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2020-11-13

anond:20201113140136

ある言語に「統一」することはそもそも不可能なのだ

現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語アメリカ英語オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語母語とする話者一定いる地域誕生すればそこには必ず方言誕生するのだ。仮に日本公用語英語と定め、数世代あとに日本人が英語母語とするようになっても、気候歴史文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本英語」、ジャパニーズイングリッシュ英語日本弁になってしまうのだ。つまり統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアル想像すれば、方言である日本英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単理解できるのだ。)


日本語を廃することは不合理なのだ

なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要情報源ほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベル理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉文化はセットだからなのだ文化的な背景、自然文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語文化資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代日本が抱える問題でもあるのだ。


移行期間云々のこと

移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代完了するのだ。上で触れた「文語口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化バックボーンはなく、かつ過去自分たち自身リソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。

日本語的英語」って?

英語公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジン母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本公用語英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。

たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式カリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼カレーうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼なのだ。従って、「日本語を廃して英語公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼うまいのは、和食うまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ

最後にただし……

ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶものなのだ。これは避けられないことなのだ。日本だって10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分研究対象としていた言語話者絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタ言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。

日本廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論現実の利の前には極めて無力なのだ

 
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