を問わず泳ぎ続ける「ナイトレストレス」状態になり、一目散に産卵場所に向かいます。昼は外敵から身を守るために深海を、夜は精巣や卵を成熟させるために温度の高い表層近くを泳ぎます。ウナギは意外と俊敏で、長距離を泳ぐのに適した泳ぎ方をするそうです。また、60gというわずかな脂肪の量でなんと6000kmもの距離を泳ぐそうです。そして産卵期になるとオスの体は精巣だらけ、メスの体は卵だらけになり、1年の産卵期に複数回産むそうです。新月の夜に乱婚をすると考えられ、新月がくるまではその地点で滞留していると考えられています。そして産卵期を終えると、ウナギはその一生も終えます。
塚本さんがこれから調査したいこととして、「受精直後のタマゴが見たい」とおっしゃってました。今回の卵が採れた付近の水深6000m地帯は調査チーム内で通称「ウナギ谷」と呼ばれていて、そこにウナギの骨の化石や耳石が溜まっているはずであり、「しんかい6500」に乗って調査したいという次の目標を話していただきました。
「そもそもどうしてウナギを研究対象にしようと思ったのか」と参加者から問われ、塚本さんがこれまで研究してきた魚たちを紹介しました。最初はアユ、次にサクラマス、そして今のウナギです。アユは産卵場が淡水にあるのであまり謎が深くなかったのに対し、ウナギの場合は産卵場がわからなかったため、研究が長期化したそうです。
塚本さんの研究とそのエピソードの数々は、「なぜ動物は旅をするのか」というとても壮大な問いであるというお話しが印象的でした。たいへん興味深いお話を伺うことができました。
大学の指定PCじゃないと授業で使うソフトが動かないはずであり、とかいうの、どんだけ高度なことやる専攻なんだろうか……。
ぶっちゃけ文系で、特に特殊なソフトとか使うことがなかった人間としては、ただ卒業するために問題ない程度ならそういうのはまったくなかったんだが。
もちろん個人的にやりたいゲームが有るとか、それを研究対象にわざわざ選ぶとかならいろいろ考えないといけないとかはわかるんだが。
win使いもmac使いも普通に居たし両方生協で扱ってたけど、別に情報とかが専門じゃない人間が扱うような一般的なソフトを授業で使うだけで問題起こしてる事例はほぼなかったように思う。
ましてや、OS含めほぼ同性能のPCなのに、生協のやつじゃないから全く動かないなんてことはなぜそんな事が起きるのか理解ができない。
単純にスペックが低すぎて困ることは起こり得ただろうけど、一部の人がネットで言ってる、「同じスペックだからといって安易に電気屋さんで買って動かない」
に相当する問題はおこったことを聞いたことがない。正直最低スペックぐらいはそのへんで買えるPCならだいたい満たしてるし。
すごく専門的なことをする人たちのなかではなにかあるのかもしれんけど、PCなんてそんなに深く使わない文系を含めて大学一般の話にされるとなんかもやる。
もちろんたまたまPCを買ったのがディープなところで、そこでたまたまものすごく古いのをかったとかならそりゃ苦労するだろうけどそんな人はいったい何人おるんやという。
そもそもナボコフの『ロリータ』だって未だに認知度高いし文章も評価されてるし研究対象にもなる名作だぞ。ロリコンコンテンツであることと名作であることは別に矛盾しないと思う。
あと、野暮なことを言うがヒロインだって何もこれから洗脳監禁されて生きていくわけじゃないんだから、成長して主人公のことが嫌いになったら別れればいい。ロリコンショタコンが悪とされる理由は、第一に肉体関係を結んだ場合「リスク(妊娠や性病)がある行為を判断力が弱い相手にさせるから」。問題は「自分の楽しみの為にリスクを理解してない相手にリスクを負わせる」ことであって、相手が幼くなくても老人や知的・精神的障害のある人に健常者がおなじことをした場合も非難される。ショタコンよりロリコンが嫌われやすいのも、男より女の方がよりリスクが大きいからだ。
じゃあ肉体関係なきゃいいのかって話だが、大抵の人が清い関係でも白い目で見る。その理由は「デメリットを理解してない相手に有利な契約を持ちかけているように見える」からだ。この場合のデメリットとは、若い時間を若くない相手に使うことである。多くの人間にとって若さは貴重であり、お互いに若いならいいが若くない相手に使うと感覚的には損した気分になる。
それが「若さがないぶんをあまりある経済力や美貌や能力や素晴らしい精神性」があればいいが、多くの場合年相応の年収(つまり一般的な若い異性の将来と変わらず若さがないぶんマイナス)や容姿だったら熱が冷めたら騙された気分になるだろう。既に20歳を超えた女性が、某中年アイドルと結婚した時に叩かれた理由は色々あれど、その一端には「女性の若さはプライスレスであり金で買うなど言語道断」という極端な思考もあったのではないか。個人的には成人同士なら、未来予測できない若いほうにも責任があるので自己責任だと思うし、そういう理屈とは別に幸せになってほしいと切に思う。
上記のリスクとデメリットからロリコンショタコンは嫌われるわけだが、この2つがハイブリッドした嫌われ方がある。すなわち「相手が幼いうちは肉体的には手を出さないが合法になったら手を出す」である。これは法的には問題ないが、大人になる過程で成長して視野が広がらないように常に誘導する(それ以外の選択肢である他の相手との交際や性行為しない方がいいとを考えるのを阻害する)ので実質的には幼い精神を騙している、という状態である。
要するに「大きくなったらお嫁さんになる!」という田舎の女の子に、妊娠後のキャリア形成の難しさや都会に出たらもっといい相手が見つかるかもしれないという情報を遮断して親くらいの年のオッサンに嫁がせるのはひどくない?あるいは、成績優秀で大学に行かせれば出世しそうな男の子を「お前は中卒で親位のバツイチの親戚(本家)のお姉さんと結婚し子供を育てながらうちを継ぐんだ」といいきかせ続けるのはひどくない?ということだって
具体例をあげると、小学生くらいの結婚の意味すらわかってない紫の上をさらって都合のいい女性になるように結婚可能年齢まで育てた(うえに内縁の妻のままにした)光源はひどいが、少女の時にフレデリカ出会って恋されて大人になってから再会した(故に教育洗脳もしようがない)彼女と結婚したヤンには罪がない、みたいな話である。
さて前置きが長くなりすぎたが本題に入ろう。夏への扉の内容だが、まずヒロインは性行為によるリスクは負っていない、手を出していないのだから当然である。次に、彼女がコールドスリープを決めたのは成人後であり、彼女には判断力があったと思われる。銀英伝のフレデリカと同じかパターンである。成人するまでの間、彼女には様々な選択肢があったうえで彼との未来を選んだのだ。これを若さゆえの過ちというならまだしも、彼女の自由意志でないというのは侮辱である。故に、主人公はロリコンと非難されるべきでないと私は考える。彼は幼いが故に彼女を愛したのではなく、また彼女が彼に恋したのは少女の時だが、将来を決めたのは立派な女性になってからなのだから。彼は彼女から幼い時間も、幼い肉体も搾取していないのである。
その半分くらいの規模のメーカーSIerだけど、そんなもんじゃね?
PC環境については、新人研修でスペック高いPC与えてもしゃーないだろ。
celeronとかメモリ8Gとかならいくらなんでも会社が悪いけど、新人研修なら10万くらいのノートちゃうの。
あと、紙でプログラミングするのは、右も左も知らない、オフィスすら使ったこと無い新人がいるからでしょ。まともにツールのインストールも出来ない奴らがいてそこに合わせてるんだからしゃーない。
お遊戯だけど、このお遊戯がメーカー系SIerには大切で、お遊戯が必要な顧客も相手にするし、お遊戯が必要なやつと一緒に働くから。良くも悪くもコミュニケーションが大切で、プログラミング能力とかは二の次になるんだわ。(そのくらいの規模なら社内にガチ技術者が数十人いて、困ったら最悪その人に聞けばいいってなるし。)
そもそもさ、プログラミングやりたいって言うならお前は何をしてきたの?
データ系やりたいなら自分でデータ集めて分析すればいいじゃん。金なくてもやる気さえあればそれなりのポートフォリオが出来るでしょ。
IT業界って良くも悪くもそういう所なんだわ。やりたい事を決めて、やりたい環境を整えて、やりたいことをやってる。プログラミング能力云々言えるのはこれをやってる前提。
研究対象を自分で決めたか?研究に使うツール自分で調べて、自分で決めたか?研究の発展を自分で続けてるか?
上記の3つのうち1つでもNoだとしたら大手SIerが良いよ。ある程度誰かに整えてもらわないと出来ないって事なんだから。(それ自体が悪いことだとは俺は思わんけど)
もし、ほんとにエンジニアやりたいなら、まずは自分でなんかアプリ作って公開しないと話にならない。
その話が一個も出てないのに「大手SIerはクソ」って言われても、「いや、ポートフォリオも無いのに、ガリガリコード書いてるエンジニアとして採用してもらえる訳ないだろ・・・」としかならん。
ITエンジニア界隈、悪い意味で年齢とか新卒とか関係ないから。多少手心はあっても、「コード書きたい」って言われたら中途の開発経験あるやつが比較対象だから。
ホワイトなんだしぬくぬくやりながら一通りの開発やってやりたい事の技術力は自分でつけて、2,3年後くらいに転職しろ。それが一番安全だわ。
あのさ、
有名な映画の大林監督作品の尾道三部作と言えばターミネーター三部作と肩を並べて超有名なビッグタイトルだけど、
また話は別よね、
販売が今月末までだと言うことで、
これを機に3Dシリーズも挑戦してみようか!ってやる気満々の満身創痍!暖簾に腕押しでポチったワケなのよ。
買ってから気が付いたんだけど、
この三部作クリアするまでの時間ボリューム私にはあるのかしら?って
重さが重くならないのはどうなってるのよ?って思ってしまうわ。
とりあえず
早速思ったのが
そしたらよ、
そしたらスーパーマリオ64の最初のステージからもういきなりどこに行っていいか分からない状態で
どうやら一番上の所まで言って、
バクダン兵の王様を投げ飛ばせばいいらしいことは分かったのよね。
で、なんとか頂上まで行ってバクダン兵の王様を投げ飛ばせることまでは成功したの。
でも何回かやっぱり投げ飛ばさなくちゃいけないみたいで、
ヘイヘイヘイ!って挑発したら、
まんまとむんずと掴まれて放り投げられて一番下の地上まで投げ飛ばされちゃったわ。
えーまたあの頂上まで登るの?と思ったら絶句だけど、
もうスーパーマリオ64ですら前途多難感ありありな出だしで、
でもちょっとサンシャインもギャラクシーも冒頭のちょっとだけ遊んでみようかなって、
もう早速5分やって他のゲームに移っちゃったの。
なんか凄いゲームでとにかく、
3Dの中を歩き回って
水鉄砲撃ったり夜空を飛び回ったりと
なんかこれもあと2作あると思うと、
いったいスーパーマリオシリーズ何作あるんだよ!ってもう遊び尽くせない感じがして、
マリオ恐るべしって思ったのよ。
なんか小さな惑星を逆さまに歩いたり走ったりするので気持ち悪くなっちゃいそうな雰囲気で
面白すぎて前途多難すぎるわ。
それにともなって色々な技を繰り出せるみたいなんだけど、
こんなのフラッシュ暗記暗算大会の上位入賞者の人じゃないと一画面を見て一度に暗記できないわ!ってゾッとする操作方法の種類にまた驚愕よ。
楽しいけどさ、
これをまたクリアしていくと思うと辛いわ。
でも毎回毎作ごとに連れ去られるピーチ姫のことを思うと
彼女の不憫さと比べると私の三部作へのクリアの重荷と比べるとたいしたことないのよね。
ピーチ姫は毎作大変な思いをさせられて大変だなーって。
でね、
ちょっと前にスマホの携帯ゲームで出てるスーパーマリオランもやってみたんだけど、
あれはただただタイミング良くボタンを押していくだけでクリア出来ちゃうから、
あんまりマリオに接したこと無い私だったからこんなモノなのねって楽しさがよく分かってなかったのよ。
だけど、
マリオ感がやっぱり堪能できないのよね。
きっとそう思うわ。
そうなると対峙するソニックシリーズもまた私研究対象として研究しなくてはいけないソニックシリーズもコンプしてクリアするという苦行を行わなくてはならないと思うと今からゾッとするわ。
やっぱり超巨大コンテンツとしてのマリオって楽しくてスゴいわね!って思うしかないのよね。
これを機にまたユニバーサルスタジオジャパンのマリオのアトラクションも私遊びたくなっちゃうのかしら?と今から思うと、
関西に行く口実にもなるわよね。
何度ここへ来たって大阪弁上手くなれへんのよ。
そんな思いも裏腹に、
まずは
心に決めた攻略本を見ないって誓いも
スーパーマリオ64の一番最初のステージでどこに行っていいか分からないからすぐ見ちゃったという、
私の意志の弱さ。
ため息が出るわ。
でもまあ一歩一歩頑張るのみよ。
前途多難長い道のりだなーって
応援してね!
うふふ。
ちと朝からは重たかったかもと思いつつこれってもしかしてチンして温める前提なのかしら?って思うほどの出来栄えで美味しかったわ。
朝たくさん沸かしておいておいたので
たくさん飲めるわよ!
ごくごくごく!
水分補給はこまめにまめにしてね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
223名無しさん@お腹いっぱい。 (ワッチョイ 0d16-WL/x [124.141.39.227])2021/03/16(火) 04:18:23.61ID:TH2wL4zi0
日本史学の研究者がああいった発言をしてしまったのって相当深刻な問題だぞ
224名無しさん@お腹いっぱい。 (ワッチョイ 0d16-WL/x [124.141.39.227])2021/03/16(火) 05:40:18.07ID:TH2wL4zi0
現代「日本」嫌いと中世「日本」嫌いということを同一視してたり、「政権」嫌いと「日本」嫌いを同一視してたりするのが滲み出てて何だかなという感じだけど、
より深刻なのは、そっから当然突っ込まれる「日本」概念の定義や内実をどう捉えてんのかって疑問をだいぶ粗雑で冷笑的な態度で扱ってたことだよなあ
そもそも「日本」とは何か?政府のことなの?それから「日本国民」とは何か?「日本史」と言うけどその歴史的・地理的範囲は?それらを近代的国民国家観から自明視できるか?ってのは立場をどう取るにせよ、およそ日本(史)研究者なら否が応でも真剣に向き合わざるを得ない問題かと思っていたわ
225名無しさん@お腹いっぱい。 (ワッチョイ 0d16-WL/x [124.141.39.227])2021/03/16(火) 05:55:06.32ID:TH2wL4zi0
多少なりともそういった問題提起が念頭にあれば(というか好むと好まざるとに関わらずそういう問題提起は抱かざるを得なくないか?)、「網野は左翼すなわち日本嫌いなのになんで日本史の研究してんだおかしーじゃん笑」みたいな雑な感想は出てこないはずだし、最終的に失言を一応は認めて謝罪するに至っても、本質的にはそういった問題提起が存在していることをまるで分かってなさそうだったし(そもそも平泉や網野の名前を持ち出す日本史研究者でありながら一度も念頭においたことがないのか?)
226名無しさん@お腹いっぱい。 (ワッチョイ 0d16-WL/x [124.141.39.227])2021/03/16(火) 05:59:56.92ID:TH2wL4zi0
ただの知識オタク的な歴史クラスタなら「まあそんなもんか」としか思わんけど、実写史学できっちり評価されてる研究者が、そういった研究対象に対する根本的な問いに無邪気に冷笑的な態度でいるのは、何とも不気味というか不可解というか
まじやべーなこの国
「Wikipediaを引用した論文は全て無価値」みたいな言説を見て、どうにかしてWikipediaを引用してるのにマトモな論文を構築したくなったので考えてみた。
ひとえに、Wikipediaの記事自体には新奇性がない、あるべきではないから。記述に根拠が示されていても、それは元となる論文か何かがあるはずで、その論文にあたるべき。孫引きはNG。仮に記述に新奇性がある部分があったとして、それは独自研究や個人の見解であって、引用元として信頼性がない。そして独自研究や個人の見解はWikipediaのルール的にも注意書きが付与、または根拠不明として削除される。つまり、Wikipediaの記事は「引用元として不適当」なのだ。
さて、前提でかなり高いハードルをこさえてしまったが、飛び越えられるだろうか。
Wikipediaという誰もが編集できるweb百科事典の最大手、しかも多言語、研究対象としては価値があるものだろう。しらんけど。Wikipedia自体の研究にWikipediaのページを全く引用しないというのは現実的ではない。少なくとも「Wikipedia:五本の柱」は間違いなく引用されるだろう。
ただ、これは反則技に近いので、Wikipedia自体の研究以外で、Wikipediaを引用したい!というゴミみたいなモチベーションで考えていく。
クソみたいな例えで申し訳ないが、例えば「明らかに間違ってるのに10年間訂正されずにWikipediaの記事に残り続け、その誤りが割と浸透してしまった」みたいなパターンに対する研究。これならWikipediaは少なくとも誤りが広まった要因の一つとして考察に入るだろう。考察に入るなら引用される。これは情報伝達に関する学問的な面白さもあって、良い論文になる可能性がある。
これは多分きびしい。ある事象に対して「一般的にこういうふうに捉えられている」という根拠として、Wikipediaを引用することはできるだろうか。自分で編集できちゃうから厳しそう。
https://togetter.com/li/1660066#comment
コメント欄があまりにもひどい。「社会学は学問ではない」「イデオロギーだ」という主張を非科学的な手法で、感情論に任せて行う。まさに社会学叩きこそがイデオロギーと化している。自己矛盾としか言いようもない。
社会学の学問としての是非はともかく、叩き方があまりに雑すぎるのではないか。
心理学系の論文の再現性を検証した論文が何年か前に話題になっていたが、学問の科学的手法をとった批判とはあのようにあるべきだろう。
としても、そうした属人的な事情は学問つまり研究結果や論文とは分けて考えるべきだ。仮に社会学者に人格破綻者が多かったとしても、学問自体の問題ではない(雇用主である大学側としては問題かもしれないが)。
これは社会学批判としては真っ当だ(実際にどうなってるかは知らない)。
が、『「査読システムが酷い」から社会学系の査読論文全てに価値がない(ひいては社会学者の主張は全てクソ)』とするのは間違っている。そもそも「査読システムがひどい」自体にエビデンスがなく定性的で主観的な意見であるからだ。この方向性で批判するのならば、社会学の査読システムに関してきちんと研究し、研究内容を論文にまとめて査読に出すべきだろう。そうして初めて主張に価値が出るのが科学の筈だ。
『個々の論文に関しての評価には、査読が必要』という前提条件から「査読システムがひどい社会学」をバッシングしているのにもかかわらず、「社会学は査読システムが酷くてクソだから社会学系の論文は全て価値がない」とするのは論理が破綻している。
自浄作用というのが、いったい何かわからないので何もいえない。ある社会学者の主張を批判するような内容の論文が出せないということだろうか?それならば確かに問題だ。が、「こいつを批判しないならあいつも敵」という風潮を取り入れろという話ならば、そちらの方が問題があると思われる。なんにせよ自浄作用という言葉が抽象的すぎる。
ネット上の社会学批判はあまりにも雑だ。エビデンスに基づいていない、社会学者個人の発言の問題を社会学全体に拡大して批判する、批判する人々のうち誰一人論文を読んでいない……このようなバッシングで、社会学という学問自体が潰れるのはイデオロギーに対する科学の敗北だ。
もし社会学が非科学であったとしても、社会学の構造上の問題点は科学的に検証されてから潰されるべきである。(個人的には、社会を研究することは絶対に必要だと思うので問題点があるのなら解消して欲しいと思う。)
n4b 社会学の一部の人って自らの研究対象に対するイデオロギーが非常に強いと思うんだけど、それって研究者のスタンスとしてどうかな、とは思う。本来はフェアな立場で批判的にデータと向き合うんだけど
これはもうごく個人的な意見に過ぎないけど、研究者の研究対象に対するイデオロギーの強さはどの分野においても仕方ないものだと思うよ。
研究者も人間だしね。北極グマが大好きだから北極グマを守るために科学者になるし、地球温暖化や環境問題に関する研究をするようになる。気候変動による生態系の崩壊を目の当たりにすれば、当然それを防がなくてはならないと政治的な意見を持つようになる。
社会学者も(会ったことないから知らんが)社会に問題意識を持ったからこそ社会学を専攻したんだろうし、そこでイデオロギーが動機になるのも、結果的に特定のイデオロギーを持つようになるのも当たり前と言えば当たり前じゃないかな。社会という研究対象の特性上、他の学問よりもそうなりやすいだろうし。
それに、研究者自身に思想はなくとも研究者は研究が資金を必要とする以上、どこかからバックアップを受けなきゃならない。企業の研究者は企業の営利のための研究をしなきゃならないし、国の研究機関だって国益のために金を出している。研究者が完全にフェアな立場に立つのは無理だ。
タバコ会社がタバコを無害を示す研究に資金援助したり、石油会社が気候変動とCO2排出量の関係を否定する論文に資金援助したりだとかは、今更無くそうと思ってなくせるものだとは思えないしこれからも増えて行くだろう。
でも、タバコの無害を示す研究も、気候変動はウソだとする研究もあっていい筈だ。むしろ無くちゃ困るものだ。問題は利益のために研究を歪めていないかであって、イデオロギーに基づくかではない※1。
は研究者として本当に重要なことであるし、特定のイデオロギーに肩入れし、恣意的なデータを示す研究者は研究者と言えないと思う。が、やはりそれは研究手法や統計解析方法などから批判されるべきであって、「研究者の立場がフェアでないからこの論文は信用に値しない」とすることは非科学だろう。
研究者がイデオロギーフリーであることもフェアな立場であることも難しいが、データに批判的に向き合うことは出来る。論文の著者は批判的にデータに向き合い、思想によって歪められていない研究結果を示すべきだし、読み手(査読者も含む)もまた思想に囚われずに研究結果に向き合うべきだと思う。
自分も(知ってる範囲の)社会学者のスタンスが好きか嫌いかというと、嫌い※2。だが、著者のスタンスではなく論文を読んで批判するのが、批判者としてのあるべきスタンスだと思う※3。科学を科学たらしめるのは論文ではくて、論文を評価する人間の存在だろう。
※1「利益のために研究を歪めていないか」なんかをチェックするために医学系の論文なんかだと、〇〇製薬に援助を受けました、と書いて利益相反をはっきりさせているが、社会学にそれが必要だとは思わない。
※2 一応論文を書いてる社会学者よりも、雑な理由で社会学全体をバッシングする奴のほうが嫌いである。単なる好き嫌いだがメディア露出の多い研究者は基本的に嫌いだ。社会学含め人文科学には興味がない。
※3 興味がないので論文を読みたくないし研究もしたくないから社会学という学問の在り方について批判も肯定もしたくない。
babelap 追記、イデオロギーについて「ほかでもやってるし」で免責すんなや。学問についての取り組みがイデオロギーで歪められてたら批判されるのはどの分野でも当たり前だ。社会学が影響されやすいならなおさら言われるわ
どの分野においてもイデオロギーと科学は切り離しようがない。社会学のような実社会を対象にした分野(※)では殊更イデオロギーフリーになることは難しいだろう。だからイデオロギーフリーかどうかを研究結果の価値判断の基準にするのは無理がある。「この学者は〇〇思想だから、この論文はゴミ」というスタンスを取るのはそれこそ、イデオロギーであり非科学だ。
研究結果、研究で得たデータがイデオロギーによって歪められ、異なる結論が出されるのは無論問題だ。それはどの分野でも問題になることであるが、「データが歪められていないか」というのは利益相反の有無からではなく研究手法の検証や再現実験などによって判断されるべきだろう。それが科学だ。
※自分の専攻が不幸にも政治的意味を持ってしまうことはままある。環境系などは特に顕著だが、最近では感染症系がいい例だろう。「コロナの危険性」だとか「〇〇な活動がコロナの感染拡大に及ぼす影響」だとかを研究し始めると、右のだ左だのがそれを政治的な意見のエビデンスとして使用し始める。専門家としての見解を少し喋れば、それが政治的な表明として受け取られる。メディアでの身の振り方に不慣れな自然科学者がうっかりテレビに出て無知な大衆にバッシングされるのは見ていて痛ましかった。左/右にとって都合がいい意見だから、こいつが言ってることだからで判断せず、疑念を抱いたのならクリティカルにソースとなる論文から検証すべきだろう。新型コロナは新参が多くて論文が読みやすいそうだから、これを機に物おじせずにGoogle翻訳機片手に読むといいんじゃなかろうか。論文を読む側も検証者として、科学の構成員である。(そういう意味で、「私は感染症素人ですが、皆さんと一緒にコロナについて勉強したいと思います」とサイトを開設した山中教授の行動は素晴らしかったと思う。)
日本の社会学はクローズドだというが、我々一般市民も、(金のために書かれた)出版社の本を盲信するのではなく、思想に基づいて雑に叩くのではなく、社会学を学び論文を読むことで、学問の裾野を広げ、日本の社会学をこじ開けていけるといいかもしれない。
(また余談が長くなったので終わる)
https://twitter.com/AGSTEGKaQKw0iMk/status/1346087363252895744
上記の医療従事者の方の連続ツイートを、おもにド素人の自分用として雑に翻訳しました。多分研究者の方だけがわかればいいような感じの単語のところはそのままにしています。
自分が大体意味わかればいい精神なので元ツイートと比較して記述に誤りがあるかもしれません。医療従事者の方が見たらひどすぎてお茶を噴くレベルだと思いますがあまりにやばい間違いのところは直しますのでご指摘ください。
投与の記述があるDex、FAV、RDVの3つの薬と思われるものがググっても全然出てこないので、それぞれ新コロ治療薬として名乗りの上がっていたデキサメタゾン、ファビピラピル(アビガン)、レムデシビルをツイート元の方が略語にしたものだろうとアタリをつけて訳しています。
↓↓↓↓↓↓以下翻訳↓↓↓↓↓↓
Case seriesを出す前に東京が大騒ぎなので、ここにout lineを書いておく。報告が幸運にもどこかに載せられたら消す。札幌の某病院の成績である。一応全国有数のCOVID診療実績のはず。内容は全く一般向けではない。
10月31日までで290例あまり。これは全例治療終了。危険因子については従来言われている通り、高齢が一番悪い、慢性閉塞性肺疾患(COPD)・糖尿・高血圧は悪い、重症度ごとに平均肥満度(BMI)を計算するときれいに並ぶ(※注:おそらく肥満度が高いほど重症度/死亡率も高い)。特徴は男女比が1:1だったこと。これは地方では施設感染の比重が高く、そこの入居者の男女比が(※注:女性に多く)偏っているから。
6/18よりステロイド薬投与が基本治療化。それまでは挿管後の使用のみだった。またこの時期以後挿管管理に見切りをつけ挿管をしない方向に移行。その前後で比較すると全年齢で見ても、高齢者に絞って見ても死亡率は著しく低下。
ここまでが第一報。完成した部分。以下は第二報の予定部分。
その後患者数の著しい増加があり、12月31日までで570例あまりに増加。進行中症例も一部含む解析。挿管例の死亡21/58、非挿管酸素10L以上使用例(リザーバorNPPV(※注:非挿管人工呼吸器))での死亡19/57。基本的な患者のADL(自立度?)は当然非挿管の方が悪い。
10月末より感染症病棟が内科全体の当番制となり治療が多様化。また施設現地や療養病院での介入などもあり中等症I(※注:酸素飽和度93%〜96%未満、息切れ・肺炎の所見)の症例にステロイド投与例が出現、こうした症例の成績が不良。結論としては中等症でのデキサメタゾン(ステロイド薬)投与は有害な可能性。
現地での投与開始も多いためcohort(注:臨床研究対象みたいな感じ)になっていないが、少なくとも当院収容例では中等症Iでのデキサメタゾン開始例は死亡例が有意に増加。投与しても40%が中等症II(※注:酸素飽和度93%以下、呼吸不全が見られる)に移行。重症化阻止効果もなし。recovery trialの結論を
ファビピラピル(アビガン)投与例とレムデシビル投与例の成績には全く差なし。興味深いのは中等症II例においてアビガン+デキサメタゾンとデキサメタゾン単独では、アビガン+デキサメタゾンの方が死亡率が半分。アビガンを服用できるだけ状態がましというバイアスの可能性はあり。レムデシビルはほぼ全例デキサメタゾンが投与されていたのでこの比較は不能。
高齢施設例中心に発症後18日より前にステロイドを中止した場合中止後3日以内に発熱・酸素化低下が急速に出現し死亡する例が多数。こうした例においてはCOVID単独の悪化、細菌感染併発、副腎不全などが死因として考えられた。
結論として挿管管理の意義は低い、多臓器不全例以外は原則不要。高齢施設例におけるステロイド早期投与の意義は低い可能性が高い。呼吸不全移行後のステロイド投与は若年例では有効、高齢施設例ではステロイド中止方法の工夫をしないと効果は低い可能性あり。
NCGM(国立国際医療研究センター)と比較すると死亡率が3倍ぐらいある。思い当たるところはあるが、基礎患者データはどこかにあるだろうか。case seriesでは大した業績にもならないから後回しなのかな。英語苦手でさぼっていた私が言うことではないが。
文中の重症度分類は中国のもの。cohort作成開始時の重症度をそのまま使用、現在の日本の分類ではmoderate=中等症I、severe=中等症IIにほぼ相当。
大切なことを書くのを忘れていた。11か月間COVID診療を続けているが感染症病棟関連の院内感染の発生はない。
↑↑↑↑↑↑↑以上翻訳↑↑↑↑↑↑↑
現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語を母語とする話者が一定いる地域が誕生すればそこには必ず方言が誕生するのだ。仮に日本が公用語を英語と定め、数世代あとに日本人が英語を母語とするようになっても、気候、歴史、文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本的英語」、ジャパニーズイングリッシュ、英語の日本弁になってしまうのだ。つまり「統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアルに想像すれば、方言である「日本的英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的に差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単に理解できるのだ。)
なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化、歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要な情報源のほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化的リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベルで理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化的リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉と文化はセットだからなのだ。文化的な背景、自然、文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語的文化的資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文・漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代の日本が抱える問題でもあるのだ。
移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代で完了するのだ。上で触れた「文語→口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化のバックボーンはなく、かつ過去の自分たち自身のリソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ。人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇を理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。
英語が公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジンを母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本の公用語を英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。
たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式はカリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼もカレーもうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初に一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼」なのだ。従って、「日本語を廃して英語を公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食を廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食を廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼がうまいのは、和食がうまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ。
ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶもの」なのだ。これは避けられないことなのだ。日本語だって、10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ、言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき、言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生」なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから、言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分が研究対象としていた言語の話者が絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタの言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。
日本語廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論は現実の利の前には極めて無力なのだ。
これは日記です。
腐女子・腐男子やBL(以降まとめて腐界隈と呼ぶ)ってわりと研究・考察対象になるじゃん
本もいっぱい出てるし、増田でも考察がよくあって定期的にホッテントリにも上がる
自分は腐という字を使わなくなって4年くらい?経つCP厨だけど、腐界隈研究の対象ではあるわけですよ
そして、どの界隈もそうだけど、腐界隈はもちろん一枚岩ではない。
研究対象が一枚岩でないことの実感が、自分が研究対象になってから初めて湧いてきたんだよね
いや腐界隈属性以外でも例えば若年女性属性とか日本人属性とかで研究対象にはなってきたけど、そういうのは括りがでかいからそもそも研究されている実感が薄かった。腐界隈属性はその点「自分が研究されてる!」って感覚が生まれる。
私は基本同軸リバで男女CPも女女CPもやるゾーンに存在してるから、話題になってる腐界隈の話にあまり共感できないことが多い。本も出さないし神と仲良い人に嫉妬したこともないから、例の同人女の感情漫画も共感はあんまできない。中綾は萌えます。
でも研究では私のような辺縁?の存在も考えた方がいいわけじゃん、男男CPしか読まなくて固定が基本で即売会に行くのがほんとにメインストリームなのか私のTL眺めてると実感わかないけど、とにかくメインストリームだけ考察してればいいわけじゃないでしょ?学部生の卒論レベルならまだしも。
そんで、界隈を全部拾おうと思ったらめちゃくちゃ大変だから、解像度上げるのを適当なところでやめないとだけど、どの程度でストップするのかの基準も自分で決めないとだし
研究って大変だなあ…
広くいえば、実在する人物たちの日常や出会いや生活を想像するもの。
よく使われるのは、実在する人物同士をくっつけて関係性を深掘りするもの。
狭くいえば、実在する人物同士が(おそらく恋愛対象となる性別でないと思われるにも関わらず)恋愛をする様子を描いたもの。
これらを、小説、絵、漫画、MAD、ゲーム、その他さまざまな手段で表す。
「○○と××のBL小説を、本人である○○もしくは××が読んだ(加えて、本人たちが決して喜んではいなかった)」
(たとえパスワードの答えが"1"であったとしても、である。読者に対して注意書きを読んでから回れ右できる機会を与えるべし)
まずは一般の方、つまり「nmmnはまず見ないよ」という方へ。
上のような最悪な出来事は誰によって引き起こされるのかを知ってもらいたい。
著者が自ら公衆の面前に晒したか、著者ではない人が勝手に公衆の面前に晒したか、である。
前者はクソである。nmmnをひっそり楽しむ界隈から是非とも消えてほしい。もしくは更正してその文才を適切な場所で発揮してほしい。
とはいえ自ら書いたものを自らの意思で晒したという点では、まだ救いようがある。悪意めいたものがとりあえずは存在しないからである。
後者もクソである。そして後者は前者よりクソ野郎である。というか何勝手に他人の創作物別のところに晒しとんねんアホか。
この後者は本当にどうしようもない。ただ、ただ一応救いとしては、「自分の好きなものを他の人にも見てほしいから」という思いなのであれば、救いはある。そう、「他の人が書いたものを著作者の許可なしに転載するな」。 無断転載、ダメ、絶対。
救いようのない奴は、残念なことに存在する。悪意をもってそれを晒したやつである。
著者はきちんとわきまえた場所に出し(検索避けもして)、注意書きを載せ、パスワードをかけた。著者はできることをした。
しかしゴミ野郎はわざわざパスワードを解いてまで、中にある小説やら絵やらをコピーだのダウンロードだのして、別の場所に転載した!もちろん無断転載である!悪意ある晒し行為である!なんでそんなことするの?「気持ち悪いよね」って共感してほしいの?ああ、そう。
このように、最悪な事件は決して書いた人が自ら晒すことだけによって起きるのではない。悪意を持った第三者によっても十分に起こり得るのである。
注釈であるが、「じゃあはじめからそんなもの書かなければいいじゃん / 読まなければいいじゃん」という意見は、賢い諸兄姉であれば無意味であることはお分かりだろう。
少なくとも日本国においてはnmmnは法律的に禁じられたものではない。加えて、たとえエグい内容であっても、検索避け・注意書き・パスワード等、「誤ってURLを踏む等しても目に入ることがない」のであれば、それはその存在を否定されるべきではない。存在を認められなければならない。レッツ現代国家。
次は「そんな最悪なニュースを見たとき、またはその事件に出くわしたときのかまえ」である。
これは結果として一つである。「無視または無反応を貫く」。これ一択である。
どうしてもこれができないときは、「まあそういうのもあるよね」で流す。流せ。何か特別な思想がない限りは流せ。ことを荒立てるな。
nmmnは駆除して消えるもんじゃない。人間が複数人生きる限り必ず存在し得るからだ。
反応をするな。反応した奴にも反応するな無視しろ。要らん火を燃やすな。お願いだからもっと人類が生きやすくことのためにその熱を使ってくれ。誰かを生きにくくすることのためには決してその熱を使わないでくれ。
さて、ようやく本題である。
(この先、筆者はML(BLではない)を中心とした好みのため、BLやGLやNLに寄りきれない内容になる可能性があることを先に謝っておく。)
まずそこの腐女子。目の前の男子二人がいちゃこらしてるからって真っ先に盛り上がるのをやめろ。彼らは付き合ってなどいない。
そしてそこの腐女子。バラエティ番組で絡み合う同グループのアイドルらを見て鼻血を垂らすのを止めろ(抑えろ)。彼らは付き合ってなどいない。
最後にそこの腐女子。公式が「二人で一泊二日の旅行に行きました」という情報を出したからといって「これはもう付き合ってるでしょ」というのを止めろ。彼らは付き合ってなどいない。
わかっているのなら良い。しかしすぐ「これ二人は付き合ってますよね?!?!」などと言うから「うわ腐女子消えろ」って言われるのだろう。そりゃそうだ。「実際にはあるかないかわかり得ないもの(そして可能性としては低いもの)」を「絶対そうだ」と決めつけるのである。正直このような決めつけはnmmnでなくても嫌われる。付き合ったらめんどくさいだろうと察する。
さて、ではどのように日々nmmnと付き合うのが良いのだろうか?
(ただし「彼らが実際に付き合っていることを断定して楽しむ」という人は別である。この答えは当てはまらない。)
「彼らは付き合っていない」と理解することで、「実際の彼ら」と「妄想の彼ら」を別に持つことができる。
そうするとどうなるか。
とにかく騒がなくなる(ただし耐えられないときは耐えられない)。たとえ彼らが同じ部屋で寝泊まりしようが、彼らだけでどこかへ旅行に行こうが、「いいねぇ」で済むのである。それは「実際の彼ら」に対する感想である。
そしてその事実や出来事を「妄想の彼ら」に適用して楽しめるのである。この2つの「彼ら」を決して混同することはないため、「絶対付き合ってるよね?!?!」というクソ腐女子ムーブで周囲がゲロを吐くことはない。人に菌を移さないためにマスクをするようなものだ。
あくまでnmmnで作られる世界はパラレルワールドであり、決して「この世界」ではないということを自覚することで、比較的「痛さ」を軽減することができる。あくまでも自分の中ではそう考えている。これが腐女子歴10年の答えである。
一般の方と悪意ある人間とnmmnの著者とnmmnの読者について、最近私が感じたことでした。
もちろんnmmnは隔離された場所のみで展開されるべきであり、決して本人に知られるべきではない、というのは理解しております。そのため、具体的な固有名詞は出さず、複数のもの(ニュースや出来事)がヒットするような書き方を心がけました。
加えて、nmmnは決して腐女子だけのものではないこと、nmmnを毛嫌う腐女子もいること、nmmnを好むのは女性に限らず男性にも存在することを記しておきます。多様性大事。nmmnに固定観念は要りません。でも住み分けは大事。
これで全てです。ありがとうございました。
どうして腐女子の方って人間に限らずモノでも事象でもなんでもかんでも掛け算できるんですか?私は腐女子に分類されますがそのような能力は持ち合わせておりません。できればこの能力についてご解説いただきたいと思いますが、一方でこれは研究対象にも成り得ます。情報求ム。
追記2
「どうして私はnmmnを楽しいと思うのか」が無かった。失態である。
私の場合は「nmmnだから」という条件で楽しんでいるわけではない。おそらくこれは他の方々も同じであろう。
やはり何らかの「対象」が先に存在しており、「対象」の性格等を理解していくことで、「あ、これ"いける"な」となるのである。イケメンの語源である(不確か)。
それがアニメや漫画であれば単なる二次創作になり、それが現実の人間たちであればnmmnになる。それだけである。
しかし生身の人間で(恋愛以外でもなんであっても)想像することのワクワクっぷりは、きっと多くの人々が経験したことあるだろう。私のこれは、おそらくこの延長線上である。