はてなキーワード: リファレンスとは
人気ボカロPであるNeruの楽曲「い〜やい〜やい〜や」のミュージックビデオがin the blue shirtの「Cluster A」に似ていると話題になったことに端を発する騒動の一連の流れ(11/21までの状況)
11/10 Neru、新曲「い〜やい〜やい〜や」をYouTube、ニコニコ動画に投稿(動画制作は寺田てら氏が担当)
https://www.youtube.com/watch?v=y8-6QPEes1k
http://www.nicovideo.jp/watch/sm32246515
↓
投稿から数日後、ミュージックビデオがin the blue shirtの「Cluster A」に似ているという指摘が出始める
(色使い、演出、クラップのシーン、腕をぐるぐる回して踊るシーン、おばけ…etc)
https://www.youtube.com/watch?v=ytq5pGcM77w
↓
in the blue shirtことアリムラ氏の耳にもこの話が届く
アリムラ氏、Neruと寺田てら両氏に対し「リファレンスとして『Cluster A』を用いた事実はあるか」と問い合わせる
↓
Neru、寺田てら「お送りいただいた映像は初めて拝見いたしました。」
そのせいもあってかこの話が更に広まり、(主にニコニコ動画の)コメント欄が荒れ始める
↓
ニコニコ動画内で「in the blue shirt」「Cluster A」といった文言が含まれるコメントが消える
「Neruが自分達に都合の悪いコメントを消しているのでは」という疑惑まで浮上し、更にコメント欄が荒れる
(※誹謗中傷ではない、ただ類似性を指摘したコメントまでもが削除されている。「運営が消している」という声もあり)
(「Cluster A」のアニメーションを制作したかずお氏も11/15に私見をツイート)
http://arimuri.hatenablog.com/entry/2017/11/16/120604
https://twitter.com/kazuo/status/930848531186774016
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Neru、寺田てら両名は現在(11/21)まで本件に関して何も言及せず (両者ともtwitterは通常通り更新している)
一方、アリムラ「『Cluster A』に意見がある人はメールかDMで対応するから直接連絡してください」
また、Neruは2016年に発表した「脱法ロック」のミュージックビデオ(動画制作はりゅうせー氏)においても「AC部の作品に酷似している」とパクリ疑惑が浮上。
しかしその際も疑惑に対する言及は一切無し、ニコニコ動画内の指摘コメント封殺と今回と同様の対応をとっている。その他に楽曲、歌詞でも度々パクリ疑惑が浮上している人物でもある。
https://www.youtube.com/watch?v=u5mHVUwDf_0
AC部制作のgroup_inou「THERAPY」(2010年10月13日公開)
https://www.youtube.com/watch?v=ACEBZ-KmuQo
おまけ
Neru擁護派「Neruさんの新曲in the blue shirtsのCluster AにMVクソ似てるからパクリだって言ってる人達いるけどNeruさんこの前Cluster Aの動画ツイートしてたし寺田さんにこんな感じでお願いしたいって見本的な感じで見せたんじゃないかと思った。そしたら必然的に似るだろうしパクリというよりオマージュじゃね?」
https://twitter.com/seiran____/status/931790159665799168
この他にも「Neruが今年の夏頃に『Cluster A』の動画をツイートしていた」という声あり。具体的な証拠(スクショ等)は今のところなし。
NexusはAndroidのリファレンス端末を目的とするブランドだけれど
Pixelはgoogle製のハイエンド端末を目的とするブランドでリファレンスじゃないよ
Android的には他社のハイエンド端末と同等の位置づけだよ
Pixelはgoogleカスタムが入っていてPixelでしか有効にされていない機能もあり素のAndroidとは言い難く
素のAndroidがほしいなら、非カスタマイズAOSPなOSが乗っていて、googleがハードの設計・調達も行っていて各製品間の性能も、2年アップデートも保障されている
「Nexus 5X&6P」のAndroid OSサポート終了 「Pixel 2」日本投入なくアプリ開発者が困惑
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1710/06/news108.html
まず、一口にAndroidと言ってもメーカーや機種によっていろいろなカスタマイズが入っていることを思い出してほしい。
NexusやPixelはリファレンス実装として認識されているので、そいつらで動けば大体の端末で動く(事が多い)。
XperiaやGalaxyはメーカーにより色々手が入っているので、そいらに基づいて開発してしまうと、そいつらだけでたまたまうまくいくけど他の端末では動作しないような実装をしてしまう危険性が高まる。
なので、NexusあるいはPixelで実装を進め、XperiaやGalaxyで互換性テストをする、という開発体制が一般的だ。
Pixelが手に入らないと、こういう開発方法が使えないので死ねる。
https://developers.google.com/android/images
Pixelがあれば、7.1.0から8.0.0(とそれ以降)までのOSイメージが焼ける。
Nexus5Xなら6.0.0から8.0.0(ここで打ち止め)。
「このAPI Levelで問題が発生してるんだけど」みたいなときに、特定のOSイメージを焼いて検証や開発ができる。
Pixelが手に入らないと、各API Levelに対応する端末を手元に確保しておかないとならなくなって死ねる。
正式に新しいAndroid OSが配信される数ヶ月前から、NexusやPixel限定でOSのPreview releaseが入手できる。
新しいAndroid OSで導入されるAPIや変更点をサポートするには、どうしてもPreview releaseを使わないといけない。
Preview releaseが手に入れば、新しいOSの配信と同時に最新APIを使ったアプリが配信できるが、手に入らないのなら最新版が手元のデバイスに降ってくるのを待ち(数カ月かかる)、それから開発して、配信することになる。
数ヶ月は遅れが生じるし、どう考えても死ねる。
でも、実機とエミュレータで違う挙動を示すことは割りとよくあるし、エミュレータでしか動作実証してないものをリリースするのは無謀すぎる。
技適取ってないので違法。電波を出さなければいいけど、電源入れたらセットアップ画面の時点ですぐにWiFiが有効になるのでそれも無理。
技適取ってない端末に対して外国人観光客向けの例外規定はあるけど、開発機として使うならそれは適用されない。
違法な端末を使って業務として開発を行うのはいかにもまずい。不満分子が法務省に密告したらどうなるんだ。
iOS使おう。
北朝鮮は20世紀末に大飢饉に襲われ多くの餓死者を出した。その頃は日本のメディアでも頻繁に報道され、我々の北朝鮮のイメージはその頃で固定されてしまっていると思う。元増田もそのイメージのままなのではないだろうか。
北朝鮮だってその後手をこまねいていたわけではなく、年々農業の生産能力を向上させている。2006年の核実験の頃には輸入や援助が完全ストップしても何とかなるくらいには回復していたらしい。
農業生産量については国連に素直に信じて良いのかわからない数値が年1回報告がなされるだけで謎に包まれている。1990年代の飢饉以前は単位面積あたりで見ると、世界で最高に生産性の高い国を上回る量を報告していた。飢饉になってからは援助を引き出すために一気にその量を減らした。そして今はまた実際よりも多い量を報告していると見られている。そういう研究は衛星からのリモートセンシングなどを使って韓国のシンクタンクが行っている。その分析結果の報道は英語圏でもめったにないし、日本では多分全く無いのではないだろうか。日本語では救う会のホームページが一番詳しかった。
一昨年の春、北朝鮮での旱魃の報道が日本でも割とされていたが、その年は後半が豊作で、通年で見たらまあまあだったという。後半の豊作の報道は日本国内で全く無かった。去年も春先に旱魃が発生していたが、その後どうなったかの報道は見ていない。
農業生産量の改善については金正恩になってから特に改善が著しいらしい。もともとたいして工夫されていなかったので灌漑用の池を作ったり、肥料の流通を良くしたりしただけでかなりの改善が見られるという。あと金正恩は農家が収穫の一定割合を自分のものにできるようにしたとかで、農家のやる気を引き出しているのだそうな。
2年前、韓国のシンクタンクは全国民を養うのに十分な生産量には1割ほど足りないが、輸入が全量ストップしても困るほどではないという感じの見立てをしていた記憶がある。中国から肥料の輸入が止まると困るかもしれないという分析もあったかも。
週末の書店。
プログラミングコーナーに行くと、いつもうんざりした気分になる。
何故ってこんなに入門書が溢れかえっているのに、何一つとして入門者向けの本が無いからだ。
日本の書籍小売の総本山、神保町は三省堂書店の棚の端から端まで見た所で、ビギナー向けの本などありはしない。
なぜなら、入門書を謳っている本のコードはほとんどが動かないコードだからだ。
入門書だと言うのに、ページを割くべきところに文章やイラストを割かない本が多すぎる。
例えばポインタ、コンストラクタ、インスタンス、カプセル化…それぞれの概念。
イラストの入門書だってそうだ。「入門」と書いてあるからといって、開いてみればデッサンや形のとり方を教える本などありはしない。
そう、日本の入門書とは「元々デキる人がリメディアルとして持っておく本」のことであり、「ビギナー向けのウェルカム本」ではないのである。
だからといって、誰もがpythonの専門家になる胎教を受けて産まれるわけではないし、誰もが10代で写真と見まごうスケッチを描けるわけではない。
では、その「デキる人」は誰に教わったのか?やはりデキる人たちや、海外の入門書を車座になって読んで学習したのである。
しかし、その「始祖・デキる人」がヒーローの時代とは、今とは複雑度合いも、求められるものも違う。
今は学生であっても、ある程度の高度な成果(ここでは、ネットで発表したものがネットニュースでバズった経験や、学会で評価された経験のこと)があって始めて企業の受験票でしかない。
なぜ入門者向けの本がないのか?
習うより慣れろ。仕事は見て盗め。教えられるのを待っているな。・・・
自分より出来ないやつに教えるのが大嫌いなのだ。(入門書の著者ですらそうなのだ!)
上にあるように、ある程度デキる人でないと、その手の会社には認められない。
だからといって、大学教育で手ほどきを受けられるわけではない。これもある程度デキる人向けなのだ。
では、書籍で自助努力を、となっても、文頭にあるように、入門書向けの本など無く。
では、デキる人はどこにいる?これもやはり雲の上の大学にしかいない・・・
今はネットがある?これも難しい。
知恵袋や、teratailであっても、初心者に与えられる答えは「ググレカス」のみ。
では、ネットにジャストな回答があるか?といえば・・・ない。基本的には公式リファレンスのコピーや、動かないコードしかない。
デキる人は、デキない人の気持がわからない。何がわからないのかわからない。
だからあいつらがわからないのは、あいつらが勉強不足だから、と考える。
わからないのは、あいつらの自己責任だ。だから初心者は嫌なんだ。となる。
適性を測っている、という見方もある。
しかし、適性というものは基本的にやらなければわからないもので、やる前の教育から放棄しているのは適性を測るというより、
日本人の初心者軽視、というか教育軽視は今に始まったことではない。
「失敗の本質」でもそれは指摘されている。ということは戦時から既に教育嫌いなのだ。
職場でもそう。教えられるのを待っているな、と言っておいて、いざ聞きに行けば「常識でわかるだろ」「ネットで調べて」「リファレンスマニュアル調べて」
学校でもそうだ。
授業の勉強も予習が前提。では授業ではより高度な話をするのか?しない。教師我流の演習である。
演習するだけならば、家や図書館で黒本や赤本を解いていたほうがマシじゃないか!
学校教育ですらこうだ。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/04/post-7389_1.php
この話は、テレビ黎明期の頃から言われていることで、書物にもいろいろあるのだからDockerのテクニカルリファレンス本を読むのならそれは「調べもの」で、闇金ウシジマくんを読むのならそれはマンガを読む楽しみだし、ファッション誌を読むのならそれはお洒落の準備だし、ブックオフで中古で買った新書を読むのならそれは暇つぶしです。
通勤電車内での時間つぶしならスマートフォンのほうがはるかに効率的で、ゲームもSNSも音楽鑑賞も映画鑑賞も全部できます。
何かの勉学に取り組むのであれば、それは本であれネット情報であれ学者の講演会であれいろいろ駆使して追求するわけですから、何も「書物」に知を仮託する必要はありません。
参考:http://www.oreilly.com/animals.csp
まだ子供居ないけど必死で子作りの方向に向かっている。そのために就活も望む形で終わらせた。暫定的な相手もいる。
子供が居ないと人生に目的が見いだせない僕は、子供至上主義だ、悪しき風習だと増田は言う。
しかし逆に子供至上主義じゃなかった時代って、有史以来あったのか?と疑問。
子供を持たないで死んだ人というのは歴史上でも珍しい方なわけで、
それが早死するわけでもなく生き続け、過半数を超えるなんていうのは
これまでの歴史にあり得なかった完全にイレギュラーな状況で、どうなるのか全くリファレンスがない。
子供が居ないまま人生を進んでいく人ってかなり最先端な時代のパイオニアなんだけど、度胸有るな、と思う。
リファレンスがないからこそ、そのほうが社会は良くなるかもしれない、とも言えるんだけど
>もっとちゃんとした就職予備校設置してほしいけどそういう変革は無理なんだろう。
↑
でもたぶん本質的にはあまり変われないところが多いんじゃないかな。
半端な時期に実施される検定ありきの専門学校が、半年のカリキュラム制に合わせられるか超疑問だけど。
▲専門職業大学創設を答申 文科省、3年後の開学目指す:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ5V3HL0J5VUTIL00J.html
>パソコンのご本を読めるようになるのが難しい、という感じのお話。独学? が難しい。
>全体的なビジョンがないわけ。実際の世界がそれで動いてるようなビジョンが。だから読めない。
↑
→わかる。そういうことじゃない、ってやつだよね。丁寧さはそこに求めないというか。
→でも丁寧に作らねば、苦情来るので、丁寧になる理屈もわかる。
>僕は社会の役に立つことを直接学びたかったよ。社会がどういう風に動いてるかみたいな話をさア
>技術の実態みたいなやつ。そういうのは学校で教わらないんですよね。
→実際のコードとか見れたら最高ですもんね。でも実務のそれは守秘義務で出せないから、技術者がプライベートで造ったものくらいしか見せられないジレンマ。
>優秀な人はバイトとかやって知ってるっぽいけど、それみんなバイトでやるの? みんなはやらんでしょ。
→意志があるひとは飛び込むやろな。
>というかバイトみたいな形で社会参画しないと学べない知識だったら、それはそれでやばくないですか? という提起でもあります。
→やばいけど、安定しない市場規模だから、なかなか学生育てる体制がな整えられない状況だし、状況が変わる見込みも少ないという。
>そういう知識があれば、大学の図書館に置いてあるような「技術本」っぽいやつ? の扱い方がわかるんだろうなーと思う。
→うん、その通りかもしれない。(そうか、学生は、「技術本」の拾い読みの仕方がわからないことに今気づいた…)アルバイト大事。
>僕が何を期待しているのかって?それは実務のうちで難しいお話が出てこない、環境の話、という感じ。
→?
>あるいは別にアプリなんか作ってないのかもしれないよな。とすると何かしらサーバーを使って捌くようなシステム・サービスの細かい調節のお手伝いをしてたりするわけだ。
>その具体的なトラフィックがどうだからどうのこうの、というお話をしたり、アクセスの仕方がどうの脆弱性がどうの、新しい技術がどうの、という話だと思うんですけど、
>端的に言ってそういう話がぜんぜんわからない。そういう話がわかるとスンナリ進めるはずなんだけどな~と思いながら。
>親の金で大学行ってるのに、なんかもっとこううまくできるはずなのに……という感じでつらい。
→これはわかる超わかる。出資者の親への申し訳なさ。でも親は子がしあわせそうだったらお金払う価値感じるから、
学び取りきらなくても、せめて増田が学業を楽しんでれば、それが孝行になっているはず。
>そういうの、本とか、自分の足りない知識とか、おそらくその辺にあるんだろうな~と思いながら、でもバイトで働くにも微妙にプログラミングの知識が必要で、「これまで何作ってきましたか?」と言われても、
→いや、ホント1つ完成させるだけでいいんだと思うよ。スペシャリスト期待してない。新卒に。どちらかというと、0から実装する発想力とか、完遂力とか見てるんだと思う。自分は求人担当した時にはそれだけ見てた。
>絶対手打ちより良いやり方あるはずだけど、僕は知らんし、知らない以上何が効率的に作れるのかもよくわからないし、わからないことにはできるだけ手を出さない方がいいな、と思う。
→いや、そこはやった方がいい。愚鈍でも。
→なぜかと言うと、あったとしても、まずは手打ちの手順理解してないとそれのメンテが全然できんからね?メンテしないで済むフレームワーク(ツール)は存在しないですん。
>同年代で「めちゃくちゃプログラミングできちゃいます!(漠然)」みたいな人間いるけど、僕が例えばどういう本読んでどういう道筋を歩んだらそういうカンジになれるか、かなり見えなくてつらいし、
で、それを実装するための手法を、泥っぽくても良いから考えろ。これな。
→それ繰り返してる内に、『調べる力』がまずつくし、点がたくさん生まれて、その内つながるから。
>「でも本当に役に立つ本って開いた瞬間に読みやすいのでは?」みたいな信念がある。 これが原因なのかな。でも、この信念、少なくともこれまでめちゃくちゃ役に立ってきたものなんだよなあ……。
→それだな!それは『教科書がある世界』までのお話や。先人がいる世界までの話。
→温故知新じゃないが、先人が残したものの先からが私たちがやるべき領域で、独自の領域になってくる。(学問の「研究」が指すところ)
独自の歩みを始めると人口がぐっと減るから、読みやすさ極めた本はなくなるぞ。じゃなきゃ英語のリファレンスなんか読まないんよ……。()
>そういうのができるようになるのかと思ってたらあんまり学校でも学べる感じじゃない。全体像とは……となっているけど、こういう悩み、自然に解決したりしなかったりするんだろうな。
→自然解決はしないね。地道に自分でトライアンドエラーするしか。で、全体像は、個別すぎて全種類フォローは不可能なので、共通部分となると、理論の話とか、すでに学校でやってる内容がそれなんですな。振出しに戻るみたいになるけど;
→だから、共通部分やった後、大学ではゼミ制になるんじゃないかな。
>できるところからできるところだけ勉強していきたいと思います。それが、僕にとって、よくわからない本をじっと読まなきゃいけない義務から抜け出した罰の引き受け方っぽいので。
→自分のカンを働かせて調べようとしてるこの姿勢こそ、この記事での悩みの解決策になると思う。とてもよい増田。
→これが遠回りだとしても、これも一つの近道(学生にとっては必要な過程)だから、まずやってみて、そしてまた詰まったら増田に投稿してほしい気がする。
→これは個人的なレスだが、まずは「何を作りたいか」「何をやりたいのか」を持つと、自然とやることや調べる事も見えてくるから、それを大切にするのが一番近道だと思う。
こういう投稿するってことは、悩みを外に伝えて
前に進もうとしてるってことだから、
すごい成長するにおいがする。
図書館戦争を読み、司書資格を取得した。(TSUTAYA図書館はいかんですよ)
最近思うのは「もうあの作品の図書館は必要でない」ということだ。
※図書館戦争のコラボCMで電子書籍とコラボしていたが、いかがなものか。
日本特有の文化にあるのかもしれない。「舟を編む」などを見ると、質感やビジュアル、物に拘る日本人らしい購入欲ともいえる気がする。
情報は電子化すれば良い時代になった。だから本も電子化すればいいのだ。
そうはいかない日本人の頑固なところではあるけれど、その価値観はいずれ若い人たちによって変革を遂げていく。
今30代の人が80歳まで生きるとする。あと50年くらいか。30代というと、電子書籍を理解しつつも、紙の本に執着してしまうお年頃だろう。
その人たちは、きっと死ぬまで紙の本が無くならないでほしいと祈る。また人口比率も多い世代ではないだろうか。
なので後50年以上は、紙の書籍は消えないだろう。
しかし50年後は「紙の本なんて見たことなぁい!」と言うギャルが増殖しているだろう。某理系ミステリィ作家が、近未来もので似たようなことを書いていた気がする。
対して「は?バカじゃないの?」と言う争いもネット上で起こっているだろう。人間は進歩しない。
まぁ、紙の本はコレクション的に売れるのかもしれない。
本は電子書籍にすることによって、出版社を通さずとも発売できる時代にもなった(出版社の未来も危うい)。
出版不況とも言われている。わざわざ自分の本を買ってもらえずに、タダで置こう。と、思える作家がどれだけいるだろうか。
図書館に本を置くことで作家に利益が出るのか、個人的にいろいろ考えてみた。現段階で言えることは、そういう仕組みは確立されていない。そして確立するのもまだまだ時間がかかりそうだということだ。色々と理屈はあるのだが全体的に見ると「図書館によって作家は損している」としか言いようが無い。新規読者を獲得しても早々に新作を入荷する図書館がある。その時点で購入意欲は収まり、作家は損をすることになるのだ。
こうなると、図書館は誰のためにあるものかという話になるだろう。
お金を払えない人のために存在する。これで間違いが無いだろう。
しかしお金が払える人も借りている。本が売れない。図書館だけのせい、とは言わない。でも悪循環は止まらない。
このままだと作家団体にボイコットされても仕方がない(既に抗議はされていたり…)。近い将来の図書館存続のために必要なのは「作者」と「図書館」のwinwinな関係であろう。
しかし考えなければならない。もっと遠くの未来。紙の本に必要性が無くなった時代の話。
著作権が切れたものは、電子書籍で無料配信される。作者が本の金額を定めることも可能になった。無料~300円程度で永久に手に入る状況だ。
もっといえば月額金を払うと、図書館に置いてないようなものもレンタルできる時代だ。
それはつまり、『図書館』の必要性が無くなることと同義である。
勉強する場所なら、静かで、もってきたコーヒーが飲める施設でもあればいい。つまり公民館など。
なかなか手に入らない本といえば、専門書だろうか。分厚いし、高いし、そういうのは図書館が必要になるのだろう。
しかし専門書だって今は専門ごとがほとんどネットに載っている時代だしなぁ。困ったもんですね。
はたして少し遠い未来に図書館を必要としてくれる人が居るんだろうか。みなさん図書館は好きですか?
ああ、こりゃー日本の図書館は生き残れないって思ってしまう。海外の図書館は「ここに行きたい」と思わせる。博物館化している。
日本の図書館は公民館の延長のようなものがほとんど。そして今から図書館を増設しようという時代でもないので、世界の素晴らしき図書館を模倣し新たに作ることもできない。
図書館が無くなれば、リファレンス能力を持った司書の行き場もなくなるのだ。
書いてることがまばらになっている。これが今の自分の感情である。
「紙の本はもう古い。しかし愛着を持っている。でも電子書籍の方が圧倒的に便利だし、電子書籍の時代はあっという間に訪れる。図書館は好きだけど、このまま図書館が存続するとは思えない。どうすればいいんだろう。わからない。しょうがないのかもしれない」
この記事を読んだ。
http://anond.hatelabo.jp/20160619185731
元COBOLエンジニア、現Rubyエンジニアとして増田の記事がどうしても許せなかったので反応してみる。
この記事もこんなタイトルだけど、これもやっぱり主語が大きいと思う。
汎用系の現場でもRubyの現場でも優秀な人はたくさんいたし。
今では信じられないほどの経験を当時(といっても2年前)はしていた。
改めて今、RubyというかRailsを始めてよかったなーと思う。
いやー、これが一番ひどかったな。
まず静的デバッグ(机上デバッグ)といってコンペアファイル、ソースコード、コンパイルログをそれぞれ紙出しして提出用(クライアント)、リーダー、上司用の3部印刷する。
全てマーカーを塗った後に赤入れする為にそれぞれ分けるんだ。
そしてインデントもレビュー指摘項目なんだけど、紙出しされたもののインデントが正しいかチェックするんだよ。
定規で計るんだよ。半角スペースが5ミリだったっけな。
それで5ミリずれてたら指摘するんだよ。目がつかれたよね。
っていうか品質に対する意識は今のほうがよっぽど高いし効率的だよ。
これもびっくりだよね。
専属の社員がいた。SIerなんて人を突っ込んだもの勝ちだから、上手いこと言って検証要員とかいって突っ込んだんだろうね。
ダンプがだいたい1時間くらいかけて出てくるから、それを裁断してホッチキス留めしてマーカー。
ネットは使えない。現場に入る時も持ち物チェックとかあるしな。
常に貸し出し台帳は予約で埋まっていたな。やっと借りれたのは現場離れる1週間前だったなんてこともあった。
まだまだあるんだけど、これだけでもひどい現場だったなーって思う。
そもそも設計→開発→レビュー→手戻り→設計→開発...のループだったから前に進めてないし。
Gemとか外部のコードを信じきるとか、もちろん質の低いRubyエンジニアというか現場はあると思う。
この先もっともっとブラックボックスなフレームワークを使うようになるかもしれないし、環境も何もかも全部おまかせでPaaSが主流になるかもしれない。
なんとなくの体感で。
可もなく不可もない一般的な職業エンジニア。もっとも多い人種。
一般的なコード規約や言語やライブラリのリファレンスはあまり知らない。レガシーコードのコピペが多くリファクタリングに積極的でない。
下位に行くほど知識に乏しくコードが酷く不具合が多くなり、仕様によっては作れないものもある。
仕事に積極的で新しい技術もキャッチアップしていて、この辺りから課外活動を積極的にする人が出てくる。ただコーディング力については一般的なコード規約は守っているが、データ構造やロジックが不適切だったり設計におかしい点が見られる。抽象化が弱い。
新しい技術もそこそこキャッチアップして設計も綺麗。ここから先のエンジニアはチャレンジングな開発現場を求めているので普通の現場ではレアな存在(抽象化して設計をきちっとできるエンジニアは少ない)。課外活動や情報発信も多い。
いわゆるギーク。プログラミングがないと生きていけない人たち。
いわゆるパイオニア。新しい領域を開拓していくのはこの人たち。
※ どの世界でもそうだが上に行くほど勾配がきつくなってくる。
※ 実際には課外活動に積極的でもコードがイマイチだったり、腕はあっても課外活動が少なかったりするパターンもある。
※ 異常に技術力があってもそれって誰得?みたいな開発してるパターンやコピペばかりで設計もめちゃくちゃなクズコードだけどそこそこ金になるしユーザー数めちゃくちゃ多いサイトの開発をしてるパターンもある。
年間200本の映画を観るぼくがオススメする7つの映画と7人の映画監督 - 私を構成する映画監督 - - Hikikomotrip
信頼できる映画評を各人間を見分けるにはコツがいる。見ればわかる程度のアレもいるが。
一番わかり易い見分け方は、まずライムスター宇多丸のラジオ映画評番組(正しくは番組内の一コーナー)「ムービー・ウォッチメン」を聞くことだ。
信頼出来ないやつはそこで述べられた評言をまんまパクる。咀嚼せずにパクる。宇多丸はラッパーだけあってキャッチーでクリティカルなフレーズを次々と考案してくれるので、使い勝手が良い。
そういうのをアホは何も考えずに右から左で流すだけだから、「それってどういう意味なんですか?」と聞かれたときにうまく対応できない。
感想や評論のパクりが悪ってわけじゃない。むしろ、それが有用だと思えばどんどんパクるべきだ。
しかし、それにはあくまで自分の感性や理性というフィルターを通して自分なりに噛み砕いたうえで、自分の言葉として精製する過程が必要だ。
それがアホにはできない。
たとえば、コレ。
この人がぼくに与えてくれたのは「ヒップホップ」。彼の映画の作り方はとってもヒップホップの思想に近いと思うんですね。サンプリングやオマージュを多用するパッチワーク的方法論はまさにヒップホップそのもの。ぼくがラップが好きなのは彼の映画が好きだからなのかもしれません。
じゃあお前、ウンコとオシッコは似たようなプロセスを経て製造されるけど、オシッコほど喜んでウンコまるのみできる自信あんの???
こういうのは圧倒的リファレンスを有し、かつ日本ヒップホップ界のレジェンドである宇多丸が言うから重みがある(別にタランティーノを形容してヒップホップ的と評したのは彼が初めてではないし最後でもない)のであって、そのへんのやつが言うと「え? 具体的にどういうこと?」と疑問が湧いてしまう。タランティーノ映画観てて「あ、このBGM、『アラモ』だな」とか「あ、このシーン、『修羅雪姫』だな」とか思うか?本当にタランティーノにヒップホップ魂を感じているのか?ちなみにタランティーノ映画で流れるヒップホップってせいぜいウータン・クランくらい(っていうかRZA)だぞ。
いやいやタランティーノは我々の知らない引用ネタをさも知っているものかのように見せるのが巧くて……と言うのだったら、手法として最もヒップホップ(=引用のパッチワーク)的な『ジャッキー・ブラウン』が肌にあわないってどういうわけ?
結局、ヤクザか狂人が出てきて人が無残に殺される映画が好きなだけってなら最初からそう言えば?
そもそも宇多丸リスペクトしてんなら『ハート・ロッカー』以外の気に入った映画も劇場で複数回観ろや!
こういう何も考えずに宇多丸にフリーライドして周囲の評判を稼ごうとする人を業界では「紫の服の人」と言います。
用例:
映画会社社員A「このまえ公開された◯◯なんですけど〜ネットにひどいこと書かれてて〜見て下さいよこのブログ〜」
広告会社社員B「ん〜???ああ、このブログね。これは「紫の服の人」だから気にしなくていいよ」
というところで、本日の増田、お開きです。最後に増田がおすすめする本当にキモチいい七人の監督の七作を紹介してお別れです。
周防正行:『舞妓はレディ』と『終の信託』以外全部。入門編は「シコふんじゃった。」。シコったあとで『Shall We Dance?』を見ればこの監督独特のリズムに慣らされる。
キャスリン・ビグロー:『ハート・ブルー』と『ゼロ・ダーク・サーティ』。最初に観るなら『ハート・ブルー』。それを最後にしてもいい。
北野武:ヤクザ映画全部観た後でまだ北野武を知りたいと思う余力が残っていれば『みんな〜やってるか?』あたりも。『アウトレイジ』は単発として間口は広くても北野映画の入り口にはならないと思うので『BROTHER』あたりで覚悟をきめておこう。
タランティーノ:一通り全作観終わった最後に『デス・プルーフ』。この監督はフィルモグラフィー順に観るのが良い。よって入門編は「レザボアドッグス」
ポン・ジュノ:全部。入り口としてなら『グエムル』。度胸と覚悟と自らのゲスさに自信があるなら『殺人の追憶』から入ってもいい。
園子温:ない。七人のなかで一番優先順位が低い。強いて挙げるなら『地獄でなぜ悪い』(スラップスティック好きなら)と『冷たい熱帯魚』(とにかくエグい救いのない話が好きなら)。
クリント・イーストウッド:全部。ただ順番があって、西部劇諸作飛ばしていきなり『許されざる者』を、『許されざる者』や『ダーティ・ハリー』飛ばしていきなり『グラン・トリノ』観ても感動はしてもよく飲み込めないと思う。気軽に楽しみたいなら『インビクタス』や『ジャージー・ボーイズ』あたり。
『一般的に皇太子には「皇太子さま」というように「さま」をつけるが,なぜ天皇陛下には「さま」をつけないのか。
また,雅子さまについては,「皇太子妃」ではなく「雅子さま」と呼ぶのはなぜか。
資料2 共同通信社 編著『記者ハンドブック』共同通信社, 2010【816.07/10X/R】pp.602-603「皇室用語について」
「(前略)2 皇室に対する敬称として皇室典範では天皇、皇后、皇太后、太皇太后は「陛下」、それ以外の皇族は「殿下」とすると定めているが、記事上、「陛下」は天皇だけに使う。天皇、皇后と併記する際は「両陛下」とする。「殿下」はできるだけ使用せず、皇后や皇太子など皇族は「さま」を使う。(中略)[例]天皇陛下 天皇、皇后両陛下 皇后さま 秋篠宮さま 雅子さま 皇太子ご夫妻 秋篠宮ご一家(後略)」』
リファレンス共同データベース http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000184144
『日本のマスコミのおかしなところは、他国の皇族や王室には「さま」呼びしないということです。
イギリス王妃をキャサリン妃と呼び、カンボジアの王族にはシハモニ殿下、ラナリット殿下と呼び、ブータン王室にはワンチュク国王とジェツン・ペマ王妃と呼びます。
しかし、日本の皇族には「さま」です。特に皇后陛下にまで「美智子さま」と呼ぶのです。
これを「親しみをもって」と言っていますが、日本の皇族だけに「さま」呼びしていることに悪意を感じます。』
http://ameblo.jp/sikihanana156/entry-12093235041.html
『謀社に抗議したところ、昔はどの新聞にもきちんと「殿下」をつけて書いてあったのですが、マスコミ各社が「開かれた皇室」ということで例の左翼系の謀新聞社が音頭をとって「殿下」という言い方をやめようと言う話になり、それがマスコミ各社の基準になった、と言うことでした。ところで宮内庁が「開かれた皇室」というスローガンを打ち出したのですか、という問いには、謀新聞社がリードして打ち出したので宮内庁は関係ない、と言うことでした。』
http://turumi-jinjya.blog.so-net.ne.jp/2012-07-08
『「雅子様」とは見出しにとっていない事実だ。「雅子さま」なんです。なんで、「様」でなくて「さま」なんだろう?平仮名の方が柔らかいってのがあるでしょうね。それに「様」というと、マスコミが標榜している「開かれた皇室」というのと、イメージが違ってくる。「さま」だと国民にちょっと近づいた感じを与える。』
鳥越俊太郎の「あのくさ こればい!」http://www.1101.com/torigoe/archive/2000-01-01.html
『「さま」とする敬称はマスコミが勝手に基準を設けているだけで、敬称は皇室典範で決まっています。マスコミは親しみやすく、わかりやすく、と言っているようですが、反面、伝統を壊し、皇室・皇族の権威を下げることに繋がっています。おそらくイデオロギー的なものが入っているのでしょう。一種のトリックです。ちゃんと子供の頃から本来の敬称を教えて、マスコミもちゃんと報道していれば誰でも自然に正しい敬称が使えるはずで、解りにくいとか、窮屈とか、親しみがどうとかそんな話ではないはずです。私自身、偏向マスコミと日教組に洗脳されて育った人間であり、スラスラでてこないため、文献で確認しながらこう書いている始末です。』
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20100221/1266717963
『共同通信が皇太子殿下から皇族方を「殿下」という言葉を退け、「様」呼ばわりするようになってから、各マスコミが右に倣えして、正しい敬称を使わなくなった状態の中、ついに天皇陛下の尊称である陛下と言う言葉までNHK の製作者は、秘かに削り、省略するような工作をし始めていたのである。』
TypeScript Advent Calendar 2015 http://qiita.com/advent-calendar/2015/typescript 募集主 falsandtru氏
TypeScript Advent Calendar 2014 http://qiita.com/advent-calendar/2014/typescript 募集主 vvakame氏 『TypeScriptリファレンス』著者
なんかすごい闇を感じるんだけどどういうことなの。
まさか http://qiita.com/vvakame/items/72d22e33632178f7db24#comments のコメントとかでやりあったのを見て遠慮してるってわけでもなかろうに。
HN全然覚えられないからわからないけどfalsandtru氏が悪い意味で有名だったりするの?
Twitter見てると立ったことに気付いてなさそうな人が散見されるけど、去年立てた人が立てるとみんな思い込んでて立つのが遅かったの?
なんかどろどろしてそうでこわい
音楽における自分のホームグラウンドはと質問されたら、自分の場合はクラシック、それもオーケストラだと即答する。
そんなクラオタ兼アニオタの自分は、当然のごとく「響け!ユーフォニアム」にハマり、作品にこもった熱気に当てられてしまった。
とにかくモブを含めた登場人物全員を愛おしく感じたとか、長年アニメを見てきて初めての経験だと思う。
また、オケで目にする管打楽器の人たちはこんな青春時代を送ってきたのかーとか、高校で体育会系な部活だった過去の自分にもあるあるだなーとか、感慨もひとしおである。
そしてアニメをとっかかりに、海兵隊とか錨を上げてとか、アルヴァマー序曲とかカタロニアの栄光とか、吹奏楽で名曲とされている作品もいくつか聴いてみて、オケとの様々な違いを興味深く感じ取った。
以下備忘録ではないが、ニワカなりに感じた差異を書いていこうと思う。
ツッコミ大歓迎。
オケの場合は、こう言っては何だが、弦・管・打の間で殆ど序列と言っていい原則がある。
即ち弦で言いたいことの多くを言い切り、管はそれを補う彩り、打楽器に至ってはスパイスみたいな位置づけである。別の言い方をすれば、オケは弦楽合奏に管打楽器を後付したと考えると分かりやすい。
勿論これは作曲家の個性にも依存していて、ベートーヴェンやブラームスなどで顕著な一方、ラヴェルやリムスキー・コルサコフなどではより管打楽器の色彩感を強調しているが、それでもこの原則はかなりしっかり守られている。
結果、分かりやすい見方でいうと、各楽器の音符の数に大きな差が出てくる。それどころか、楽器によっては出番がないなんてことも起きる。
例えばオケの第一ヴァイオリンの何が一番って、間違いなく音符の数である(第二ヴァイオリンが二番)。
しかもこの中で定席はトランペットとティンパニのみ、他の楽器は終楽章まで出番がないだの、一発だけだの、そもそも曲の編成に含まれないなどザラである。
少なくとも音符の数に極端な差はなさそうに見える。
というか、トランペットやトロンボーンがこんなに色んなところで吹いているなんて驚きである。チューバはまんまオケのコントラバス的な存在だし。
もっと驚いたのは、どんなに静かな場面でも、大抵何らかの打楽器が鳴っていることで、オケではまず考えられない。
その代わりと言っちゃアレだが、ダブルリードとホルンとコントラバスの存在感は正直微妙。てかオケの方が難易度高い代わりに美味しさも桁違いだと思う。
楽器間の音符の数は比較的公平とはいえ、吹奏楽の中核セクションはクラとサックスな気がする。
声部でいうとクラ3バスクラ1、アルト2テナー1バリトン1が曲を引っ張っている感じか?
ちなみにオケでは登場年代が新し過ぎたり、弦と決定的に合わない(弦の響きを消してしまう)などの理由から完全にゲスト扱いのサックス勢だけど、吹奏楽では不可欠な楽器じゃないだろうか。
吹奏楽のサウンドに艶とか柔らかさといった要素を付加しているのは、間違いなくサックスだと思う。
オケの管楽器は原則1人1パートでアシはオプション扱い、本来は入れずに済ませるべきという雰囲気がある。
吹奏楽はそこら辺、少な過ぎは困るけど多い分には別に・・・という感じに見える。
これは編成の制約が少ないことを意味するので、ちょっと羨ましい。
弦のピチカートの上に消える寸前の虚ろなクラリネットソロがあると思えば、大人数の弦を含むオケ全員で奏でる音の爆発まで、凄まじい落差がある。
ピュアオーディオのリファレンスに使われるのも道理で、オケのフォルティシモとピアニシモが両方遺憾なく再生できれば、多分不可能はない。
一方の吹奏楽は、とにかく取っ付き易さと親しみ易さが印象に残る。
オケ曲のような難解さはあまりなく、気軽に楽しめる感じである。
それだけ取っても、市民バンドと言ったら吹奏楽に軍配が上がる気がする。
色々書いてきたけど、自分が吹奏楽に転向するかというと、多分ノーである。