はてなキーワード: 商業誌とは
続き
https://anond.hatelabo.jp/20200911202150
アブラハム・マズローの書いた『完全なる経営』(日本経済新聞出版 大川修二訳)という本を読んだ。
その中では、精神的に健康な人間というものが語られている。平たく言うと、自己実現できる人のことだ。
自己実現とは、本に書いてあった内容によると、こんな感じの人だ。
・今の状況をありのままに捉え、不確実な状況でも耐えることができる
・夢中になれる物がある
この対極にあるものとして、精神的に不健康な人間についても述べている。
本文の中で、精神的に健康な人間と不健康な人間が対比されている描写は以下の3つだ。
相当高い発達段階にいる人間は、破壊よりも創造を好むものだ。創造する喜びは破壊する喜びよりも大きい。
ただし、破壊する喜びは確かに存在するし、そのことは看過されるべきではない。とりわけ破壊から強い喜びを得るのは、発達段階の低い人間、つまり神経症患者、未熟な人間、衝動をコントロールできず無意識的に行動を起こす人間、サイコパスなどである。 P.63
彼は予想外の事態に直面しても怖れる気配を見せない(強迫観念にとらわれた硬直した人間は、予想外のできごとを怖れる)。創造的な人間にとって、計画とは先に進む道を探すための足場以上のものではなく、それゆえ、後悔や不安をともなうことなく、やすやすと放棄することができるのである。 P.319
どのレベルの動機づけによって生きているかを判定するには、さまざまな方法がある。たとえば、どのようなユーモアを面白いと感じるかによって判定するというのも、その一つだ。低いレベルで生きている人間は、敵意のこもった残酷なユーモア――老女が犬に噛まれる話や精神遅滞の子どもが他の子たちにいじめられる話など――を面白いと感じる傾向にある。リンカーンが示したようなユーモア――哲学的で教育的なユーモア――は抱腹絶倒するような類のものではなく、むしろ微笑を誘うものであるが、これには敵意や征服といった意味合いがまったく込められていない。このようなレベルの高いユーモアは、低次の欲求レベルにとどまる人間からは、まったく理解されないものである。 P.367
この3つの中で、一番下が気になった。
それって、どんなコンテンツだろうか?自分もこれまでに楽しんだことがあるのだろうか?
気になって考えてみた。
以下は、私の主観で選んだ『精神的に不健康な人間が好きなコンテンツ』だ。
□ 漫画編
この頃のCLAMPはトンガっていた。今の作風からは信じられないほど『精神的に不健康なコンテンツ』だったといえる。個別作品のネタバレはしないので安心してほしい。
人間の手足が千切れる、〇〇の頭部をもぎとって〇〇に見せる、これまで信頼していた人が裏切って主人公をボコボコにして作品完結だったり、自分の部族が皆殺しになるのを割と涼しい顔で眺めている〇〇がいたりと、今に比べれば殺伐とした作風だった。(※もちろん例外はある。「CLAMP学園探偵団」「20面相におねがい!!」「学園特警デュカリオン」など)
このような作品を商業誌で描くということは、当時のCLAMPは精神的に不健康な人間の集まりだったのか?と私は思った。
そのとおりだと思う。
CLAMPに関する情報を集めれば集めるほど確信を深めるようになった。どんな情報を集めたかは言わない。彼女達の名誉を傷つけるおそれがあるからだ。あの〇〇〇〇〇〇を作った奴はどこのどいつだろう。訴えられればいいのに。
CLAMPが今のように精神的に健康なコンテンツを作るようになった境は、『魔法騎士レイアース』『カードキャプターさくら』の辺りだと思う。
この頃からCLAMPの作風が急に丸くなる。魔法騎士レイアースはシリアスな場面が多いが、これまでの作品に比べれば緩い。ギャグも多いし、家族同士の愛情、恋愛もしっかり描いている。
※もちろん今でも殺伐とした物語を描くことはある。BLOOD-Cが好例だ。
作品内容がジェノサイドな方向に行ってしまうというのは、何もCLAMPに限ったことではない。他の有名漫画家にしてもそうだ。それは雁屋哲だったり、板垣恵介だったり――眉月じゅんのような若い作家でもそうだ。
初期の作品というのは、どうしてもそういう方向になってしまう。それは、自分がこれまでに受けた苦しみや、社会への恨みや、一発当ててやるといった決意がそうさせるのだろう。
漫画家として食っていける人間というのは、若いうちは苦労しがちだ。サラリーマンに適合するタイプの人間ではないので、学校で仲間外れにされたり、いじめられたり、日陰の存在になりがちだ。
そんな環境の中で作品を描く力を磨き上げた人間というのは、自分を虐げてきた社会に対する不満を創作活動を通してブチまけてしまうのかもしれない。
あくまで推論に過ぎない。デビュー作品も、今の作品も殺伐とした雰囲気が少ない作家もいる。大御所だと高橋留美子だ。あの人の作品は、初期の物も今の物も人間愛に溢れている。
一般的には、一山当てて名前が売れたり裕福になったりすると、作品内のグロテスクな傾向は薄まっていく。
名前が売れると承認欲求が満たされるし、印税が入って裕福になれば、食事に旅行にファッションに、いろいろと楽しみ放題だ。
「恒産無き者は恒心無し」という故事があるが、まさにこれを地で行くのが人間の性だと思う。
以上は、ほとんどの創作者に当てはまる傾向だ。若い頃に殺伐で辛辣なジェノサイドを描いていた人が、有名になるにつれて人間同士の繋がりを大切にした作風に変化していく。
ここでは個別具体的な作品を扱う。ネタバレはしないが作品の感じは伝わってしまうだろう。
2010年から月刊誌で連載が始まった作品で、2014年にアニメ化された。原作はタカヒロだ。
①グロテスクなシーンがよくある。身体の欠損や理不尽な死は基本。
②読者に残虐なシーンを読んでもらうことを目的とした話がある。特別編の3人娘など。
③グロ以外にも人権を軽んじる描写多数(特に女性と田舎者に厳しい世界だ)
こちらのタカヒロ氏は、ほかにも勇者であるシリーズ(ex結城友奈は勇者である)を手掛けている。この作品も、真面目でいたいけな少女を痛ぶることで読者や視聴者、プレイヤーを楽しませることを目的のひとつとしている。
人は、一体なにが原因でこのようなコンテンツを考えつくのか?
ストレスにほかならない。生きていることが苦しかったり、面倒くさかったり、人が憎いと思ったり――そんな観念が繰り返し脳裏に浮かぶ度に、その邪悪な何かを外に出そうとする。あるいは、他者を自らの仲間にしようとする。
タカヒロ氏のインタビュー記事を可能な限り読ませてもらった。記事内では、常識的な言葉で作品をPRしているように思える。しかし、毒がある。不満であるとは言明しないものの、コンテンツに関する何かに対して、さりげなく毒を吐いている。
さりげないから目立たないだけで、さりげなくない表現を使うとコンテンツの関係者にケンカを売っていることになる。そんなインタビューがひとつ以上あった。
精神的に不健康なコンテンツを作るのは悪いことではない。それが面白いという人がいる限り、価値あるものだ。
私も昔は、そういうコンテンツが好きだったと思う。でも、大人になるにつれて、社会で果たす責任が大きくなっていくにつれて、精神的に不健康なコンテンツよりも、心を健康してくれる、浄化してくれるコンテンツが好きになっていった。(一例として、のんのんびより。ニコニコ動画の再生数を見てもらえれば、私の言っていることが伝わると思う。ニコ動で一番売れている有料アニメだ。あれから一時的に無料期間があったので今は判然としないが、当時は少なくとも1話あたり3000再生は売れていた)
2010年代の前半辺りが最盛期だったと思う。当時は、ふたばチャンネルやニコニコ大百科、pixivなどにゆ虐のイラストや漫画を上げる絵師がいたり、ゆっくり虐待の小説を専門に投稿する掲示板があった。
このコンテンツにおいて示唆されている行為は何なのか?ゆ虐の作品を何度も覗いたことのある方ならお気づきだろう。
ゆっくりというのは、愚かな人間のメタファーだ。そのメタファーを痛めつけたり殺したり、漫画という形で傍目から眺めることで精神的に不健康な人間の欲求を満たしている。
精神的に不健康な人間はこういったコンテンツを好む。一言でいえば、人権侵害をテーマにした作品や論評や意見を好む。
同じ時代でいうと、mixiのニュース引用型日記だ。ニュースを引用して記事を書くことができ、投稿すると下にある引用記事一覧に載る。
今は廃れた光景だが、障がい者や生活保護受給者やホームレス、タクシー運転手に教師、公務員などを扱った内容がmixiニュースで取り上げられる度に、心無い誹謗中傷を述べた日記を投稿するのを楽しみとする人たちがいた。
障がい者が事件を起こすと「殺処分せよ」、生活保護受給者の不正が問題になると「貧乏人は死ね」、タクシー運転手が客とトラブルになると「タクシー運転手は社会の最底辺」など、差別の例としては完成され尽くした日記を投稿する層が一定数いた(しかも彼らは連帯を組んでいる。反論コメントは徒党を組んで煽ったり馬鹿にすることで潰す)。
一番ひどい例だと、東日本大震災が起こった際に、携帯電話の絵文字で津波に流される人々をアスキーアート風に表現した日記を投稿する人がいた。その人自身も、心に問題を抱えているように思える文調だった。
mixiの運営も、一定数の通報が集まるとそういう日記を削除し、ユーザーアカウントも凍結していたようだが、さほどの効果はなかった。
こうした人権侵害を行う人に共通しているのは、「社会に恨みを持っている」ことだ。
私が観察したところ、上記のmixi日記の数名の投稿者は以下のような環境にあった。
・いい大学を出ていい会社に入ったものの、嫁が公然と浮気をしていて、でも子どもがいるから離婚できないという葛藤を抱えている
とにかく強いストレスに晒されている人たちだった。
□ アニメ編
・該当する作品について
※後日追記 強いていえばBLOOD-Cだが、あれはどちらかというとシュールなギャグアニメなのでは・・・?という印象がある。
なぜかといえば、公衆放送なので当たり前なのだが、人権侵害コンテンツなど流せるはずがないからだ。
上記で挙げたアカメが斬る!についても、だいぶマイルドになっている。
アニメを企画する会社や、アニメ制作スタッフらが自主判断でグロシーンをマイルドにしたり、描写自体をなくしている。
あの3人娘は死なない。むしろ最終回で生存描写がある。この改変には痺れた。原作者が精神的に不健康な人間であっても、スタッフには良心があったのだ。
CLAMPの作品もそうだ。初期の作品である『X』には、地震でビルなどが倒壊し、多くの人が犠牲になるシーンが幾つかある。グロシーンも多数だ。
こういう描写が問題になり、漫画版のXは最終回を迎える前に編集側から強制ストップがかかった(もちろんCLAMPは続けたかったらしい)。
アニメ版はだいぶマイルドな描写になっている。残酷なシーンはあるが、気持ち悪さを感じるほどではない。放送コードの力は偉大だ。
今回はこれくらいで。
これはnmmnの話ですが、誰と誰の組み合わせが好きとかそういう話ではなく、私の中の人格が戦い続けてる話です。
私の好きなアイドルを特定しないでください。本筋に関係ないし私が死にます。私も必死にぼかします。
そしてひたすら気持ちを書き連ねているので長いです。
推してるアイドルの仮称 : 顔がめちゃくちゃ良すぎる世界一のアイドル略してカオルくん
内容知りたい人向け三行
そこに出て何か話していたカオルくんを見た瞬間、衝撃が走った。
カオルくんは顔や身長、性格、声、メンカラその他もろもろすべてが私の理想のアイドルだった。
最初数カ月は私がアイドルに手を出す…?と渋っていたものの、だんだん情報を追うようになり、ついに数ヶ月後にはカオルくんのブロマイドを買い、FC会員やブログ会員になった。
ライブはこのコロナ下の中開催されないので行けていないが、ライブ映像だって見た。めちゃくちゃたのしい。ペンラも発売されていたので買った。
ある日、ふとカオルくんと同じグループの子が気になり、カオルくんとそのの名前で検索すると、過去のいろんな写真が検索履歴に引っかかった。
距離近すぎない?
今まで二次元でオタクしていて、なんなら同じコマにいるだけで組み合わせてしまうようなそんなオタクがそんな写真を見たらどうなるか。
私の場合はヒッ……とひきつった声にもなっていない悲鳴しか出なかった。
あんな絵を書いたら腐だ!と言われかねないくらい距離のちかい写真、同人誌や商業誌の表紙でも見たことないような近すぎる構図。そんなものがたくさん出てきた。カメラマンさんはどんな指示したのだろうか。
腐女子の私はそういったものが女の子をキャーキャー言わせるための営業なのだとはわかっていた。わかってるつもりだった。
何かで距離が近いのは女の子をキャーキャー言わせるためだって見たきがする。アイドルの片方を自分に見立ててこういうふうにされたい!って思うためで、○○そこ変われ的なやつの構図だって聞いたことある。
まあこんなのみたら女の子はキャーキャー言うよね、私も言うわさっき絞り出したような悲鳴しか出なかったけどな、と自分の気持ちを落ち着けたものの、動画サイトでグループ名やカオルくんを検索するたびに出てきたけど避けてきたコンビ名動画を興味本位で見てしまった。
同じコマにいるだけでキャーキャーいうオタクなのに、カオルくんとこんなことして遊んだだとか、こんな話を二人でしたとか、昔話をしたりとか、そんな話がゴロゴロ出てきた。
それはたしかに普通にカオルくんこんな感じのこと言うんだ〜いいな〜と聞くこともできた。
でも悲しいことに私は腐女子だった。
オフでプレゼントもらった話だとか、遊んだとか、昔のエピソードとかそんなこと聞かされたら腐女子の私は「供給」と感じてしまうのだ。
書いてもない、言ってもいないことの行間を勝手に妄想し、気持ちを捏造し作り上げる力を持ってしまったのが腐女子の私だった。
三次元でそういうことは考えたことなかったが、そういう界隈があることは知っていた。でも見る勇気はなかった。
やっと三次元に見つけた心から応援したいと思ったアイドルのカオルくんを、10年以上培ってきた分厚い腐ったフィルターを通して見たくない。
それでも萌えてしまうしエモいと鳴いてしまうのが私だった。顔がいい男の絡みが大好物という生活を十年以上してきたからもう条件反射とかそういうやつだ。
最近買った雑誌にもまた距離がめちゃくちゃ近い写真がある。そろそろハグくらいじゃなんとも思わないようになってき…………てるわけないんだなこれが。
私は腐女子であることとは別にアイドルを楽しんでいるつもりだ。
きっちり分けて考えていきたいと思っている。
でも長年の癖からカオルくんやその他のメンバーをそう見てしまう時がある。見てしまうというより、見えてしまう。
そういった楽しみ方をしている人も知っている。否定する気は一切ないし、自分もそれに近い見方をしてしまう日がいつか来てしまうかもしれない。でも私はまだそこまで到達してない中途半端な存在が統制のとれたあの界隈に踏み込んで荒らしてしまうことを考えたら絶対に行けない。
Natureは商業誌で、過度の引用に対しては制裁があるので、最低限の引用にした。
Methodsしか読んでない。
When we constructed high-
c_t=0.7に選んだ理由は?なぜこの値が良いの?
データセットと精度はトレードオフの関係になりやすいので、画像枚数を最大にしたほうが良い精度が得られるのでは?
この論文は精度を最大にして気象データの予測を行うことなので、画像枚数を削減した理由が不明。
Because our study concerns time series
これは、グリッドでトレーニング、validation,testのデータを区切っているという意味ですか?
トレーニングにおいて、年代0-150までを学習しているなら、その上昇傾向からtestの予測精度もあがると思います。
training ,validation,test の3つ地域を分けて、
というふうにデータを時系列の前半と後半とに分割することで、時系列の予測は行われているようです。
参考:
https://community.dataquest.io/t/how-to-split-time-series-data-into-training-and-test-set/4116/2
同様の指摘 https://twitter.com/mlaass1/status/1281093109837787138
元は2次創作で壁やってて、即売会場で出版社にスカウトされて商業の世界に入りました。
それまでの私は2次創作界隈では「綾城さん」扱いを受けていて、大勢の人に褒めてもらえて、自分は漫画を描くのが上手いんだなと思ってた。
でもいざ商業をやってみて、原作のパワー無しの、本来の自分の漫画力だけで創作を行うということがどれ程大変なことか、私はあんまり分かっていなかったんだと思う。
2次創作では、元々知名度のある漫画の、魅力的な世界観やキャラクターを使用して漫画を描くから、その上にのっかってちょっと絵が上手かったり基本的な話の起承転結が出来てるだけで、みんな私の事を神と崇めてくれていた。
みんなも大好きで神と崇めていた同人作家が商業デビューした途端、その人の漫画がどうでも良くなった事ってない?
あれ?この人の描く漫画ってこんなつまんなかったっけ?て目が醒めたことない?
あれが私は自分にきた感じ。
商業は普通に話が纏まってて普通に面白いだけじゃ駄目で、作品自体が輝くような、その上の能力が必要とされる。
でもさ、同人誌は千冊売れたら凄い!て言われるけど、商業誌は1万部しか売れなかったら打ち切りになっちゃうんだ。
凄いよね。私の漫画にお金を出そうって思ってくれる人が1万人いても駄目なんだよ。
ちやほやされて数万単位以上の人にお金を落とし続けて貰うことが、商業で生きる「最低条件」なんだよ。
凄くない?
同人界でちょっとちやほやされてる描き手がTwitterで得意げに自分の2次創作の漫画を解説してるところを見ると、『この人も所詮私と同格かそれ以下なのにな』て思ってしまう。
もちろん同人界の中にいても、この人なら商業でも売れそうって思うような明らかに飛び抜けて力のある人に対してはそう思わない。(でもそういう人って中々居ない)
私は商業の世界を見て、そこで自分の力の無さを思い知って挫折しまったけど、貴女達は同人界の井の中の蛙で気持ち良いままでいられて羨ましいねって思ってしまう。
だから今話題の秀才字書きと天才字書きの漫画を見ても、勿論漫画自体は凄く面白いんだけど、私にとっては綾城さんも「所詮」同人界隈のなかでの天才じゃんって思っちゃうんだよね。
性格悪くてごめん。
意識の切り替えのために、捨て書かせてもらう。
結局ここでこんなことを呟かなきゃ気が済まないところがダメなのだけれど、
これが最後だ。
https://anond.hatelabo.jp/20200706165448
https://anond.hatelabo.jp/20200709170615
事の発端
最近腐女子界隈のtwitterで、上記のようなものが最近よくバズって流れてくる気がする。
色んな人がいるもんだよねと、腐女子で同じくプロ作家でもある友達と作業通話をしているときに、この話題を振ったのは私からだった。
そこから話が色々と派生して、創作活動をする側の腐女子のSNS運用についての話になって、
その時に友人がふとこう言った。
「でもあなたのSNS運用は、構ってちゃん腐女子そのものだから当然だよね」
衝撃だった。
家族や恋人以外で、こういった指摘をしてくれて、けれど、以降も関係が壊れない存在なんて大人になってからいるものだろうか。
少しの自己嫌悪と、それはそうと自分のことを注意されたことにたいするイラつきと、指摘してくれた感謝。
何より、意識していなかった自分の欠点に気づけたことが嬉しかったので、そのまま自分のおかしいところを指摘してもらった。
10代で同人誌を作り始め、同時にSNSアカウントを作り、活動を始めたその年にコミケでスカウトされて商業誌デビューし、同人と両立させつつ今に至った。
いわゆる「神」みたいな圧倒的な才能があったわけじゃない。ただタイミングと運が良いだけだ。
それが誰かにとってはのどから手が出るほど欲しいものなのかもしれないが。
SNSのフォロワ数は、覇権ジャンルばかり通ってきてる中、短期間ちょっと集中して絵を連投すれば五桁に届くねって程度。
仕事が好きだし同人活動も楽しい。読んだり見たりしてくれる人も好きだし、
腐女子特有の連投ツイートや妄想ツイ、思ったことをなんでも呟いてしまう痛い自分に、
しかし最近、萌え語りやジャンル・仕事のこと以外に、日常の全てを呟かないと気が済まないくらい、SNSに依存していた。
コロナの自粛ムードもあって、外に出たり人に会うこともなくて、人恋しさもあったんだと思う。
自分でもSNSから離れたいと思っていたのだが、意志とは反対にどんどんツイート数が増えていった。
「〇〇萌え~中の人他ジャンルでどんなキャラ演じてるんだろう」
「流石に限界だったからテイクアウトでスイーツ買ってきた!おいしそうですねおいしいですよ!」
でも、それに比例するように、フォロワからのリプライやマシュマロが増えてきた。
SNSにずっといるんだから、リアクションを貰えることが増えるのは当然だけど、そんな反応を全部返さなきゃと思うと億劫になってきた。
承認欲求がないわけではないので、呟きや妄想・イラストや漫画がふぁぼりつされるのは嬉しい。
でも、こちらのツイート全部にリプライが来たり、全部にふぁぼしてきたり、適当な呟きを本気にして編集部宛にプレゼントが届く。
最初にリンクを貼った「承認されすぎてツイッターのアカウントを消した」の記事をRTして
「確かに困るんだろうな。でも疲弊するほど承認されることに疲れるなんて、やはり神様はすごいね」
みたいなことを呟いたら、
「本当にごめんなさい、そんなつもりなかったんです。遠まわしに私に対する注意をしてくれたんですよねしばらく消えます(要約)」
みたいなDMやマシュマロが何個か来て、フォロワ数もちょっと減ってた。
前は全部に返事してたんだけど、数も増えてきたし、返したらその倍くらいの返事が来てさらに返さなきゃならなくて、
好意を向けられることは嫌でもないし感謝もしてるけど、時間的にも大変だから、このあいだとうとう「もう全部返事しないことにします」って呟いた。
全部返事しないから、そのかわり好きにDMやリプやマシュマロ送ってくれていいですよって。
好意故に反応してくれてるわけで、それを否定したいわけじゃなかったから。
そういうところに問題があるんだと指摘された。
自認
「今日は〇〇食べたんだ~!」
「今度の新刊、〇〇で〇〇な本出そうかな…悩むな~」
「待って…〇〇尊い……嘘でしょ…ねえ…こんな尊いことある…?」
こういう発言全部別に呟かないで一人で考えてりゃいいのに、呟くからフォロワが反応するんじゃんと。
明らかに反応されたがってるんだろうなっていうツイートされたら、フォロワは私の喜ぶようなリプライを
送ろうと思うに決まってるじゃんって。
自分から誘うようなことをしておいて、いざ相手からリアクションが来ると「困る~><」ってやってるの、自覚なかったの?って。
自覚があると思ってたって。
構ってちゃんのくせに、いざ相手にしてもらえたら冷たくする。そういうことをしているんだよ、と。
びっくりした。
言われてみたらほんとにその通りのことをしていた。
実はアンチスレも作られていて、
どうも人をいらいらさせる才能があるのはわかっていた。
しかし、叩かれるのは、ツイートから流れる自分の性格の根本的な悪さや、アンチとの価値観の相性の問題だと思っていた。
違ったんだよ。
結構な人が嫌いな「相手にちやほやされるの待ち」の人間そのものだったんだ、私。
なんでこんなことにと思って、改善策というか、原因を考えてみた。
とか
「本当に下手だ…なんで上手くなれないんだ…」とかよく呟いていた。
そういう卑屈さゆえにアンチもついたんだろうと思っていたが、どうも話はもう少しややこしいようだった。
これを書くとまたすごい嫌味な人にしかならないんだけど、
どうも自分が思っているより、自分が描いたものは一定の基準を超える評価が貰えるようなのだ。
それをアホみたいに卑下して自分はダメ人間なんですって言ってるのが嫌味で愛されたがりそのものだったらしい。
本人は本気で自分の至らなさに落ち込んでいるつもりだったのだが、人にはそう見えない。
卑屈になるならひたすら卑屈にしていればいずれアンチに総攻撃して貰えて精神をやられたものの、
残念なことに、自分には他者から承認されまくったり、アンチに精神攻撃や嫌がらせを受けたこと
により疲弊して潰されてしまうような”正常な感覚”がなかった。
「まあアンチって自己主張の強い癖のある奴には絶対ついてしまうから」
「もっとのびのび絵を描いていたい。なんで我慢しなきゃいけないの。」
「自分のこと嫌いな人に配慮して活動するより、嫌われる覚悟を持ったうえで好きにしたい」
「がんばって描いた!下手だ!!つらい!!本当に下手だ!!でも、見てくれる人がいるほうがもっと上手くなれるからふぁぼりつ嬉しい!!こんなへたくそに!!」
こういうことも、考えるまではまだいいかもしれないけど、全部呟いていた。
こんなの、自分の描いたものを好きなフォロワ達がみたら、擁護してくれるのは当然である。
よしよしぎゅうぎゅうされるの待ちでしかない呟きだ。
「この呟きは自分への戒めのために、感情を整理したくて吐露しています。ほおっておいてくれるのが一番助かります。」
いや、だったら黙ってろよ。
猛省
しかし、考えたことをSNSに吐きだした瞬間、私は私が作家であり同人絵師であるがゆえに、絶対にフォロワに肯定されてしまってきたのだ。
私の痛さに耐えられない人間は去っていくから、フォロワは肯定してくれる人しか残っていない。
それでいてこの間まではそんなこと気付いてなかったから、
となるべく返事をして感謝を述べていた。
「肯定してあげなきゃ」
となり、
狭いコミュニティでの気持ち悪いよしよしぎゅうぎゅうちやほや地獄絵図が完成したのである。
あるラインを越えた評価を貰える人間は、卑屈にも自信家にもならない丁度いいバランスでSNS運用をしたほうがいいらしい。
当たり障りのない、日常のこともあまり呟かず、萌えまくってやばいときも、呟くより粛々と絵やマンガにぶつけるべきなのだ。
貰ったリプライやメッセージ、マシュマロにも過度に感情移入しすぎず、感謝してる事実だけをシンプルにたまに伝えるようにする。
そして、今回指摘してくれた友人のように、正直に言ってくれたほうが有難いことははっきりと言ってくれて、
後に尾を引かない関係でいられるような少数の友人とのみ親しくしていた方が、自分自身の行動への違和感や認知のゆがみを阻止できる。
せめてもう少し一本筋の通った腐女子でいたいなと思った。
変わりたいのだ。
今持ってるアカウントは気持ち悪さの塊に見えて仕方ないので、少しずつ低浮上になっていってふわっと消そうと思う。
匿名で正体を一切隠した腐女子アカウントを作ろうと思ったが、絵を見た瞬間わかる人には正体がばれてしまうので、
本気で身を隠したいなら絵は上げるなと忠告してもらった。
「ばれないよ!そんな才能も個性もないし!また新しいアカウント作って、呟き方や内容は改めるし、自己卑下は日記帳に書く!」
と言ったが、
「この一連のやりとりをした今、あなたと似たキャリアの人間以外が、その発言をきいたらどう感じると思う?」
と返されてぐうの音も出なかった。本当に良く今まで付き合ってきてくれたなと友人に感謝した。
もう手遅れだろうけど、また嫌われることを言う。
最大手でも、明らかに神枠認定できる程のフォロワがいるわけでもなくても、
描いて、だれかに見てもらいたい限り、私は「神」にならなくてはいけない。
どうしてそこまで描いたものを見てもらおうとするのか、自分のエゴの強さに少し呆れたが、
そのことについては
「描いたものを見てもらいたいという欲求は、描き手にとって自然なものだよ。」
と友人は言ってくれた。
過剰な自己卑下の中、描き続けてきたのは見てくれる人が当たり前にいてくれたからだ。
自己嫌悪でいっぱいになって描くのをやめようか悩んだことも沢山ある。
でも、見てくれる人がいたおかげで、あと少しもう少し上手くなりたいと思い続けてこれた。
どれだけ恵まれているかを自覚して、次のアカウントからはせいぜい神っぽい存在になることにする。
好きな作家さんがいてさ、そういやしばらく単行本買ってないな、と本人のtwitter見たら、直近の発売が2016年とかなわけ。俺が4年前(ほぼほぼ発売日に買ったやつ)が、そのまま最新刊なのよ。
HUNTER×HUNTERでももっと刊行早いぞ、って別に作家さんを非難するつもりはまったくなくて、これってどういう理由? っていうか自分で話し出しといて話題がズレるが、あの人たちはこれでちゃんと食えてるのだろうか?
理由として、
① 商業誌への掲載作品がベースになっており、単行本化にあたってそれを取りまとめているようなので、単に掲載の頻度が低い
② 一般商業誌以外の仕事、同人活動とかがあるのでそちらに注力している=収入もこちらからある程度得ている
あたりがあるのかな、と思ったけど、実際はどうなんだろうか。
好きな作家さんがいてさ、そういやしばらく単行本買ってないな、と本人のtwitter見たら、直近の発売が2016年とかなわけ。俺が4年前(ほぼほぼ発売日に買ったやつ)が、そのまま最新刊なのよ。
HUNTER×HUNTERでももっと刊行早いぞ、って別に作家さんを非難するつもりはまったくなくて、これってどういう理由? っていうか自分で話し出しといて話題がズレるが、あの人たちはこれでちゃんと食えてるのだろうか?
理由として、
① 商業誌への掲載作品がベースになっており、単行本化にあたってそれを取りまとめているようなので、単に掲載の頻度が低い
② 一般商業誌以外の仕事、同人活動とかがあるのでそちらに注力している=収入もこちらからある程度得ている
あたりがあるのかな、と思ったけど、実際はどうなんだろうか。
今回は作品単体の感想というよりは、媒体の潮流に対する包括的な感想。
自分でも漠然としすぎていることを自覚して話すので、他の人は共感どころから理解すらしんどいと思う。
WEBコミックサイトって、例えば1話を「1話①」みたいな感じで配信することがあるんだよね。前編、中篇、後編みたいな明確に区切っているものですらなくて、本当にぶった切った感じの構成。これはWEBコミック独特のものだなあと思う。
商業誌とかだとストーリー的には地続きだとしても、1話単体で何らかの区切りやすい、評価点を作りやすいように描いてあることが多い。「話が進まない」とか言われている漫画がたまにあるけれども、そういった区切り方をやっていないのも理由としてあると思う。
個人的にこのやり方を評価してはいないんだけど、利点も分からなくはないんだよね。コンテンツは認知すらされないってのが最も避けたいことだから、構成的に不恰好でもコンスタントに提供できた方がいいって理由もあるんだと思う。ブツ切りで配信しても、私みたいに見る奴は見るし。「読む」んじゃなくて「見る」……って感じになりやすいけれども。
私が何でとりあえず見るかっていうと、サイト単位で巡回しているからなんだよね。特別この漫画を読みたいっていう感じじゃあない。商業誌とかでも、「単行本買うほどじゃないけれども雑誌に載ってたら読む程度には気に入ってる」って作品があるけれども、そんな感じに似ている。
ただWEBコミックサイトって、世間一般的に雑誌という媒体に比べてブランドとしての訴求力が低い状態だと思う。例えば『王様ランキング』が話題になったけれども、それが載ってる『マンガハック』というサイトの認知度はそこまでじゃない。
まあ、この点については、個人的に納得できる結論すら出ていない。とりとめもないまま、今回の感想自体もぶった切って終わりです。
なんかまたキズナアイバッシングで名を馳せた先生が燃えてますね.
千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで - ゆなの視点
社会学者の千田有紀氏のトランスジェンダーに関する論文に批判が集まる - Togetter
私はこの先生の論文を読んでない(それどころか一瞥してすらいない)ので,どちらの主張が正しいのか判断することができない.だからこの先生の論文の「内容」には言及しない.だけど「形式」については言いたいことがある.
(査読のない商業誌である『現代思想』に掲載されるのは「論文」ではなく「論考」だろうというご意見をいただきました。こういう文章をどう呼ぶべきかわからず「論文」と書いてしまいましたが、そのために誤った印象を与えてしまったかもしれません。申し訳ありません。)
この部分が人文系研究者のワイからすると明らかに変なことを書いているので,ここで指摘しておく.これはブログ主さんというよりも,ブログ主さんにようわからん指摘をして混乱させてる人たちに向けた文章です.
あのね,査読なし商業誌にオリジナリティがある論文を載せる分野ってのも世の中にはあるんですよ……
キズナアイバッシングのときに私色々書いたけど(anond:20181009213503; anond:20181011090428),査読はたしかに重要であり,日本の文系でも査読つきの論文が増えてきている(というか分野によっては査読つきの方が多い)わけだけれど,すべての学術論文に査読がつくとは限らず,また商業出版のルートに学術的な本や論文が載ることもまだまだ多いわけですよ(というか,普通に考えてElsevierとかも商業出版だよな.商業出版ではない学術雑誌っていうのは大学紀要とか学会誌とかのことであって).
なので,査読なし商業出版であることを理由に学術論文であることを否定されると非常に困ります.その基準だと「学術論文」ではなくなってしまうが,しかし学術的に重要である,という論文はいくつもあるわけで.
これが『世界』やら『正論』とかならともかく,さすがに『現代思想』に研究者が注とか文献目録とかつけて書いた学術的な文章は学術論文でいいでしょ.
『現代思想』や『ユリイカ』や『思想』やそのへんの雑誌は人文系研究者にとっては学術論文を掲載し得る場所です(それらの雑誌に載ってるものがすべて学術論文だとは言ってない,念のため.VTuberについての論文とVTuberのエッセイが同居してたりするので……).別分野の基準を持ち込んでそれらの媒体に掲載された論文を学術論文ではないかのように扱うのはやめるべき.
(ところで,一部の雑誌では査読論文と査読なし論文を混ぜて掲載してることもあるから,そういう媒体では究極的には著者か編集者に聞いてみないと査読の有無はわからんぞ.researchmapだと査読の有無をチェックする欄があるからresearchmapに登録してる研究者ならそっちを見れば査読の有無はわかるのかな.でも読むときには査読の有無とか特に気にしてないよね.面白い論文なら「これめっちゃ参考になる!」って言って引用すればいいしくだらない論文なら「一応目は通したけどあんまり参考にならなかった」と言って引用すればいい.めちゃくちゃ面白い論文が査読なし媒体に載ることもあれば「え? ふーん,これ査読通ってるんだ.それはそれは……」みたいな論文もあるので……)
何が悲しくて私がキズナアイバッシングに火をつけた人の弁護をしなきゃならないんだ.ほんといい加減にしてくれ.別の増田(anond:20191103222919)でも書いたけど,むやみに戦線を拡大して敵を増やすのは本当にやめてくれ.それはこれまでの献血コラボの実績を何も知らずに「そもそも宇崎ちゃんは献血と何も関係ないじゃないか」と噛み付いたクソどもと何が違うんだ?
これは「論文」ではないので「論考」と呼びます,というのも意味がわからなくて,だってその2つの言葉ってだいたい同じ意味じゃん……?
個人的な感覚だけど,学術論文を指して「論文」と呼ぼうが「論考」と呼ぼうが単に修辞以上の意味はないよね.先行研究の整理とかで「○○氏は「××」という論考において△△と主張している」って書いてあったら,それは○○さんが書いた「××」という学術論文には△△と書いてある,って意味でしょ.
投稿規定とかでは「論文」と書かれることが圧倒的に多いし,私も基本的に「論文」と呼ぶことが多いけど,学術的な新規性のある文章を指して「論考」と呼ぶことは別に間違っちゃいない(これ,人文系の研究者だったら同意してくれるんじゃないかしら).だから「これは論文じゃないので論考と呼びます」って言われても正直「???」なんだよな……
「これは『頒布』であって『販売』じゃありません!」みたいな内輪の謎ルールになってない? 大丈夫? おっぱい揉む?
で,そもそも論として,仮に学術的な形式に則っていない文章でも「論文」と呼べるよね.これは文系がどうとか理系がどうとかそういう話じゃなくて,世間一般における言語感覚の問題.
大真面目に何かを論じる文章や考察する文章はすべて論文と呼びうる.その中で一定の形式的・内容的基準を備えたものを「学術論文」として区別しているだけ.
要するに,「学術論文はすべて論文である」は成り立つけど,「論文はすべて学術論文である」は成り立たない.
たとえば,公務員試験を受けると「課題論文」というのを課されることがあるのだが,これは別にその試験のためだけにデータを集めて新規性のある学術論文を書けという意味ではなく,与えられたテーマについて紙に数枚くらい自分の意見を書きなさい,という意味.
もうちょいみんなが経験してそうな例で言うと,大学受験の「小論文」なんかもそうでしょ.
一般社会において「論文」ってその程度のものなんですわ.私らはアカデミアに染まりきってるからついつい忘れそうになるけど,真面目になにかのテーマについて論じた文章なら「論文」と呼ぶ,という言語感覚の人は一般社会にそれなりに存在しており,そういった一般社会的用法も別に間違いではないんですよ.
なので「これは『学術論文』ではないから『論文』と呼ぶべきではない」という主張は,そもそも一般論として間違いです.
アカデミアにおいて何の限定もつけずに「論文」といえば学術論文のことだけど,それは文脈が限定されていて短縮された言葉でも意味が通じるからです.コミックマーケット会場で「東」といったら太陽が昇ってくる方角ではなくオリンピックとかいう害悪イベントのせいで使えなくなっている東京ビッグサイトの東展示棟を指すのと同じこと.
コミケ会場付近をうろうろしている一般人が太陽の昇る方角を指差して「東」といったときに「お前が指しているのは東展示棟ではないのだから『東』という言葉を使うのはおかしい」と言ったら変な人だよね.それと同じように,アカデミアの外にいる人(この場合は例の先生ではなく例の先生が書いた文章についてブログを書いた人)が「論文」という言葉を使ったときに,「お前が言及しているのは学術論文ではないのだから『論文』という言葉を使うのはおかしい」と主張するのはハッキリ言ってかなり変な人だよ.
英語でいうarticleとかpaperもそうでしょ.新聞記事も学術論文もどっちもarticle.学術誌で何の限定もなくarticleといえば「論文」という意味になるけど,それは文脈が限定されているからで,一般人が新聞記事を指してarticleと言うのを咎めたらおかしいよね.
よって,例の先生が書いたものが仮に学術論文ではないとしても(これはもちろん仮定法ですからね),一般人がそれを指して「論文」と呼ぶことを咎めるのは間違っています.
これは,文系とか理系とか新規性とか査読とか業績評価とかそういう話ではなくて,一般社会において言葉がどのように流通しているか,世間の人びとはどんな言語感覚を持っているか,という話ね.ほんと,我々の考える「学術論文」以外のものが「論文」と呼ばれる局面って,大学を離れると以外とあるんですよ……
千田有紀氏のTERFに関する論文は学術論文です.また,仮に学術論文ではなかったとしても,それを「論文」と呼ぶ人を批判するのはおかしいです.
学術論文だから学問的に妥当だとか政治的に正しいとかは言ってませんので,彼女の主張が間違ってるとか差別的だと思うなら存分に批判すればよいのですが,外形的な基準から学術論文であることを否定しようとすると人文系研究者全般に流れ弾が飛ぶのでやめてください.
人文系オタクとしては,ただでさえ一部の同僚から趣味を殴られて不愉快な思いをしているのに,一部の趣味仲間から仕事を殴られるのは勘弁してくれとしか言えません.表現規制派フェミニストを殴るなら表現規制派フェミニストをピンポイントで殴ってください.私たちを巻き込まないで.頼むから.
劇場版はいふりのココちゃんのキャラソンむっちゃかわいくね? ココちゃんのキャラソンとして百点満点って感じだった.特典のイラスト色紙,ミケシロが2枚出たけど砲術三人娘のは引けなかったので誰か譲ってクレメンス……
あとgdgdな雑論文をまあどうせ載らないだろうけどって適当に投稿したら掲載決定して割と自分ではよく書けたつもりの論文をこれは載るやろって自信満々に投稿したらリジェクトされたんだけど何が通って何が落ちるかマジでわからなくなってきたでござる.山辺あゆみちゃん……私を導いてくれ……ママァ……
https://twitter.com/mhidaka/status/1214423001367625732
技術書典が「新しい本と出会うお祭りの場」という位置づけ、これは本当に素晴らしいものだと思うし、実際これまではそうだったと思う。
一方で、ここ2-3回、新しい本と出合うための自由度が下がる方向に規制が強くなっているような気がする。
結論を先に持ってくると、「明示的な商業化接触の禁止はやりすぎでは?マナーの問題ならばガイドラインなどで制約できなかったか?」と思っている。
今ある商業出版のものも売ってよいというのは、技術書であれば同人も商業も関係ないというスタンス、これはコミケなどとは異なるものだし、よいと思う。
だが、「これから商業出版になる(かもしれない)もの」に対しての態度が厳しいと思う。
それを端的に感じたのが上のツイートで、これまでから(そして今も)技術同人誌発の商業誌がたくさんあったところが、技術書典の会場での商業化スカウトが禁止されたと聞いている。
会場内での禁止は2-3回前からなので、何も今に始まったことではないが…
>望んでいないオファーや一方的なスカウトを受け取るのは出展ブースから逃げられない出展者にとって頒布の時間が削られますし、苦痛の可能性が高いです
長時間居座ったりした出版社がいるということだろうか?確かにそれは出版社のマナーとしてどうかと思うし、通報、ペナルティがあってもよいと思う。そういえば、C〇Rが出禁になったとかいう話も聞いたっけ。
一方で、商業化のオファーをうれしく思う参加者もいるはずだと思う。(残念ながら、うちの本はそんなオファーはきたことがないが)。
商業誌がその著者の名刺・実績として強力なものであることはもちろんだが、自分が認められるという承認要求を大きく満たせるものであると思う。
それだけでなく、商業化することは販路拡大、多数の人に触れるチャンスを増やすという意味で強力だと思う。
技術書典に来れない人に届ける手段として、Amazonなどの新しいルートに乗るので、「新しい本と出合う」という場所がもう一つ増える。
技術書典の参加者はエンジニアが多いし、いわゆる同人文化との接点が少なかった人も少なくないので、例えばとらのあなに委託しています、といったところで購入する人は少ない。
確かに印税率は低いと聞くし、改版などの制約が大きくなることは事実であろう。しかし、特に「多くの人に届ける」という観点で、商業誌の果たす役割は決して無視できないと考える。
そして、運営の中の人が、商業出版をすることに対して非常にネガティブな本を出していることも強く引っかかる。
商業出版がゴールではないとか、権利的に自由にできなくなる、印税率が下がる。いずれも正しいと思われる。
正しいのだが、それを技術書典運営・広報的な立場で表明することが果たして正しいのか、という疑問がある。
販売数において商業誌に比類、あるいは軽く超えるような状況にある前提の著者が、「商業出版しなくてもいいんじゃない?商業化のデメリットを挙げる」というトーンで進んでおり、一方的に商業化を殴っている内容であると感じた。
同人誌で数千部売ったので、一通りいきわたった(だから商業化不要)、デメリットも大きい。という意見は十分に理解できる。
だが、「技術書典で200部頒布し、その後商業化して数百部売りました。」といった話があった場合、商業化するメリットは大きいと考える。
商業化のオファーを一律迷惑なことと断じ排除することはやりすぎだと思うし、現在の商業出版を排除しているように見える動きは、”商業出版というルートで「新しい本と出会う」可能性”をつぶしているように思えてならない。
・ある程度混雑が緩和する、15時以降にオファー出しましょう。
などでよいのでは?
https://anond.hatelabo.jp/20190519061244
を読んでの個人的なメモ。(はてなに慣れていないので記述のしかたがおかしいかも知れません。先に謝っとく)
まず元記事の人を批判する意図ではないです。ただ、やり方を知らなかっただけでしょうに……。
私自身は個人誌と小規模なアンソロ合わせて5回ほど絵師さんに表紙を依頼しています。以前デザイン業(というほどでもないが)に携わっていたときのクライアントからの不可解な依頼に「こういう風に依頼しろよ」と思ってきた反動もあって表紙依頼をする際、細かい指定をする場合は以下のように依頼しています。
①ラフ
辛うじて大雑把なレイアウトが見えるかなという程度のものですが、無いよりはマシだと思います。絵が描けない?んなことは向こうは期待してないと思うよ。描けないから依頼するんだから。いいから描け。スマホにイラストソフト入れて描け。指書きでもいいから。無いよりはマシだと思え。
ラフだけで伝わる気がしない場合はラフ内に文章を書き足します。
イメージに近い画像をググって拾ってきます。表紙をAVのパッケージみたいにしたかったときは実際のAVのパッケージを拾ってきて押し付けました。すごいセクハラだと思いますが無いよりはマシだと思います。枚数はなるべく多い方がいいのではないでしょうか?あんまり資料そっくりでもマズイだろうしイメージ分散させたほうがいいよ多分。
元記事を読んだ当初は全文書き上げてから表紙依頼すればいいんじゃないかと思いましたが、それでは絵師さんの時間をかなり取ってしまうので抜粋でいいと思います。
文章書きならそれくらい出来るだろう。
やっぱり絵師さんも人なので熱意のある依頼には応えたいと思ってくれるはず。多少大袈裟に褒め称えるくらいで丁度いいと思います。
ただし無料でっていうなら話は別な。謝礼は絶対にセットにしよう。もしラブレター書く熱意が無いなら最低限謝礼だけはちゃんとするって伝えよう。現金とか金券が生々しいならデパ地下で買った箱詰めのお菓子でも差し上げよう。
もし絵師さんから「無償で構いませんよ」って返されても最低限献本だけはしような。
⑤細かいこだわりを伝える。
当たり前ですが相互フォローだとそこをすっ飛ばすこともあるかも知れない。いいか、相手は他人だ。お前自身じゃないから的確に分かるわけがないんだ。伝えろ。
たとえば青緑って言ってもエメラルドグリーン寄りの色を青緑だと思う人も入れば、シアン寄りの色を青緑だと思う人もいる訳です。この例で言うなら初音ミクの髪色指定が依頼した側と依頼された側とで食い違うとか発生しそうですね!そういうときはカラーコードを添付するとかしよう。あとね、プリントオンのわくドキデザインセット用のチェックボックス式仕様書、分かりやすいからあれ拝借して絵師さんに依頼すると伝わりがいいと思います。
以上は第一段階です。これで仮に絵師さんからラフが返ってくるとする。そうしたらラフの段階のうちにまた指定する。指定し忘れとかあるだろう。後になってやっぱり違うってひっくり返すくらいならこの段階で解消しような。線画が提出されて以降は細部の付け足しくらいに止めよう。
以上のことが面倒くさい人はプリントオン(わくドキデザインセットhttps://www.print-on.jp/doujin/comic/price/wakuwaku_design_price.htm)かしまや(セミオーダーorフルオーダーhttps://www.shimaya.net/bungei/coverdesign/index.html)頼め。私頼んだことないけどいいと思います。
それと、表紙絵と表紙デザインは同じ人に頼む必要はないです。というか依頼する絵師さんが両方お得意じゃないならデザインは別にお願いしたほうがいいと思います。私も新刊は表紙絵とロゴデザインは別のフォロワーさんにお願いしました。最近は同人誌のデザインを請け負うデザイナーさん居るんだし活用すると商業誌顔負けのかっこいい本が作れると思います。
以上、長くなってしまいましたが言いたいことは一つだけです。表紙絵を依頼するなら手を尽くせ。