はてなキーワード: 日曜学校とは
献金袋見たら
夫婦とも信者3%程度、配偶者が未信者1.5%程度、独身者3%程度、親を扶養している人1%程度、その他事情がある1%程度
と書いてあった。
プロテスタントなら宗派により十分の一献金(聖書の記述にある収入の10%献金)を厳密にするところもあるみたいだけど。
PTAみたいに仕事を減らそう!って中堅が言ったこともあったけど、〇〇の行事は地域の理解に必要で〜とご老人が引き止め、その他ご老人方が拍手、仕事は減らんかった
祈りたいけど維持手伝いは嫌ってのはわかる。掃除程度なら時間都合してできなくもない。
バザーとか、三連休潰してキャンプとか遠足とか、日曜学校の教師とか、クリスマスツリーの電球這わせるとか、ホームページ作成とか楽しい教会演出しんどい。
ミサ後のコーヒーとか知らん、ぼーっと手伝わんかったら怒られた。
平日頑張って日曜にミサ行くだけでへとへとだよ。メンタル病んで退職したけど、そしたら暇でしょ?って仕事めっちゃ振られるし。
つい数ヶ月前まで首吊ろうとして痣があったんですとは言えん。
大事なのはわかる。変なカルトと思われると困るご時世だ。ただ、皆普通に暮らしてるだけでくたびれ果ててるんだよ。
そういう人が祈りに来るときの最低限ってなんだろうな、こっちもわからん。
コロナで行事減ってミサもリモートで見られるようになり助かった。これも撮影して配信してる仕事してる人がいるんだよな。感謝。
カトリックでも、さすがに婚葬はカトリック以外のものも体験しているのでは? 親戚のものは全部カトリックだったとしても。
それはともかく、子供に洗礼を受けさせるかどうか、日曜学校に通わせるかどうかとかについて、話し合いができない相手とは、結婚は難しいと思う。例えば結婚前に一緒にミサに行ってもらって雰囲気を知ってもらったうえで、「自分が週1で教会に行くときに子供は連れていきたい」とかの希望を相手がどう感じるか。話した結果、相手が反対したからあきらめるでもいいけど、話もできない関係では、今後がつらそう。
自分は定期的にミサにいったりはしないカトリックだけど、そこら辺話せない相手はつらいかな、と思う。これは相手がカトリックでも同じで、子供に洗礼は受けさせるにしても、親が自分にしてくれたように、堅信は本人の意思に任せたい。
http://www.flickr.com/search/?q=Three+wise+monkeys&m=text
3匹の猿というモチーフ自体は古代エジプトにも見られるもので、シルクロードを経由して中国から伝わったものだという見解がある。
また、『論語』の一節に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿動」(礼にあらざるものを視るなかれ、聴くなかれ、おこなうなかれ)があり、中国ではこんにちでも、妊娠中の女性は胎教の観点から「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は敖言を出さず」という戒めを受ける。朝鮮半島においても、結婚前の女性は「見ても見ぬふり、聞いても聞こえないふりをして、言いたくても言うな」と教育される。
インドのマハトマ・ガンディーは常に三匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされており、教科書などに「ガンディーの3猿」が掲載されている。またアメリカ合衆国では教会の日曜学校などで、三猿を用い、猥褻なものを見たり、性的な噂を聴いたり、嘘や卑猥なことを言わないよう諭すことがある。
私は、プロテスタント系の教会で、日曜学校を教えている。先生もクラスも年齢別に複数ある。
感謝なことに、それなりに人数が多く、定期的に新しい人も来てくれる状況。
しかし、最近気になることが。
とある小学生と幼稚園児の兄妹。母親(ノンクリ)に連れられて私の教会に来た。
聞くところによると、ネットで私の教会のサイトを発見し、来たのだという。
以前彼らが通っていた教会は、子供がほとんどいなくて、日曜学校や託児室もない。
子供は必然的に親と一緒に礼拝に出席することになるんだけど、その年くらいの子供が
じっとしていられるわけがない。
そのうち、教会員の人達(割と年配の人が多かったらしい)に疎まれるようになり、
居づらくなってその教会に通うのをやめた。
でも教会には通いたいので、いろいろ探していくうちに私の教会にたどり着いたらしい。
その話を聞いて、すごく悲しくなったし、イエス様の憐れみが注がれるように祈った。
だけど、その年配の人たちの気持ちも分かる(礼拝に集中できないとか)。どっちが悪いとかの話ではないんだよね。
私の教会は小さい子も多いし、日本の教会の割には平均年齢が若い。若いファミリーが来やすいと思う。
だから私の教会ではもちろん大歓迎だった。
ただ・・・その子達の母親が、どうも「キリスト教の価値観で道徳心を持たせてほしい」=「しつけに期待」みたいなことを
思っているフシがあって、少々困っている。
確かに、聖書に書いてあることを教えるし、実践してほしいと考えていて、授業中しゃべれば注意するし、友達を叩いても
注意する。でもそれはしつけじゃない・・・というか、その子が本当に変わるかどうかは親にかかってると思う。
私はクリスチャンなので書いてしまうけど、聖書的なしつけを実践する責任を神様から委ねられてるのは親。
ぶっちゃけた話、日曜学校の先生にそこまで踏み込むことはできない。
例外として、親がトンデモない親だった場合、牧師と相談してそれ相応のフォローはしていくけど、そもそも教会に
通おうかと思っている親に、そんなにトンデモない親はいない・・・いたとしても表面上は分からない。
分からないと対処のしようがないから。
私はその子、母親のことを愛しているしイエス様のことを知ってほしいと心から願っている。
けど、日曜学校に必要以上の期待をされると、ちょっと困ってしまう。